蜘蛛の毒と一人芝居
書けない。
部誌の一次締切が近付いているのに、まだ一文字も書いていない。プロット用のノートも白紙のままだし、もちろん目の前のパソコンの画面に映し出されたワープロソフトの画面は雪景色のような白。これは時々訪れるスランプというやつだった。
「確かに最近ご無沙汰だったしなぁ……」
実家を離れてから、せっかく一人の部屋を手に入れたというのに誰とも体の関係を持っていない。それは心を入れ替えたなんて理由ではなく、ただいい人が見つからなかっただけ。私は巣を作ってそこにかかる人を待っていたけれど、なかなか現れなかったのだ。
私の小説と性の欲動は強く結びついている。強すぎてもいけないし、弱くなったらそれはそれで書けない。今の私はそのバランスを失っている状態。スランプの原因が明らかならば、それを取り除けばいい。
振り向けば、ベッドサイドに吊るされた鉢植えからアイビーが蔓を伸ばしている。私はパソコンをシャットダウンして、その細い蔓を指に巻き付けた。
アイビーの花言葉は友情や不滅の愛なんていうものもあるけれど、死んでも離れないというものもある。死んでも離れないもの――私から切り離すことができないもの。それはこの身の中でいつも燃え続けている快楽への欲求。けれど満足感を得るには私が気持ち良くなるだけではいけない。
悦楽に囚われ、獣と堕した、そんな誰かの姿が私を最も燃え上がらせる。抵抗は強ければ強いほうが良い。その方が、堕ちた後にそこから抜けられなくなるから。自分は清廉だと、抗ってみせると言った人間は、それが折られたときに酷く脆くなる。私はそれを優しく抱きしめて、甘い蜜の中に溶かしていくのだ。その体の一片も残さずに溶かし尽くして、私の中に吸収する。私はこれまでそうやって生きてきたのだ。
けれど、今はその対象がいない。餌のない蜘蛛はどうすれば今この瞬間の飢えを満たせるのだろうか。
私の答えは決まっている。私は言葉でどんな世界でも描き出せるのだ。絵に描いた餅は食べられないけれど、私の言葉で創り上げた人間は、夜の中では本物のように動き出す。
目を閉じて描き出す。その人が男である必要も、女である必要も、最悪人間である必要もない。ただ、私の目から見て美しいものを持っていればいい。
さあ、堕ちてきて。――そして、私の餌になって。
*
――つらいことは全部忘れてしまえばいいの。ここにいればあなたは誰にも傷つけられない。あなたを縛り付けているものを、私は全部取り去ってあげられる――
悪魔の言葉は重なり合って聞こえる。私の口から発されるものと、私の耳に届くもの。役を自分に乗り移らせて演じる役者のように、私は私の作り出した架空の登場人物とひとつになる。けれどその私を籠絡しようとする悪魔もまた私なのだ。
――大丈夫。もう、何も考えなくていいの――
左手で胸を優しく包み込む。強い力は必要ない。痛みは快楽にとっては邪魔なものだ。特に普段酷い扱いを受けている人には、優しさが何よりも必要だ。中指と人差し指で固く閉じている蕾を弄ぶうち、そこがわずかにあかく色づいて、綻ぶ前のように膨らんでいく。
「ん……」
微かに甘い吐息が漏れる。けれど堕ちるにはまだ足りない。逆の手をスカートの下に潜り込ませ、クロッチ部分を人差し指で優しく何度も往復する。
「んっ……あ……」
いやいやと首を横に振る《彼女》。彼女は今まで誰にも愛されてこなかった。多くの人が美しいという基準から外れてしまっただけで、男からは女扱いされず、あなたは美人ではないからという母親の言葉に呪われ、一生誰かに愛してもらえはしないと思い込んでいた。そして彼女はひとつの過ちを犯してしまったのだ。
「こんなの、おかしいよ……」
彼女は常識と良識に縛られている。そう、今朝、電車に乗っているとき。相手はきっと抵抗しないなら誰でもいいと思っていた。きっとこういう手合いは痴漢ですと叫んでも、お前みたいなブス襲わねぇよと悪態を吐く、唾棄すべき最低の部類の、虫けらと呼ぶのさえ虫に失礼としか思えない奴。そうわかっていても、愛されたような気がして、それまで封じ込めていた欲が溢れ出そうとしている。
私は彼女に触れているわけではない。作者として、外側にいるだけ。でも彼女が認識できない悪魔の声は、彼女の本能の声と重なって、彼女をこちら側へ引き摺り込む。
――おかしくなんてない。これは人間の本能。もっともっとあなたを愛してあげる。だから――
彼女の指は下着をずらし、その下にある性器の中へ入っていく。濡れた感触が指に伝わり、水音が響き、彼女は引き返せなくなっていく。
――あなたが思うままに感じればいい。もう、あなたを縛るものは何もない――
「っ……あ、あ……!」
甘い感覚が体を通り抜けていく。私には慣れている感覚でも、彼女には初めてのもの。初めては一度きり。それを楽しく味わえないのは勿体ない。
――我慢しなくていいの。あなたの全部を曝け出して――
誘われるままに指を動かし、上り詰めていく。奥まで入った指が少し膨らんだところに触れた。その場所を小刻みに刺激しながら、同時に中に入っているのとは逆の手で臍の少し下あたりを押し込む。
「あ、あっ……いっ……ああぁぁっ!」
体を反らして、全身で快楽を受け止める。彼女にもう罪悪感や嫌悪感はない。そこにはただ、性と愛を混同して、悦楽に溺れた少女が横たわっているだけだ。
「っ……」
絶頂後の倦怠感が残る体から指を引き抜くと、掌までとろみのある生暖かい液体で濡れていた。蛍光灯の明かりに手を透かしてみれば、指先がその液体で光っているように見える。
「悪くない、かも」
どうしても性描写が避けられないのは難点だけれど、この話は性描写を省いたらよくわからないものになってしまう。だからそこには目をつぶってもらおう。然るべき場所に載せるなら文句だってないはずだ
「そろそろ大人しくしてるのも飽きたしね」
蜘蛛は巣を張り巡らせて餌を待つ。けれどいつまでも餌がかからないなら、見切りをつけて他の場所にも巣をかけるのだ。
指先についた愛液を舐めると、塩辛いような、甘酸っぱいような、毒のような味がした。
「ちょっと休憩したら書いてあげるから。待っててね」
どこかにいる、彼女とよく似たあなたを縛るものは、この言葉で切り刻んであげるから、だからそのあとは――私のための、糧になってくれるでしょう?
蜘蛛の毒と一人芝居