ため息収集家

ニャンチ5号

ため息収集家

ある日の夕方。K氏は常連になっているバーのカウンターでいつもの水割りを呑んでいた。
 思わず「ふぅー」とため息が漏れた。
 週に数回程度利用している店だった。会社で最近昇進したのはいいが任されたプロジェクトの進展が思わしくない。今日も退社間近に上司に呼ばれてお小言を頂戴した。君には期待している。社運がある意味君の双肩にかかっているといっても過言ではない。私の期待を裏切らないようにしてくれ。どれも耳に痛い。そして上司の部屋から出ると胃が痛くなる。家に帰っても息子は反抗期でろくに口もきかないし、妻は怪しげなセラピーに夢中になっていて家事もろくにしない。家庭内にはどこにも心を癒す場所がない。こうして場末のあまり流行っていない店で安い酒をちびちび飲むのがK氏のささやかなストレス解消法だった。上司に呼ばれない日にも来るようになった。
「ふぅー」考えないようにしていてもため息は出る。
 ふと横に人の気配がした。そちらを見ると恰幅のいい初老の紳士がいた。K氏の視線に目礼で返してきた。
「いや、突然で失礼します。私はこういう者です」
 高級そうなジャケットから紙入れを取り出すとそこから名刺を抜きK氏に手渡した。名刺にはこう記されていた。

 ため息収集家 〇野□蔵

「変わったご職業ですね。ところで私に何かご用ですか」名刺と人物を見比べながら、K氏は言った。
「いえ、怪しい者ではありません。そこに記してあるようにため息を集めています」
「ため息って集められるものですか」
「普通はそう思いますよね。ところが私の長年の研究でついにため息が集められるようになったのです」
 〇野氏はそう言うと、ジャケットのポケットの中からジュラルミンの灰色の小箱を取り出してカウンターの上に置いた。見ると四角い窓が開いていてカウンターになっているのか「-2」という表示が見てとれた。箱の横に何やらスイッチのような突起が2つある。
「私の発明した携帯型『サイキャッチャー』です。そこに数字で「-2」とあるでしょう。今しがたあなたが漏らしたため息を2つすでに収集してあります。どうですか、わたしにあなたのため息を売ってくれませんか。買い取り価格はため息1つにつき100円でどうでしょう。質のよいため息なら300円で買い取ります」
 K氏は〇野氏の言葉を反芻した。もともとため息など何の役に立つのか。趣味の昂じた好事家の考えることは分からない。しかし元手のいらないため息がお金になるなら悪い条件ではない。今の自分ならため息など幾らでも出せる。
「一つお聞きしたいことがあります。ため息を集めてどうするのですか」
「ごもっともなお考えです。簡単に説明しますと、この世の中はエネルギーによって作られています。物理で学習した熱エネルギー、光エネルギー、運動エネルギーや位置エネルギー、地震の原因のひずみのエネルギーなどはご存知だと思います」
 K氏は頷いた。
「私は長年の研究で、そういった物理世界のエネルギーの他に、精神エネルギーが確かにあることを突き止めたのです。長くなるので詳細は省略しますが、この精神エネルギーにはちょうど電気のようにプラスのエネルギーとマイナスのエネルギーがあることが分かりました。そしてプラスとマイナスのエネルギーは互いに打ち消し合うことも発見したのです。子どもが誕生日プレセントを貰って喜びを爆発させる。ここでプラスの精神エネルギーが発生します。プレゼントの包みを開けると欲しかったおもちゃじゃなかったら子どもは落胆しマイナスの精神エネルギーを発生させます。プラスとマイナスのエネルギー量が同じであれば元の気分に戻りますが、大抵はマイナスのエネルギーの方が大きく、子どもは落胆したままとなります」
「そこまでは分かりました。で、ため息を収集して何にお使いになるのですか」
「よいご質問です。私の話を聞いてそこまで踏み込んでお訊ねになる方は珍しい。私は精神エネルギーを自然界のエネルギーに変換する機械を発明しました。このことによって何か人類の生存を脅かす動きがあれば、私の収集したマイナスのエネルギーで大惨事を未然に防ごうと思っているのです。例えば海底地震で津波が押し寄せてくるとします。過去には大津波で大変なことになったのも記憶に新しいことです」
 K氏はかつてテレビで見た大津波が家や車を呑み込む映像を思い出した。
「そういったとき、収集して増幅したマイナスエネルギーをぶつけると、正負のエネルギーが打ち消し合って被害を軽減するのに役立つのです。大きな声では言えないのですが、とある財団から私の研究へ助成がされています」
 〇野氏は一段と声をひそめて言った。
「政府系の財団です。お墨付きも得ています」
 言い終えて〇野氏はウインクした。
 K氏は迷った。ひょっとしてこの人は気が狂っているのかも知れない。関わり合わない方がいいのではないか。俺はしがない会社勤めのうだつのあがらない中間管理職だが、それでも分別盛りではないか。まともな大人はこういう人種とは関わらないものだ。K氏のスーパーエゴは健全だった。しかしこの日のK氏はいつものK氏とは少し違っていた。上司から担当しているプロジェクトの成否如何ではボーナスの額を減らされると脅かされた。お前がダメだと俺のミスだと思われる。ネチネチと愚痴とも説教とも言えない小言を延々と聞かされ、K氏は普通の状態の心を保てなかった。悪魔が囁いた。短い人生だぜ、少し人生を面白くしてもバチは当たらないぞ。お前はこれまで十分頑張ってきたし、今も家族のために頑張っているじゃないか。怪しい話でも投資をしろという話でもない。仮に目の前の紳士が狂っていたとしても実害はないじゃないか。そう思ったK氏は〇野氏の申し出を受け入れた。
「有難うございます。これは万年筆型の『サイキャッチャー』です」
 と言って〇野氏は胸ポケットから銀色に光る棒状の機械を取り出した。
「これを胸のポケットに差したままお仕事をして頂くか、身近に置いて頂くと、あなたがため息をつくたびにそれを機械が自動で集めます。この店はよく利用しておいでのようですから、来るたびにため息の詰まった『サイキャッチャー』をマスターにお渡し頂き、新しい空の機械をお持ちください。私は定期的に回収に回っていますからその時に報酬をお支払いしましょう。いえ、領収書は必要ありません。
「ご注意頂きたいのが、落胆していないのに『はぁー』とか『ふぅー』とかため息をついてもカウントされません。純粋にマイナスのエネルギーではないといけないのです。このペン型にもカウンターがついていますからどういう場面でカウントされるかをご確認ください」
 K氏は、「なるほど偽物はダメなんだ。よくできている」と思いながら〇野氏の説明を聞いていた。

