あゐいろに染まるまで

裏街あかり

愛しい『あの子』に廻りあう為ならば。

 大抵の人間には、前世の記憶が残っていないらしい。

 僕が他人との差異をはっきりと感じたのは、三歳のころだった。

 両親につれられて、片田舎の土手にやってきた時のことである。見覚えのある場所だったのでつい、なにげなく言ってしまった。

「ぼくは昔、この川でおぼれてしんだよ。いまは、土手になってしまったのだね」

 そのとき両親が一瞬だけ見せた狂人でも見るような目つきを、僕は終生(しゅうせい)わすれられないだろう。
 さいわい幼子だったので、ふざけているのだろうと深く追及されずにすんだ。

 一度失敗してからは、奇異な言動をしないよう気をつけている。それでも抑えきれない衝動が、確かに存在していた。


 しのぶ恋は、いつの世でも苦しい。

 僕の場合は、相手の姿を見ただけで、桃色の蒸気にむされて体中がほてる。声が聞こえると耳を覆いたくなり、呼吸することが難しくなる。手の届かない切なさに胸がひきさかれ、治りきる間もなく、衝動はふたたび内側をひっかいた。

 むずがゆい痛みにもだえる日々のなか、病的なまでに執着していたことを白状しよう。けれど結局、想いが実ることはなかった。


 冷たい空気が肌にかじりつく朝だった。

 河原にそって小高くなっている小道を歩いていたら、意中の相手のうしろ姿が見えた。すっと伸びた姿勢が清廉(せいれん)としていて美しい。それでいて跳ねるように歩く姿が、今日も今日とて愛らしい。

 まちがっても僕みたく、不恰好(ぶかっこう)に背を曲げて、のそのそと歩みを進めてはいない。


 離れた場所から眺めていたら、拱格(アーチ)橋にさしかかった。

 僕よりやや前方で、不穏な動きをしている輩が目にはいる。欄干(らんかん)のかげに隠れているが、視線が小さな背中に釘づけで、じりりと距離をつめている。隠し持っている刃が凶悪にきらめいた。

――彼女は何も気づいていない。

 僕はとっさに暴漢に飛びかかっていた。相手と揉めているうちに、うっかり脚をすべらせた。僕はそのまま水中へ落下してしまったのだ。昨夜の雨で増水した河川は、またたく間に牙をむいた。さらに不運なことに、僕は生粋(きっすい)のカナヅチだった。

 誰に看とられることもなく、死ぬ間際にふと彼女を想った。

きっと僕が最期に、初恋の相手を思い浮かべたなんて夢にも思わないだろう。そう考えても致し方ない態度をとってきたのだから、自業自得というものだ。

 酸化してゆく世界から、ようやく解き放たされる安寧と充足感。反射的に、天にのぼる泡をつかもうと腕をのばした。遠のく意識のなかで、この手であの子を優しく撫でてあげられたら良かったのに、と後悔した。


 幻聴だろうか。あの子の声がかすかに聞こえた気がした。


 一体どういっためぐり合わせなのだろう。

 古雅(こが)の記憶をもって、私は今の世に転生した。新しい身体にはじめは戸惑ったけれども、今ではずいぶん馴れた。

 勤人(サラリーマン)に徹しながら、かたわらで欠けた存在を、ずっと探し続けていたのだ。そうして街中で、ある一人の女性に目をうばわれた。

 凛とした佇まい、風になびく艶やかな黒髪、抱きしめたくなる痩身(そうしん)。夜の闇をとかしこんだ瞳――きっと、あの子だ。全身にビリリと電撃が走った。

 立場こそ違えども、ようやく再会を果たしたと思った。そして愚かにも期待してしまった。今度こそ、やり直せるのだと。

 彼女は浪漫(ろうまん)の世を思わす言葉をつむぐ女性だったが、どうやら記憶は残っていないらしい。奥手で用心深かったので、懇切丁寧に、何度でもアプローチをした。そうするうちに、求婚に応じてくれた。

 その時の喜びといったら!
 想像していただけるだろうか?
 まばゆい光に満ちた世界のすべてが、微笑みかけているかのような感動を。

 蜜月の味は陶酔をもたらし、理性を焼き、あらゆる感覚を麻痺させていった。


 月日が流れて、当然のように彼女は、僕の子を身ごもった。愛しい人と育んだ結晶とまみえるのは待ち遠しい。下腹がふくれるにつれ、どんどん絆が深まってゆくのを感じていた。甘美な麻酔はしばらく醒めなかった。――彼女が母親になった、その瞬間までは。

