ピンクグレープフルーツの悪魔

 僕にはグレープフルーツを食べるとき、まず外側の分厚い黄色の皮を全部剥いでしまったあと、中の果肉にまとわりつく白い薄い皮(所謂アルベド)を必死に剥いでから食べる悪癖があった。
 特にアルベドを綺麗に剥いてしまったピンクグレープフルーツは、表面の血を洗い流した脈動する心臓を想像させるような、瑞々しい赤い果肉の鼓動を感じられる。そしてそんな生々しく、確かな水分をしっかり持った塊は、僕の心の奥底に、ある妖しい興奮をほんの少し沸きあがらせる。
 つまるところ、そういった悪癖から、僕は毎回、約三十分かけて丁寧に果肉の発掘作業を行い、出来上がった赤い植物の心臓を十分程呆けて眺めるという、少し変わった工程を経て、いつもグレープフルーツを食べていた。
 自ら悪癖であると言い切ってしまうように、僕自身、この作業を健全なルーティーンとは言えず、どこか背徳を感じてしまう。とてもシンプルに言ってしまえば〝食べ物で遊ぶな〟なのだけれど、そこにある不穏さを表すためにほんの少し言い方を変えてしまえば、それは〝遊戯〟ではなく、なにか〝儀式〟に近いのかもしれない。通常必要のない行為でもって、必要以上に剥き出しになった果肉を、無意味にジッと見つめる。そしてそこに僕は極めて肉体的な、血や心臓を想起する。なんだかカルト的だ。
 大袈裟すぎるという人もいるかもしれない。果物一つ食べるのに、儀式やらなにやら……、考えすぎかもしれない。けれど、そういった僕の行った儀式によって、ある不可解なモノを呼び出してしまったことも確かだ。そいつはやっぱり、嫌いな食べ物を残し続けた結果現れるもったいないお化けみたいに、僕の果物の変わった食べ方といった、確かな原因でもって現れてしまったのだから。
 去年の十一月のことだ。
 僕は家で一人、テーブルの上にスーパーの広告紙を敷いて、いつものように果物ナイフでピンクグレープフルーツの皮を必要以上に剥いでいた。薄皮の上に、刃を薄く立てて、あくまで果肉を守る最後の薄皮は傷つけないよう、撫でるようにアルベドをこそぎ取っていく。
 そしてある程度満足いくまで削ぎ落して、一度その完成しかけた果実を置いたとき、すでにそいつは僕の対面の椅子に座っていた。
「終わりましたか?」とそいつは言った。
 僕は素直に、月並みだけど、そいつの出現にとても驚いた。間抜けな悲鳴を上げて椅子ごとひっくり返った。
 頭や手足を床に打って、痛みに悶えながら身体を起こすと、やっぱりそいつはそこに座っていて、退屈そうにテーブルの上に置かれたピンクグレープフルーツをボウッと眺めていた。
「終わりましたか?」とそいつはまた言った。
 最初のうちは驚きと、打った身体の痛みでろくに声が出なかった。ネバついた唾液が喉にはりついて、急に吃音症になったみたいにうまく言葉が吐き出せない。
 ただ、そういった驚きは、身体の痛みと同時にほんの少しずつ、けれど確かに時間とともに引いていった。ハッキリとした理由はわからないけれど、椅子に座るそいつをジッと見つめているうちに、そういったことが、つまり、僕がグレープフルーツを剥いていたらそいつが現れるということが、なんだかごく自然のことのように思えてきたからだ。呼び鈴を鳴らしたら、家の中からそっとドアを開けて人が出てくるみたいに、例えそれが故意的な行動でなかったとしても、僕が呼び鈴を鳴らしたことは(グレープフルーツの皮を必要以上にむいていたことは)確かなのだから。
 そう思うと、身体の痛みもすっかり引いていて、僕は椅子をまた立てて、そいつの対面に座り直した。心ももう随分と落ち着いていたし、ほんの少しだけそいつのことをわかりかけていたけれど、僕は聞かずにはいられなかった。一応の礼儀として。
「ねえ、君はいったいなんなんだろう?」
「ピンクグレープフルーツです」とそいつは言った。
「はぁ」
 僕は手元に置かれた剥き出しの果実とそいつを見比べて、首を傾げた。そうだろうなと、一応は納得してみる。僕はピンクグレープフルーツを剥いていたのだ。そこから現れる奴がパイナップルやバナナだったらなにもかも台無しだろう。けれどやっぱり、なんだか僕の生きていた世界の小さなネジがスッとんでいったような、フワフワとした空想の気怠さも感じる。
 そうやって、腕を組んでうんうん唸りながら考えていると、そのうち、そいつはまた僕に向かって「終わりましたか?」と尋ねた。
「終わりましたかって?」
「それです」そいつは僕の手元に置かれたピンクグレープフルーツを指さして言った。「もう剥き終わりましたか?」
 僕は手元に置かれたさっきまで自分が剥いていたピンクグレープフルーツにまた目をやった。ほんの少しだけ、薄皮に縋りつくように残ったアルベドを見て、僕は「いや、もうちょっと」と言った。
「じゃあ、お願いします」とそいつは言った。
「お願いしますって?」
「そのピンクグレープフルーツのアルベドを剥くのを続けてくださいってことです」そいつは言った。
 僕は言われるがまま、またその果実を手に取って、果物ナイフの刃を立てアルベドの除去を始めた。
 僕がそういった作業を続けている間、そいつはただジッと僕の手元を眺めていた。
「ねえ」と僕は言った。もちろんアルベドをこそぎ取りながら。
「なんでしょう」とそいつは言った。
