【サンプル】アンコンディショナル・ラブ

しずよ

【サンプル】アンコンディショナル・ラブ
  1. プロローグ
  2. 一、高校生と占い師
  3. 二、会社員と政策担当秘書
  4. 三、マタギと大学生と高校生

転生パロで、だいたいの人に明治時代の記憶があります。
物心つく前から毎日明治時代の夢を見ていた高校生の鯉登くんが、ある日の放課後、インカラマッと思われる占い師の話を同級生から聞きます。明治の頃、一般的な上官と部下の関係から逸脱していたにも関わらず、鯉登少尉の気持ちを最後まであいまいにかわしていた月島軍曹。果たして彼と現代で会えるのか、会ってもいいのかインカラマッに相談に行くと「あなたもまだ気が付いていない白いものが見えます」と言われ、それを探して次第に現代の月島さんに近づいていくお話です。
※カップリング等諸注意
プロローグのみ鯉登少尉の子孫が出ます。月いご、谷マッ、杉リパも少し出ます。鶴月ではありませんが、そう取られてもしょうがない表現が出てきます。流血表現、攻フェあります。単行本未収録部分ネタバレ含みます。

プロローグ

平成二十年八月十五日。

 蝉時雨の中、真夏の東京を祖父と二人で歩く。
 今春、私は都内のT大学に入学した。北海道に住む祖父と会うのは二年ぶりだった。
「おじいちゃん、手水舎はあっちよ」
「ああ、分かっとる」
 八十代となり腰椎がひとつすり減った祖父には、日本武道館からの道のりはやはり遠かったのかもしれない。こちらへ来る前に全国戦没者追悼式に出席してきたのだ。
 祖父は参道に杖をつき、一歩一歩確かめるように歩いて行く。
 この後の千鳥ヶ淵戦没者墓苑へはタクシーを使おう。
 ひときわ大きな木製の鳥居をくぐったあと、右手にある手水舎に向きを変える。
 それにしてもすごい参拝者の数だ。国会議員も数十名が参拝に来ているので、各局のテレビカメラの中継も多く騒然としている。
 手水鉢の隣にあるベンチでは、休憩する人や歌っているグループもある。何を歌っているんだろう。詳しく知らないが、軍歌じゃないんだろうか。
「軍国主義……」
 私がポツリとつぶやくと、祖父はやや厳しい目でこちらを見、何も言わずに清めた手と口を拭った。やっぱり口に出すべきじゃなかった。後悔した。
人の波に飲まれないように、拝殿前に到着する。まもなく正午になる。その時報に合わせて参拝者が祈りを捧げる。
 都内では、ここ靖国神社と日本武道館、千鳥ヶ淵戦没者墓苑で毎年八月十五日の終戦記念日に戦没者追悼式が執り行われる。今となっては、孫やひ孫に代替わりしている遺族もある。
 戦争の事なんてよく分からない。いつまでもやる必要なんてあるのか。
 本心ではそう思っていたが、これを祖父に話したらきっと怒るだろう。
 でも、なぜ怒るのか、深く考えないようにしていた。
 祖父は戦争に行ってない。生まれて間もなく麻疹にかかり、何とか一命をとりとめた。が、後遺障害で右手に若干の麻痺が残り、身長も百五十センチメートルに満たない。だから徴兵検査では丙種合格――つまり身体障害があるが一応兵役にはつける、という結果だったようだ。なので召集令状が届く前に終戦となった。
それで良かった、と私は思っている。
 祖父の父、つまり私にとっての曽おじいちゃんが戦争へ行った。というか陸軍の職業軍人だったそうだ。私は内心それが恥ずかしかった。

(略)

一、高校生と占い師

 大切なものほど瞬く間に奪われ続ける、そんな人生だったような気がする。

 平成二十六年一月。
 鯉登音之進は毎朝泣きながら目が覚める。
 夢の内容は決まって一緒だ。というより、他の夢を見たことがない。
 それは、明治に生を受けて昭和に没した、彼の人生の一部始終だ。
 約六十年の歳月を、毎夜数時間で再生する。繰り返し、繰り返し。
 運命というものは、どうして与えてから奪い去るような冷徹な真似をするんだろう。愛する人も尊敬する人も信じる人も、いなくなってしまった。
 それなのに、涙だけは枯渇することを知らないのだ――。
 わが子に何が起きているか分からず、深刻な病気ではないかと両親は相当心配したという。鯉登は一歳の頃から小児科、内科、眼科、脳神経外科、心療内科など、様々な病院で診察を受け続けたが、結局どこにも特段の異常は見られなかった。
――経過観察ですね。
 医師からは毎度同じ結果を告げられた。
 物心ついてから「夢を見て泣いている」とは、家族にも医師にも言わなかった。話せば暴かれて引きずり出されてばらばらにされて、自分の大切な一部を失ってしまうような気がしたからだ。だから原因は分からず、その他に悪いところもないので、そのうち病院へは連れていかれなくなった。
 みんな、どうして悲しくないんだろう。大切な人と死に別れた経験があるはずなのに。
 児童の頃は不思議に思っていた。長じて、普通は毎晩同じ夢を見ないし、ましてや前世を追体験しない、ということを鯉登は知った。
 誰にも話さなくて良かった。けれど、この胸の内を誰にも分かってもらえないのだと知り、吹雪の中に一人取り残された気持ちになった。



「はー」
 起き抜けにひとつため息をつき、涙を袖で拭う。内容を知っているから立ち直れない程の絶望は感じなくなったが、涙は幼児の頃と変わらず流れるのだった。
 兄が高校卒業後に学生隊舎で生活することになったため、兄弟の部屋は弟の一人部屋となった。泣き顔を誰にも見られないから、無用な心配をかけなくて済む。
 家族に気を遣わせないために、目と鼻の赤味が引いてから今日も部屋を出る。
「お、やっと起きてきた」
 平之丞が居間で、飼い犬と遊んでいた。
「兄さぁ、帰っちょったんか」
 兄に対しては、鯉登は中学まで暮らした鹿児島の言葉がつい出る時がある。
 兄はいま海上自衛隊員で、青森県八戸市の第二航空群所属だ。哨戒機のパイロットである。日本の排他的経済水域は世界の中でもかなり広い。船や潜水艦だけではなく、偵察には航空機も使う。
 先月までは沖縄県那覇市の第五航空群所属だったが、先月転属になったばかりだった。転勤するパイロットの幸運を祈るための水かけ儀式で「一月なのに氷水をかけられたぞ!」と、にこにこと笑ってスカイプで報告してきた。
「あらまあ、風邪ひいてない?」と母が心配そうに言うと「実は水かけの直前に上官と握手しちょってな、上官の手を離さんかったで、ふたり一緒に氷水をかぶった。だから上官は風邪ひいたかもしれんな~」と、とぼけたことを言っていた。
 家族であっても言えない内容の方が圧倒的に多いだろうが、辛い職務ばかりではないことが伝わって、それは夢に引きずられる鯉登の心を軽くしていった。
「音之進、先週はじめて流氷観測へ行って来たぞ」
 平之丞は笑顔で報告する。なんでも、第二航空隊は気象庁と連携して、毎年一~四月に目視での流氷観測を行っているという。
「どんな感じだった?」
 質問しながらソファに腰かける。
「千島列島から樺太島まで繋がってたぞ。あれだったら歩いて渡れるな」
 何か悪企みでも思いついたかのように、悪戯な顔で兄は笑う。
 父、母、兄に明治時代の記憶があるかどうか、尋ねたことはない。しかし父は今現在、防衛省海上幕僚幹部のひとりであり、兄は海上自衛隊員だ。自覚はなくとも心の奥底に、玉手箱のように抱えているのではないかと思う。
 父と母と兄に再び出逢えたことは、素直に嬉しく思う。昔も今も大好きで大切な家族だ。
 そこでふと、不思議に思うことがある。
 今の家族とは明治時代からやり直したいとは思わないのだ。再び出会えた喜びと共に、新たな関係を築いていきたいと思っている。
 でも、夢の中のあの男とは――。
「で、進路どうするのか決めたのか?」
 思考が明治四十一年に戻ろうとしていたところを、兄に引き戻された。
「あー、うん」
「うん、じゃ分からんじゃなかか。まだ決まらんのか?」
「うーん」
 だいたいの方向性は決めている。しかし、気がかりの種があるからひとつに絞れないのだ。それは、例の夢だった。絞れない理由を問いただされても困るから、兄であっても詳しいことは何も言えないでいる。
 気まずいので、居間から自室へ戻ろうとして立ち上がった。
「なんだ、歯切れの悪い。いつものお前らしくもないな」
 平之丞は不思議な顔をする。そこにやって来た母が声をかける。
「音之進、早く朝ご飯食べなさい。いつまでも片付かないじゃない」
「……はい」
 すると鯉登はしおらしく返事をする。だから母と平之丞は顔を見合わせる。
「こういう素直なところは、子供の頃のまま変わらんな。思春期なのに……」と、平之丞は訝しむ。すると母が「あなたが高二の頃なんて、パパや私には返事もあまりしなかったわね」と微笑む。それから母はさらに続けて「でも反抗期らしい反抗期がないから、逆に心配ですよ」と困った顔をする。
「そうだ、今日はお昼ご飯はいらないから!」
 居間に続くダイニングから、鯉登が母に向かって言う。
「そうなの」
「なんだ、出掛けるのか」
 兄は意外そうな顔をした。明治時代ほどではないが、今も年齢が八つも離れているせいか、兄弟仲はいいのだ。だから兄が帰省しているのに一緒に過ごせないのは残念に感じるが、今日はどうしても会わなくてはならない人がいた。



