今わの際に奥義を語る長老の声

ニャンチ5号

今わの際に奥義を語る長老の声

夕闇の迫る薄暗い部屋の中に選ばれた青年が一人静かに端座していた。部屋はその国の神を祀る神殿の最奥にあり、何人も許可なく近づいてもましてや入ることも厳しく罰せられる神聖な場所であった。

 青年は今から始まる儀式のために身を清め特別な装束を纏っていた。すなわち最高位の神官のみが着ることが許される緋と白の幾何学模様をあしらった胴衣とこの国の最高地位を表す国の成り立ちと歴史が刺繍された古びた上掛けである。身じろぎしない青年のその半眼の眼差しは、部屋の奥に延べられた質素な床に横たわり眠り続ける一人の老人に向けられていた。今しも息を引き取ろうとしている部族の長老であるこの老人の、深く刻まれた皺の多い顔のその口元に不意の動きがあるのではないかと注意を向けていた。遅い春であった。心を癒すような心地よく暖かな微風の流れと、どこから漂ってくるのか爽やかな冷気との交わりが実に心地よかった。長老付きの巫女たちが毎日取り換えている色とりどりに咲く花々の醸す香りが部屋に充ちていた。離れた儀式用の大広間では、古くからの作法に從い、神官楽師たちが控えめな調べを奏でていた。その低く単調な調べは空気の流れの具合でときに妨げれられはしたものの、途切れることなくこの最奥の部屋にまで漂い流れていた。調べは長老が死を迎え、この選ばれた青年、すなわち新しい後継者によってそれが告げられるときまで続けられるきまりだった。

 部屋の中に充ちた花々の醸す甘やかな空気を吸い吐くことで、長老の細っていく命がまだこの世にあることを知らせていた。時おり苦しくなるのか呼吸が荒くなり、喉の奥でしわがれた音が洩れた。程なく生きとし生けるものの宿命である死が彼を迎えにくるだろう。長老の死は後継者ただ一人に見守られることが許されていた。それは死期を悟った長老が、今わの際に選ばれた長老後継者のみに伝える、口外を固く禁じられた部族に伝わる奥義を聞き取る儀式のためだった。聖職者を兼ねる長老が代々口伝で継承してきたものであり、これまで一度もその内容が漏れたことはなかった。よってそれが何の奥義なのかもすら人々は知り得なかった。ただその継承者のみが新しい長老の資格を得る。これが動かぬ掟だった。

 青年は、もし人生というものに意志があればその絶頂にいるかのように落ち着き堂々としていた。黒く太い眉からすっと伸びた鼻梁が意志の強さを示していた。眉の下の黒目勝ちの澄んだ瞳は人懐こい表情をしたかと思うと、眼光鋭く見る者の心の奥底まで見通された気にさせることもあった。しかし、今、自若とした見かけとは裏腹に、彼は己が心をひどく乱してるのだった。自分のような若輩者が後継者となれるのだろうか。このように自分に自信のない者が人々の命運を握る決定を下すその地位に就くのはいけないことなのではないか。目の前に横たわる現長老から突然の指名を受けたときにはまだ年端もいかぬ幼い心は、ことの重大さを理解できなかった。自分ではない誰か他所の者の話のような気がした。長ずるに及んで自分なりに朧げに理解はしたものの、腑に落ちることなく時は流れていった。学問もなく人に指図できるほどの実績も経験もない自分が何故、という思いしかなかった。今まで正直に生きてきた自分の短い人生を振り返り、身の程を超えた災いとしかいいようのない後継者の指名について、眠られぬ夜であれば輾転と寝返りを打つ毎秒ごとに己に不運を呪った。 

