僕が清美に会ったのは

カイル

 各停しか止まらぬ小さな駅。そこから少し歩いたところの小さなビル、そこへ毎日通うことになろうとは、まだ青年の域を出なかったあの頃の僕なら決して信じなかっただろう。

 一旦からっぽになった僕だけど、ルネビルの空間で今はそこそこ機能している。

 今、僕がここにいる、その成り行きを聞かれたら、何から語ればいいのだろう。

 清美だ。

 やはり清美のことを語らずにはいられない。

 少し長くなるけれど、聞いてもらえたら幸いだ。

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 僕が清美に会ったのは、にわか雨の中だった。

 唐突な大粒のにわか雨。最初、清美は僕の視界にありながら、その存在は呼吸をしていなかった。

 清美は道路脇に立っていた。女だとは思わなかった。人間だとすら思わなかった。

 いわゆる、あれ、だ。道路交通人形。交通誘導人形。工事中、道路脇で交通整理の一旦を担う、あれだ。腕だけをひたすら振っているあの人形だ。下半身は固定され、手だけ動かして旗や誘導棒を振っている、あれだ。

 彼女は、どしゃぶりの中、規則正しく腕を動かしていた。突然の雨に新しいスーツが濡れることを気にしながら両肩に苛々を貼り付けたように歩いていた僕は、その規則的な動きに一瞬安らぎを覚えた。

 どしゃぶりにもかかわらず、そのとき街は静かだった。音が消えた白黒映画のように街は静かだった。凄まじいほどの雨音がもろもろの音をかき消し、見事なほどの静けさを作り出していた。

 僕は信号に向かって真っ直ぐ歩いていた。

 はっくしょん!

 人形がくしゃみをした。機械的な動きは止めぬまま、くしゃみをした。

 なんだ、人間か。

 僕はえらの張った大きな顔に焦点を合わせた。

 顔の大きな男だと思った。顔の大きさがより人形らしく見せていたのかもしれない。男が顔に雨を這わせ、機械のように規則的に腕を振り続ける様子を見る僕は、無邪気な顔をしていたに違いない。感動にも似た小さな衝動、見つめずにはいられない衝動があった。

 くしゃん、くしゃん、くしゃん、くしゃん。男は立て続けに4回くしゃみをした。それでも規則的な腕の動きに狂いは生じなかった。

 ご苦労なことだ。

 その人間が、ただ立っているだけで、いや、ただ腕を振り続けているだけで与えた衝撃…それを踏みつぶすように、僕はメガネを中指で押し上げ、踵に力を入れて歩く速度を速め、通り過ぎようとした。

 と、男の黒目だけがすーっと動き、僕をとらえた。白目はそのままで黒目だけがすーっと動いたような不思議な動きだった。

 その時、立場が逆転した。檻の中の動物を見ていたつもりが、檻の中にいたのは僕の方で、見ていたはずの動物が外で自分を見ている、そんな感じだった。

「危ないよ。こっちを歩いて」

 その口が動いた。がっしりした顎の割に肉の薄いくちびるが動いた。

 女…か…。

 女だ…。僕は確信した。

 僕はほとんど驚愕の視線で、その存在を見た。色を失った街にその存在だけが、強烈だった。

 女…か…。僕は何度も、女か…とつぶやいた。

 そして視線を離せなくなった。胸の鼓動が速くなった。

「はやく行って」

 彼は、いや彼女は、しっかりと、しかし静かに言った。

「あ…はい…」

 僕はうなづき、足早に一ブロックほど歩いた。

 動揺していた。今まで感じたことのない説明のつかぬやっかいな感覚が僕を包んでいた。

 もう一ブロック歩いて振り返った。もう顔は見えなかった。腕を振る、その動きだけが視界の中で揺れていた。

 しばらく見つめていたが、僕はゆっくりとその存在のもとへ戻った。初めて長靴を履き、水たまりにパシャン!と入る、そんな感動だった。初めてアマガエルを手にのせる、そんな感動だった。

 僕はゆっくりと女のもとに行った。

「仕事が終わったら、食事でもしませんか?」

 彼女は再び黒目だけを動かし、星の子でも見るように僕を見て言った。

「明け方になるよ」

 そのころ僕は夜が長い街にいた。いや夜が深い街だ。一旦、その光を剥ぎ取ると、夜の底は計り知れない。時はスピンし、やがて穏やかになり、再びスピンする。意味無きスピンは止まっているのと同じはず。なのに何かが壊れていく。目には見えない何かがだ。

