晴子
ざあざあ、と不規則な波音が流れる六畳の洋室で、ハルコの泣き声はひっそりとしていた。
三分半を終えた波音が、またおなじ周期でのおなじ振動を繰りかえしはじめる。もう少しで日が暮れそうだった。ハルコは泣きやまず、彼女の視線は、天井の梁に引っかけた縄と握りしめたカッター、お湯を貼った洗面器との間を狂ったように行き来している。「どっちがいいかなあ」「どっちがきれいかな」「どっちだったら、迷惑かからないかな?」
ハルコはバカだ。死んだあとの体裁なんて気にして、もうかれこれ三時間もこうしている。悪意でズタズタにされた望まないショートカットも、半袖のセーラー服から覗くむらさき色も、241人中239位も、なにも気にしないくせに、自分が死んだあとの世界だけは、一丁前に慮ってなんかいる。アホらしい。わたしはスマートフォンをずっといじっているけど、その中身も知らないままで死んでいこうとしているハルコは、ほんとうにバカだ。
ふわりとカーテンが凪いで、夕方特有の、まとわりつくような生温さが部屋を満たす。ハルコは目をほそめて、潮のにおいがするね、なんて言う。彼女は、自分の家が海とは程遠い場所にあることを忘れたのだろうか。ハルコは、段々と現実から離れていっているように見えた。窓の外を見る目はぼんやりしていて、彼女はほんとうに今、海辺のどこかに座り込んでいるのかもしれない、と思ってしまう。
ハルコが十七年間生きてきて得た評価は、「なにをさせてもダメ」ハルコが先日母親から受けた最後の言葉は、「死になさい」だった。
そうして素直に死にゆこうとしているハルコにわたしができたことは、動画投稿サイトで、海の音が録音されている動画を探してくることだけだった。ほんとうは、ハルコと一緒に海へ行けたらよかった。でもそれが絶対に叶わないことはわかっていて、だからわたしは、たった三分半でも、わたしたちが海を見ることができるようにと願った。
「チカ」
ふだん、語尾を伸ばして甘ったれたような口調でしゃべるハルコは、わたしの名前を呼ぶその時だけ、やけに明瞭な、凛と響くような声を出す。わたしの名前の短さと相まって、それは、風鈴が一瞬鳴らす繊細微妙な音に似ていて、煩かった蝉の鳴き声も一瞬だけ無かったことにしてしまう。ハルコは、いつのまにか泣き止んでいた。
「チカ」
ハルコが、ハルコより幾分か背の高いわたしを見上げて、うっすらと笑みを浮かべる。チカ、チカ、チカ。確かめるようにわたしの名前を何度も読んで、けれどそれを、わたしの名前じゃないみたいにわたしは感じていた。チカ。ハルコがこんなにも慈しむようにして呼ぶ名前の彼女は、いったいどんなひとなんだろう。スマートフォンを置いて、彼女が望むものを考えた。彼女はたぶん、自分の死をそれなりに惜しんで、でも自死を止めないような人がほしいのだ。それがハルコの望むチカで、十年来の友人で、でもわたしは、そうなりたくはなかった。彼女の死を惜しむ気なんて、さらさら、ないのだ。
「チカ」
「ねえ、ハルコ」
ハルコは驚いたようにわたしを見た。どしたの、と問わせる間もおかず、ハルコのほっそりとした薄幸そうな手に、自分の手を重ねる。
「自殺とか、やめない」
ハルコは目を数度瞬かせて、やわらかく微笑んでから、わたしの手を跳ねのけた。彼女の瞳に失望の色が浮かんでいるのを見て、あ、やっちゃった、という思いがわたし全体に拡がっていく。波音がざんざん揺れていて、蝉の声がぎんぎん鳴っていて、体育館で見た戦争映画のことをぼんやりと思い出した。浜辺に、焦げたような、無数の死体が転げ落ちている。
「なんでそんなこというの、チカ」
子供を諭すような口調でわたしを見上げるハルコは、手元のカッターをいっそう強く握っている。誰にも邪魔はさせないという意思をそこに感じて、わたしは身体の力が抜けそうだった。わたしがどんなにハルコのための言葉をつくすより、わたしの友達が死のうとしてるんです、たぶん今もう死んじゃってます、と警察に駆け込んだほうがハルコを救うには確実であるような気さえした。
「でもハルコ、死にたいなんて思わないでしょ」
「思う思わないじゃなくて、もうあたし、しんじゃったほうが、ひとの迷惑にならないんだよ」
「大人が死ねって言うから死ぬなんて、そんなの、バカらしくない」
「大人のいうことは、絶対だよ、チカ」
そんなの間違ってる。とは、言えなかった。生まれてからすべて大人のいうことに従って生きてきたハルコの人生を否定するみたいで、わたしにはできなかった。代わりにもう一度手を重ねて、振り払われても軽蔑されてもハルコの理想とする友人じゃなくなってもいいから、それでもハルコが死なないようにと強く手を握った。
「ハルコ、好きだよ。死なないでよ」
ハルコはわたしの手からそっと抜け出して、でも、やさしく笑っていた。「あたしも、チカが、好き。うれしいな、死ぬまえにこんな思いできるなんてね。生きてれば、それなりにはいいことってあるんだなあ」
「ばいばい、チカ」
ハルコがそう言って立ち上がるのを見て、わたしは、彼女が握っていたカッターを無理やり奪い取った。立ち上がった拍子に、洗面器に張っていたお湯がこぼれた。ばしゃ、と水がこぼれる音は、波の音にすこし似ていた。もうとっくに冷めていると思っていたそれはずっと熱くて、わたしの足に小さくても火傷を残しそうだった。カッターをロープにつきたてると、思ったよりも簡単に引きちぎれた。カッターは錆びていて、その瞬間からぼろぼろとくずれた。わたしがなにかしなくても、きっと彼女の自殺は成功しなかった。
「ハルコ」
彼女のすべての退路を絶ったのは、わたしだ。わたしがハルコを殺した。
彼女が死ぬためのなにもかもを壊してからようやく安堵して、振り返ると、ハルコはもう、そこにはいなかった。揺れるカーテンがあるだけだった。蝉が鳴いているだけ、波音がさざめいているだけだった。生きていたかもしれないはずのハルコがいなくなってしまったこと、きっと自分の手でそうしてしまったことに気がついて、わたしは、ベランダにへたりと座り込んだ。
わたしはバカだ。ハルコは、自分がいちばん綺麗に死ぬ方法を、ほんとうは知っていた。わたしのスマートフォンの中身にも、彼女はちゃんと気づいていた。
心中 方法、とハルコのあざみたいに、くっきり残る検索履歴を消してから、ベランダを見下ろす。ボロアパートの四階。波の音がして、風が吹いて、目を閉じると、たしかに潮のにおいがした。ひだのきっちり揃ったセーラー服のスカートが揺れる。わたしはハルコに会いにいく。
「ハルコ」
どこかで、風鈴が鳴るみたいな音がして、それがさいごだった。
晴子