トロールの匂い

草片文庫(くさびらぶんこ)

トロールの匂い

赤猫の幻想譚です。縦書きでお読みください。


 緋(あけ)はもう四十を過ぎた。二十年もこの地に住んでいる。
 二十歳の時に、バックパックを背負って、北欧を旅した。大学二年の時である。格安の航空券を買い、コペンハーゲン経由でヘルシンキに飛んだ。どこに何日という予定はなかったが、一月ほど回るつもりで日本を出た。ヘルシンキからところどころで泊まりながら鉄道でケミにいき、そこからバスでスウェーデンに入った。ルレオからまた鉄道でストックホルム、イエテボリからノールウェーのオスロについた。そこから鉄道とバスの旅を楽しんで、ベルゲンに到達し、さらに今居るガイランゲルに来たのである。どの国も、ゆったりしていて、日本とは比べ物にならないほど、人間が人間らしく生きていた。
 ベルゲンにたどり着いた時、なぜ北欧の人たちの生活が豊かなのか思い当たった。それはたくさんのトロールたちだった。一つ目の者もいれば、三つ頭の者もいる。それが、当たり前のように街の中でノールウェーの人々に混じって、旅行者達を見つめているのである。
 緋は北海道で育った。祖父の話では、その昔、日本でも妖怪たちが身近にいて、子ども達の遊び相手でもあり、教育者でもあり、怖いものでもあったという。そのお陰で人間が人間らしく生きていたのだと、祖父は言っていた。たしかに北海道にはコロボックルがいた。蕗の葉の下に住んでいる小人たちである。緋もその話はよく聞かされたし、小さい頃は蕗の下を覗いても見たりした。今では祖父の言っていたことがよくわかったし、それどころか緋自身がその中に入り込んでいる。

 バスに乗って、雪の残った山の頂を見ながら、青緑色に光る氷河を間近に見て、ガイランゲルに来た。緑の山に挟まれたフィヨルドを見たとき、北海道とは全く違う空気に包まれた。しばらくいようと思った緋は、フィヨルドの船着場にある土産物屋を覗いた。数件ある土産物屋の中で、最も小さな店から赤い猫が出てきた。赤い猫は尾っぽを立ててゆっくりと遠ざかり、山の中に消えていった。その店の中をのぞくと、老婆が椅子に腰掛けて店番をしている。周りには、老婆を見つめているように無数のトロールが並んでいる。トロールしか置いてない店だ。
 老婆は老眼鏡をかけて、手元でしきりに一体のトロールを見ていた。
 緋も覗き込んだ。老婆はしばらく気がつかなかったが、ふっと顔を上げ、緋を見た。
 「おんや、すまんだったね、どれがいいかね」
 皺くちゃの尖った顎を緋に向けた。買い物客と思ったのだろう。老婆の目じりの皺が笑っている。本人がトロールのようだ。
 「そのトロールどうかしたのですか」
 緋は老婆の持っているトロールを指差した。一つ目の男のトロールだ。
 「ああ、こいつかい、ちょっと頭の毛がとれちまった、古いもんでね」
 老婆がトロールの頭の毛をもつと、鬘のようにはずれて、坊主頭の顔になった。
 「もう、こいつは作られていなくてな、売り物じゃないのだが、よくやってくれたので、身近においておいたのだよ、もう引退だろうや」
 と、老婆は自分の指に唾をつけると、坊主頭に塗りつけ、鬘のような髪の毛をかぶした。それでくっつくわけはないだろうに。だけど、緋は無性に楽しくなって、自然と笑みを浮かべた。
 「なあ、嬢ちゃん、何が欲しいって」
 「いや、すみません、このあたりで、安い宿はないでしょうか」
 「上に見えるユニオンホテルはいいよ、だが、高いよ、学生さんかい」
 「ええ」
 「民宿などどこでも満杯さね、この時期はね」
 寝袋で寝るしかないかと覚悟を決めて「ありがとうございます」と小さな店を出ようとすると、
 老婆が「嬢ちゃん、ちょいとだけ、ここにいてくれんかい」と呼び止めた。
 振り返ると、老婆が立ち上がり、入口に出てきた。
 「ちょっとだけ、ここに腰掛けていてくれや」
 「なにか」
 「便所だよ、一人だと不便だね、ちょいと入ってくるから、座っててくれないかい」
 老婆は緋がうんともいわないうちから、外に出て行ってしまった。しょうがない、緋は腰掛けた。客が来たらどうするのだろう、一抹の不安が頭をよぎったが、その心配もなく、程なく彼女は戻って来た。
 「ありがとうよ」
 「お客は来ませんでした」
 「そうだろう、バスか船が入らない限りほとんど来ないよ、車で来るのが多いけどね、そいつらは、もっと大きな店に行っちまうよ」
