【サンプル】雪よ舞い散れ花となれ

しずよ

【サンプル】雪よ舞い散れ花となれ
  1. 一、初恋
  2. 二、かぐわしい日々
  3. 三、運命の蹉跌
  4. 四、うみにふるゆき

原作設定沿い、夕張~樺太までのお話です。軍曹が夕張の任務についている時から少尉との距離感がおかしくくなり、樺太での任務の間に絆されてくっつくお話です。半分がpixivからのWEB再録になります。連作短編ではなくすべてつながっている話です。
※カップリング等諸注意
月いご前提、鯉モブ女の絡み少々あり、原作には存在しない鯉登家使用人が少し出ます。

一、初恋

 二十七聯隊兵舎の下士官集会所で、ひときわ大きな声で自分を呼ぶ男がいる。鯉登だ。月島は少しうんざりしながら尋ねる。
「鯉登少尉殿、なぜ将校用ではなくこちらにいらっしゃるのですか?」
「今あっちには誰もいないのだ」
「はあ」
「だからここに来た」
 ひとりで静かに過ごす、という選択肢はないのか、と月島は不思議に思う。
「私に何か用ですか? というより、私が一時的に戻ることをご存じだったんですね」
「ああ、淀川中佐がまずいまずいと言いながら、青ざめていたからな」
 月島が夕張に赴いて約三週間が過ぎていた。
「近ごろ月島軍曹を見かけないようだが?」と、工兵第七から指摘され、自分ひとりではごまかしきれずに「帰って来いと誰か伝えに行け!」と、中佐が慌てていた、と鯉登は語る。
「あれは自分ひとりでは何も決められん男だ。まったく情けない」と、呆れた顔をして見せる。
「ところで、いま剝製屋のところには、二階堂ひとりか?」
「その点についてはご心配なく。前山をあちらに向かわせます」
「そうか」
「それで、私に何用でしょうか?」
「……」
 月島が話題を戻すと、鯉登は急に黙りこくる。
 しかも、鯉登が少し照れた顔でうつむくから、月島は気を利かせてこう言った。
「……あの、言いにくいなら場所を変えましょうか?」
「いや、大丈夫だ」
「そうですか」
「あのな……、私が食べるところを見ていてほしいのだ」
「は? あの、少尉殿、なぜ見なくてはならないのですか?」
「うむ、習慣だからな」
 その答えに月島は釈然としない。幼児なら理解できる。学生ならみな一斉に昼食の時間があるだろうから、級友と一緒に食べるだろう。
 問題はそれ以降だ。ずっと誰かに見守られながら食事をしてきたと言うのか? この聯隊内でも?
「何を考え込んでいるのだ、月島軍曹」
 はっと気がつくと、鯉登の顔が真横まで迫っていた。
「うおおおおっ!」
「キェェェェッ!」
 驚いて月島が叫ぶと、その声の大きさに鯉登までびっくりして叫んだ。
「こんな至近距離で叫ぶんじゃないバカタレ」
 鯉登が怒るが理不尽だと思った。そして集会所にいた他の下士官に睨まれてしまう。
「お騒がせして申し訳ありません」
 月島が謝罪する。自分の昼食は自室へ運んであるはずだ。しかし鯉登が一緒に食べるつもりで来たのなら、部屋に呼ばなくてはならない流れではないか。
「だから、一緒に食べようではないか。月島」
 鯉登が何やら喧嘩の後の仲直りでも提案するような顔をする。
「はあ」
 ここで将校用の集会所へ戻れと抗議して、再び騒々しくなるのも困るので、月島は自室で鯉登と昼食をとることにした。考えてみれば、一緒に食べること自体は別に嫌ではない。
 というか、『食べるところを見てくれ』ってなんだ。一緒に食べるのと何が違うんだ。
 解せないながらもふたり連れ立って、廊下を歩く。鯉登は自身の昼食である仕出し弁当を持っている。将校は昼は外で食べるか仕出しを取ることが多い。
 部屋に着いたら理由を聞いてみるか。前を歩く背中はどことなく弾んで見えた。
「ここが下士官用の部屋か。確か月島ひとりなのだろう?」
「そうです」
 軍曹は数人での相部屋が普通だが、月島の場合は鶴見のはからいで一人部屋に寝起きしている。相部屋の下士官に鶴見からの任務を悟られないようにするためだった。
 室内をざっと見渡した鯉登が言う。
「何もないな」
 良く言えば機能的、悪く言えば殺風景。それが月島の部屋だ。
 家族の写真を飾っている者が多いが、月島の部屋にはそれが無い。そして娯楽雑誌も読まなければ、将棋を指すこともない。
「こんなもんでしょう。それより、ここにはイスがひとつしかありませんので、近くの部屋から借りてきます。少尉殿はそのイスにお掛けください」
 そう言って月島は隣室へ向かった。隣室の下士官はちょうど昼食を終えたところだったので、一脚借りて自室へ戻った。すると鯉登は立ったままで待っていた。月島が机の反対側に借りてきたイスを置く。
「写真……、無いのだな」
 なぜだか寂しそうに言う。
「誰の写真ですか?」
「……。えっと、鶴見中尉殿とか……、飾らないのか?」
「それでしたら色褪せないように仕舞っております」
「そうか」
 鯉登はそっぽを向き、つまらなそうに相槌をうった。自分から聞いておいて、何なのだその態度は。月島は少し苦々しく思ってしまった。
 そこで会話が途切れてしまい、室内にどこか張りつめた空気が漂う。
 そこで、別に雑談するために来たのではない、と月島は思い直し「食べましょうか」と切り出した。すると「そうだな。時間もあまりない」と鯉登も応える。
 机を挟んでふたりは向かい合って座る。鯉登は手を合わせて「いただきます」と言う。すでに箸を持っていた月島は慌ててそれにならった。仮に、ひとりで食事をする際にも、律義に手を合わせるんだろうか? こういう時に、自分との育ちの差を見せつけられる。月島は胸の中がもやもやして、消化不良の気持ちが残る。まさか嫉妬や羨望でもあるのか。我ながらくだらない。考えてもしょうがないので、月島はもくもくと口を動かした。
「そういえば贋作の制作は進んでいるのか?」
「それが、あまりというか、ほとんど進んでいません」
「お前と二階堂がここを離れて三週間ほど経つよな? それで進捗はまだとは……」
「かなり神経質のようで、我々は臭いと言われたり、扉の開閉ひとつ取っても育ちが悪いと叱られます」
「は? その剥製職人からか?」
「そうです」
「職人だから感受性が鋭いのだろうな」
「そうでしょうね」
 月島は相槌をうったあとに、ふ、と小さく吹き出した。
「どうしたんだ?」
「いえ、繊細な芸術家なのに、二階堂との掛け合いがなかなか絶妙なんですよ。それを思い出してしまいました」
 鯉登は月島が笑うのを初めて見て、ひたすら驚く。その直後に、ふくれっ面になる。
「ふん、私のお守りから外れて良かったではないか」
「は?」
「……で、その熟練の剥製職人とやらは、その道何年なのだ?」
「さあ、いつから商売を始めたのか聞いていませんが、腕は確かですよ。年は少尉殿と同じくらいかと」
「そんなに若いのか?」
 鯉登は驚いた後、再び不機嫌になってしまった。いったい何なのだ、今日は。月島はますます訳が分からなくなった。釈然としないながらも「少尉殿、お茶のお代わりはいりませんか」などと話しかけたが、鯉登は適当な返事しかしなかった。
 妙な雰囲気になったし、今後はもう無いだろうと思っていたら、翌日も食事に誘われた。しかも鯉登は直接月島の部屋にやって来るようになったのである。
 そうして、一週間まいにち一緒に昼食をとって雑談していたら、鯉登のことに必然詳しくなってしまった。
 ロシア語はどうやって習得したのかと聞かれたので「ドフトエフスキーやトルストイなどの原文と翻訳を読みました。そうすれば言葉だけでなく、ロシア人の生活実体や価値観、近隣諸国との外交問題に関しても知識が得られると、鶴見中尉に教わったのです」と答えた。すると鯉登は目をきらきらと輝かせる。
「そうか、私も学生時代にロシア文学はいくらか読んだが、原文にはあたっていなかった。月島は原文の書籍をいま持っているのか?」
「はい、あちらの棚にあります」
 鯉登の背中側にある書棚を指し示す。
「借りていいか?」
「……あ、はい。どうぞお好きな本をお持ちください」
「何だその間は。お前やはり私のことを馬鹿だと思っているだろう?」
「ご、誤解です、少尉殿。見下げた態度に見えてしまったなら今後改めます。……その、努力家でいらっしゃると感心したのです」
 月島が正直な気持ちを述べると、今度は鯉登が目を見開く。
「月島に褒められると何だかむず痒いな」
 顔を赤らめる。そんなに珍しいことだっただろうか? ざっと振り返ってみるが、確かにすぐには思い浮かばない。いかん、できるだけ褒めて伸ばさければ。月島は心の中だけで反省して、でも鯉登が調子に乗らないように無表情に徹した。
 三日後、鯉登は借りた本を返しにきた。
「ロシア語は英語ともまた違って難解だ。なかなか読み進めるのに時間がかかる」と、しかめ面を作る。
「少尉殿は英語は堪能であらせられますか」
「昔から父上が教えてくれたから、英語なら多少は話せるのだが」
 そうだった、海軍には英会話が必須なのだ。こんなふうに鯉登には底の知れなさがあり、こういう時に月島は少し空恐ろしくなる。見誤らないようにしないと。
「月島は英語はできるのか?」
「私は英語はさっぱりです」
「そうなのか。では次は英語を学んではどうだ?」
「は、ロシア語が今より上達しましたら、考えてみます」
 こう答えると、なぜか鯉登はつまらなそうにする。
「ここは『ぜひ教えてください、少尉殿』と、かわいらしくおねだりをしてみる流れだろう?」
「は? かわ……?」
 何を言ってるんだこの上官は。月島は険しい表情になる。さっき抱えた畏怖の念を返してほしい。
 こんなふうに、ときどき言葉のすれ違いもあるが、生まれや年代や来し方、何ひとつとっても共通点の無い人物なのに、鯉登との会話は苦痛ではなかった。というより、様々な分野に関心を持つ鯉登を見直してみたり、次第に心待ちにしている自分があった。こんな心境の変化に月島は少し驚く。
 そしてこんなにたくさん雑談をしたのに、肝心の『食べるところを見てくれ』については聞きそびれてしまった。



 一週間後、月島は夕張の江渡貝剝製所へ戻った。予想通り、一週間では偽の刺青人皮は出来上がっていなかったが、別の物が完成していた。それは二階堂のヘッドギアである。
「軍曹、似合う?」
 二階堂がファッションショーよろしく様々なポーズをとって見せる。
――なんなのだ、これは。
 月島は唖然とし、贋作の進捗がまだまだである現実にうなだれた。
「あー、二階堂。淀川中佐が旭川に戻るようにおっしゃっていたぞ」
「えー、ここがいい!」
 予想通り反発されたので、月島は面倒くさくて無表情になる。
「……、旭川で杉元らしき人物の目撃情報があったそうだ」
 苦し紛れの嘘だったが、二階堂には劇薬だった。その後の夕張の任務には、月島と前山のふたりが当面つくことになった。
「軍曹殿、鯉登少尉殿と一緒に食事されてましたね」
 昼食の握り飯を頬張りつつ、前山が月島に話しかける。月島は飲んでいた茶を吹き出しそうになった。
「知ってたのか」
「はあ、ここに来る直前にお見かけしました。……あの、軍曹殿、だいじょうぶですか?」
 月島が大いに動揺しているので、不思議そうに心配している。
「時間の節約だ」
「節約ですか」
 前山は、訳がわかりません、と言いたげな表情である。月島が言うように時間の節約だけだったら、別に動揺することでもないのに、と考えているだろう。
 だから月島は、鯉登の風変わりな要求を話そうかどうか大いに迷った。こんなことは、本人の名誉のためにも胸に秘めておいた方がいいのかもしれない。しかし、この何とも言えない気持ちを誰かに分かってほしい、という欲求もあった。そして師団本部から離れている開放感もあったせいか、つい本音が出た。
「あのな、前山。ちょっと聞いてくれるか」
「はあ、何でしょうか。私で良ければ」
「これから話す内容は、誰にも言わないでほしいんだが」
「はい、承知しておりますよ。軍曹殿」
 前山は穏やかに微笑む。
 そして月島は前山に事の次第をぜんぶ話した。前山なら、きっとこの不可解な立場になってしまった自分に何か助言してくれるはずだ。そんな月島の期待をよそに、前山はニコニコ笑ってこんな話をし始めた。
「昔うちの実家で飼ってた猫を思い出しました」
「猫?」
「はい、私が子供の頃に飼っていた猫です。餌をあげてすぐにその場を離れると、私を呼びに来るんですよ。で、不思議に思って戻るんですが、まだ食べてないんです。私が猫に食べていいよ、と声をかけると、餌を食べ始めるんです。私が離れるとまた中断して追いかけてくるんです。で、また私がお皿の隣に戻る。すると猫も食べ始めるんです」
「……食べ終わるまでその場にいたのか」
 月島は驚く。
「そうです。食べている途中、何度かチラチラ上目遣いで、私がその場を離れないか確認するのが可愛いんですよね」
「その猫はずっと見られながら食べていたのか?」
「ええ、死ぬまでずっと続きました。私が子供だったから猫のご飯に付き合うこともできたけど、軍曹殿は忙しいからそんなこと言われたら、一緒に食べるしかなくなりますね」
「……だろう?」
 月島はようやく一言だけ返した。猫の食事を見守るのと一緒……と、月島はげんなりしたが、今のように鯉登から離れた任務をこなしている場合は息抜きできるし、そのうち飽きるだろう。
 前山は続ける。
「今はその猫の子供を飼ってるんです。その子もやっぱり飼い主に見てもらいながら食べてますよ」
「なぜだろう?」
「見守られていると安心するんでしょう。それと……飼い主への独占欲もあるのかなーと」
「独占欲」
「はい。……ああ、あくまで猫の話ですよ?」
 前山がなぜか申し訳なさそうな顔をする。だから月島は余計にいたたまれない気持ちになる。
「ああ、うん、分かっている……。ところで、今は誰が猫の面倒みてるんだ?」
「姪っ子です。弟の子供ですね。私より先に結婚したので。よろしければ、その猫を見に来ますか?」
 前山は尋ねる。
「あ……、オレが前山の家に?」
「そうです。軍曹殿は猫お好きなのかな? と思ってたんですけど」
 江渡貝の家に住み着いている前髪柄の猫を撫でたりしているのを、前山は目撃していたのだ。
「いや、オレは……」
 猫が好きか嫌いか、というよりも、月島は特定の誰かと親しく付き合ってはいけないと決めていた。そうやって自縄自縛しなければ、いつか鶴見から粛清を命じられた時に、自分が打ちのめされるからだ。
 土方歳三の話を鶴見から聞いていた。新撰組は攘夷志士を斬るより隊士の粛正の方が多かったという。それを知ったとき、暗澹たる気持ちになった。理想を胸に秘めて集まったはずなのに、時間が経つと組織は腐敗していくものなのだろうか、と。
「私の母も軍曹殿に挨拶したいと申しておりますし、ね?」
「……ん? ああ……」
 たまに前山は月島に対して押しが強い。上官に対する態度とは思えないほどに。そのきっかけが何なのか、月島は深く考えないようにしていた。が、月島を優先してくれているのは確かに感じていた。
 誰かの家に家族公認で遊びに行くなんて、おそらく生まれて初めてだ。
「いつにしましょうか?」
「あー、うん、そうだな……。この夕張での任務が終わってからになるだろうな」
「そうですね。ふたりが同じ日に非番じゃないと行けませんからね。江渡貝くん、例の物を早く作ってくれるといいですねぇ」
 鷹揚で丸っこい前山の側にいると、ふだん抱える矛盾や立場を忘れて落ち着いてくる。
 そういえば、前山はなぜ鶴見親衛隊に加わったんだろう?
 結束を固くするために、小樽の鶴見邸で時おり催される集会で、月島は前山を見た記憶がない。
 月島は鶴見に付き従う兵卒たちの理由は、だいたい知っている。自分の居場所の無い連中ばかりだ。家族仲の良さそうな、前山みたいな男はほぼいない。
 この男は、どうしてオレの隣にいるんだろう。