 それは今から約半年前。
 高校の最寄り駅の改札をくぐり階段からホームに降りると、同じクラスの女子がひとり、別のクラスの女子がひとり、何やら小さい何かを見ながらふたりで盛り上がっているところを、鯉登が見かけた。
「ほらこれー、めっちゃ当たるから行ってみて」
 同じクラスの女子が、友人にすすめている。
「わー、ありがとう。今度どこでやるの?」
「ビックサイトだよ。すごい人だったよ。無料で見てくれる人もいるし」
「そうなんだ」
「でもやっぱり白狐様が一番えぐかったみたい。キャンセル待ちすごかったもん」
「うわー、気になる! タロットだっけ?」
「違うよー。タロットカードでも占ってくれるけど、狐の骨を頭から落とす占いが一番見えるんだって」
「それ本物の狐の骨?」
「そうじゃない? 偽物だったらご利益とかなさそう」
「え、ご利益って変じゃない?」
「おい」
 鯉登が彼女らの後ろから声をかけると、ふたりは勢いよく振り向いた。
「うわー、ビックリした鯉登くんじゃん。なになに? うちらの話、盗み聞きしてたの?」
「ああ、そうだ」
 鯉登が真面目に答えると、女子たちは爆笑した。
「占い好きなの?」
「……好きというか……。そうだ! 大学どこにしようか悩んでいてな!」
「あー、来月、三者面談あるし、悩むよね」
 女子たちは同情する。それで、その当たると評判の占い師からもらった名刺を、鯉登は見せてもらった。
 タニガキ、という名前が印刷されていた。
 ああ、これはやはり。
 鯉登の鼓動がにわかに早くなる。脳裏には明治に会ったことのある、占い師の姿が浮かんだ。家族以外であの時代の知り合いが実在することを、初めて知った。名刺に印刷されていたQRコードをスマホで読み込ませてもらう。
 それはブログに繋がった。目立つところに「シラッキカムイとは占いの神という意味です」と書いてある。
 これは、間違いなくインカラマッだ。
 鯉登はブログ内の記事をさかのぼり、大雑把に読んでいった。約五年前の記事に、秋田市内のとあるビル内の小さな立ち飲み屋で、客相手に占いを始めたと書いてある。やがてそれが評判になり、個別対応で喫茶店やファミレスに出張して占いをするようになったようだ。今はJR秋田駅の駅ビル内にある占いの館で、週に二日ほど占いをしているらしい。そして今回は、初めて大型の癒し系イベントに参加したようだった。同級生は、そのイベントで占ってもらったようだ。
 ブログ内に予約フォームがあった。予約状況を確認すると、平日なら来月でも空きがある。が、土日祝日となると、そもそも占いの館にいない日が多かった。他の術師の担当になっているのだ。個別出張だと秋田から都内までは来てくれるようだが、鑑定料に加えて出張費が掛かるので、かなりの割高である。
 高校二年生の鯉登には、軽々しくその決断をすることができない。その上、インカラマッが明治時代を覚えているとは限らないし、万が一、別人だったなら。
 癒しの祭典の、関東での次回開催は半年後となっている。再びそれに出店予定だと書いてある。
 しょうがない、待つか――。
 半年前、そう苦渋の決断をしてから、いよいよその日がやってきたのだ。
 遅い朝食のあと、鯉登は東京ビックサイトに向かった。占い師、エステティシャン、整体師やカウンセラー等、さまざまな心と体の癒しに特化したイベント内容だという。十年前から定期開催されていて、近年かなり大勢の人々が集うらしい。
 しかし懸念していることがあった。参加者は圧倒的に若い女性ばかりなのではないだろうか? 自分は場違いではないか?
 しかし、到着してみればそれは杞憂だとすぐに分かった。最寄駅からの道のりを進む人たちは、老若男女さまざまだ。そして、いざ建物に入ってみると、占い師をしている男性が意外に多いことも、この日に初めて知った。
 間仕切りで仕切られたスペース内で、テーブルをはさんで様々な人々が相談をしている。雰囲気だけなら、学生向けの企業説明会とそんなに変わらないかも……。そう考えたら、いくぶん気が楽になる。
 そうか、緊張していたのだな。
 じっとりと汗ばむ左の手のひらを見る。生まれながらに薬指には痣があった。だから、月島も今の世を生きているのだと信じている。だけど、ひょっとして生まれていないとか、それともすでに伴侶がいるのなら。
「……想像ばかりしていても、駄目だな」
 そして白狐様のいる場所を探す。きょろきょろと見回しながら歩いていると、ひときわ長い行列があった。あ、これが「えぐい」と同級生が表現したキャンセル待ちの列ではないのか。その列の先頭にあるブースへ辿り着く。予約した時間ちょうどだ。
「お待ちしておりました」
 間仕切り奥にあるテーブルの向こうに、女性がひとりにこやかに立っている。彼女を一目見て確信する。
 インカラマッだ。
「進路のご相談だとお伺いしておりますが」
「ああ」
 まどろっこしい挨拶など一切なしだから、また少し気が安らぐ。
「さっそく始めましょう。頭の中に志望する大学をひとつ思い浮かべてください。そこが合うかどうか、白狐様に聞いてみます」
 タニガキは鯉登にそう指示すると、テーブルに掛けられた赤い布と自分の手のひらに香水を振りまいた。それから狐の骨を頭に乗せる。鯉登の知る占い方法ならば、頭上から骨を落とすはずだ。しかしタニガキはいったん手を止めて、遠くを見るように目を細めた。
 それから額に人差し指を当てて、目を閉じる。
「鯉登さん。本当は別のご相談があるのではないですか?」
 やけにはっきりした物言いだった。
 一体、自分の中に何を見たのか。頭か胸の中を探るように見るので、鯉登はかなり居心地が悪くなる。が、誤魔化してもばれるだろうから、思い切って聞いてみた。
「……タニガキとやら。私のことは覚えていないのか?」
 すると彼女は驚いて目を丸くし、それから紅潮して嬉しそうに微笑んだ。
「あら、あなたもうちの夫と同じことを言うんですね」
「結婚しているのか? やはり谷垣一等卒か?」
 鯉登は興奮してイスから立ち上がらん勢いで質問する。
「あなたは谷垣源次郎をご存じなんですね。嬉しいです」
「そうだ、元上司のひとりだ! 一緒に樺太へアシリパを探しに行ったんだ!」
 こう言うと、インカラマッは困ったように、眉をひそめる。
「でも、ごめんなさい。私には生まれる前の記憶はないんです」
「そ、そうなのか……?」
 鯉登が肩を落とす。
「あなたはひょっとして、前世の縁をお探しですか? 進路とは別のものが千里眼で見えたので」
「別のもの? 何が見えたんだ?」
 鯉登は再び身を乗り出す。
「白っぽい何か……、はっきりしていないです。あなた自身も、まだ気が付いていないのかもしれません」
「まだ気が付いていないもの?」
 先ほどまでの興奮が急にしぼみ、鯉登は寄る辺ない気持ちになる。月島が見えたのではないのか。
 気落ちしたのが手に取るように分かったであろう、インカラマッが言を継ぐ。
「鯉登ニシパ、これは占いでも千里眼でもないのですが……」
「なんだ」
「まず、安心してほしいのは、記憶があるかどうかは問題ではないと思いますよ。現に、私自身は前世の夫と再会してまた夫婦になれたのですし、こうしてあなたと私も再会しています」
「そ、そうだな……、どうやって知り合ったのだ? 偶然近くに住んでいたのか?」
「いいえ、ブログには書いていませんが、もともと私は北海道で占いをしていました。今から六年ほど前に、私の暮らす町の住宅街にキムンカムイ――ヒグマが出没したんです。うちの近所でも家庭菜園を荒らされる被害がありました。それで地元の猟友会に退治をお願いしたのです。翌日、猟友会が駆除をしてくれたのですが、仕留めたのが谷垣ニシパだったのです」
「奴も北海道に住んでいたのか?」
「いいえ。その日、偶然にも出張で北海道へ来ていたのです。地元の猟友会は高齢者が多いので、谷垣ニシパも駆除に参加してくれたのです」
「そうだったのか。谷垣一等卒は今もマタギなのだな?」
「ええ、半官半民と言うのでしょうか、普段は役場に務めています。休日や害獣駆除の要請のある時に、マタギに戻ります」
 千里眼の鋭い表情とは打って変わり、インカラマッは谷垣の話では柔らかに微笑む。
 うらやましい。
 率直な感想がそれだった。だから、鯉登は自分の心がとても渇いていることに気が付いた。そして、そんなふうに人を羨む自分のことも嫌になる。
 でもあんなに毎日まいにち泣いていたら、乾いて干からびるのも当然だ。
 ひと呼吸して、鯉登が口を開く。
「……実を言うとな」
「はい、何でも話してみてください」
「ある伝手をたどると、私が探している人物と、再会する可能性があるかもしれないんだ。しかし、会っていいのかどうか、決断ができないでいる」
 それを聞き、インカラマッは表情を引き締めて、呼吸を整える。そして白狐の骨を頭から落とした。それの転がる向きを、鯉登にはどういう意味なのか判別できないから、どきどきしながら彼女の発言を待つ。
「……そのまま、あまり色々な根回しをする必要はなさそうです。大学は……、そうですね、最初に思い浮かべた大学以外の方が良さそうですよ」
「そうなのか?」
「意外ですか?」
「ああ、てっきり防大へ進むべきなのかと……」
「前世では軍人さんだったのですよね」
「ああ」
「おそらく、前世で役目を果たしたからではないでしょうか」
 それを聞き、鯉登は目を見開いた。
「本当にそう思うのか」
「はい、いま私が師事している占いの先生の言葉ですが。何かを成し遂げるには、人生は短いです。ですが、中には偉業を成し遂げたり、自分の生まれてきた意味を理解している方がいらっしゃいます。最近の言い回しですと『人生二週目』の方ですね。だから鯉登ニシパは自信をもって……、まあ!」
 ただ事でない鯉登の様子に、インカラマッは口に手を当てて驚く。
「おいは泣きそうじゃ……」
 そう言いながら、鯉登の目から涙が幾筋も流れた。
「あらあら、その涙は来たるべき再会の日に残しておきましょう」
 インカラマッは箱入りのティッシュペーパーを差し出す。
「悔しいんだ。あやつは、私には軍人の理想を押し付けて、手前勝手に死んだ。……結局、私を選んではくれなかった」
「そうだったのですね」
 インカラマッは厳しい顔つきになる。そしてテーブルの端に重ねて置いていた、タロットカードを手にする。
「今からこのカードを切りますので、好きなところでストップと三回言ってください」
 テーブルの上に両手で方々に広げ、それからカードを寄せ集めて、再びひとつの山を作る。それをインカラマッが上から数枚適当に取り、隣に山を作る。それを繰り返して最初の山がだんだん低くなるので、鯉登は三度、ストップをかけた。その際に一番上にあったカードを三枚抜き出す。そしてインカラマッはそれらをめくる。絵柄が現れる。するとその中の一枚に、おどろおどろしい柄のカードがあり、不安になる。
「どういう意味だ?」
「……変化が訪れると出ています」
「どう捉えたらいいのだ? 前世とは違う関係になるのか?」
「その可能性はあります。しかし、変化を恐れることはないのですよ」
 インカラマッは微笑む。それはむかし入院中に見た、お腹の大きな彼女の姿を彷彿とさせた。それから時計を確認する。
「申し訳ございません。そろそろ次の方の時間になります」
「ああ、こちらこそいろいろ質問して申し訳ない」
 鯉登が立ち上がり、帰ろうとする直前。インカラマッが、ためらいがちに声を掛ける。
「あの、今日のことは谷垣に話をしてもよろしいですか?」
「ああ、大丈夫だ」
「彼もきっと喜びます」
 また会う約束はしなかった。それでも、そのうち夫婦に会う機会はあるだろうと思えた。
 電車に乗り窓の外をぼんやりと眺める。
 月島と私の間にあったのは、何だったのだろう。鯉登は繰り返し自問自答する。
 月島は否定こそしなかったものの、結局さいごまで好きだと言ってくれなかった。ただの一言も、自分の気持ちを伝えてはくれなかった。
 常に受け身で、鯉登が何か望めば「嫌です」と断り、面倒くさそうにため息をつく。それに、例えばふたりきりであっても、抱きしめたり手を結ぶこともしてくれなかった。それなのにあのお互いを貪り合う情熱は何だったのか。それだけで成り立つ関係なんて――。
……セフレみたいなものか。
 最悪だな。再会したからと言って、一方通行の虚しさを再び蒸し返すだけではないのだろうか。