 仕事の時間は安らぎだった。僕にはある種の才能があった。だから、大した苦労もなく、仕事はこなせた。その意味合いも大して考えなかった。ゲームと同じでしている間は余分なことを考えずに済む。

 鏡を見るときは別だった。僕は鏡を見るのが好きだった。鏡の中では時間は止まって見えた。僕が動いてても止まっている。妬けるほど穏やかに止まっている。現実の喧騒には知らん顔で、鏡の中はいつもひんやりしていた。

 僕は幸せでも不幸でもなかった。実のところそんなことを考えたこともなかった。生活とはあてもない散歩のようなもので、小さな驚きや小さな不快さはあっても、感動にはほど遠かった。今になって考えると、「苦」や「痛み」を感じない、それだけで幸せなことだった。

 恋愛も生活に色をつけはしなかった。ジムでのトレーニングとどれほど違わない。ルーティーンと同じで新鮮味がなかった。

 そんなとき、清美に会った。僕にとって色を失った街に、その存在は強烈だった。

 彼女を見た時、しかも人間であり、しかも女であると気づいた時、いや気づく前から、何かに似ている、と既視感を持った。

 何かに似ている。

 何だろ…。

 思い出せずに苛々した。

 高校時代の友達? どこかで見たドラマに出てきたのか? 何だ、何に似てるんだ。

 このやっかいな動揺ともいえる感覚が腹立たしかった。けれど、新鮮な感覚だった。その頃、何一つこだわりを持てぬ僕だったから、スリリングですらあった。

 清美といて僕は雄弁になれた。僕の話を清美は静かに聞いてくれた。そう、静かに…だ。清美には不思議な静けさがあった。その静けさは僕を雄弁にした。

 僕はつらつらと思いつくことを言葉にした。いや、語ったのだ。清美に語ったのだ。僕は長い間、人にものなど語らなった。「しゃべり」や「言い」や「うなづき」はしたが、「語ったり」はしなかった。

 脱皮した。僕は思った。清美といて僕は脱皮した。

 語ることは確かにカタルシスだった。胸に詰まった砂粒がひとつひとつ取れていくようでもあった。清美に語って、語って、一粒残さず語って、全部の砂粒がなくなるころには僕は浮き上がれるかもしれない、そんなふうにも思った。

 僕は清美といて優しくなれた。自分が楽になると相手にも優しくなれるのだ。

 僕はレイコさん、のことすら話した。レイコさんが時々見せた不思議な顔、ピュアなる、純粋極まりない、正真正銘の「うるさがり」の顔のこともだ。何をしていたのか定かではないが、レイコさんが突然立ち上がり一歩下がり腰に手をあて、ひどく客観的に僕を見たときのことも話した。荒れ放題の部屋を仕方なしに掃除する時のような後始末の気だるさ…レイコさんにはそんなのがあって、僕はひどく悲しかった、と。そんな少年時代のトラウマさえ話した。

 あなたのママだね、レイコさんって。

 清美が言った。

 そうだよ、僕は答えた。

 お金はいいのかい?

 清美が出ていくときいつも僕は聞いた。何かの代償としてのオファーなどでは決してなかった。他の相手に僕がそう言ったとしたら、それは何らかの代償にとられても仕方ないだろう。けれど清美に対して僕は自然に聞いたのだ。

 自然に…そう自然にだ。僕の方が金を持ってるなら、彼女に少し移るのがフェアってもんだろう、そんな感じだった。水位の高いところから低いところへ水が流れる…そんな感じで、お金はいいのかい?と聞いたのだ。

 お金ね、清美はつぶやいた。

 いらないね。

 そして彼女は黒いバックパックを肩にかけ、出ていった。最初はその唐突にも見える様子に、怒らせてしまったのだろうか、と思った。けれどそうではなかった。彼女はただ出るべき時間になったから出ていっただけだった。

 彼女には花や宝石など似合わない、と思った。残酷な意味での似合わない、ではない。そんなものの輝きを微々たるものにしてしまうだろう存在感と強さがあった。けれど、それと、彼女が花や宝石を欲しがっているかもしれない、と彼女側に立って考えてみる、というのは別物のはずだった。僕は最初から、利己的な人間だったのだ。自分の思い込みを相手に対する思いやりだと勘違いしていたのだから。

