恋した瞬間、世界が終わる 第4部 早川真知子
第4部 早川真知子編
第21話「カーテンの向こう側」
あの時と同じ、カーテンの向こう側
“わたし達”は、物語を書いているーー
せんぱいの姿を見たとき、わたしは嬉しかった。
「きっと、せんぱいは生きているだろう」
そう心に強く願い、信じて、生きてきたから。
わたしは漫画を描くのを辞めていました。
理由は「健康に悪いから」です。
あの頃は、夜遅くまで床に座ったまま。
小さく丸い木製のテーブルと、肩を丸めたわたし。
喉が渇いたら近所の自動販売機で缶コーヒーを選ぶ。
カフェオレ、カフェラテ。
いつもの蛾がボタンに張りつき「それ飽きないの?」と羽をバタバタ。
マイマイガのくせに。
引き寄せられるダイドーの自動販売機の馴染み。
立ち止まって。
外の空気ーー夜風に当たる心地よさ。
「ガコンッ」と、わたしにとってのアウフヘーベン。
取り出し口から缶コーヒーに触れる最初の感触。
そして閉じる音。
そのわずかな夜散歩も、わたしの生を維持させました。
何時間も原稿用紙と向き合い続けました。
そのまま朝日をカーテンの向こう側から感じて終える日々。
自律神経は狂いっぱなしだったと思います。
わたしの筆は遅いものでした。
ネームの段階で実験的なコマ割りに気を取られたり…。
自分を「健康的に」導いてくれる何かが足りなかったのです。
だから、誰かの助けが必要だったのでしょう。
人生は、誰かが傍にいなければなりません
「隣りに」というわけではなくて「自分の道筋を見守ってくれる人」
横道に逸れることに夢中になって、関係ないお喋りで浪費してはいけません…。
わたしは時に、おしゃべりが過ぎます。
自分が果たすべき何かを忘れてしまってはいけません。
それならきっと、2番目の幸せを選んだ方がマシになります。
借りたまま返さずに、しかも、読まずに。
友達から借りた本があります。
友達が「カロドポタリクル」で安楽死を選び。
死に、手元に残った本。
そこから…。
わたしは、いえ、“私たち”は、
作り直すことが出来ます。
手始めに思って、
たまたま図書館で借りた本に挟まっていた髪の毛から、
クローン技術を試し初めて…そして産まれた、娘。
誰かの面影に気づかず、成長した姿に…。
非道な別れをしてしまったあの娘の髪の毛だった事に気づいた時ーー
それは報いのための作業なのでしょうか…。
あの娘も読んだというその本の内容…その重なりは…。
わたしは自分が「クローン」なのではないかと思っていました
ただ、わたしが「カロドポタリクル」を使用しなかったのは、
この人生で果たすべき何かを終えていなかったからです。
充実した人生が欲しかった。
自分が満たされるものが欲しかった。
自分が向かうべき先にあるものを知りたかった。
「本」がわたしを変えた
わたしには、「コンピュータ」は必要ありません
第22話「わたしを機械の下(もと)へ」
「メトロポリス」
という映画が好きでした。
古い昔の白黒の映画です。
無声映画なので、コミカルなパントマイムが印象に残っていました。
ただそれ以上に、人間と機械。
白黒映画だったからか、そのどちらもが儚く脆いものに映り。
それが最後に手を取り合い。
儚いもの同士が共に助け合っていくだろうこと。
とても印象に残っていました
まるで夢の中、カーテンの仕切りの向こう側で、
現実化しない物事と、手と手を取り合ったみたいに。
昔、借りた覚えのあるレンタルショップへ行き。
「メトロポリス」を探してみました。
奇跡的にビデオテープのコーナーが僅かに居残り。
そこにまだ残っていました。
ただ、誰かが借りていたので、
その日は借りることが出来ませんでした。
子供の頃から自然が好きでした
田んぼを見るのが好きでした。
少し離れた近所は、町の郊外にあたり。
子供の頃、夏の夜、窓を開けるとカエルの声。
今はそこに住宅地が広がりました。
わたしはーーそう、
静かなものに耳を澄ませたり、
鎮かな時間を過ごすことが大好きで。
それが必要な人でした
「遠くの景色を視るようにしなさい」
子供の頃、母親に視力のことを心配されてなのか、
家族で車に乗るたびに助手席から後部座席のわたしに、
何度も、何度も諭していました。
わたしには子供は授からないだろうと思っていました
なぜか
わたしの肉体は精密さを欠いていました
