エンとタロー

真空中

  1. このはなしとは
  2. ヘヴンリー・ブルー
  3. トリスターに別れを告げて
  4. AM 5:47

このはなしとは

【内容】
 登場人物は同じまま、世界観が異なるオムニバス形式。
 シリアス・ギャグ入り乱れ、たまに猥雑で下品、不謹慎。


【登場人物】
・エン
 性別女。年齢不明。
 本名エン=カラシキ(もしくはカラシキ=エン)。
 漢字表記は嘉羅式 縁。
 またの名をフリージア・オディット。
 考える前に体が動く。
 黒髪黒目。
 常識人寄りの変人。


・タロー
 性別男。年齢不明。
 本名スメラギ・タロー。
 漢字表記は皇 太郎。
 基本スーツ、時々眼鏡。
 目が口ほどにものを言う。
 黒髪黒目。
 変人寄りの常識人。



 2013-

ヘヴンリー・ブルー

 きっとここは天国に近い場所なのだ、とエンは思う。
 だって、空がこんなにも美しい。


 ***


 天頂の色は、薄い青色だった。
 その色は、地平線に近づくにつれて青みを失い、雲の曖昧な白色と溶け合って、最後には同化してしまう。
 触り心地のよさそうな、もっふりとした雲が、目玉焼きのふちの如くその端をちりりと光に透かしながら、ゆるゆると流れていた。雲の影が落ち、所々色濃くなっている大地は僅かに河岸段丘の凹凸があるものの、ほぼ平らで果てが無い。どこまでも、どこまでも――遠い。赤茶けた土は、水に餓えているようだった。
 地中海性気候の、乾燥した大地だ。
 白く輝く太陽に下には、オリーヴ畑があり、葡萄畑があり、たまに羊の群れがいる。
 僅かながら、人間も。
 視界の大部分を空が占める場所で、太陽を掴みとろうとするかのように、片腕を天に掲げる若い女がいた。眩しさに眉は顰められ、けれど指の間から零れる光から、細めた目を逸らそうとしない。
 オレンジ色のパーカーにジーンズ姿の女は、人より頭三つ分ほど高い場所に座っていた。赤い車の屋根に腰を下ろしてボンネットに向けて足を投げ出し、靴下とスニーカーは更にその下、タイヤの側に脱ぎ捨てられている。
 人がほとんどいない、サービスエリアの駐車場の片隅だ。
「……カラシキ、君は何をしているんだ」


 呆れたように声をかけられ、女――エンは振り返った。
 建物の影になっている場所で、すらりと背の高い男が紙袋片手に立っている。
 猫っ毛の黒髪と切れ長の目、痩身に黒スーツ。日本人と言うよりは、東洋風(オリエンタル)という言葉が相応しい男である。
 エンの同行人、名をスメラギ・タローという。
 同じ会社に勤める相棒だ。
 初めて名前を聞いた時、タローとだけ返されたエンは、その単語をゲルダ・タローと同義、つまり姓として捉えた。アジア系の顔立ちだとは思ったが、男を同じ日本人としては認識しなかったのである。
 新入社員のための歓迎会で何故か和食が出て、焼き魚を綺麗に食べていた男に「箸、使うのお上手ですね」と英語で話しかけたところ、「生まれも育ちも日本だから」と日本語で返されたときは、顔から火が出るかと思った。ちなみに周りは大爆笑していた。こうなることを予想して、あえて黙っていたのだろう。
 「だって」とエンは憤慨した。異国の辺鄙な田舎にある、英語が社内公用語の小さな会社――しかも借金取り立て会社に、同郷の者がいるなんてフツー思わないじゃないか!