 感動の対面になるはずだった。
 抱きかかえられた赤子をみた途端に僕は、がく然とした。大げさに聞こえるかもしれないが、本気で卒倒しそうになる。

「出産に立ち会った男性が、ご気分を悪くされるのはよくあることですよ」

 そう気づかってくれる看護師もいたが、違う。違うのだ。自分がとんでもなく重大な思い違いをしていたことに気づいてしまったからだ。

 なんということだ。嗚呼、本当に、なんということだ!

 わが子を抱き幸福そうに微笑む彼女は、私が求めていたあの子じゃない。生まれたばかりの小さな赤子こそが、愛しくて愛しくて仕方がなかった――初恋の相手だったのだ。

 事実を知ったときの衝撃は比ではなかった。愛を共有したかったのに、何故こうなった?

 僕が抱いている感情は、実の子に向けて善いものではないと知っている。僕はあの子と愛し合いたかったのに、今生でも睦言(むつごと)を囁(ささや)くことが許されないというのか。

 熱をだして寝込みさえしたので、ふがいない。妻は産後にもかかわらず、自分のことよりも僕の身を案じて、かいがいしく看病をしてくれる。そんな彼女に対して申し訳なく思った。

 僕は旧世からの想い人だと思って接していただけで、彼女のことを愛していなかったのだから。今更こんな中途半端な情のようなものを抱くこと自体、彼女に対する冒涜(ぼうとく)かもしれない。それでも、婦人を捨て去り、子どもをさらい、親子関係ではないと嘯く気にもなれない。責任という重みがのしかかる。

 妻に対する想いもそうだが、わが子との接し方についても悩んでいた。

 前世の面影がそこかしこに残っている子ども─否(いや)、本人なのだから当然だけども。

 飴玉ひとつ掴むといっぱいになってしまう小さな小さな手。少しでも鋭利なものが触れれば、緋色の霧がサッと舞うであろう華奢(きゃしゃ)な身体。直視することすら、ためらわせる無垢な瞳。

 上世では、頬に触れることすらしなかった。それどころか激しく拒絶し、殴りさえしたのに。妻をめとった時には疑問に思う事もなかったのは何故だろう。 今さら優しく愛でる資格など、僕にあるのだろうか、と。

 普通に触れたかった。
 けれど触れられなかった。

 触れれば硝子(ガラス)細工のように崩れ、二度と戻れなくなるような気がして。臆病な僕は、相手を傷つけることで、傷つけないように逃げ回っていた。
 今生でもそうならない為には、僕自身がこり固めた価値観をすて去らなければならないだろう。

 本人はというと驚くほどよくできた子どもだった。けれど時折みせる必死な姿は、否応なしに昔の彼女と重なった。子が親に認めて欲しいと承認欲求を向けるのは、いたく自然な現象だけど複雑な気分になる。親鳥に続く雛鳥のようだと思っていたが、どちらが雛鳥だか時々わからなくなってしまう。

「――顔色がすぐれないご様子ですが、どうかなさいましたの?」

 気が付けばあの子と瓜二つの女性が、美しい蛾眉(がび)を下げてこちらをうかがっていた。四年の歳月が流れても、美貌は衰えることがない。彼女のまとう清雅(せいが)な空気を吸いこみ、目をつむって声を聞いていると、やわらかに愛擁(あいよう)されているような心持ちがする。

 それでも、彼女を一番には愛せない。

「いや、何でもないよ」

 少し笑ってみせると、彼女は扁桃(アーモンド)型の黒瞳でじいっと私を見つめたのち、おもむろに紅唇を開いた。

「貴方が妾(わたし)を愛していなくとも、妾は一向にかまいませんわ」

「……気づいていたのかい」

「気づいていないとお思いでしたの」

 驚いて彼女を見つめるが、表情筋ひとつ変えることなく、さらりと返される。

「自分でいうのも自惚れだと思うけれど……君は僕の妻なのに、一番に想われていなくて妬ましく思わないの? わが子に執心な旦那を見て、なんとも思わない?」

「薄情に聞こえるやも知れませんが、妾も貴方を愛してはおりません。あの子を生むには、他ならぬ貴方が必要だった、それだけの事……腹を痛めて産んだ子を、貴方が愛して下さるのなら、それで良いのです」