ーーわたしの友人のことを話さなければなりません
友人は、わたしよりも年上の女性です。
彼女との間には、いくつかの秘密があります。
彼女がわたしに話してくれたことがありますーー
夜道を歩いていたの
うつむき、一人で歩き、一日に疲れた表情でね
道路を挟んだ向こうにいる、一人歩く男性が眼に入ったの
彼もまた、
うつむき、暗がりの中で、一日に、いや、日々に疲れた様子で
道路の街灯が、優しい色合いで道を照らしてた
それは疲れた人を安心させる色で
視界の中には
次第に遠ざかる車と、向こうから近づいてゆく車、それが
ただ、すれ違ってゆく
一人歩いていた男性の孤独なシルエットが
なぜだか、私の心に触れたのーー
その瞬間、その孤独が、私の傷を癒すかもしれないと思ったの
私の明日の歩みを助けるかもしれない
私の孤独な人生を認めてくれるかもしれない
今とは違う夜が、そこにあるかもしれない
それがとても、すぐ近くの距離まで来た、と
私は立ち止まる勇気がなくて
眼を合わせる努力もせず
男性はただ、すれ違い、夜へと消えていった
暗がりの街路で
信号機は赤くなり、私は立ち止まった
視界をかすめる車の遠ざかりを眼で追うこともなく
地面のアスファルトから顔をだす小さなタンポポを
何故か視ていたの
でも、これは多分
タンポポではない、別の何かであると
私はその花を摘み取って、今も大切に持っているの
ーーその話しを彼女から聞いたあと、
わたしは夢をよく視るようになりました。
移行が出来ない。
いや、移ろいのなかで、何かを拾えてない。
いつも夢に現われるその人。
何かの仕切り越しでその姿を認識する。
決して、顔をーー面と向かった対話をすることなく。
それが、その人との隔たりを物語るよう。
その夢の中の男は同じ話しを繰り返す。
「私が迷っているのは、
自分のこれまでを引き摺って進めてゆくのか…
それとも、
これまでの自分とは関係なしの急転換で仕切り直すのか
…ということなんだ。」
わたしは彼に
「…あなたは自分を前に進めることに拘っているの?」
ーーある時、その夢は僅かな距離感に変わりました
その人の姿は、カーテンのような仕切りで隔てられた先にあり。
そして、その人が自分と対面していることへの自覚を持ち。
何かの表情がそこに浮かんでいる。
-きっと- 恋の色のような。
なぜ、手を伸ばさなかったのでしょう?
夢から覚めたあと、わたしは残念さを引き摺り。
そのたびに悔やんでいます。
もうすぐ季節は、祭りの時期を過ぎる頃ですーー
第23話「ハンドメイド」
「真知子、おまえはね
器用な子供ではないかもしれない
でもね、自分の縁を大切に守っている
だから“編み物を編むように生きなさい”」
「メトロポリス」は返却されているでしょうか?
また例のレンタルショップを訪れました。
ケースにはまだ札が掛かっていて返却されていません。
もしかして、延滞したまま借りっぱなし…?
店員に訊いてみようかな…。
ちょうど近くはベテラン風の女性店員がいました。
洗練された無駄のない動きでケースに返却物を戻すのです。
そのマーキング技術に学ぶことはないだろうか?と。
わたしに巡った学びの縁に少し物思いになりました。
ただあっという間で、その場をさっと去ってゆくベテラン店員。
「あああ、あのうっ!」
と、わたしは声を震わせて引き留めました。
ーー「メトロポリス」の返却日について訊ねました
ベテラン店員は腰に下げた端末を手に取ったあと、
ふと手を止めて、思い当たる節があるようです。
「メトロポリス…? ああ、あの長期延滞の」
わたしの希望は彼方の未来へと消えましたーー
せんぱいのことを好きになったのは、
わたしの独特な声を「良い声だね」と発見して、
好んでくれたからでした。
子供の頃の自分の「声」を覚えていません。
わたしはずっと無自覚に子供の頃を過ごしていました。
「声」だけではありません
成長して「生活・生存」に必要なスキル。
それらを自覚することがなかったのです。
例えば、
「どうすれば人に好かれるのか」
「誰に気を遣えば良いのか」
「誰に注意すれば良いのか」
「誰と話してはいけないのか」
「どこで気を抜き、どこに力を注ぐのか」
「要領の良い学び方(ショートカット)」
ーーなどなど。
(周りの子たちはわたしよりもずっと、考えて生きていたのでしょうか?)