「今は割とどこにでもいますよ、日本人。鎖国時じゃあるまいし」
「そうは言いましても……! タローさんて、え、たろうさんですか」
「太郎です」
「まじで」


 そんな出会いだった。
 それから、「極東の国出身の二人組は気も合うだろう」という独断と偏見による人事部の判断でペアを組まされ、こうして延々と続く道路を共にドライブする仲となっている。
 話を戻そう。
 怪訝な面持ちでこちらを見遣った男は、何を思ったか紙袋を助手席に放り込み、おもむろに革靴に手をかけ、脱ごうとした。
「何してるんですタローさん」
「僕もそちらに座ろうかと、お嬢さん」
「いやいやいやいや、さすがに二人は無理ですって!」
「なら降りなさい。危ない」
「やです」
 タローは溜息をついて、靴から手を離すと、ボンネットに浅く腰掛けた。男のつむじを見下ろす形になって、エンは少し、優越感を覚える。いつも見上げるばかりだったから。
 赤い車が砂埃にまみれていることを突然思い出して、遅いと知りながらも忠告する。
「おにーさん、スーツ汚れますよ」
「既にぼろぼろだから構わない」
 トランクの方を見て、タローは目を眇める。「君みたいに着替えを持って来れば良かったな」
「突然のことでしたから、仕方ありませんよ。次回からそうしましょう」
 と、言うエンは、着て行ったスーツを炭にして帰ってきた。
 二人が担当していたカップルが借金を踏み倒して夜逃げし、その逃亡先が悪党の巣窟だったからたまらない。追いかけたはいいものの組織の乱闘に巻き込まれ、煙火が背後から凄まじい速さで迫る中、アクション映画並みのカーチェイスを繰り広げて命からがら戻って来たのだ。父上母上、娘は今日も何とか生き延びました。
「後はもう帰るだけですけど、報告書、どうしましょうね」
「対象者二名は結局取り逃し、借金は踏み倒されたまま。しかし、対象の逃亡先の屋敷から金品を都合し、これで埋め合わせとする」
 淡々と言葉を返すタローは、エンの車に、屋敷にあった高そうな壺やら肖像画やらを嬉々として詰め込んでいた張本人である。早い話が強奪者だ。
「それでいいんですか」
「あの会社では通用する」
「ブラック企業だ」
 何を今更、と男が天を仰いだ。
 太陽が厚雲に遮られ、目を細めなくても直視することができる。
 空が近い。ふよふよと漂っている雲は、掴もうと手を伸ばせば、届いてしまいそうだ。
 きっと、天国が近くにある。


「カラシキ、死にたそうな顔してる」
 タローの呟きに、エンはへらりと笑った。なんでもすぐに察してしまうところが、この男の良い点であり、エンの嫌いな点だ。
「……やー、こんな綺麗なとこだったら、いいかなぁ、って思っちゃうんですよねえ。この世とおさらばしても」
 エンは、時々、死にたがる。
 思い詰めたり、悩んだりしているわけではない。けれどたまに、息をするかのような自然さで、ああ身を投げてしまおうか、と思うのだ。今のところ、この同僚にことごとく阻止されているが。
 タローがエンを見た。――目は口ほどに物を言う、とはこのことだろうか。エンのおつむを心配する表情だった。
「君は、景観の良い場所に行く度、そう考えるのか」
「いつもではないですけど」
 死に場所を探して彷徨っている節はあるかもしれない。治安の良い故郷から飛び出して異国、しかも危険が多い職業につきたがったのも、ひょっとしてそのせいだろうか。
 自分の深層心理について思いを巡らせていると、突然スニーカーが飛んできて、エンは無様な悲鳴を上げて転がり落ちかけた。横から伸びた腕が、エンの体を支える。
「あ、あっぶな……」
 靴を投げた当人は涼しい顔で、エンを猫でも抱き上げるかのように、ぞんざいに屋根からボンネットへと下ろし、その隣にエンのスニーカーを並べた。
「出発する。靴履いて、準備して。君が死んでしまわぬうちに」
 車の屋根に転がっていたキーを取って、タローは言う。
 戯言ですよ、と肩を竦めたエンに、男は難しげな顔をした。君の死にたがりは、本気じゃないけど、嘘でもなさそうだから、と。
「今は天国に近い場所で我慢しときなさい」
 エンは少しだけ目を瞠ったあと、微笑みながら、哀しそうに顔を歪めた。
 

 ヘヴンリー・ブルー。
 届かない。
 生くことも死ぬことも、エンは中途半端なままだ。
 死に焦がれながら、けれど生きろとタローは言う。
 

「行くよ、カラシキ」
 運転席に乗り込んだ男が、声をかける。アイドリングしたまま、ハンドルの上で組んだ手に顎をもたせかけたタローと、エンの視線が、フロントガラス越しに交錯する。
 まだお前を死なせる気は無いと、黒曜石の眼が言っていた。


 了


(初稿 2013/9/16、改稿 2020/7/25)

トリスターに別れを告げて

 恋人がいなくなった。
 いつもの放浪癖かと思えば、違う。
 彼女のアパルトメントの部屋は綺麗に片付いていて(僕は合鍵をもらっていた)、彼女のお気に入りのものが、あちこちから少しずつ、消えていた。サン=テグジュペリの「星の王子さま」、コルク地の帽子、野暮ったいアイボリーのカーディガン、万年筆。その他エトセトラ。
 難解で奇天烈な内容の本の海も、日に焼けて色褪せたミュシャのポスターも、溜められてゆくだけだった異国の瓶の山も、全てきちんと棚に仕舞われていて、やめてくれよ君らしくもない、と僕は思わず呟いた。
 最寄りの駅に向かった彼女は、帰りの分の切符を買わなかったそうだ。それが、単なる“うっかり”なのか、何か考えがあってのことなのか、僕にはわからなかった。気まぐれにふらりと消え、またふらりと現れるというのが常の人だったから。
 けれど、僕は――彼女は戻ってくる、古めかしいバッグを抱えて、「寝過ごして終点まで行っちゃったよ」と苦笑しながら、再び、ひょっこり顔を出すものだと――信じ込んでいた。何の根拠も無いままに。
 恋人が姿を消してから一週間後、遠い遠いところから手紙が届いた。
 真白の封筒に赤の封蝋、差出人はカラシキ=エン。


 拝啓 スメラギ・タロー様
 どうかお許しください――。


 丁寧に綴られた文字を追って、僕はようやく、彼女が帰ってくることは無いのだと知った。


 ***


 拝啓 スメラギ・タロー様
 どうかお許しください
 わたくし、カラシキ=エンは、


「エンは……」
 そのあとに、どう続けるべきか迷って、彼女は途方に暮れたように万年筆を置いた。
 タタン、タタタン、タタン。
 静かに伝わる振動、ここはコンパーメントの中。
 車窓越しに見える風景は夜闇に染まり、橙色の照明のもと、その光を受けるエンの横顔を鏡のように映し出していた。
 オリエント急行に似た豪奢な造りの蒸気機関車にエンが乗り込んだのは、およそ半日前のことだ。ボストンバッグ片手に駅で立ち尽くす少女の前で、金の紋章を掲げた紺青の列車が停まり、その窓の一つからウサギの車掌がひょいと顔を覗かせた。
「こんにちは、お嬢さん」
 縁なし眼鏡に緑色の制服を着込んだウサギが、帽子を片手に会釈をした。
「乗って行かれますか?」
 どちらまで、とはウサギは言わなかった。
 エンは兎を見上げ、「私、この列車の切符を持っていません」と蚊の鳴くような小さな声で言った。
「他の列車の切符は持っているのですが」
 エンの言葉に、ああ、とウサギは優しく目を細める。
「御心配なさらず。もとより売っていないのです」
「では、私はどうしたら乗れるんでしょう」
「乗車されている間に、詩を一つ、つくっていただければ。それが運賃の代わりとなります」
 エンは目を瞬かせた。
「どんな詩でも?」
「どんな詩でも、構いませんよ」
 エンはこくりと頷いた。
「それなら、できそう。わかりました。つくります」
 そして、尋ねた。
「あの」
「はい、何でしょう」
「手紙を投函することはできますか。ある人に、送らなければならないのです」
 口を動かしながら、妙な質問をしている、とエンは心の内で思った。普通ならできっこない。何言ってやがる、という目で見られるのがおちだ。
 けれどウサギは予想に反して、「勿論、できますとも」と穏やかに笑う。
「運び屋がいますから。彼らが届けてくれます」
「ほんとに?」
「ええ、本当ですよ」
 安心したエンは、「良かった」と微笑み、差しのべられた手を取った。