 僕の思い込みにしても、清美の静かな強さは僕の中で一人歩きし始めていた。

 僕はどこにいても、子供のころ描いた抽象画みたいだった。36色のクレヨン全部使って塗りたくった抽象画。混然…。混沌…。何かに憑かれたみたいに掌でザッザッザッザッと擦ると、色は混ざり合い、僕の皮膚の一部になる。画用紙も手も混沌色だ。けれど、洗うと結構落ちていく。結構さらりと。この画用紙と僕の関係が、僕と僕を取り巻く「街」や「人」との関係だった。

 人生の反CM性。そんな言葉が浮かんだことがある。たとえば高級外車のCM。車にもたれかけ、あるいはハンドルを握り、サングラス越しの景色を見る。走るのは田園でも、高層ビル街でもいい。サングラスの奥から上目づかいに、This is life! と言えばいい。でも、人生はそういかない。それが人生の反CM性だ。

 一見CMの中の人物に似かよって見える僕に女の子たちが寄ってきた時代もあった。シゲ曰く、リュウには天は二物を与えたな、だ。二物とは何かと考えた。金とルックスか? シゲは言った。いい加減さ、と、いい加減さ、だよ。

 確かに僕はいい加減な人間だ。そして物事は薄味が好きだ。物事はサラッとが一番。さらりさらり…この感覚だ。

 けれど清美に会って、このサラッとの感覚のままでずっといていいのだろうか、そんな疑問が生まれた。僕にとっては非日常的に深い疑問の誕生だ。

 僕は清美に抱きかかえられて眠るのが好きになった。実のところ僕は横幅はないにしてもどちらかと言えば大柄で手足も長い。清美はひどくがっちりしていたにしても僕よりは小柄だ。客観的には僕の腕の中に清美はいたわけだが、僕はいつも清美に抱きかかえられている、そんなふうに感じた。

 ある日、僕は清美の腕の中にいて、性的な衝動の代わりに不思議な感動を感じていた。清美といてひどくゆったりした気分になっていた。

「ラッセル・バンクスって知ってる?」

 清美はその四角い体を起こし、静かに聞いた。

「バンクス? バンクスって銀行かい?」

「違う。小説家だよ」

「ああ、小説家か」

「彼の作品にちょっと変わったのがあってね、タイトルは、直訳すると、サラ・コール…あるラブストーリー…」

「サラ・コール? 風薬みたいな名だな。何だい、そのサラ・コールってのは?」

「それはこんなふうに始まるんだ」

 清美は目をつぶり顎をあげた。

「そのころ、僕は凄いハンサムで、サラはひどく醜かった。実を言うと、彼女、僕の知ってる中で一番醜い女だった。…こんなふうにね。…似てるって思ってない?」

「似てる?」

「あなたが思っているだろう、あなたとあたしの関係に」

「僕たちにかい?」

「そう。…その男とあなたが、あたしとサラが」

「いや、ちっとも思わないな」

 全く馬鹿げているよ、とでも言うように、僕は言った。正直思わなかった。清美は醜くはない。ただ、見かけが特に美しくはないだけだ。一般的な美の感覚に合わない。でも、僕にとって清美は何かがひどく深く美しかった。

 清美は少し笑った。小さな歯を全部見せて笑った。その笑顔が僕には意外だった。意外性は「美」につながった。ときめきに似た感覚すら持った。僕はきっと優しい顔をしていたに違いない。

 愛してるのかい? シゲが聞いた。

 僕自身、わからなかった。ただ、彼女と一緒にいれば、忘れていた何かを思い出せそう、そんな気がした。

 たくましい清美は、依然、道路脇で手を振ったり駐車場で車の誘導をしていたりした。

「あなた、今のあたしに興味を持ってる。道路に立つ男みたいなあたしが好きなんだよね」

 違うよ、と完全否定はできなかった。清美に嘘はお見通しだ。そこで僕は考えた。頭がビーンと音がするまで考えた。

「清美は似てるんだと思う」

「何? 何に似てるの?」

 その瞳が小さな期待感に輝き、希望と不安が揺らめいた。

 うん…。何かに似ている。確かに清美を初めて見た時、デジャビュ感を持ち、ずっと考え続けていた。笑ってもいなければ怒ってもいない…限りなく無表情で雨の中、誘導棒を振り続ける清美は何かに似ていた…。