わたしは無邪気に、近所の行動範囲を大切にして
自然を、虫や花を。
鏡のような田んぼに映える太陽。
カエルの合唱隊。
夕方を報せる電柱に灯る明かり。
家の台所に灯る母のシルエット。
「面影」が何よりもずっと大切なことでした
何を自分の武器にするのか?
どんなわたしなのか?
そんなことを考える必要性を感じて生きていませんでした
思春期を迎えた頃ーー
ある女子から言われた言葉がずっとわたしを傷つけました
「真知子って、大した顔じゃないよね」
見た目に関して自信があったわけではありませんが、
それまで周りの子と何も困らず接していました。
思春期だったわたしにその言葉は重く、
そう、その時、心に“黒い種子”を蒔かれたのです。
(黒い種子を蒔く人から身を守る術を知っていれば良かったのですが、
思春期の子供には、あまりにも高度な技術で不可能だと言いたいです)
それからのわたしは、必要以上に自分の顔を気にしたのです
周りの子と不自由なく接していたことが、ぎこちない動作になり。
髪を伸ばし、自分の顔を前髪で隠そうともしました。
(例のホラー映画を知ってからは、ほどほどにしましたが)
わたしは、「自分」という存在を隠すことに必死になったわけです
ーーそして引きこもりました
漫画は一時期のわたしの背中をさすってくれる友達でした
そんな時に、せんぱいと会いました
もともと、せんぱいは近所に住んでいました。
わたしが小学5年生の頃に少し離れた場所に引っ越し。
それからは中学生になるまで会うことがありませんでした。
場所は図書館でした
わたしは漫画をよく借りに行っていました。
子供の頃から漫画が好きで、小学校では漫画クラブにも入っていました。
ただその時は、いつも眺めるはずの漫画の棚ではなく。
たまたま気が向いて、小説を読んでみようと思いました。
(それまでのわたしは小説を読んだことがありませんでした
本当になぜか、たまたま気が向いたのです)
小説の棚を眺めながら、何を手にとって良いのか分からず。
棚から棚へと横歩きに横断していました。
立ち止まる場所が分からないという不安がありました。
諦めて通り過ぎようとしたそのときーー
棚と棚との隙間に何かが挟まっているのが見えました
「ひゃっっ!」
わたしが思わず上げた声
せんぱいはわたしを読み取って、気づいてくれた
「マイマイガだね」
不自然な軌道で天井へと羽ばたいてゆく蛾を見上げながら
「真知子の声は蝶のようだね」
天井から窓へと軌道を敷いて、消え入ろうとする蛾の姿
「すぐわかった」
その時、わたしの声が何か特別であるように思えました
「良い声だね、真知子の声」
蛾が消え入り、蝶が顔を出すーー
自分の「声」に対して無自覚なことに気づきました
「声」そのものが、わたしに蒔かれた黒い種子をきっと取り除いてくれるものになるだろうと、何となく思いもしました
それからのわたしは、意識して声を出してみようと思いました。
せんぱいに会いに行くために図書館へと通いました。
(わたしとせんぱいを導いたのが蛾の姿だったのは皮肉ですが)
せんぱいが借りた小説をわたしも読みました。
会うたびに感想を伝えました。
会うたび、会うたび、声を。
たくさん、意識して、発して。
いつの間にか、少しばかり話しすぎる性格になったのかもしれません
せんぱいはわたしの声に耳を傾けてくれました。
ただ、ただ、せんぱいの前では考えていることを言葉にしようと。
うまく結ばれない言葉を補うために。
パントマイムのように身振り手振りも交えながら。
羽を広げた姿を見てほしかったのです。
一年続きーー
せんぱいと同じ高校へと通いました。
高校生活は辛かったです。
校舎の異なるせんぱいの姿を追いかけていたかったです。
でも、周りの人たちとうまく馴染むことができなかった。
わたしは高校を中退しました。
わたしにとって、声は大切なものになりました
でも、高校生活で傷ついた羽を休める場所がなく。
わたしの声を出す場所を求めました。
文字に表された言葉ならと、漫画の吹き出しに声を見つけ。
平面な紙の上で無声映画のように、パントマイムにしたのです。
自分の気持ちを。
自分の内面を。
自分の人生を現わすものを。
羽を広げるための手段がほしかったのです。
わたしの「生存戦略」として必要なことを。
少しずつの手作業のように、機械任せではなく。
手作業の職人技のように、心に編んでゆく作業を始めたのです。