 彼女は静かに続ける。

「貴方は不器用な御仁(ごじん)ですけれど、悪人ではありません。良心がなければ葛藤もしないでしょうから」

 朝露が水たまりに落ちるように澄んだ声調が、耳朶(じだ)に沁みいった。

 ふと、既視感を覚えて、私はようやく理解した。……噫(ああ)、そうか。

「貴方も妾にたいして稚劣(ちれつ)な情を、無理にむける必要はありません。不安定であることがそんなにも不安ならば、妾を利用なさいませ」

――彼女も、僕と同じ世を生き、生まれ変わった者なのだ。

「あの子には、自分の居場所があるのだと、安心させてあげれば良いのです。貴方も安心して貴方という安全な場所に、心をゆだねて下さいましな」


 その時、居間につながる廊下で小さな物音がした。続いて、息をのむ気配とそれを圧し殺そうとする気配。

「――そこに居るんだろう? 出ておいで、誰も君を叱りはしないよ」

 しばらくして、そろりと扉の陰からわが子が顔をのぞかせた。

 僕は、近づきがたい雰囲気を作ってしまったことを反省する。子どもは親の感情を機敏に感じ取るものだ。内容が分からずとも、僅かな違和感に気をつかっているのだろう。

 おいで、と小さな身体を抱き上げて、妻と僕の間に座らせた。きちんと行儀良くしているので、そっと頭を撫でてやる。そうすれば、頬に淡い花を咲かせぎこちなく口角をあげた。天使のような笑顔に僕は、また卒倒しそうになった。

 触れられることが、涙が出るほどに嬉しくて。 どうしようもないくらいに愛おしくて。細くて指通りの良い髪を、傷つけないようにそっと梳く。

 どこが好きとか、どういう風に好きとかそういう次元ではなく、この子がこの子だから好きなのだと実感した。

 それなのに僕ときたら、信じきれずに勝手に苦悩し、運命を呪ってすらいた。なんと滑稽な。

 彼女は美しい。なんと尊いのだろうか。僕は美しくないけれど、この子は美しいままに育って欲しい。小さくも大きな存在である彼女を護りたい。そう強く願う。

 隣の妻を見ると、聖母(マリア)のような眼差しが、何よりもそうしたいのだと物語っていた。



 まどろみを誘う日曜日の昼下がり。

 トルコ石を敷きつめた青い空がまぶしい。
 陽だまりの粒がじわじわと、外套(コート)ごしに背中へ伝わってくる。鼻腔をかすめた風に、春のきざしを感じ、季節のうつろいは早いものだと、しばし情趣に耽った。

 終わりであり、始まりの場所に僕たちは訪れていた。

 僕が上世で死んだ河原は、かの有名な文豪が心中した名所という訳でもない。抜きんでて綺麗でもなければ、人通りも多くない。たまに犬の散歩や、走行する者が通るくらいだ。それでも僕らにとっては特別な場所だった。

 僕は今まで夫婦関係になることに固執しすぎて、幸せの好機を見落としていた。今生で成長を見守ることが出来るのは、幸運だ。

 愛する人を知りたいと思うのは自然な欲求だろう。彼女の事ならどんな些細なことでも知りたい。

 何を思い、何を感じ、何をどうしたいのか、須(すべから)く理解したいと思う。互いに理解することは、幸福への道標(みちしるべ)なのだから。

 時を超えて抱いている想いは、言葉一つでは伝えられないから、一生かけて伝えるつもりだ。この子が抱く想いは僕とは別物かもしれない。それでも、良い。ありのままの姿でいてくれたなら、それで――。

 風に吹かれてざわめく川面で、水泡(みなわ)と光がたわむれる様子をぼんやりと眺めた。

 ふと袖にかすかな重みを感じて視線を下ろせば、遠慮がちに袖を引くわが子の姿があった。

「わたくしが、そばにおります」

 眼差しは今まで見て来た、どの光よりも強く、僕を射抜いた。小さな掌が懸命に握りしめてくる。自らはっきりと意思表示してくれたことを嬉しく思いつつ、安心させるように微笑みかけた。