二、会社員と政策担当秘書

 明治四十一年四月。
 先遣隊が樺太から北海道に戻ってきて、次の季節になった。
 月島は鯉登の入院先にいて、二階堂とインカラマッの様子も一緒に見ていた。
 鯉登はリハビリが始まると汗のにおいでも気になるのか、入院初期にも増して体を拭いてくれ、と月島に言ってくるようになった。
 そもそも、なんでオレに清拭を頼むんだ。
 月島は疑問に思うが、以前に二階堂の入院生活の世話をしていた際も、面倒だが嫌だとは思わなかった。元来、他人の世話を焼くことが好きなのかもしれない。
 数ヶ月前のモルヒネ中毒になっていた二階堂の様子を振り返りながら拭いていると「つ、月島ァ」と鯉登が呼ぶ。珍しく弱々しい声だから、体調が悪くなったのかと驚いた。
「どうされました?」
 確認すると鯉登は恥ずかしそうにして、不満を述べる。
「どうしてそんなに丁寧に指の股を拭くんだ」
「手は清潔な方がいいでしょう」
「そうなのだが……、まずい」
 鯉登は目をそらす。
「何がですか?」
 察しない月島に鯉登が焦れたのか、ひと睨みして月島の手を掴んだ。そして掛け布団に覆われている自分の腰に月島の手を導く。弾力を持ったそれが、手のひらに当たる。
 あ、これは。少し勃っている……。月島は困惑するが、それでも無表情に徹した。
「……少尉殿、別に困ることもないでしょう。どうぞ気を楽に」
 いつものように落ち着き払う。
「気楽にできないからお前に訴えてるんだ」
「私は以前にこんな話しを聞いたことがあります。――体を拭いている時に男性患者がうっかり勃起しても、看護婦さんたちは慣れてるから驚きもしないで淡々と清拭をこなすそうです。だから私も特段気になりません」
「私が気になるんだ! 月島、こ」
 鯉登が何か言いかけたので、月島は先回りしてこう言った。
「嫌です」
「まだ何も言ってないぞ」
「この状況で少尉殿が次に何を言うかくらい分かりますよ」
「物分りが良くて何よりだ。抱きたい」
 あまりにもストレートに要求するから、応じるのが当然のように一瞬勘違いしそうになった。だから月島は呼吸を整えて、改めて冷静に対応する。
「先生からリハビリ以外の激しい運動はしないように、と注意されているでしょう」
 だいいち、どこでするつもりなんだ。月島は冷たい視線を投げかける。
「運動ではない」
「それは屁理屈です。その程度なら放っておいたらじきにおさまるでしょう」
 月島は清拭を止めてお湯等を片付け始める。
 恥ずかしいのか疑っているのか知らないが、鯉登は看護婦による清拭等の世話を断った。軍病院なので、医師や看護婦はみな身元の確かな者ばかりのはずだが、その辺の潔癖さが月島には心配だった。従軍して負傷して入院なんて当然の職業である。それなのに、今からこんな調子でこの先何十年とやっていけるのだろうか。
 それにもう一点、どうにも気になることがある。このところ、空元気のように見えるのだ。それは、ひょっとして大泊港で自分が脅したのがきっかけになっていないか。
 現に、こうして月島が理性的に突き放すと、おとなしくなってしまう様が月島の心に突き刺さる。被害妄想かもしれないけれど、あの日の十代だった鯉登に責められているような気さえしてくる。
「……」
 だからつい仏心が出てしまった。月島は落ち込んでいる鯉登を見たくないのだ。
「あの、少尉殿」
「なんだ。湯桶を片付けてきたらどうだ?」
 鯉登はすっかりいつもの気位の高い将校の顔に戻ってしまっている。
「また何かありましたらお呼びください」
「分かった分かった、当分用はないから戻ってこなくて結構だ」
月島を一瞥して手で追い払うような仕草をする。すっかり拗ねてしまったようだ。めんどくさい。本来ならこんな子供みたいな振る舞いをする者など放っておくのだ。しかし月島は、子供の頃から老成せざるを得なかった、鯉登の立場に同情している。だからつい、理不尽さを許してしまう自分がいるのである。
はあ、とため息をつく。ため息の矛先は鯉登なのか自分なのか。
「私の対応が冷たかったように思いまして、その……、手での処理なら……」と言いかけると、鯉登は「月島ァ!」と飛びつきそうな勢いで喜んだ。
 その日以降、室内に月島以外に誰もいない時には応じてきた。
 それなのに、鯉登が次第に不満を漏らすようになった。
「月島は事務的すぎる」
「私のやり方がご不満なら、ご自分でなさったらいいでしょう」
「違う、そういう意味ではなくて……、月島は私が欲しくならないのか」
「今は治療に専念すべきですよ」
「……。月島」
 寝台から鯉登が腕を伸ばす。こちらに来い、という合図だ。こうなるともう上官命令だと思って何も考えずに近寄る。まるで灯りに吸い寄せられる夏の夜の虫みたいだ。
 鯉登は月島の腕を引き、左手で月島の顔を引き寄せ唇を合わせる。こういう時の鯉登の接吻が、月島は少し苦手だった。唇も舌も食らいつくされるような荒々しさで、自分が弱くなったように思えてしまう。
「う……、んん、は、……、ちょ……小……離し」
 月島が距離を取ろうと鯉登の右肩を押す。左側を怪我しているから、抵抗するのも触らないように気を遣う。
「ん、……つ、……きしま……、もっとこっちに」
 鯉登は月島の腕を掴み、身を捩ってかわすのも許さなかった。それなのに荒々しかった唇は、不意に力が消えて羽のように頬の表面に触れる。それから不意打ちでまぶたを舐められて、月島は足に力が入らなくなってしまった。
 たちまち強張っていた全身の力も抜けていった。鯉登は柔く月島の両の頬を手で包み、真剣に見つめる。改めて唇を落とされるから、月島は観念して目を閉じた。気持ちを込めるようなひたむきさで合わせた後に少し離れるのは、次は舌が入ってくるいつもの合図となっていた。だから月島は、口をゆるめて待った。
 一、二、三、四、五……、鯉登が何もしてこなくなったので、不思議に思って目を開く。鯉登と目が合った。すると額が触れ合う距離で小さくささやいた。
「月島、外へ行こう」
「……」
「続きがしたい」
「無理です。風呂もないのに」
「私は気にしないぞ」
「私が嫌なんですよ」
「挿入しなくてもいいから」
 抱きたいと言っておきながら何だそれは。月島は驚き反論する。
「……それでは手でしているのと変わらないのでは?」
「違う。お前のことも気持ち良くしてやりたいんだ」
「……」
 話がかみ合わない。
 どうしてもふたりで分かち合いたいと鯉登は主張するが、月島は放っておいてほしいのだ。そもそもの出発点が違うのだから、いくら話しても結論が出ない。
 こうなると、月島が折れるしかないのである。はあ、とまた深くため息をついた後にこう言った。半ばやけくそだった。
「例えば、人目につかない場所があるとか、何か算段でもあるんですか」
「つ、月島ァ! それなら心配ない!」
 鯉登はたちまち顔が明るくなった。
 彼の案内する先にあるのは、病院の敷地裏にある納屋だった。脚立や木の剪定鋏や草刈り鎌、薪や肥料等が置いてある。
 出入り口の他には明り取りが背丈より上にあるのみで薄暗い。密会と表現するにはうってつけの場所だった。
「なんでこんな場所知ってるんですか」
 月島が呆れると、鯉登は説明を始めた。
「他の入院患者が話していたんだ」
『あの医者と看護婦が裏の納屋でやってたぜ』『ああ、時々あそこで会ってるらしいな』
 だからここなら大丈夫だ、と鯉登は言う。それを聞き、月島が異議を唱える。
「それなら我々もその男たちから覗かれるじゃないですか」
「大丈夫だ、今その患者は一時帰宅している」
「はあ」
 用意周到だな、と正直ちょっと感心した。
「月島」
 鯉登は嬉しそうに目を細めて、壁際に立つ月島を正面から抱きしめた。
「誰も来ないから、ふたりきりだ。安心するな」と鯉登が感慨深そうに言うけれど、月島は逆に心がざわつき始めて落ち着かない。
 早く好きに振る舞って何も考えられなくして欲しい、だなんて。
 月島は軍袴を下ろして収納棚に手をつき、鯉登に背中を向ける。その太ももの間に、鯉登は多めにワセリンを塗り付ける。それから病衣をわずかにずらして、性器にも塗布した。なんでも、肌が乾燥すると言って看護婦からもらったらしい。それから月島の腰を掴んで、太ももの隙間に硬くなり始めた性器を差し入れた。具合のいい位置でも探るためなのか、角度を変え徐々にずらしていった。それから抽挿を始める。通和散とは違って、恥ずかしくなるような水音は今のところしない。
「あの、少尉殿」
「……なんだ」
「避妊具をお持ちではないのですか?」
「無い。だから……、ん、出す直前に抜く……」
 果たして本当だろうか? 尻にかけられないだろうか、と月島は気になり始めた。それに、一番の懸念がこれだった。夢中になるうちに挿入しようしてくるんじゃないだろうか。
 はあはあと鯉登の息が荒くなる。耳にその熱い吐息がかかると、鯉登の熱が自分にうつったように錯覚してしまう。その熱が火に変わるのに、そんなに時間はかからなかった。
 そこが、くすぐったいような気がした。それは月島自身、予想もしない体の反応だった。そして、くすぐったいと感じたところは、鯉登に突き上げられると、腰から背中にかけて鳥肌が立った。
 おかしい。触られているのは外側なのに、体の芯がぞくぞくとする。
 月島は奥歯を噛んでやり過ごそうとする。どうか、おさまってくれ。
 でも下腹部から駆けのぼったしびれは、じわじわと腹の底にたまる疼きに変わった。頭のてっぺんから汗がひとすじ流れる。強く握りしめた拳の中も、じっとりと汗ばむ。
 やり過ごして冷静なままで終わる予想は、見事に裏切られた。――直接さわって欲しいだなんて。こんな浅ましい欲求が、自分の中から生まれただなんて、月島は認めたくなかった。でも、このとき頭を支配していたのは、挿入されて中からえぐられて、抗えないような圧倒的に重たい悦楽を、鯉登から与えられる場面だった。
「は、あ……」
 月島は唇がわななき、吐息とともに声がもれる。太ももがふるえて、固く閉じていられなくなる。それでも、これでは鯉登が気持ち良くなれない、と月島は気を揉み、でも腰から下は自分の思う通りにいかなくなった。
「月島、もう少しぴったりと閉じてくれ」
「は、はい」
 どうにか普通に返事をして、足に力を込める。そこに鯉登がいっそう深く突き入れるから、彼の亀頭で陰嚢も揺らされる。その行為が焦らされているように思えて、自制心がなし崩しになった月島は、ついに欲してしまった。
――挿れてほしい。
 求める自分に月島は驚いた。
「……月島、勃ってるぞ」
 不意に鯉登が言うから、月島は自分の下半身に目をやった。するとすっかり固く上向いていて、先端の穴から物欲しそうに雫が滴っていた。
 嘘だろ……、触られてもいないのに。
 そこに血の集まるのも意識できなかった。月島は自分の体の変化を認めたくはなかったが、途端に鯉登が耳たぶを唇で食み、耳から首筋を舐められる。
「アッ……、く、……んん……」
「月島……、もっと声を聞かせてくれ」
「そ……んな無茶、……あ、ああっ……!」
 鯉登は月島の陰茎に手を伸ばす。月島自身の体液と透明な油分が混ざり、ぬちゃぬちゃと粘る音がやけに響いた。
 鯉登の作る指の輪が、いつもより緩くて物足りない。もっと強くしてほしい。でも鯉登にそんな懇願はできなくて、でももどかしくて、ついに月島は自分で腰を揺らし始めた。
「月島、気持ちいいか?」
 鯉登にそう聞かれても、気持ちがいいと素直にうなずくことはできない。だから月島が黙っていると、くびれを集中してこすり始めた。
 鯉登も自身を追い込むように、いっそう荒々しく抜き差しする。だから月島はがくがくと足が震えるのを抑えられなくなった。そして鯉登は、くびれに引っ掛けていた指を伸ばして、月島の鈴口をくじった。
「あああっ!」
「月島……、出すぞ」
 月島が達した直後に、鯉登はきつく抱きつき月島の首元に顔をうずめる。たらりと太ももを伝い落ちる熱い体液を感じた。鯉登はそのまま月島に背中から覆いかぶさり、肩で大きく息をしている。
 嫌な予感がした月島は、息を整えつつ下を見た。すると紺色の布に白く染みている。精液が軍袴にかかってしまい、情けなさでいっぱいになる。約束通り、なぜ直前に抜かなかったんだ、と言いたくなったが、月島自身も抑制できずに床を汚してしまった。自分の貪欲さを目の当たりにして落ち込む。
 体を離して濡れたところを漉返紙で拭き、軍袴を引き上げる。鯉登も病衣を整えたので、戻るのかと思った。鯉登が唐突に抱きつき体重をかけてきたので、月島は壁に挟まれてしまった。
「し、少尉殿、いい加減に……」
 胸を押し引きはがすと、なぜかうなだれている。様子がおかしいと感じて顔をのぞき込むと、顔色が悪い。薄暗いせいだろうかとまず考えて、次の瞬間に焦りに変わった。
「あの、少尉殿。息が苦しいのでは?」
「う、うん、……少し……苦しい……」
 少しどころではなく、すっかり青ざめている。
 大泊港で杉元から刺された傷が、左の肺を傷つけている。表面はふさがってもまだ体内は回復途中なのだ。鯉登はすっかり血の気を無くしてしまっていた。息が細い。
「だから激しい運動は止められていたでしょう」
「運動って言うな……」
「どちらでもよろしいです。ほら、部屋に戻りますから安静にしていてください」
 鯉登が何かしらに傷付いたような表情をするから、それでいいんだと月島は納得する。情を交わしているんだと強調したくはなかったから。でも、月島の胸にはもやがかかった。