そこに、パソコンやコンピュータは必要ありませんでした
第24話「心の中の穏やかな月を視る」
果たしてあれからわたしは、
心の中を変えることが出来たのだろうか?と考えます
「生存戦略」の手作業を始めたわたしのスタートは、
順調なものではありませんでした。
中退してからのわたしは、
ずっと生き方を模索していました。
周りの同級生たちに比べて、将来を見越したスキルがあまり身についていない。
そのことに気づいてからのスタートは本当に手作業でした。
わたしの家庭環境について
わたしが小学3年生の時、母は病気で他界しました。
その後、わたしは祖母の家に住んだのです。
わたしが中学生になる前、父は遠く外国へ出稼ぎに行き
それからは会っていません。
祖母はわたしの心の中を見て、中退を受け入れてくれました。
大好きな、ばあばーー
お金について
父の仕送りは祖母にあったようです。
だから生活に困っていることはありませんでした。
ただ、迷惑はかけたくありませんでした。
ーーわたしに何が出来るか?
わたしを構成していた価値観の全てを、
いったん解体して考えることにしました。
そのころに「メトロポリス」と出逢ったのです
徐々に生活リズムが夜へ夜へとずれ込んで行くなか。
深夜にTVを点けると、たまたま「メトロポリス」が放送されていたのです。
眼を奪われましたーー
それまでの人生に必要のなかった“異質なもの”が映りました
瞬間にして、すっ と心の中に入り込んで
白黒の中で無数の明かりが乱反射して眼に飛び込み
古い映像が欠けた塊のように煙霧をつくる
その隅や、縁、暗く薄暗い部分
人を魅了してしまう何かの思念であることに気づくわたしがいる
それはとても危ないことだと
心では分かりましたが、取り憑かれたまま
儚く、壊れそうな、アンバランスな価値観の誘惑
でも恐らく必要のない世界観
わたしの身の回り、わたしの生活、わたしの幸せに恐らく必要のないこと
「知らなくていいこと」
「魅了されてはいけないこと」が
でもそれは、
周りの子たちが成長して「生活・生存」に必要なスキル
「どうすれば人に好かれるのか」
「誰に気を遣えば良いのか」
「誰に注意すれば良いのか」
「誰と話してはいけないのか」
「どこで気を抜き、どこに力を注ぐのか」
「要領の良い学び方(ショートカット)」
などの、
わたしが自覚することがなくて足りなく思っていたことの全てが、
本当はくだらない入知恵のように感じさせて
わたしの背中を後押ししたのです。
劇中の中で、無声映画の役者がパントマイムで伝える仕草が、
わたしの心を編んでゆく手作業と重なりました。
翌日
映像美に取り憑かれて、映画の内容についてイマイチぱっとせず。
放送を途中から観てしまったこともあり。
レンタルショップへ行きました。
印象は変わりなく、美しく、取り憑かれたままに。
その後も何度も借りました。
モンクロの映像美が、わたしの日陰暮らしのような今を
スポットライトで、劇中の中の出来事に代えたのです
「メトロポリス」の映像美に映し出されたものに、
何かが宿っているように感じました。
それを表現したい欲望がわたしの心の中に湧いたのです
不意に、漫画のことを思い出しました。
引きこもっていたとき、わたしの背中をさすってくれた漫画。
小学生の頃に漫画クラブに入っていたこと。
漫画の中で、それを表現できる
そんな考えが浮かんだのです
まずは、アルバイトを始めようと思いました
大好きな祖母に迷惑を掛けたくない想いもあったので。
アルバイトをしながら、こっそりと。
ノートの中に漫画の構想を練り始めました。
夜更かしを続けるわたし。
朝を報せる窓のスズメの音。
不健康な生活リズム。
ただ、自分の夢があり生きていた。
子供の頃の夢を追いかけた。
現実的な生き方ではないこと。
ただ、どう生きれば良いのか分からないまま。
祭りの音が過ぎる時期でしたーー
部屋のカーテンの向こうから来る、子供の誘い声。
柔らかい日差しが、部屋の中のわたしを現実に帰す。
夕方になったら、盆踊りの放送が流れて、太鼓の打音が木靈する。
笛の異質な音色がわたしの内側にすっ と入り込むーー
「メトロポリス」の“悪魔”がすっ と。
夜更かしを続けるわたし。
朝を報せる窓のスズメの音。
不健康な生活リズム。
ただ、自分の夢があり生きていた。
子供の頃の夢を追いかけた。
必要な生き方ではないこと。
ただ、“何か”に取り憑かれたまま。