 二週間後、月島は旭川に戻った。江渡貝から偽の刺青人皮の柄の修正と追加案を出されたので、その図柄を持参したのだ。
 いわく「本物に書かれてある漢字とは微妙に違う字の刺青人皮を、二枚加えるのはどうかな? と思うんです。月島さん、今すぐ鶴見さんに聞いてください! 何なら僕も! 鶴見さんの家に! 連れてって!」と、大興奮する江渡貝を何とかなだめすかして、月島ひとりで帰営した。
 鶴見に報告して返答を待つ間、月島は着替えを取りに自室へ向かう。
「月島軍曹!」
 兵舎へ入る直前、離れた場所から呼ぶ声が耳に届く。見渡すと遠くで手を挙げているのは鯉登だった。練兵場での訓練を終えて司令塔へ戻るところだろう。鯉登は疾風のように駆けて来る。
「鯉登少尉殿、お久しぶりです」
 月島は敬礼する。
「月島ァ、またしばらくこちらにいるのか?」
 満面の笑みだ。
「いいえ、今日は火急の要件で参りました。早ければ今夜中に夕張へ戻ります」
「そんなに早くか?」
「はい、しかし鶴見中尉殿の返答次第なので、明日になるか明後日になるか、正確には決まっておりません」
 すると鯉登はわずかに考え込んで、こう切り出した。
「そうか。では夕食を一緒にどうだ?」
「夕食……ですか?」
「そうだ、今晩はお前の分は兵営では用意されてないだろう?」
「はい、私はいま軍務から離れていますので」
 夕張での任務ですっかり忘れていたが、ここでは鯉登と頻繁に昼食を共にしていたのだ。そして鯉登は営外に家を借りて暮らしているので、朝晩は自宅で女中の用意する食事をしている。
「月島の分も準備させよう。それとも鶴見中尉殿と会食の予定でもあるのか?」
「中尉殿との予定はありません。ですが突然押しかけて、一人分の食事を増やしてもらうのは迷惑ではありませんか?」
「ときどき母上が急に泊まりに来ることもあるから、その点については心配いらない」
「そうですか……」
 面倒くさい。というより、個人の領域に踏み込みたくないのだ。しかしそこで、前山の顔が思い浮かぶ。そうだ、猫を見に行く約束をしたんだった。前山の家には行くのに、鯉登の家に行かないのは公平ではない。
 月島はできるだけ公平に接しようと努めてしまう性質なのだ。どうしようと誰も咎めないのに。
 そして鯉登もまるで友達のような親しさで接してくるから、何とも言えない面映さを感じていた。年齢の近い前山ならば、まだ分かるのだが。
 こうして月島がしばらく考え込んでいる間も、鯉登は律義に返事を待っている。
――いつも人の言葉の裏を読むようなことはしない。素直なお人だ。
 それは月島には無い鯉登の特性で、そこに敬意を持っていた。
「……では、今晩ご自宅にお邪魔してもよろしいでしょうか?」
「ぜひそうしてくれ! 誘って良かった」
 今日だけなら、そう割り切って鯉登の家に行くことにした。
「月島はどんな献立が好みだ?」
「は、私は何でも食べられます」
「なんでも食べられることは知っている。その中で一番好きな物を聞いているのだ」
「……」
 好きな物はある。しかし北海道にはおそらく無い。この場合、何と答えたらいいのだろう。月島は考え込んでしまった。
「そんなに悩まなければいけないことか?」
 鯉登は心底不思議そうな顔をする。
「はあ、難しいです」
「そうか……。ではこちらで献立は考えるから、それでいいな?」
「はい、そのようにお取り計らいください」
「時間はどうする?」
「鶴見中尉の返答次第になります」
「だろうな。遅くなっても構わないから」
 そうして、兵舎へ戻る鯉登の背中を見送った。
 司令塔の鶴見の執務室に戻ると、鶴見はどこかに電話連絡してきたようだった。その電話の相手である有識者から、意見を聞きたいという。鶴見は机に広げた江渡貝作の図面を眺めたあと、顔を上げる。
「月島、明日の予定を伝えよう」
「はい」
「明日、私はこの図案を持って月寒へ出かけてくる。暗号解読研究の第一人者である大学教授が、いま札幌に滞在中だそうだ。その方に話をうかがい、夕刻には戻るつもりだ。だから月島は明日の午後五時に、再びここに来るように」
「は、承知いたしました」
「その時間までは羽を伸ばしていいぞ。ああ、それと二階堂がもらったヘッドギアだが、あれも大変に美しかった、と江渡貝くんに伝えてくれ」
 鶴見は目を細めた。
 月島は敬礼して退室する。明日の午後五時か……。今が午後七時だから、思いがけず約一日非番になった。兵舎を出て、鯉登の家へ向かった。