 同年六月。
 軍病院を退院してから鶴見の任務に合流したのは、囚人狩りもふたりを残すのみ、となっていた。
 鯉登と月島は誰にも言えない関係を続けていた。と言っても、そう長くは続かなかった。



鶴見とその部下たちは、支笏湖周辺に集まっていた。
「おそらく奴らも近辺に潜伏しているだろうな」
 鶴見が湖を見渡しながらつぶやく。
「鶴見中尉殿、この近くの農家に交渉して参りました。十名まで宿泊可能だそうです」
 新兵が鶴見に報告する。
「そうか、ご苦労だったな。ではお前たちは今晩、そちらに世話になりなさい」
「鶴見中尉殿はいかがなされますか」
「私と月島は今日中に札幌へ向かわねばならんのだ」
 鶴見は繋いでいた馬まで戻る。
「そうでしたか。道中お気をつけて」
 新兵はふたりに敬礼して見送った。



「月島軍曹を見なかったか?」
 鯉登が司令部の廊下で下士のひとりを捕まえて尋ねる。
「は、部屋に戻っていくのを見ました」
「月島のか?」
「はい」
 鯉登は歩兵二十七聯隊の兵舎へと急ぐ。
「月島軍曹!」
 ノックと同時に鯉登は月島の部屋に入った。すると月島は外を眺めながらタバコを吸っていた。
 珍しい。
 鯉登は何度か瞬きをする。一年前、軍務の合間に喫煙している姿を目撃していたが、気が付けば月島の喫煙姿は見かけなくなっていた。軍務より鶴見の任務の量が増えてきて、きちんと休憩を取ることができなくなったせいだと思っていた。本来、タバコは戦闘とセットだ。銃剣での殺傷は直に手に伝わるため、まともな精神でいられない。それを落ち着かせるための麻薬なのだ。でも月島の場合は、本当に味わいながら嗜んでいるように見えて、鯉登はその姿に憧れに似た気持ちを持っていた。だからそれを見られなくなったのは、少し寂しくもあった。吸わないで済むのなら、それに越したことはないのだけれど。でも、また見られないだろうかと密かに思っていた。
久々の喫煙姿に本来の要件を忘れるところだった。ここに来たのは別の理由からだと思い出す。
「明日、大陸へ向かうというのは本当か?」
 鯉登が静かに詰め寄ると、月島は灰皿にぐにゃりとタバコを押し付けた。
「はい、そうです。準備が終わってから鯉登少尉殿のところへ挨拶に伺うつもりでした」
 月島は着替え等の荷造りが終わり、一服していたのだった。
「なぜこんな直前まで黙っていた?」
 鯉登は月島の胸ぐらを掴まんばかりに迫る。
「誤解です。黙っていたのではなく、私に話が来たのは昨日です」
「昨日だと?」
 鯉登は驚く。数日間不在になり軍務の調整も必要になってくるのに、連絡が前日だなんてあり得るのだろうか?
「それに式典に出席するだけなので、一週間で戻ります」
「一週間……、本当か?」
「ええ、本当ですよ。だから土方歳三たちと残りの囚人の動向について、少尉殿にはしっかりと監視をお願いしたい、と中尉殿から話があったでしょう?」
「……ああ。大丈夫だろうか」
 鯉登が伏し目がちになる。
「そのような弱気になるあなたは珍し……ん、」
 鯉登が月島の顎を押さえてキスをする。
 突然のことに驚いた月島が、鯉登の顔を離そうと抵抗する。しかしふたりの腕力は拮抗してそのうち足がもつれ、バランスを崩して床に倒れた。ふたりとも尻餅をつく。
「何をするんですか……」
 月島は面倒くさそうにため息をつく。
「本当にちゃんと戻って来られるのか」
 鯉登は月島の上衣の袖にそっと纏わり、母から離される幼児のような不安を向けた。
「ええ、勿論です。どうしたんですか、少尉殿。何か気がかりな点があるのですか?」
「……、いや、何でもない」
 胸騒ぎがするのだ、と言ってもたしなめられるだろう。実際、何か根拠がある訳ではないのだ。
「月島」
 鯉登が月島をしっかりと抱きしめる。こういう時、月島は抱き返したことがなかった。両腕はいつも力なく下げたままで、それが鯉登の胸をいつも冷えさせた。
「月島、指を」
「は?」
「指を噛んでくれ。痕が残るくらい」
 ほとんど発作的に口をついた。
「え? 駄目ですよ、口の中には雑菌が……」
 予想通り、月島は眉をひそめて理路整然と断ろうとする。
「そんな講釈などいらん。ほら、噛め」
 鯉登が差し出した指は、左手の薬指だった。
 指の付け根に残った傷跡を想像すると、鯉登の意図するところは月島にも伝わるだろう。
 指輪だ。
 約十年前から永遠の愛の誓いと共に、指輪を身に付ける夫婦が増えてきたと聞く。
 月島が鯉登の指を厳しい表情で見つめた。



この若者は、どうしてオレなんかにこんなに真っ直ぐ気持ちを向けてくるんだろう。
 暑苦しくて、一生懸命で、自分本位で、他人を疑わず、あけすけで、自信家なのに不安定な、一途な男。自分たちの間にあるものが、恋愛だと疑わない男。
 鯉登の切迫した態度に、月島の胸は締め付けられる。
 どうしてオレを、なんて思いながら、月島には分かっていた。例えば、この窓から見える夕景が美しいと思い眺めるようになったのは、鯉登が教えてくれたからだった。
 ささやかな日常に寄せる心の変化は、それを教えてくれた張本人への心の変化そのものだった。そうして涵養されていく想いの存在を、無視できなくなっていた。
 月島はさんざん迷って、やはり鯉登の要求を断ることもできなかった。
 長い指を口に含んで、たてた歯に次第に力をこめる。鯉登が息をのみ、短く「くっ……」と声をもらした瞬間に、血が歯を伝い、舌に広がった。「あまり浅いとすぐに消えてしまう」と鯉登が言うから、逡巡してさらに力を込めた。様々な気持ちをあらわにする自分の胸中を、見て見ぬふりをして鯉登に印をつけた。
 ああ、だからか。自覚させるために、こんなことを要求したのか。
 それから、鯉登は月島の指を同じようにして傷付けた。死を覚悟するような大怪我ではないのに、予後が悪いだろうと確信できた。月島の指から離れたその口の端に、鮮やかな赤が滲んでおり、ずきずきと脈に合わせた痛みと痺れが、背筋をさかのぼり月島の頭の中も麻痺させた。
 その月島の心の隙を目敏くすくい取った鯉登が、間をおかず月島に口づけた。
「ん、……ふ……」
 鯉登の舌が荒々しく入ってきて、月島の舌を絡め取る。鯉登の舌と唾液もまた、血の味だ。鯉登がわずかに口を離して小さく苦笑いする。
「……苦いな」
 血の味のことではなかった。この一年ほど月島はすっかりタバコを吸わなくなっていたから、タバコの味のキスは初めてかもしれなかった。
 鯉登が月島にのしかかろうとしたから、月島はやんわりと鯉登の胸を手で押し返した。
「少尉殿、申し訳ございません。そろそろ司令塔へ向かわねばなりませんので……」
「月島」
「続きは、また帰ってきたら」
 月島はほんの少しだけいつもの固い表情をくずし、鯉登の胸ポケットにタバコの箱を押し込んだ。あと二本残っている。留守にしている間に鯉登が吸っても構わないし、自分が帰って来た時に一緒に吸うのもいいような気がした。
 こんな約束めいたことをしたのは初めてだったから、鯉登は目を見開いて、そして月島が部屋から出ていくまで一言も発しなかった。



 平成二十八年四月。
 ハッとして月島は自分の薬指を見る。
 つい先ほどまで、指に食い込む歯の痛みに耐えるために、食いしばった全身のこわばりが生々しく残っているかのようだ。
 枕元に置いているスマホを確かめる。アラームが鳴る前に目覚めてしまった。そして、またひとつ罪悪感が積み上がる。それは地層のように年々堆積していき、それは月島の自我が芽生えてからの習慣となっていた。
 繰り返し同じ夢を見ている。それは明治時代の己の人生の一部始終だ。しかし、職業軍人だったから、あまり長生きはしなかった。それでも一晩で駆け抜けるには、あまりにも波乱万丈だと言える内容だ。
「……起きないと」
 この夢を、オレは死ぬまで見続けるのか。
 月島はテーブルに置いていたタバコに手を伸ばす。顔を洗うのにも指の痣が視界に入るから、できるだけ後回しにしたかった。見れば当時の痛みも生々しく思い出してしまう。
 晩年、公私ともに深く関わり過ぎた男がいた。上手くかわすことも拒絶することもできずに、結局さいごまで曖昧につなぎとめてしまった。それは優しさではないと知っていたのに。
 拒絶より彼を傷つけてしまった気がする。いや、きっと傷つけた。
 それを象徴するような傷を、指によみがえらせて今を生きている。贖いのためなのか、それとも桎梏か。
「はじめちゃん」
「すまない、待たせたな」
「いいえ、ひとりでのんびりできる時間は、今の私にとっては貴重なのよ」
 扉を開けて出迎えた女は、優雅に微笑んだ。くるくるとうまい具合にカールしていて、生まれつきのくせ毛だと分からないくらいだ。
 月島は昼に会社を出て、昼食後に千代田区の老舗ホテルに向かった。ここは明治の創業だから、昔の月島も知っている建物だった。だから訪れる時はいつも、歴史を感じて少し感傷的になる。
月島が鞄を置いてふと気づく。室内が何か、穏やかな花のような香りがする。テーブルに目をやると、すでに紅茶が用意されてあった。
 明治時代、佐渡島での幼馴染は、今生でもM系列会社の役員のひとりと結婚した。だから、ふたりは外で大っぴらに会う事はできない。
 不倫をするカップルの常套句「出会う順番が悪かった」は、あてはまらない。月島との出逢いが先だ。が、月島は小学生のときに、母と共に東京都へ引っ越した。当時、母が付き合っていた男が都内在住だったからだ。結婚して落ち着くのかと思ったら、相変わらず母と子のふたり暮らしだった。どうしてなのか母に尋ねてみると「結婚したら手当がもらえないのよ」と屈託のない笑顔で言われた。
 誰の入れ知恵か知らないが、しかし母はそれが当然だと思っていたようだ。
「基ちゃん、どうぞ」
 澄んだ声が自分を呼ぶから、月島は我に返る。彼女の持参した紙袋から取り出された物は、タッパーだった。
「今朝、焼いたパンよ」
 フタを開けると、小さめのロールパンが入っていた。
「塩パンなの。でも普通の塩じゃなくてローズマリーソルトだから、パン屋さんの塩パンとは違ってオリジナルな味なのよ」
 月島は手に取り一口かじる。
「ん、ホントだ。バターとは別のいい香りがする」
「そうなの、だからこれをヨガ教室に持って行ったら『売ってくれませんか?』って実は評判なのよ」
 嬉しそうに微笑んだ。彼女が幸せそうに笑うのは、生活が充実しているからだろうか。オレがいるからだろうか? 夫の前でも同じ笑顔なんだろうか?
 朝からパンを焼き、ヨガ教室にも定期的に通う、何ひとつ不自由していないように見える主婦。くるくると巻いている髪は手入れがなされているから艶やかで、頬もふっくらとしている。本人の内面の美しさを体現しているようだ。
 もともと彼女の生家は、長岡藩稲垣家の分家だったようだ。明治時代も「仕事で辺境までやって来た御曹司にぐうぜん見初められたシンデレラ」ではなく、見合いの話が持ち上がってもあまり不自然ではない家柄だった。彼女の一番上の兄が渡米先で事業を始めて、M金山と取引を開始していたのである。
 もっとも、月島がそれを知ったのは、鶴見と共に第七師団に配属された後だった。
 元より不釣り合いなふたりだったのだ。だから今生でも幼馴染は、Mマテリアルの御曹司と結婚したと聞いた。自分よりその男の方と、より強い縁で結ばれていたのだろう。
 こんなふたりがどうして再会したかというと、仕事絡みだった。
 彼女の夫の会社の社内誌の時事関連コーナーの執筆を、鶴見の会社が担当しているのだ。だから月島が記事を書く時もある。
消息が掴めなくなるのと、関係が変わっても関わり続けるのは、どちらがより残酷なんだろう。オレは、人に言えない関係ばかり築いて生きている。
 今生では会うことのない男の姿が思い浮かんだ。その時に、ぐい、と柔らかい何かが月島の唇に押し付けられる。鼻の下に焦点を合わせると、塩パンだった。
「どうしたの? ぼーっとしてる」
 心配そうに彼女が見るから、月島は咄嗟にパンをぱくりと口に入れた。それも、彼女の指ごと。
 彼女が驚いて手を引っ込めようとするのを許さなかった。