 「なあ、嬢ちゃん、店手伝ってくれんかね、一人だと、大変でねえ、そいなら、あたしんち泊まっていいよ」
 緋には思ってもない嬉しい提案だった。きっと、顔中喜びの皺がよっていたに違いがない。
 「ありがとうございます、なんでもします」
 「そうかい、助かるね、レジは使えるかね」
 老婆の指し示した先には、アンティーク屋で見かけるレジの機械があった。
 「数字を打ちこみゃあ、領収書が出るから、簡単だよ」
 老婆は100と打ち込んで、ボタンをおすと、100NOKのレシートがでた。
 「私、ノルウェイ語知りません」
 「ブークモールかい、今の言葉でいいよ、それだって、嬢ちゃんの言葉じゃなかろう」
 「ええ」緋の英語はたどたどしい。
 「それからね、こっちの人はほとんどカードだよ、そこに、カードリーダーがあるだろう」
 カードリーダーのほうはアルバイトで扱ったことがあるので知っている。
 「大丈夫さ、ほら、突っ立っていないで、リュックを置いて、店の中のトロールを見ておいておくれよ、底に値段が張ってあるからさ」
 緋は棚に並ぶトロールを一つ一つ眺めた。みんな自分の方を向いて挨拶をしてくれているような錯覚に陥る。どれも親しみのある顔をしている。中でも黄色い帽子をかぶったトロールが、大きな魚を抱えて嬉しそうだ。長い鼻を突き出して、どうだ、捕まえたんだ、と言っているようだ。
 後ろを振り向くと、老婆が立って覗き込んでいる。
 「嬢ちゃん、この坊主が気に入ったかい、魚獲りが好きなやつだ」
 「みんな、かわいい」
 「そうかい、そう言うと思ったよ、嬢ちゃんトロールの匂いがするからね、この魚男はね、ロルフっていうんだ、そういや、あたしの名前いってないね、テアっていうんだ、よろしくね」
 老女は欠けた歯を覗かせて笑った。
 「あたし、緋です、よろしくお願いします、私が住んでいたところにも、トロールがいました、コロボックルっている小人です」
 「そうかい、それで匂うんだね、こんな嬉しいことはないね、今日は店を閉めちまおう」
 驚いて時計を見ると、まだ三時だ。老婆が時計を覗き込んだ。
 「嬢ちゃん、珍しいもの持ってるね、お天道さんがありゃあ、時はわかる」
 「曇っちゃったらどうします」
 今なら、そんなつまらない質問などしないのだが。
 「嬢ちゃん、お空を見てごらん、雲がかかっても、雨が降っていてもお天道さんは上にいるんだよ、なれりゃ、どこにいるか見なくてもわかるよ」
 その通りなのである。今はわかる。
 「アケちゃん、帰るよ」
 テアは緑色のリュックを背負った。歩いていけるところに家があるのだろうか。
 「すぐだからね」
 緋もリュックや寝袋を背負った。
 土産物屋がならんでいるところを抜けると、山の坂道に入った。道には山側から木が生い茂り、薄暗く、それこそ、トロールが出そうなところである。しかし、反対側はフィヨルドが見下ろせる。歩いていくと、だんだんと、船着場が小さくなっていく。十五分も登ったただろうか、山の中腹に緋の背の高さと同じくらいの石でできたトンネルがあった。反対側の光が見えるのでそれほど長いものではなさそうだ。
 「こいつを抜けるとすぐだからね」
 テアはぴたぴたとサンダルの音を立てて歩いていく。後をついて行くと、いきなり、明るい山間に出た。遠くにいくつものかなり険しい山が見え、下には家々の屋根が見える。箱庭みたいだ。まさかこんなところに集落があるとは思わなかった。トンネルはその集落に降りていく石段に連なっている。
 降りて行くと、木々の間から水の流れる音がする。すぐにそれが谷川であることがわかった。その川沿いに道があり、集落につながっていたのだ。だけど、この水はどこに行くのだろう。周りをみわたすと、ここはすべて山に囲まれているようなのだが。だから、フィヨルドとは隔離されているように思える。
 「この水は突き当たりで溜まると、浸み込んでフィヨルドに流れ出すんだよ」
テアが立ち止まって説明してくれた。
 家々が見えてきた。どの家も屋根はレンガ色の瓦で敷き詰められている。家は石造りで大きくはないが、とても可愛らしい形をしている。
 最初にあった家はとんがった屋根を持っていて、先っちょで緑色の風見鳥がまわっている。テアはその家の戸を開けると、中に入った。そんなに広くないが、ガラス窓から差し込む光で、家の中が明るい。入ってすぐのところがキッチンだった。水甕がおいてあり、薬缶の乗った竈があった。竈の隣に石で出来た調理台があり、その上には使い込んだ銅のフライパンやらお玉やらが吊るしてある。真ん中に手作りのような木のテーブルが置かれ、青いテーブルクロスが掛けてある。
