心理世界の守役 五(終)

  幕間 四

 目が覚めたら、真っ白な世界に立っていた。
 地面に足を着けている感覚はなく、ふわふわした感じに違和感を覚える。
 何も分からない、何もない、ただ真っ白な世界。
 だが、そこに立っているとだけ、どうしてか分かった。
(わたし……)
 この空虚な世界に、一人ぼっち。
 胸の中に、ぽっかりと、何かが空いている感じがした。
 そのせいでなぜか、無性に虚しくて、寂しくて、寒い。
(……)
 いつからだったろう、彼女が一人ぼっちになってしまったのは。
 母がいなくなり、姉がいなくなった。
 父とは家族と言える関係が築けなくて、家の中で、孤独な毎日を過ごした。
 初めの頃は、それを悲しんでいた気がした。
 一人でいることを、泣くほど寂しいと感じていた頃があった。
 なのに。
 いつからだったのだろう、それに慣れてしまっていたのは。
 それが、当然だと思えるようになってしまっていたのは。
 そのことは決して変えられないのだと、諦めてしまっていたのは。
 そうだ。
 そうなのだ。
 今さら、こんなところで一人ぼっちになったことを嘆く必要はない。悲しむ必要などない。ただ一人でいる、それだけなのだから。
 そう、それは、たった。
 たったほんの、それだけのことなのだから。
 ――それ、なのに。
(あ、れ?)
 彼女は、自分の体のことなのに、不思議に思った。
 だって、悲しくも、苦しくもないはずなのに突然、涙が零れたのだから。
(何、で? わたし、わたしは、)
 訳が分からなかった。
 なぜ涙が流れる? 
 なぜ、痛くもないのに、涙が止まらない?
(何で、なの……)
 その時、声が聞こえた。

「愛歌、おまえは昔から、優しかった」
 
 顔を上げれば、いつの間にか、彼女の目の前に一人の女性が立っている。
 短く切りそろえられた髪。
 勝気で、でも優しい、そんな表情。
 その目元も、輪郭も、今泣いている彼女にそっくりだった。
「おまえが話せなくなったのは、私のせいだと分かっているよ」
 その女性は、そっと優しく、少女の頭に手を載せた。
「でもね、たとえ話せなくても、どんなに優しくても、おまえが、おまえ自身を殺しちゃいけないんだ」
 さらさらと、女性が頭を撫でる。
 その久し振りの心地いい感覚に、彼女は目を細めた。
 もう二度と感じることはできない。そう思っていたこの感覚に、もっと、もっとたくさんの涙が、次から次へ溢れて来る。
 女性は、一度薄く笑った。
「私と母さん以外に、好きな人ができたんだろう?」
 驚く彼女に、そっと微笑んで。
「なら、おまえは素直になればいい」
 そう言われて、彼女はさらに目の奥がじんとするのを感じた。
 もしかしたら、自分でも分かっていたのかもしれない。けれど、それを隠してしまうから、誰かに言ってほしかったのかもしれない。
 わがままでも。
 それが自分の気持ちなら、いいのだと。
 そして。
 それを言ってくれる人がいたから。
 こんなにも、涙が、声が、溢れるのだろうか。
「ほら、見てみなさい」
 涙に濡れた視界を開き、彼女は辺りの景色を見回す。
 変わっていた。
 ついさっきまで真っ白だったはずの世界が、色鮮やかな花畑に。
「……、」
 彼女は驚きのあまり、言葉を失う。
「いつか、母さんと三人で見に行ったことがあっただろう? 秋には彼岸花を、そして春には、一面に咲く綺麗な花畑を」
 女性は、懐かしそうに笑ってみせた。
「おまえは、おまえの好きなように生きればいい。守役だからって、彼岸花を心に留める必要も、好きな人ができたのに巻き込まないよう自分が死ぬ必要も――そんなものは、おまえには何もないんだよ」
 包み込むように、愛おしむように。
 優しい声で。
「おまえは、もう少しわがままに生きるんだ。好きなら好きって言えばいい、死にたくないなら死にたくないって叫べばいい」
そして、女性は。
 その女性は、たった一人の妹を、優しく見つめる。
「おまえが好きになったやつは、女の子の一人も守れないほど、弱いやつなのか?」
 いつの間にか、流れていた涙は止まっていた。
 自分の気持ちを全部分かってくれているこの女性(ひと)は、やはり本当にすごいのだと、彼女は改めて思う。
 彼女は首を振って、笑った。
 答えはもう、決まっていたから。
「そうか」
 それだけを呟いて。
「なら、目一杯わがままを言いなさい。おまえの好きな人を困らせるぐらい、いっぱいにね」
 その言葉が、本当にこの人らしいと彼女は思った。
 そんな言葉で、こんなにも勇気をもらえるのだから。
 こんなにも、嬉しく思えるのだから。
 彼女は、大きく息を吸う。
 そして。
 ずいぶん久し振りに、その声を出した。