 あの辻を曲がれば少尉の住処のはずだ。
月島は道を曲がり二軒先を見る。低木の生け垣に囲われた、小さな庭のある平屋だ。垣根越しに建物を見ると、開いた窓から外を眺めている鯉登が見えた。物憂げな表情で遠くを見ている。それが珍しくて、月島はどきりとする。直後に鯉登も月島に気が付く。
「月島ァ!」
「遅くなり申し訳ありません」
 垣根越しに言葉を交した。
 玄関前に着くと、廊下を走る音が外にも聞こえた。ガラリと扉が開いた。
「よく来たな、月島!」
 鯉登が思い切り破顔するから、月島は再びどきりとした。そして初めて見る和装だった。いつも洋装しかしないのだと思っていたので、かなり新鮮に映った。
 そして後ろから夫婦と思しき老齢の男性と女性がやってきて、月島を出迎える。脱帽して挨拶をする月島に、鯉登が紹介する。
「家事や庭の手入れをやってもらっている西薗正二郎とチヨだ。うちとは先々代からの付き合いになる。チヨは私が生まれたときから世話をしてくれているから、父上の転任の時にも鹿児島からついてきてくれたんだ」
 続いて正二郎が月島に挨拶をする。
「いらっしゃいませ。何かございましたら私どもに仰せ付けください」
 チヨも挨拶をする。
「坊っちゃんがいつもお世話になっております」
 物腰の柔らかい夫妻に、月島は恐縮してこう返した。
「突然の訪問ご容赦ください」
訪問の挨拶が済んだところで、鯉登が口を開く。
「普通なら、私は旦那様と呼ばれるべきだと思うのだが、ふたりからはいつまでも子供扱いされている」
 眉根を寄せて不満そうにしている。坊っちゃんと呼ばれるのが恥ずかしいらしい。月島がぽそりとつぶやく。
「違和感ないと思いますが」
「は? 何か言ったか?」
 鯉登が睨み付けるが、よそ見をしてしらを切った。それから月島と鯉登は玄関から廊下を通って居間に移動した。
「ところで少尉殿、先程なにを見ていたのですか?」
「ああ、雲が気になったのでな」
 鯉登がカーテンをめくり窓を開ける。月島も側に行き、空を見上げた。厚く垂れ込めた雲がやたらと早く流れていく。上空は強く風が吹いているらしい。地上はひんやりした風が湿度を下げる。それは、雨の知らせだと月島は知っていた。故郷の日本海の海面を、雨雲を連れて吹く風を思い出す。
 ポツ、と大きな雨粒が月島の顔に当たった。するとザアッと一斉に降り始めた。鯉登は窓を閉める。
「雨が降る前に到着して良かったな」
「ええ、だいぶひどいですね」
 帰るまでにやむといいが、と月島は思う。雨を気にしている間に、甘辛い醤油の匂いが漂ってきた。月島は鯉登に促されてイスに腰掛ける。
 この部屋はもともと和室だった、と鯉登が説明する。士官学校に入る前に住んでいた家が洋館で、それに慣れ親しんだので入居前に居間だけ板張りに作り変えてもらった、とのことだった。
「食事の時はテーブルとイスに慣れてしまったものでな」
 そこでチヨと正二郎が配膳を始める。
「牛肉の時雨煮となすの煮びたしです」
 おかずの二品と白米に、豆腐とわかめの味噌汁、きゅうりと人参のぬか漬けだった。
「到着時刻が読めなかったから、作り置いて大丈夫な献立にしてもらった」と鯉登が言う。
「お心づかい痛み入ります。私はこんなご馳走はほとんど口にしたことがありません。牛肉を食べたのは、今までで一度だけです」
 月島はにこやかに感謝のことばを伝えた。
「そうなのか? チヨの時雨煮は絶品だぞ。ご飯が何杯もすすむ。月島にも食べてもらいと思っていたんだ」
 鯉登は眩しいほどの笑顔を向ける。そんな気遣いがあったなんて、月島は想像もできなかった。胸の奥に、ほのかな明かりが灯った気がした。
 ふたりは手を合わせて食べ始める。突然、窓越しにぴかりと光った。間髪入れずにガラガラガラガラと大きな音が鳴る。雷だ。轟音で家が少し揺れた。
「うわッ、落ちたか?」と鯉登が驚いて窓の方を見ると、月島は「かなり近いですね」と続ける。その後もゴロゴロと雷は鳴り続け、雨はしとどに降っている。
「そういえば、こんな話を聞いたのですが」
 月島が話題を変える。
「なんだ?」
「鹿児島では豚を歩く野菜と呼んでいるそうですね」
「ああ……、よく知ってるな」
 鯉登の顔がやや険しくなる。馬鹿にされると思ったのだろうか。
「やはり豚肉料理はよく召し上がるんですか?」
「そうだな。私はカツレツが好きだ」
「私は豚汁が好きです。兵営でもよく作られますが、私は入営するまで豚肉を食べたことがありませんでした」
 鯉登は少し驚いて「月島、たくさん食べるんだぞ」とチヨを呼んでお代わりを運ばせる。
 食というのは家庭環境の差が大きく出るな、と月島は思った。
 オレがろくな食事をしてこなかった、と鯉登少尉は感じ取ったに違いない。
 でもそれを悟られても構わない、と月島は思った。
 三十分ほどで食事を終える。月島は、兵営より豪華な食事をゆっくりと味わうことができたので、鯉登に感謝の意を表した。
「ごちそうさまでした。少尉殿、そろそろ兵舎へ戻ろうと思います」
「本当に帰るのか?」
 鯉登はそう言って席を立った。窓を開けると、ざあざあと強い雨音が聞こえる。いまだひさしが意味ないほどに雨脚が強く、降り込んで来るからすぐ窓を閉めた。
「雷は止んだが雨は変わらないではないか。せめて小雨になってから帰ったらどうだ? 明日は軍務はないのであろう?」
「そうなのですが……」
 渋る月島に鯉登がたたみかける。
「内風呂があるのだ。入っている間に止むかもしれないぞ?」
「内風呂……ですか……」
 月島はかなり強く心が揺れる。
 月島は本当に風呂が好きなのだな、と鯉登は感じた。月島の風呂好きは、歩兵二十七聯隊では有名だった。
「私はお前が来る前に入ったから、沸かし直してもらおう」
 正二郎を呼びに鯉登が部屋を出た。すぐに戻ってきて「十五分ほどで沸くそうだ」と告げる。その後に月島は、チヨから新しい手ぬぐいや寝間着を受け取った。
 月島が風呂からあがると、居間に鯉登はいなかった。しまった、長くつかりすぎてしまったか、と反省する。ふと居間の奥に続く部屋を見ると布団が敷かれていた。そこは座敷で、おそらく客間として使われているのだろう。床の間があり掛け軸がかけられ、花が生けられている。月島が布団の横で着替えを畳んでいると、チヨがやって来た。
「今晩はこちらでお休みください。坊っちゃんは寝室にいらっしゃいますので、お休みになられたかもしれません」
「重ね重ねありがとうございます。おやすみなさい」
「はい、おやすみなさいませ」
 床の間の横には、こじんまりとした仏間もあった。見上げると、長押の上には黒額入りの遺影がある。
 鯉登に似た凛々しい少壮の男性で、海軍の軍服姿である。この人が……。月島は仏前に正座した。この時間にろうそくに火を灯し、線香をあげるのはさすがに非常識だと思ったから、月島はそのままそっと手を合わせた。
 それから眠ろうと思い、布団に横になる。耳を澄ます。雨音が小さくなっていることに気が付く。部屋の障子を開けて確認すると、ほとんど降っていないようだった。
 月島はまた軍服に着替えて鯉登を探す。玄関近くの部屋は西薗夫妻の部屋だったので、奥の部屋へ向かう。おそらくそこが鯉登の居室だろう。静まり返った家の中を足音を立てないように歩く。
 扉の隙間から薄く明かりが漏れている。まだ起きているのだろうか? 呼びかけていいか迷っていると、ガラリと戸が開いた。月島は驚く。
「あ……、鯉登少尉殿、お休みでしたか? 申し訳ありません」
「いや、まだ起きてた」
 室内が薄暗いので良く分からないが、敷かれた布団が少し乱れている。布団に入ったのものの、眠れなかったのだろうか? とたん、室内からふわりとにおいがした。ああ、これは。月島は内心気まずくなる。
 吐精した後のにおいだ。思い至ると月島の方が恥ずかしくなってしまった。
「……あの、小雨になりましたので帰ろうかと思います」
 すぐに立ち去らなければ。月島が敬礼して辞するその瞬間。
「待て、月島。そんなに慌てて帰らずとも良いだろう?」
 鯉登に腕を掴まれる。
「いえ、これ以上お世話になるのは……」
「私が何をしていたか、気付いておるのであろう?」
 そう言って、挑むような眼で見てくる。
「……」
 月島がうつむいたので、鯉登は月島を強引に部屋に引き入れた。そして「私のことを軽蔑するか?」と怒ったように聞く。
「それはあり得ません」
「なぜだ?」
「男にとっては当然です」
「……そうなのか? 私は、結婚するまで色事は全て我慢するように教わってきた」
「……。それは、少尉殿のお家柄ですと致し方ないのかも知れません。資産目当ての女性がおりますから、騙されて不幸な結婚を防ぐためでしょう。しかし色事と自慰は違います」
「そうなのか? 私は言いつけを守れず罪悪感があったのに」
「ほとんどの男が経験していますので、軽蔑する者はおりません。それに逆に慣れてもらわないと困ります」
「どうしてだ?」
「戦地でそういう気分になっても女房はおりませんし、女を買うこともできません」
「……それもそうだな。今まで誰にも聞けなかったのだ……。ありがとう月島」
「恐縮です」
 妙な誤解が解けて良かった、と月島は胸をなでおろした。さあ、これで帰れる。それなのに、さっきから鯉登は腕を掴んだままで、離してくれない。
「あの、少尉殿」
 腕を離すように月島が言いかけると「月島」と真剣に見つめる鯉登がいた。
「見せてくれないだろうか?」
「……え? 何をですか?」
 嫌な予感がした。
「月島がしているのを見てみたい」
「何をおっしゃっているか、分かってます? まさか上官命令ではありませんよね?」
 月島は怒りとも呆れともつかぬ声で返す。
「いや、命令ではない」
 鯉登が視線を外して布団の横を見る。月島も目をやると、そこにはツルゲーネフの初恋が置いてあった。夕張に発つ前に月島が貸した、ロシア語の原文のものだ。
 恋愛小説に影響されたのか? しかしこんな際どい場面あったか? 月島は必死に内容を思い出す。
 そうしていると、鯉登の声が割り込んできた。
「……それとも、私が先にして見せたら、月島もしてくれるか?」
「だからそういう問題では……!」
 月島の意見を待たずに、鯉登は敷布団の上にあぐらをかく。寝間着の襟下を広げて太ももをあらわにした。
「やめなさい!」
 慌てる月島をも観察するように眺めながら、鯉登は褌をずらして性器をさらした。
 そこに右手を伸ばして竿の部分を柔くもむ。左手で陰嚢を揺らしながら、竿をゆっくりと上下に擦り始める。
「ん、……」
 すると、みるみるうちに張りつめて上向きになった。包皮に少し隠れていた亀頭がすべてあらわになる。擦る手の動きが次第に速くなる。先端にぷくりと丸い水の球が滲み出た。次の瞬間、そこから体液はたらり流れ落ちたから、鯉登は指で受け止めた。そして指に付いた体液を、竿に絡めるように擦り始めた。
「あっ、ああっ、……う、」
 先端からまた体液があふれだす。それを竿に塗りつける。それを何度か繰り返し、上下する手が激しくなってきた。苦しそうに眉根を寄せ、目は閉じて感じることに集中している。
「は、は、はあ、あっ、はあ……、んっ、月島……、ああ!」
 鯉登の吐息と喘ぎ声と性器をいじる音だけが、室内に響き渡る。
 実は、月島は他人の自慰行為を見るのは、初めてではなかった。陸軍監獄では同室の男が自慰に耽っていることは、特別珍しい状況ではなかった。最も、見せつける者はひとりもいなかったが。
 それでも月島は、その場に立ちすくんで動けなかった。鯉登から目が離せないでいた。その整った顔は快楽にゆがみ、右手だけ別の生き物のように激しく上下している。にちにちぐちゅぐちゅと響く水音で月島の耳は犯されそうなのに、嬌声の最中に切な気に「月島」と呼ぶから、まるで自分が鯉登の相手をしているように錯覚してしまう。
 拳の中にじっとりと汗がにじむ。目の前の男のことで頭の中がいっぱいになる。
 近づく絶頂に耐えているのか、鯉登の体がしだいに前に傾いていく。だから月島には鯉登の下半身が見えなくなる。最後まで見たいと思った。知らず畳にしゃがみこむ。すると顔を上げた鯉登と目が合い、ぐいと後頭部を左手で引き寄せられる。鯉登の顔が迫り視界がぼやける直前、口が開くのが見えた。噛まれるのかと思った。舌でべろりと上唇を舐められる。それからそれが無遠慮に月島の口の中に入り込み、歯列をなぞり舌を弄ばれた。唾液が月島の口の端から流れ落ちた。それに気が付いた鯉登が、唇を離して袖で拭った。
 そして鯉登は想像もつかないことを懇願した。
「月島、やはり私が思ったとおりだった……! お前が側にいると魔羅がいつにも増してガチガチだ。ほら、月島……、触ってくれ」
 一瞬戸惑ったが、もう何かも今さらだと観念した。月島が右手を差し出すと、鯉登が左手で導き、自らの亀頭を覆うように握らせた。
 初めて触れたそこは熱かった。月島が恐る恐る親指を動かすと、ぬるりと表面を滑る。その感触が指先にも気持ちが良かった。ぬるぬると滑るままにくびれや鈴口を触り続けると、鯉登がひときわ大きな声をあげる。
「んんっ……、つ、月島。そこは駄目だ。すぐに出る……! あ、あ、もう……」
 次の瞬間、鯉登が息を詰めたから、室内が静寂に包まれる。ううっ、という声と共に陰茎がびくびくとふるえて、月島の手のひらが濡れた。
 はあはあと荒い息が室内を満たす。月島が手を離すと、白の体液は少し糸を引き布団に落ちる。
「月島……、申し訳ない……。懐紙が刀掛けの隣の箱に入っているから、とりあえずそれで拭いてくれ」
 よく見ると布団の向こう側に刀掛けに置かれた軍刀があった。懐紙を取り出し、自分の手と布団の染みを拭く。
「でも、とても気持ちが良かった」
 鯉登は感嘆して抱きついてきた。ぐっと体重をかけられ月島は布団の上に押し倒される。
 年長者として月島は冷静に振る舞おうと努めているけれど、頭の芯が痺れて心が追いつかない。そして鯉登の台詞が繰り返し繰り返し幻聴のように聞こえる。
 やはり想像通りだった……、お前が側にいると魔羅が……、とても気持ちが良かった。
「どうして……」
 月島がぼそりとつぶやく。
「ん? 月島、今なんて?」
 鯉登が優しく聞き返す。
「……どうして、オレ……?」
 月島はこのときぼんやりしてしまって、関係とか体面とか抜け落ちていた。
「お前が夕張に赴き、私から離れてしまったからだと思う」
 月島の言わんとすることを察し、鯉登が答える。月島に覆い被さっていた鯉登は、隣にごろりと横たわり、理由を話し始めた。



 私は訳あって思春期の頃に荒れていた時期があり、学友がどこぞの女に惚れた晴れたと言うのも軽んじていたんだ。もともと色事に関して厳しく躾けられていたことも影響したのか、人を好きになるということがいまだによく分からない。
 それなのに月島が貸してくれたその恋愛小説を読んでいると、気持ちが不安定になってしょうがなかった。主人公の男は、交際してもいない女に翻弄され続けて、私まで一緒にどうしようもなく昂ぶり、そして落ち込んだ。

 この気持ちは何だ?
 私も失恋したのか?
 誰に?

「その時に月島の顔が思い浮かんだ。客観的に見れば、周囲の男たちを次々にたらしこむ人物像は、鶴見中尉殿に近いのだろう。……それなのになぜ、月島なんだろうな?」
 鯉登は質問しているのにどこか諦観した口調だ。
「……それは……、翻弄されているのは私の方ですよ」
 月島は静かに反論した。
「確かに、私はわがままを言って月島を振り回している自覚はある。でもな、私は月島の夕張での話を聞いたら、胸がざわついてしょうがなかったのだ。私のいない所で、部下や市井の者と楽しそうにしているお前が無神経に思えて……、寂しかった」
 そこで一旦、言葉を切ってこう続けた。
「だから、こうして私の自宅へ来てくれて、本当に嬉しかった」
 鯉登は少し困ったように笑った。
――だから、そんな風に胸の内をさらけ出されたら、非難できなくなるじゃないか。
 月島は、最後にはいつも鯉登を甘やかしてしまう癖があり、それは彼が強引なせいだと思っていた。が、本当の理由をようやく理解した。隠し事をせずにあけすけになられるのが、苦手なのだ。だって、自分も正直にならなければいけないじゃないか。
「月島の番だぞ」
「いえ、私は……」
「恥ずかしがるな。お前も興奮しているではないか」
 そう言って、鯉登は月島の下半身をするりと撫でた。
「ほら」
 悪戯っぽく笑う。わずかに兆しているのを見逃してはくれなかった。
 ああ、オレはなぜ興奮してしまったんだ。しかも、少尉がオレで欲情する姿を見てみたい、だなんて思ってしまって。
 鯉登は上半身を起こして、月島の襦袢を軍袴から引き出し、前釦を外した。すると下腹にある月島の大きな傷跡を見つけ、目を見開く。
「これはどうしたんだ?」
「……奉天で」
「もしかして、鶴見中尉殿を護って負った傷か?」
 兵卒たちの噂を聞いて、月島も重症を負ったと知っていたという。
「護りきれませんでしたが……」
「内蔵に損傷は無かったのか?」
 鯉登が手のひらでそっと傷を覆った。
「はい、おそらく。野戦病院で数日間は寝ていましたが、意外と早く動けるようになりました」
 鯉登は慈しむようにそこをさすった。
「……君の御盾と選ばれて、か」
 独り言のように鯉登がつぶやく。
「それは?」
「陸士の校歌だ」
「……そんな大層なものではありませんよ」
 月島にとっては楔か呪いみたいなものだ。傷を見るたびに、あの日の怒りと失意を何度も思い出す。これは、鶴見中尉が愚かなオレを縛り付けておくための手綱なんだ。
「そうやって卑下するな」
 鯉登がたしなめるけれど、返事はしなかった。
 しばらく好きにさせていたけれど、月島は体をよじった。
「鯉登少尉殿、その、これ以上は触らないでください」
 月島がそう言うので鯉登はぱっと手を離す。
「すまない、痛むのか?」
「いえ、痛くはありません。……その、傷自体は治癒後に厚くなったのですが、逆に傷周辺の皮膚がひきつれて薄くなったので……、敏感なんです」
 月島が恥ずかしそうに言いよどむ。聞いたとたんに鯉登は月島の褌をずらした。月島の性器は上向きになる。
 鯉登はつかの間それを見つめて、指で裏筋を舐めあげるようにしごき始めた。月島はぎゅっと目を瞑り、歯を食いしばる。
「横からだとやりにくい。月島、私のここに座れ」
 指差す場所は、鯉登の太ももだった。あぐらの上に背中を向けて座れと言う。月島は怯む。
「早くしろ」
 鯉登の方が焦っている。月島は渋々言われた通りにした。
 背中から腕が回され握られる。鯉登の手が熱い。先端から透明な液体が竿を伝って滴っていて、恥ずかしかった。これではオレが少尉に触ってもらうのを、かなり期待をしているみたいじゃないか。手を動かすとぐちゅぐちゅと音がした。
「ぬるぬるしている……。月島、気持ちいいか?」
 耳に直接息を吹き込む近さで言うから、その声に酔いそうになる。ふだんはよく通る声を密やかにしただけで、背徳的な行為をしている気になる。そして鯉登の手には月島には無いものがあった。剣だこだ。薬指と小指の付け根にあるそれが、時折くびれに当たる。すると息も詰まるような快感を生んだ。
「……ん、……ふ……」
 自分の手とはまるで違う。気持ちがいい。背中がしなる。月島は鯉登からもたらされる快楽に溺れないように、歯を食いしばる。全身に汗がにじむ。でも我慢がきかずに、腰が前後に揺れていた。
「ああっ……!」
 裏筋とくびれが交わるところを執拗に責められて、我慢していた声がもれた。月島は手のひらで口を覆った。オレがよがる声なんて、聞かせられるもんじゃない。息が苦しくて頭がぼうとする。目の前が白んで自分の鼓動が大きく聞こえる。
「……はあ、はあ、あぁ……、はあ……」
 どくどくと胸は早鐘を打つ。目元にはしぜんと涙がにじんでいた。くるしい、恥ずかしい、でも早く達したい。
「月島、達する時は教えてくれ」
 そう言うやいなや、追い込むための早さで手を上下する。耳の穴にも舌が差し入れられて、ぴちゃぴちゃと舐められる音がした。もう限界だった。
「少尉……、もう勘弁してください! これ以上は……!」
 月島の両足はガクガクと震えている。背中には汗が一筋流れた。亀頭冠がひときわ大きく膨らんだから「月島、我慢するな」と、鯉登がささやいた。
「……う、……ああっ!」
 背中をのけぞらせて月島は絶頂した。鯉登の手の中で二度、三度と弾けて、白濁がふたりの太ももを濡らした。今度は室内に月島の荒い呼吸が響き渡る。
 はあ、はあ、はあ、ああ……、オレはなんてことをしたんだ。月島は後悔した。振りほどく腕力はあるのだ。それなのに、鯉登にされるがままになることを選んでしまった。鯉登の何もかもに酔ってしまったようだった。ふと畳の上に転がる丸めた懐紙を見る。
 鯉登はまだ月島を離さない。耳を犯していた舌が首を這う。絶頂した後なのに、こんな愛撫をされるのも初めてだ。舌が通ったあとが、ひんやりとする。鯉登の手はゆるゆると月島の陰茎をしごいていた。中に残っていた精液がにじみ出て、腰が抜けそうになった。
 月島の肩に鯉登の髪がふわりとかかる。洗い髪の香りに気を取られていると、ぴりっと肩の後ろに弱い痛みが走る。肌を吸われたと分かった。自分では見えない部分に跡をつけるなんて。
 やめてください、とたしなめようとしたら、腕が回され後ろからぎゅっと抱きしめられる。不意に胸が高鳴った。
「……鯉登少尉殿」
 少し声がかすれてしまい、感じてしまったみたいで恥ずかしかった。
「月島、私のいないところで死ぬなよ」
 鯉登は、物語の中の人物と自分たちとを重ね合わせてしまい、思い違いをしているのかもしれない。だから「こんなことは間違っています」と突き放すべきなのに、頭と心と体がちぐはぐな自分に、月島は狼狽してしまう。
 鯉登にはみんなに祝福される人生を歩んでほしい、そう願う自分にハッとする。それこそが愛や情でなくて何と言うのか。
 返事をしない自分に焦れたのか、抱きしめる腕の力を鯉登が強くする。この息苦しさが嬉しいだなんて、これが恋じゃないなら何だと言うのだろう。

二、かぐわしい日々

「鯉登様、今日も楽しかったです。お誘いいただき、ありがとうございました。あの、次に会えるのは……」
 娘がはにかむ。
「一週間後だな、緊急の案件が何もなければ、だが」
 鯉登が答える。ふたりは小樽にある洋食屋にいた。鯉登の非番である日曜日に、昼食をとった後だった。ここは開店からわずか一ケ月だが、東京でしか食べられなかったエビフライが有名とあって、女性の口コミで瞬く間に評判が広がった店だった。
「はい、それは承知していますわ。ではいつものように、来週の日曜日の九時に」
 丁寧に一礼して、その先の門戸に小柄な背中が消える。
 女は小樽市内の郵便局の娘で、現在十六歳。女学校へ通うかたわら花嫁修業に励んでいるという。来年、卒業するはずだ。勉学の虫でもない限り、卒業までにはほとんどの学生が結婚していく。
 少女の背中を見送った後、鯉登音之進は鉄道で旭川へ帰る。午後三時の列車に乗ると、翌午前零時前に旭川に着く。
 このところ、非番のたびに彼女と会っていた。
「はァ……」
 営外の自宅へ帰ると、正二郎が心得たように風呂を沸かして待っていた。湯船の温かさのみがこのところの鯉登の癒やしだった。正二郎に関しては、深夜まで起きて待っているのが体力的に辛いのではないかと思っていた。だからひたすら感謝していた。
 そして朝からチヨがどことなく嬉しそうで、鯉登は申し訳なく感じる。すまないがそんなおめでたい話ではないのだ、チヨよ。
 部外者に報告できるはずもなく、黙ってやり過ごすしかない。
 白石が二十七聯隊に捕らえられ、杉元と尾形に奪還された後から、鯉登はとある任務を鶴見から仰せつかっていた。
「谷垣一等卒が夕張から小樽宛てに電報を送っていることが分かった。しかしアシリパの祖母は文字が読めないから、叔父宛てに偽名で届いている。今後も継続して電報が届く可能性が高い。しかし今回、電報の情報をもたらしてくれた草の者は、小樽から離脱するので今後は無理だ、と言ってきた。そこで鯉登少尉、お前の出番だ」
 芥子の花の人は、大げさなまでに優雅な振る舞いで鯉登の肩に手を置く。
「キエエ……!」
 短く猿叫を上げたかと思うと、そのままの姿勢で後ろに倒れかけた。隣にいた月島が支えた。ハッと我に返った鯉登は、月島の耳元でささやく。
「白石をとり逃した失態を埋め合わせるべく、誠心誠意がんばります、と言え月島」
 月島が鯉登の発言を忠実に繰り返す。するとそれを聞いた鶴見は、うん、うん、と納得のうなずきをする。
「では鯉登よ、小樽の郵便局の娘をたぶらかすんだ」
「た……」
 それは鯉登の想定外の任務だった。驚きのあまり言葉が出ない。
「その娘から電報の内容を教えてもらうんだ。どうだ? できるか?」
 できるか? と問われて、出来ませんと答えたら、きっと他の者に白羽の矢が立つだろう。そしてまた鶴見にがっかりされるのだ。それだけはどうしても避けたい。しかしこれまでに女をたぶらかした経験はないから、上手くできる確証もない。一瞬のうちに鯉登はさまざま苦悩したが、こう答えるしかなかった。
「……できます、と言え。月島」
「できます、とのことです」
 月島は抑揚なく伝える。
「これは鯉登だからこそ、できる任務だからな」
 鶴見はにっこりと笑って上機嫌だ。
 鯉登は、自分の容姿が一般より整っているという自覚はあった。だからこのような任務があてがわれたのだろう。鶴見の期待に応えたい気持ちは強い。
 しかし顔で得をするよりも悪目立ちしてしまい、面倒ごとになる事例の方が多かった。
 それはつまり、同性からのやっかみであったり、性的な対象とされることだった。郷里が同性愛の根強い地域だったから、人一倍興味を持たれた気がする。純情一途な告白だったらまだましで、見た目が派手だと交友関係も派手だと誤解される。それに尾ひれがついて、男だろうか女だろうが誰とでも寝る、などと軽んじられてきた。
 それは第七師団に任官した今もその傾向はある。
 しかし鯉登は郷中教育はほとんど受けていない。ほんの幼児の頃には御城の近くの私学へ通っていたのだが、兄を喪ってから行けなくなってしまった。だから四書や剣術や書道等、必要なことはすべて家族や本家の祖父母など、身内から教わった。
 あるいは、二十歳には結婚していた両親を見ると「女と接するな」という教えに疑問があったのかもしれない。
 それに引き換え月島は、鯉登が海軍将校の息子だとか鹿児島出身だとか、自分で選びようもない出自に関して、一切の先入観なしに公平に厳しくあるのが好ましかった。なんの掛け値なしに自分を見てくれるのは、運命の人である鶴見以外には月島だけだった。
 逆に初対面からしばらくは、月島を色眼鏡で見ていた自分に気が付き、大いに反省したものだった。
同郷だか知らないが、どこの馬の骨とも分からない小男になぜ右腕が務まるのか、と。
 自分が一等嫌っていたことをしていたなんて、本当に未熟だと恥じた。今となっては鶴見中尉の審美眼は本物だと感心する。
 ふと自分の隣に座る男の横顔を見る。
 あの夜、月島はなぜ私の誘惑に乗ったのだろう。あれ以降、特別な関係をにおわせる言動は一切ない。夢だったのではないかと思うほどだ。こうして鯉登に異性を誘惑する任務が下ったのに、顔色ひとつ変えない。胸の奥が、重たい鉛玉を埋め込まれたように鈍く痛む。
 月島は私の何に絆されたのだろう。

(略)

 師団が網走へ向かう好機を教えてもらった代わりに、今後の電報情報は得られなくなった。鶴見は悔しそうに爪を噛む。
「谷垣一等卒が電報を打ったのはいつだ?」
「は、それは約十日前だそうです」
「十日か……。もう少し早く知りたかったな。月島、鯉登は少々初心すぎるようなので、そのうち遊郭でも連れて行ってあげなさい。そうしたら潜入捜査でも、もっとうまくやれるようになるだろう」
「……は、承知いたしました」
「月島は明日、旭川へ戻りなさい。そして淀川中佐へ災害派遣計画書を提出するように。私がこれから計画書と参加者名簿を書くから、月島は派遣の根拠となる法令・条例等を調べておきなさい」
「はい」
「大湊の鯉登少将へ連絡後に正式決定だが、おそらく七日後には小樽を出発するだろう。名簿の兵卒には月島が準備を伝えるように」
「は」
「いよいよだな」
「はい」
 鶴見は期待に満ち溢れた目をする。そして、のっぺらぼうと対峙できる日を想像したのか、鶴見の額からは汁がどろりと垂れてきた。
「よし、我々も網走へ向かおうか」



 小樽から海軍の駆逐艦で網走へ向かう。途中、根室に寄港し宇佐美と合流した。宇佐美は門倉から間者だと見破られ、逃走してきたのだった。
 鯉登は寄港先で上陸すると体調が持ち直したが、再び乗船するとたちまち酔ってしまった。なのでハンモックにおとなしく収まっている。そこに宇佐美が通りがかり、聞こえよがしにこんなことを話し始める。
「いくら陸に来たって我が国は島国なんだから、本土決戦じゃなきゃ船で大陸まで出征しないといけないじゃないですか。そこまで頭が回らなかったんですかね〜」
 しかし宇佐美も日露帰還兵なので、鯉登は何も言い返せなくて悔しがるしかない。
 なぜこんな嫌味を言われなければならないのだ。鯉登がつらつら考えていると、鶴見による頬の落書きがうらやましくて、潜入捜査失敗を馬鹿にしたのが原因のようだった。
「それはそうと、少尉殿は栗の花の蜂蜜って食べたことあります?」
 船酔いで吐きそうな人間に食べ物の話をするな! と睨む。どうにか胃液を押さえ込み、平気そうな顔をする。
「なんだ急に。食べたことはない」
「ぜひ食べてみてほしいな~なんて思うんですけど」
「なぜだ」
「少尉殿は栗の花のにおいを嗅いだ事ありますか~? あれイカ臭いんですよね。だから、栗の花の蜜って精液の味がするって言う人がいて。それが本当かどうかボク知りたいんですよォ」
 無邪気をよそおい宇佐美が鯉登にかまをかける。しかし、鯉登はその手の嫌がらせは何度か経験があった。
「仮に私がその蜂蜜を食べたところで、味比べできる訳がないではないか」
「あれっ? そうでしたか。少尉殿は鹿児島のご出身だから、てっきり下半身の蜜の味も知ってるのかと思ってました〜」
 まったく下品な男め! 鯉登は宇佐美をにらむ。
「下半身の蜜? それなあに?」
 隣のハンモックで楽しそうにゴロゴロしていた二階堂が無邪気に聞く。
「楽しそうで何よりだな」
 にこやかに笑いながらやって来たのは、鶴見だった。
「宇佐美! 口を慎め!」
 鶴見に従い入室してきた月島が怒鳴る。
「そういえば私は頭から蜜が滴るな。どうだ二階堂、甘いか試してみるか?」
「えー、中尉のそれ蜂蜜だったんだ! でも苦そう!」
 二階堂はしかめ面をして首をすくめる。
「つ、鶴見中尉殿、私が試したいです」
 上気した顔の宇佐美がわめく。いつもなら鯉登も張り合うのに、今だけは飲食物の話題には関わりたくない様子だ。
 しかし艦内の誰も彼もがどこかしら浮かれていて、もしかして出兵前夜とはこんな感じなのかと鯉登は考えていた。

(略)

三、運命の蹉跌

先遣隊がアシリパを見つけて帰る途中、豊原で二週間過ごしたその最終日。
ここに着く前に、月島は鶴見と何度か電報のやり取りをしていた。その際に「アシリパ シライシ カクホ」と両名が無事であると知らせた。というのも、以前第七師団が白石を捕らえた時には「利用価値があるから殺すな」と鶴見は言い渡していたからだ。今回、樺太ではキロランケ・尾形・ソフィアと同行していたのである。刺青の何かしらの鍵を聞いている可能性がある。
 それなのに鶴見からの返答は、白石は保護の必要無し、だった。しかも駆逐艦への搭乗人数にも入っていないことを伝えてきた。
 白石は樺太に置いていく、というのか。
 なぜだ。月島は自分の判断が鶴見の思惑とズレがあることに困惑し、唇を噛んだ。本当に白石を放逐していいのか。そしてその判断に、素直に従えない自分に苛ついた。
 一体いつから、鶴見中尉の命令に違和感を持ち始めたのだろうか。
 月島は宿まで力なく歩きながら、記憶を反芻する。夕張の炭鉱爆発後、命からがら小樽の鶴見へ偽の刺青人皮を届けた日も、実は月島の胸には例えようもない気持ちが渦巻いていたのである。
 江渡貝の最期を伝えようとして、鶴見に遮られてしまった。鶴見は彼を切り捨てたのだ。呆然としてその直後、全身を巡る血がドロドロに濁ってしまった錯覚をした。
鶴見の自宅を出て、どうやって兵舎に戻ってきたのか記憶が無い。
 本来、金塊争奪戦とは無関係の江渡貝を死に追いやったのに、弔う気持ちすら無いと言うのか。戦友のためにクーデターを引き起こす決意をしたはずなのに、戦友とも言える江渡貝に無関心なのは、矛盾しないのだろうか。
――鶴見中尉殿は、いつの間にか変わってしまった。
 いや、こんな考えはおこがましい。変わってしまったのはオレ自身か。