「何? 何に似てるの?」

 うん。

 僕は考え、考え、考え続けた。すると少し見えてきた。思い出せる…そんな気がした。

 ああ、そうか…。夕陽を受けていたあの時の…。

「ジゾウ…かな」

「え…?」

 清美は僕を見た。大きく開けた口の形だけがそのままポッと空間に浮いてしまいそうに口を開けて、僕を見た。

 清美はさ、海に立ってたんだ。海…海…海…青い海…。昔、僕が遊んだ海からの帰りにね。

 

 初夏の海岸だった。レイコさんは優雅に横になり、鼻歌を歌っている。僕はバケツを持って、はしゃいで岩場に駆け上がる。

 パパ、蟹をつかまえようよ。

 リュウ、こっちに来いよ。砂で城を作ろう。

 お城を? パパ、どうやって作るの?

 砂でさ。砂で作るのさ。

 でも、蟹を捕まえたいな。

 蟹より城だ。

 サングラスのレイコさんが上半身を起こし、手招きする。

 こっちいらっしゃい。リュウ、こっちいらっしゃい。

 うん、でもさ、パパがお城作るんだって。

 えっ?

 ママ! パパが砂でお城作るんだって!

 お城? いいから、こっちへいらっしゃい。

 レイコさんは苛々して腰に手をあてる。

 父はレイコさんにちらりと目を走らせ、困ったように微笑む。

 リュウ、じゃ、砂ダルマにしよう。

 えっ? 何、パパ?

 砂ダルマさ。それならすぐできる。

 砂ダルマ?

 そうさ、砂ダルマだよ。冬は雪ダルマ、夏は砂ダルマさ。

 父はそう言ってクックッと笑う。そう言って、僕にではなく一人で笑うのだ。

 パパ、でも作ってもすぐ壊れない? 僕、壊れるなら作らない。

 違うさ。水をかぶって解けたとしてもさ、それは大地に戻るだけなんだ。うん、そうだ、大地に戻るんだ。

 何? ダイチニモドルって何?

 ちょっと難しいな。大地は土だよ。土の広がりだ。

 砂もダイチ?

 うん、砂も大地の一種だな。

 じゃ、砂ダルマは解けて、ダイチになるんだね、解けてもそれはそれでいいんだね。

 そうさ、リュウ、そうさ、それはそれでいいんだよ。

 けれど、結局レイコさんに呼ばれて行き、僕たちは砂ダルマを作らなかった。

 その海からの帰り、僕は海沿いに不思議なものを見た。

 パパ! パパ! 大声をあげ、運転している父の注意を引いた。

 それは道路際の海にすくっと立っていた。逆光を浴びた二体の地蔵。父は車を止め、僕は走った。父も母もひどく日光を浴びたせいかぐったりしていて車から降りようとしなかったが、僕はひどく興奮していた。作ろうとして作れなかった砂ダルマが突然現れた、そう思えたのだ。

 それは等身大の地蔵だった。ざらざらとした地蔵だった。まさに砂の粒で作ったような荒い地蔵だった。一体は顔が崩れていたが、顔のある方は、そちらも少し鼻が欠けていた気もするが、とても穏やかな顔だった。満ち潮でか地蔵は足元まで水に浸かっていた。夕陽を受けた地蔵は神々しかった。それでいて人間味があった。実体のある何かだった。

「体が揺らぐほどの感銘を受けたんだ。それはさ、単なる地蔵じゃなくて、僕と父が作り損ねた砂ダルマに思えたんだ」

「あたしがそれに似てるの?」

「うん、似てるよ。清美、似てるよ」

「どんな顔だったの?」

 僕は目をつぶった。正確に思い出そうとした。

「ひどく…穏やかな顔さ。表情があってないような…笑っていて涙ぐんでるような、そんなひどく穏やかな顔さ」

「そう…」

 僕は清美の平坦で凛とした美しさに胸をうたれた。

 僕はその時まで、そう、大の大人になってからも、可愛がっていた金魚が腹を浮かせているのを見たとき以上の切なさは感じたことがなかった。レイコさんが突然いなくなったときも、さほど衝撃を受けなかった。父が入院した時は心配はしたが切なくはなかった。けれど、その時の清美の目に僕は胸をうたれた。僕は切実な淋しさを感じた。清美を愛してる、と言い切れる…そんな気にさえなった。