「こちらにどうぞ」
 店員に案内されて、月島は個室に到着する。
「早いな、尾形」
「お疲れ様です。少し事務作業がありましたんで、早めにここに来て作業してただけですよ。月島さんは時間通りです」
 尾形はノートパソコンを閉じた。
 その日の夕方、月島は永田町のホテル内にある日本料理店に来た。
 ロビーからいったん庭園へ出るので、まるで離れの宿のようだ。店内にある個室は、十名程度が会食できる広さの部屋である。庭のしつらえが見応え充分で、今の季節はつつじの深紅やピンクで実に華やかだ。しかし月島が知っている植物が少ないので残念に思うが、興味があるならばもっと楽しめたのだろう。庭を眺めてから、月島は感心して問いかけた。
「それにしても、いつもこんな個室で取材対応しているのか?」
「まさか。政務活動費は無限じゃありません。普通は取材元からの用意が無ければ、国会内の議員事務所で話をすることは多いです。すぐそこですし」
 尾形は月島の後ろを指差すから、月島はつられて振り向いた。けれど、そちら側に窓はないので国会議事堂は見えない。
「月島さん、というか、鶴見さんのとこなら特別ってことですよ」
 月島はその「特別」という言葉に込められた真意に、胸が重苦しくなる。
 尾形百之助は大学卒業後、とある国会議員の秘書をしている。それはK党衆議院議員・花沢幸次郎であった。彼の元について、一年目の春を迎えようとしていた。
 鶴見の立ち上げた民間シンクタンクに勤務する月島と会うまでに、そう時間はかからなかった。お互い明治時代の記憶を引きずって生きていた。というより、月島はむかし関わりのあったほとんどの人物に、何らかの形で再会していた。宇佐美や菊田に前山も同じ会社に勤務している。最近アルバイトとして働き始めたのが、大学生の二階堂だ。
 しかし、まだひとりだけ会ってない人物がいた。
 鯉登音之進だ。前世にも輪をかけて年齢が違いすぎるのか、あるいは出逢うべき運命ではなかったのか。
 元より、明治の頃だって鶴見が工作をしなければ、一生逢うこともなかったんだろう。
 だから余計に、夢が重たかった。この先も一生悔いていけ、と言われているんだろうか。
「月島さん、疲れてるんですか?」
「あ、いや……、大丈夫だ」
 その時に、尾形が月島の右手を取り、自分の鼻の下に持って行った。月島の人差し指のにおいをかいで、にやりと嫌らし気に笑う。
「ああ、様子がおかしいと思いました。やっぱりあの女と会ってたんだ。月島さん、手、洗った方がいいですよ」
 月島は羞恥で頬が熱くなり、力ずくで手を引っ込めた。
「失礼」
 言い捨てて月島はすぐさま洗面所へ向かった。
 再び入室すると、尾形はスマホでメールのチェックをしていた。それをテーブルに置いたので、月島が話をする。
「それより、お前が花沢閣下の下につくとは思いもよらなかった」
 月島が正直な気持ちを話すと、尾形も素直に応じる。
「声がかかったときに、俺もやろうとは思いませんでした」
「じゃあ、どういう心境の変化なんだ」
「これ」
 頑丈そうな鞄から差し出された雑誌には、とある女性代議士のスキャンダルが書かれていた。公設秘書に暴言三昧だったそうで、その録音された音声がメディアで公開されたのである。
「この秘書、代議士潰すためにわざとボンクラ秘書を演じていた、という噂がありますよね。もともと、前職がM党議員の秘書だったそうだから、スパイだったんじゃないかって噂です」
 尾形はにやりと笑う。
「お前まさか」
 月島はぎょっとする。
「ハハ、まさかなんてある訳ないでしょう。自分自身の勉強と、人脈作りのためですよ」
 尾形が全くらしくない模範解答を言うから、月島はなんだか虫唾が走った。月島が顔をしかめていると「なんだか月島さんもすっかり毒気が抜けましたね」と、尾形がなぜか残念そうに言う。
「は? なんだそりゃ」
「前は何考えてんのか結構分からなかったです。中尉殿に心酔していないくせに、一番従順なんですから」
「何考えてんのか分からん、なんてお前に言われるとは思ってもみなかった」
 月島が真面目に返すと尾形はくつくつと笑う。
「お互い同じ印象だったってことですか。というか挨拶はこの辺にして、始めましょうか」
「そうだな」
 月島は今日、花沢幸次郎の取材に来たのだ。先月行われた内閣改造で、花沢が防衛大臣に就任した。そして、先日は青森県にある航空自衛隊三沢基地に配備されている F35A最新鋭ステルス戦闘機についての視察に行ったのだ。鶴見の要件はそれの取材だった。
 それからもうひとつ、重要な任務があった。
 謝罪だ。
 Mマテリアルグループで発行している企業誌の一コーナーを、鶴見の会社が担当しているのだが、先月それを執筆した宇佐美が大臣の名前を間違ったのだ。しかも二ヶ所も。
 すぐに花沢事務所から会社に連絡が来た。
 そのクレーム電話をしたのが尾形で、電話に出たのが月島だった。
 いったん電話で謝罪した後、改めて取材の申し込みをした鶴見だったが、花沢事務所から指定された日にちは、鶴見はあいにくイギリス出張が入っていた。
 だから月島が代わりにやって来たのだ。
 その視察に関する資料を尾形が鞄から取り出して、月島に渡した。そしてこんなクイズを出してきた。
「あ、そうそう。花沢は三沢基地の後に八戸市の海自にも立ち寄ったんですけどね、そこにある人が配属されていました。さて、誰でしょう?」
「海自か? 大湊じゃなく八戸?」
「ええ、八戸です」
「だったら航空部隊か?」
「そうです、パイロットのひとりです」
「いや、検討もつかんが……」
「鯉登平之丞」
「え……」
 月島は言葉を失う。尾形は一体どういうつもりでその名前を口にしたのか。動揺のあまり、ごく普通の反応をすることすら出来ないでいた。その時にドアがノックされた。「はい、どうぞ」と尾形が軽い返事をすると、もう一人の公設秘書が入って来た。
 花沢勇作――、花沢幸次郎の次男だ。
「遅れまして申し訳ございません。私は花沢幸次郎の秘書をしております花沢勇作と申します。本日はよろしくお願いいたします」
 勇作が右手を差し伸べるので、月島は慌てて握手をした。それから勇作は慣れた手つきで名刺を差し出す。交換したところで再び忙しなくドアがノックされた。
「花沢が到着しました」
 とっさに言葉も出ず額には冷や汗が流れる月島を、冷ややかな目で見る尾形が視界の端に入った。
 クソ尾形め。
 月島は心の中で罵るしかできない自分が情けなくなった。

三、マタギと大学生と高校生

 月島が外から帰って来た時に、前山が電話で困っている姿が見えた。
「えー、隠してないですって、本当に。……そうだなァ……」
 月島が前山の視界に入り「トラブルか? 変わろうか?」と身振り手振りに口パクをする。それを見た前山が苦笑いしながら、顔の前で手を左右に振る。大丈夫、という意味だろう。
「はい、じゃあ明日伝えます。失礼します」
 前山が受話器を置く。
「誰からだ?」
「花沢事務所の尾形さんです」
「……また誰か閣下の名前を間違ったか?」
 月島が蒼白になりながら尋ねる。
「いえ、月島さんに伝えたいことがあるとか」
「え? オレ?」
「はい、仕事の用件じゃなかったみたいですよ。面倒くさそうだったので、月島さんは今日は有給取ってますって言っておきました」
「あ、そうなんだ」
 月島は一瞬驚いて、それから苦笑した。前山は見た目の印象に反して、思い切りがいいのである。
「あ、ひょっとして話したかったですか?」
「いや、特に話すことはない。ありがとう前山」
 そうすると、前山は少しうつむいて声をひそめる。
「……昔の話なんですけど、オレ尾形上等兵のことは特に嫌いでもなかったんですよね。嫌味なところはありましたけど、ひねくれるのもしょうがないだろうなーって。でも、今は苦手というか……」
 前山の告白に冷や汗が流れる。
 それは尾形に撃たれたのが原因なのではないか。月島はすぐにそう思ったが、本人が知らないことまでわざわざ教えてやることはないだろう。だから黙っていることにした。
 そこに宇佐美が資料を抱えて入室して来た。
「あ、月島さんお帰りなさーい。T製作所の業務部長からもらったワークプラン検討内容と、競合分析結果のファイルを月島さんに送ってます。チェックをお願いします」
「ご苦労さん、すぐに見てみる」
 月島が着席してパソコンの内のファイルをチェックする。まずワークプランに目を通して、それから宇佐美の分析結果を見始める。
 するとデスクに置いている月島のスマホが、何かを受信した。メールかSMSだ。ロックを解除し確認すると、尾形からのSMSだった。
『尾形です。お疲れ様です。月島さん、こんど積もる話でもどうですか』
 月島は「はー」とため息をつく。誰だ、こいつにオレの携帯番号を教えたのは。仕方がないので返信する。
『お前の周りは積もり過ぎて、雪崩おこしそうだ。危なくて近寄れない』
『雪崩おこしたら助けてあげますから』
『嘘だな』
『どうして疑うんですか?』
『花沢閣下が到着する直前に、鯉登さんのご子息の話をする必要はないだろう』
『あれ、やっぱり動揺しちゃいましたか』
 だからお前はあちこちに敵を作るんだ!
 月島は呆れながらも、その正直な気持ちを送信するのは留まった。そして、努めて公平な理由を文字にしたためた。
『オレだけじゃなく菊田さんもビックリしただろうよ』
『あの人、意外に常識人ですからねェ。でもボンボンの兄上がお元気で、月島さんは安心したでしょう。だから教えて差し上げたんですよ』
『それには感謝する。でも、それ以上の飛び道具があるなら、直接会って話をするのは遠慮する』
『ありませんよ。今後、お宅の会社とは長い付き合いになりそうなんで、企業理念とか政策方針とか知っておきたいんですよ』
『それはうちのサイトに載ってるだろう』
『オフレコの話がたんまりとあるんじゃないですか? 今の官房長官、定期的に記者クラブ以外の者とも意見交換会しているでしょう。これまでなら会うこともなかったような、フリージャーナリストや若手官僚らも参加していると聞きました。鶴見さんのところはお呼ばれされましたか?』
『ああ、先月も参加したばかりだ』
『だから情報交換といきましょうよ』
 閣僚となったのだから、情報量は格段に増えただろう。正直、表に出ない話には大いに興味がある。今はまだ根拠に乏しい点の話であっても、やがてそれらが線とつながる場合があるからだ。熟考した後に、月島はこう返した。
『鶴見さんに確認してみる』
『感謝しますよ軍曹殿♡』
 なんだこのハートマークは。月島は、かなり渋い顔をしているのが自分でも容易に分かった。
「……おちょくられている気がする……」
 完全に尾形の術中にはまった気がして、月島は頭を抱えて落ち込んだ。
「え? 月島さん、何か言いました?」
 向かいの席から前山が心配そうに声をかけた。