 他に乗客はいなかった。エンは日当たりの良い席に陣取って少し眠り、食堂車で食事をとった後、また客車のコンパートメントへと戻った。寝台車のキャビンでも良かったが、豪華な寝台は、なんとなく、気が落ち着かなかったのだ。
 美しく磨かれたマホガニーの椅子に腰かけたエンは、何をするでもなく、流れゆく窓の景色を眺めた。
 日が暮れ、空が鮮やかな紅色から群青色に変わっていき、星が瞬き始め、とうとう全てがとっぷりと暗闇に溶けてしまっても、ずっと、窓の外を眺め続けた。
 頭の中身が、無くなってしまったかのようだった。
 空白の思考。
 考えることを放棄している。
 空の色を美しいと思っても、その感動が心の芯まで響いてこない。現実世界がガラス一枚隔てた向こうにあるようで、エンはどこか夢心地だった。
 時計の針が十二時を指した頃、ようやくエンは我に返った。忘我の時間とはおそろしい、何をしていたのかまるで記憶に残らない。大事なことを忘れてないかしらとメモの切れ端を取り出して、やっと、恋人に手紙を書かなければならないことを思い出した。
 そうして、ボストンバックのポケットから便箋と万年筆を取り出し――早くも三行目で、言葉に詰まってしまった。

 ありきたりで安易な言葉が、エンの頭に浮かんだ。
 黙って出てきてごめんなさい、別れようとかそういうことではないのです、気が済んだら戻ります――けれどエンは、誰にも知らせず出発したこの旅を心から悪いことだとは思っていなかったし、タローと本当に別れてしまっても、今は何も感じないだろうと思っていた。気が済むまで、というのも、どのくらいになりそうなものか、皆目見当がつかない。
 帰るつもりはなかった。
 戻ってはならないという、強迫観念のような焦りに追い立てられていた。
 エンは停滞を感じていた。
 衣食住と身の安全が保障され、時には失敗するけれど、恋愛も学業も、おおよそ順風満帆な日々。恵まれた幸せな生活を送るうち、自身がぐずぐずにとろけて、腐っていくような気がしたのだ。
『ここにいたら、私はダメになる』
 本能的な恐怖が、エンの体を突き動かした。


 日めくりを一日ごとに剥ぎ取って行くように、一日一日、知らず作ってしまった殻を、他者から貼られたレッテルを、自分はこういう人間だと自身が決めつけてしまうような先入観を捨て去って――エンはただ、ひたすらに、新しい“何か”になりたかった。今まで培い築いてきたアイデンティティを壊すことを、自ら求めた。
 だから置いてきた。
 己が浸っていた、甘水のような生活を。
 逃げるのでもなく、捨てるのでもなく、いっとう大好きなものたちの時を、エンの中で止めたまま、思い出にしてしまいたかった。それでも繋がりを断ち切れず、日用品や雑貨のいくつかを持ってきてしまったのは、エンの弱さであり、甘えだ。
 でも、例え部屋の様子を昔のままに留めても、タローの時は止められない。連れて来ることもできない。彼は、彼自身の時間を生きる、エンとは別の存在だから。
 エンはきっと、彼が思い描き認識している「エン」とは遠くかけ離れたものになってしまうだろう。そしてエンもまた、彼の隣にいると、タローの知る「エン」でしかいられなくなる。どちらにとっても、多分、良くない。
 だから、置いてきた。

