初めての幽体離脱

ニャンチ5号

初めての幽体離脱

幽体離脱に成功した主人公の経験譚です。

「少し薬品っぽい匂いのガスがでます。では、一から十まで数えてください」
 昨日、全身麻酔手術の説明を聞いた麻酔医の声が耳元でした。数を数える間もなく、ふっと世界が白く溶けた。その刹那、わたしの意識は肉体を離れて浮遊を始めていた。

 わたしはアストラル放射、つまり幽体離脱に成功したのだった。
 ふつう幽体離脱というと覚醒時と半覚醒時の間に見る夢見のコントロールだろう。エクトプラズムのように白いガスが口から出ていき、自由に動き回るというイメージもある。もう随分昔のこと、オカルト・ルネサンスがサブカルチャーで喧伝されて、それに関する書物が多数出版され、とある書肆では文庫がシリーズ化されたことがある。その中の一冊に、W・E・バートゥルの『超能力・魔法入門』があった。現代の本物の魔法使によって、普通の人間にも適切な修行によって魔法の世界に参入できる訓練法を具体的に説いている、というのが惹句であった。当時、既成世界が鞏固でかつ陳腐なことばの羅列にすぎず、新参者を容易には受け付けない牢固なギルドであるという印象を何故か信じていたわたしは、息苦しいような閉塞感に打ちのめされていた。わたしはその本の中の一節、『思うままに意識の中に変革を起こす技術』に惹かれ、その習得を目指して、説明のとおり、呼吸法・気の集中法・覚醒しつつ心を空っぽにする法などの修練−思えば退屈な修練−を半年ほどがんばり、ようやくアストラル・ライト(幽光)の片鱗を垣間見るところまでに達した。ところが、人生には平凡な人間にも節目があり、取り巻く環境の変化への対応に心を砕いているうちに、いつの間にか魔法使いになりたいというささやかな望みは日常の喧騒に紛れ見えなくなっていった。ただ、その書の中に、『アストラル放射は修練により睡眠時にも起こすことができるし、まれに事故等による強いショックや全身麻酔による強制的な意識の空白状態によっても引き起こされることがある』という記述があり、記憶の深いところに格納されていた。
 それから数十年後。浮世の身過ぎ世過ぎに心身ともにくたびれて、挙げ句、今頃ではそう珍しくもないS字結腸癌の宣告を受け、その切除を腹腔鏡手術で行うことになった。病院での手術の日程・内容などの説明を受ける際の『全身麻酔』という担当医のことばに、記憶の奥底に秘めた思いが反応した。これは幽体離脱できるチャンスではないか、と。後から考えれば、これは相当に不謹慎な発想に違いなかった。しかし、自分の体で行うことなので、家族にも誰にもいわなければ、結果がどうでも誰にも知られない。下腹部に違和感を抱えつつ、昔の修練を思い出し、再びアストラル・ライトが見えるまでに意識レベルを上げるよう入院までの毎日練習した。あとはこの状態を維持しつつ、麻酔による均衡の乱れを感じられれば放射が行われるはず、というのがわたしの目論見だった。
 結果からいえば、その目論見は成功した。

 体から出て浮遊しているのはわたしの魂だろうか。周りを見渡しても自分がどのような姿形をしてか判然としない。動こうにも足がないのだからどうしようもない。そもそも浮遊をどうやってコントロールするかなんて分からない。変にもがくのを止めて移動したい方向へ意識を集中するとゆるゆるとそちらへ動くことができた。目を閉じていても手術室の壁の一点に意識を集中すると、目を開けたときに目標の間近な場所にいることが分かった。目があるかどうかも怪しいのにと自分自身でも訝しかったけれど、すべては意識集中とそのコントロールだと気がついた。
 天井近くから下を見下ろした恰好になっていた。下腹部に4箇所の穴があけられ、3人の医師がそれぞれ手に器具を持ち近くのモニターを見ている。モニターには炭酸ガスで膨らみ照らされた腹腔の内部が大きく映し出され、文字通りはらわたと脂肪が気持ち悪く重なりとぐろを巻いている。実際に見てみようと移動して自分の腹の中に入ってみた。間近で見る内臓がやはり気持ち悪いものだ。いくら自分のものでも気持ちが悪い。そういえば小さいころから生き物の内臓の絵や写真を見て気持ちが悪くなり、吐きそうになっていたことを思い出した。それに自分の体に入るとすぐ強い力で引かれた。きっと体の中の納まるべき場所にいけば眠りと溶け合って今の意識がなくなるような気がした。早々に自分の体から出ることにした。
 手術は驚くほど機能的に事務的に進んでいく。当たり前だが誰も無駄口をたたかない。専門用語が飛び交い、器具を操作する音だけがそこにあった。その光景をしばらく見ていたら、本来自分の手術を体外から見たいという願望から幽体離脱を企てた思いも遠い昔の出来事に後退し、もう少し広い世界を見たくなった。その手の書物によれば、アストラル体のいるアストラル界は死後の魂がつかの間留まる世界らしい。何に会えるのか。興味はそちらに移っていった。
 どうにかこうにか自分の意思通りに移動がコントロールできた。この状態で壁を抜けることができるのかやってみた。結論からいえば出来た。しかし、個体の中に入ると視野が閉ざされた暗闇のなかいると急に怖くなってしまう。しかたなく実体のあるときと同じようにガラスの仕切りを超え、曲がりくねった廊下をふらふらと移動し、窓ガラスを抜けて外に出た。

 外は近年最大級の台風が通過した直後で、雨は降っていないものの、強い風が木々の枝を揺らし、建物の隙間を通るさいに唸り声をあげていた。あの強風は浮遊物でしかないわたしの魂を吹き飛ばさないのか。心配しつつ浮き上がってみる。髪の毛を振り乱しているような枝の近くにいても風の影響がほとんどない。やはりアストラル界は物質界を超えた世界だというのは本当らしい。
 広い敷地をもつ新しい病院は、取り巻く道路と駐車場がきれいに色分けされ、緑の芝生が広がり、病棟の窓から見ても安らぎを覚えるほどだった。強い風は盛んに木々にまとわりついている。ひと頃より弱くなった陽の光が9月の半ばを感じさせる。
 そのとき、どこからか強い悲しみの思念が感じられた。

 見渡しても、今の悲しみを送ってきた者は見えない。弱く微かだけれども強い悲しみの思い。わたし自身ではこれほどの強い悲しみを経験したことはない。もちろん長く生きていれば悲しみも喜びもそれなりにある。ただ飼い猫が目の前で息を引き取っても、大切にしていた本を小さな息子に涎でべとべとにされても、これほどつよい感情の動きはなかった。悲しいというより空虚感で満たされた。悲しみも空虚感も時の移ろいとともに減衰していく。そしてあるとき悲しみの輪郭だけが残り、悲しかった出来事というマーカーがつき記憶の中に入れられる。
 しかし、いまわたしの感じた悲しみの思念はとても強いものだった。いわば現在進行形の悲しみだった。だれかが今強く悲しんでいる。わたしは途切れ途切れにやってくるその悲しみの思念に意識を集中して、それが送られてくる大まかな方向を確認すると、そこへ行ってみることにした。