「あれえ、軍曹。こんな所で何してんの? 鯉登ちゃんは一緒じゃないの?」
 間が悪いことに白石に遭遇する。こんなくさくさした気持ちを抱えている時に、誰にも会いたくなかったのに。しかしそれには瞬時に蓋をして、顔にはいつもの鉄面皮を貼り付ける。
「この時間だから鯉登少尉は昼飯だろう。それよりオレたちは常に一緒に行動している訳じゃない」
「そうだっけ? いつも一緒にいる印象だけど。それよりさ、首の怪我まだ治ってないでしょ? 病院には行った?」
「いや、行ってないが。それがどうしたんだ」
「なんかまだ顔色よくないよ? 一度きちんと診察してもらった方がいいんじゃない?」
 白石がなぜそんなに熱心に診察をすすめるのか気にはなったが、首の傷はようやくふさがったばかりで、消毒が足りなかったせいか時々じくじく痛む。そして立ちくらみがまだ治らない。
「そうだな。明日、北海道へ帰ったら……」
「あっちの通りに大きめの病院があったぜ。今から行けば午後一番に診てもらえるはずだよ。オレが付き添うからさ」
 白石は片目を瞑ってしたり顔。右手を拳銃を模した指にして、月島を打ち抜く真似をする。バーン!
「……」
 ここで「ウッ、やられた……」などと言って倒れる真似をしてやる程、ノリが良いわけでも白石と親しいわけでもない。しかし岩息舞治のようにすでに樺太へ渡ってきている刺青の囚人が他にいないとも限らないので、情報収集も兼ねて行ってみることにした。
 白石の言うように、午後の診察の始まる前だったから、十分ほど待つとすぐに月島は診察室へ呼ばれた。首の怪我を見ると医者は驚く。
「あらあ……、この怪我でよく持ち直しましたね。だいぶ出血したでしょ? 普通はねェ、失血性のショックで意識消失して、そのままお亡くなりになりますよ」
「不死身は杉元だけじゃなかったんだ〜」
 白石は苦笑いをする。しかし多少脱水があるのと血圧が低いとの所見から、点滴することになった。処置室で寝台に横たわると、月島は「点滴が終わるのに二時間かかるそうだ。先に帰っていいぞ」と言う。
「そう? でも二時間後に鯉登ちゃんを迎えに来させるのもアレだから、終わるまで待ってるよ」
 別に迎えは必要ないのに、何を言ってるんだこの男は。月島が妙な気持ちで見やると、白石は廊下を見渡したり隣の診察室をのぞいたりしている。挙動不審だ。すると隣の第二処置室との間仕切りから、看護婦がひとり入ってきた。看護婦は白石を見るなり、ヒィッと小さく声を上げる。そしてしかめ面になり「今日はもう来ないと思ってたわー」と困惑顔をする。
「ああ、やっと会えましたね! あなたと僕は何度でも出会う運命なのです!」と真剣に口説き始めた。勢い余って看護婦の手を握ろうとすると「消毒していない手で触らないでくださいね」と、ひきつった笑顔で手を背中に隠されていた。
 そうか、これが目当てだったのか……。月島は無表情になった。どうやら白石は豊原に着いてから約二週間、連日この看護婦に会うために通院しているらしかった。足を狙撃されていた白石に初めこそ同情的だった彼女も、今ではすっかり迷惑そうな対応だ。
 看護婦は白石のことは無視して、てきぱきと月島の腕に点滴を入れ処置室から出て行った。それでも白石はめげずに「また会おうね~」と廊下に向かって手を振る。
 ドアを閉めるとデレデレした顔が元に戻った。寝台の隣にイスを持ってきて腰掛ける。
「ねえねえ、軍曹。聞きたかったことがあるんだけど」
「なんだ、言ってみろ」
 月島が返事をすると「良かった、鯉登ちゃんのいない所で聞きたかったんだよね~。オレさ、第七師団に一度捕まったでしょ? あの時なんで殺されなかったの?」
「……」
 どこまで話していいか、月島が逡巡していると「まあ知ってても教えないよねェ。オレたちホントは敵同士だし」と少し拗ねたように言う。アシリパから刺青の鍵を聞き出すまでは、彼らの協力が必要なので、月島はできるだけ話してやることにした。
「……鶴見中尉が、白石にはまだ利用価値があるとおっしゃっていた」
「えー、利用価値って何させる気だったのかよ。ひょっとして第七師団もオレをスパイにするつもりだった? それとも顔見知りがいるからって囚人発見機扱い?」
 白石は眉をひそめて口をとがらせて、不満そうな顔だ。月島はそれには答えないで、逆に質問をした。
「第七師団も、とはどういうことだ? 土方歳三からも利用されていたのか?」
「あ」
 余計なことを話してしまった、と言いたげな困り顔。笑ってごまかそうとしているが、冷や汗が一筋流れるのを隠しきれなかった。
「情報を土方に密告していたのか? それを杉元たちは知っているのか?」
「いやあ、敵と内通してた奴を杉元が信頼する訳ないじゃん? 一度裏切った奴はまた裏切るんだぜ? 利用されてる振りして逆に奴らを利用したんだよ。オレは常に俯瞰から状況判断してるから、こういう芸当ができるって寸法さ」
 白石は得意満面である。
 情報をたくさん持つと、俯瞰することができる。それは鶴見の言葉だ。
 豊原でも白石は昼も夜もふらふらと単独行動している様子だったが、なるほど探索だとすると侮れない。
「ほう。では尾形がなぜ土方と組んだのか知らないか?」
「ああ……、それはちょっと聞いてねェけど……」
 白石はうつむき、急にしおらしくなった。尾形の名前を聞いて、キロランケを思い浮かべたんだろう。北海道で尾形と共に行動したりそれを追っていた事は、もはや数年前に過ぎ去った過去のように遠いがする。追う側も追われる側も、樺太での出来事はそれほどまでに濃密な日々だった。
「奴が土方たちと組んだいきさつは知らねエけど……。あいつさァ、金塊が目当てだとアシリパちゃんに話してたみたいなんだよ。だけどそれ本当かなァ……。なんかそうは思えないんだよなァ」
 キロランケのことを真面目すぎたのだと泣いた観察眼の持ち主だから、おそらく間違ってないのだろう。
「鶴見中尉は、尾形は中央とつながっていると予想されていたが、結局それも外れた」
「尾形ってよく分からない奴だよねェ。第七師団の中ではどうだったの?」
「ああ、まあ……、あの性格だから、敵も多かったと思う。鯉登少尉も良くは思っていなかった」
「あ、でしょ~、そうだと思った! 飛行船では鯉登ちゃんのこと馬鹿にしてたもんね。だからお互い嫌ってるって思ってたー!」
 わが意を得たり、という顔で納得している。飛行船でそんな悶着があったのか、と月島は少し頭が痛くなった。
「でもオレは鯉登ちゃんのこと嫌いじゃないよ。分かりやすいしさ」
「まあ、確かにそうだな。杉元と似たような面がある」
「だよね。ああいう風に他人のことなのに本気で怒って戦ってくれたら、オレだったら一生ついていくって思っちゃうなァ」
 白石が思い浮かべている情景は、鯉登がキロランケと戦った時のことだろう。あの時、倒れてすぐに起き上がれなかった自分と、目が合った瞬間の鯉登の表情は忘れられない。そして激昂する背中を追えなかった悔しさとが、月島の胸中でない交ぜになる。
「杉元のことも最初は一匹狼だと思ったけど、尾形と比べたら全然違うし。オレも……いや、こんな話は余計だな」
 白石は恥ずかしそうに笑いながら後頭部をかく。
「オレも、何だ? 気になるじゃないか」
 月島は続きを話すように促した。
「……オレはさ、十代の頃からほとんど監獄で過ごしたんだよ。周りみんな犯罪者じゃん? だから他人なんて誰も信じない、金さえあればいいと思って生きてきた。アイヌの金塊もそりゃ魅力的だけど、追ってるやつらがヤベー奴らばかりだろ? だから分け前なんてどうでもよくなって、とんずらしようと思ったわけ。それがさ、あいつ――杉元はアシリパちゃん第一でさ、護衛を頼むんだよ。よりにもよってオレなんかに。あんなに信頼されたらどうしても放っておけなくてさー……。これも杉元から影響されたのかなーなんて」
 一匹狼気取ってた奴になつかれるなんて、オレも焼きが回ったもんだよ。そんな風に自嘲して、白石は照れくさそうにした。少し鼻をすする。
 そんな白石を月島は冷静に見つめる。一緒にいたから影響された、だと?
 月島は数ヶ月前の記憶を手繰り寄せる。夕張で鶴見に感じた例えようもない気持ちとその原因。それは月島が鯉登に影響を受けたから、わき出た感情なのではないだろうか。暑苦しいくらいに真っ直ぐな上官の顔が思い浮かぶ。
「ああ、だからオレは、怒りを……」
 放心したように月島がつぶやく。
「え? 軍曹なんか言った?」
「すまん、なんでもない」
 その後も白石は友情や恋や博打とか、収監中の話を続けていたようだったが、月島にはあまり届かなかった。生返事を繰り返していると「軍曹、ひょっとして疲れちゃった?」と顔を覗き込んでくる。
「いや、少し眠くなっただけだ。薬のせいだろう」
 月島は点滴液の入る袋を見上げる。
「あのさ、キロちゃんと鶴見中尉ってなんとなく似てるよね?」
「そう……か?」
 月島はキロランケのことをあまり知らない。鶴見からもたらされた情報だけだ。でも言われてみれば、彼らの立ち位置――パルチザンも軍事クーデターの主導も、規模の違いだけで時の政権転覆という目的は一緒だ。
「一理あるな」
「でしょ? いまオレすごい発見したよね?」
 白石は目を輝かせる。
「それなら土方はどうだ? 金塊争奪戦に加わっているのは、大体似たような目的じゃないのか」
「あ、確かにそうかも。軍曹あたまいい~」
 両の人差し指で月島を差し、ご機嫌になる。
 月島は思う。杉元のように金塊の分け前が欲しい人間の方が、理解しやすい。だから先遣隊のような提案をしても、協力し合えることもできる。
 それに比べて、理想や道理というものはつくづく厄介だと思った。のっぺらぼうと土方歳三は、網走監獄でどのような話をしたのだろうか。月島はそこがずっと気になっている。