 ごめん、タロー。今は君と共にいたくない。

 ごめん。

 ごめん。

 ――ごめん。


 紙上に書き連ねた文字はいかにも頼りなくて、ああ私はこの一通の手紙にどれだけのおもいを託せたのだろうかとエンは一粒涙を零し、以前のように恋人を思いやることができない自分が嫌で、もう一粒涙を零した。私は、どこまでも自分勝手な人間だ。
 どうか元気で、と体を気遣う言葉で冗長的な文章を締めくくり、エンは幾重にも重なった便箋をまとめる。
 厚みのある封筒をウサギの車掌に渡すと、列車と同じ紋章の、赤い印璽を押してくれた。最後尾の車両には青く輝く羽を持つ鳥が十数羽いて、彼らが手紙を送り届けてくれるという。名前を聞いたが、エンの知らない鳥だった。
 車両のドアを開けると、カンテラの灯りに照らされた線路が、闇にどんどん呑みこまれていく様が見えた。風が冷たい。脚に結わえた網の中に手紙を落とし込むと、鳥の群れは、夜空を貫くように飛んで行った。
 その姿が小さくなって、やがて見えなくなっても、エンはしばらく、そこに佇んでいた。
 漆黒の森影の上に、オリオン座が見えた。
 星座の見方を教えてくれた恋人を思い出して、タロー、とエンは胸中で呼びかける。
 タロー。
 君からたくさんのものをもらった。
 太陽の光が降り注ぐように、いっぱいのおもいを、私にくれた。
 私はどれだけ、返せただろうか。
「君を愛する気持ちは、ここに置いていく。もし再会することがあったら、何を言われても、何をされてもいい。でも、今は」
 ――今はどうか、ゆかせてほしい。
 疾走する汽車は夜の冷気を切り裂き、強い風が頬を撫ぜた。エンは今一度、濃藍の空に輝くオリオン座を見上げると、そっと目を伏せ、踵を返す。
 ドアは少女を吸い込んで、軽い音と共に閉まった。


 *** 


 紺青色の蒸気機関車が、駅で停車している。磨き抜かれた車体には金の紋章が掲げられ、その前を悠然と、ウサギの車掌が歩いて行く。
 緑色の帽子の両脇で耳を揺らす車掌は、ホームの隅、ベンチに座る男に気づいて足を止めた。真白の封筒の端を胸元のポケットから覗かせた男は、車掌を見ると、驚いたように立ち上がる。
 車掌は男の元まで近づくと、会釈をし、自分よりずっと高いところにある男の双眼を見上げた。
「――お客様がお探しの方は、ついさっき、客車へご案内いたしました。お乗りに、なられますか?」
 男は薄く唇を開き、また閉じた。「どうして、」男が困惑を滲ませて囁く。
「彼女が此処で消えたのは、もう一ヶ月も前のことだ」
「ここは、ほんの少し、時の流れが違うのですよ」
 悪戯っぽく笑った後、ウサギは真面目な表情になった。
「……今ならまだ、間に合います」
 暗に、連れ戻してはどうか、と提案する車掌に、男は少し考えたのち、ゆるゆると首を振ってみせた。
「伝言なども、お預かりできますが」
 けれど、男は寂しそうに笑っただけだった。
 伝えるべき言葉も、渡すべき物も、何も無いのだ、と。
「……一目でも、お会いにならなくて、いいのですか?」
 眉尻を下げて問うウサギに、男は言った。
「僕は引き留めない。彼女を待たない。彼女の帰る場所になるつもりもない」
 来たければ、自分の意思で此処に至る道を選ぶだろう、と男は呟く。
「僕は僕の時間を生きる。彼女は彼女の時間を。そうして、いつかどこで会えたら、今とは違う僕たちで、また、新しい関係を築けると思う」