「どうかしたのかい」

「…いいえ、なんでもないのです。ただ……」



◇ ◇ ◇


「助けて! どなたか、手を貸して下さい!……お願い、誰かきて!!」

 必死の叫びもむなしく、ごうごうという水音にかき消されます。

 澄みきった蒼空の下を流れる河川に、彼の方が流されているのを見た瞬間。

 私はあまりに非力でしたが、水中に飛びこみました。筋肉も骨も悲鳴をあげましたが、そんなことより彼の方の安否が最優先です。全身を使って死の淵からの救出を試みました。けれど私の膂力(りょりょく)では、自然の力に敵うはずもありません。 

 流れが弱まり、なんとか川岸へ押しあげた頃には、彼の方の灯火は消えていました。肉体は残りましたが、魂は濁流に攫(さら)われてしまったのです。

 彫像のように冷たくなったお姿を、私はただ見据えておりました。斯様(かよう)な真似をせずとも、気づいた人間が供養するでしょう。それでも、片時でも捨ておく気にはなれませんでした。

 あんなにも人間に愛されていた方が、最期には独りきりだなんて、あんまりだと思いました。


 私は種族のことなる彼の方に、恋慕しておりました。

 彼の方は人間に愛護されているネコ。
 私はうす汚れたセキレイ。

 とうてい、叶わぬ恋というわけなのです。

 それなのに何処にいても彼を想い出し、気がつけばお姿を追っておりました。

 しやなかな体と、やわらかそうな尻尾。美しいハチワレ模様。ピピンと張った立派なおひげに、形の良い三角のお耳。星の耀きを宿す神秘的な瞳。

 すべて私にはないもので、憧憬(しょうけい)でありました。

 野良猫に私の仲間が何羽も食べられたのですから、彼らの爪と牙の恐ろしさを知らないわけではありません。

 私は実際に、ハチワレさんに殺さそうになった経験があります。

 狩猟本能というものでしょう。いま思えば私はあの方に、この身を差しだせば良かったと後悔しています。けれど私も、本能的に自分の身を守ろうとしたのです。命からがら逃げだした私に、ハチワレさんは険しい表情で仰有いました。

「もう二度と、僕に近づくな」

 氷の小刀(ナイフ)で心臓を突き刺されたようでした。 ――それでも私は、遠くから見つめることを止められませんでした。


「また彼の猫を見ているんですの」

 電線に止まっていると、カラスさんが隣に並びました。彼女は聡明(そうめい)で賢く、時に厳しい意見を下さいますが、心優しい友でありました。

「人間の中でも博識(はくしき)とされる文学者や哲学者でも、恋情には苦労すると聞き及んでおりますわ」

「私は苦しいわけではないのです。彼の方を見かけなかった日の方が、ずっと苦しい。元気そうなお姿を拝見できただけで、とても幸福に感じます」

「あの猫を終生、見つめるだけでも良いと仰有いますの?」

「――あなたは、お天道さまに対して、何かを求めますか?」

 質問に質問で答えるのは野暮というものでしょう。それでも私は続けました。

「私は、お日さまを所有したいと思いません。私を見て下さらずとも構わないのです。そもそも光をあたえて下さいますのに、いま以上の見返りなど求められません」

「……貴女がいつか天道の熱で、身を焦がしてしまわないか心配ですわ」


 思い出をふき飛ばすように、冷たい風が駆け抜けていきました。

 木枯らしは容赦なく体温を奪い去りますが、私はその場を動けません。まばたきの仕方を忘れたように、尊顔を見つめ続けました。こんなに近くにいるのに、やはりハチワレさんは遠い存在でした。

 お逢いする為なら、野良猫に追われ、人力車にひかれそうになっても、へいちゃらでした。樹木の梢(こずえ)に氷柱(つらら)がおりる冬も、あなたを想えばあたたかく、石畳で火傷しそうな夏も、砂漠の冷泉(オアシス)のごとく癒して下さいました。

 されどあなたという光を亡くした今、私の世界は闇に鎖されてしまった……。心臓はおろか、骨までも凍りつくように、ひどく寒いのです。

 こぼれ落ちた雫は、はたはたと和毛(にこげ)を濡らしてゆきます。氷の粒に変わっても、悲しみが尽きることはありませんでした。

「――死ぬ時はみな独り。どんな生き物にも平等なのは『死』ですわ」

 いつの間にか降り立っていたカラスさんが神妙に宣います。
 何か応えようとしましたが、出て来たのはくぐもった嗚咽(おえつ)。潰れかけた声帯では、しゃがれた声を出すのがやっとでした。