 月島が病院にいる時間帯、鯉登がアシリパと杉元の監視をしていた。
 ふたりはシネマトグラフを上映した芝居小屋にもう一度来ていて、その前でしばらく立ち話をしていた。そのあと狩りに出かけるのかと思ったら、杉元はアシリパを置いて先へと走って行った。
「あっ、二手に別れおった!」
 思わず杉元を追おうと裏道を走り始める。いや、違う。ちょっと待て。足に急ブレーキをかける。重要なのはアシリパだ。
 鯉登は先程の辻に慌てて戻ろうとして、その場所からアシリパが忽然と消えているのに気が付いた。
「しまった、見失ったか……」
「鯉登! お前もこれから食事か?」
 背後から声がした。振り返るとアシリパだった。気配がないことに空恐ろしくなったが、鯉登はひとまず安堵する。そしてぐうぜん通りかかった風を装い「杉元は一緒じゃないのか?」と尋ねる。
「あっちにオソマを買いに行った」
 三間先にある商店を指差す。
「オソマ?」
「なんだ鯉登、知らないのか? うんこだ」
「う……、いやそんなもの売ってるわけないではないか!」
 大人をからかうものではない! と、少女相手にも鯉登はいちいち真剣に怒ってみせる。それからアシリパの指さす方向に目を凝らすと、その店の看板には「味噌・醤油・麹」と書いてある。大豆の発酵食品を取り扱う店らしい。
「アイヌでは味噌をオソマと呼ぶのか?」
「オソマはオソマだ。味噌というものはアイヌは作らない」
「そうか。ではしょう油もないのか?」
「それはオソマの仲間か? 同じ店で売ってるらしいな」
「ああ、仲間であるが……その、う……は止めんか。婦女子がはしたないぞ」
 鯉登は伏し目がちになり、何やら言いにくそうに注意する。
「う?」
 アシリパはニヤニヤして鯉登の顔を覗き込む。鯉登の頬は、ほんのり赤みを帯びている。
「コイト〜、オマエひょっとしてうんこが言えないのか?」
「だからはしたないと言っておるだろう! 止めんか!」
「てめえアシリパさんになに注文つけてんだよ」
 後ろから急に声がした。ひときわ冷たい風がまとわりつく。殺気。しまった、背後を取られた。軍刀に手をかけ瞬時に身を翻すと杉元が般若のような面相で立っていた。
「杉元! オソマ買えたか?」
 アシリパの顔がぱっと明るくなる。
「だからオソマじゃないってば」
 杉元は鯉登に対するのとは一転して、柔らかな口調に早変わりした。
「杉元、鯉登はうんこが言えないらしいぞ! はしたないと怒られてしまった」
「ハア? じゃあうんこ行く時なんて言うんだよ。困るだろうが」
 杉元が鯉登をにらむ。するとアシリパが杉元を見て、フフフと微笑む。不思議に感じた杉元はアシリパに聞いた。
「なんで笑ってるのォ? アシリパさん」
「杉元だって小樽では私に注意してたぞ。『オソマ行く』じゃなくて『お手洗い』って言いなねって。もう忘れたのか?」
 ずいぶんと私に似てきたな、いい傾向だ、とアシリパはニコニコと笑っている。
「あっ、そうだっけ?」
 杉元もそのやり取りを思い出した様子だ。そうして二人して微笑み合う。
 なんだこの二人の関係は。アシリパに屈託のない笑顔をみせる杉元のことが、鯉登はよく分からなくなっていた。学友でもないのにまるで親しい女子同士のような和やかさだ。それなのに、先ほど鯉登を睨みつける様はお頭の令嬢を護衛する極道のようでもあった。ましてや、親子でも恋仲でもなく戦友でもなく。
――年の離れた兄妹、というのが一番近いか。
 その考えに行き当たると、鯉登は胸が苦しくなった。きっと杉元はアシリパのことが大事で可愛くて仕方がないのだろう。
――兄さぁ。
 路面がゆらゆら揺れているような気がする。ぐらりと体が傾き、倒れないように踏ん張った。揺れが気のせいなのは百も承知だ。しかし脂汗が流れ、胃から酸っぱいものが込み上げてくる。手のひらで口を覆う。
 ここは地面だ、海ではない。そう言い聞かせてもすぐには気持ちを変えられそうになかった。胃液を必死に飲み込む。
「鯉登、どうした。急に顔色が悪くなったぞ。大丈夫か?」
 宿に帰った方がいいのではないか? と、アシリパが心配そうにする。
「……軍曹呼んでこようか?」
 杉元も真面目な顔で尋ねてくる。
「結構だ。ひとりで戻れる」
 そう言い残して宿に帰った。私は、監視ひとつも満足に遂行できないのか。また月島に呆れられてしまうな。鯉登はため息をついた。
 豊原に到着して第一日目、今から十三日前の出来事を、鯉登は宿に戻る道すがら思い返していた。それはアシリパの監視方法について、月島からの提案であった。
「ひとりが約六時間監視をして交代する。交代後、もうひとりは必ず宿で待機。もし食事等で外出していたら、宿の従業員に言付ける。そして、もしアシリパに何かあれば、監視者は迅速に宿に戻ること」と。
「せっかく監視を交代したのにずっと宿で待機では、自由時間がないではないか」
 鯉登が不満をもらす。
「もし複数で行動できるならこんなことをしなくても済むのですが、ここは北海道と違って鯉登少尉殿と私しかおりませんので」
 月島が静かに諭す。
「谷垣一等卒もいるではないか」
「谷垣にはチカパシとエノノカとヘンケの保護と、リュウ達の世話を命じております。二十四時間彼らと一緒に行動してもらいますが、こちらがよろしいなら谷垣と交代しますか?」
「……アシリパの監視で良い」
 鯉登はしぶしぶ納得した。
――しかしこんな緊張状態も、今夜で仕舞いだ。彼女らが逃げ出さなくて、本当に良かった。



 月島が宿に到着すると、受付で女将が「お連れ様が体調を崩してお戻りだったので、お部屋に布団を敷きました。今、お休みになられています」と言ってきた。月島は驚く。
 一行の部屋は、ふだん宴会場として使われている三十畳の大部屋だ。入室して足音をたてないように忍び足で歩く。出入り口からは一番奥に布団が敷かれていた。
「月島か?」
 先に声を発したのは鯉登だった。
「鯉登少尉殿、大丈夫ですか?」
 月島は布団の横に正座する。
「月島ァ」
 鯉登は布団から右腕を伸ばす。
「何がありましたか」
 思わず月島はその手を取った。
「酔った」
「……船に乗ったんですか?」
「いや、道路でな」
「……」
 眉間にしわを寄せ目を伏せる月島に、鯉登は先回りする。
「お前の言わんとしていることは分かるから、お願いだからこれ以上は何も言うな」
 自分でも情けないと思っている、と殊勝なことを言った。だから月島はため息をついただけで追求しなかった。握っていた鯉登の手に視線を落とし、指先をそっとたどる。
 いつもきれいに切り揃えられた爪に、好感を持っていた。鯉登の手の爪が伸びたところを、月島は見たことがない。奇行と猿叫ばかり目立つが、意外に神経が細かい男だと知っていた。それは、人質となり父親から死んでくれと電話越しに言われた後の、十六歳の時の慟哭を聞いていたから。
 手を布団に仕舞ってやる。そうしてまた月島は鯉登を甘やかしてしまった。
「酔い止め薬は飲みましたか?」
「飲んだ。……ところで、今この部屋に誰もいないよな?」
 鯉登は顔だけ持ち上げて、室内を見渡す。
「はい、みんな晩飯を食べに行ったようです」
「そうか。なあ、アシリパと杉元のことなのだが……」
「はい」
「ふたりはなぜ手を組んだと思う? 鶴見中尉殿は互恵関係だとおっしゃっていたが、私にはそれだけとは思えないのだ」
「と申しますと」
「仲の良い兄妹のように見えた」
「少尉殿、お言葉ですが互恵関係であれ親愛の情であれ、アシリパから刺青の鍵を聞き出すことには変わりはないのではないですか? それとも、情があれば何か違った対応をせねばならない理由があるのでしょうか?」
「お前は身も蓋もないな。……しかしその通りだ。二人の関係が何であろうと我々の方針に変わりはない」
「でも、こうして気になる点を共有するのは戦略的に有効ですよ」
「……、そういえば士官学校でも戦術学の時間に、私はよく叱られていた。詰めが甘い、お前の部隊が真っ先に玉砕するぞ、と」
 月島は鯉登の話を黙って聞く。
「私は今でも月島に叱られてばかりだな」
 鯉登は力なく自嘲した。月島はその冗談には付き合えなかった。
「惑わすことを聞いて悪かった。忘れてくれ」
 鯉登は顔半部まで布団に包まり、月島からは顔を背けてしまった。居心地の悪くなった月島は、鯉登を励まそうとする。
「騙されやすいカモは毎分生まれる、そうです」
 鯉登が再び月島を見た。「何だ? それは」
「米国のサーカス王の言葉だそうです。鶴見中尉殿が好んでよく引用されます」
「そうか。我々が主導権を握っているつもりが、いつの間にかアシリパのペースに巻き込まれているかも知れない、ということだな。杉元もアシリパに感化されている面があった。我々も気を引き締めねばな」
――でも、人を動かすのは感情だ。理屈ではない。この人の勘を蔑ろにして、いつか足元をすくわれる事態になるかもしれない。
 そう思いながらも、月島はあくまで鶴見の方針を指導した。そして感情だけで突っ走ってしまった昔を思い出し、月島は己の感情をまた殺した。
 鯉登はときどき軍刀の手入れを、時間をかけて丁寧にする時がある。それは第七師団司令部の鯉登の執務室で、もくもくと続けるその真剣な様に、月島は見惚れる時があった。それは鶴見からの任務や通常の射撃訓練を満足に遂行できない時だったり、または網走監獄への襲撃など重要な作戦の前夜、気持ちを落ち着かせるための所作なのだと理解していた。心の曇りを拭うように、刀が光るまで磨き上げる。
 豊原に着いてからも、鯉登は宿で三日おきに軍刀の手入れをしていた。誰も斬ってないはずなのに、なぜ。だから、月島は心に少し引っかかっていた。その胸中にあるのは逃げた尾形のことか、それとも死んでしまったキロランケのことか。
 翌日、エノノカ、ヘンケ、チカパシ、リュウと別れたあと大泊に到着した。月島は鶴見から届いた電報を確認しに行く。それから、鯉登が待っている港の近くへ行った。近づくと、鯉登は手にした何かをじっと眺めているのだと分かった。その背中は、なぜだか声がかけづらいと思った。
「鶴見中尉殿は明日到着するそうです」
 声をかけるのと時を同じくして、何か小さいものが鯉登の手から落ちたのが見えた。でも鯉登は拾わない。月島は気になりはしたが、それよりも鯉登の表情が暗い。
「鶴見中尉殿が来られる前に、お前に聞いておきたいことがある」
――まさか、あの誘拐事件の真相に辿り着いていたとは、月島は夢にも思わなかった。