「君はさ、ピンクグレープフルーツの何なんだろう? もちろん君がピンクグレープフルーツっていうのはわかるんだ。なぜかはわからないけどね。けど、ピンクグレープフルーツってのいうのは僕が今こうやって剥いているただの柑橘系の果物のことでもある。君とは明らかに違う。こいつは僕にアルベドを剥き終わったかなんて確認しない。つまり名前は一緒かもしれないけれど、何か根本が違うんだ。それか根本が同じで、どちらかが派生なんだと思うんだけど」
 そう言って、僕はふと手を止めてそいつをチラッと見る。そいつは変らず僕の手元をジッと見ながら「続けてください」と言った。そして、フッと一息吐くと、少しだるそうな口調で僕に言った。
「私は悪魔です」
「悪魔?」
「そう、ピンクグレープフルーツの悪魔」
 僕はまた手を止めてそいつを見た。そいつはまた「続けてください」と言った。そして、また僕が剥き始めるのを見ると、「悪魔って言っても、別に魂をよこせだとか、そういうのじゃないんです。ただ他に適切な言葉がないだけで」と続けた。
「どう違うんだろう?」
「言葉を借りれば、私がピンクグレープフルーツから派生した側です。まずあなたの剥いているピンクグレープフルーツがあって、次に私です。そこには不可逆的な矢印がしっかり存在します。かといって、ピンクグレープフルーツの精と言うほど私は自由ではありません。恩恵を授ける天使とも違う。私には確かに力がありますが、そこには契約が必要なんです。あなたを落ち着かせて、警察だとか面倒を起こさせないようにする程度の催眠みたいなことはできますが、それも絶対ではないんです。神の御業みたいな強制力はありません。私がしっかりと仕事をするには両者の合意が必要になります。だから言葉としては悪魔が一番近いんです。ピンクグレープフルーツの悪魔」
「契約って?」
「ピンクグレープフルーツの皮を綺麗に剥いてもらうことです。今あなたがやっているみたいに」
 僕はまた首を傾げて、アルベドの欠片もなくなった剥き出しの赤い果実を、そっとテーブルに置いた。
「終わりましたか?」とそいつは言った。
 僕は小さく肯いて、また腕を組んで首を傾げた。
「こんなことが契約になるのかな?」と僕は聞いた。
「充分です」とそいつは答えた。
 それから、そいつはおもむろに立ち上がって、一言、ありがとうございましたと言って、そのままスタスタとリビングを出て行こうとした。
「ねえ、ちょっと」僕は思わずそいつを呼び止めた。「なんていうか、これが契約って言うなら君はなにか僕にしてくれるってことじゃないのかな」
 僕はそう言ったあと、なんだか自分が酷く卑しい生物のように感じた。そういった見返りを、言葉にして相手に求める厚かましさを恥じた。
 ただ、そいつは何も気にしていないかのように、落ち着いた声で答えた。
「もちろん、あなたは立派に契約を履行しました。そこには確かに何か対価が支払われます」ただ、とそいつは続けた。「それが何か、ということについては私もわからないんです。あなたがピンクグレープフルーツのアルベドを剥き去ってしまうのを日常的にしているように、私が支払う対価も、そういったあなたの日常にごく自然に紛れ込むものだから」
「日常にごく自然に紛れ込むもの?」
「変な呼吸をしてくれた代わりに、上手な瞬きを教えるみたいなものです。一見、無意味な取引かもしれません。けれどそこには確かに契約は存在するのです」
 そいつはそう言い切ってしまうと、リビングの扉を開けて、部屋からそそくさと出ていってしまった。それから玄関の厚い扉が開かれる音が聞こえて、この家には僕と剥き出しのピンクグレープフルーツだけが取り残された。
 そんなことがあってからもう半年くらいになる。
 僕は相変わらず、ピンクグレープフルーツの皮を必要以上に剥いて食べている。けれどあれからピンクグレープフルーツの悪魔が僕の前に現れることはなかった。僕らの契約は本当にあのとき即時的に済んでしまったのだろう。
 ただ、僕は未だに、あのとき僕が得たはずの対価を実感できずにいる。あいつはそれが日常にごく自然に紛れ込むものと言った。
 僕はあれから、自分の瞬きだとか、呼吸だとか、普段自然にしている動作全てにいちいち意識を向けなければならなかった。何か変わったことはないかと、馬鹿みたいにぎくしゃくとした日常を過ごした。
 けれど結局、僕は僕の意識した範囲で何か特別変わったことは起きていないみたいだった。僕はいつものように瞬きをしていたし、吐く息も吸う息も、特段変わっていない。相変わらず約三十分かけて丁寧に果肉の発掘作業を行い、出来上がった赤い植物の心臓を十分程呆けて眺める。
 僕は剥き出しのピンクグレープフルーツを手にもって、ふとテレビをつけた。テレビではいつものようにニュースキャスターが淡々と原稿を読み上げていく。誰かが捕まって、誰かが死んで、誰かが結婚して、誰かがなにかの賞をとる。どこかの国がどこかの国へ文句を言う。今日は千葉ロッテが西武ライオンズに勝った。
 僕だけでなく、僕をとりまく環境そのものが普段通りだ。ほんの少しのズレもなく、日常が廻っている。
 僕はピンクグレープフルーツの最後の薄皮に爪を立てて、その果肉を啜った。

ピンクグレープフルーツの悪魔

ピンクグレープフルーツの悪魔

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2020-07-27

Copyrighted
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