 長老後継者として指名を受けると特別な教育が始まった。文字を覚え書を読むことを教わった。部族の中の専門的な知識をもつ教授たちに気の遠くなるほど多くの知識を注ぎ込まれた。農具以外に持ったことのない手に剣や槍を持ち、部族の精鋭部隊の部隊長から武道を叩き込まれた。もともと知識欲もあり体も頑強で筋もよかったのかみるみる上達していく自分を密かに誇っていたころもあった。ただ彼はいつも一人になると不安で震えている自分と向き合うのだった。なぜ自分このような定めを受け入れなくてはいけないのか。見渡せば自分よりもはるかに適任と思われる若者たちがいた。血筋や見目もよく弁舌もたち押し出しも立派な者が後を襲うべきではないか。人前で、落ち着きが出てきた、眼差しに自信に満ちてきたと褒められても、このどうして自分がという問いへの答えは彼に与えられることはなかった。あるとき意を決して長老に問うたことがあった。なぜ自分なのかと。長老はそのとき読んでいた書から顔も上げず、今に分かる、と独り言のように呟いたきりだった。今に分かると思い続けて得られず煩悶の中に投げ込まれてここにいる。もしこのまま長老が自分に部族に伝わる奥義を伝えぬまま息を引き取ったらどうする。 ふと思った疑念の芽が瞬く間に心の中で成長し底なしの暗闇の中に放り込まれたような不安を覚えた。この不安を他に悟られてはいけない、落ち着くのだと自分に言い聞かせた。心が内側から閉ざされた。そのとき長老の口元に動きがあった。青年は自分の名を呼ぶ長老の声を聞いた。懐かしい響きだった。耳からではなく心に直に伝わる声だった。

「はい、長老様。ここに控えております」

「すまないが水を持ってきておくれ」

 青年が二度手を打ち合わせた。隣室に控えていた長老付きの巫女頭の老女が現れて額ずいた。

「長老様が水をご所望だ」声は喉を伝わり空気を震わせた。

「ただ今お持ちします」巫女頭は下がっていった。

 すぐに巫女見習の少女が現れた。手に小さな器と柄杓を持っている。美しい少女だった。長く垂らした黒髪が香油をつけ水に濡れた輝きを放っている。薄く光を通す一枚生地の下には何も身に着けていなかった。巫女も長老の死を迎える儀式を部屋の外で既に終えている。斎戒と沐浴ののち、巫女頭の執り行う、選ばれた巫女のみが受ける特別な儀式を終えた者だけが、死の床にある長老の世話をすることができるきまりであった。年若い巫女の作法通りの厳粛な動きの中にもその輝くばかりの命の発露は隠すべくもなく、青年は思わず巫女の動きを見つめた。少女は青年の脇を通り長老の枕元に進んだ。少女の体から清めの香の匂いが立ち上っていた。

「長老様、失礼します」

 巫女は器から水を柄杓で掬い、それをまず自分の口に含んだ。それから長老の口に自分の口をつけて直に水を流しこんだ。すべて作法に則った振る舞いだった。二度ほど水を飲んで長老が少女に何かを言い、少女は頭を下げて立ち上がり乱れた衣服を整える仕草をしたのち、青年に一揖して退いた。そのとき少女が眼差しを一瞬青年に向けたように思われた。長い睫毛のせいかその瞳がどこを見たのかまでは分からなかった。

 長老の声が心に響いた。

「そなた、先ほど己の心を乱しておったろう。その乱れが儂に伝わってきて目が覚めてしまったではないか」その声はいつものように穏やかで慈愛に溢れていた。

 青年が何かを言いかけるのを掌を上げて制し、長老は続けた。

「いやそなたを責めてはおらぬ。死は誰にでも平等に訪れる一種の恵なのだからのう。これも普段の生活の延長にある出来事にすぎない。そなたが何に心を乱しておるのか当ててみようか。大方、なぜ自分がそうなる資格もないのに次の長老として選ばれてしまったのだろう、ではないかな」

「・・・仰せの通りにございます、長老様」青年の顔は蒼ざめていた。

「私がまだ五歳のときでございました。長老様と初めてお会いしたのは。長老様はお供の方とご一緒でした。私は前日降った大雨でできた小さな池の中で兄たちと他愛もなく水かけ遊びをしておりました。そのとき長老様のご一行がお通りになられました。長老様は乗られていた白馬の上から私に声をおかけになりました。私の名前とどこに住んでいるのかと。私はまだ幼くてお声をかけて頂いた方が長老様だとは分かりませんでした。親からきつく知らない人に声をかけられても返事をするでないと申し付けられておりましたから、兄たちは身をすくませて黙っておりました。私はと云えば、長老様のお声に接してすぐにお優しい方だと分りましたから、思わず言いつけを忘れ自分の名と住んでいる家の方角を指さしました。あとでこっぴどく兄たちや両親に叱られたものです。間なく長老様からのお使者の方が見えられました。後から知ったことですが、お使者は私を長老候補として教育し育てたいとの仰せを両親に伝える方でした。私を送り出すと過分な褒美がもらえると知った両親は、私のことよりも利発だった兄たちの将来のためにご意向を受け入れることにしました。きっと長老様は何かの勘違いをなされていて、しばらくすれば私の性根に気づいて送り返されるに違いないと高を括っておったそうです。そうなれば息子も失わず褒美の分だけ得したことになる。貧しく愚かな者たちの考えでございました」