「ありがとう、お姉ちゃん」

 女性は一瞬だけ、驚いたような顔をした。
 だが。
 本当に幸せそうに、嬉しそうに笑って。
「分かったなら、早く帰りなさい。待っているんだろう? おまえの大好きな人が。
 ――幸せになれよ、愛歌」
「うん!」
 だから、とびっきりの笑顔で、彼女は笑った。












  五幕 未来 Breaken_mistake

「ゆう、おにいちゃん」
 ピタリ、と漆黒の刀身が動きを止めた。
 つ、と小さな少女の頬を涙が伝う。
「……あなた、今……」
 目の前の光景が信じられなくて、廣瀬は呟くように尋ねた。
「今、何と……」
 別にその内容自体はどうでもよかった。
 ただ確認したいのは、今、この少女が言葉を『声に発したか否か』。
 実の姉を手にかけ、口を利けなくなったはずのこの少女が、今何か話したのかどうか、それだけなのだ。
(まさか、空耳を……)
 ありえないと思い、廣瀬は首を振った。
 こんな状況で、そんなくだらないものを聞くはずがない。
「わた、し」
 だが、思考が混乱しているその最中。
 また、声が聞こえた。
 今度ははっきりと、聞き間違いなどでは決してない。
(どうして、口を利けるように)
 考えようとしたところで、廣瀬は一度、それを断絶させた。
 刃が迫っていたのである。
 光を反射する、鋭い刃が。
「くっ」
 それが如月悠のものだとは、すぐに分かった。
 とりあえず、廣瀬は一度身を退いて、距離を取る。
(これは、幸い、と捉えましょうか……)
 守役の少女が声を出したおかげで、よけい体の反射が機能してくれた。
 どうにか、守役を斬らず、神具を失わずに済んだのだ。
 だが。
 今、廣瀬が困惑していることに変わりはない。口を利けなかったはずの少女が、不意に声を発したことに、理解が追いつかないのだ。
「……これは、驚きましたね。一体、どういうことでしょう」
 誰に問いかけるでもない、ただの呟きに似ていた。
 けれど、それは急に涙を流し始めた守役の少女に、向けられている。
「……を見た」
 かすかに、少女の声が耳に届く。
「わたし、お姉ちゃんを、見た。お姉ちゃんが、幸せになれって。わたしの頭を、撫でて……」
 その言葉に、廣瀬は眉根を寄せた。
(先代の、守役を?)
 目の前の守役の、その先代――つまりそれは、彼女の姉に当たる。
 だが、その先代はもう、この世には存在しないはずだ。その肉体はすでに朽ち果て、魂はソウルメイトへ移っているはずなのだ。
(ソウル、メイトに……)
 けれど、見たと言う少女に、廣瀬は頭を働かせる。
 死んだはずの姉を、今の一瞬で。
 しかも、『幸せになれ』と言われて来たのだと。
 これは、一体何が起きた?
「まさか、」
 そこで、廣瀬の中に一つの閃きが浮かんだ。
 確証はない。
 合っているかどうかは、まったく分からない。
 だが。
(もし、)
 廣瀬は思う。
 もしかしたらそれが、実験体としての如月悠の、本当の能力なのかもしれない、と。
(もし、彼が――)

『ソウルメイトとこの世を繋ぐ、門になっているのだとしたら』

 如月悠自身が、ソウルメイトと繋がることができるかは分からない。
 そこに、どういう条件があるのかは定かではない。
 けれど、もしそうなのだとしたら、彼に施された実験も、守役の少女も、すべて合点がいく。
「面白い、ですね」
 廣瀬は呟いた。
 花飾夫妻が行っていた、実験。
 その内容に初めから興味はあったが、これほどまでとは思っていなかった。
 けれど、同時に廣瀬は、残念に思ってしまう。
「ですがそんなあなたを、私は殺さねばならないなんて」
 もう、如月悠を逃がすことはできない。
 仮にここで生かしておいたら、彼はきっと何かの弊害として、立ちはだかってしまうだろう。
 そうなってしまっては、いけないのだ。
「行きますよ、如月悠」
 そうして、廣瀬は強く、地面を蹴った。


「愛歌ちゃん、怪我は、ない?」
 小さな体を抱き止める。
 その白い肌の薄皮まで切迫した刃が、彼女に傷をつけていないか、悠は心配した。
 だが、ううん、と愛歌は首を振って。
「……ごめんなさい、ゆうおにいちゃん」
 そのあどけない声に、悠は驚いた。
「愛歌ちゃん、声……」
 うん、と愛歌が頷く。
「お姉ちゃんを、見たの」
 その表情は、とても嬉しそうで。
「お姉ちゃん、笑ってた。幸せになれって、そう言ってくれた」
「愛歌ちゃん、」
「ゆう、おにいちゃん」
 愛歌は、恥ずかしそうに俯いた。
 戸惑うように視線を泳がせ、けれど、やがてはっきりと伝えてくれる。
「……わたし、ゆうおにいちゃんと一緒にいたい。もっともっと、生きていたいの」
 真っ直ぐな瞳に、悠は思わず唖然とした。
 目の前の愛歌も、きっと死ぬことを考えたのだ。けれど、悠と同じように、また生きたいと思い直した。彼もそうだったように、彼女もまた、変わったのだ。
 生きたい。
 生きていても、そう願っていてもいい、そう思えるように。
「そんなの、」
 思わず笑みが零れるほど、すごく嬉しかった。
「当たり前じゃないか。ぼくだって、愛歌ちゃんに生きていてほしいよ。もっとずっと、一緒にいてほしいっ」
「ありがとう、ゆうおにいちゃん」
 笑顔を見せる愛歌に、悠は喜ぶと共に、強く決意した。
 この小さな笑顔を、守りたい。
 彼女を悲しませないように、泣かせてしまわせないように、また昔みたいに、誰かを想って、一生懸命に生きてみたい。
「ううん」
 だから、悠は首を振って、優しく微笑みかける。
「ぼくは、もう一度、誰かと一緒にいたいんだ。また昔みたいに、楽しんで、笑い合ってみたいんだ。きっとそこには、愛歌ちゃんがいないといけない。愛歌ちゃんと一緒に、ぼくはまた楽しい時間を送りたいんだ」
「……、」
 恥ずかしそうに、愛歌が視線を逸らす。
「だから、」
悠は立ち上がり、手に持った刀を廣瀬へ向けた。
 見れば、漆黒の刀を握った廣瀬が、こちらへ迫って来ている。
 けれど悠の瞳に、揺らぎはない。
「だから今、()けるわけにはいかないんだ」
 透き通るように流麗な切っ先が、刺すように向けられた黒い切っ先とぶつかる。
 ここで、この敵に敗北してはいけない。
 せっかく手に入れた大事な(もの)を守り通すためにも。
「ゆうおにいちゃん……」
 心配そうな声が、背後から聞こえる。
「大丈夫だよ。ぼくが、守るから」
 そう声をかけ、悠は一度、身を退いた。
 警戒する廣瀬を見つめたまま、そっと愛歌に近づき、その小さな手を取る。
「廣瀬さん、ぼくたちは、どうしても話し合いじゃ納得できないんですよね。ぼくが、この刀を、愛歌ちゃんを手放さない限り」
 もはや答えるべくもない、と廣瀬は何も言わなかった。
 だが、それぐらい、悠にも分かっている。
「でも、」
 彼はぐっと、息を呑んだ。
「ぼくは、このトツカノツルギも、愛歌ちゃんも、廣瀬さんには絶対に渡しません。ぼくは、――ぼくは、あなたを倒して、愛歌ちゃんと二人で、家に帰ります」
 鉛をぶら下げたような重さが、体に圧し掛かっていた。
 頭が割れそうなほどの頭痛が響く。
 体の節々が上げる悲鳴に、けれど、悠は諦めることだけはしなかった。
 自分の思いを貫き通すために。
 今の悠には、それができるから。
 悠は、すっと腕を上げた。天高く、蒼穹を貫くように、真っ直ぐ刀を頭上に掲げる。なぜかは分からない、だが、彼の体がそうしろと言った。
 そして。
 その、瞬間。

