白波を、歩いたり
大学生の頃から、彼とは付き合っていた。
あの人は海が好きだった。
彼の実家のあの部屋は、薄暗く、空気が滞っていた。薄いカーテンは揺れもせず、つめたく眠っているようだった。日和子は顎に力を入れ、なるべく物を見ないようにしていた。
鳥肌を立てたまま、本が無整理に詰められている棚の前にしゃがみ、日和子は手を伸ばした。病気のように体のあちこちが痛んだ。
海に関する、沢山の専門書。海の写真集。外国語の本。本棚の奥の、板の表面。指先の、ざらざらとした感触。横目に砂浜の表紙を見ながら、日和子はそれを引き寄せた。
出てきたものは、倒れた小さな鉢。埃にまみれ、皺んだサボテン。鉢を手に持ち、こぼれていた砂を塵と一緒にかき集めて入れてやる。
死んでいるのかしら。
毛のように弱ったサボテンの刺を吹き、日和子はぼんやりと考えた。
水ね。
日和子は階下の台所から運んだ浄水を少なめにサボテンにやる。そして部屋の真中に置き、自分はその横に座った。
彼の気配がした。
腕に埋めていた顔を上げる。誰もいない。
本棚に、ふと目を引いた背表紙があった。絵本。日和子からのクリスマス・プレゼントだった。
あれはたしか、冬らしくない、過ごしやすい気温の日だった。
だから、日和子はわざと海に行きたいと言った。
彼のコートは暖かい。彼の研究の話を聞きたい。
港の横の公園。夜景が綺麗なのに、誰もいない。日和子は彼に寄り添って話を聞く。
太陽の光も電波も届かない、高圧で寒冷な深海の話。そこにも生き物がいる。その生態系を支える生産者は、海底から噴出する熱水に繁殖した細菌。
彼は嬉しそうに海の命のとんでもなさを語って、一人で笑っていた。
日和子は彼の体を引いて、眼下の暗い海を見た。
遠くからの光に揺らめく、その黒。同じ日本の海。これよりも何十倍も過酷な場所に、彼らは生きている。
「面白いよなあ、日和子」
サボテンが震えた。
日和子は凝視する。
サボテンは黙っている。
日和子は顔を下げた。
――彼。
「彼はね……」
日和子はサボテンに語った。
彼は、あまり自分のことは話さない人だった。あまり器用な人じゃなかった。不器用で、いつも周りに気を使わせる人だった。
そんな彼との出会いは、どんなのだったかな? 日和子は優しく目を伏せる。
人ごみの中で、最初に友達として紹介を受けたときは、恋なんて考えてもいなかったけど、彼の顔を、少しでも長く見ていたいと感じていた。テーブルに分かれて座っていて、彼の声が聞こえると、なんだか気分がほぐれた。
恋っておかしいな。日和子は頭をかいた。普段、人間関係を難しく考えている自分がいたはずなのにね。いつからか、自分の部屋にひとりでいるとき、彼のことを考えるようになって、彼の顔を見たいって、ただそれだけのためにいろいろな工夫をして、ヒマワリみたいにただ彼だけを見ていた時期があった。そこまで人って単純になって。
うっすらと目を開け、日和子はつぶやいた。
ワイシャツにも肌寒い、暗い部屋。外の雨音が、わずかに緩くなる。
「不器用でさ」
お互いに、顔を真っ赤にして。
「今時ね、もう」
日和子は鉢を引き寄せた。肩が寒い。震えている。頭が重い。
となりの住宅からピアノの音が聞こえる。題名なんて知らない曲。
それに合わせて、日和子は鳴らない口笛を吹いてみた。サボテンを斜め見やって、ひゅーひゅーと空気を流した。
「あの人は上手だった」
わざと拗ねたようにサボテンに言った。
静かな口笛で、逃げ出そうとした窓辺の小鳥を引き止めた彼。流行りの曲を聞かせてくれた彼。その彼からよく口笛をならったけれど、日和子は一度も吹けたことがない。
『おかしいな。舌が変なんじゃないか、日和子? 肺活量も少ないだろ。泳ぎもぎこちないしな』
口を半開きに真剣に見つめてくる彼を見て、日和子は吹き出して目を逸らした。
『海上は音が伝わりにくい……、……高級なホイッスルを……、……信号……、……傍の船でも無線を使って……』
陸にいるときは、気持ちを紛らわすために口笛を吹くんだってさ。
一瞬、線香のにおいがした。
息苦しい。部屋にいるからなのかもしれない。
外に出て、落ち着きたい。
日和子はサボテンの鉢を持ち、部屋を出た。
「あと少し?」
彼を高原に連れ出した夏の日の出来事。遠くの緑山にかかっていた雲が掠れ、空が灰色に濁った。薄暗くなった林の小道を、二人自転車で下っていた。
「ブレーキ締めてな」
かすかに風に水滴が混じっていた。林の奥に霧のようなものが出ていた。日和子はびくつきながらもスピードを上げて坂を下った。
すぐ後ろの彼が注意する。
「石が多いから」