「そうであったのう。あれから二十年は経ったのであるか」

「左様でございます。私はと云えばそういう親の考えは知らず、急に親兄弟や仲の良かった友人たちと引き離され、悲しみと寂しさと不安で毎夜家のことを思って泣き暮れておりました。漠然とではありますが将来は家業である牛や羊を飼い、乳を搾り肉を売り皮を鞣すことが自分に与えられた役回りだと思っておりました。教養はない愚かな親でも私には掛け替えのない親です。喧嘩ばかりしていた兄たちも離れてしまえば恋しいばかり。私はこの広い世の中で一人ぼっちだと思いました。そして私は売られた奴隷だと考えることにしました。その時はまだ奴隷ということばを知りませんでしたから、親に売られた子は誰かの子どもになるのだというくらいしか思い至りませんでしたが。ずっと友だちもいずに心を閉ざして生きていくものと小さいながら決めておりました。

 神殿暮らしにも慣れ、しばらくして私に教育係を仰せつかったお二人を長老様はつけてくださいました。今も兄、姉と慕うお二人です。兄からは武芸百般を、姉からは文字や文、計算の方法、古代文字の読み方まで教えて頂きました。じっとしていると悲しくなって涙が滲みだすよう私も、兄や姉に次々に与えられる試練や課題に熱心に取り組むと、その間だけ心の痛みを忘れることが出来るということを見つけ、私は出来ると褒めてもらえて、そのことを兄や姉も我が事のように喜んでくれることを励みに学問に集中して取り組むようになりました。熱心に取り組めば武芸や学問はその人の資質に合わせて力がついてきます。物事の仕組みや世界の成り立ちを理解することが面白くなり、武術もいつしか年上の経験者の打ち負かすようになると、それまで私を蔽っていた悲しみの薄物が自然と剥がれていき、他に優れようというよりも自分をどこまで磨いていけるのか、そのことが私の心を躍らせるようになったのです。私は変わりました。懐かしい父母や兄弟の顔は心の中の遥か遠方に退いてゆました。様々なことが出来るようになった自分に密かに驚き、さらにその上を目指したくなったのです。いまでもその思いは変わっておりません。私という者を導いてくださった長老様には感謝することばもないくらいです。

 しかし、なぜ私なのでしょうか。私は自分で自惚れるくらいには学問も修め武術も人に伍してその上をゆくくらいの密かな自信はありますが、それは一人心の中で思うことであって、今それをことばにして披歴したのは長老様が初めてです。相変わらず一人になれば自信のない私です。部族の長老といえば誰もが頼りにする知恵を持ち、争いあれば双方の言い分を聞き誰もが納得する解決方を示すことのできるお方のことです。まだ若造の私がとうてい務められる重責ではありません。なぜ私なのでしょうか。なぜ長老様は私をお選びになったのですか」

 青年の声に悲痛な色合いが籠っていた。

「そなたがこれほど自らの心の中を語ったのとはなかったのう。そなたは今偽らざる心で儂に向かい合っておる」

 長老は何かを考えるように短い沈黙の中にいた。青年は次のことばを待っていた。

 やがて長老は静かに語り始めた。

「そなたは、今なぜこの神殿の中で儂と二人で対峙しているか分かっておるか」

「それは・・・」

「儂とそなたはここで死を超える話をせねばならない。そうであろう」

「左様でございます。長老様に死が迎えに来るときが近づいております。長い部族のしきたりにより、次の長老が死の床にある長老様から部族に伝わる秘伝を授けられる場であります。一切の口外を禁じられ長老から長老に受け継がれてきた奥義を、私は授けて頂きたくここに控えております」