誤まって、心に「黒い種子」を編んでしまったのではないかと。
わたしは、
心に「黒い種子」を蒔かれてから、
自分の中の陰に怯えています。
そして、あの彼女と出逢い
同人誌を描き始めました
そして、夜の仕事を始めました
第25話「ココ」
彼女との出逢いは
同人誌の即売会でした
漫画を描き始めたわたしは、自分の人生を再構築するように。
一つ一つの線を「わたしのもの」にできるよう日々努めました。
だけど、それを何処に提示するのか?
どの出版社にするのか?
色んな出版社の漫画誌を購入しましたが、連載されているものを見て、
メトロポリスの「悪魔」が居着くものとしては不出来に感じました。
居場所がないのです
同人誌というものを知ったのは、
古本屋の棚に置かれた細い本たちを目にして、開いたからです。
(正確にいうと、中学の頃せんぱいを通じて様々な小説を読んだとき、戦前・戦後の小説家たちが同人誌という出発点もあったことを小説の後書きなどで知ってはいました)
誤解を招かないように云うと、わたしはBLには興味がありません。
性的嗜好として、BLに全く興味がない訳ではありませんが、
ただ、アブノーマルな雰囲気を求めたのでしょう。
「居着く場所のないもの」が細い本たちにあるように感じたのです。
それで、同人誌の即売会というものに足を運んでみた訳です。
彼女の見た目は「黒っぽい」でした
肌の色ではなく、服装と雰囲気。
目立ちたくない黒ではなく、色艶のある黒。
特別着飾っていた訳ではありません。
耳のピアスと、黒いTシャツ。
ココ・シャネルのような短めのパーマ。
それと、胸元のネックレスの紐が膨らみの中に密を…白い肌の艶。
内側から魅了される何層にも積まれた深淵さ。
もしかしたら、デニムが色落ちする前のダークインディゴなのではないかと疑うような層の深さが伺えたのです。
同人誌即売会の会場の中で人気があったのでしょう。
彼女のテーブルには人溜まりが出来ていました。
わたしは、人溜まりに飛び込む覚悟が出来なく。
会場を2周、3週と回るうち。
彼女の前を通るたびに何かの香水が仄かに。
そこにある一点を際立たせて、理性を奪い。
入り乱れた何かが胸の内に起こりました。
必要なのは覚悟だけだと理解しました。
人溜まりが開く瞬間を狙いました
なかなか訪れないそれは、撮影会の時間を報せる会場のアナウンスと共に、
やって来ました。
わたしの背中を後押しするものを感じましたーー
それは、香りでした
わたしは香りを辿って、進み始めました。
まるでカーテンの向こう側ーーそれぞれのテーブル越しにある瞳を抜けて、
ある地点で、香りの先にある彼女の瞳に。
身体ごと寄せられ、包まれ、辿り着いていました。
彼女の瞳ーー
「あの、、香水、なに使ってるんですか?」
自分の理性を崩すものを確認せずにはいられない
「そうね…今日は、シャネルのN°5のパルファムだけど、きつかった?」
「いえ、素敵です!」
「そう、良かった…あなたもつけてみる?」
「えっ!!?」
彼女はわたしを手招きして、背中合わせの細い通路から彼女の隣りに。
わたしがパイプ椅子に腰掛けようか迷ったその時ーー
わたしのスカートがふわっと浮いて、膝裏に柔らかな感触の音が
「プシュッ」
正直に告白しますと、
驚いて振り返ったというよりも、わたしはその感触に理性を奪われていました。
“もう一度欲しい”
わたしの振り返った表情を見て、彼女はくすっと笑いました
「あなた何周も回っていたわね。見ていたわ」
彼女の手元にはシャネルのアリュールの瓶
「シャネルのアリュール。あなたの香り。私も持っているの」
「オードトワレ?」
と、わたしは自分の香りを彼女に告白しました
「オードパルファム。いずれあなたの香りになる」
「ココさん、この新刊ください」
彼女の正面に黒っぽい服装をしたわたしよりも少し年上の女性が立っていました
「ココさん、その娘は?」
その瞬間、わたしは彼女の売り子になっている事に気づき、
どうして良いか分からないわたしは、目のやり場を彼女の瞳に。
不安げで物欲しい表情で覗きましたーー
「この娘の名前は…そうね、アリュール」
わたしは、その時
自分の居場所が、彼女の中にあると気づきました
ココの作品に出てくるのは、
都市伝説のような現実の別な側面を描いた世界でした。
異端者や同性愛者にも場があり、孤独や貧困や儀式もありました。
ただ、何か特殊な実験のようなものでした。
ココがそこに何を潜めていたのか?