 反対側にはストーブがある。今は使う必要がないが、冬になると薪を燃すのであろう。
 「こっちだよ」
 次の部屋は居間のようだ、ソファアがあり、本箱に何冊かの本が置いてある。木の壁には棚が作られ、木で作られた動物や茸が並んでいた。
 「亭主の趣味でね、夜中に作るのさ」
 ご主人がいたのだ、てっきり一人だと思っていたのだが。
 その部屋には戸が二つあった。
 「アケはこっちの部屋をお使いな」と一つを開けてくれた。かなり広い部屋でベッドが置いてある。荷物を置いて、居間にもどると、
 「こっちが私らの部屋だよ」と開けて見せてくれた。同じ大きさの部屋だ。大きなベッドが一つ真ん中にあり、壁側には作り付けの洋服ダンスがあった。
 「ご主人はお仕事ですか」
 「ああ、もうすぐ帰ってくるよ、食事の準備をするから、手伝っておくれ」
 テアがキッチンに行ったので、緋もついていった。
 「こうして火を起こすのさ」
 と、竈に薪と枝をいれ、マッチで紙に火をつけると枝の下に差し込んだ。枝がボーっと燃えていく。その間に、水甕から水を薬缶に汲んだ。それを竈に乗せる。
 「お茶を飲もうね」
 食器棚から、古い缶を取ると、中から乾燥した葉っぱをとりだし、ポットに入れた。もう一つの赤い缶からもなにやら乾燥したものを取り出し、ポットに入れている。なんだろうと思っていると、お湯が沸き、ポットに注いだ。
 「ちょっと、おいとこうね」そういって、ポットに赤い帽子をかぶせた。
 「可愛い、茶帽子」と緋はついつい日本語で言ってしまった。テアが、オヤッという顔をして、「そりゃティーコージーという意味だね」と言った。
 「はい」と頷くと、
 「なんだかいい音だね、ちゃぼうし、かい、これからそう言おう」と笑った。
 「ちょっと外を見せてあげようね」
 テアは緋を連れて、家から出た。石畳の道を歩いていくと、同じような可愛らしい家が並んでいる。途中にちょっと大きな家があって、「ここが、みんなで使う料理の家だよ、捕ってきたものをここに保存をしておいてね、誰でもここで、好きなように料理をして家にもって帰っていいのだよ、たまに、みんなで料理をすることがあるよ、水曜日だよ、その時は、この中でみんなで騒いで食べるんだ」
 その隣には教会のような小さな建物があったが閉まっている。赤いレンガで出来ていてとても優しさを感じさせる。
 「これはみんなの魂の家だよ」
 十字架がないのでキリスト教の教会ではないが、何か祭儀を行なうところだろう。
そこを過ぎると、また、数軒の家があって、外れの谷川沿いに、円形の塔があった。三階建ての家ほどの高さだろうか。
 塔の入口を開けると、エントランスで上に行く階段がある。階段はらせん状で見上げると所々に窓がある。エントランスからさらに中に入る入口がある。
 「まず上に行こう」
 テアは階段を上り始めた。屋上にでると周りが見渡せる。とんがり帽子の屋根がかかっている。雨でも大丈夫だ。
 「ここは、みんなの集会場だよ」
 木のベンチが、あちこちに置いてある。
 ぐるりと山の中腹が見渡せ、緑がきれい。
 塔の脇に小さな滝があり、滝つぼが透き通って見える。水がとても澄んでいる。こんなに遠くからでも中で何かが動いているのが見える。きっと魚なのだろう。とすると、ずい分大きい魚だ。谷に吊り橋が架かっている。
 「こんなに奇麗なところははじめて」
 「そうだろうよ、ノールウェーにも他にはこのようなところはないよ」
 「あの吊り橋はどこにいくの」
 「隣の山さ、トロールの森にいくんだよ」
 テアは下に降りると、部屋に入る入口の戸を開けた。そこは脱衣場になっており、さらに中には奇麗な湯をたたえた広い湯船があった。壁の周りには蛇口があって、お湯が出るようになっているようだ。大衆浴場といったところである。
 「誰が入ってもいいのだよ、いつでも使っていいよ」
テアが言った。長い間まともに風呂に入っていない緋はすぐにでも入りたかった。テアがそんな緋の顔を見た。
 「入りたいんだろう」うなずくと、「お茶を飲んだら入りに来ようね」と外に出た。
 テアの家に戻ると、ポットからお茶帽子を取って、カップにお茶を注いだ。
 「調度飲み頃だね、置いておいた方がおいしいんだよ、さあお飲みよ」
  ミントだ、ただそれだけではない、飲むと、すーっと頭が軽く楽しくなった。
 「素敵なお茶」