 街中で擦れ違うだけかもしれない。
 腐れ縁の友人として言葉を交わすかもしれない。
 もう、恋人としてお互いを見ることは無いかもしれない。
 それでも、彼はゆかせることを選んだ。
 今のふたりの距離を維持すること、それが唯一の選択肢というわけではないから。
「見送らせてください。それだけです」
 彼の返事に、車掌は静かに頷いてみせた。


 列車が出発する。
 男はホームの端に立っていた。
 タタン、タタンと動き出す車体を黙って見つめながら、白昼夢に似た時間だ、と男は思う。存在するはずの無い“時”。
 この一ヶ月、彼は、考えた。
 手紙を受け取り、朝も昼も夜も考え続けて――自分独りの時間を生きる覚悟を決めた。
 しかし、一つ悔いたことがある。
 一人でゆかせてしまったこと。
 近づいてくる客車の窓、ホームとは反対側の席に、見慣れた顔が俯いて座っているのが見えた。きっと気づかないだろう、と男は思った。気づかないでいい、と呟いた。


 本当は。
 気づいてほしかった。
 懇願して跪いて怒鳴って閉じ込めて泣いて、そのさまがどんなに無様で情けなくとも、それで彼女が思い留まってくれるなら、何でもする気でいた。
 ずっと、側で笑っていてほしかった。
 些細なことで喧嘩して、また仲直りして、そうして共に時を重ねていきたかった。
 愛してる。


 言いたいことは山のようにあって、けれど全部、飲み下して、タローは腕を上げた。彼女の横顔が近くなり、通り過ぎ、遠くなって、車体の陰に見えなくなる。
 汽車が勢いよく煙を吐き出した。加速する紺青、その最後尾はホームの端を離れ、白い光の中へと消えていく。
 タローは目を細めながら、泣きそうな顔で笑う。
 ――君の旅路が、幸福なものであるように。
 掲げた右手が、ちいさく揺れた。
 

 ***


 音の絶えたホームで、男は静かに腕を下ろす。ぼんやりと線路の向こうを見つめる彼の横を、風が吹き抜けて行った。
 しばらく立ち尽くした男は、とうとう、振り切るように踵を返した。
 改札口へと続く階段を降りていく音が無人のホームに響き、やがて聞こえなくなった。



 了


(初稿 2013/9/18、改稿 2020/7/25)

AM 5:47

 私は死にに行ったのだ。
 疲れて、もう嫌で、何の変哲もない日常が、この身に纏わりつく当然の顔した幸福がどうしようもなく厭わしくて、ふっつりと終わらせてしまいたかった。
 ――あの果ての岬にて、本気で、崖から飛び降りるつもりだった。