「それが分かっておれば結構じゃ。では、その奥義とやらを伝えていくことにしようかの」

 青年の体に緊張が走り、握った両の拳に力が入る。体の芯から発熱し皮膚からの発汗で、沐浴のあとに身に着けた特別な白と緋の装束がこころなしか身に纏いつく気がした。部屋の出入り口あたりで幽かに人の身じろぐ気配があった。巫女頭の老女か先ほどの薄絹を纏った少女か。前に一度長老様から聞いたことばを思い出した。奥義は選ばれた長老にしかその意味が分からにようになっている。たとえ口外を固く禁じられたその内容が明るみに出ても、その意味は他の誰にも分からないと。

「心して聞け。これからそなたに伝える奥義は決して明示的に語られることはない。今からそなたに伝えることばのどこを探しても奥義はないと思え。ではこの場では伝えられないのか。いや、いまこここそが奥義を伝える場なのである。だから儂はそなたに伝えるべきものを伝える。それが奥義となる。そして聞く耳を持つ者だけがその奥義の何かを知る。耳を持つ者、それはそなたのことだ。周りで聞き耳を立てておる何者かには到底分からない。だから奥義なのである。よいか、奥義は決して明示的に示されない。しかし優れた耳を持つ者は分かるのである」

 長老の声はまだ張りと艶があり、その確信に満ちた口調は嘘偽りや駆け引きを微塵も感じさせない真実に溢れていた。長老を約束された青年は目を閉じて次のことばを待った。暫しの沈黙。低く続く妙なる楽の音。幽かに感じる空気の流れ。すべてが先ほどから変わっていない。

「儂は語り終えたときそなたに問うであろう。この奥義が分かったかと。その分かったことを儂がそなたに尋ねて、そなたがそなたなりに儂に伝え終わると、この儀式は終了し、儂は死とともにこの世から退場することになっておる」

「もしわたしの理解が間違っているときはどうなりますか。わたしは次期長老になる資格を失うのですか」

「いや、そうではない。儂の問いは長老の資格への合格不合格を決めるものではない。注意深い聞き手であれば皆分かることだ。答えは自ずと求まるようになっておる。儂がそなたの考えを聞くのも古くからのしきたりにすぎぬ。案じることは何もない」

 青年の心臓の動悸はなおも続いていた。

「さて、儂の持ち時間も少なくなってきておる。大事な話を続けよう。しかし、まずはそなたの心を占める不安の第一に答えねばならない。先ほどそなたは自分でよいのかと儂に問うたのではないかな」

「左様でございます、長老様。その問いが日夜私を苛んでおります。どうか哀れと思いなぜわたしが選ばれたのかをお示しください」

「そなたの思いに答えるのは簡単で難しい。そなたは儂に選ばれたと思っておろうが、儂としては自分で選んだという思いはない。そなたはいわばわが民族の摂理によって選ばれたのじゃ。儂はその摂理の働きの実行者にすぎぬ。そなたは先ほど初めて儂と出会ったときのことを語った。儂はそのとき白馬にまたがっておったと申したな」

「左様でございます、長老様。あれは忘れられぬ出来事です。いまでも白馬に乗った長老様のお姿をありありと思い起こすことができます。雨上がりの眩しい太陽に照らされて長老様は輝いておいででした」

「そなたの大切な思い出にケチをつける気は毛頭ないのだが、儂はそのとき乗っていたのは当時可愛がっておった栗毛の馬であった。白馬ではない。よいか、ここが大切なところである。長老は次期長老と会うべくして会う。これが我が民族の摂理なのだ。出会いは自ずと顕現する。そのときの儂の目にそなたは光輝いて見えたのじゃ。儂は確信した。この子どもであると」

「儂がかつて先の長老様によって儂を見出していただいたときの話をしよう。儂もそなたと同じように先の長老様が各地を巡行しておいでの際に出会った。儂がそなたを見出したのも各地の有様を見る巡行のおりであった。儂は今巡行と言った。この巡行は、表向きは、各地の人々の暮らしや国の境の様子などをつぶさにわが目で確かめるという理由になっておる。確かに巡行によって様々な問題点を知りそれを解決する方策を示してきた。各地の巡行は長老の大切な仕事なのだ。しかし、長老が各地を回るのは人々の暮らしを確かめるためだけではない。巡行は次期長老と出会う大切な旅でもあるのだ」