「お地蔵さんに似てていいことあるのかな」

「そりゃあるさ。それはただの地蔵じゃなくってね。考えてもごらん。海、海、海、広い海…」

「で、感じたんだよね、大地を」

「うん」

「そのとき見たお地蔵さんにあたしが似てたから、不思議とあたしに懐かしさを感じた…ってそういうことだよね」

「とにかくさ、清美にはあるんだ。そのとき感じた大地的な何かがさ。地蔵はその象徴さ」

 清美は僕を見つめ、見つめ、目をつぶる。まぶたの上の窪みがピクピク揺れ、夢の中で瞬きしようとしてるみたいだった。額にあてた指先をツーっとこめかみに持ってきて大きく息を吸い、目を開く…とその瞳はもう僕を見てやしなかった。

 僕はマテリアリスティックな人間だ。金も物も嫌いじゃない。金のパワーに意味を見出す。

 金ではいろんな物が買える。だから、薄い血の海に記念碑みたいに物を並べ立てる。そうすると安心する。ひどく安心する。

 清美は僕の周りで唯一のノンマテリアリスティックな存在だった。マテリアリスティックな僕がノンマテリアリスティックな清美と付き合うのは、自己否定か自己啓発か…それとも何かへの挑戦なのか決めかねた。

 朝起きて、身支度を整えオフィスへ向かう。大理石が美しいオフィスビル。夕暮れになればガラスに映る僕の顔、僕の体。

 今夜も清美は仕事だ。物を書く人間は肉体労働がいいんだ、ここしばらくは肉体労働って決めてるんだ、清美は言う。清美は小説家志望だ。字はそれだけでは無昧乾燥だけど、集まって行進し始めれば、しっかりした足跡になる、それって肉体労働の現場に似てるんだ、そう言う清美は森閑と清らかだった。

 清美のいないとき、僕は一人で街を歩いてみたりする。歩いてバーに入り、一人の女に出会ったりする。年齢不祥に美しい女。指には四角いエメラルドの指輪をはめている。マニッシュなスーツもエメラルド色なら、瞳もグリーン。美しいレンズだ。一見無防備な退廃美を纏っている。

「お付き合い願える?」

「妻子持ちですよ」

 ふふふふふふ…。

「嘘ですよ。でも付き合ってる女がいるんです」

「あら、そう? 金持ちの?」

「いえ」

「じゃ、ハンサムな髭の濃い子とか?」

「いえ」

「じゃ、ペットのような女の子?」

「そうでもありません」

「まさかほんとの恋愛ってわけじゃないでしょう?」

「そんなタイプには見えませんか?」

「見えないわね。この街にいると、人を見る目だけは鋭くなるの」

「こんなバーにいるとかな」

「そうかもね」

「僕の何が、純な恋愛をする男に見えないのでしょう?」

「雰囲気って言ったらあまりに月並みかしら。もっと感覚的な何か…。匂いね」

「匂い?」

「そういう風に生まれ、そういう風に育ったのね、あなた」

「どういう風に?」

「そういう風によ。ねえ、あなたにふさわしいほんとの街へ行きましょうよ」

 僕は安堵感に浸る。この女は同類だ。

 冬だというのに外の風は生暖かい。この女といて安堵はしてもなぜか虚しい。

 清美に会いたい、と思う。泥水の中に手を入れ、ぎゅっと握りつぶす。指の間からぎゅうとぬめり出る泥の感触…。ひどく心地よく、生々しい魅力…そんなことを思いながら、清美に会いたいと思う。

「僕はいつか彼女に捨てられるんじゃないかって恐れてるんです。何しろ水栽培ですから」

「ミズサイバイ?」

「ええ、地に根ざしてない水栽培。最後の頑張りなど見せることなく、突然しんなりと生気を失うんです」

「そう? あなた、きっと美しく老けていくわよ」

 もし、そうだとしてもそれはただそれだけのことだろう。僕にはあるべきはずのものがなぜか備わっていない、ひどくそんな気がする。

 ある日、わけもなくよたものに殴られた。殴られ血だらけになった。鼻血が噴き上げ、腕は肩から上へ上がらない。膝にはどうやら水が溜まっている。尻の打撲が直るのはいつのことか。