 近づくと悲しみが膨れ上がっていく。それが最高潮になったあたりにだれかがいた。だれかは分からない。形象は目に見えない。こころで感じるしかない。そして悲しみを発しているのが若い魂だとうっすら感じられた。多分、悲しみの主人はすぐ目の前にいるんだろうと思い、声をかけてみた。通りに面した大きな建物の破風の上だった。
――ねぇ、どうかしたの。
 我ながら間の抜けた問いかけ方だと思った。同時に先方が驚いて息を呑んだのが分かった。悲しみが途切れた。小さな声がわたしのこころに直に届いた。
――あなたは、・・・だれ?
――いや、通りすがりの者です。
 ことばに窮して間抜けな返答をしてしまった。我ながら嫌になる。
――男の・・・人...。お兄さんなのオジさんなの。
――残念だけど、若くないお兄さんの方だよ。
――そう...。でも残念じゃないよ。わたし、オジさん好きだよ。
――そうかぁ、よかった。...えぇっと、ねぇ、少し話をしてもいいかな。
――うーん。わたしね、今、結構忙しいんだ。いろいろ考えて決めなきゃいけないことがあるから。手短にしてもらえると嬉しいかも。
――うん。分かった。手短にするよ。ぼくは、多分、きみのこころから出ているとても強い悲しみを感じた。まともに向かい合うと息苦しくなる強い思いだ。ぼくに何かができるとは思わないけど、どうにかしてあげたいと思ってここに来た。きみは...、何を悲しんでいるの?
――オジさん、お節介だねぇ。でも、それって親切心というやつだよね。わたしも大好きな先生から、困っている人がいたら手を差し伸べなさいって教わってその通りだと思ったもの。親切にされたら応えなきゃいけないよね。
  わたしね、今、生きるか死ぬかどっちにしようかと思ってたところなんだ。ここから下の道路を見て。新しいキズがついているのが分かるでしょ。
 昨夜の台風の風雨に洗われた道路の上に、なにか金属でひっかいたような跡がついている。タイヤのブレーキ痕と、赤黒くなったシミもあった。ブレーキ痕は太いものと細いものが交錯し、交わった点から細いものが消えていた。
――わたしね、少し前にここで事故ったんだ。数時間前。運転してたのはわたしじゃなく男の子。そいつはもう死んじゃったから、今じゃ元カレだけど。頭はバカだけど笑顔のかわいい男の子。わたしには優しかった。でも所詮バカはバカだよね。わたしを無理やり改造バイクに乗せて、テクもないのに他の車を煽ったりして。ホント、バカ。バカやって死ぬのは勝手だけど、こっちも巻き添え喰っちゃった。
 わたしの体はねぇ、今、生きるか死ぬかの瀬戸際にいるみたい。魂が何かのショックで抜け出たわたしは、どちらかというとそのまま死んだ方がいいんじゃないかと思案中なの。オジさん、どう思う。
――うーん。生きてる方が断然いいって言いたいけど、簡単に結論をだしていいものでもないしね。少なくとも君は生と死の狭間にいるらしいし、僕は君のこと何にも知らない...。
――そう...、そうだよね。深い問いに答えるにはデータ不足だよね。...じゃ、ついて来て。現実を見せてあげる。
 最後のことばだけが妙に明るく響いた。その明るさに胸が締め付けられる思いがかえって伝わってきた。女の子の魂が動き始めた。どうしてそれが分かるのかと自問しても、分かるものは分かるとしか答えられない。女の子の幽体はわたしが出てきた医療センターを目指してるようだった。木々の緑は相変わらず強風に弄られている。
 彼女の魂は救急救命室の横を通ってICUと書かれた扉の中に入っていった。私もあとに続いた。
