月光

iiiii

月光

 彼に憧れていた。彼を取り巻く雰囲気、発する言葉や振る舞いの一つ一つが、私の理想だった。彼は素直に相手の求めているものを与えることができ、それはけして裏がなく、赤ん坊の笑顔のように純粋なものであった。そんな彼の人柄ゆえ、年齢のわりに交友関係も広く、彼を慕う者は非常に多かった。また、彼と付き合う女も国立大学のバイリンガルだったり、有名私立大学のアイドルだったりと私とは真逆の、いわゆる勝ち組ばかりだった。そんな彼を密かに憧れることさえ罪悪感を感じてしまうほど、彼と私は月とすっぽんの関係であった。にもかかわらず2年間も親しくしているのは、きっと天からの褒美なのかもしれない。
 また、彼といると常に安心できた。自分の身に嫌なことが起きていても、彼と一緒にいる時間だけは何もかもを忘れられた。彼の隣はまるで母親の胎内のようで、それは居心地の良いものだった。そんな彼を憧れ止まりではなく好きだと思ってしまう気持ちは、けしておかしくないと思う。しかし、彼と一緒になる未来を全く想像できないのが問題だった。彼と家庭を築く私、彼の子どもを産む私。今まで付き合ってきた男との結婚後のビジョンは簡単に、また鮮明に想像できたのに、彼だけは例外だった。しかし、彼と離れる未来も想像がつかなかった。仮に互いに別の伴侶ができたとしても、結局私たちは老いて死ぬまで、ずっと親しいままだとも思うのだ。見事に矛盾するこの気持ちを、まず自分自身が理解できてなくて、それが私を長らく悩ませた。
 「好き」とは、一体どのような感情なのだろう。目が合うと恥ずかしいので逸らしてしまう、手が触れると思わず意識してしまう、メールの返信が来ると頬が緩んでしまう。「好き」という感情は、素人が書いた恋愛小説みたいにそんな簡単な要素だけで成立するものなのだろうか。本当はもっと欲にまみれた汚いものであり、グロテスクなものであり、危険を伴うものなのだと思う。実際、私はそんな完璧な彼の数時間を独占していることに喜びを感じたり、または隣にいることで勝手に自尊心を高めたり、彼に欲されていることを生きがいにしていたりと利益ばかりを求めていて、その利益を欲しがる様子が「好き」という感情に現れているのではないかとさえ思い始める。理想を追い求めるより理想と繋がっていることで、理想になりきっている自分がいるのかもしれない。そんなこと頭の中で反芻していると、すでに彼は隣に座っていた。
 「タバコも吸わずに考え事なんて、珍し」
 そう言ってせせら笑う彼と目が合った途端、急にむず痒くなった。慌ててセブンスターの箱からタバコを一本取り出すと、安物のライターで雑に火を点けた。深く深く、肺の奥に煙を吸い込んで、一気に吐き出す。この動作を繰り返すことに集中し、鼓動の速さを整える。そうしなければ、この状況で「好き」などと変なことを言ってしまいそうで怖くなった。人はなぜか思いがけないところで、思いがけない言葉が出てくるものである。
 「私もいろいろあるの」
 わざと彼から目線を逸らすと、残っていたビールを一気に飲み干した。3杯目でほろ酔いになるなんて、私も随分と酒に弱くなったみたいだ。だいぶ気持ち良くなってきた。酒を飲むと毎回、やたらと男に甘えたくなるのが私の悪い癖だった。彼の膝に手を置いて撫で始めたり、頬に触れた途端に唇を合わせたり、私からラブホテルへ誘ってみたり、今ならなんでもできそうな気がした。しかし今日は誘わない、また彼から誘われても乗らないと強く決めていたので、ひたすら我慢し続ける。
 「遥ちゃんの場合、いろいろありすぎるくらいでしょ」
 まるで私のことならなんでもわかっているかのような口ぶりだと思った。たしかに2年前から彼にはたくさん相談してきた。しかし実際のところ、秘密にしていることなんてまだまだたくさんあった。浮気も暴力も警察に世話になったことも、すべて彼に相談できるわけではなかった。なぜならそれを言ってしまえば彼の、私に対する評価が下がってしまうのが目に見えていたからだ。尊敬している人、好意を持っている人に対して、自ら「最低な女です」と暴露するような、そんなバカなことはしたくなかった。私のことをもっと知ってもらいたいと思う反面、言ってはいけないことが多いのは、自業自得とはいえなんとも居心地が悪い。しかしこれが正しい恋愛のやり方なんだと思った。彼に好いてもらうには自分を偽り続け、彼の理想の女を演じることが絶対的に必要不可欠なのだろう。バイリンガルもアイドルも、きっとそうしていたに違いない。
 火を消そうと、タバコを灰皿に押しつける。なかなか火が消えなかった。ふと、私はもう彼にとっての恋愛対象から外れているのかもしれないと思った。たくさんの男と寝ることで私は金を得て、顔を変えた。さらに自分の不注意によって子どもを堕したこともある。冷静に考えて、そんな阿婆擦れを彼が好きになってくれるはずがなかった。彼はただ、若くしていろいろな経験をした私に興味本位で近づき、面白がっているだけなのかもしれない。私は弄ばれていたのかもしれない。そんなことを思い立てば、もう淡い期待を抱くのはやめにしようと思うのだ。何度も夢見るのはやめにしようと思った。
 でも、自分からこの恋は諦めたくなかった。突き放すのは彼からがいい。私から離れることは、臆病すぎてできなかった。言いたい、「好き」だって。もう何度も好きな男に振られてきたので、耐性はついているはずだった。ほろ酔いで言うことではないのもわかっていたが、この気持ちを抑えることが難しかった。彼を誘いたいという欲望も、すでに我慢できなくなっていた。私は静かに唾を呑み込んだ。
 「そうでもない、けど」
 彼はレモンサワーに入っていたマドラーを突いた。一瞬私のほうを向くも、すぐにマドラーへ視線を戻した。
 「......けど?」
 「いろいろある女は嫌いですか」
 なぜか今、彼と月明かりの下でキスをしたことを思い出した。夢みたいで忘れられなかった。1年前のあの頃、私はカーテンを開けて寝るのが日課だった。寝る前にいつも通りカーテンを開けると、あの日はたしか満月で、普段は暗い私の部屋にはたくさんの青い月の光が差し込んだ。ベッドの上でこちらを見る彼の顔がより鮮明に見えて、一瞬にして鼓動が早くなったのを覚えている。あのあと、私は彼を呼び寄せて自分からキスをしたのだ。お互い下着しかつけていなかったので、密着する肌からより温もりが感じられた。私の腰に添えられた彼の両手、彼の頬の熱を感じ取る私の両手。目を閉じて、一生懸命に互いを欲した数十秒。唾液が交わる音だけが、あの一室に響いていた。唇を離し目を開けると、お互いに照れ笑いした。あの時の、月明かりに照らされた彼の顔があまりにも美しくて、つい見惚れてしまって、完全に脳裏に焼きついてしまった。
 付き合ってもない人と、付き合う前にこんなことをしてはいけないのはわかっていた。世間の道理から外れているのは、重々承知していた。しかし、私はその先を求めてしまう。それは彼が好きすぎるがゆえなのかもしれない。好きすぎるがゆえに、いろんな期待をしてしまうのだった。彼に「好き」と言われたい。彼と本当に愛し合いたい。そのような欲望に、つい身を委ねてしまう。
 突然、彼に頭を撫でられた。ふと顔を上げると目を細めて微笑んでいる彼が映った。その微笑みは、「情け」という言葉が似合っていた。
 「嫌いだったら、ここにおらんよ」
 自然とこういうことが言える男は、なんて罪なんだろう。知り合いから移ったと言っていたその関西弁が、より愛おしく思えた。結局、彼は私に好きとも嫌いとも告げないのだ。引き寄せもしないし突き放しもしないのがずるくて、一枚上手だった。
 それと同時に、たったあの一言で私の恋が実らないことも教えてくれた。彼にとって私の存在は、やはり都合のいい存在でしかなかったのだ。その結果を、私は素直に受け入れた。高校生の頃にメイクが濃いと担任から説教をされた時も、両親から露出が多いと服装に文句をつけられた時も、友人から初対面の男とセックスをするなと注意された時も、なにもかもが今までピンと来なくて、すんなりと納得できなかった。しかし今回は落胆もせず、憤慨もせず、まるで幽霊にでも取り憑かれたかのように、ただただ納得させられたのだった。彼が怖くなった。同時に、もっと好きになってしまった。
 本当に彼は相手の求めているものを与えてくれた。今の私は、好きでも嫌いでもなく、そんな曖昧な言葉を待っていたのだと思った。私たちは一生曖昧な関係のままが映えるのだ。将来のビジョンは見えないが離れる未来も見えないというあの矛盾も、あの月明かりの下で交わされたキスが脳裏に焼きついているのも、互いが恋人同士じゃないからこそだった。恋人同士もしくは両想いであったら、きっと将来のビジョンも簡単に浮かぶし、あのキスも愛し合った断片にすぎなかった。どちらでもないからこそ、私を悩ませ、脳裏にやきついていたのだ。
 これからは彼に弄ばれてもいい。彼に面白がられていてもいい。私が彼のことを好きな事実は変わらない。彼に突き放されても、私は彼と一緒にいたい。老いて死んで、魂だけになったとしても、ずっとずっと。今日は彼をホテルへ誘おう。彼と、恋人ごっこをしよう。それだけで、私は満足だ。
 タバコに火をつけると、思いきり煙を吸った。煙が、私の肺をどんどん蝕んでいくところを想像すると、なぜだか無性に笑えてきた。
 「ありがとう」
 教えてくれて。私は彼と永遠に一緒になること自体ではなく、"例え突き放されても永遠に一緒にいる"ことこそが私の望みだったのだと、今になって気づいてしまった。

月光

月光

  • 小説
  • 短編
  • 恋愛
  • 青年向け
更新日
登録日 2020-07-23

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted