【連載】むしのしらせ~2~〈純文〉(20200728更新)

【連載】むしのしらせ~2~〈純文〉(20200728更新)

1からの続きです。

2(20200721更新)

 退院の日は雨だった。祖母に付き添われて、僕を抱いた母さんが受付で手続きを済ませると、玄関口に停められたタクシーに乗り込んだ。
 しとしとと降る雨だった。晴れ間のない鈍色の空は明るく、空を見ていても雨が降っているのだとは分からないほどだった。タクシーに乗り込む際の、肌寒さと、むっとした雨の匂いと、頬に触れた雨粒の感覚が残っているだけだった。タクシーの車中では、母さんに抱かれた腕から見上げる格好で、外が明るいために黒っぽく見える車中に浮かぶ、四角に切り取られた窓の外を眺めていた。見えるのはほとんどが空ばかりで、時折そこに背の高い建物が視界の隅を走ったり、電柱から電柱へと渡る、何本もの黒い架空線が空を横切ったりした。また商店街の看板は雨に濡れて白く鋭利に光っていた。ざう、ざう、とすれ違う対向車が、雨の路面を走るタイヤの余韻を残していった。
 アパートに着くと、母さんと祖母は、ずっと話をしていた。ほとんどが入院中の様子と、赤ん坊の扱い方についての話だった。母さんの話をする様子は常に不安と新鮮な感動に満ちていた。祖母はエピソードの一つ一つに人生の先輩として感想を付け加えて微笑んでいた。母さんが不安を漏らすと逐一、「誰だって初めてなんだから」とか「子供と一緒に親も成長するのよ」と言ってしきりに励ました。そういった微笑ましい親子の会話の前で、僕はほとんど放心したままだった。いわば僕は雷に打たれた後の人だった。精神的な活動の一切が止まってしまった。まるで、でくのぼうだった。目の前の光景は見えているのに、ただ見ているだけで何も考えていなかった。
 理由は明らかで、僕には来世も将来も用意されているわけではなく、死はこれから訪れる冷酷な決定事項だという事実を知ったからだ。これが走馬燈だということは、その走馬燈が最後まで行き着いた暁には、本当の死が待っているということだ。これはゆるやかな死刑宣告なのだ。
 母さんの腹から出てきた時に、これが新しい人生などと考えた自分を僕は恥じた。一体、どんな根拠をもってして、そんな都合のいい願望を信じられたのだろう。死後にどれだけの希望を無意識に期待していたのだろう。何故、静かに眠るような安らかな死が約束されていると勝手に信じ込めたのだろう。これは自己陶酔であり、ただの現実逃避していただけではないか。どれだけ自己都合で事実を歪曲するつもりなのか。全くなんと身勝手で、なんと甘えた、未熟で、ふてぶてしい、傲慢で、ずるがしこく、怯えた、高潔さのかけらもない、浅ましい精神だろう。
 それらの想念が走馬燈に気付いた僕を貫いて駆け巡った。まさに雷に打たれたような衝撃だった。は、は、は! と僕は一度、自分を嘲笑った。その後には何も残らなかった。心がぽっかりとした空洞になってしまった。これといった苦悩もなかった。何を見ても、何を聞いても感動しなかった。母さんが辛そうにしている時も、助けたい、救いたいという気は起こらなかった。特定の看護師のいい加減な仕事ぶりにも腹を立てなかった。ただ目の前の光景だけは、目を逸らすことなく、とにかく眺め続けた。そうしないわけにはいかない理由があった。何故なら、目を逸らした途端に、この走馬燈というものは、まるで狂ったぜんまい仕掛けの人形が回転して暴れるように、猛烈な早さで、時を進めようとしたからだった。

2 のつづき(1)(20200728更新)

 実を言えば、体感的には、今この僕は走馬燈の途中にいる、と知った瞬間から、ほとんど時間が経過していない。確かに走馬燈の上では数日が経過していたが、僕の意識の上ではこれは全くあたらない。それどころか直後と言ってもいい。だから、生まれ変わりが実は走馬燈だった、という驚愕の事実にひどく絶望して打ちひしがれて、ずっと立ち直れずにいた、というよりも、自宅に連れてこられた後の僕は、ごく短い時間の、一時的な錯乱状態にあったと言っていい。つまり体感的には僕は走馬燈という事実を知ってから、時間として一日としてたっていないのだ。
「翔太ちゃん」と母さんに呼びかけられたあの瞬間に、僕はひどいショックを受けた。何がそれほどショックだったのかは分からない。自分が一体、潜在的にいかような期待を抱いていたのかも知らないままに、一気に錯乱状態に陥ってしまった。夜を迎えて、母さんが授乳に手間取ったり、例の看護師がやってきても、そこで何か感想を抱くような余裕は残されていなかった。とにかく、もう何も見たくない。そこで目を閉じた。もちろん僕に肉体的な目はない。ただ僕は外の世界を見ることをやめただけだ。世界は真っ暗になった。何かひどく自分が間違ったことをしていた気がして、とにかく様々な自責の念に駆られて、自分の非を追求したいと同時に、またそこから逃れたかったのだ。なんて馬鹿げた男だろうと思った。それらの自虐的な自問自答に、にわかに苦しくなって少しだけ外の世界をちらと見た。すると急激な、濁流のような景色と景色が折り重なる中に、世界が夕方から夜となり、一気に朝を迎えようとしていているのが見えた。
 唖然としただけでなく、僕は突然に年貢米を取り立てられる腹を空かせた昔の人のように、咄嗟に目の前の景色に飛び付いた。それはほんの一瞬の出来事だった。たった一瞬、目を逸らしただけで、数日がすぎて、気付いたら僕は母さんに抱かれて病院のロビーにいたのだ。ひどく驚いて、何が起きたのかもほとんど分からないままに、目の前の景色にしがみ付いて離すまいとしていた。それはもちろん肉体を持たない僕のことだから、あくまで抽象的で、観念的な出来事にすぎなかったが、その現象によって僕はいよいよ目の前の景色から目を離せなくなってしまった。何故そんなことが起きるのか、いやそもそも一体何が起きたのかすら分からないままに、とにかくこの目の前の景色から目を離しては駄目だ、目を離したらきっとひどいことになる、という本能的な直感に駆られて、生まれ変わったのが実は走馬燈を見ているだけだった、という落胆と衝撃も解決しないままに合わさって、正常な思考はしばらく期待できない、放心状態にあった。
 やっと現況に理解が及んでくると、僕は少しずつ落ち着きを取り戻してきた。とにかくこれは僕の知らない赤ん坊の頃の景色であり、次第に物心つけば記憶と重なってくる場面が表れてくるはずだ。父さんと母さんはやさしかったし、僕を愛していた。嬉しそうに、時に慌てながら僕の世話をしていたし、またぽっかりとした時間に僕を見て目を細めた。休日には僕を連れ出して、ベビーカーを引いた。そこで僕は何かむずがゆい、居心地の悪い思いをした。無奔放な愛情を受け入れるには、僕はあまりに成熟して、どこか歪んでいる気がした。父さんと母さんの愛情を見るともなしに、これから僕はどうなってしまうのかを考えた。答は知れていた。行き着く先はあのトラックだ。それは避けがたい事実で、きっとその先はもうないだろう。
 これが走馬燈だと知った時の錯乱状態の理由も、次第にそれとなく分かってきた。どうやら僕は何かを恐れたらしかった。確かに本格的な死の到来は怖い。しかしそれよりもむしろ、僕は走馬燈そのものを恐れているような気がした。それは漠然とした不安であり恐れだった。何か僕の人生には目を覆いたくなる秘密が隠されていて、思い出すまいとしてそのまま忘れてしまった辛い出来事や、時には自らの罪が、中世のヨーロッパで悪魔が地面から取り出してくる忌まわしい宝物のように、そこかしこに埋もれて隠されているような気がした。いっそ目を伏せて見ないようにしてしまいたい気もするのだが、しかしそうするには走馬燈の上の時間的な経過の問題があった。目を閉じれば一気に時が進んでしまうのだ。思い切ってしまえば、僕はすぐにでもあのトラックの前に立つことができるだろう。
 断続的な実験の結果から言えば、目を逸らすことで、すぐにでも時を早く進められることは確かだった。感覚的に言えば、一瞬だけ目を逸らすだけで、二、三時間は時が進んでいた。また、ほとんど忘れかけていたが、人の心に入れる能力についても、失ってはいかなかった。例えばスーパーマーケットで隣を歩く老婆の心に入れば、さんまがどうとか、野菜が最近やたらに高いとか、思考の全容が見えたし、惣菜売場で昼食を選ぶサラリーマンは、仕事の失敗に心を痛めているのも見ることができた。それにしても何故、そんなことができるのだろう、という疑問は残った。順当に考えれば、ここは僕の精神世界か、脳内の現象か、とにかく僕の記憶の内に眠っている過去の出来事を追体験しているだけのはずだった。本当にそうだろうか?
 その疑問は鮮烈に僕の内に駆け巡った。チャクラのようなものがあって、一つの観念がそれらを根こそぎこじ開けていく気がした。実際的に、僕はここにいるのではないか、何か超越的な存在として、過去のこの空間に存在しているのではないか、これは記憶ではなく、物理的な何かなのではないかと思った。
 母さんはその時、僕を床に置いて洗濯物を畳んでいた。テレビは午後のワイドショーを流していた。それを母さんは時々、ちらちらと感動のない目を送って確認しては、また膝の上の洗濯物に視線を戻して、父さんのワイシャツや下着を畳んでいた。
 見ろ、と僕は唐突に思った。強く思った。
 いまだ母さんはぼんやりとした目を膝元に落としている。伝わるわけがない、とは思わなかった。その時ばかりは疑わなかった。強烈に信じていた。絶対に伝わるのだと思った。とにかくこの無言の声を送った。念じた。食い入るように見た。全身全霊で一つの観念に自らを支配させた。

 見ろ、見ろ、見ろ。

 すると母さんが、ぎょっとした顔をして、僕を見たのだ。あっ、と僕は思った。胸が苦しかった。口を開けて、母さんが僕に覆い被さるようにして覗き込んできた。
 通じたのだ! と僕は思った。
「どうしたの、おむつ? 何?」と母さんは急に心細いような、心配そうな顔をして声を出した。すると突然に赤ん坊の僕が、僕の意志とは関係なく、わっ、と泣き出した。それからすかさず母さんは僕の股ぐらを触っておむつを確かめた。ずいぶんおむつが濡れていたらしくて、手際よくおむつを交換してしまうと、母さんは僕を抱き上げて、首を肩の上にのせると、「どうしたの、どうしたの」と言って、ぽんぽんとやさしく背中を叩いた。次第に赤ん坊の僕は、ぐずぐずと泣きやんだ。
 どうやら違ったらしい、という失意が、じわりと僕を覆った。しかし僕の疑念は、完全に晴れることはなかった。
 その晩、僕の置かれたベビーベッドの横で、仕事から帰って夕食を食べる父さんとテーブルを挟んで、向かいに座る母さんが、「ねえ、変なこと言っていい?」と言った。
「どうしたの? なかなか神妙な面持ちだね」
「育児疲れで、変になったと思わない?」
「何だよ、言ってみなよ」
「最近、何か見られているような気がするのよ」
「よせよ、気味が悪い」と父さんは笑った。「それって心霊的なやつ?」
「そうじゃなくって、何かずっと見張られているような、変な緊張感があるのよ」
「それこそ育児疲れじゃないの、翔太の様子がいつも気になっちゃうってことでしょう?」
「よおく、見てるよね、この子(傍点)」と言って、僕を見る母さんが、ベビーベッドの隙間から見えた。「すごく周りのことを、分かっている気がする」
「全てが新鮮で、興味深いだろうからね」と父さんは満足そうに言った。「好奇心旺盛で、きっと頭のいい子に育つよ」

【連載】むしのしらせ~2~〈純文〉(20200728更新)

連載中です。
新人賞向けの作品を書くので、しばらく休みます。

【連載】むしのしらせ~2~〈純文〉(20200728更新)

交通事故に遭った僕は、普通に生きていたら知り得なかった事実に直面した…… SF要素の入った小説ですが、基本的には純文学です。

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • SF
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2020-07-21

Copyrighted
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  1. 2(20200721更新)
  2. 2 のつづき(1)(20200728更新)