 鏡に映った自分を見て、僕は唖然とした。痣だらけの顔、背中…全く唖然とした。そして思った。価値が半減しちまった…と。手から不注意に落とした梨や林檎のように、僕の価値は半滅した。

 包帯を巻きながら、清美がボクシング映画の話を始めた。ロッキー、レイジングブル、ゴールデンボーイ。

「ゴールデンボーイ?」

「ウィリアム・ホールデンの出た映画だよ。一流のバイオリン弾きを夢見る青年が、金のために出たボクシングの試合で相手を殺してしまうんだ。ハンサムで力もありかつ繊細、そしで悲劇を背負うんだ」

「なんたるヒーロー」

 僕は言う。包帯を巻き終わった僕の手をそっと包んで清美は言う。

「リュウはほんとうはヒーローになりたいんだね」

 うん、僕はうなづく。

「でも今のままじゃ駄目だ。前に読んだSFでね。人間からやる気というやる気を食べちゃう虫がはびこる話があってね。ビージーって呼ばれて恐がられてるんだ」

「どうしてビージーなのさ」僕は聞く。

「静かな夜なんかにね、ビージー…って音が聞こえるんだ。体の中でね、虫がやる気のもとを食べてる音で…」

「やる気のもと?」

「そう」

「それって冷蔵庫みたいな音?」

「違う。音って言うより響きだね。小さな地響きみたいな」

「体の中から地響きかい?…で、その虫が食うのは、やる気かい?それともやる気のもと?」

「さあ、どっちだろ」

「やる気なのか、やる気のもとなのか…。もとを食われたら、やる気はもう二度と出てこない。けど一個や二個のやる気なら。また違うやる気が出てくるかもしれない」

「そうだね」

「そうさ、だからさ、やる気かい? やる気のもとかい?どっちなのさ」

 清美は考える。

 ビージーか…。確かに僕にはやる気がない。湧き出るようなやる気ってものがない。全くない。使命感や目的意識もない。「やる気」のキャンバスはぼおっとした白だ。だとしたら、僕は生まれながらのビーシー養殖者なのかもしれない。

「リュウ」

 清美が僕を見る。僕は清美を見る。見ながら、心で問う。溺れかけたら僕を支えてくれるかい?支えて岸まで泳いでくれるかい?

 ある日、僕は清美と街へ出た。腕を組んで街に出た。

「風は流れる…」

「えっ?」

「見たい?」

 清美は止まっている一台のバスを指した。

 それはバスの側面に描かれた芝居の広告だった。

「風は流れ、海は漂う。どこかで聞いたな、こんな詩」

 ふと思う。僕はただ眠っているだけなのかも、と。目をつぶり、あの地蔵に少し似たような顔をして…。あの荒い砂でできたような地蔵。清美に似た地蔵。悟りながらもどこかに希望を捨てずにいる、そんな表情…。

 あの日に戻りたい…。そんな陳腐なこと思っていたわけじゃない。海に膝までつかり、ダイチって何だろって思ったあの頃まで戻れたら、回し過ぎて弾け跳んだバネが元に戻るかも、なんてそんな甘いことを思ってたわけじゃない。

 なぜなら…僕は「洒落た」ってのが好きなんだ。日常の中の軽さ。楽と快。隠しストライプの絹入りスーツ。タイのブランドだって決めている。あくせくすることはない。比較的楽な仕事で楽に金も手に入る。

 いつかクレイジーな男が、片手で僕を指し、片手で天を指し、おまえらがのさばってるからこの世が駄目になるんだ、緊張感がないんだ、と怒鳴った。まあまあそんなに怒らずに、と僕は思った。今の世界で傷つかずに生きること、それは傍観者に徹すること。それが出来れば生きられる。ダメージ受けず、生きられる。ビージー養殖能力は傍観者に組み込まれた優れ物なのかもしれない。

「リュウ」

「ん?」

「さよならだ」

「仕事に行くのかい?」

「ちがう。さよならなんだ」

 僕は驚いた。それはあまりに突然だった。

「リュウはね、ナルシストだっていいんだけど、自分にも対しても人に対しても持ったイメージだけ転がし、楽しんでる。人と人が一緒にいるってそんなもんじゃないはずだよね。でも何を言ってもわからない」