「月島、ちょっと付き合え」
「どこへ」
「飲みたい」
 地面でぐるぐる回っていた鯉登が起き上がる。外套に付いた砂を手で払う。
 いつもなら面倒だと言わんばかりの顔ができるのに、今は断ることなんてできなかった。鯉登はいつも思ったことを、そのまま口にする男だ。それなのに、心にも無いことを言わせてしまった。痛ましい。脅したのは自分なのに。
「私は飲みませんよ」
 月島は努めて抑揚なく言う。
「知ってる。それでもいいから」
 背を向けて歩き出す。鯉登はさっきから月島の目を見ない。
 月島は谷垣にアシリパと杉元の安全確保を頼んで出掛けた。それにしても、部屋にいたアシリパは普段からは想像もできないくらいにとても静かだった。そして谷垣は鯉登と同じく、複雑な表情をしていた。
 みんな一昨日までは思い思いに自由時間を過ごしていたから、その落差は一目瞭然だった。それもこれも全て鶴見の存在がそうさせているんだろう。月島は明日、港でのアシリパと鶴見の対面を想像するが、いくら考えても全部予想を裏切る未来しか描けなかった。
 着いた所は酒場ではなく、蕎麦屋だった。旭川のように蕎麦屋と名乗る遊郭なのか、それとも本当に普通の蕎麦屋なのか。
 個室へ通されて、女中が酒と酒肴を部屋に運んできた。酒と板わさと厚焼き卵の配膳を終えると「人払いを」と一言添えて鯉登が金子を握らせる。すると「それでは今からかけそばをお持ちします」と下がっていった。本来は酒肴の食べ終わる頃合いに、蕎麦を運んでくるのだろう。が、人払いを希望した客には先にすべての料理を提供するのだろう。
「この組み合わせが妙に感じてな」
 日本酒と酒肴と蕎麦。酒を飲むのに蕎麦屋へ行く習慣に、違和感があるのだと鯉登はこぼした。地元では蕎麦屋で飲酒はしないらしい。士官学校時代に東京の蕎麦屋で初めて知ったのだと言う。
「東京の人間は酒を飲むのに蕎麦屋へ入っていくから驚いたぞ」
 鯉登が徳利を自ら手に取ろうとするので、月島は慌ててそれを奪い酌をした。鯉登は恭しく受ける。
「月島は飲まんのだな」
「ご相伴にあずかれず申し訳ございません」
「いや、いい。気にするな」
 月島はふだん酒を飲まない。幼い頃、父が酒くさい息を撒き散らし、自分にたびたび暴力をふるっていたからだ。オレはあんな酒乱には絶対にならない。それよりも、酔って父と同じように自制心がなくなり豹変してしまうのが、恐怖だった。
 だから酒を飲まない鶴見のことは、余計に信用したのかもしれない。
「人はどうして偶然を運命だと思うのだろうな」
 鯉登がうつむいて独り言のようにつぶやく。聞こえなかった振りをする方がいいのか、返事が欲しいのか。月島は一瞬考える。
「あなたが運命だと感じるように演出したのだから、しょうがないと思いますよ」
「いや、鶴見中尉殿に騙されて悔しいという話ではないのだ」
 鯉登は手酌で次々に酒をあおる。
 ではどう言う意味なのかと鯉登に尋ねてもいいのだが、月島は言葉にする前に、面倒くさいと思ってしまう。すると顔を上げた鯉登がひと睨みする。
「お前はめんどくさい以外の感情も私に見せてみろッ」
「……もう酔ったんですか?」
 月島は平静を装ったが、図星をさされて悔しいと思った。
 それより、様々な感情を放棄してしまうのは、鯉登だけに対してではない。月島は誰に対しても興味を持たないようにしてきた。敵か味方か、それだけ。執着があるとすれば、鶴見だけだ。
 鶴見篤四郎の生きざまを見届けないと気が済まない。
 奉天会戦の後から、ずっとそんな風に心を縛ってきた。鶴見劇場をかぶりつきで見たい。これは心からの願いだ。様々な根回しで月島の死刑執行の免除をもぎ取り、そして最も受け入れらない嘘で欺いた鶴見を。ずっと、その信念だけを拠り所にして付き従ってきた。
 それなのに、樺太に来てから別の想いが芽生え始めていることに気が付いた。
 鯉登音之進の栄達を見てみたい。
 そもそも月島が鯉登の補佐に付いたのは、偶然ではなく鯉登を監視する役割も兼ねていた。そのために鶴見は昨年まで歩兵二十七聯隊に所属していた少尉を別の師団へ転任させる根回しをした。
「もしもの話だが、勘付いたら残念だが消さねばなるまいなあ」
 小樽の自宅の居室で鶴見が頬杖をつき、自分の顎髭を触りながら静かに言う。半年前の出来事だった。
 計画の当初から、海軍の人脈と水雷艇駆逐艦の戦力・機動力が目当てなのだと、月島も知っていた。息子は父に取り入るための小道具でしかなかった。
 鶴見が情報将校として優れている点の一つは、すべての可能性を予見して何重にも対策を立てるところだ。本人曰く「私は臆病だからな」とにやりと笑ってみせる。臆病者になんて見えるはずもなく「あなたは野生の狼のようです」と月島は返す。すると鶴見は「お前は上官の喜ばせ方をよく心得ているな」と目を細めた。
 鯉登の世話は面倒というよりも、様々な気持ちが複雑に交錯している、というのが正しいところだった。胸の中が混沌として一筋縄ではいかなくて、結局すべて面倒くさいで済ませてしまう。鯉登以上に手に負えない兵卒など珍しくもないのに、だから本音では関わりたく無かったのだ。
 だって、こんなに毎日接していたら、いざという時に冷たく突き放すことができなくなるじゃないか。月島の中にある鯉登への一番大きな気持ちが贖罪意識で、それが日増しに濃くなっていく。
 オレを信じるな、頼りにするな、オレはまだ子供だったあんたを拉致監禁した実行犯の一人なんだ。
 心の中で鯉登にそう懇願するようになっていた。
 それなのに現実はどうだ。事あるごとに月島の名を呼び、何でもない話や挙句は鶴見への疑惑までも相談してくるなんて。自分に対してここまで無防備な軍人は初めてだった。
 ずっと自分らしく生きていてほしい。そう願う自分がいるのだ。
 しかし、鯉登が狂言誘拐に気が付いた今、月島の願いは両立しない。真っ直ぐなこの少壮の男はやがて鶴見の脅威となる可能性が高い。
 するり、と月島の首筋を撫でる手があった。
「え……」
 月島は驚いて現実に引き戻される。顔のすぐ横には鯉登の手があった。月島の向かいの席から手向けている。真剣なまなざしに、月島の胸は早鐘を打つ。
「な、なにをす……」
「包帯が緩んでいる。巻きなおしてやるからこっちに来い」
 月島は鯉登の隣に移動した。ガーゼと油紙を当てなおし、包帯を巻く。怪我をさせた責任だと言って、実は毎日鯉登が首の怪我の手当てをしている。
「昨日病院へ行ったそうだな。白石に聞いた。医者は何と言っていた?」
「え、ええ……。もうしばらく消毒のために通院した方がいいと言われております。なので、北海道へ帰ったら陸軍病院へ行くつもりです。それはそうと、少尉殿の腕は?」
「ああ、腕の神経に問題はなさそうだが、もし今後、指が動きづらいことがあれば、すぐに医者に行くから心配無用だ」
 首の包帯を結び終えると、鯉登は右手を結んだり開いたりしてみせる。それから軍衣から片側だけ腕を抜き、腕まくりして包帯を取り去った。傷のふさがり方も早いと思った。
 鯉登の傷跡を見て、月島の頭には病院での白石の言葉が去来した。
『自分のことで怒って戦ってくれたら、オレだったら一生ついていくって思っちゃうな~』
 屈託なく言われたその台詞は、月島にとっては突風のようだった。そうだ、オレは鯉登少尉に護ってもらったのだ。「上官を護るのが私の役目です」と口癖のように繰り返しながら、自分だけが護ってあげているつもりになっていた。
 ぶわりと強い風に煽られて、今まで胸の内に秘めていた事が全部さらけ出されてしまう。
 思いがけない現実に月島が気付いた時、つと鯉登が立ち上がり、障子と窓を開け放つ。
「すまん、暑い。すっかり酔ってしまった」
 サッと冷気が入り込み、瞬く間に外気温と変わらぬ温度となった。鯉登は窓から外を眺める。吐く息の白さが体温の高さを物語る。そして「こちらへ来てみろ、月島軍曹」と呼ばわる。
「何か見えますか」
「あちらの方角が分かるか」
 鯉登はまっすぐ前の空を指さす。大泊は旭川よりも北にあるため、日没が幾分か早い。だから宵の口でも恒星の瞬きがはっきりしている。今夜は雪雲もなく、星がよく見える。
「あそこに見える明るい星の集団がすばるでしょう。今の季節、この時間帯にすばるが見える方角は……南西です」
「ご名答」
 そう言ってにかりと笑う。ここ数日浮かない顔をしていたから、久々に見たような気がした。その笑みに心がじわりとあたたかくなる。月島は素直に嬉しいと思ってしまった。
「私は幼いころから父や兄に星図を叩き込まれていた。艦に積んでいる機器が故障すれば、自分の位置や時刻を把握するのに、太陽や月や恒星は重要な道しるべだからな」
 もっとも、星図は海軍のみならず陸軍でも指導されていた。夜間行軍で不可欠な知識だからだ。月島は空に広がる地図を見上げる。
「満州はあちらだろうか」
 鯉登は遠くを見ながら話す。
「そうですね、大泊からだと南西のはずです」
「今夜は晴れて星がよく見える。が、かなり明るいな。月が東から昇ってきたのだろう」
 この部屋には東側に窓がないので見られないが、おそらく今夜は満月なのだろうと思われる明るさだ。
「昔は月が怖かったのだ」
 鯉登がぽつりともらす。
「……理由を聞いても?」
 月島が恐る恐る問いかける。
「私が歩いても馬で走っても、夜汽車に乗ってもずっと追いかけてくるのだ」
 月に困惑する幼い鯉登を想像して、月島はわずかに口角を上げた。
「む、お前いま笑ったな?」
「いや、気のせいですよ。それより今でも怖いですか?」
「今は……。そうだな、いつも私を見守ってくれる存在だと思えば、逆に心が強くなるのだと分かった。それに美しい表面だけでなく、醜いという裏側も暴いてみたくなる」
 それは本物の月のことだろうか、それとも例え話だろうか。確かめたくもあるが、もし自分の事なら照れくさくていたたまれない。月島は顔を隠したくなった。
 そんな折、くしゅん、とくしゃみをしたのは月島だった。それを見て鯉登が苦笑いする。
「やはり蕎麦湯だけでは温もりが足らぬようだな」
 窓と障子を閉める。それから鯉登が隣室との襖を開けると、奥座敷には布団が二組敷かれていた。ああ、やはりこの蕎麦屋も、遊女を呼ぶなどして性行為をする客に部屋を貸す店のようだ。月島はにわかに緊張する。
 鯉登は掛布団を剥がしてマントのように己の肩から掛ける。そして火鉢の前に胡坐をかき「月島、こちらへ来い」と左腕を広げて見せた。その隙間に収まれという意味なのか。瞬時にいろいろ考えて、でも結局いつもの心の癖が出た。面倒くさい。すると鯉登は仏頂面になり「お前のめんどくさいはもう腹いっぱいだぞ、月島軍曹」と言い放つ。
「あなたが私の理解の範疇を超えなければよろしいのでは?」
「なんだその言い草は。寒そうな部下を温めてあげようという心遣いがわからないのか?」
 月島は目をつむり「はー」とため息をついた。鯉登はいつだってありのままで裏がない。詮索するのも意味がないように思えたので、おとなしく従うことにした。 
 鯉登の隣に座ると、背中を覆うように肩にふわりと布団が掛けられる。アシリパを追って樺太を北上する道中、あまりに寒い日はお互い身を寄せ合って眠っていた夜を思い出した。この島では、すべてが命がけで緊密な毎日だった。
「少尉殿」
「なんだ? 忠告も今夜は満腹だぞ」
「いえ、そうではなく……」
 月島が言い淀む。このままここに泊まるのかどうか、尋ねたかった。
 ふと見つめ合っていることに気が付いて、照れ臭くなり視線を外す。
「月島でも言いづらいことがあるのか」
 鯉登は、フフと意地悪に微笑む。これは港での意趣返しだ。気づいて月島は悔しくなる。
「言いづらいなら、私からお前に言いたかったことがあるから、先に言うぞ」
「は、はい。どうぞ遠慮なくおっしゃってください」
「実はな、月島に願うことが二つあるんだ」
「え、なんですかふたつって。普通はそういう場面だとひとつでしょう」
「ひとつなら聞いてくれるのか?」
「あ、それは……」
 オレとしたことが、迂闊なことを口走ってしまった……。月島は心の中で舌打ちをする。ひょっとして、鯉登の口車にうまく乗せられたのかもしれない、と眉をひそめる。
「先ほど、お前は自分の人生に価値がないと言っていたな。その理由を知りたい」
「そんなもの……、聞いたって面白くありませんよ」と、月島は顔を背ける。
「お前は私の生い立ちや家庭環境や陸軍に志願した経緯など、色々と知っているのだろう? でも私はお前のことは何も知らない。そんなのは不公平だし、何より判断を誤りたくないのだ」
「判断、とは……?」
 月島は視線を戻して問うた。
「私はお前に殺されたくはないからな。たとえ生き汚いと言われても、私は月島と共に生きていきたい」
 月島は驚いて目を見開く。
「ともに、とおっしゃいますが、私があなたの補佐を務めるのもあと数ヶ月間です。歩兵二十七聯隊に所属する限りは、鶴見中尉の任務をともにこなすことはあるかもしれませんが……」
 将校は全国に転任する。遠く離れたら、鶴見であろうと手駒とするのは難しいだろう。そこが狙い目なのだ。鯉登自身も父の鯉登少佐も、内乱罪の汚名を着せられることなく生きて鶴見劇場から降板できるかもしれない。だから月島は、それまでは大人しくしていてくれ、と鯉登に忠告したつもりだった。
「なに、おいが第六師団に配属されたや、月島もちてきたやよか」
「……は? いま何ておっしゃいました?」
 すると鯉登は月島からは目をそらし、質問には素知らぬふりをする。しかし耳がほんのり赤い。だから、月島はなんとなく分かってしまった。
そんなのはまるで、駆け落ちみたいじゃないか。
 不意にあの子と約束した日の情景がよみがえる。オレの心は、一生あの子だけのものだ。そう決意して生きてきたのに、今いつも隣にいる人がこんなにも懸命に月島の名前を呼ぶから。
 時の流れは残酷で、月島にも優しい。
――さて、どこから話を始めようか。
 過去におかした罪の償いにはならないが、鯉登の願いは叶えてあげたい。それくらい月島は、鯉登のことが特別なのだと自覚してしまった。
「……ま、……おい、月島」
「は、はい」
 我に返り返事をする。鯉登が月島を見つめていた。
「頬が少し赤い。ふだん飲まんから私の酒気にあてられたんじゃないか?」
「ええ、そんなところです」
「少し離れるか?」
「……いいえ、このままで」
 月島がこう答えると、鯉登はぐっと肩を抱き寄せる。
「素直になってきたな、私の影響だろう」
 本気とも冗談ともつかないことを言い、うふふ、といつものように品よく笑う。
「では、少しずつでいい」
 聞かせてくれ、と月島の耳元でささやく。吐息と共に鯉登の熱も伝わるから、月島の心のわだかまりが溶かされていった。

四、うみにふるゆき

四、うみにふるゆき

 鹿児島の夏はかなり暑い。暑いのを理由に、お盆に実家へ帰省するのを嫌がる者もいる程だ。
 昨年八月、鯉登は士官学校の夏休みを利用して東京から帰省していた。当時函館に住んでいた両親、使用人とも鹿児島で合流した。鹿児島で眠る兄が寂しくないように、鯉登は必ず鹿児島でお盆を迎える。
 この夏は兄と、もうひとりをお迎えする予定があった。
 花沢勇作である。
 もともと、花沢家と鯉登家は家族ぐるみの付き合いがあった。鯉登も正確なことは聞いたことがないと言うが、祖父より昔の代から続いていたという。
 花沢幸次郎が東京の陸軍士官学校へ、鯉登平二が広島の海軍兵学校へ進んだ後も、ふたりは年に数度は会っていた。そしてそれは、両人が結婚して子供が産まれた後も続いていた。しかし幸次郎が近衛師団から第七師団へ配属されると、会う機会がほとんど無くなったと言う。日清戦役の影響が大きかったのだろう、と鯉登は語る。
 そして、その戦で鯉登平之丞が、日露戦役で花沢勇作が散華した。
「花沢家の菩提寺は鹿児島にある。勇作殿の一周忌を、その年の盆休みに合わせてやることになっていたんだ。それに私も参列したんだが、その……、納骨堂にな……」
 そこで鯉登が不自然に言葉を切る。言い難いことなのか。月島は「どうしたんですか?」と先を促す。そもそも、花沢勇作の話が今この時の自分たちの状況と、どう関係するのか唐突すぎて分からなかった。
月島は自分の身の上話を、どこまで鯉登に話そうか、迷っているところだったのである。
 なかなか語り始めない月島に焦れたのか、こうして鯉登が自分の思い出話をしている。それで話に熱中しているうちに目の前の火鉢で暑くなったのか、肩から被っていた敷布団はふたりの腰の辺りでもたついていた。鯉登が話を続ける。
「お供え物があるだろう? 生前好きだった物がよくお供えしてあるじゃないか」
「……」
 月島は先祖の供養も経験したことがなかったので、相槌すらしていいのか迷ってしまった。父はおそらく島内の寺の無縁仏となっているだろう。
 月島が黙っていたら、妙な間が空いてしまった。
「……喉が渇いたな」
 鯉登は立ち上がり女中を呼びに行く。忙しく閉められた襖を見て月島は思う。
鯉登に気を遣わせてしまった。ばつが悪くなる。一回りも年下なのに。
そして月島は考え直す。やはり鯉登と自分は立場が違いすぎる、と。
 鯉登が戻ってきたので、月島もお膳のある隣の座敷へ戻る。程なくしたら、女中が茶を運んできた。配膳を終えて出ていくと、鯉登は月島の隣に移動してきた。
「そう、お寺の納骨堂の話なのだが、男の場合は酒やタバコが供えてあることが多い。だが勇作殿のところには、嗜好品どころか落雁すら無くてな。何があったと思う?」
「それは私には想像もつきません」
「白無垢姿の人形がお供えしてあるのだ」
「え、それはどういう意味が……?」
「月島も驚くだろう? 私も疑問に思ったんだが、聞いていいものかどうかも分からなくてな。でもこちらが質問する前に、勇作殿のご母堂が説明してくださった」

――勇作は、誰かを愛したり愛されたりすることもなく、他界してしまいました。こんな息子が不憫でならなくて、せめて天国で結婚してお嫁さんと共に暮らしてくれたら、という愚かな母の願いがこの花嫁人形なのです。