 たくさんのチューブや計測機器につながれた女の子がベッドに横たわっていた。脇のヴァイタルを示す装置が、彼女がまだかろうじてこの世にとどまっていることを示していた。ベッドの傍には、髪を乱して盛んに涙をぬぐっている中年の女性と、頭を抱えて背中を丸めている中年男性。そして足元の椅子にはゲーム機を一心不乱に操作している中学生くらいの男の子がいた。
 女の子は左半身のダメージが大きく、顔も包帯でぐるぐる巻きにされていた。顔の右側は無傷で、意思の強そうな眉に、長い睫毛の目元が涼しげで、包帯をしていなければ女性誌の表紙モデルも務まるんじゃないかと思わせる整った顔つきだった。今はその美しい眉を苦し気に眉間に寄せたまま時間を止めていた。彼女の声がこころに届いた。
――これが今のわたし。体の左半分は使いもにならないかも。左手の肘から先は血まみれ、左足の足首は見たこともない方向に曲がっていた。顔の左半分もぐちゃぐちゃ。ああ見えてもね、わたし、けっこう見てくれには自信があったのよ。結構きれいでしょ。
――そうだね。若いころに会ってたら好きになってたかもしれない。
――それって褒めてんの? 変な褒め方するんだねぇ。
 右にいるオバさんがわたしの母親。母親らしいこと何ひとつしてこなかった女。今泣いているのも、バカな娘をもってこんなに不幸ですと演じている女。頭の薄くなったオジさんがわたしの父親。見るのは数か月ぶり。ずっと女のところに入り浸っていた。その女、一度だけ見たことがあるけど、自分の女房と大差ないんで、この程度のやつかぁってがっかりした。頭を抱えているのは、このあと自分の妻から非難されるのを恐れてのボディランゲージでアピールしてるといったところかな。足元にいる中学生は、わたしの弟。不登校でゲームしか興味がない。実の姉が生死の境にいてもゲームの方が大事。
 どう、オジさん、オジさんがわたしだったらここで目を覚ましたいって思う。わたしね、心底こんな家族はどうでもいいんだ。これじゃ家族ごっこもできやしない。わたし、これでも学校じゃ優等生なんだよ。高校じゃいつも成績優秀、品行方正、高2で高3生を抑えて生徒会長。この擬態作りに熱中してたころはまだよかった。だって先生や周りのだれもが一目置いてくれたもの。でものそのうち気がついた。そいつらも擬態を作ってるんだって。優等生を褒めて称賛する。薄っぺらなことばで褒められれば嬉しくなくなる。ことばに血が通ってないんだよね。そりゃ、わたしもべたべたしてくるヤツには冷たくするし、言語レベルのサル並みに低いヤツの相手はいやいやしてた。いつの間にかボスざるを遠くから取り巻いているようになった。わたしだったらいい成績とって当たり前。議論じゃ勝てないから面従腹背してる。そんな本物じゃなくって書割の風景に飽き飽きしてたね。自分の将来なんか考えられない。今、ここにいて呼吸しているのもイヤ。そんなときにあの元気しか取り柄のないバカに会った。本当は隙だらけのわたしの心にするっと入り込んできた。何か絵に描いたように陳腐だね、わたしの人生。わたしは誰でもいいから温もりとか暖かさを心の底から欲しかった。これも陳腐だけど。それでもいいと思った。こんなわたしでも、あのバカはこころから抱きしめてくれた。
――そういう恋もあるよ。きみの元カレだって似た事情を生きていたんだろうし。
――ううん。あいつのことはよく知らないし、知らなくていいと思ってた。気持ちと体温が一時的に高揚しさえすればよかった。話をすればするほどバカって分かったし、今のわたしにはこの程度が丁度いいと思ってた。ヤツのバカ話—大抵は薄っぺらな自慢話—を聞くたびにわたしは自分の心が冷えていくのがわかったもの。でも優しかったから、わたしの願いの殆どは聞いてくれた。何もかもが嫌になって、どこかに連れて行ってといったら、どこからかバイクを持ってきて旅に行こうって。そしたらこのザマ。