「儂はそのとき十歳であった。そなたよりは幾分年かさが上であった。家の手伝いで町の市場に小麦粉と牛乳を買いに来ていた。町の中がいつもより騒がしいので懇意にしていた物売りの小母さんに理由をきいたところ、長老様がはるばるこの町にきて町長の案内で様子を見ているということだった。先の長老様は、今の儂と違って、この国が隣国とのやっかいな紛争に巻き込まれていたのを、長老になられてすぐ鮮やかに解決してお方だ。人々の長老様を敬う気持ちは強く、巡行した場所場所でいつも黒山の人だかりが出来たという。わしも小母さんのことばを聞いて神様のような長老様のお姿を一目見ようとその人だかりの後ろから見ていた。儂としては会ったことのない長老様だったが群集の中心に一人だけ眩く輝くお方がいるのが見え、それが長老様その人だと確信した。この確信に理由はない。そのときそう強く感じたのだ。儂はぼうっと見とれておったのだろう。儂だけが時間の流れが止まったようだった。心に喜びの思いが溢れ、いつしか儂は嬉し涙を流しておった。気がつくと儂のいるあたりの喧騒がひときわ大きくなっておった。儂が自分の涙で曇った眼を服の袖で拭うと、目の前に今見ていた輝く人が立っておった。その方は実に慈悲深いやさしい眼差しをして儂をご覧になってこう申された。『ここにおったのか、我が息子よ』と。儂は驚愕して全身が震えた。自分に何が起こっておるのか分からなかった。その方は儂の手を取られておつきの従者に何か申された。そこから儂の人生は変わってしまった。儂は次期長老候補として選ばれ、そなたと同じように当時の最高の教育を施された。かつて儂も今のそなた同じように先の長老様に尋ねたものだ。どうして儂が選ばれたのですかと」

「先の長老様はそのときどうお答えになりましたか」青年は我を忘れて長老の話を遮りこう問うた。普段であれば著しく無作法な行為であった。しかし青年は尋ねずにはいられなかった。

「先の長老様は、先ほど儂がそなたに答えたのと同じ答えを与えた。儂が群集の中でただ一人光輝いていたと。よいか、儂は出会いは自ずと顕現するとそなたに申した。これが我が民族の摂理であると。これ以上の答えはない」

「では、長老がもし生きている間にその後継者たる輝く子どもの出会わなかったどうなります」

「そのときは長老がもっとも国を治めるに相応しい者を後継者として指名する。我が民族の歴史の中で百年ほど出会いの顕現を経ぬ後継者が何代かこの国を治めたことがあった。そなたの知っておろう。そのときこの国はどうなった」

「国は他国の侵略との戦いに明け暮れ、民は疲弊したとありました」

「その通りじゃ。出会いの顕現を経ぬ長老はこの国に益をもたらさぬ。それゆえ長老が次の長老を探して巡行することが重んじられるのである。すべては国の安寧のためなのだ。では顕現を経ぬ長老がなぜまた顕現による代替わりへの道筋に戻ることが出来るのか。儂にもそのことわりは分からぬ。目に見えぬ一本の道があり、たまさかそこから外れてもまたもとに戻るという摂理が働いているとしか思えぬ。なぜと問うそなたへの十全の答えになっていないであろうが、生涯かけてそれを考えてきた儂にもそれは分からない。そなたは長老を襲うとすぐ巡行の旅にでることになる。出会いの顕現は必ずあると信じてよく辺りを見ることじゃ。出会いはいつ現れるか。これは誰にも分からない。最初の巡行なかの三十年後の巡行でなのか。はたまた出会いがないのかも知れぬ。ただ、出会いがあれば必ず分かる。そなたの前に光輝く者が現れる。見間違うことはない。先の長老様が儂を見出し、儂がそなたを見出したように」

 長老の言葉が真実であることは青年にも痛いほど分かった。自分もこれから出会いを見つける旅に出るのだ。

「喉が渇いてきた。水を頼んではくれんか」

 青年は先ほどと同じく手を二回叩き巫女頭を呼び、長老の所望を伝えた。再び、薄物を纏った年若い巫女が容器と柄杓を持ち現れ、先ほどと同じ所作で長老に口移しで水を含ませた。今度は一回飲んで長老は巫女を下げさせた。青年は巫女の端正な横顔を見つめていた。それに気づいたのか別室に下がる前に巫女は青年を見つめ、青年が自分を見つめていることに気づき恥ずかしそうに眦を床に落とすと音もたてずに姿を消した。