ざわめく木々が心を焦らせる。飛ばされそうになった帽子をハンドルとまとめてきつく握り、日和子は先の方だけを見ていた。
一瞬前輪が跳ね上がる。左右に振れるハンドルを落ち着かせる。日和子は全身を緊張させた。
「一度止まれ!」
すぐ横に出た彼が叫んだ。
「いいから」
以前、木陰の雨宿りで四時間も待ったことがあった。気温も急に低下する。
「海とは別なの」
小道が更に狭くなった。大木を避けて道が曲がる――
次の瞬間、道の石に、前輪が大きく弾かれた。ハンドルを押さえようとしたが、間に合わない。後輪が土で横に滑り、バランスが崩れ、前転するように重心が浮き、地面が先に見えた。
体当たりをするように、彼が飛んで抱き着いてくれた。二人揉まれて地面を転がり、林道の脇を滑り落ちた。
しばらくの間、痛さで日和子はじっとしていた。何が起こったかと考えていた。
しばらくして、クッションの彼がやさしく肩を撫でてくれた。
傾斜の土を抉った肘を立てて、彼が先に起き上がった。後ろを向いたまま彼は汚れた鞄をあさっていた。
彼が日和子の体を起してくれた。日和子はきつく彼を抱き締めた。彼は頭からタオルを被っていて、顔が見えなかった。
彼は日和子の尻を押し、道まで上げてくれた。
道の端には、楕円に崩れた車輪の自転車が引っ掛かっていた。
彼が登り、自転車をそのままに、お互い肩を支えあってペンションを目指した。
ぽたぽたと、彼の顎から地面に血が垂れていた。彼の黒いシャツの胸が濡れていた。
「怪我ないか?」
ない、ないっ。日和子は泣きながら頭を振った。
雨が降り出す。
タオルの端で顎を拭い、彼が言った。
「よし、かえろ」
海の広さ。
それを実感したのは、彼が乗せてくれた研究所の船の上でだった。
すべての方向に視界を遮るものがなく、ぐるっと見渡すと、地球が本当に丸いことが分かった。感動した。甲板に仰向けに寝て、腕を広げて、空が揺れ動くのを見た。
彼の部屋へと続く、暖かい木の階段に座って休みながら、日和子は死んだ彼の嬉しそうな顔を思い出した。
「得意気な顔だったし」
日和子は横のサボテンに向かってクスクス笑った。
「単純なヤツだったのよねー」
彼。
「お名前、永田広之くん。お誕生日は十月二十三日の天秤座。血液型はО型で、趣味はヨット遊びと熱帯魚、特技は水泳という、根っからの海中青年でしたー」
日和子は薬指の指輪を外してシャツのポケットに入れ、ボタンを掛けた。
「エビフライ、おにぎり、たまごスープ。海。船。それと、数字の5、薄い緑色、四こま漫画。そして、そして、一番は――」
日和子は頬の内側を噛み、階段の天井を斜めに見上げてしばらく動かなかった。
長い間、遠くの海に行っていた彼が帰ってきた。それを電話で知って、日和子は次の日に会う約束をした。一緒に見たい映画があった。
「久々に、あの海にいこうか」
近くの砂浜。悲しくて、日和子はねだった。
「ねえ。映画館に、行こうよ」
「怒るなよ。あの砂浜を見るために帰って来たんだからさ」
咄嗟に日和子は受話器をにらんだ。私のためじゃないの?
次の日。家に迎えに来た車の向かった先は、やっぱり砂浜。
「ねぇ、くらげとかいないのー。いるんじゃないの」
岩場に隠れた小さな砂浜で、知っているのはたぶん彼と日和子の二人だけだ。
更衣室もないから、近くの公園の公衆トイレでパッパと着替えた水着は、それでもその夏の流行で。
熱い個室から出て受けた浜の涼しい風に、日和子は機嫌を良くして言った。
「いいわよ」
なのに彼は海ばかりを見て、一人で沖まで泳いで行った。
日和子は浅いところで、腰まで海に浸かって、無拍子に海面を叩いた。波を打った。
彼と一緒に、水をかけあったりと、ビーチボールで遊んだりと。そういうイメージがあったのに。最初は、そうだったのに。
評判の良い恋愛映画のワンシーン。
日和子は海から上がった。ビーチサンダルを探すが、見つからない。流された。日和子は裸足のまま着替えに戻った。
太陽に熱せられた個室で、タオルで拭ってもすぐに湿ってしまう肌の上にシャツを着て、日和子はバッグを持った。
公園の木影のベンチで、彼が自分の脚を擦っていた。
「アンドンクラゲだ」
日和子は木陰には寄らない。
「かえろ」
夏の午後。
誰ともすれ違わない、車までの長い道のり。
暑さ。建物の影を譲ってくれる彼に、感謝もしなかった。
不快で、つまらなくて、悲しくて。すぐに帰って髪を洗いたい。
赤い信号で立ち止まった二人はしばらく黙っていた。
未開発地区の、見晴らしのよい十字路。
「怒ってるのかよ」
彼が言う。
「なんにも」
誰もいない、車も通らないアスファルトの道路の先、眩暈のような陽炎が昇っていた。
「そんなに、映画が見たかったのか」
「……しらない」
彼の溜め息が聞こえて、日和子は青信号を先に進んだ。
のろのろと走るだるそうなダンプカーとすれ違う。熱い排気ガスが吹き付ける。
「何週か、また海に出るんだ。今日はさ、うん……長く居たいんだ」
帰りの車の中、窓の外を見つめ続ける日和子に彼も黙った。
ずっと黙ったまま、路地を曲がり、彼は日和子の家の前に車を止めた。
バッグを持ち、日和子は車を降りる。
「なあ、ドアを閉めろよ」
開け放ったままのドアの中から、いらついた声が聞こえた。
「おい、ドア」
日和子は無視し、髪を気にしてカギを探す。
彼が怒鳴った。
「おい。閉めろ」
大声に驚いた日和子は腹を立て、家の戸を勢いよく閉めてやった。
――最後の日。
船体に、藻が絡んで。
へらを持った彼が海に入る。
時々あることさ。時々やることさ。
海藻は、同じ種でも地域によってかなり性質が違う。育った海とは別の場所に連れていくのは、可哀想じゃないか。輸送船のバラスト水ほどの問題でもないけれどさ。人間の作ったビニール袋ってのも良くないよな。漂うビニールをクラゲと勘違いして、亀が食うんだよ。スクリューにも絡むしな。
『海への、礼儀ってやつだ』
海、海、海。
海の魅了。
どこまでも追いかけたくなる、青くて広い大空、巨大な雲。波の音。遠くを飛ぶジェット機。シャツをはためかせる風。
そして彼が、波の合間から手招きをしたように見えた。操船の仲間には。
彼を拾おうと回したスクリューに、奇妙な抵抗が生まれる。
日和子はサボテンと一緒に彼の部屋に戻った。
先と同じように、サボテンを置いて自分は横に座った。
日和子は、自分の手首を見つめる。
ねえ、私、こんな目にあったんだよ?
最初の報せはまだ、実感がなかった。
周りの表情を見て、不思議に思った。
連絡のあった病院に近づくにつれ、ゆっくりと背筋が凝固していった。
「――後進ピッチで――右肩から腹までを――」
病院の廊下で、誰かが話をしていた。
『日和子さん、入るな』
部屋の前、彼のお父さんが、赤い目で押し留めた。
泣き狂って、飛び出して、捕まえられ、口に手拭いを押し込まれ。
ずっと傍には誰かがいてくれた。
腹痛と吐き気。どのくらい泣いたんだろう。
数日の後、落ち着いた素振りで洗面台に向かって。剃刀を手にして、鏡を見据えて。
日和子はサボテンを、子どもの頭のように撫でながら。
「いろいろと、あったんだよ?」
枯れたと思っていたサボテンが、日和子の指を刺した。日和子は指を引っ込め、瞬間的な痛みのあった箇所をさすってみる。
「お互いに……」
日和子も生きている。
壁掛けの時計がカチコチ鳴っている。
部屋を歩き回りながら、日和子もカチコチと言ってみた。
久しぶりの彼の部屋。
壁際の机が、なくなっていた。日和子はこめかみが痛むほど、顎を強く締める。棚の上の、ふたりの写真が怖い。その横にいたはずの、つがいのエンゼルフィッシュがいない。もう水槽は空っぽで、ポンプとヒーターが雑に投げ込まれている。
半端に片付けられた彼の部屋。不安定な、この未来の居場所。
「散らかしっぱなしでさ。だらしなくてさ」
おそらく、ずっと締め切られたカーテン。嫌な、昔のカレンダー。
カーペットについたベッドの足跡を、日和子はスリッパの先で擦ってみる。
「がらん」
涙が。
寄せてきて、引いていく、波の印象、繰り返し。
日和子は、目を覚ました。
カーペットに擦って、目元を拭く。床に押し付けた顎に違和感を感じたまま、体を起こす。
日和子はもう一度目を閉じる。
「全部が、夢じゃないよね」
冷たい部屋の空気に、体が凍えていた。
口に手を当て、目を開けた。
サボテンが、こちらを見ていた。
……君の……。
サボテンが、言う。
痛いかい、寒いかい。
君を癒すものは、なんだい?
君は気づいていないけれど、一日一日、君の傷は治されていっているんだ。本当なんだよ。
最初の一年は、あっという間だったね。今日は、『もう、二年だ』さ。次の時は、君は他の人と結婚しているかもしれないよ。
ねえ、君よ。彼がいた場所、社会に空いた穴を見ていな。その穴が小さくなっていくのを見ていな。
どんな顔でも構わない。見ていな。
「……」
一日。一週間。一ヶ月。一年。
その区切りは、人の世の優しささ。
まず、一年だ。ほら、三回忌さ。ああ、七回忌だ。たしか、十三回忌だ。
いつまでも、涙に暮れているなよ。緩やかすぎてわからないのか。君の心の大穴は、徐々に塞がれていっているんだぜ。いつまでも、君はあの時のままじゃない。それを気づかせるものに、感謝しな。
――きっとずっと囚われる。寄せては返して目にちらつく。
ただ、このさらう波に、じっと。
白波を、歩いたり