妄想写真エッセイ『赤いクマ』

妄想写真エッセイ『赤いクマ』

撮影場所:Coney Island

 
 アイスクリーム屋さんの前にある赤いベンチを撮った一枚。この日はとても暑かったので、アイスクリームでも買ってベンチでひと休みしようと思っていたところ、よく見るとベンチに赤いクマのぬいぐるみが突き刺さっていた。
 赤いクマは両手を広げていた。抜いてあげるべきなのか。あるいはそのままにしておくべきなのか。しかし見事なまでにベンチと同化していたので、そのままにしておいた。

 今思うと、あの赤いクマのぬいぐるみは誰かの魔法か何かでぬいぐるみに姿を変えられてしまったアイスクリーム屋の店主の奥さんなのかもしれない。とても若くて美しい奥さんだ。奥さんはアイスクリーム屋からほど近いところにあるコニーアイランドの遊園地の土産物屋で働いていた。
 アイスクリーム屋の店主が最後に奥さんを目にしたのは十年前。イタリアから移民してきた店主は浮気性で、アメリカ人の奥さんとは他の女のことで毎日のように喧嘩をしていた。
 十年前のある晩、奥さんのこれまでの怒りや不満が爆発し、二人は殴ったり家中の物を投げたりの大喧嘩をした。奥さんは物をあらかた投げつくすと、二階の寝室へ行き、ボストンバッグに衣服を乱雑に詰め込んだ。一方で店主は冷蔵庫から缶ビールを取り出して、リビングのカウチに座り、ビールをすすりながらなんとか気を落ち着かせようとしていた
 すると中身が今にもはち切れそうなボストンバッグを抱えた奥さんが二階から降りてきて、カウチに座っている店主にはまったく見向きもせずに玄関へと向かった。店主は奥さんを追いかけるべきなのはわかっていたが、缶ビールを握りしめたままどうしてもその場から動くことができなかった。玄関が大きな音で閉められた。
 店主は缶ビールを片手に持ったまましばらくカウチでじっとしていた。どれくらいの時間ぼうっとしていたのかはわからないが、我に返った店主は手に持っていた缶ビールをすするとすっかりビールの炭酸ガスが抜けていた。自分がいったい何を飲んでいるのかも店主にはわからないほど呆然としていた。店主はゆっくりカウチから立ち上がった。それから玄関へ向かい、扉を開けた。扉の外は真っ暗でアイスクリーム屋の前にある赤いベンチだけが暗闇の中にあった。
 玄関先で途方に暮れている店主の様子を、出て行ったはずの奥さんがすぐ近くから見ていた。しかし店主は奥さんには気がつかない。奥さんはもう赤いクマのぬいぐるみに姿を変えられてしまっていたからだ。
 奥さんは玄関を飛び出して駅に向かおうとしていたところ、見知らぬ女に呼び止められ、突然その女に魔法で赤いクマのぬいぐるみに姿を変えられてしまった。そしてその女がアイスクリーム屋の前にあるベンチに赤いクマのぬいぐるみを突き刺したのだ。その魔法使いの女は店主の浮気相手のひとりだった。
 奥さんはこうしてぬいぐるみの姿のまま、アイスクリーム屋の目の前のベンチで店主の様子を十年間見つづけることとなった。奥さんは地獄が始まると思ったが、実際にそれは地獄ではなくむしろ幸福な日々であったとも言える。なぜなら店主は奥さんが出て行ったあの晩から、夜遊びも浮気も一切しなくなったのだ。
 数人の浮気相手がアイスクリーム屋を訪ねてきたが、店主はその全員をはねのけた。嫉妬深いあの魔女がやって来た時も店主はきっぱりとその女を追い返した。奥さんは赤いクマのぬいぐるみの姿のまま、店主の一途な愛の行動を目の前で見守っていた。店主はときどき玄関先で悲しい顔をしてただじっと暗闇を見つめることもあった。それを見た奥さんはすぐにでも店主を抱きしめてあげたいと思った。あの晩に家を出て行ったことを奥さんはひどく後悔した。今ならあの人の元でまた一から始められると奥さんは思った。
 そんなある日、ひとりの若いアジア人の男がアイスクリームを買いにきた。店主はその若い男にどこから来たのかと尋ねると、日本から来たと答えた。その若い男はピスタチオのアイスクリームを買って、店の前にある赤いベンチに腰掛けた。店主は店のカウンターから若い男の様子を何気なく見ていた。その日はとても暑かったので、アイスクリームはすぐに溶けて、若い男は急いで食べていた。
 食べ終わった若い男は首にかけていたカメラをおもむろにベンチに向けた。店主はてっきり店を撮ってくれるものだとばかり思っていたので拍子抜けした。若い男が何枚もベンチの写真を撮るので、「店も撮ったらどうだ?」と店主が声をかけた。「いやあ、すみません。でも、ここにクマのぬいぐるみが刺してあるんですよ」と若い男が答えた。
 クマのぬいぐるみ?店主はそんなものがベンチに突き刺さっていたことにこれまでまったく気がつかなかった。店主は生活のために、そして奥さんが帰ってきたときのために働いてお金を貯めることに一生懸命になっていたので、ベンチに突き刺さっているクマのぬいぐるみなどに気がつくはずがなかった。
 店主はアジア人の若い男が赤いベンチに突き刺さった赤いクマのぬいぐるみの写真を撮り終えるのを待った。結局、店の写真は最後に一枚だけ撮って若い男は立ち去った。
 それから店主は店のカウンターから出て、赤いベンチに近づいた。若い男の言ったとおり、そこには赤いクマのぬいぐるみが突き刺してあった。子どものイタズラだろうか。
 赤いクマは両手を広げていた。黒い一対の小さな目が店主を見つめているようにも思えた。店主は赤いクマをベンチから抜き取った。すると赤いクマが強烈な光を放ったので、店主は反射的に目を閉じた。
 目を開けるとそこには奥さんがいた。奥さんは両手を広げていた。奥さんの一対の美しい目が店主を見つめていた。

 もしコニーアイランドに行く機会があれば、この赤いクマを探してみてはいかがでしょうか。

妄想写真エッセイ『赤いクマ』

妄想写真エッセイ『赤いクマ』

  • 随筆・エッセイ
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2020-07-27

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