 どう、オジさん、分かった。わたしはこの世に、もう、未練はないんだ。顔も体もぐちゃぐちゃで、きっと生きていてもいいことは無いと思うんだ。そう思わない。
――きみの問い掛けはとても重たいな。どう答えるにせよその結果に責任は取れそうにないよ。参考程度にもならないけど、ぼくの考えを言ってもいいかな。
――いいけど、手短にね。
――できるだけそうする。まず、生きるか死ぬかの最終決断はきみ自身でするしかない。こうしたほうがいいなんてボクには言えない。ただボクが今を生きているのは、自殺しないで生きているのは、あるときこう考えたからなんだ。人生はせいぜい八十年。永遠の尺度でみれば一瞬の光の明滅より短い。それに八十年の方が四十年より偉い、四十年の方が二十年よりいいという確かな根拠はないと思う。それでも一瞬の明滅を彩るものがあるとしたら、それはその人間の生き方じゃないかと思う。つまり生きていく中で何を選び何を捨てるか。人間は生きている限り何かに苦しめられる。その苦しみから逃れるという選択も当然ある。だけど、ボクはね、こう思う。これはとても個人的な感想だ。生きていると、ある時ある瞬間、ふっと嬉しかったり楽しかったり心が軽くなる時がある。何かを願いそれが成就したとかいう大げさなものじゃなくても、朝起きて体調がいいとか、道を歩いていて金木犀の香りがしてつい口元が綻びるとか。そんな些細なことに喜べるのは生きているからだとね。死んだらすべてお仕舞。何もない。生きていることに喜びを見出すことが生きていることだと思うよ。説得力ないけど。
 しばらく何も変わらなかった。彼女はそこにいるのに何も言わない。見下ろす光景は先ほどから動いていない。中年の男女とゲーム機に夢中の中学生が一人。どれくらい時が流れただろう。
 ふと彼女の魂が動き始めた。慌ててあとからついていく。ICUを出て、来た時と同じ経路をたどり、また、先ほど、初めて会った建物の破風に来ていた。彼女の声がこころに響く。
――オジさん。ありがとう。さっきまで死ぬことばかり考えてたけれど、少しばかり生きることも考えてみることにする。結論はどう出るにせよ、もう少しだけ時間がありそうだから。
――たいして役に立てなかったという自覚はあるよ。申し訳ない。
――ううん、いいの。オジさんの気持ち、暖かかったからそれでいいの。ところで、オジさんはどうしてわたしと同じようになってるの。わたしと同じように死にかけているの。
 この問いにどう答えたらいいのか。答えを探していると、小さな声が聞こえた。聞き漏らしていなければ、その小さな声は、だれか助けてと言っていた。彼女の魂にも緊張が走るのが分かった。
――君にも聞こえたかな。だれかが助けを呼んでる。
――うん。わたしにも聞こえた。苦しそうな小さな声だった。ねぇ、オジさん。
――うん。行かなきゃ。きみは一人で大丈夫かい。
――わたしは一人で大丈夫。一人には慣れてるし。だから、行って、オジさん。
――生きてる君とどこかで会えたらいいな。
――オジさん、最後まで優しいね。
 彼女の魂は、気のせいか、さっき初めて会ったときよりエネルギーが増えているようだった。生きるか死ぬかを考えている女の子を後に残して立ち去るのは本当に心残りだった。かといって、それ以上留まっていてもよいことがあるとも思えなかった。じゃ、と言って彼女から離れた。