 次の日からK氏の胸には銀色のペンが光るようになった。いつも胸で光っているので同僚が不思議がって手に取っても怪しまれることはなかった。みなそれぞれ忙しいのだ。
 K氏の担当するプロジェクトも最初はなかなか成果を出せず、上司からの小言を聞く機会も頻繁にあり、機械のカウンターも順調に数を増やしていった。正確にいえばマイナスがついているので数を減らしていったが正しい表現だ。会社で上手くいかない、家庭でも上手くいかない。カウンターの数字が減っていくのを見てもため息がでた。
 ところが上司が別の案件で社内の不正経理に関わっていたことが露見して異動になり、今度は褒めて部下を育てるタイプの上司が来たのとほぼ同時に、プロジェクト自体の顧客層の見直しをしてアプローチの方法を変えたのを契機に少しずつ成果が出始めてきた。家庭の中も、妻が夢中になっていたセラピー会社が詐欺で摘発されて眼が覚めたのか、元の優しい妻に戻っていき、反抗期真っ盛りの息子は部活で副部長になって少しは人間関係で苦労したからか言動に落ち着きが出てきた。自然とK氏のため息の回数も減ってきた。相変わらずバーには通っていたものの、ときには小さな祝杯を上げに行くこともあった。ため息の回数は少なくなった。

 ある日、ペン型の『サイキャッチャー』をバーのマスターに渡していると、例の〇野氏が現れた。そしてK氏にマイナスエネルギーの収集は完了したので、依頼している件も今回で終了だと告げられた。
「いやぁ、ご協力頂き有難うございました。お陰様でマイナスエネルギーも予定量を収集出来ました」
 〇野氏はインジケータの数字を確認してから封筒をカウンターの上に置いた。
「今回分の謝礼と、これまでご協力頂いたお礼も僅かながら加えてあります」
 K氏は礼を言って封筒を受け取った。ため息をつかなくなってから数字が下がらずにいたのを少し心苦しく思っていたので、終了と聞いてほっとしていた。
 〇野氏とはそれ以来会わなくなった。特段気の合う友人という訳でもないし、K氏の仕事も忙しくなっていったので自然と思い出すこともなくなっていった。

 数年が経った。
 K氏はかつての上司のポジションにいた。複数のプロジェクト・リーダーを束ねてそれぞれの案件ごとに適切な指示を与え激励していた。時には辛辣なことばで責め立てることもあった。損な役回りだと思った。
 その当時、会社でも家庭でも話題の中心になっていたのは、異常気象によるのか例年にない長雨が引き起こしたこの国で一番大きなダムの決壊と、大災害が予想されていたその決壊に続く大水害だった。不思議なことにダムは貯水限界を超え決壊したものの、その後必然的に引き起こされる河川の氾濫がほとんどなかったことだ。専門家は首をひねるばかりで合理的な説明は何ひとつできなかった。それでも人的な被害がないことに世間は安堵し結果オーライの風潮が支配的になり、やがて忘れられようとしていった。
 ところがダムの決壊現場から一人の男性の遺体が見つかった。関係者ではないその男性は、自分の好奇心のせいでダムを見に行き、そこで水に呑まれて落命したと報じられた。六十歳半ばのその男性の行動の無謀さを世間は笑いものにした。愚かであると。K氏は悪い予感がした。そしてその予感が現実のものになるのに時間はかからなかった。
 テレビに映されたその男性の顔は、あのため息収集家その人のものだった。彼は人知れず数千数万人の命と財産を守ったのだった。
 K氏の分別はそれを明らかにしたところで誰ひとりとして信じる者がいないだろうと結論づけた。
 久しぶりにあのバーに顔を出して、ため息収集家の冥福を祈りつつ酒杯を傾けた。家に帰る時刻がきて、K氏はグラスに残った液体を飲み干して、大きく一つため息をついて立ち上がった。

ため息収集家

ため息収集家

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2020-07-26

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