 「ミントマッシュルームさ、ミントの葉に、ベニテングタケ」
 紅天狗茸はマジックマッシュルームのたぐいだ。緋がポーっとなっていると、そこに真っ赤な猫が入ってきた。
 「にゃあ」と鳴いて、テアを見上げた。
 「おー、お帰り」テアが真っ赤な猫に声をかけた。ずい分大きな猫だ。緋も猫は好きである。しかし、真っ赤で、こんなに大きな猫を見たことがない。緋が頭をなでると、赤い髭を震わせて金色の目を細めた。
 「赤い猫は珍しいですね」
 「ここはみんな赤い猫さ、赤い猫の村というんだよ」
 「名前はなんというのです」
 「ベルゲ、私の旦那だよ」
 緋は聞き間違えたのかと思ったが、いや、二人暮らしというのはこの雄猫と一緒ということなのだろうと、解釈をした。
 「ベルゲ、この娘はね、これから一緒に住むアケだよ」
 そうテアが言うと、赤い猫は金色の目を向けて首を縦に振った。
 緋も「よろしく」と挨拶をした。
 「この娘が湯に入りたいというから、一緒に行ってやろうと思ってね、どうも長い間入っていないようで、トロールの匂いが少なくなってるんだよ」
 赤い猫は頷いている。
 テアは袋をもって外に出た。緋もリュックから洗面道具を取り出すと、袋に入れて、持って出た。
 さっき通った道を行くと、いくつかの家の前に、赤い猫がいた。テアはみんなに挨拶している。
 「ビヤーネ、アルネ、クリストフェル、ごくろうさん」
 円筒形の塔に着いた。
 「ロー バーデロムよ」
 この塔をそういうらしい。
 テアは脱衣場にいくと、さっさと湯船のほうに行ってしまった。日本の温泉のように、籠が用意してあって、そこに脱いだものを入れている。同じように、緋もした。
 後についていったら、湯に入っていたテアが驚いた顔をした。
 「あーら、すっぽんぽん、でも奇麗だね」
 見ると、テアは皺皺のからだに赤い水着を付けていた。
 「あ、私の国では、温泉はこうやって入るものだから」
 緋はどうしようともじもじしている。
 「いいよ、お入りよ、これからは私もそうしよう、みんなにもそうするように言うから」
 そういって、テアも水着を脱いでしまうと、放り投げた。
 「おお、すっぽんぽんは気持がいいね」
 緋は湯船に入ると、久しぶりにゆっくりした。温度はきっと四十度くらいだ。ちょうどいい。
 「緋の国では温泉に何も着ないで入るんだね、男も女も一緒の風呂なのかい」
 「いや、別々だけど、その昔は一緒に入ったということです」
 「いいね、しかも、家のお風呂と同じように、何も着ないで入るのだね」
 「温泉は今でもそうです」
 「赤い猫の村もそうしようね」
 「男女一緒にはいるの」
 「男は風呂には入らないのさ、家の風呂も私専用さ」
 男は入らないとはどのような意味なのだろう。
 「家にあるのですか」
「あるよ、ああ、まだ見せてないね、地下にあるよ、どの家にも」
 気持ちよく温まり、家に戻ると、赤い猫はいなかった。
 「さあ、料理の家に行って、食事を運ぼうね」
 料理の家に行ってみると、部屋の真ん中に大きな木製のテーブルがあり、魚、猪、鳥、山菜、山の実が山盛りになっている。周りの調理場では、何人かの女性が料理をしている。
 中に入るとテアが声をかけた。
「遅くなってごめんよ、ほら、このお嬢さんとつきあってたんだよ、温泉にすっぽんぽんで入るんだよ、アケだよ、これからうちに泊まるからね」
 おかみさん連中が「テアよかったね、可愛い子だね、よろしくね、私たちもすっぽんぽんで入るのかね」
 と料理をしながら笑った。おかみさんたちの背格好や顔かたちがみな似ていた。ただ、年は違うようだ。
 「もちろん、そうしよう」
 とテアが言うと、おかみさん連中が笑いながら頷いた。
 「この猪の肉は旨そうだよ」と鍋の中のシチュウをテアがのぞきこんだ。
 「今日はトロールがいろいろ獲れたって持ってきたんだ」
 緋に見せた。美味しそうな肉の塊が、鍋の中でくつくついっている。
 テアも料理に加わった。緋もテアに見習って、野菜を切ったり、水を運んだりした。一通り出来上がると、かみさんたちが、大きなテーブルに皿とフォークとナイフ、それに作った料理を並べた。誰かここで食べるのだろうか。
 テアが小鍋を三つ持ってくると、一つに肉料理、一つに魚料理を、もう一つに野菜をいれた。一つの鍋を緋にわたすと、自分は二つ重ねてもった。
 「さあ、持って帰って食べよう」
 「残った料理はどうするの」と緋が聞くと。
 「あとで、トロールたちが食べにくるんだよ」とテアが答えた。