「話を続けるとしよう」

 長老のことばに青年はまた神経を集中させた。

「奥義は明示的には語られることはないと言った。だから今から述べることは儂の個人的な感想と思い聞いてもらいたい。奥義を伝える場で個人的な感想を述べる。場違いも甚だしいとそなたには感じられるかも知れぬ。だがこれも奥義を伝える大切な歩みの一つだと儂は思っておる。すべてはそなたの受け止め次第である。よいかな」

「長老様の語られるものは、私にとって、全て真実の輝きをもっております」

「まあ、そう固くならずともよい。儂がこの場で偽りを申してなんとなる。ただ儂の言葉をうのみにしたり拳拳服膺するのではなく、自らの糧になると思えば己の裡に取り入れればよい」

 心なしか長老の息遣いが荒くなり、語調も弱くなっているようだった。青年の心はそう思う自分を叱りつけた。自分の心の弱さゆえそう思うのだと。また部屋の周りでは息を凝らしている人の数も増えている様子がありありと伺えた。なんと分かりやすい者たちだ。叱りつけた自分が今度は何も分からず侍っている者たちの愚かさを嗤う。歴代の長老もこういった者たちに囲まれて奥義の伝達をしてきたということか。そしてその者たちの努力の積み重ねに拘わらず奥義は外に漏れることなく伝承されてきた。長老のいう、奥義は明示的に示されないことの証左ということだろう。

「そなたの知るように儂は国の長にして国民の大部分が信じている神を祭る最高の職にある。これは長老の役目である。季節の節目ごとに神に感謝の祈りを捧げ、次の季節の豊作を祈る。同時に国の安寧を民の安らかならんこと健やかならんことを日々祈っておる。率先して範を示すことで宗教的権威は保たれ国は統一性をもつ。いわば長老は国の物質的世界と精神的世界を生身の人間として体現する存在なのだ。ゆえに長老は生涯独身を保ち、己の判断が己の小さな欲望に左右されないよう日々精進する義務を負う。これは建前で言うのではなく、そうあらねばならぬという格率である。選ばれたものだけが己を殺して守る掟なのだ。だが儂は、・・・」

 長老はふと押し黙った。青年には永遠とも感じられる沈黙ののち驚くべきことを語りだした。

「儂はこの格率を何度も破った。破戒の咎を受けねばならぬ者なのだ」

 もし空気にその場の有様を写す色があるとしたら、長老のこのことばが発せられた瞬間、部屋の中はもちろん部屋の外も色を変えたと思われる。部屋の中は沈んだ青色に、部屋の外は様々な色が飛び交う無秩序な様子に。青年はもう驚かなかった。静かに次のことばを待った。

「儂は肉欲に負けたのだった。先ほどそなたも姿を見たであろう巫女頭と、儂は遠い昔にわりない仲になった。儂も若かったし彼女も若かった。二人とも神に我が身を捧げる身ながら一時の恋心の陶酔に酔い痴れた。甘美な陶酔ほど誘惑的なものはない。滑稽なことに儂らの仲はすぐに皆の知るところとなった」

 隣の部屋で何かの倒れる気配がして慌ただしく行きかう動きが感じられた。どの動きも息を殺して中の我々に気取られぬようにと心を配っていることが手に取るように感じられた。恐らく長老はそのことも分かって話したのだということが青年には分かった。分かっていなかったのは巫女頭の老女だけだろう。

「・・・大切なことは、人の集まりを平安の裡に維持しようという力が自ずと働くということだ。勿論、儂が国の長としてボンクラであれば、それを快く思っていない人の数が多ければ、儂はそれを口実にして今の地位を罷免されたかも知れぬ。しかし儂は誰にも脅かされることはなかった。一言の弁明もしないで、儂は何気ない風にそれ以後国を思い一心に祈りを捧げ続けた。儂を知るもので儂の行いに一点の我欲もないこを知るものは多い。何事もなかったかのように今まで振舞ってきておる。それを知るものも知らぬ者も儂のことばに從ってきてくれた。人の集まりは面白い。権威は人が認めたからこそ権威なのだ。それ以外のものではない」

 青年にはこれが前置きに過ぎず、ここから長老の話の核心が始まるのだと分った。だから静かに威儀を正してことばを待った。幽かに戦いでいた爽やかな微風が止み、部屋の空気が濃密になったことを感じ取っていた。