 小さい声のした方へ意識を集中した。遠くに声の主の存在を感じた。途切れ途切れの信号ではあるものの方向は分かった。わたしはできるだけはやくその声の主のもとへ移動した。
 声の主の魂は、工場のような建物の並ぶ敷地にいた。建物が軒を接している、ある屋根の上。小さな悲しみが揺れていた。
――ねぇ、どうしたの。
 できるだけやさしく声をかけてみた。それでも先ほどの女の子同様、息を呑み身構えたような感じが伝わってくる。
――君の悲しみが伝わってきたから来てみたんだよ。
――大人の人なの?
――そうだね。そう、大人の人。どうしたのか話してごらん。
 声の主はかなり若い、まだ幼子といっていいくらいの魂だった。
――ぼくね、猫の子を追いかけてたんだ。そしたら屋根の上に出ていて、子猫に追いついたと思ったら、足がすべってね、この狭いところにはさまっちゃった。

 連れていかれた先は、建物どうしが隣接した狭い壁の間だった。一方の建物の屋根の縁が欠けている。上から覗き込むと、十数センチしかない壁の隙間に一人の子どもが引っかかっていた。近づいてみるとまだ息をしていた。弱々しい息遣いだったけど。
――きみはいつからここにいるの。
――昨日から...。
 その子の話をまとめると、父親に連れられてきて、父親がジュースを買いに行っている隙に大好きな子猫を見つけて、あとを追いかけたという。追われた子猫がとある建物の中に入るとついていった。屋上に出るドアが開いていて、子猫がそこから外に出たのでいっしょに出てしまった。スレートの屋根の端で子猫をつかまえたとき、足元が割れて落下した。その話を聞きだすのに手間取った。
 暫くして、近くに大人がいっぱい来て自分を探しているらしいけど、近くで大声をだしても誰も聞いてくれない。どうしたらいいか分からず途方に暮れていたらしい。
――そうなんだ、よく頑張ったね。だれか...助けを呼ばなくちゃね。
――オジさん、助けてくれるの。
――オジさんはこのままだとどうにもできないけど、なんとかやってみるよ。きみの名前はなんという
の。
――ナカムラカケル...。オジさん、ぼく死んじゃうの?
――いや、そうならないように頑張るよ。きみは自分のそばにいて助けられたら自分の中にまた戻ることができるかな。
――うん。そばにいる。
――もう少しの辛抱だからね。じゃ、誰かに知らせてくる。
 わたしはその子の魂から離れて中空に上昇してみた。俯瞰してみると、彼はNFC3ビルと書かれた大きな建物と隣接する平屋の工場のような建物の間にいた。それを確認して、出来るだけはやく移動して、今自分が手術を受けている病院の中に入っていった。意識を凝らすと自分の肉体のいる方向が分かった。手術が終わりどうやらHCUと呼ばれる高度治療室へと移動しているらしい。壁を抜け部屋に入り、カーテンで仕切られた区画の一つにチューブやコードにつながれてる自分がいた。どこから自分に入ればいいか分からないけれど、とにかく入ってみた。途端に強く引かれていき納まるべきところに落ち着いた。ゆっくり目を開けてみた。
「〇〇さん! がんばったね。いま先生を呼ぶからね」
 傍で涙ぐんでたらしい妻の声のトーンがうれしさに跳ねていた。
「ちょっと待って。先生を呼ぶ前に聞いてくれ。メモ用紙もっているか」声が掠れて自分の声ではないいようだった。
妻が手提げカバンからメモとボールペンを取り出す。
「しっかり聞いてメモして。名前はナカムラカケル。男の子。幼稚園くらい。その子の捜索願いが出てないか確認して。警察に問い合わせればいい。その子はいまからいう建物のあいだにいて弱っている。早く助けてあげて欲しい」
 先ほど見てきた景色をできるだけ細かく説明した。ビルの名前も伝えた。一刻を争う。理由はあとで話すからといって、妻に電話で連絡をするよういった。最初何のことか分からず聞いていた妻も、わたしの真剣な話しぶりに押されて素直に従ってくれた。
 そのあとが大変だった。まず、当のわたし。麻酔が切れて意識が戻ってもいいころなのに意識が戻らない。医師側が軽くパニックになった。容体は急変していないのに意識がもどらない。打つ手がない。呼びかけ、頬を軽く叩いても反応しない。どこかで失敗したしたのかと。目をあけたわたしをかわるがわる担当の医師と看護師が見に来てくれる。多分、医療事故にならなかったと喜んでいるのだろう。こういう人々には心配かけて申し訳ないとこころのなかで手を合わせたものの、何も知らないふりを続けた。

 ナカムラカケルくんが見つかった。相当弱ってはいたけれど命に別状はないとのことだった。まず妻が警察で説明に窮した。なぜそんなことを知っているのかと。納得できる説明ができなかった妻のお陰で、HCUを2日で出て一般病棟に移ったわたしが聴取を受けた。とても幽体離脱しているときに分かりましたとは言えない。わたしにもよく分かりませんと言うしかなかった。警察が納得しないまま事件は処理された。後日不思議な文面の感謝状をもらった。捜査に協力していただき云々とあった。
 出来事の記憶は日々薄れていく。いろいろなことが輪郭だけを残して消えていった。
 ただ、わたしはあの日から一度も新しく幽体離脱を試みてはいない。退院し体調がもとに戻っても気持ちに強いブレーキがかかったままだったからだ。その理由は分からない。何か大切なことがあって、それを確かめなきゃいけないと思いつつ日が過ぎていき、その思いは日々遠くなっていった。

初めての幽体離脱

初めての幽体離脱

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2020-07-26

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