「……さんざん良くして下さったあなたに、こんなことを頼むのは、残酷やもしれません。ですが、どうか私のわがままを、聞いていただけないでしょうか」

 羽根が抜け落ち、いっそうみすぼらしくなった翼を広げました。

「この通り、私の翼は折れてしまいました。このままでは、いずれ他の者にやられてしまうでしょう。どうせ死に逝く運命(さだめ)ならば、せめて、あなたが私を食べて下さいませんか」

 驚いた様子のカラスさんに、頭を下げて、もう一度お願いします。カラスさんは重々しく嘴(くちばし)を開きました。

「……後悔いたしませんわね?」

「あなたのお腹が満たされるなら、本望というものです。僭越(せんえつ)ながら最期くらい、お役に立ちたい」

 哀れむような表情をされた気配がしましたが、気のせいだったかも知れません。――私は魂の欠片を、友に差し出しました。

 極楽浄土に逝けると望みは、最初から抱きませんでした。

 しかし今生で再び、呱々(ここ)の音をあげる事になろうとは、ゆめゆめ思っておりませんでした。ましてや、あの方の初子として生を受けようとは。最初は夢幻(まぼろし)のたぐいではないかと首を傾げました。

 これが地獄がみせる幻影でも白昼夢でも、ハチワレさんがいるだけで良かったのです。あの日、目を閉じたままのハチワレさんを前にした時の虚無感に比べれば。あなたが生きているのですから。

 父親となったハチワレさんは、こんな不出来な私にもお優しいのです。私はあの方の娘に相応しい人間にならねば。私はハチワレさんが好む子どもになろうと尽力いたしました。


 春の女神が草木に命をふき込み始めた、ある晴れた日の午後。

 ハチワレさんと母に連れられ、白い花がちらほらとゆれる土手に参りました。

 青い硝子を張ったように澄んだ空の下。ハチワレさんが川瀬を眺めていらしたのですが、今にも消えてしまいそうだと、にわかに恐ろしくなりました。思わず袖を引くと、驚いたご様子のハチワレさんと目が合います。

「わたくしが、そばにおります」

「どうかしたのかい」

「いいえ、なんでもないのです。ただ……そらが、とても、あおいので」

 青く色褪(いろあ)せたあなたのお姿を思い出したのです。この川に、空に、融けて消えてしまうのではないかと、杞憂(きゆう)したのです。

「僕も君のそばに居るよ。……初めて君とまみえた時から、君のことを愛すると決めていた」

 ハチワレさんはしゃがんで、私と視線を合わせて下さいます。そうしてゆっくりと瞬きをして私の頬に触れました。

「たとえ姿かたちが変わっていてもね――セキレイさん」

 普段『わが子』に向けるものと変わらない笑顔を向けられて、目玉をおっことしそうになりました。ヒヤリと熱い刃で撫でつけられた感覚がして、内臓が奇妙にうねります。

「……わたくしを……いえ、わたくしのぜんせを、しっているのですか」

「勿論」

「わたくしだと、しっていながら……なぜ……」

 なぜ、お優しくするのですか。なぜ、私を大切なものであるかのように、撫でてくださるのですか。

「過去の僕は、君に優しくできなかったからね。ほんの一部でしかないけれど、少しずつ君に返しているところなんだ」

 ちっぽけな私のことなど、覚えてらっしゃらないと思っておりました。覚えるに値しない存在だと思っておりました。それなのに……

「……あまりに、すぎたものです……」

「まだまだ足りない気がしてならないよ」

 ハチワレさんの掌から、確かな温かさを感じて、熱いものが喉に込み上げてきます。

「わたくしは、ずっとずっと、あなたのまぶしさに、こいこがれておりました……」

「セキレイさん。僕が君を想わない日など、一日たりとて、なかったよ」

 ふわりとやわらかな感触に包まれます。それと共に、ひなたの香りとぬくもりも。抱き締められていると気づくのに、幾許(いくばく)かかりました。

「ずっと言いたかったことがあるんだ」

 胸の奥で赤い小鳥が、ばたばたと羽ばたきます。動けない私にハチワレさんは囁きました。

「――生まれてきてくれて、ありがとう」

 私の心に降りつもった雪はとけ、蒼の世界へ感じていた不安もどこかに失せました。晴ればれとした青空が、私の中心から、どんどん広がってゆくような心持ちがしたのです。

 ハチワレさんも、私も生きている。
 生きて、相手を求め合っている。
 互いの鼓動を分け合うような、不思議な一体感を感じました。

 これは夢幻などではないのだと確かめるよう、震える腕で抱きしめ返したのでありました。


◆ ◇ ◆


「『猫には九つ命がある』……今の貴方は九つ目なのでしょう?」

 持参した風呂敷の上に、妻は腰かけている。わが子は彼女のひざを枕にして、すやすやと眠っていた。

 草原が風にくすぐられ、少し湿った土の匂いを運んできた。じきに、日が暮れる。この子が風邪をひかないように、そうっと外套をかけつつ僕ははぐらかす。

「……ただの迷信だよ。言葉の意味も少しばかり違う。しぶといという意味では、そうかもしれないけどね」

「八度も流転(るてん)したその間、貴方はずっとこの子の魂を探し続けていた。貴方は一度たりとて、諦めはしなかった。……大儀(たいぎ)でありましたわね」

 何てことはないのに、まるで偉業でも成したかのように誇張されると、くすぐったい。

「色んなものに生まれ変わったのは確かだけど、どうして君に回数が分かるんだい?」

「はてさて。……『カラスは神の遣い』だからではありませんこと?」

 そう言って穏やかに微笑む妻は先世で、セキレイの頼みで彼女を喰らったという。友愛する相手を殺めたとき、一体どんな心持ちだったろうか。

 彼女から聞かされた過去に、心を乱されなかったわけではない。だってネコだった頃の僕は、セキレイのあの子を食べてしまわないように……誰かに食べられてしまわないように、必死だったから。

 けれどカラスの彼女は自分の行いを美談にする事はない。ただ、ありのままに語っただけ。だからこそ僕は、真実を受け止められたのだろうと思う。

『感情が溢れ出しすぎて、捨てる場所が見つからない時、その憤(いきどお)りをあの子にも貴方にも、向けてはなりません』

 初めて話してくれた時、動揺する僕に真摯なまなざしを向けて、彼女こう言った。

『妾にぶつけなさいな。頼んだのはあの子ですけれど、食べると決めたのは妾の自我(エゴ)なのですから』

 そうやって君は、よごれ役を全て引き受けるつもりだろうか。――いいや、そうはさせやしない。

『……分かった。けれど君も一人で背負いこまずに、僕にも半分あずけて。仮にも夫婦だろう?』

 僕の言葉が意外だったのだろう、ぱちくりと目をまあるくさせた。その存外あどけない仕草に、おもわず頬がゆるむ。

『君の為じゃない。僕がそうしたいんだ。 君の言葉を借りるなら、此は僕の自我だからね』

『……心しておきますわ』

 川のせせらぎよりも耳障りのよい笑い声を思い出して、僕は平瀬(ひらせ)を背にしている彼女に向き直る。

「僕がずっと臆病だったから、この子と君に負担をかけていた」

 日輪を砕いた水面が光り、金糸がキラキラと伸びている。目に痛いくらいだけれど、決して逸らさない。

「君たちにした仕打ちを、許されるものだとは思っていない。けれど本当にすまなかった」

「妾は気にしてませんわ。この子とてそれは同じ。許すも許さないもありません。――見つけて下さって、有難う存じます」

――妻は上世から、この子の幸せを、誰よりも希(こいねが)う者だった。

「あの子が妾を覚えていなくとも構わない。ただ、貴方がたの行く末が幸福であれば、妾はそれで好(よ)いのです」

 西の空が淡い蜜柑色から、次第に朱色に染まり始める。

 また明日と手を振る夕陽に応えるように、紅雲のふちが金色に光った。

 僕は妻の細い肩を抱き寄せて、濡れ羽色のつむじにそっと口づけた。そうすると妻は、甘やかに目を細めて、ひざで眠るわが子を撫でつつ、私の肩にもたれ掛かる。

 ほんのかすかに感じる二人分の重みとぬくもりが、今ではひどく心地よかった。

あゐいろに染まるまで

あゐいろに染まるまで

大正の世から、現代へ――。 愛しい『あの子』に廻り会う為、何度でも生まれ変わる『僕』。九度目に、ようやく廻り会うことが出来たのだが――? どこか古風で切なくも、純愛の物語。

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