「その通り、ここからが大切な話だ。しかし、同時に無益な戯言でもある」青年の心の動きを見透かしたように長老は語りだした。

「先ほども言ったように、これは七十年以上も長老を続けて参った儂の個人的な感想である。ただし口外すると敏感な者たちが騒ぎ出すやも知れぬから、そなたの心だけで受け止めて欲しい」

 先ほどの騒ぎがまだ収まっていないのか、部屋の外はうって変わって押し黙ったような人の気配が消えていた。ただ一人、長老に水を与えた年若い巫女の存在が感じられるのみだった。長老はこの事態を自分で作りだしたのだろうか。青年の口元が僅かに綻んだ。

「それでよい。そなたは若いゆえに生真面目すぎる。肩の力を抜くがよい。さすれば儂のことばもすとんと胸に落ちようぞ」

「仰せの通りにいたします」笑みがひとりでに零れた。長老の話声が一段と小さくなった。これでは部屋の外で中を伺う役目のあの巫女は自分の仕事が出来ずにさぞや焦ることだろう。

「では述べるとする。儂は何十年と儂の神を探してきた。その結果儂は一つの結論にたどり着いた。すなわち、神はいない、ということじゃ。これは驚くことではないかも知れぬ。しかし古今東西の文献を読み漁り、各地の高僧の門を敲き教えを乞うてきた儂がたどり着いた末の結論なのだ。この結論を得て儂は大いにがっかりした。かつて幾人もの宗教の開祖たちが悟りを開きそれを弟子たちに伝え、また心の安寧を求める者の入信を許し僧団をつくり布教活動をしけてきたその宗教者の、いわゆる信じれば約束される死後の極楽の暮らしというものは、ないといことだ。神がいないのならどうやって心の平安を得ることができよう。儂は一人寒風吹きすさぶ荒野に取り残された思いがした。寄る辺なき思いに耐えるのは辛いことじゃ。儂の神はいない。だが儂は部族の長として人々が信じ縁とする神を祭る最高位にある者だ。だから鷲はこう考えた。儂の神はいない。しかし人々の神はいる。確かにいると信じておる者たちがいる。この事実を前に儂は人々の神を儂の神とした。詭弁であろうとそなたは感じるだろう。突き詰めると矛盾そのものだ。しかし、儂が長老であり祭祀を行う者であることとは矛盾しない。もとより儂がこの身を長老の役割に捧げて以来、儂個人はどこにもいなくなった。人々が望む役割というものがある。厳然とある。それに応えなくてはいけない。幾多の苦悩と煩悶とを繰り返した挙句に儂が到達した結論である」

 己の矛盾に引き裂かれても長老として威厳を保つ語りに、青年は圧倒されていた。己の真実より自分に從う者たちの真実を優先する。これこそが長老たる者の在り方ではないか。自分にはそこまでの覚悟が今はない。

「学ぶことじゃ。多く学び、それと自分を対決させ一歩ずつそなたの歩みを進めていくがよい。人の声に耳を傾け、弱い声の者も疎かにせず、老人に敬意を表しそのことばから学ぶことじゃ。さすればそなたは長老の重責を全うすることが出来るであろう」

 再びの沈黙があった。空疎ではない沈黙に部屋は満たされ、青年の心も暖かい思いに満たされていた。その思いは文字には出来ない思いであった。

「さて、以上は儂の個人的な感想である。奥義でもなんでもないことは既にそなたは了解しているだろう。しかし、これをもって我が最後の仕事たる奥義の伝達は終わった。最後の仕上げじゃ。近くにおいで。そして儂の耳に口を近づけて、そなたが了解した奥義の内容をそなたなりに儂に伝えよ」

 長老の声はすでに弱くなり、死がそこまで来ていて長老の魂が肉体から離れるのを待っていた。

 青年は床に膝をつけたまま滑らせ長老に近づくと、顔を近づけ口元を長老の耳に今にも触れるところまでもっていった。そして誰にも聞こえぬ小さな声で自分なりに理解した奥義の根本要諦を囁いた。そして体を元に戻していった。長老は苦しそうな息の中、唇を綻ばせ喜びの表情をつくった。