 ***


 久方ぶりの休日に、ソファに身を埋めて猫と戯れる男がいる。
 夜が明けたばかり、眩い一筋の光は、ホラー映画で徹夜した目に消毒液のように沁みた。瘦せ我慢のエスプレッソを噛み下して、エンはこくりと喉を鳴らす。ひどい夜だった気がする。終始、引き攣った呻き声を漏らすエンと反対に、男は早々、遥かなる眠りの世界へと旅立っていた――目が冴え渡り、エンディングまで見通してしまった自分が馬鹿みたいだ。きっかり午前5時、爽快に目覚めた隣人を、エンはじっとりと睨みつけた。ついでにいうと、自分にはさんざつれない態度の愛猫が、妙にタローに懐いていることも気に食わない。アラン、きみはどっちの味方なんだ。
 ぶすくれてソファーの半分に無理やり身を埋めると、小さく軋む音がした。夜通し座りっぱなしで、そろそろお尻が痛い。
「――カラシキ」
 空気に溶けてしまいそうなささめきが、かろうじて耳に届いた。視線を巡らせれば、タローがアランの相手をしながら、言葉を続けた。
「寝た方がいい。少しでも」
「眠れるかわかんない。ひどいよ、見たいって言ってたくせに、裏切者」
「ごめん」
 謝罪の声音からは、真面目に言っているのか心底どうでもいいのか、彼の真意はわかりかねた。ただ何となく、気遣われていることはわかって、エンは溜息をつく。今から寝たら半日は潰れるだろう。
「怠惰な一日があったって、君の良心以外は誰も君を咎めやしないさ」
 見透かしたように付け加えられた言葉に片眉を歪め、エンは立ち上がった。
「起きたらきっと、ホテル並みの朝食が出てくるのよね。チーズとパプリカが入ったオムレツとか、バターたっぷりのクロワッサンとか」
「善処する」
「冗談だよ。トーストと紅茶と、塩コショウふったトマトでいい」
 ことりとカップをデスクに置いて、彼女は不意に顔を上げた。
 レースのカーテンに透ける窓の外は、紺青と血のような赤、そして生気に溢れた橙色と黄金の光、薄くたなびく淡い紫色に染め上げられている。朝が来ようとしている。やがて、穏やかな冷たい静寂を粉々に砕いて、人々の声が、車の音が、生きていく音が満ちていくのだろう。けれどまだ、この部屋は、彼女のアパルトメントの一室は、奇妙なまでに張り詰めた、それでいて居心地の良い、静けさに支配されていた。デスクの橙色のライトが仄暗い空間をぼんやりと照らす。夜の残骸が部屋中に転がっている。エンは醒めた頭で、色の区別も曖昧な暗がりを見渡した。深く、呼吸した。諦めたかのように。
 言ってもいいかと思った。