 僕は清美を見た。真実か、事実か…。どちらにしても僕は認めたくなかった。

「いつリュウの前から消えようかってずっと考えてた。覚えてる? あの日、リュウが声をかけてきた日。ハンサムな男がどうしようもなく醜い女に声をかけた、そんなイメージを持ってたよね。でも違う。確かにリュウはそれなりの風情で歩いてきた。でも私には見えたんだ。雨に濡れた拠り所のないちっぽけな動物が小さな尻尾を垂れて足元にやってきたのがね。リュウは救いを求めてた。自分でガチガチに作り上げたイメージから抜け出る救いをね。でもね、救済者にはなれないよ。子犬でも抱き上げると、その鼓動が聞こえる。自分以外の存在を愛することを知ってる。でもリュウは知らない。だからあたし、救済者にはなれない。私は海に立ってたお地蔵さんでもなけりゃ、ビージーをやっつけるつわものでもない。でも、今まで離れられなかった。だって雨の日に拾った仔犬、震えている仔犬捨てられないよ」

 僕はうなだれた。まさに仔犬のようにうなだれた。清美は軽く僕の手を握り、僕を少しの間見つめた後、背を向け、ゆっくり歩き始めた。僕には止める言葉もない。

 清美! 叫びたいが叫べない。去っていく清美の四角い後ろ姿。

 その時ふっと空気が揺らいだ。清美の後ろ姿のちょうど耳の高さのあたりをすっと輪が横切ったように思った。

 涙か、と思ったが、涙は出ていなかった。

 今までも清美といるときに何度か揺らいでいたその存在。小さな半透明の輪。目をこすってみたり、メガネのときはメガネを拭いてみたりした。清美に言うたび、清美の肩に少しだけ力が入るのがわかった。見えるんだ、リュウに見えるんだね、彼女は小さい目を見開いた。

 もしも私がいなくなって、またそんな輪が見えたとしたら、触ってごらん。リュウの心が静かだったら、触ってごらん。危険じゃないから。少し前に清美が言った言葉だった。

 見えたよ、どうすればいい? そう言って清美を引きとめたかった。けれど、清美の何一つ飾り気のない潔い後ろ姿に、僕は何も言えなかった。

 僕はただただ駆けていって尻尾を振りたかった。

 どれだけ時が過ぎただろう。僕は街でいつも清美を探した。道路工事があるところでは胸が高鳴った。建築現場のヘルメットの中にも清美を探した。駐車場でもだ。

 ネットに埋もれた情報もくまなく探した。もともと僕は情報のプロだ。得れない情報なんてないはずだ。

 けれど、清美は消えてしまった。

 いつか小説家になってテレビにでも出てくれないか、と願った。ほんの少しだけ洗練された清美が相変わらずの無表情で、けれど質問には答えていく。新刊の本について答えていく。

 けれども現実は、よくあるドラマの脚本のように最後に主人公の一人が有名になってもう一人を語る、という結末にはならなかった。

 清美は消えた。

 清美は小説が書けたのだろうか。清美は今、どこで、どんな仕事をしているのだろう。僕には想像できない。僕が清美といたときは、自分の気持ちの分析に忙しく、清美のことを知ろうとしなかった。

 あるとき立ち寄った本屋で何気なく新刊の帯が目に入った。タイトルはアンディ183号。帯に書かれたのは

『全く183号には手をやいた。アンドロイドの特徴をうまく隠していたからだ。183号は極々普通に生活し、人間と同じようにセックスもした。海にノスタルジックな思いをはせたりもしたが、そんなのはほんのたまのこと、たいては洒落のめして街を歩いた。』

 どきりとした。僕はひどくどきりとした。

 裏の作者の言葉のところにはこうあった。

 この作品に特にモデルはいません。そうは思わない人がいるかもしれませんが、決してその人がモデルではないのです。けれど、もしいるとしたら、その人は少し変わっていて、自分がひどくルックスいいと思いこんでいるでしょう。そしてそれゆえ、自分は中身が空っぽで血が薄く、やる気がないのだ、と思っているでしょう。つまり、少し愚かで哀しい人なのです。

 作者は山路兼三郎とあった。

 カバーの裏に写真があった。顎鬚を生やした男だ。清美のはずがない。長い間、僕は本を手に動かずにいた。店のアルバイトの子が、声をかけた。「確か、日曜日に、4丁目の書店でサイン会があるはずですよ」

 購入したばかりの「アンディ183号」を近くのカフェで読んだ。内容は心理描写が細かいSFものとでも言おうか、一体のアンドロイドの冒険談だ。風変わりだが、さほど目新しくはない。本の帯以上に清美と作品のつながり、僕と作品のつながりは感じられなかった。

 その夜、帯に書いてあった文章がどうにも頭を離れなかった。

 日曜日、僕はサイン会場へ向かった。実物の山路兼三郎はやはり清美とは似ても似つかない男だった。髭を生していて、男としては美形の部類だった。

 僕の番が来た時、男は営業用の微笑みを浮かべ、名前は?と言ったので、清美に、と僕は答えた。どんな字ですか?と男は聞いた。

 僕は、山路さんは清美という女性を知ってますか? 山路さんの本が清美という女性を思い出させたので、と言うと、名字は?と聞く。僕は清美の名字を告げた。山路は首を傾げたが、僕をしばらく見つめ、ははん、というようにうなづいた。

「あなたで28人目ですよ」

「えっ?」

「自分がモデルじゃないかって思った人が」

「はあ」

「多分、その清美さん、とかがあなたの秘密を知っているのですね」

「秘密ですか?」

「この本の主人公とあなたの共通点をですよ」

「実を言うと…中身より、特にこの帯の文章が気になりました」

 山路は、口を少し歪めて微笑み、サインした本を僕に渡して言った。「あなただけじゃないですよ」

「お次の方どうぞ」 横に立っているアシスタントの女性が甲高い声を出した。

 28人目か…。

 僕のような男は結構多いのだ。彼らはこの帯を読んで、自分がモデルなのではと思い、内心、驚きと興奮を感じるのだろう。

 そしてまた時は過ぎていった。

 僕は悟った。清美は本当に消えたのだ。その頃になると、なぜか奇妙な安らぎすら感じるようになっていた。決して戻らない日々のことを写真を見ながら思い返す、そんな気分になれた。

 雨の中で誘導棒を振っていた清美。僕と真逆の存在だった清美。短い間にしても、僕はその存在を間近で見て、触れることができた。そのことに感謝しよう。そうだ、そのことに感謝しよう。愚かで哀しい人間に、愚かで哀しい人間だと気づかせてくれた、そのことを感謝しよう。

 あれ以来、輪は時々見えるような気もしたが、心の揺れに目を閉じると見えなくなった。

 大丈夫か…。僕は思った。心の迷いが輪となって具現化して見えるのか。自分は病んでいるのだろうか。

 ある日、混みあったカフェに入った。空いているテーブルは見当たらなかった。

「ここ、空いてますよ」声がした。

 それは隅のテーブルで、スカーフを髪に巻いた人物が手で自分の前の席を指していた。普段は相席は好まないが、その日はひどく疲れていたし、一時も早くコーヒーをすすりたかった。

「あ、すみません。ありがとうございます」 僕はひどく丁寧に言い、背中をかがめるようにして小さな椅子に座った。

 スカーフの人物は軽い微笑みを浮かべてすわっていた。スカーフは小さな動物の柄が規則性なくプリントされていた。熊か、ウォンバットか…。

「ここはね、オージーサンドがおいしいんですよ」

 メニューを差し出す仕草が限りなく静かで優しかった。

 そのあとはどちらも話さなかった。僕は少し口を開けて焦点のずれた目をしてぼんやりすわっていたと思う。コーヒーを2杯をかなりのスピードで飲み干し、それについてきた小さなスコーンらしきものを一口で飲み込んだ。

 深くため息をつき、目をつぶっていると、スカーフの人物が言った。

「あなたね、気が向いたら、このお店に行ってみるといいわ。おいしいコーヒーが飲めるわ。それとひょっとしたら、あなたが求めてるものが見つけられるかも」

 その声は深いテナーだった。

「僕はずっとある人を探しているんです」

「そうね。きっとそうでしょう」

 僕は男性に見えるが優し気で女の服をまとったその人物を見つめた。顔立ちは全く違うが清美と重なって見えた。彼女は僕の心が読める、そう感じた。

「相席ありがとうございました」お礼をいい外へ出た僕はカードを見た。

 カフェ ハーヴィ

 オフホワイトの紙に珈琲色の文字で印刷されていた。

 場所は僕が降りたことのない、確か各停しか止まらぬ駅のそばだった。

僕が清美に会ったのは

僕が清美に会ったのは

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2020-07-18

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