ある日道を歩いていて、突然穴に落ちたという経験をしたことはあるだろうか。俗に言う落とし穴ではない。それは面白いもので、落ちたという感覚だけ味わえるのだった。自分は絶対に穴に落ちた、体が一瞬浮いた、それなのに気がついたら元の場所に立っている。足の着地点を失って背筋がぞくりとした感覚はあるのに、現実は何も起きていないのだ。自分が立っている場所も、今までどうやって歩いてきたかもわからなくなって、不安のあまりもう一歩も前に進めなくなる。通行人と目を合わせないよう、ひたすら下を向いて時をやり過ごす。一瞬でも足元が崩れた感覚が忘れられなくて、思い出しては怖くて口を閉ざす。誰にも助けを求められずに、また反面、いつも「誰か助けて」と叫んでいる。心のなかで。無条件で助けてもらうことを期待したまま、彼女は今もなお、底無しの穴のなかで生きている。

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2020-07-19

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