 一週間後、新橋の焼き鳥屋で二人は落ち合った。
「前回とえらい違いだな」
 月島が感想を述べる。
「別に庶民派を気取っているわけじゃないです。普段はこんなもんですよ。というかこの店、駐日米国大使の贔屓の店で、花沢が何度か一緒に飲みに来てるんですよね」
 駐日米国大使のお歴々は、インスタやツイッターで時々おすすめ飲食店などを紹介する投稿をしている。日本での暮らしを楽しみ、親しみを感じさせる努力をしているのが見受けられる。
「そうなのか? だからあそこにサインがあるなと思った」
 月島はカウンター端に設置してあるレジ横の壁を指さす。
「でも、大使なら外務省の担当じゃないのか?」
「外交は経済力と軍事力の合わせ技ですからね。少なくとも花沢はそういう考えです。外務省だけに任せる方が、世界の潮流からも外れたやり方でしょう」
 こうして尾形の話し振りを聞く限り、血の確執が無ければ花沢幸次郎の部下として尾形は有能なのではないか。月島はそんな風に受け止めたが、それを口にしたら天邪鬼になり反撃されるに違いない。だから月島は黙って焼き鳥を食べた。
 妙な間があく。ふたりしてこのまま黙々とビールを飲むためだけに、集まったのではない。月島が話を切り出した。
「聞いていいか」
「父と弟との関係ですか?」
「そうだ」
「実はオレは、父の息子じゃないんです。年の離れた兄弟なんですよ」
「……は? 花沢閣下と?」
「ええ」
 尾形は満面の笑みを月島に向ける。月島はビールジョッキを落としそうになった。すっかり言葉を失ってしまう。
「オレは実は花沢幸次郎の父の子供なんです。つまり勇作殿の祖父ですね。そのじじいと、四十も年の離れた後妻――これがオレの母ですが、その間に生まれたのがオレです」
「は? よんじゅう?」
 月島は目をむく。
「なんでも、じじいが七十歳の時に産まれたらしいです、ビックリでしょう。だから幸次郎とオレは……、えーっと三十歳違いの兄弟ですな」
「……言葉にならんな」
 自分の打ち明け話でもないのに、さっきから月島は汗が止まらない。
「フ、正直にどうぞ。事実は小説よりも奇なりです。だから、本当にじじいの子供なのかどうか疑わしい、と親戚一同思ったようです。自分でもあれが親父だなんて、にわかには信じられない」
「……あの、こう言っちゃなんだが、DNA鑑定はされなかったのか?」
「していません。じじいが生きている間はみんな気遣って言い出せなかったようです。でも本人が死んでしまったらできませんしね」
 尾形は一息つき、タバコを取り出す。火を点け一口吸った後に、こう続けた。
「オレとしちゃあ、鑑定してすっきりした方が良かったんですがね」
「そうだろうな……」
 月島もつられてタバコを吸い始める。
「こんな話、月島さんくらいしかできませんからね。今日はなんだか爽やかな気分ですよ」
 そう言って尾形はとびきりの笑顔になる。月島はそれとは対照的に、実に複雑な顔をしてしまった。
「むかし両親と勇作殿を殺した報いなんでしょうよ。厄介な出自がさらにこんがらがって、自分で自分の境遇を笑いましたよ。オレが一歳の時にじじいが他界し、それ以降は母方の祖父母と母と暮らしていました。母が別の男と再婚したので、祖父母が他界してから花沢家に引き取られましてね。だから、オレの本名は花沢百之助です。が、親戚の手前、祖父母の姓の尾形を名乗ってます」
 婆ちゃん子なのは昔と同じですよ、と素朴な振りをする。そこで月島にひとつ疑問が生じた。
「え? でも後妻ならもともと花沢姓じゃないのか?」
「それが親戚共が『後妻業じゃないか?』と警戒したらしいです。結婚した途端にじいさんがぽっくり逝って、財産ぜんぶ持っていかれたら困るってんで、入籍してないんですよ。実際、オレが産まれた翌年にじじいは心筋梗塞で倒れてますからね。だから事実婚です」
「あー、まあ芸能人でもそういう話は聞くな」
「そうそう、財産のあるやつは狙われます。……ところで、月島さんこそどうなんですか。クソ親父との縁は」
「オレの話か」
 唐突に自分に話を向けられて、月島は面食らう。
「気になるじゃないですか。親殺しの通過儀礼を終えた者同士、今晩は腹を割って話をしましょうよ」
 なおも尾形がうながすから、月島は観念した。
「……、父親は知らん。オレはずっと母と暮らしていた」
「そうなんだ。母親と会えて良かったじゃないですか。そしたら今生では父親とは会わないんでしょうね」
「……まあ、人間に生まれたとは限らないしな。前世がろくでもないから畜生にでもなったんだろうよ」
 月島が吐き捨てると尾形は異様に機嫌が良くなる。
「ハッ、そういうの聞きたかったんです。やっぱり月島さんと飲みに来てよかったな」
 そう言ってうまそうにビールを飲み干すので「オレの話は酒の肴か」と、月島は渋い顔をする。
「それはそうと月島さん、鹿児島市に科学博物館という施設がありましてね、小学生あたりが好きそうなやつなんですけど」
「それがどうしたんだ?」
 月島には尾形の話の先が見えない。
「そこに『生まれ変わりの確率』って展示物があるんですよ。CGで地球が描かれているスクリーンがあって、来訪者はスタートボタンを押すんですよ。地球がぐるぐる回り始めるんで、次にストップボタン押すんです。止まったときにポインターが指し示す場所にいる生き物に生まれ変わります、みたいな趣旨です」
「へえ、それやったことあるのか?」
「はい、昨年のリニューアルオープンのセレモニーに、花沢が来賓として呼ばれたんですよ。地元が選挙区なので。それで、その日にやってみたんですがね。何度やってもなかなか人間にすら生まれ変われない」
 お手上げだ、みたいに両手を上げ残念そうに小首を傾げる。
「ふ、そんなもんだろうな」
「ええ、やたらとアマゾンに生息する虫や、太平洋の魚になるんです」
「あー、広いしいろいろと生息しているだろうからな」
 尾形の意図が分からないから、月島は当たり障りのない相槌をうつ。
「で、ようやく人間に生まれた! と思ったら、半分の確率で中国人かインド人です。たとえ北米大陸をポインターが指し示していても、正確な位置がシリコンバレーだったらインド人になります」
「それは細かいな」
 月島は苦笑いする。
「日本人に生まれ変われる確率が、奇跡なんだなァと実感した次第です」
 なぜか尾形が晴れやかな笑顔を向けるから、月島は最大限に警戒する。いったい何が言いたいんだ?
 追加注文していたビールが運ばれてきたので、尾形は再びうまそう飲む。それを見て、月島も喉が渇いているのに気が付いた。
 同じ時代に同じ国に生まれるのは、きっと奇跡なんだろう。でもそれは逆に、始末をつけろと運命に言われているような気がしてくる。
 どうしても頭から離れない男のことを振り切るように、月島は別の話を始める。
「母や祖父母のいるお前を、昔は少しうらやんだ時もあった」
「は、そうだったんですか? それは初耳だ」
 尾形が大げさに驚いてみせる。
「今生ではオレにも母がいた。が、どこの誰が相手なのか分からんままオレをひとりで産んで、その後も男中心の生活でな。オレのことはかわいがってくれたんだが、何しろ生活能力がゼロで、働いてる姿は見たことがない」
「どうしてたんですか? 男から貢いでもらってたんですか? それとも生活保護?」
「どっちもだよ。五体満足だし生活費は男からもらっていたから、どうやって受給できたのか分からんがな。それで、オレが中学卒業したら、男と暮らすと言って、出て行ったよ」
「前よりは良くなったじゃないですか」
 尾形は月島に同情もしないし、見下すこともしない。その点は気が楽だった。
「……そうだな。いつもコンビニ弁当で掃除洗濯はほとんどしなかったけど、酒に溺れて暴力ふるうことはなかったな。それは感謝してるよ」
「コンビニあって良かったじゃないですか」
 月島は目を丸くして、直後に吹き出した。
「百年振りに会って言うことがそれかよ」
「で、その後に鶴見さんと会ったんですね」
「まあ、そうだな」
 昼間に働きながら定時制の高校に通い、夜間大学へ進んだ。その大学の客員教授として、一年間鶴見が講義をしていたのだ。
「で、鶴見さんがM総研から独立後に起業して、その会社に菊田さんや宇佐美がいるわけだ」
「そうだ」
「じゃあ、鶴見親衛隊で仲間はずれなのは、少尉殿とオレだけか」
 あ、谷垣もか、と小さくつぶやく。
「……うちに入りたかったのか?」
 尾形が自虐的な言い方をするので、月島は少し腹が立って同情する振りをした。
「月島さんのそういう気付かない振りした嫌味、けっこう好きですよ」
 尾形は鼻で笑い、タバコに火を点ける。
「ふん、お前が心にもないこと言うからだろう」
「少尉殿はまあ……、もともと中尉殿がたらし込まなければ、会うこともなかったんでしょうなァ」
 こいつもやはり、同じこと考えるんだな。月島もタバコを一本取り出して火を点けた。そうすれば会話を続けなくても不自然ではないからだった。
逃げだな。オレは今生でも、あの人と正面から向き合うことを、避けている。



平成二十九年三月。
「あっ、もう雨やんだんじゃない?」
「ホントだー」
 すぐ横にある駅ビルから出てきた女子高生たちが、明るくなった空を見上げて手をかざす。さっきまでのにわか雨が嘘みたいに晴れてきた。
 鯉登は上野で谷垣と待ち合わせをしていた。
 谷垣夫妻が子供をつれて上野動物園に行く予定だと連絡を受けたので、鯉登もそれに合流するつもりだった。相談とまではいかないが、聞いてほしいことがあったからだ。
鯉登はインカラマッのアドバイス通り、防衛大学校ではなく一般的な大学に入学した。来月から二年生だ。でも、本当にこれで良かったのか。「白っぽい何か」については未だに心当たりがないし、月島にも出逢える気配がない。
そわそわして当日の朝を迎えると、谷垣から電話があった。子供が突発性発疹になったらしい。だから上京は中止するのかと思ったら、谷垣だけやって来ると言う。
なぜだろう。もしかしたら谷垣の方から何か話があるのかもしれない。鯉登は考える。
「早かったな!」
 数メール先から張りのある声をかけてきたのは、谷垣だった。そして彼は一人じゃなかった。その隣にいる男を見た瞬間、鯉登は思わず抜刀して斬りかかってしまう衝動を抑えきれなかった。
「キエエエエエエ!」
 実際に持っていたのは軍刀ではなく傘だ。だから傘を渾身の力で振り下ろした。
「うおっ、ちょっと待てよ!」
 顔に大きな傷のある男は、素晴らしい反射神経でひらりと飛び退いた。空振った傘がアスファルトを叩く。
「いったい何なんだよ、この男は!」
 鯉登に怒りをぶつけるその男は、杉元佐一だった。