「タロー」
 静かな声で呼びかけた。
「グーシュ地方のコタ岬って知ってる? 海が見える場所」
 うん、と返された生返事に軽く笑って、エンは続ける。
「あそこでね、何もかもをやめてしまおうかと思ったことがある」
 きし、とスプリングを音たてて、彼がエンを見つめたのが、気配でわかった。
「……ハラルカ=シトラに来る三つ前の駅から、すぐ。柵なんて木造でがらっがらなのよ。風が強くて、虫がいっぱい飛んでる。晴れた空の下に、寄せる波があって、水平線は曖昧で霞んでるの。境目のところ、薄い青と濃い青が絶妙な具合で溶けて交じってひとつになってる。近くにはちっちゃな観光所があって、そこで封蝋付きの大陸の端っこに到達しましたオメデトウ、の賞状を貰えるんだ。お金払わないといけないけどね」
 ――するりと言葉を吐いた。
「その場所で、わたしは、柵をくぐって、踏み出して、崖っぷちから海を見下ろした」
 エンのまなうらに海の色が蘇る。
「吸い込まれそうなくらいに深い紺碧だった。崖下に重なった岩に、波が重なって、崩れて、寄せては引いて。綺麗で。日当たりが良くって見晴らしサイコー。潮の匂いなんて感じる暇もないくらいに海風が吹きつけて。幸いなことに人っ子一人いなかった、観光客さえも。誰も見ちゃいない。――いいかな、と思ってしまったの。心底、本気で、そう思った」
 死に、意味を与えたくなかった。突発的なようでいて、ずっと前から考えていたことだった。親も故郷も友人も仕事も、エンには遠かった。死を想って、人生のひとつひとつを、自分に関わるひとりひとりを、諦めることができる自分が確かにいて、彼女は心の底で絶望しきっていた。
 エンは死ぬために行ったのだ。
 一対の黒曜石の目が、エンを探るように見た。
「……それから。君はどうしたか、聞いてもいいか」
 タローの声は無感情を装っていた。
「なにが、君の気を変えたんだ」
 ――大したことじゃない、とエンは返した。
「潮風に負けるもんかって飛ぶ虫がいっぱいいて、死に場所に、こんなに虫がいるの嫌だな、って。それだけ」
 だから、私は、何事もなかったかのように足を戻して、柵をくぐって、安全な場所に、戻ってしまった。
 その瞬間、もう、あちら側――柵の向こうには行けないのだとわかって、悲しくなった。
 生きていくしかないと、諦めた。
 ぷつんと途切れて、そうしてエンの中で死にたがっていたエンは、静かになってしまった。
「きっと私は、私をあそこに置いてきたんだろうと、思う」
 囀るための口を、喉を、声を、失って。
 だから、エンの中の死にたがりは、今はもう、黙ってエンを見つめるだけだ。いつ、その声を取り戻すかはわからないけれども。
 みじかな独白を終えて、エンは、どうして自分が彼にこの話をしたのか、わからなくなった。
 言う必要のないことだった。知っていてほしかったのかもしれない。何か言葉が欲しいのかもしれなかった。けれど、己の愚行を曝したような羞恥の念が込み上げて、彼女は束の間、後悔した。
 タローを見た。
 彼の視線は既にエンから離れて、黒猫に注がれていた。
「そうか」
 それだけを、彼は言った。
 エンは彼の横顔を見つめた。影になって、視界に捉えているのに、表情は窺い知れなかった。
 ほんの僅かな間に、みるみるうちに日が昇り、夜の部屋に光が射してゆく。静寂の質はすっかり変わってしまって、エンは白けたように立ち尽くす。
「……出発しよう」
 突然タローが言った。膝の上からアランを抱き下ろして、すっくと立ちあがる。
 目が合ってしまったエンは、唖然として言った。
「……出発って、どこに」
「どこへでも。まずはカフェで朝ご飯を食べるのはどう? そこから南海岸を通って隣の街に抜けて、その先はまた考えよう」
 上着と車のキーを取り、ドアの方へと歩き出しながら、タローは滔々と続ける。
「これから? いいけど、でも私きっと途中で寝ちゃうよ」
「眠るべきだ。好きにしていいから。僕は今日はずっと起きてる」
「なんで」
「君が起きていてくれたから、そのお返しに」
「――あなたの頭の中で何がどうしてそういう計画になったのか、私全然わからないんだけど」
 わけのわからない理論だ。戸惑い交じりに、憮然としてエンは返す。アパルトメントの廊下へと繋がるドアを開け、タローは肩を竦めてみせた。ドアの向こう、ひんやりとした薄青い壁が広がり、そこに微か、朝の光が散りばめられている。
「いつもの君の奇行よりはましだ」
「あ、あんたにだけは言われたくない」
「そっくりそのままお返しするよ。でも、エン……僕はただ――」
 ドアのもとに佇み、タローは珍しく、言い淀んだ。
 感情の見えない黒曜石。そこに光が入り込むと、少しだけ明るく輝く。
 観念したように彼は言う。
「もし君が許せるなら。もう少しだけ、君といたい」
 言葉は、それ以上でも、それ以下でもなかった。
 彼は彼女に指一本も触れなかった。
 けれどエンは、そのときのタローの表情を、一生、忘れることはないだろうと思った。


 ひそやかな二人分の息遣いを断ち切るように、アランが足元で鳴いた。
「……あんた、さっき早めの朝ご飯食べたばっかりでしょ」
 視線を外して思わず呟き、それでも足元を離れない黒猫に呆れる。男と目が合い、淡雪みたく壊れてしまった雰囲気にふたりで苦笑した。
「いいよ、タロー。行こう。美味しい朝ご飯が食べたい」
 アランを抱き上げ、オレンジ色のパーカーを掴んで、エンは言う。
 そうして、二人分の足音を吸い込んだドアが閉まった。
 再び静けさが訪れた居間には光が満ち満ちて、そこはもう、すっかり、朝の部屋だった。


 了


(初稿 2016/8/21、改稿 2019/4/15)

エンとタロー

エンとタロー

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2020-07-25

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted