Paranoid Rose

深山瀬怜/浅谷てるる

 僕は叫び出したくなる衝動をぐっと堪えて、最後の頭痛薬を飲み込んだ。頭痛薬などの鎮痛剤は精神的な痛みも消してくれるという噂があるが、本当だろうか。まあ、そんなことはどうでもいい。最大の問題は、僕の眼の前にある真っ白なままの原稿だ。締切はもう来週に迫っているというのに。
 今回は部誌に作品を出すのをやめてしまおうか。そんな考えが頭を()ぎる。それがいいのかもしれない。もう三年生なのだし、受験勉強もいい加減に始めなければならない。でも僕は、パソコンに向き合って小説を書こうとする行為をやめられなかった。
 馬鹿馬鹿しい。自分でも嫌になる。今の僕を突き動かしているのは嫉妬とプライドでしかない。こんな感情は捨ててしまって、パソコンではなく問題集に向かう方がよっぽど建設的だ。最近は母親も「勉強しろ」と口うるさく言ってくるのだから。それなのに、「このまま終わるわけにはいかない」ともう一人の自分が低い声で呟く。
 ――お前はこのまま文芸部を引退するつもりなのか。納得できる作品を一つも残せないまま、後輩に負けてしまったまま。
 別にこのままでもいい。大学に入って文芸サークルに入れば今のように小説も書けるし、ひとり気ままに趣味で書いたっていい。
 でも僕は、いま誰かに自分の作品を認めて欲しいのだ。村山(てつ)の小説は面白いと言って欲しい。たった一人でもいい? まさか。読んだ人全てに愛されたい。だって一人だけでは不安になる。どうせもっと巧い小説を書く奴がいたら、そちらに乗り換えるのだろう。「その一人を大事にしなさい」なんて、沢山の人に愛されて余裕がある人の言葉だ。
 僕にそんな余裕があるわけはない。プロの作家とは比べるべくもないが、文芸部の中にも、僕よりも人に(たた)えられる小説を書く奴がいる。部員の作品で一番素晴らしいものを選べと言われたとき、誰もが迷いなく水無瀬(みなせ)愛梨(あいり)の小説を選んだのだ。
 昨年から、一年間に部誌で発表された中で特に優れた作品を部員の投票により選出して、傑作選として発行している。県内でも有数の進学校である僕の高校の文化祭には、中学生から大人まで多くの人が訪れる。その人たちにより良い作品を読んで貰おうという試みだ。
 今年も六つの作品が載ることになったが、僕の作品は選出されなかった。江里佳(えりか)が管理していた集票結果を盗み見たときにわかったことだが、僕の作品にはたった一票しか票が入っていなかった。二位と圧倒的な差をつけて一位になった水無瀬とは雲泥の差である。
 窓の方に目をやると、ガラスの花瓶に青紫色のテッセンが飾られている。この花は水無瀬が持って来たものだ。僕は拳を握り締めた。
 どうしようもなく苛々する。花瓶を床に叩きつけたい。水無瀬が飾ったテッセンを踏み潰したい。黒くてどろりとしたものが僕を支配して、また頭が割れるように痛くなる。爆発しそうな衝動を抑えつけながら、僕は机の上の薬箱を見た。さっき飲んだ頭痛薬はまだ効かないのか。あれが最後の一錠だったというのに。
 やめてくれよ、このままじゃ壊れそうだ。
 浅い呼吸を繰り返して何とか頭痛をやり過ごそうとしていると、部室のドアが勢い良く開く。女二人の話し声。緩慢(かんまん)な仕草でそちらに目をやると、そこには部長の木下江里佳と水無瀬がいた。水無瀬は僕に向かって微笑むと、明るい声で話し始める。
「原稿書いてたんですか、村山先輩?」
「うん、まあ」
 僕は短く答えて、パソコンをシャットダウンした。どうせ一文字も進んでいない。書いては消し、書いては消しを繰り返していただけだ。
「村山先輩って凄いですね。三年生で作品を提出するって言ってるの、先輩だけですよ」
 水無瀬が微笑む。彼女に「凄い」と言われても、あまり嬉しくはない。多くの人に自分の小説が愛されているという余裕から来る言葉にしか思えない。でも仮にも後輩である水無瀬に、そんな言葉を投げつけるわけにはいかない。僕は努めて笑みを浮かべた。
「提出できるかどうかは別だけど。今回はちょっと厳しいかもな」
「受験生ですもんね。でも私は先輩の小説好きなんで、期待して待ってますよ」
 黒いものがまた僕の中に広がっていく。何の因果か、この文芸部の中で僕の作品を面白いと言ってくれた唯一の人間が水無瀬なのだ。僕が窓辺の花を滅茶苦茶にしたいと思っていると知ったら、彼女はどんな顔をするのだろうか。
「じゃあ私も家に帰って執筆したいんで、帰りますね」
 水無瀬はそう言って、僕と江里佳に手を振った。水無瀬は気を遣ってくれたのだろうか。そんな必要はないというのに。僕は溜息を()いて立ち上がった。今、江里佳と二人きりになるという状況は避けたい。
「待って、哲」
「悪いけど、執筆もしたいし勉強もしなきゃいけないから」
 江里佳の目を見ないようにして言うと、彼女は僕の腕を掴む。僕は江里佳を睨むけれど、彼女の瞳の方がより強い力を持っていた。
「執筆も勉強も全然進んでないくせに。私を避けてるのはわかってるのよ」
「……ならそのまま避けさせてくれないかな。今は余裕がないんだ」
「嫌よ。だって私はあなたの――」
 僕は江里佳が最後まで言う前に、その手を振り払った。彼女には二週間前、一方的ではあるが別れを告げた。もう彼氏彼女の関係ではないのだ。少なくとも僕にとっては。
「元カノっていうのは限りなく他人に近いだろ。それに、僕のことをわかってくれようとしなかったのはそっちの方だ」
 毎日のように僕を襲う苛立ちを、江里佳にだけは打ち明けた。そうするくらいには彼女が好きだったし、特別だった。でも彼女は僕を理解してはくれなかった。激しい嫉妬で焼け(ただ)れた僕をただ抱き締めてくれさえすれば良かったのに。慰めも助言もいらなかった。ましてや「しばらく部活を休んでみたらどうか」なんて上から目線の言葉などいらなかった。
 僕はただ、彼女の優しさに包まれたかっただけなのだ。
 自分でも我儘(わがまま)だと思う。勝手に(すが)りつこうとして、それが駄目なら拒絶する。馬鹿馬鹿しい。僕を愛してくれるかもしれない人を、僕はそうやって失った。
 もう自分が何をしたいのかがさっぱりわからない。
 僕は江里佳を無視して、足早に部室を出た。彼女とこれ以上一緒にいると、僕の中を満たす汚くてどろどろしたものをぶちまけてしまいそうになる。しかし彼女はきっと、それを受け止めることが出来ないだろう。江里佳は僕が知っている女性の中で一番清らかで、真っ直ぐな人なのだから。
 本当はまだ江里佳のことが好きなのかもしれない。でも僕は、自分から彼女を突き放すことを選んだ。理性が決壊する前に、彼女を汚してしまう前に、僕は独りにならなければいけなかった。
 別れたのは彼女のためなんだ。僕はそう言い聞かせながら、階段を駆け下りた。

     ◆

 今日もまた、いつもの頭痛がやってくる。
 こんなにつらいのなら、いっそ死んでしまおうか。僕は自分しかいない部室で、そんなことを考える。
 死んでしまえば、この頭痛に苛まれることもない。嫉妬に心を支配されてしまうこともない。巨大地震でも来ないかな、と不謹慎なことさえ考える。幼稚で愚かな思考だということはわかっている。でも、何か大きな力が、全てを消し去ってくれる瞬間を僕は待ち望んでいるのだ。
 どうせ書けないのはわかっているけれど、僕はワードの画面を開いていた。もしかしたらちょっとしたきっかけで、僕の現状を打破してくれるような文章が書けるかもしれない。締切は明後日に迫っていたが、僕はまだ望みを捨て切れていなかった。
 でも、そんなのは幻想だよ、ともう一人の自分が僕を嘲笑う。高校三年生にもなれば、自分がどの程度の人間かわかるようになってしまう。何かがしたい、何かが出来るかもしれない、そんな希望を抱く自分を幼いと笑い飛ばすようになる。妙に悟ったような自分がいつも心の隅にいるのだ。
 お前には何も出来ないと笑う自分に全てを委ねてしまえば楽な気もする。僕の身の丈で進める道を行けばいい。どうせ上手い小説なんて書けやしないのだ。趣味で小説を書いて、身近な人に読んで貰うだけでいいじゃないか。そうやって沢山の人間の中に埋没していけばいい。自分に何かが出来るなんて思うな。僕は平凡な人間なのだ。
 そうやって何度も自分に暗示をかけた。僕は何者にもなれない、それでいいのだ。自尊心を捨てれば心に平安が訪れると、数え切れないくらい自分に言い聞かせた。しかし封じ込めたはずの愚かな自分は、亡霊のように何度も蘇ってきてしまう。
 血が出るほど強く唇を噛み締めていると、部室のドアがゆっくりと開いた。
「村山先輩、今日も来てたんですね」
 水無瀬だ。腕には新聞紙で包んだ白薔薇の花束を抱えている。肩の少し上辺りで切り揃えられた髪が、彼女の動きに合わせて少し揺れた。
「外から部室を見たら明かりがついてたので、先輩かなって」
 そう言いながら水無瀬は窓の方に歩いて行って、新聞紙にくるまれた花束を棚の上に置いた。そういえば、五日前にはそこにあったはずのテッセンが今はなくなっている。花瓶を見ると水無瀬を思い出すので、なるべく見ないようにしていたから気付かなかった。枯れたから片付けたのだろうか。
「どうかしたんですか、先輩?」
 視線に気付いたらしい水無瀬が聞いてきた。僕は笑顔を取り繕って答える。
「いや、この前のテッセンは水無瀬が片付けたのかなと思って」
「あれは部長が片付けたんですよ。あんまり良い花言葉じゃないからって」
「花言葉?」
 江里佳はそんな迷信めいたものを信じるような人だっただろうか。僕は首を傾げた。
「テッセンの花言葉に『縛りつける』というものがあるんですけど、あんまり良くないんじゃないかって」
「片付けるほどのものか、それ?」
『恨み』とか『死』とかなら避けたい気持ちは何となくわかるけれど、『縛りつける』とくると、気にする必要はないのではないかと思ってしまう。どうせ部員のほとんどは花言葉など知らないのだ。
「気になるポイントというのは人によって違いますから」
 水無瀬は曖昧に笑って言った。それもそうかもしれない。僕は何も答えずにパソコンの画面に向き直った。
「ところで先輩、締切には間に合いそうですか?」
「……ちょっと厳しいかもな」
「受験生は補習とか、大変ですもんね」
 部室にある手洗い用の蛇口で花瓶に水を入れながら、水無瀬は答えた。受験とは全く関係ないところで書けていないのだが、僕はあえてそれを口にすることはしない。水無瀬は新聞紙を丁寧に外し、白薔薇を花瓶に挿した。
「水無瀬っていつも花持ってくるけど、わざわざ買ってるの?」
「いえ。私の実家は花屋なので、売り物に出来なかったり売れ残ったりしたものを貰って来てるだけです。前に言いませんでしたっけ?」
「聞いてないな」
 薔薇を飾り終わった水無瀬は、部員用のお菓子などが置いてある戸棚を開けた。
「そうだ、村山先輩。コーヒー飲みませんか?」
 断る理由はない。僕は軽く頷いた。頭をすっきりさせるためにも、カフェインを摂取するのは悪くないだろう。
 しばらくすると、水無瀬がマグカップ二つとシュガーポットを手に持って、僕の近くまで歩いてきた。
「先輩は砂糖どれくらい入れますか?」
「そうだな……少し入れてくれるかな?」
 普段はブラックを飲むことが多いのだが、疲れているときは少し砂糖を入れた方がいいと聞いたことがある。
「……よかった」
 水無瀬が僕に聞こえるか聞こえないかの声で呟いた。僕は首を傾げる。
「よかった、って?」
「こっちの話です。実はこれ、私が買ってきた外国製の特別な砂糖なんですよ。村山先輩が使ってくれなかったらちょっと残念だなって思ってたんです」
 そういうことか。納得した僕は、水無瀬が淹れたコーヒーを一口飲んだ。独特の甘さとコーヒーの苦味が口の中で混ざり合っていく。普通の砂糖よりも控えめな甘さで、結構美味しかった。
「そういえば、水無瀬は原稿終わったのか?」
 確か、提出すると言っていたはずだ。会話がないのも不自然だと思って聞くと、彼女は少し目線を落とした。
「ほとんど書き終わってはいるんですが、出来はいまいちですね。ちょっとスランプ気味なのかもしれません」
 とはいえ、水無瀬の作品なのだからさぞかし面白いものが出来ているのだろう。彼女の小説は巧い。妬ましくなるくらいには。
「女子ってそういう謙遜(けんそん)好きだよな。全然勉強してないよー、とか言いながら良い点数取るとか」
 嫌味めいたことが口を突いて出た。水無瀬はその言葉に少し表情を曇らせる。
「今回のは本当に自信がないんです。前号に出した『擬態する蒼』は実力以上のものが書けてしまっただけで……あれに縛られて、小説が書けなくなってるんですよ」
『擬態する蒼』は水無瀬のデビュー作で、美しい母親に全てを奪われた少女が、様々な暴力に(さら)される中で、様々な人間を手玉に取って生きていく女に成長する、という筋書きの話だ。今まで文芸部の中で暴力的な場面を含む作品を出す人がいなかったこともあり、十五ページと短めながら、鮮烈な印象を僕や他の文芸部員たちに刻んだ。そしてほとんどの部員がこの小説を傑作選用の作品として推したのだ。彼女に対する讃美の声が聞こえた気がして、僕は拳を握り締めた。
 人の気も知らないで。――隠していた黒くてどろりとした何かが、全身に染み出して来る。まずい。さり気ない仕草で薬箱を探るが、頭痛薬がどこにもない。僕が数日前に買い足したばかりなのに。昨日までは確かにあったはずなのに。
「村山先輩?」
 水無瀬の声が歪んで聞こえた。感情の奔流が理性を押し流していく。
 僕は水無瀬のように、沢山の人に愛された小説など一度も書けなかった。たった一度でもと思って書き続けていたのに。それに囚われて苦悩するくらいなら、その彼女に向けられる賞賛を僕のものにしてしまいたい。僕は、自分が何をするつもりなのかもわからないまま立ち上がった。
贅沢(ぜいたく)な悩みだよね、それ……」
 まだ辛うじて残っている理性が、僕の口調を平坦に保つ。江里佳が僕に言ったのと同じ、相手を全く理解しようとしていない言葉。
 しかし水無瀬は怒ることも、泣くこともなかった。ただ僕の顔を見て、くすりと笑う。
「そんなに怒らないで下さい。先輩の気持ちは知ってますよ。先輩は私に、『擬態する蒼』という作品に」
 ――嫉妬しているんでしょう?
 水無瀬は僕にぐいっと顔を近づけ、耳元で囁いた。彼女の息をたっぷりと含んだ掠れ声に鳥肌が立つ。同時に僕は、自分の中にある黒いものに意識を掌握された。
 黙れよ。もう何も聞きたくない。
 水無瀬の指摘は正しい。でも、それをわかっていながら彼女は「僕の作品が好き」などと言っていたのだ。僕の苦悩を知りながら、それをどこか高みから見下ろしていただけなのだ。死んでしまえばいい、僕は心の底からそう思った。
 乱暴に水無瀬の髪を掴み、床に押し倒す。僕は彼女の細い首に自分の両手を当てた。首を絞めて殺してしまおうと思った。殺さないまでも、黙らせることが出来れば良かった。しかし指先に伝わる水無瀬の鼓動が、僕を一瞬(ひる)ませた。
 水無瀬の唇が笑みの形に歪む。どうせ自分を殺すことは出来ないのだろうと嘲笑っているように見えた。この状況で、まだ余裕を保っていられるのか。まだ僕を馬鹿にしているのか。彼女に対する苛立ちは、僕の理性を更に蝕んでいく。僕の体が熱を持ち始めたのがわかった。
 僕の心はもう、彼女の死などでは鎮まらない。
 殺すよりももっと酷い方法で、彼女を滅茶苦茶にしてしまいたい。一瞬で終わってしまう死よりも、長く続く苦しみを与えたい。もう二度と僕を見下すことなど出来ないように。僕に怯え、僕を恐れるように。彼女が僕より高いところにいるのなら、そこから引きずり下ろしてやる。
 力任せに彼女のブラウスを脱がせる。水無瀬のきめ細かい肌と水色の生地に白い糸で薔薇の刺繍がしてある下着が露わになった。僕はその柔肌に思いっきり噛みつく。水無瀬の眉が(しか)められ、苦痛の声が漏れた。
 僕は自分が笑っているのがわかった。痛みに歪んだ水無瀬の顔を綺麗だとさえ思った。彼女を犯しているという事実が、僕の心を高揚させていた。性行為とは本来、愛し合う人の間にあるものだと思われている。でも実際は、男が女を支配するために使われることもある。江里佳もかつてそう言っていたじゃないか。だからそういうことはもう少し待って欲しいと、付き合い始めた直後に。
 結局彼女は、心の底では僕を疑っていたのかもしれない。そう思った瞬間に、目の奥が出血してしまったかのように視界が赤く染まった。
 水無瀬の下着をずらすと、手の中にすっぽりと収まってしまいそうな小さな膨らみと、その頂点にある桜色の突起が現れた。僕はそこに歯を立てる。噛み千切ってやりたいとさえ思った。
 水無瀬の爪が床をがり、と掻いたとき、部室の外で物音がした。ドアの方を見ると、目を見開いた江里佳と視線がぶつかった。胸の中にどろりとした薄暗い感情が広がる。
 ――これが僕の本当の姿だよ、江里佳。君が理解しようとせずに目を逸らした、いや、僕の中に潜んでいるかもしれないと疑った、僕の醜悪な本性だ。
 僕は喉の奥で笑いながら、水無瀬に向き直った。彼女のスカートの中に手を入れ、黒いタイツを片足だけ脱がせた。その瞬間、水無瀬が小さく笑う。僕は彼女の足をゆっくりと撫でた。白く艶のある瑞々しい肌に唇を寄せる。強く吸うと、赤い花びらのような痕がついた。その痕を強く噛むと、水無瀬の顔がまた痛みに歪む。
 僕は片手でベルトを外し、水無瀬を自分の欲望で貫いた。この上なく濡れた音が響く。うねるように動く媚肉に締めつけられ、一瞬頭が真っ白になった。
「ねぇ、先輩……?」
 水無瀬がそう言って、僕の背中に腕を回す。僕は息を整えながら、彼女の濡れた瞳を見つめた。
「木下先輩と比べて、どうですか?」
 江里佳とこんな行為をしたことはなかったから、比べられるはずもない。第一、水無瀬の声など聞きたくはなかった。
「もう黙れよ、水無瀬」
 僕は水無瀬に腰を打ちつけ、律動を開始した。卑猥な水音と水無瀬の嬌声が、部室の空気を淫靡(いんび)なものに変えていく。
 そのとき、パタパタと廊下を駆けていく音がした。僕はその音を苦々しく思いながら、ひたすら腰を振り続ける。水無瀬の唇から、押し殺した喘ぎが漏れた。快楽で視界が白い光に包まれ始める。
 僕が犯しているのは水無瀬ではなく、江里佳なのかもしれなかった。現実に見えている世界に、僕の妄想が見せる世界が重なる。江里佳の顔は痛みに歪み、僕から逃れようと体をよじる。僕はそれを押さえつけるようにして、更に腰を打ちつけた。
 ――本当はずっと僕の本性を知っていて、僕を軽蔑していたんだろう、江里佳?
 僕は幻の江里佳に向かって叫ぶ。優しい振りをして、影で優越感を得ていたに違いない。言葉では表せない苛立ちが全身に広がっていく。
 汚してやるよ、江里佳。僕は低く呟き、白濁の液体を放つ。その瞬間、僕の視界を埋め尽くすように純白の薔薇が咲いた。
 我に返ったとき、僕は目の前が真っ暗になるように感じた。肩で呼吸を繰り返している水無瀬の体には、赤い痣が何個も付いている。乱されたプリーツスカートは、どちらのものともわからない体液で汚れていた。
 水無瀬が薄い灰色の床に横たわったまま、何かを言おうと口を開く。しかし僕は、その言葉を待たずに部室を飛び出した。

     ◆

 逃げるように駅までの道を走っていると、誰かに呼び止められた。反射的に声のした方を見ると、江里佳が泣き腫らした顔をして立っていた。
「どういうことなのか、説明して」
 彼女の声は僅かに震えていたけれど、僕を見つめる目には相変わらず強い光が宿っていた。まだ僕の正体を認めようとしないのか。さっきの出来事は何かの間違いだと思いたいのだろうか。僕を信じていなかったくせに。
 それなら、ここで全て壊してしまおうか。どうせ最初から壊れていたのだから。そんな声が頭の奥で聞こえる。
 僕は江里佳に向き直り、ゆっくりと口を開いた。
「どういうことって、江里佳が見たままだよ。僕は水無瀬を無理やり犯した。それだけだよ」
「どうして……」
 どうして、なんて。僕は低い声で笑った。
「そりゃあ、江里佳が一度もヤラせてくれなかったからに決まってるだろ」
 江里佳は目を見開いた。透明な雫が彼女の頬を伝って流れていく。僕は江里佳を抱いたことはなかった。彼女が望まなかったから我慢していたのだ。彼女の言葉の裏にある、僕に対する猜疑心(さいぎしん)に気付かずに。
 僕は壊れたレコードのように笑い続けた。道を行く人がちらりとこちらを見るが、気にしなかった。
「何でそんな顔するんだよ? 僕が弁解すると思ったわけ? それとも、まだ僕が気付いていないとでも思ってたわけ?」
「気付いていない、って……何のこと?」
 まだとぼける気なのか。僕は()(ぎし)りをして、江里佳の右肩を強く押し、近くのブロック塀のところに追い詰めた。怯えた目で僕を見る江里佳の肩を強く押し、僕から逃れられないようにする。
「僕がこういう人間だって知ってたんだろ? 女を犯して喜ぶような奴だと思ってたんだろ?だからセックスはちょっと待って欲しいって言ったんだろ? もう全部わかってるんだよ!」
 江里佳の顔に絶望の色が広がっていく。僕はその様子を心ゆくまで堪能し、彼女を眺めていた。今まで必死に押し込めていた黒くてどろどろしたものが、僕を支配していく。絶頂の瞬間よりも甘い快楽に心を掴まれた。
「やめて……やめてよ、哲!」
 江里佳は首を横に振りながら耳を塞いでいる。僕は彼女の顔を無理やり自分に向けさせた。
「やめないよ。だってこれが、本当の僕なんだろう?」
 目を逸らすなんて、絶対に許さない。彼女は一度たりとも僕を対等な存在として見てはくれなかった。水無瀬を妬んでいることを打ち明けたときだってそうだ。彼女は僕よりも高みにいる余裕から、「部活を休んでみたら」なんてことを言ったのだ。それでも僕は江里佳が好きだった。だから全てをぶちまけてしまう前に自分から離れたのに。
 僕は薄笑いを浮かべ、江里佳を睨んだ。泣いている彼女を見ていると、どうしようもなく苛立ちが募ってくる。僕は嘆息しながら、彼女に対する最後の言葉を口にした。
「それとも何? 僕と復縁するために抱かせてくれるって言うんなら、聞いてやらないことはないけど?」
 江里佳は目尻に涙を溜め、僕の頬を平手で叩いた。頭の中で何かが切れた音がして、僕は無理やり彼女の唇を奪った。このまま江里佳も犯してしまおうか。縮こまっている彼女の舌に、自分のそれを強引に絡めながら考える。
 江里佳のブラウスのボタンに手を掛ける。服越しに彼女の体温が伝わってきた。
「……っ」
 その温かさが、僕を躊わせた。これ以上は出来ない。震える手を、江里佳の制服からゆっくりと離す。江里佳は怯えた目でこっちを見てから、僕に背を向けて走り出した。僕は呆然としながら去っていく彼女を見送る。
 江里佳の姿が完全に見えなくなると、僕は息を吐き出しながら空を仰いだ。星一つない、真っ黒に染まった夜空。今の自分そのもののようだとひとりごち、僕はゆっくりと目を閉じた。

     ◆

 僕は家に帰り、真っ直ぐ二階にある自室に向かった。父親はどうせ帰って来ていないだろうし、口うるさい母親と顔を合わせたくはなかった。ついさっき江里佳にした仕打ちのことを考えると、どうしても気分が落ち込んでしまう。あまつさえ僕は、江里佳の幻を犯したり、彼女に暴言を吐くことで興奮していたのだ。
「僕は、最低だな……」
 どうしてあんなことをしてしまったのだろう。僕は取り返しのつかないことをしてしまった。(ようや)く冷静になった僕は、激しい後悔の念に苛まれていた。
 溜息を吐きながら自室のドアを開ける。部屋に入るとすぐに、肩に掛けていたバッグを床に落とした。覚束ない足取りで、窓際にある学習机に向かう。今朝までプロットを書いた紙などで散らかっていた机は綺麗に片付けられていた。その代わりに数冊の赤本が置いてある。恐らく、受験勉強をなかなか始めない僕に業を煮やした母親が買ってきたのだろう。
 僕の視界がまた、血のような赤に染まっていく。
 どいつもこいつも、僕のことを見下しやがって。一人では何も出来ないと思っているのか。母はいつだって過剰に僕に干渉してくる。普段は少し(わずら)わしいと思う程度だったが、今日は容易く怒りに火が点いてしまった。
 僕は机の上の赤本を床に思いっきり叩きつけた。その弾みで開いたページには数字や記号が書かれている。僕はそのページを何度も何度も踏みつける。紙面の上のインテグラルが見るも無残に歪んでいく。僕が今まで積み上げたものが崩れていくように感じた。こんな僕を見たら母はどんな顔をするだろうか。階下にいる母にも聞こえるように、何度も足を振り下ろす。他の赤本も同じようにフローリングの上に投げた。明日、これを見た母親は泣くだろうか。それとももっと他の反応をするだろうか。僕は母親の表情を思い浮かべながら、笑みを浮かべた。
 一連の行動に満足した頃には、すっかり息が上がっていた。胸の中には暗い淀みのようなもので満たされている。僕はキャスター付きの椅子に座り、新しいノートを手繰り寄せた。
 頭の中に沢山の言葉が次々と浮かんでくる。今、書かなければ――そんな衝動に駆られた。今まで考えてきたプロットはもういらない。僕は絶えず浮かび上がる言葉をノートに書き留めた。与えることによって得られる快楽、禁断症状、姉弟、酔いしれる、といった何の脈絡もないような言葉が、書かれることで一つの線として繋がっていく。
 まるで、ばらばらだったパズルが一つの絵になっていくようだった。この感覚は『擬態する蒼』を読んで以来、久しく味わっていなかった。B5サイズのノートはすぐに字で埋まり、僕の中でも新しい小説の全体像が見えてくる。
 最後に浮かんだ言葉は『白薔薇』で、僕の心に一瞬だけ陰りが差した。明らかに水無瀬が持ってきた花に影響されていることがわかったからだ。しかし暗くなった気分はすぐに、得体の知れない興奮に掻き消されていく。
 学習机の隣にあるデスクトップ型のパソコンの前に移動し、電源を入れる。物語を成立させるためには、もう少し何かが必要だったのだ。ノートに書き留めた沢山の言葉を足掛かりに、その何かを探さなければならない。パソコンはしばらくして起動する。インターネットブラウザを開き、これまで出てきた単語をいくつか入力してみた。しばらくは空振りが続く。色々と思案した末に、最後に思いついた『白薔薇』という単語を入れてみる。関連ワードに『白薔薇 花言葉』というものが出てきたので、僕は何気なくそれをクリックした。
《白いバラの花言葉は、「心からの尊敬」「無邪気」「純潔」……》
 その文章を読んだとき、僕は最後のピースがはまったような気がした。
 僕はすぐにワードを開き、自分の中で編んだ物語を文章にする。設計図を書かなければ家を作ることが出来ないように、プロットを書かなければ小説は迷走してしまう。
 キーボードを打つ手はほとんど止まることなく、三十分もかからずに小説の構成が出来上がった。全画面表示にして、プロットの全体像を眺める。あとは題名だけだが、今はしっくりくるものが思いつかない。後回しにしても問題ないと判断し、新規作成を選択する。
 僕はキーボードに手を置き、ゆっくりと息を吐き出した。今日あった様々な出来事が頭の中を去来し始める。自分の中でこれらを整理するためにも、早く仕上げてしまわなければ。
 勝手だということはわかっていた。水無瀬を強姦し、江里佳を傷つけた僕が、何事もなかったように言葉を連ねていていいのだろうか。いいはずはない。でも手を止めることは出来なかった。僕は熱に浮かされたように、指を動かし続ける。心は恐ろしいほどに凪いでいた。
《俺は叫び出したくなる衝動をぐっと堪えて、最後の頭痛薬を飲み込んだ。》
 まるで自分だ。僕は苦笑した。でも仕方のないことなのだ。僕にとって文章とは自分自身を映す鏡で、登場人物には必ずと言っていいほど自分が投影されている。経験したことしか描写できないとは言わないが、僕が作り出している以上、僕の経験の延長線上にあるのは間違いなかった。
 僕は自分の作り出した人間である「俺」の目を通して、頭の中に作り上げた世界を見る。視覚だけではなく、聴覚や触覚も使う。僕の声は「俺」の声になり、それが並べる言葉で白い画面を埋め尽くしていく。
 僕は一度も休憩を取らずに書き続け、空が白み始める頃に最後の文章に句点を打った。深く息を吐き出し、椅子の背もたれに体を預ける。ずっと画面を見つめていたせいか、目の前が少し霞んでいる。僕は目を閉じて、深呼吸を繰り返した。
 とりあえず、小説は完成した。残る問題は題名だ。特にいいものが思い浮かばないから、辞書でも見てみようか。僕はだらしない姿勢のまま、机の引き出しを開ける。手探りで電子辞書を探すが、僕の手が触れたのは辞書ではなく一枚の写真だった。僕はそれを机の上に投げ出した。
 江里佳と僕が二人で映っている写真。昨年の文化祭のときに撮ったものだ。随分と昔のことのように感じるが、実際はあれから一年も経っていない。
 その短いはずの時間を取り戻すことは、もう出来ないのだろう。だって僕は知ってしまった。誰にも顧みられないことの苦痛と、それを癒すために僕が出来ることを。
 僕はたった一日で、作り変えられてしまったのかもしれない。
 僕はゆっくりとズボンの前をくつろげて、硬さを持ち始めた性器を右手で包んだ。上下に動かして暫くすると、先走りが溢れてくる。それを絡めるようにして扱くと、毒を飲んだような甘い痺れが走った。
「江里佳……」
 譫言のように言うけれど、脳裏に浮かんだのは水無瀬の顔だった。水無瀬の声が耳元で谺している。初めて味わった媚肉の感触が蘇った。熱を持って僕を包み込む繭のようなもの。それを塗り潰すのがこの行為だ。熱が腹の下に溜まっていく。僕は本能に導かれるまま、手の動きを早めた。
 微かな呻き声を漏らしながら、欲望を放出する。白く濁った液体が机の上の写真に散らばって、江里佳の姿が見えなくなる。
 写真を汚した精液は、まるで白い薔薇の花弁のように見えた。


 その三時間後、僕は文芸部の部室の前に立っていた。
 僕は腕に抱えたB5の紙の束に目をやりながら、そっと部室のドアを開けた。今は朝七時だ。恐らく誰もいないだろうと思ったのだが、窓際に人影がある。逆光でよく見えないが、襟首辺りで切り揃えた髪や、すらりと伸びた手足でおおよそ誰であるかはわかる。
「早いんですね、先輩」
 窓際の人影――水無瀬が振り返り、悪戯っぽく笑った。
「ああ。水無瀬こそ、早いな」
 彼女は昨日のことをどう思っているのだろうか。全く寝ていないせいもありぼんやりした頭の片隅で、一瞬だけそう思った。水無瀬がゆっくり僕に向かって歩いてくる。
「村山先輩がここに来るんじゃないかな、と思って」
「僕が?」
 彼女は僕の目の前に立ち、挑むように僕を見上げた。
「先輩と私は、きっと同じだと思ったから」
 そう言って彼女は、僕の手から小説を取る。そのあと軽く首を傾け、悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「新しい小説、書けたんですね?」
「うん、まあ……」
『Paranoid Rose』という題名が書かれた表紙を、水無瀬が白い手で愛おしそうに撫でた。
 これは、義理の姉に恋焦がれていた男が、彼女に良く似た女に自分の欲望をぶつけてしまう。女は男が自分に他の人を重ねていることを知りながらも、彼女の心を満たすためにそれに応じてしまう。そんなストーリーの短編小説だ。僕の現在と繋がっているのは明らかだ。水無瀬はそっと紙の束を机の上に置き、ふふ、と笑った。
「そういえば、先輩。昨日のあれは酷いと思いますよ」
 水無瀬はゆっくりと僕の頬に手を伸ばす。彼女は親指の腹で僕の唇をなぞってから、どこか蠱惑的な表情を浮かべた。僕は逃げたかった。昨日のことを水無瀬に追求されたら、逃れることは出来ない。
 しかし彼女が口にしたのは、僕の予想とは違う言葉だった。
「酷いですよ。私のことを抱いてるのに、木下先輩の名前を呼ぶなんて」
 僕は何も言うことが出来なかった。自分が無意識に江里佳の名前を呼んでいたことに気付いていなかったからだ。水無瀬はいきなり僕に顔を近づける。シャンプーか何かの匂いなのか、薔薇の香りがふわりと漂ってきた。
「ねぇ、先輩は昨日のこと、どう思ってるんですか?」
「どうって……」
 簡単に言い表せたら、苦労なんてしない。僕は小さく溜息を吐いた。精神的にも肉体的にも満たされたような気分になったが、それを口にするのは憚られた。
 そもそも水無瀬はどんな言葉を期待しているのだろうか。彼女の顔色を窺うが、何もわからなかった。
「そんなびくびくしなくても、本当のことを言ってもいいんですよ? だって昨日のことは、全部私が仕組んだことなんですから」
 僕は目を見開いた。水無瀬は制服のポケットから見覚えのある箱を取り出して、僕の目の前で何度か振った。それは数日前に僕が買ったはずの頭痛薬。水無瀬が隠していたのだと、言われなくても理解することが出来た。
「村山先輩が、苛立ちを鎮めるために頭痛薬を使っているのは知っていたんです。本来精神的な痛みに使うものじゃないはずなんですが。一応きちんと効いてるみたいだったけど、私にはちょっと邪魔だったので」
 水無瀬は頭痛薬の箱を机の上に置いた。そして唇を舌で濡らしてから、歌うように話し続けた。
「あと、あのお砂糖もちょっと特別だったんです。先輩が、先輩を縛り付けているものから解放されるように、藪萱草(やぶかんぞう)を少しだけ入れたんです。忘れ草という名前でも呼ばれていて、苦しみからの解放って花言葉もあるんです」
 僕が砂糖を入れると言ったとき、水無瀬は「よかった」と呟いた。あれは僕が砂糖を入れて飲んでくれたからだったのか。けれど花言葉なんて結局はまじない程度の効果しかない。この場合は呪いだろうか。どちらでもいい。漢字で書けば同じことだ。
 僕は何も言えなかった。昨日のことは仕組まれたことだと打ち明けられても、既に頭が麻痺してしまっているのか特に何かを感じることがなかったのだ。
 怒りも、悲しみも、何も湧いてこない。
 水無瀬は手を後ろで組み、くるりと一回転した。それから僕の方に一歩踏み出し、楽しそうに言葉を紡ぐ。
「木下先輩を部室に呼んだのも私ですよ。村山先輩が私を抱いているとき、ちゃんとあの人のことを考えられるように」
 ――木下先輩のこと、汚してみたかったんでしょう?
 急に顔を近づけ、水無瀬が言った。その声は甘く、しっとりと濡れて僕の体に纏わりつく。僕は指先まで痺れてしまい、無言で頷くことしか出来なくなってしまった。
 彼女には何もかも見透かされてしまっているのだろうか。僕が自分の心の中に押し込めた気持ちにさえ、彼女は気付いていたのだ。水無瀬に対する嫉妬だけではなく、江里佳に対する欲望までも、水無瀬はわかっていたのだ。
 僕を弄んでいたはずの水無瀬に、不思議と憤りの気持ちは湧かなかった。それが何故なのかは、自分でもわからない。
「私も、先輩と同じなんですよ」
 水無瀬はそう言って、未だに動けないでいる僕のネクタイを器用に外した。紺色のネクタイが灰色の床の上に落ちる。
「水無瀬、何を……」
「だから、私は先輩と同じなんですよ。私にも汚してしまいたいと思ってる人がいるんです。それにその人、言葉で傷つけることも出来ないような、近くて遠いところにいる人なんです」
 水無瀬は、僕のワイシャツのボタンを一つずつ外し始めた。僕は水無瀬の言っていることを完全に理解することは出来ずに戸惑うばかりだ。
「その人に見てもらえないこと、対等に思ってもらえないことが一番嫌なんです。先輩もそうでしょう? もっとも先輩は、木下先輩以外にも自分を見て欲しいって思っているみたいですけど」
 欲張りですね、と水無瀬が笑う。顕になった僕の鎖骨に、水無瀬は優しく唇を寄せた。
「見てもらえないのが嫌だから、こうやって強引に自分を刻みこむしかないんですよ」
 鎖骨を吸われると、じんとした痛みが走る。僕の反応を確かめる水無瀬の瞳は、僕を見ているようで見ていないと思った。きっと彼女の言う「汚したい人」を僕に重ねているのだろう。
 水無瀬の言葉が全身に浸透していく。言われてみれば、自分もそうだったのかもしれない。僕は江里佳にこそ認められたかったのかもしれない。水無瀬が書いた『擬態する蒼』という小説は、部員の中では一番の人気作品だ。僕の作品は箸にも棒にも掛からなかった。江里佳は『擬態する蒼』に投票したわけではないと言っていたが、僕の作品を選んでくれたわけでもなかった。
 本当はそれが一番、悔しかったのかもしれない。
 僕の体に赤い痣を残していた水無瀬は、何かを思い出したように唇を離した。そして、花瓶に挿してある白薔薇を一輪手に取る。太陽の金色の光が水無瀬を縁取っていて、僕はそれに思わず見とれてしまった。水無瀬は花の香りを嗅ぎながら、勢い良くこちらに向き直る。濃紺のプリーツスカートがふわりと広がった。
「私たち、お似合いだと思いません?」
 僕は喉の奥で笑いが湧き上がるのを感じた。水無瀬がどこかうっとりとしたような目で僕を見ているのがわかる。確かに僕たちはお似合いなのかもしれない。
 しかし僕は逡巡する。本当に僕は江里佳本人に触れられないのか。水無瀬にしたように、無理やりに抱くことは出来ないのか。自分の中に問いかける。きっと僕には無理だ。江里佳を犯すことが出来るのなら、僕は昨日のうちにそれを実行に移していたはずだ。でも僕は乱暴な言葉を投げつけただけだった。僕は水無瀬がいる方へ、ゆっくりと足を踏み出した。
 水無瀬は薔薇を手に持ったまま、僕の首に腕を回した。蔦のように彼女の肢体が僕に絡み付いてくる。水無瀬は僕の耳元で、粘度の高い液体を思わせる声で囁く。
「――ねぇ、先輩。白薔薇の花言葉って知ってますか?」
 それなら、昨日のうちに調べた。白い薔薇には多くの花言葉があった。『心からの尊敬』『無邪気』『純潔』――この辺りが有名なのだろう。でも、水無瀬が言っているのはきっとそのどれでもない。僕と彼女は共犯者のそれのような、意味ありげな視線を交わした。そしてどちらからともなく、唾液を奪い合うような口づけをする。


『私はあなたに相応しい』――今の状況に、これほど丁度良い花言葉があるだろうか。

Paranoid Rose

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更新日
登録日 2020-07-20

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