「そなたは儂より賢いかもしれぬ。儂は先代の長老様からもっと精進せよとのおことばしか戴けなかった。今にして思えばそのことばは正しかった。儂は多くの迷妄の闇の中で悪戦苦闘してのち先の長老様のおことばが胸に落ちるまで幾歳月かかっただろう。儂はそなたのような後継者を得られて嬉しい。この国はそなたによって更に栄えていくだろう。儂の最後の仕事が終わった。何も心に残すことなく逝けるというものだ」

 このことばを最後に長老は再び長い沈黙に入った。青年は深く自分のこころの中に沈潜していた。何かを考えているのではなかった。長老が最後の最後に彼に伝えたものを感じていたのだった。それは長い時間ではなかった。気づくと長老の咽から聞こえていた掠れた呼吸音は止み、時がそこだけ止まっているようだった。長老の魂はすでにこの世を離れたあとだった。青年は頭を床につけ限りない感謝の思いを反芻した。そしてゆっくり立ち上がり音も立てずに出口の戸に手をかけ、一気に引き開けた。そこには長老に二度水を供したあの年若い巫女が一人いた。部屋の中の物音をひとつも聞き漏らさないように集中した格好を保ったままであった。急に開けられた引き戸に驚き小さな声を漏らして、少女はゆっくりと床にへたり込んだ。目は大きく開けられ叱責を懼れて怯えているようだった。見ると体が小刻みに震えているのが分かった。

「そなたしかいないのか」少女を怖がらせないようにと落ち着いた小さな声で問うた。

 少女は目を大きく見開いたまま頷くのが精一杯だった。

「そなたの耳には長老様の最後のことばはどこまで聞こえた。憶えていることをそのまま言ってごらん」

「わたしは何も知りませぬ。巫女頭様にここにご用事を言いつけられたらきちんと粗相のないように努めを果たしなさいと命じられただけです」

「わが目を見よ」青年はやや強く申しつけた。少女の怯えがひどくなったが確かめなくていけない。

「わが目を見ながら聞け。そなたは長老様のおことばの最後をなんと聞いたのだ」

「お許しください」少女は懇願した。奥義の場は最高に神聖な場であり何人も立ち入ることはおろかそこで行われるやりとりを聞くことも固く禁じられていた。その禁を破ったとなるとどんな罰を受けるかもしれない。これは誰もが知るところだった。

「わが目を見よ。そして我が問いに答えよ」

 青年のつよい言葉に促されて、少女はおずおずと青年の眼差しをわが目に捉えた。青年の眼差しが少女の目を射抜きそのままこころの奥底に突き刺さった。ああ、もはや抗うことができない。このお方は何もかもお見通しでいらっしゃるのだ。それが分かった少女はやっとの思いで口を開いた。

「長老様が自分のおことばを戯言だと仰ったところまでです・・・。お許しください」

 少女の瞳から涙が零れ落ちた。体の震えが先ほどより大きなっている。青年がさらに強いことばを発すれば恐らく少女は気を失ってしまっただろう。

 長老様は、奥義は明示的に語られることはないと仰せられた。であるから、その語った全てをこの少女が記憶して巫女頭に語って聞かせたところで奥義が伝わることない。だからこその奥義なのであった。この正直な少女は言いつけ通り、懸命に、小さく漏れ聞こえる会話に聞き耳をたて一字一句を憶えたことだろう。しかし肝心の奥義を聞き逃したということで咎めを受けかねない。

「ならば教えてやろう。長老様は続けてこう言われたのだ。『儂は自分を捨ててこの国の人々の信仰のために我が身を捧げることに決めた。儂は儂の務めを果たそうとし、そして果たした』と。このわたしが『精進を怠らず、日夜人々の安寧と豊かならんと願い祈りを捧げよ』と。どうだ憶えられたか」

 少女はやっとの思いで頷いた。

「巫女頭に問われたらそう伝えるのだ。『それで全てか』とさらに問われれば、『全てでございます』と答えよ。よいな」

 そして青年は着ていた上着を一枚脱ぎ、震えの止まない少女にやさしくかけた。そして頭を上げ、大音声でこう呼ばわった。

「皆の者、長老様がたった今お隠れになられた。葬儀を始める。準備を始めよ」と。

今わの際に奥義を語る長老の声

今わの際に奥義を語る長老の声

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更新日
登録日 2020-07-26

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