「谷垣と杉元とアシリパは知り合っていたのか」
 鯉登がカップから口を離して尋ねる。杉元はいま体育大学の三年生で、アシリパは高校二年生だという。
「ああ、二~三年くらい前かな? 初めて会ったの。今まで……えっと、何回会った?」
 杉元が谷垣に尋ねる。
「五回だ」
「五回」
 谷垣の答えを聞いて、杉元がそのまま口にする。
「繰り返さなくてもいいぞ。というか、杉元に記憶がないのは意外だな」
「あー、谷垣からも同じこと言われたな。だから刺したの覚えてなくて、ごめんね?」
 杉元はなぜか照れ臭そうにして、ポリポリと人差し指で頬をかく。
「貴様が殊勝な態度だと不気味だな」
 鯉登は嫌そうな顔をする。
「覚えている私たちの方が特殊だと思う。杉元が私のことを覚えていないと知って、私も最初はとても悲しかった。でも、それならまた一から始めたらいいんだ、と考え直した。少なくともマイナスじゃない」
 杉元の臨席に座るアシリパが、鯉登に説明する。
――ああ、また同じことを言うのか。鯉登は二年前のインカラマッの発言を思い出す。
「そういうものか?」
 鯉登が谷垣に尋ねる。
「うん、そうだな。言われてみれば、オレもアシリパと同じように感じた」
 谷垣が当時を振り返るように視線を上に向け、力強く答えた。
「明日子さんは覚えてるんだよね」
 杉元がアシリパに笑顔で話しかける。
「しっかりと覚えてるぞ。だからテレビで杉元を見た時に、まさかと思った」
 アシリパの顔の輝きが、その時の驚きと喜びを伝えた。
「テレビで?」
 鯉登がアシリパに尋ねる。
「杉元は大学一年生のとき、柔道の大会で優勝していたんだ。オール一本勝ちだった!」
「全日本ジュニア体重別選手権ね」
 杉元が付け加える。
「そうか、だから学校名が分かって会えたんだな」
 鯉登が納得すると「そうだ! 祖母と一緒にすぐに会いに行った」とアシリパが答えた。
「その時、杉元は前世の話をすぐに信じられたのか?」
 鯉登が疑問を口にする。
「ああ……、幼馴染がさ、昔一度だけ生まれ変わりの話をしてきたんだよね。オレは『ピンとこねえな』って返事したら、そいつはそれきり言わなくなったけど、明日子さんと会って腑に落ちたよ」
 鯉登はそこが気になっていた。もし再会したとして、月島が何も覚えていなかったら。せいぜい友達か仕事関係の知り合いか。もし年齢が大きく離れていたら、それすら無理なのだ。恋愛関係なんて、夢のまた夢ではないだろうか。
 ふと、結婚した谷垣とインカラマッが奇跡に思えてきた。
「ところで……、貴様らは付き合っているのか?」
 鯉登は杉元とアシリパに視線を向けると「まあ、なんていうか。まだなんだけど……」と、杉元が急に口ごもる。なんだか顔も赤い。
 するとアシリパが代わりに答えた。
「祖母や叔父から、私が高校を卒業したら交際を許可すると言われているんだ。でも、本当はもう付き合ってるも同然なんだがな。杉元のこういう律儀なところが私は好きだ」
「オレは明日子さんのそういう気風の良さが好きだよ」
 ふたりして顔を見合わせて微笑み合う。
「おい、私は惚気を見に来たんじゃないぞ」
 鯉登が眉根を寄せて杉元をにらむ。
「あーら、気が利かなくてごめんねぇ。ところで少尉殿には何かお悩みがあったんでちゅか〜?」
 杉元が得意げに赤ちゃん言葉で聞いてくるから、鯉登は鬼の形相で立ち上がり、再び傘を上段に構えた。店員と店内の客がみんな一斉に、鯉登たちのテーブルに注目した。会話が止み、水をうったように静まり返る。こちらをうかがい、連れにひそひそと耳打ちする客もいる。喧嘩に発展するのではないかと、店員は鯉登の一挙手一投足を緊張して見ている。だから谷垣は焦りながらも、周囲を見渡してこう提案した。
「オ、オレたちそろそろ出ようか?」
「そうだな!」
 アシリパが同調して席を立った。そして谷垣が鯉登をなだめすかし、アシリパが杉元を引きずって店を出た。すると店内の張り詰めた空気が緩くなり、客同士の会話が再び始まった。四人とも喫茶店を出ると、外はもう薄暗くなっていた。
「上野公園へ向かおう!」とアシリパが提案したので、四人で向かう。
「記憶が無くても昔と似たようなことを繰り返している……」
 はー、と谷垣が大きなため息をつく。樺太先遣隊を思い出したようで、ひとり最後尾で疲れをにじませていた。
 十分ほど歩くと歩道から公園の木々が見えてきた。園内に入るとライトアップされた噴水が見える。アシリパが「きれいだな」と喜んでいる姿に、杉元が目を細める。だから鯉登はひときわ孤独な気持ちが強まってしまった。三人が不忍池へ歩いて行くので、遅れないようについて行った。
「この辺りは東京にしては空が広い!」
 ベンチに腰かけたアシリパが感激している。
「なあ、もうすぐ桜さくんじゃねえ?」
 杉元は近くにある桜の木のつぼみを見て、三人に問いかけた。
「本当だな。東京だと春休み頃がお花見だろうが、今年は暖かいからな」
 谷垣が答える。
「そういえば杉元は都内に住んでいるのか?」
 鯉登が質問する。
「ああ、そうだけど」
「アシリパは?」
「私は北海道だ」
「では今日はどうしてここに来たんだ?」
「オープンキャンパスに行ってきたんだ」
 そう言って大学からもらった資料の束をバッグから見せた。
「そうか。来年、都内の大学を受験するのか」
「そうだ。そうすれば杉元とも近くなるからな」
「杉元と同じ大学か?」
「いや、私は教育学部を受けたいから、別の大学だ」
「明日子さん、学校の先生あってると思うよ」
 杉元が言うと、谷垣も「そうだな」と同調している。アシリパは「そうか?」と照れ笑いしている。
「鯉登もいま大学生か? どこに通っているんだ?」
 アシリパが尋ねた。
「T大だ」
「は? まじで?」
 杉元が驚いて目を見開く。それから直後に「あー、なんかこの辺ムカムカしてくるな。嫉妬とか羨望で思い出せるかもしれねえ」と悪態をつく。それで鯉登は「フン、思い出さなくともじゅうぶん昔のままだぞ」と鼻であしらう。
 会ってから一時間しか経ってないにも関わらず、みたび杉元と鯉登は険悪なムードになっている。谷垣が焦っていると、それを見咎めたアシリパが注意する。
「それはそうと、さっきの喫茶店では杉元の方が態度が悪かったぞ。鯉登はひとりで寂しいんだから、せめて私たちが元気づけてやらなければいけないだろう?」
 フォローになっているのかどうか判然としないアシリパの台詞を聞き、鯉登が表情を無くす。それに気付いた杉元が、鯉登をいたわりこう言った。
「明日子さん、それさらに傷をえぐってない?」
「ん?」
 アシリパが鯉登を見ると、すっかりうなだれてしまった。
「鯉登、大丈夫か? リスの脳みそとかは持っていないが、温かいお茶ならあるぞ。飲め」
 アシリパが先ほど自販機で買った緑茶を差し出す。
「……」
「寂しい時は我慢せずにちゃんと言った方がいいぞ。それとも自覚がなかったのか?」
 アシリパは心配そうに鯉登を見る。
「あの……、杉元、アシリパ」
 唐突に谷垣が会話に割って入ってきた。
「なに?」
「あの、少尉とふたりで話そうと思うんだが……」
 それを聞き、鯉登は虚を突かれて顔を上げた。
「あー、そうだな。もともと谷垣が少尉になんか用があって、こっちまで来たんだよね。じゃ、オレたちは帰るわ」
 杉元とアシリパはベンチから立ち上がった。
「悪いな。また連絡する」
 谷垣が申し訳なさそうな顔をした。
「ああ、またな谷垣。おい、鯉登! ひとりでうじうじするんじゃねえぞ」
 杉元とアシリパは駅の方に向かって行った。ふたりの姿が見えなくなるまで無言で見送り、そして近くに人がいないのを確かめて、谷垣は口を開いた。
「少尉は第七師団の誰かに会ったのか?」
「いや、谷垣一等卒以外には誰も会っていない」
「そうか……」
 谷垣はうつむいて考え込む。
「お前は他にも知ってそうな口振りだな?」
 鯉登が詰め寄ると、谷垣は気まずそうに口をつぐみ、目をそらす。
「どうした谷垣、すごい汗だぞ」
「あの……、少尉。実は、ある人から伝言を預かってきたんだ」
 鯉登の視線が鋭利になる。
「ある人? 誰だ」
「鶴見……中尉だ」
 谷垣の口から出た名前は、鯉登が一番聞きたくないその人だった。できれば避けたかった。しかし、あちらに何か言い分があるなら、自分も腹を決める時期が来たのだろう。鯉登は吹っ切れてこう言った。
「ふ、まさか貴様が鶴見中尉の使いをするとはな。私と知り合いだと、なぜ中尉殿は知っているのだ?」
「信じてくれないかもしれないが、オレとインカラマッは鶴見中尉が同じ時代に生まれていたことなんて、知らなかったんだ。先月、突然連絡がきた。本当に驚いた」
 谷垣の話は本当だろう。嘘をついても夫婦にメリットはないのだ。どちらかというと、自分たちの因縁に巻き込まれて気の毒に思える。
「私と同じように、インカラマッのブログを見たのかもしれないな。それで、鶴見中尉は何と言ってきた?」
「……月島には会うな、と」
 鯉登がすっと目を細める。まるでこの世ならざるものを見極めるために、そこに焦点を合わせるかのように。
「理由は聞いたか?」
「……鯉登に会えば、月島を取られるから私が困るんだ、と……」
 鯉登はそれを聞いた途端に怒りを爆発させた。
「取られるだと? 前世で月島を奪って行ったのは中尉だったではないか!」
「しょ、少尉……」
 谷垣は困惑して、そして彼らが百年前から抱え続けてきた怒りと悲しみと確執とが、一瞬で伝わり胸が苦しくなった。



 谷垣には帰ってもらった。ひとりでベンチに腰掛けて、ぼんやりと池を眺めていた。すぐに帰る気がしなかった。とぼとぼと力なく公園内を歩く。すると西郷隆盛像があった。
 明治の頃、鶴見中尉と初めて会った時に、西郷どんのお墓まで案内したのだったな。 ずっと騙されたままが幸せだったのだろうか。一度ならず考えたことだった。
だからと言って、ヒントを撒いた尾形が憎いかと言えば、そうではない。奴にも同情すべき面がある、と思っている。
 月島に対しても同様だった。ずっと騙していたのか、と責めて被害者ぶるのは簡単だ。でも鯉登には月島の立場もまた、理解できるのだ。自分にはそういう健全な精神があったからこそ、月島は自分を樺太で処分しなかったのだと思っている。
 だから、次は自分が、月島のひた走る地獄への道行きを変えてやれるのではないか。死神から目をつけられないように内に秘め、その機会をうかがっていた。
 しかし、月島の足元の轍は、鯉登の想像以上だった。
 鯉登は手のひらを見る。左の薬指の痣が、痛んだような気がした。

【サンプル】アンコンディショナル・ラブ

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