「わたしが知らない何かを、ココは知っている」
そんな感触でした
まるで、「メトロポリス」で観たような世界観が表現されていました
危険な魅惑ーー
キャバクラという世界に足を踏み入れた切っ掛けは、
ココとの付き合いからでした。
ココの話を聞く限り、思っていたよりも安全で難しくない仕事に思えました。
何よりも、ココが居たから安心して働くことが出来ました。
夜の仕事は、生活を裕福にしました
わたしはそこで自分のことをより知ることができました。
おしゃべりで、人懐っこい性格。
そして、性的な魅力のある身体。
男性と打ち解け合う能力。
男性を勘違いさせる能力。
わたしは、そこで自分の武器を見つけました。
わたしは、ココに魅了されました
「あなたのアリュール。今は浮いているけど、時期に定着すると思う」
第26話「裸の眼で、ものを視なさい」
キャバクラである程度の期間を働いたあと
わたしは、ココの誘いで高級クラブで働くようになりました
ある夜、いつもの席で他のホステスと接客をしていました
シャネルのN°5が香り、席を横切るーー
色艶のある黒がアクセサリーを蔓のように纏って。
胸元の膨らみと、身体のラインを際立だせる。
欲望に塗れた話しに夢中だった客の口が止まり、眼を集める。
シンプルな黒いワンピースでドレスアップした姿。
わたしを呼び止めた
遅れてやってきた背の高い客が一人。
バーバリーの黒ではないコートを羽織っていて。
青い眼が視界に入りました
青い眼は、わたしに先客がいることを伝えました。
ママが「特別席へ案内するように」と。
立ち上がったわたしに接客をしていた客が、
「ちょっと待て、あの女(ひと)は…誰なんだ?」
「ココ」
わたしはその場を離れ、青い眼を特別席へと案内しました
「アリュール」
ココがわたしを再び呼び止め、
「手を出して」と。
躊躇いなく両手首をココの前に差し出しました
わたしはココの瞳を、何かを待ち望んだ物欲しい表情で覗く。
“アリュール”のオードパルファムが、
柔らかな感触の音で両手首に注がれ、わたしは感じ入りました。
青い眼の男は「GI」と名乗りました
先客へと案内したのは、ココでした。
わたしは隣に座り、お酒を作りました。
GIは左手でグラスを持ち、品の良い飲み口をグラスの縁に残しました。
混ぜ合わせた氷の音に会話の切り口を見ていました。
「カラン」
(グラスの氷が崩れ、切っ掛けが生まれる)
ココが迎えに座り、対面している客を交えて何か大事な話を始めました
そこでは、夜の時間という辻褄を選び、
この場で「何かが起こっている」という雰囲気でした。
GIには、落ち着いた香りがありました
しかし、シンプルではない何か高度な技のような、
推し量ることができない香り。
官能的な匂いだったのかもしれません。
わたしの頭を香りが遮り、話の内容を理解することが出来ませんでした
終始、ココのN°5の香りと、GIの高度な香りとの狭間で。
性的魅力に取り憑かれ感じていました。
GIの左手が回内、回外する
その度に、仄かに官能的な匂いが漂い。
わたしはその手の平と、手の甲の上とで酔いどれ船に乗る。
ココがタバコを吸い、出口の知らない煙がモワッとただ浮いて。
何故かGIは途中で気づくと右手でグラスを持っていました。
わたしの考えを失った手が口元にアルコールを運ぶ
今日のアルコールは、わたしの舌を狂わせる
わたしの外界は、それらの視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚
五感ごと魅了されていたのですーー
ココが吐き出すタバコの煙が、生き場を求めてわたしの内部へ入ってくる
わたしの構成していた価値観の全てが、
ここで組み換えられてゆくーー
頭に残ったのは「マニュアル」「クローン」という言葉
ー自分を見失ってゆく毒を盛られているー
もう、それはわたしではない。
意味の中に存在が消え。
ただ、綻びたクズ紐。
実用性を欠いた命。
「メトロポリス」の映像美に宿っていた、“悪魔性”
そのことが頭に過ぎりました
明日から連休をいただきました。
疲れていたのかわかりません。
ママが気を遣ってくれたのか、それともココなのか。
祖母の調子が悪いのです。
わたしは久しぶりに実家へと帰ります。
実家への田舎道の途中
子供の頃から馴染みのあった商店には、もう看板がなく。
建物は、左折するためのただの目印になっていました。
次第に消えてゆくものについて、
わたしは深く考えていません。
「遠くの景色を視るようにしなさい」
亡くなった母の言葉を思い出しました。
久しぶりに遠くの景色を視ました
すると、いつの間にか視力が衰えていたのでしょうか?
遠景が誇大し、膨張したのです。
山々がさらに奥にあるかのように視えます。
雪が記憶に遠景をパラパラと降りかけます。
深々となって、わたしの眼の鈍化を伝えるようにーー
カエルの声が聴こえないこの時期、世界は積もらさり
一面が
冬になりました
第27話「人を遠ざける色-わたしは、私を監視している-」
大好きな、ばあば
「新型マナヴォリックウィルス」で
殺された
ばあばは、癌で入院しました
すでにステージ4の状態。
緩和ケアの病棟で残された日々を過ごしていた矢先。
入院先で例のウィルスに罹患。
死が早まったのか、痛みの引き摺りから解放されたのか…
宣告された余命よりも早く、亡くなりました。
ばあばが亡くなった後、
わたしは面影を追いかけ、物思いに耽りました。
「おまえがまだ、ちっちゃな赤んぼのころ
覚えてないだろが、
おまえの母親があたしに言ったんだよ
“真知子が将来大人になったとき、
どうか自分を諦めずに
命を全うした人生を送ってくれたなら
私は、それで自分の生が叶うと思うの”と
おまえの母さんは、
命を懸けて、おまえの存在を肯定したかった
まあ、それはほとんどの親が想うこと何だろうねえ」
GIに頼まれたのは
「カルト作品を作ること」でした
20年ーー
それほどに前から、次々と実験の為の作品を吐き捨てつつ
計画は進んでいました
マイナーな拠点での【ある】脚本作り
パソコンゲームのシナリオ制作
TVゲームのシナリオ制作
地上波に流れないTVドラマのシナリオ制作
ローカルな「メディア」。
それらを通じて、
人間の脳内から生み出される思考過程と思考結果。
分岐による結末。
とてもじゃないですが、売れる要素のない作品たち。
ただ、
「過程」と「結末」を探るための実験でした
“ある”遍在性と、【ある】偏在性
極端な傾倒が社会化してゆくこと
魅了してゆく様
ほとんどが不完全なシナリオで、埋もれて
でも系譜として、継続して紡がれていきました
★与えられたキーワードは
・ビッグデータの運営による過程と結末
・一つの思考(ハブ)から広がる中での、中心の有用性と有効性
・?→オタク化→?→社会通念化
・ビッグデータ以外の手段による過程と結末
・その再生手段について
・新しきもの
留まる者、拡張する者
置き換わる者
組み替える者
別なものになること
「新型マナヴォリックウィルス」の世界的な感染流行がありました
それは、世界の誰か「一握りの人」を探し当てるための作業。
そして、環境に適応できない人を淘汰していく自然の業だったと。
「GI」は話していました。
後遺症や再発などもあり、適応できない人々が自ずと「死を選ぶ権利」に流れるように仕向けられていたのでしょうか?
感染者は、適応のために、
「カロドポタリクル」のジェネリック医薬品を手に取り。
ネット上の動画配信サービスの広告で宣伝された売り文句が、
不毛な環境適応を見越した人生への飽き。
全ての土地を痩せ細られ、見放された土地にする。
「ロイドポタールNは、人間不信の解決策。」
「ロイドポタールBは、人間関係の不毛なやり取りに疲れたあなたに。」
「ロイドポタールZは、あなた自身で人生の最期を決める一つの方法です。」
お金儲けに飽きない連中は、そこから新たなサービス
「SNSで、あなたの最期を誰かに届けるサービス」
「あなたの記録をネットに遺す“ラストノート”」
「誰かがあなたの生きた足跡を辿る、後世にあなたを」
「あなたの顔がアバターとして蘇り、未来の恋人へ届けます」
ばあばの“人生の形”も、誰かに必要なことだった?
後世に遺すべきメッセージがあった?
ばあばは、
誰かの雛形(模型)ではない!
感染者は、世界人口のもうすぐ3割程に達し
死者は、その内のもうすぐ3割に届きます
同人誌の即売会は、感染症の所為で延期になりました。
世界がわたしたちを殺してゆくの?
そんな中で、
祖母を失ったわたしをココが引き受けてくれました。
ココとの共同生活が励みになりました
「マンション」というには、古く。
「アパート」というには、新しい。
どこか団地のような雰囲気。
駅から徒歩5分ほどの物件。
駅前から離れるに従って人通りが寂しく。
記憶だけを残し潰れてしまった商店街の跡地が並ぶ。
そんな人目につかない世界がココには必要だったのでしょうか。
初めて訪れたとき、ココの人目をつく美しさとは対照的な場所で。
屋敷にでも住んでる人なのでは?と勝手な想像を膨らませていたのですが。
質素な建物だったことに驚いてしまいました。
でも、ひっそりとした静謐な雰囲気が心に適っていたのだと感じました。
室内は狭く2LDKの間取りで、2つの部屋がありました。
(ココの部屋と、わたしの部屋とに分けられました)
ココの部屋には入ったことがありません
どこかで一線を引いていたのでしょうか?
ただ、ココはわたしといる時間を大切にして、眠るとき以外はほとんどリビングで一緒に過ごしました。
リビングはモノトーンの色調で統一されていました。
棚には何かの花が一輪だけ、いつも花瓶に生けてありました。
室内には花の匂いと、主張を抑えたシャネルのN°5が入り混じり、干渉し合うように漂っていました。
ココのONとOFFの雰囲気は変わりません。
落ち着き払った温和な態度と声で、わたしを包んでくれました。
そんな一室での共同生活でした
生活の中でネット通販の同人誌を手伝い、
この時期のわたしたちはパートーナーとして、
お互いを尊重していました。
ココは、わたしに本を声を出して読むように話しました
せんぱいのように
「アリュール、あなたの声って
とっても心地よい響きをしているのよ
生活の中の電気音とか、電波だとか
そういったものを中和してくれる
たぶん、私の“黒”も薄くなって
きっとアメリカンコーヒーのように
風のような軽やかさを身につけてゆくかもね」
ココは、
わたしの声の音を生活に必要なものとして。
ココのパレットの中に混ぜ合わせ、受け容れてくれました。
しかし、わたしは。
ココに対して、
いえ、ココの中の何かを呑み込んでいってしまう。
そんな感覚があったのです。
わたしは、ココの同人誌を手伝いながら、
背景の仕事や、
スクリーントーン貼りなどを任されるうちに、
独自なやり方を発見しました。
わたしは、それを試してみたい欲求に、
負けていったのです。
こっそりと、わたしの色使いへと侵して。
ココは思惑に気づいていたのか分かりません。
「あら、その使い方は素敵ね」と
夜な夜な更けてゆく
わたしの筆が下細い線を引き
引き合わせた先に、せんぱいの姿を浮かべたーー
せんぱいは、生きているの?
政府の「マニュアル」は、わたしの人生の光を射し示す事になる
その時、ココは決して「安楽死」を求めていなかった
※恋した瞬間、世界が終わる -第4部 早川真知子編-完-
恋した瞬間、世界が終わる 第4部 早川真知子
夢の中のひと