 料理をしていたおかみさんたちも鍋を抱えて家に帰っていく。
 「料理の家で、料理をするのは、トロールたちに食べさせるためのものでもあるのだよ、トロールたちが材料を捕って来るのだからね、独り者のトロールはここで食べるし、家族もちは料理を持って帰るのさ」
 トロールって一体誰だろう。
 家にもどると、テーブルの前の椅子の上で、赤い猫が姿勢を正しておちゃんこをしていた。テアは器を三つ用意し、料理を取り分けた。ワイングラスも三つ用意した。
 「今日は、お祝いだ、アケがきてくれたからね」
 といいながら、赤いワインを注いでくれた。
 料理は、この上もなく美味しく、けちけち旅行をしてきた緋は、至極幸福感に満たされた。
 赤い猫もテーブルの上の皿の中の料理を食べ、ワインまで飲んだ。
 後片付けは自分がやると、緋は奇麗に食器を洗った。猫の名前はたしかベルゲだったと思い出した。
 「ベルゲはワインも飲むのね、私の国の猫はお酒を呑まない」
 「亭主だからね、飲むよ」
 とテアはおかしな返事をした。
 赤い猫は食事が終わると、そそくさと、テアの寝室の戸を頭で開けると、入っていった。きっとそこが自分の部屋なのだろう。
 その日はいろいろなことがあり、ワインまで飲んだので緋は眠くなった。
察したように、テアが「自由にしておくれ、眠いだろう」と言った。
 「はい、それじゃ、部屋に行きます、おやすみなさい」
 緋は自分の部屋に入った。やっぱり、ご主人はいないのだろうか、それとも、まだ帰ってきていないのだろうか、そんなことを思いながら、ベッドに入ると疲れがどっと出て、すぐに眠りに落ちてしまった。

 朝日が当たり目が覚めた。よく眠た。
 キッチンに行くと、パンのいい匂いがしてきた。テアが焼きたてのパンを皿に載せている。
 「アケ、おはよう、よく眠れたようだね」
 「ええ、久しぶりにちゃんとしたベッドで寝ました」
 緋はボーっとして、朝の挨拶も頭に浮かばなかったようだ。
 「そりゃあよかったね」
 真っ赤な猫が、テアの足元にいる。
 「そこの階段を下に降りてごらん、洗面所があるよ、風呂場もそっちだよ」
 キッチンの脇に下に行く階段があるのを昨日は気が付かなかった。降りると、奇麗な洗面所と、風呂場があった。かけ流しのようで、いつも湯がこぼれている。
顔を洗って上に行くと、
 「いっといで、気をつけてね」と声が聞こえる。赤い猫が外に出るところだった。
 「さて、我々は、食事をしたら、土産物屋にいこうかね、お食べよ」
 テアはパンにジャムを塗って食べている。お茶は昨日の夜飲んだものではなくて、紅茶だった。
 こうして、石段を登って、トンネルを抜け、ガイランゲルの船着場に来た。観光バスが入ったようで、かなりの人たちが、土産屋を覗いている。
 テアが鍵を開けると、何人かの客が待っていたように入って来た。
 「アケ、レジスターのところにいてちょうだい」
 そう言うと、テアはお客さんたちに、トロールの名前を教えていた。
 二つトロールを手に持った客が、レジのところに来た。見慣れないアジア人がレジにいるので興味津々のようだ。アメリカ人のようで、「日本人か」と聞くのでうなずくと、「京都に行ったことがある」と言って「アルバイトなのか」というので、「学生で旅行中のことを説明した。「若い人はいいわね」と帰って行った。
 「ここのトロールは本物だからね」
 と、テアが説明している。緋がレジの隣の棚のトロールを手に取ってみると、木を彫ったものである。他の土産物屋のトロールはみな合成のゴムのようなもので出来ている。だから、テアは本物と言ったのだろう。
 その日はかなりの客が店に訪れた。
 「アケが来たら、急にトロールが売れちまったよ、また仕入れなければならないねえ」
 とテアは嬉しそうだ。
 赤い猫の村に戻ると、その日は水曜日、料理の家で、みんなで料理して夕食をとる日であった。
 テアとともに料理の家の戸を開けると、おかみさん連中が、魚をさばいたり、肉を切り出したり、野菜や茸を料理して、用意をしている。二十人ほどだから、すべての家の奥さんが集まっているのだろう。
 緋が入ると、「テアの家はどうだい、眠れたかい」と声をかけてくる。
 緋が「とても素敵な家」と言うと、「私らの家にも遊びにおいで」と返事がかえってきた。みな和気あいあいと仕事をしている。
 赤い猫が何匹も入ってきた。猫も一緒なのだ。
 「料理はまだだよ、葡萄酒でも飲んでな」
 一人のおかみさんが赤い猫に声をかけた。料理を取り仕切る役目のおかみさんのようだ。名前をヴェンケということを後で知った。
 赤い猫たちがテーブルの椅子の上にのると、おかみさんの一人が、猫たちの前のグラスにワインを注いだ。デヴェンケが削いだハムを赤い猫たちの前に置く。
 赤い猫たちはグラスに舌をいれて、ぺちゃぺちゃとワインを飲のみ、ハムを食べた。
 木で出来たテーブルに赤い猫たちがせいぞろいをして、ワインを舐めているのは壮観である。何匹いるのだろう、おかみさんたちと同じほどの数がいる。それぞれの家の赤い猫のようだ。
 「はい、焼き立てよ」
 と、若いおかみさんがパンを籠に山盛りに入れて持っていった。
 赤い猫たちの一匹が緋のほうに金の目を向けた。
 「こっちにおいで」と言っているような気がする。テアを見ると、テアも気がついていて、緋の腕を取って、テーブルのところに引っ張っていく。その赤い猫はどうもベルゲのようだ。
 テアは「ほら、来たばっかりの、アケだよ、旦那たち、よろしくね」
 と赤い猫たちに紹介した。
 赤い猫たちはワインを飲むのをやめて一斉に金色の目を緋に向けた。猫たちはにゃーとはいわず、「ほーほ」とか「おーおお」とか歓声をあげた。
 「トロールの匂いがするだろう、この嬢ちゃんは」とテアが言うと、赤い猫たちは一様にうなずいた。
 料理が仕上がると、女達もテーブルについてワインを飲み始めた。緋もテアの隣で食べた。鍋が置いてあって、自分で勝手にとって食べる。どれも美味しい料理である。
 猫たちには小さい器にそれぞれ取り分けてある。
 「魚や猪は皆さんが獲ってくるの」
 「そうだよ、トロールに教わってね、それにトロールも持ってきてくれる」
 「トロールはどこにいるの」
 「もちろん森の中さ」
 おかみさんたちは、森の中の動物達のこと、茸のこと、木の実のことを緋に話してくれた。知らないことばかりで楽しいし、料理も美味しかった。毎週このような食事が出来るのは信じられないほど幸せなことだ。
 食べ終わると、おかみさんたちが片付け始めた。緋も鍋を持ち上げた。まだたくさん残っている。赤い猫たちは三々五々に、料理の館を出て行った。
 「緋、それはそのままでいいわよ、食器を洗ってくださいな」
 一人のおかみさんが言った。
 みんなで食器を洗って拭いた。さて、どこにしまうのかと回りを見ると、おかみさんたちは、再び大きなテーブルの上にホークとナイフとスプーンと、セットで綺麗に並べていく。次は一週間後なのにと不思議に思っていると、テアが、
 「トロールがこれから宴会するんだよ」と言った。
 あ、また、神様に奉げ物か、と思ったのだが、こんなにたくさんどうするのだろう、ここの住民より多いくらいだ。
 テオが帰るというので、外に出た。赤い猫たちが、外でたむろしている。
 緋は道々、テオに尋ねた。
「どの家にも赤い猫ちゃんがいるのね」
「そりゃそうだよ、亭主もちが家をもらえるんだ」よくわからない説明だった。
 家に帰りつくと、お茶を飲んだ。
 「湯に浸かってらっしゃい」といわれ、緋は地下に降りて、風呂を浴びた。天然温泉だ。気持がいい。上がってキッチンに行くと、赤い猫が椅子の上にいた。
 テオが話しかけている。赤い猫が緋のほうを向いて、「にゃあ」と鳴いた。
 その時、戸がノックされた。テアがお入りと返事をする。
 戸が開くと、黄色い帽子をかぶったトロールが入ってきた。え、驚いている緋にテアが「ほら、ロルフだよ、紹介しようね、この嬢ちゃんはアケ」と言った。
 テアの店にあった黄色い帽子をかぶって長い鼻をしたあのトロールだ。
 「こんちは、アケ、今度、水遊びにおいで、魚の捕り方教えるよ」
 「はい」緋は驚きながらも返事をした。と言うより、ちょっと呑んだワインのせいかと思った。夢を見ているようだ。だけど現実にトロールは目の前にいる。
 「ほら」と、テアがテーブルの上に、お茶を載せた。薄荷と茸のお茶だ。ロルフが少し高い椅子に腰掛けると、美味しそうに飲んだ。
 「このお茶を飲みにきたんだよ、ロルフはうちのお茶が大好きさ」
 「これから料理の家にいくんだ、ほら、木彫りをもってきたよ、足りなくなったんだろう」
 ロルフが布の袋をテアに渡した。テアが中から取り出したのは木で彫られたトロールである。
 「上手ですね」と緋が言うと、「トロールたちはみな木を彫るのさ、何せモデルは周りにたくさんいるからね」とテアが笑う。
 ロフルはお茶を飲み終わると、「またね」と出て行った。