 そう言って勇作の母は、ハンカチで目頭を押さえたという。鯉登家の三名も母の愛情に胸をうたれて、涙が滲むのを抑えきれなかったという。
 そしてふと思い至ったのだ、と鯉登はこぼす。「兄さぁは、誰かを愛したことはあったのだろうか」そしてこんなふうに続けた。
 亡くなったときは状況の悲惨さと自分にばかり気持ちが向いて、当時兄が何を考え誰を想っていたのかまでは、考えられなかった。勇作殿のご母堂の発言で、ようやくそれに気が付いたのだ、と。
「それは……、致し方ないと思います」
 わずか八歳の子供だったはずだ。慰めにはならないが、月島にはこれしか言えなかった。愛する家族がいたから良かったんじゃないか、と言えなかった。
 家族と違い、初めて自分で選び、自分を選んでくれた人がいたからこそ生きてこられた現実を、月島は誰よりも知っている。
 上衣の左胸にそっと手を当てる。内側にお守りのように仕舞い込む手紙が一通あった。鶴見から渡された髪とは違い、あの子からもらった手紙だけは、ずっと大切に持っていた。
月島にとってこの世の真実はたったひとつ、それだけだったのだ。
「月島は手紙を書いたのか?」
「え……?」
 唐突に話題を変えてきて、いったい何なのだ。それより、自分が胸に手を当てた意味を知っていて、その質問をしてきたように感じ取れた。
「網走から小樽へ戻る艦の中で私に言っただろう? 遺書を残せと。自分は書かないのか?」
「私は書きません」
 きっぱり言い捨てると、鯉登の顔が少し険しくなった。天涯孤独の身であると伝えるべきか。
 すると鯉登は質問の仕方を変えてきた。
「一度も書いたことはないのか?」
「……」
 月島は答えに詰まる。オレから何を引き出そうとしているんだ。そんな最大限の警戒を鯉登に向けると、鯉登は明する。
「ニブフの家で休ませてもらう時に、懐に仕舞ってある手紙に気付いたから聞いてみたんだ。が、誤解するなよ? 勝手に読んだりなどしていないからな。怪我して眠っているのに、そんな卑怯な真似はしない。というより、かなり血が染みているじゃないか」
 鯉登は顔を歪ませる。
「はい」
 月島は努めて表情を無くした。それはもう、手紙が読めなくなるほどの失血だった。
「いや、言いたかったのはそれじゃなくて……、あのな」
 鯉登の意図の読めない月島は、じれったく感じてこう言った。
「あの、さっきから何なんでしょうか。どうぞ単刀直入に」
「月島にも大事に想う人がいて、本当に良かったと思ったんだ」
「……。な、なにを……」
 月島は目を見開く。口もわずかに開くが、声は出ない。すっかり言葉を失う。それから眉根を寄せて固く目を閉じ、歯を食いしばって必死に堪える。
「う、……」
 うつむくとぽとりと雫が落ちていった。肩の震えが抑えられなくて、半分からだを捻って背を向けた。
「月島……、泣くな」
 鯉登が月島の肩に手を置く。泣いている姿を見られたくはなかった。
「自分には価値がない」と言って、怒りや悲しみを感じることが自分に相応しくないと言い放ったのは、全て嘘だと認めるようなものじゃないか。
 さっきの演技が、すべて台無しだ。



自分を大切にできない人間は、他人の事も大切にできない。しかしスヴェトラーナへの対応ひとつ取っても、月島がそれに当てはまるとは、鯉登にはどうしても思えなかった。
「だから、自分を卑下するお前に矛盾を感じてな。だからひとつめのお願いをしたんだ」
――もっとも、素直に話してくれるとは思ってなかったが、と苦笑いした
「え、それでは……」
 月島は絶句した。港で甘い嘘の真相を話していた時から、鯉登にはばれていたのだ。
「よし、月島。二つ目の願いを言うぞ」
 鯉登は人差し指と中指を立てる。
「嫌です」
「む……、泣きながらまた自分の殻に閉じこもるな」
 そう言うと、月島はまた黙ってしまった。だから鯉登は勝手に話を進めることにした。
「今度から危険な任務の前には、私に手紙を書いてほしい」
「……そんなもの、意味がない」
 めずらしく生意気な口調は、しかし震える涙声だった。
「意味はある。私はお前より先には死なないからな」
 だって金塊争奪戦でもし私が先に死んでしまったら、お前は今度こそ絶対に自分を許さないだろう? お前の自尊心を奪う原因になんて、なるつもりは毛頭ない。
 そうでなくても月島は誠実だから、おそらく一生涯私への贖罪意識は消えないだろう。それなのに生殺与奪の権を握っているのは自分だと脅して、さらに憎ませようとしている。
 そんな安い手に乗ってたまるか、と鯉登は気を吐く。この男はそれくらいの演技はする。しかし本心は、たぶん私の想像通りだ。自尊心も愛情も道徳心も、人並み以上に持っている。だからこそ、過去の自分の過ちが許せないのだろうし、懐にある手紙の送り主以外、誰かを好きになるのは許されない、と考えているはずだ。
 そうやって自分に罰を与え、戒め続けている。あの暗い海の底で。
 そんな生き方は止めてほしい。
 私は月島を知れば知るほど、お前に願う事ばかりだ。
「月島、こっちを向け」
 うつむいたまま、ようやく振り向く。その頬には涙のあとが光っている。
「どうして泣くんだ」
「……あんたがあまりにも馬鹿だからだ」
「馬鹿って……、お前な、上官に向かって大した度胸じゃないか」
 鯉登は呆れた様子でため息をつく。
「だってそうでしょう。私の心を乱して丸裸にして、どうしたいのですか?」
「どうしたいって……、月島には心を開いてほしいし、私を頼ってほしい」
「それだけですか?」
 月島が試すような目で見るから、鯉登は腹を決めた。
「私に、お前の心をくれ」
「……、正直に申し上げますが、正気の沙汰とは思えません。それに網走へ行く前に、女から情報を取る任務を請け負ったことをお忘れですか?」
「いや、忘れるわけがないだろう。それがどうしたんだ」
「もし男が相手でもするんですか? 今後、陸軍省の某は男色家だから行ってこい、なんて鶴見中尉から命令されたら股を開くんですか?」
 月島は怒鳴り声になっていた。
「……確かにその任務は……、きついな。だが、もしもの話なんて意味がない」
「……せん」
「……え? いま何と?」
「もしそんなことになったら……、私は耐えられません」
 今度は鯉登が驚く番だった。合理的な理由がなく月島が自分の気持ちを前面に出すなんて、今まででは考えらないことだった。鯉登の鼓動が急に跳ねる。
 そして止まった月島の涙が、再び流れた。
「月島、泣くな」
「……泣いてなど……、」
「私のことを心配してくれているのだろう?」
「……保身ですよ……」
 月島の目からあふれた涙が頬を伝い、顎から落ちていった。その雫がきれいだったから、こぼれないように受け止めたかった。
 そしてまたひとつ涙があふれたから、鯉登はくちびるで受け止めた。じわりと鯉登のくちびるを濡らし、口の中に入る。
「しょっぱいな」
「な、なにを……!」
 驚いてしまった月島は、離れようと上半身をひねる。すかさず鯉登が月島の腕を掴むから、ふたりはバランスを崩して倒れてしまった。
 うつ伏せになった鯉登の目の前に、仰向けになった月島の腰があった。だから腰にすがりつく。ここで逃げられたら二度と心を開いてくれなくなる。そんな切迫感が鯉登の胸に渦巻いていた。
のしかかる鯉登が、月島の頬に手を添える。涙の跡がランプの薄明かりにもきらきらと光って、とてもきれいだった。だから、すべて舐め取った。月島はもう抵抗しなかった。
 ふと視線が合う。
 月島の泣いた顔がたまらなかった。胸をかき乱す。これ以上は傷つかないように大事にしてやりたい気持ちと、自分のことで取り乱して泣いてほしい気持ちとが、せめぎ合う。
 そして鯉登の体の中に、色のついた渇望が灯る。
 月島が欲しい。
 悲しみに歪めた月島の表情は、初夏に自宅で見せてくれた快楽に耽った顔と同じだった。今だけは、私のことしか考えられなくなってほしい。
「ほんのこておいはわがままじゃ」
 鯉登は大切にしたい気持ちを込めて、微笑んだ。月島の頭を二度撫でて、くちびるをふさいだ。
「……ん、……ふ」
 鯉登は月島の両方の耳をもふさいだ。発砲や爆発や怒号やうめき声。それから淡々と告げられる任務。戦禍にまつわる音や鶴見の声を、心の傷が癒えるまでは聞いてほしくなかった。でも、そんなのはこの男には無理だから。
 せめて今夜だけは、私がお前を呼ぶ声だけに包まれていればいい。
 舌を入れて口内を探ると、ためらいがちに応じてくれた。
「は、……あ、……」
息継ぎの合間に小さくもれる月島の声が、か細くて切なかった。上衣と襦袢の前を開こうと釦に手をかける。だけどもどかしく感じ、軍袴から襦袢の裾を性急に引き出した。鯉登の眼前に晒された素肌は、雪のような白さだった。でも女のそれとは全く違い、傷だらけなのにまるで誰にも踏まれず新雪のまま凍ってしまった、忘却の白さだった。
鯉登は息を飲む。月島の裸体を見たのは、一度や二度ではないのに。
月島が生への執着を手放してしまう前に、つなぎとめてやらなければ。焦りばかり募っていった。下から手を差し入れ体を触る。
 温かい。月島の体温と素肌が心地よかった。
 胸をまさぐるとやわらかな突起があった。指で摘まみ手のひらで転がし、指の腹で押しつぶすと、押し返すようにぷくりと固くなるのが分かった。月島は頑なに口を閉じ、声や吐息すら漏らさないように耐えている。
「なあ、月島」
 上衣と襦袢の釦を外す。
「……なんですか」
「こういった経験はあるのか?」
「男の経験はありませんよ……、んっ」
 首の包帯をずらして、喉仏に甘噛みした。そして、そこを癒すように舐める。
「……そうか」
「納得してませんね?」
「うん」
 月島が腕を伸ばし、鯉登の上衣の襟と釦を外す。
「みんな一度は鶴見中尉と私の仲を疑います。しかしそれは作戦の内なのです。できていると思われたら、私が中尉殿のご自宅にしょっちゅう出入りしても不自然ではないからです」
「そうだったのか」
「だから他の者から同じ質問をされても、私は否定も肯定もしません。そうすれば勝手に怪しんでくれます。仲間内であっても、真相は誰にも打ち明けませんでした。中尉殿に心酔する者からのやっかみも多いので、それをかわすためでもありました。でもあなたからは、その……」
「うん」
「誤解されたくはなかった」
「……月島」
 紡がれる言葉は遠回りで決定的な何かを口にしてくれなくても、少しずつ気持ちを表してくれるのが伝わった。鯉登の胸が満たされていく。
 寝そべる月島の手を引き、布団の上に横たえた。鯉登は月島の左右の足を割って座る。ゆっくり見つめ合ってふたたび口づけし、鯉登は腰を押し付けた。布越しでも固くなっているのが伝わるはずだ。
「緊張してしまって……、うまくできなかったら済まない」
 鯉登が謝る。
 すると月島は目を丸くして、ふ、と笑った。
「む、笑うな月島ァ」
「いえ、こんな時でも正直なんですね」
 少し困ったように笑う姿も、愛しいと思った。色気のない雰囲気にしてしまったことは反省したが、月島が笑ってくれたから良かった、と鯉登は思った。
 先ほど中座した際に密かに用意したものを口に含む。避妊具や通和散、手ぬぐいや湯など、性行為に必要な品は店に一通り揃えてあった。
 軍袴は片足引き抜いただけ、褌は横にずらしただけの中途半端な格好の月島を、足を開かせすぼまりに垂らしたぬめりを塗り込む。指を入れると身を固くしたから、少しずつ少しずつ奥へ入った。我ながら我慢強いと感心した。一本だと体が強張ってないので、痛みはないのだろう。二本目の人差し指を入れると、小さなうめき声が聞こえた。
「痛むか?」
「少し……」
 気がまぎれるように陰茎を擦る。
「あっ、あ、……、ああ……」
 月島が恥ずかしそうに悶える。そしてすぐ近くの下腹部にある例の傷跡にどうしても目が奪われてしまい、そこに舌を這わせた。
 びくりとひときわ大きく背中が跳ねる。鯉登の頬の横には月島の陰茎があり、先からあふれてきた汁が鯉登の頬を濡らした。
「ん、ああっ、……、そこは」
 月島が鯉登に訴える。でも止めてほしいのか感じすぎるのか最後まで言わないから、聞こえないふりをした。
 不意に鯉登は泣きたくなった。自分の体でさえもすべて見て触ったことはないのに、他人の私に警戒心の塊のような男が無条件で委ねてくれている。
 こんなに誇らしいことがあるだろうか? あるいは、私の胸を満たすために付き合ってくれているのだろうか?
 できることなら、共に同じ気持ちになりたい。
「こ、鯉登少尉殿」
 名前を呼ばれて我に返る。
「どうした?」
「もう大丈夫です」
 手指の三本が挿入できるようになっていたから、挿入していいとの意味だろう。
 月島を追い立てては寸止めを繰り返していたから、陰嚢は根元にせり上がり、張りつめた竿は痛々しいほどに固く、血管が浮き出て脈打っている。息は荒く、もう一押しで上り詰めそうだ。
 だから鯉登は、強く握りしめて手を激しく上下した。
「あああっ」
 びくびくと震えて先から白濁が吐き出される。
 はあはあと荒い息をつく月島が、うらめしそうな顔で鯉登を見る。恨みごとを言いそうだったので、すかさず接吻をした。この男はきっと、快楽も感じてはいけない、と律してきたに違いない。今夜だって私さえ満足すれば、そこで納得して終わるつもりだったような気がする。
 そうはさせるか、と鯉登は思う。月島から欲望を引きずり出して、私がほしいと素直にこいねがう姿が見たい。

【サンプル】雪よ舞い散れ花となれ

【サンプル】雪よ舞い散れ花となれ

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  • 強い性的表現
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