 周りの景色が、一瞬にして転じる。
 真っ赤な紅に染まった、美しい彼岸花の大地に。

「これ、は」
 唖然とした廣瀬の声を、紅い花弁に包まれながら、悠は聞いた。
 この景色は、この世界は、前にも見た愛歌の心の中だ。
 咲き誇った彼岸花がひどく綺麗で、一輪一輪、誰かの命を背負って強く生きている。
 だが。
 そこにもう一つ、一陣の風が吹いた。
 穏やかで、まるで世界すべてを優しく包み込むような、柔らかい風。
 その風に撫でられた彼岸花が、みるみる姿を変えていく。悲しく、けれど強く燃え上がる華から、太陽のように明るい、色とりどりの華々へと。
「――ッ、心象風景が変わったというのですかッ?」
 だが、悠は驚かなかった。
 分かっていたのだ。
 感覚として、すでに悠は、こうなることを知っていた。
 だからその瞳は、ただ一人を見つめている。
 今、倒すべき相手だけを。
「廣瀬さん、」
 ゆらり。
 悠はその刀を、構える。
「これで、終わりです」



「一の陣、紅蓮!」
 叫ぶような声が、響き渡った。
 宙に浮かんだ五角形の陣から、一匹の龍が飛び出す。
 鱗の一つ一つまで炎で作り上げられた、精巧な灼熱の龍。
 それは悠目掛けて、一直線に突進した。
 だが。
 悠はそれを、斬る。
 いとも簡単に、あっさりと。
 その瞬間、ずん、と悠の頭に鈍痛が響いた。
「二の陣、氷牙(ひょうが)。三の陣、地掌(ちしょう)――ッ!」
 廣瀬の横に浮かんだ、円の中に六芒星を描いた陣。
 それが海面であるように、その中から次々と氷で作られた無数の刀剣が飛び出した。一度天高く昇り、やがて放物線を描くと、真下にいる悠を急襲する。
 その間にも、十二角形を中心に円を描いた、アルファベットを線の周りに並べた陣が、地面に現れる。そこからまるで、巨人の手のような腕が土塊で作られ、悠に向かって伸びた。
「……っ」
 いくつかを交わし、避けきれない刀剣(もの)を刀で叩き斬る。
 数本の氷の刃が、頬と腹部を掠めた。
 それでも痛みを我慢し、やがてすべてを避け切ると、伸びて来た手に視線を向ける。
 悠を掴み潰そうとする『腕』が、すぐそこにまで迫っていた。
 それを容赦なく、斬り裂く。
「この程度では、まだ音を上げはしませんか」
 瞬間。
 その『腕』が霧散するように消え、その中から、廣瀬の声が聞こえた。
 頭上から降り注ぐそれが、語調を激しくする。
「しかし、これはどうですか如月悠ッ! 受け止め切れますかッッ!」
 漆黒の刃が、悠の頭上から降り注いだ。
 恐らくあの『腕』を伝って来たのだろう、中空から全体重を乗せた一撃が、悠に圧し掛かる。受け止めたトツカノツルギが、悲鳴を上げた。
「あなた、私を倒すって言いましたよねッ! 私には、絶対に神具を渡さないのだと!
守役を渡さないのだと!」
 緊迫した鍔迫り合いの最中、唸るような声で廣瀬は続ける。
「しかし、あなたが何をどう思おうと、私はあなたごときに負けていられないんですよ! あなたのようなクソガキ風情が、私の重みに耐え切れるはずがないッ!」
 キィン! と甲高い音が響いた。
 廣瀬が鍔迫り合いを崩す。
 一歩飛び退って、彼は叫んだ
「一の陣、紅蓮」
 灼熱の龍が、悠を側面から襲う。
 それを咄嗟に振り返り、無理な体勢で斬り上げる。爆炎に散った『紅蓮』に気を取られた一瞬、ほんのわずかな隙に、次の一手が彼を襲った。
「……っ」
 視界もままならない中、黒い切っ先が悠の頬を斬り付けた。
 首を捻ってどうにか交わすが、その一瞬、廣瀬が懐に忍び込む。
 思い切り、膝で腹を抉られた。
「まだまだ休んでいる場合ではないでしょう、如月悠ッ!」
 廣瀬は愉しげに声を荒げて。
「紅蓮紅蓮紅蓮ッ!」
 後方に飛び退いた廣瀬より、突然現れた三匹の龍に注目した。
 もしこれらを斬り捨てれば、廣瀬がすかさずさっきと同じように一撃を狙って来るだろう。だが、斬らないわけにはいかない。
「……くっ、」
 とりあえず、悠は後方に跳んで距離を取った。
 襲い来る龍を、一匹、二匹、三匹と斬り捨てる。
 そして。
 最後の一匹を斬った瞬間、やはり、また廣瀬の刺突が迫った。
 今度は紙一重で交わし、直接打撃を打ち込まれる前に、こちらから一歩踏み出す。刀の柄を鳩尾に叩き込もうとしたが、視界が不明瞭なせいで、あえなく掠めるだけに留まった。
「これはこれは、危ないですね」
 廣瀬が、大きく息を吐く。
「しかし、本番はこれからですよッ!」
 黒曜石のごとき漆黒の刃が風を切り、しばらく嵐のような間隙のない攻防が続いた。どちらも引けを取らない剣戟が鎬を削る。
 やがて二人とも息が荒くなった頃、悠は問うた。
「――っ、廣瀬さん! あなたが仇討ちをしようとしてるって処凛さんから聞きました! でもっ! それは本当に、処凛さんが望んでいることだと思っているんですか!?」
 喫茶店で聞いた、氷の音が脳裏を過ぎる。
 あの時の処凛の表情は、とても悲しそうな、寂しそうなものだった。
 それなのにどうして、彼女にとって大事な人間が、さらに悲しませるような真似ができるというのか。
 廣瀬は言った。
 まるで鬼のごとき目で、その憎悪を湛えながら。
「連れ去られた処凛ちゃんは、三年間、アイツに道具として利用され続けたんですよ! 三年間! 三年間もですよ!? 親を殺したヤツに三年間も監禁され、人殺しの道具にされッ! そんなクソ野郎をあなただったら許せると言えるんですかッッ!? 殺したいと思わずにいられるんですかッ!? アイツが逃走したあの時から、私はずっと後悔していますよ! だから、早く殺したい! そのための力が欲しい! あなたにだって、如月悠という人間にだって、この思いが分からないはずがない!」
 狂ったように、廣瀬は叫び続けた。
 それがどんなに許せないことか。
 それがどんなに悔しくて、やる瀬なくて、腹の立つことか。
 その思いは、身が痺れるほどに伝わった。その殺意も、愛情も、何もかも。そのつらさ、苦しさをもっと深く聞けば、悠だって似たような気持ちを抱くだろう。怒りを、覚えるはずだ。
 けれど、だからこそ、悠は憤りを感じた。
 話に、ではない。
 目の前の、廣瀬にだ。
「……すべてじゃないけど、ぼくにも分かるところはあります。ぼくも、愛歌ちゃんや周りのみんながそういう目に遭っていたら、同じように思うかもしれません」
 でも、と悠は強く続ける。
「でも! 廣瀬さん、あなたは間違っています! 恨みが、憎しみがあるから誰かを殺したいって思うことはある! どうしようもなく許せないことはある! でも! それでも! もっと大事なものが、あなたの傍にはあるんじゃないんですか!?」
 悠は、実際に自分の目で見たから分かる。
 大好きな誰かと噛み合えない、その誰かに分かってもらえない、そんな人が見せる、寂しそうな表情を。
 思いを馳せながらも、ままならずにいる、悲しそうな表情(かお)を。
「処凛さん、言ってました! 廣瀬さんは、たった一人の家族だって! 絶対、絶対に失いたくない大切な人なんだって!」
 刃が頬を掠める。
 痛みが走り、血が滴った。
 それでも、悠は必死に伝える。
「けど処凛さん! 仇とか、神具とか、そんな話になるとすごくつらそうな、悲しそうな顔をするんです! 当たり前かもしれないけど、それは、廣瀬さんのせいなんじゃないんですか!? 本当は! 処凛さんは! 廣瀬さんに、これ以上、罪を背負わせたくないんじゃないんですか!? 人を殺してなんか、ほしくないんじゃないんですか!?」
「うるさいッ! うるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさい!」
 廣瀬は、怒り狂った獅子のように。
「あなたに、何が分かるというんです!? あなたみたいなクソガキに、私の一体何が分かるって言いやがるんですかア!?」
「分かりませんよ! 廣瀬さんのことなんて、ぼくに分かるはずがありません! でも処凛さんのことなら、処凛さんの寂しさなら、ぼくにだって分かります! 『今、あなたが間違っていることなら』、ぼくにだって分かりますよ!」
「ウルサイッ!」
「くっ」
 いっそう重い一撃が、刀にぶつけられた。
 勢いのあまり、足で土を抉って威力を殺す。わずかに距離を置いた状態で、嵐の剣戟が不自然なまでにピタリと止まった。
 生温い風が吹くように、沈黙が生まれる。
 悠が、破った。

「じゃあ、ぼくが、廣瀬さんの間違いを正します」

 体中の筋肉が、悲鳴を上げていた。
 それを無視して、悠は、刀を杖代わりに顔を上げる。もう、倒れる寸前の体力しか残っていなかった。でも、それでも、諦めない。
「ぼくは物語の主人公なんかじゃないから、物分かりもよくないですし、上手く相手に思いを伝えられるほど、器用じゃありません」
 けれど、それでも伝えたいことがある。
「ぼくは、どんなに無様でもいい。どんなに格好悪くて、惨めでもいい。でも、もう、決めたんです。愛歌ちゃんと出会って、ぼくは、ようやく決意ができたんです」
 たった一つ、生きることを諦めたくないから。
 決して、大切な人を悲しませたり、泣かせたりしたくないから。
「もう、『今』から逃げたりしないって! どんなに苦しくても、つらくても、ぼくは『今』を追いかけ続けるんだって! ずっと、ずっと前だけを見て、走り続けるんだって!」
 地面に刺さった刀を、一気に引き抜く。
 ふらふらの体で、悠は構えた。
 すべてを。
 この思いのすべてを、次の一撃に賭けるために。
 もうこの一撃で、すべてを終わらせるために。
「これで終わりです、廣瀬さん」
 悠は、一歩、前に踏み出す。
「ぼくは、ううん、ぼく『たち』は、いつも何か大事なものを見失ってしまいます。でも、それはきっと、もう一度見つめられるはずなんです。たとえ間違っても、諦めなければ、前に進めるはずなんです」
 だから、と悠は。
 悠は、言葉を続けようとして。
「如月悠ゥうううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううう!」
「廣瀬さぁああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああん――!」
 二つの影が、重なった。


 目が覚めれば、ぽつ、と雫が頬に落ちた。
 すぐ目の前に、いつも見ている、少女の顔がある。涙でぐしゃぐしゃになっていて、いつもみたいに、とても可愛いとは言えないが。
「処凛ちゃん……」
 廣瀬は呟いて、そっと手を伸ばした。涙に濡れた頬に、手袋をつけた手を、優しく添える。声は、うめくようなひどく苦しいものだった。
 処凛に膝枕をされた状態、そして周囲の風景が『公園』に戻っているのを確認して、廣瀬は今の状況を把握した。そう、端的に言って、結果はただ一つ。
 負けたのだ。
 如月悠という人間に、実力も、恐らく人としての器も、すべて負けた。だが、敗北を喫したはずなのに、廣瀬は死んでいない。確認できる限り、血だって流れていない。
 ただその代わりに左肩から右の脇腹まで、斜め一線がひどく痛むのは、如月悠に『肉体ではなく、魂を斬られた』からだろう。この痛みは、きっと未来永劫、続くはずだ。この敗北の証として、そして、自分への『戒め』として。
「処凛ちゃん、」
 泣き止まない処凛に、廣瀬は尋ねる。
「私は、間違っていたんでしょうか?」
 ふるふる、と処凛は首を振った。
「そう、ですか」
 処凛は、昔から優しい少女だった。いつも相手のことを思って、言葉を返す。だから、廣瀬にも、彼女なりの気遣いをしてくれたのだろう。でも、
「私に、嘘を吐く必要はありませんよ。処凛ちゃんの思うままを、聞かせてください」
 処凛が、廣瀬に気を遣う必要はないのだ。廣瀬のことを思って、嘘を吐く必要もない。でないと、二人の距離は、いつか離れていってしまう。
「……して、ほしくない」
「ん?」
「殺して、ほしくない……っ」
「そう、ですか」
 くすり、と廣瀬はかすかに微笑(わら)った。
 これが、今まで廣瀬が気付いてあげられなかった処凛の本音なのだろう。ずっと廣瀬に思っていたこと、そのたった一言を聞くまでに、こんなにも長い月日がかかってしまった。
「処凛ちゃん、」
 廣瀬は、どこかおかしそうに。
「たとえ間違っていても、諦めなければ、前に進めるそうですよ?」
 これからという、希望を抱いた未来へ。
 どんなに苦しくても、一歩ずつ。
「こんな私ですが、これから、また一緒に前に歩いてもらえないでしょうか? 頼りない時は叱ってくれて構いません。怒った時は怒鳴ってくれて構いません。私は、『本当の処凛ちゃんと』一緒に前へ進みたいです」
「ひろ、せ……」
「駄目、でしょうか?」
 また、ふるふると、処凛は首を振った。
 それが、すごく可愛くて、愛おしくて。
「ありがとう、ございます」
 廣瀬は、精一杯、笑う。
「これから、よろしくお願いしますね」
 少女は、涙を流して、でもすごく綺麗に笑った。
 
 
  終幕 家族 The_family

「ただいまー」
 右頬に絆創膏を貼った悠は、鉛のように重い手で玄関の扉を開けた。
 普段より数十キロは重いように感じる体を引き摺るように動かし、愛歌と一緒に中に入る。そして――
「よかったぁ~っ!」
 リビングから出て来た花音が、二人を見つけ、へなへなとくずおれた。
 それを見て、悠は少し、笑ってしまう。
「花音、お風呂、沸いてるかな?」
「え、うん。そうだね。先に、お風呂にしよっか」
 安心したように一息吐いて、花音が立ち上がった。
 そのまま悠も、靴を脱いでフロアへ上がる。
 先に愛歌が入るだろうから、悠は洗面所に手を洗いに行こうとした。それは何気ない、いつも通りの行動だったのだが、ふと足を止める。
「ん? どうしたの、愛歌ちゃん?」
 愛歌が、玄関で縮こまったように立ったまま、動いていなかった。顔を俯けて、戸惑っているようにも見える。
 恐る恐る、そんな感じで、愛歌が口を開いた。
「え、と。わたし、は」
 ワンピースを、ぎゅっと手で掴む。
「わたしは、やっぱり、ゆうおにいちゃんのおうちには……」
 彼女は一度、家族という温もりを失った。
 かけがえのない存在を失って、一人ぼっちになった。そして、危険な世界に身を置くようになって。そんな中に、『大切な人を巻き込むのは、やっぱり嫌で』。
 きっと、そんな風に考えたのだろうと、悠は思った。
「愛歌ちゃん、声……」
 驚いた花音の声が聞こえたが、それよりも、悠は愛歌に言葉をかける。
「愛歌ちゃん、」
 彼女の頭に、そっと手を載せる。 
「え?」
 顔を上げた愛歌に、悠は続けた。
「ぼくは、愛歌ちゃんと一緒にいたいって言ったよね? 愛歌ちゃんも、ぼくにそう言ってくれた。なら、ぼくと愛歌ちゃんは、もう家族なんだよ。ずっと一緒にいる、ね?」
 その言葉に、愛歌は驚いたような顔をしていた。
 けれど、だんだん、だんだん、その瞳に涙が溜まっていく。
 それを見ながら、悠は微笑んだ。
「そうなのよ、愛歌ちゃん。珍しく、ゆうくんの言う通り!」
 茶化した風な声に、悠は笑った。
「たあだ! その中には、ちゃんとわたしもいるんだからね?」
 腰に手を当て、むぅっと頬を膨らませてくる花音。
 そうだね、と悠はまた笑う。
 そして。
「おかえり、愛歌ちゃん」
 悠はそう、愛歌に手を差し伸べた。
 それが信じられないように、愛歌は首を振る。
 けれど次第に、目に溜まった涙を手で拭って。
 躊躇いながらも、手を重ねようとしてくれて。
 でも。
 でも最後には、とびっきりの笑顔で。
「ただいま、ゆうおにいちゃん」
 そう言ってくれた。



 






  ――おまけ―― A_boy_continues

「ゆうおにいちゃんっ!」
 ちょうど、リビングから自室へ戻ろうとしていた時だった。
 そんな声が聞こえて、ふと振り向けば――
「っっ!?!?!?!?!?」
 あまりに衝撃的な全裸の少女が、こちらに走って来ていた。
 タオルも何も巻いていない、たぶんちゃんと拭いてすらいないだろう愛歌の体は、まだお湯で濡れてしまっている。
 だがそれを、彼女が気にすることはなく。
 ドン!
 と抱きついて来た。
「ど、どうしたの!?」
「いやだーっ! おふろやなのーっ!」
「え? ま、また?」
「またじゃないもん! あ! じゃ、わたしゆうおにいちゃんと入る! ゆうおにいちゃんとだったら、おふろ好きになるかも!」
「ええ!?」
 と驚いているのも束の間、悠は目の前に誰かが立っている事に気付く。
「か、花音、ちょっと助け……」
 言おうとして、我が目を疑った。
 タオル一枚を巻いた状態で、花音が立っているのだ。
(う、うそ……っ)
「ほら愛歌ちゃん、早く戻って。ごめんね、ゆうくん」
 と、花音が愛歌を引っ張って連れて行こうとする。
 けれど、なかなか愛歌は離れてくれなくて。
 体をゆらゆらと揺すられているうちに。
(……あ、れ?)
 急に眩暈に襲われた。
 目の前がぼうっとして、足元が覚束なくなり、
「きゃっ!?」
 その悲鳴が聞こえた時は、すでに遅かった。
 体に衝撃が伝わる。
(あれ、ぼく……)
 今日は疲れてしまったからだろう。 
 早く休まないと。そう思って悠が立ち上がろうとすると、
 ふにっ。
 と柔らかいものを、手が掴んだ。
「ん? これ、は」
 見ると、指と指の間から、何か肌色の、弾力のあるものが見える。
「……」
 それを一度、軽く揉んで。
 もう一度――
「あ、んっ……」
 耳につく、何か聞いてはいけないような声を聞いた。
 冷や汗が、背筋を伝う。
 そちらに目を向けると、花音の顔があった。
 赤く火照った彼女の唇が、ゆっくり、言葉を紡ぎ出す。
「……ゆうくんの……」
「え?」
「ゆうくんの、ばかぁああ!」
 ごづん、と顔面を思い切り殴られ――
「っ!?」
 声にもならない叫びを出して、悠は背中から転がった。
 そこでじたばたじたばた痛みを緩和して、走り去っていく二人の足音を聞く。
(し、死ぬ……っ)
 心理世界よりも何よりも。
 この状況で生きていられるか、そっちの方を心配する悠だった。

心理世界の守役 五(終)

心理世界の守役 五(終)

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  • 全年齢対象
更新日
登録日
2012-11-11

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