「あのトロールはいい子だよ、いずれ、トロールの頭になるかもしれないよ」
 それをきいていた赤い猫も頷いた。
 
 こうして、赤い猫の村の生活が始まった。ノールウェーは快適な国だ、その中でも、この赤い猫の村は、トロールと赤い猫が共存する異次元の世界。きっと、人間には見えない世界なのだろう。緋はなぜかこの世界に入り込んでしまったのである。
 ある朝、ちょっと早く起きた緋は外に出た。吊り橋を赤い猫たちが列をなしてトロールの森に行く。何しにいくのだろう。
 外に出てきたテアに聞くと、赤い猫たちの仕事だという。
 「亭主たちはトロールを守っているんだ、トロールが森の中で仕事をしてる時に見張りをしている。大きな獣が襲ってくると、やっつけちまうんだよ、それだけじゃないよ、トロールの子ども達を背中に乗せて遊ぶんだ」
 テアが赤い猫を亭主と呼ぶのもいずれわかるかもしれない。トロールが生きている世界なのだから。
 日曜日には土産物屋も休みだ。テアは緋を連れて、トロールの住む森の中に連れていってくれた。赤い猫もいっしょである。コロボックルのように蕗の下や、茸の中にでも住んでいるのかと思ったら、赤い猫の村と同じような集落があった。家の大きさが赤い猫の村の家と比べると半分ほどしかない。
 森の広場にいくと、トロールたちが子どもを連れて遊んでいた。ロルフと奥さんがテアと緋を待っていた。奥さんの名前はヤンネ、赤ら顔の目の大きなかわいらしいトロールだ。苺をたくさん抱えて、緋たちを歓迎してくれた。双子の子どもがヤンネの着物の裾を掴んでいる。
 テアは作ったお茶の葉をつめた缶を土産にわたした。ロフルの好物だ。
 「今年は茸のできがあまりよくないんだ」
 ロルフが言った。「だけど、魚は良く釣れるよ」
 そこに、森の中から卵茸を抱えた老夫婦のトロールが出てきた。
 「ずい分採れたね」
 「今年は不作だけど、顔岩の反対側に行ったら生えてたよ、あとで持っていくよ」
 「ほら、新しくきた緋だよ」
 ロルフが紹介すると、
 「いいお嬢ちゃんだね、家を持つようになるといいね」と笑顔で応じた。家を持つって、ここに住むってことなのだろうか。
 トロールは必ず双子を産むということだ。赤い猫が双子を背に乗せて歩き回っている。子供たちは大喜びでキャッキャッと手を上げている。
「トロールの子どもたちは赤い猫が大好きさ」
 数年してからわかったことだが、ちょっと大きくなったトロールの子どもは、赤い猫の村につり橋を渡って毎日のように通ってくる。どこかの家に行って、そこのおかみさんにいろいろなことを教わっているのだ。デヴェンケは料理のことを子どもに教える。あるおかみさんは数を数えることを教える。テアは人間という生きものについて教えるのである。トロールと赤い猫の村の歴史を教えるおかみさんもいる。トロールの子どもたちは、おかみさんたちを、モと呼んでいる。どうもおっかさんという意味らしい。そのなかでも、たまに、テアのことをモレーンと呼ぶのは、きっと、おっかさんのとりまとめ役だからだろう。尊敬しているのだ。
 赤い猫のことはファールである。父ちゃんなのだろうか。トロールの父親はパパと呼んでいるし、母親のことはママといっているので、ちょっと違う意味が含まれていることは確かである。
 ある時、トロールの親子と茸狩に行ったことがあった。トロールの森にはいろいろな茸が生えている。トロールたちは食べられる茸のことをよく知っており、説明してくれた。そのとき、横からずい分大きな獣が飛び出してきて、ロフルにぶつかりそうになった。そのとき、赤い猫のベルゲがその獣に飛びかかって首根っこに噛み付いた。猪だった。猪はあわてて逃げていった。トロールは赤い猫のファールに守られ、トロールの子供はモレーンに教育されているのである。
 毎日、この暮らしを続けた。それは自然な営みで、何一つ心に引っかかるようないやなことはなかった。緋は心からここの暮らしを楽しんでいた。

 今でもここにきてすぐのことを良く思い出す。ここにいついて一年経った頃のことである。両親は緋が旅したルートをたどって、ガイランゲルにやってきた。警官もテアの土産物屋に調べに来た。しかし、なぜか、緋はみつからなかった。赤い猫の町に、警官もガイランゲルの町の人たちも入ってこない。入り方も知らないのだろう。しかし、緋がみつからなかったのはそのためではない。
 土産物屋で、テアが警官に「たくさんの観光客がくるからねえ、覚えていないねえ」と答え、両親には「おや、遠くからご苦労様です、きっと、元気に楽しく暮らしているんじゃないかね、ノールウェーは森が深いから」と言っていたが、両親には意味がわからなかったようである。
 ここが肝心なところである。両親は、テアのそばにいる緋に気がつかなかった。目の前にいたのに。緋は声をかけなかった。しかし、両親への感謝は忘れたことはない。自分が幸せなら許してもらえる。いつか、両親にそういったことを知らせるときがくるだろう。そう思っていた。
 もう二十年経ったのかと不思議に思う。余りにも自然の生活で、時間を置き忘れていた。緋の顔がテアに似てきたとおかみさんたちは言った。ガイランゲルに着て調度二十年たったその日、おかみさん連中が集まって、緋を呼んだ。
 「アケ、家を建てるからね」
 それがどのような意味を持つのか、今は知っている。
 トロールたちが、赤い猫の村の一番端、トンネルに近いところに家を建て始めた。テアの家の隣である。しばらくすると、愛らしい家が出来上がった。
 ガイランゲルの土産物屋のレジにいると、テアが、
 「ガイランゲルから黒い雄猫を連れておいで」と言った。
 緋はガイランゲルの村の中を歩き回った。捜し歩いて七日目だったろう、民家のはずれで子どもをつれた白黒の母猫に会った。子どもは真っ白、真っ黒、虎、白黒の四匹だった。
 緋は母猫に「その黒ちゃんくれないかしら」と言った。白黒の母猫は青い目を緋に向けると頷いたようだった。白黒の母猫が緋の前を通り過ぎた。子猫たちもついていく。しかし、真っ黒い子猫だけは立ち止まって、緋を見上げていた。
 緋はその黒い子猫を抱き上げた。母猫が振り返った。よろしくといっているようであった。
 店に連れて帰ると、「おう、連れてきたのかい、はやいね」
 とテアが笑い顔を見せた。
 赤い猫の村に黒い子猫を連れて帰った。おかみさん連中が集まって、魂の家に行くように言った。
 一人のおかみさんが家の鍵を開けた。
 「仲間になるんだよ」と言った。
 おかみさんはアストリットという、魂の家の係りだった。
 家に入った緋から、アストリットは黒い猫を取り上げた。祭壇の前にくると、水が入っている白いガラスのボウルに黒い猫を入れ洗った。子猫は気持ち良さそうに、目を閉じている。と、見る間に水が黒くなっていき、子猫の毛は真っ赤になった。とうとう黒い子猫は赤い猫になった。
 水から上がった赤い猫を緋がタオルで拭いた。赤い子猫は嬉しそうに「にゃあご」と鳴いた。
「さあ、アケ、今日から、新しい家に、この子猫と住むんだよ」
 テアが言った。
 緋は何か寂しい思いだったが、荷物をもって、新しく出来た家に子猫とともに入った。
 「いつものように暮らせばいいんだよ」
 テアがそう言ってくれた。
 そして、半年がたった。猫が大人になるのに必要な時間だった。
 夜になると、大人になった真っ赤な猫は、緋のベッドの上で、金髪の青年になった。青年はマルキュスと自分を紹介した。
 マルキュスが緋を抱き寄せた。そのときから、緋はモレーンになり、言葉が要らな
くなった。話したいことがあると、相手に通じる言葉が口からでる。相手のどのような言葉でも頭の中でわかる言葉になった。フランス語だろうが、ドイツ語だろうが、もちろん日本語だろうが関係なかった。赤い猫やトロールの言葉もすべて理解できるようになった。
 マルキュスは日が昇ると、真っ赤な猫になり、ベルゲたちとともに吊り橋を渡って、トロールを守りにいった。
 トロールの子ども達が、緋の家にも教わりにくるようになった。緋は他の国の人々のことを教えている。
 赤い猫の旦那は、ベッドの上にのると、マルキュスになった。
 テアは今でも緋のようなトロールの匂いのする女の子がやってくるのを、土産物屋の店番をしながら待っている。アケもたまに手伝っている。
 その幸せな村で、夫とともに幸せに暮らしていることを、緋は両親に手紙をしたためた。土産物屋をやっているとも書いた。年老いた両親は驚き、そしてきっと喜ぶに違いない。
 ガイランゲルにはそういう赤い猫の村がある。

赤猫幻想小説集「赤い猫」(2019年一粒書房発行)所収

トロールの匂い

トロールの匂い

北欧の旅に出た緋(あけ)はノールウェーのフィヨルドの町ガイランゲルで土産物屋のおばあさんに会う。家に泊めてもらうとそこは、赤い猫の村だった。

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