心理世界の守役 四
幕間 三
――それは、ある日唐突に起きた、不幸な事故だった。
軽乗用車に撥ねられた十一歳の少女は、現場からすぐに病院へ搬送された。その時はもう意識不明の重体で、ちょうど生死の境目に直面していた。
それを見ていたまだ幼かった少年は、唖然とした。
血塗れになった少女を見て、そして、混乱した。これからもずっと一緒にいると思っていた大事な人が、一瞬で死の縁に立たされたのだ。
たとえ幼かったとしても、その絶望を、確かに感じた。
少女が事故に遭った時、公園で子供を遊ばせていた保護者が連絡してくれた。少女の両親は都合が悪く、病院に駆け込むまでに時間がかかった。
だから、それまでの間、少年は少女の傍にいた。救急車の中も、手術室へ運ばれる直前も。少年の両親は、泣きながら、それを許してくれた。
その短い時間、ただ一度だけ、少女が目を覚ました瞬間があった。それは、手術室へ入る直前、ただ一言を話すことさえ彼女の命に危険が及ぶ、そんな状況の中だった。
少女は寝台の上で苦しそうな表情を浮かべて、少年の頬にそっと手を添えた。まるで安心させるように、まるで、最後の別れを告げるように。
少女は確かに微笑っていた。ぼろぼろと涙を流す少年に向けて、優しく、力強く、最後の力を精一杯に振り絞って。
「わたし、ずっと、ゆうの傍にいるよ……」
少女の綺麗な『オレンジの瞳』に、涙が滲んでいた。その時の少年は、言葉の意味を理解できなかった。ただ生きていてくれるとだけ、信じていた。
――でも、少女はもう、この時に決意を決めていたのかもしれない。
傍にいる、それは決して、生きて傍にい続けるのではなくて。少年の隣で笑ったり、泣いたり、怒ったりし続けるのではなくて。
――きっと、少女は決めていたのだ。
少年の胸に。
少年の記憶に。
自分を思ってくれる少年の中で、ずっと一緒に生き続けて、少年の傍にいると。彼の中で、自分の温もりを生かし続けたいと。そうして、大好きな少年を見守りたいと。
パタン、と扉が閉められ、手術中のランプが点灯した。
少年は止め処ない涙に顔をぐしゃぐしゃにして、その明かりを、中にいる少女を、ずっと見つめ続けた。
もしかしたら、少年にだって分かっていたのかもしれない。
本当は、本当はもう、これでお別れなのだと。
でも、少年は信じていたかった。
また少女に会えるのだと。
また、少女の笑顔が見られるのだと。
少女に。
大好きな少女――花飾時雨に。
まだ生きていてほしい、と。
四幕 想い Out_of_kindness
「ん……」
如月悠の今朝の目覚めは、最悪だった。
熱でもあるのかもしれない、頭ががんがんとうるさかった。
鈍器で殴られたように鈍痛が響く。
よく夢を覚えていないモヤモヤした気持ちの悪さもあって、今朝は最悪だ。
「いつ、寝たんだっけ」
確か零時まで起きていたと覚えている。
けれどそれから先の記憶が曖昧で、おぼろげな記憶を手繰り寄せていくと、悠はもっと大事なことを思い出した。
「……シーちゃん」
遠い、遠い過去の記憶。
五年も前の夢を、また、悠は見てしまったのだ。
(もう、乗り越えなきゃいけないのに)
首を回して左隣を見れば、花音が眠っていた。
壁にかけてある時計を確認すれば、時刻は七時半。
(花音が寝坊するなんて、珍しい……)
けれど、今日ぐらいは別にいいか、と悠は思う。
「ん?」
だが。
右隣を見て、悠は不思議に思った。
「……いな、い?」
そこに寝ていたはずの愛歌が、いない。
昨夜までは確かに隣にいたはずなのに、いつの間にか、居なくなっている。
「どこに……」
と、部屋の中に視線を巡らせていると、
「ん、うん……ゆう、くん?」
花音が起きたらしく、寝ぼけ眼をこすっている。
「今、何時、ゆうくん……」
その姿にちょっとだけ笑って、
「七時半だよ」
そう教えると、花音は急に目をパチクリさせた。
(こういう花音も、珍しい)
「わーっ! 遅刻っ! 遅刻だよゆうくんっ!」
「ま、まあ落ち着いてよ、花音」
「落ち着けないよっ! わ、わわっ、早く準備しないと……」
慌てて立ち上がった花音が、ばたばたと階段を駆け下りていく。
「相変わらず真面目なんだから……」
ぽつり呟いて、一つあくびをして立ち上がる。
(愛歌ちゃん、下にいるのかな)
先に目が覚めて、もうリビングでゆっくりしているのかもしれない。
とりあえず確認しようと、忙しない花音の慌て声を聞きながら、階段を下りた。けれどテレビの音も聞こえないので、少し不審に思いながら、悠はリビングへ入る。
「あ、れ」
いなかった。
このリビングには、彼女は来ていない。
だが、他にいそうな場所は、特に思い浮かばなかった。
違和感がする。
熱に浮かされた時のような、ぼうっとした感覚。
眩暈がして、足元が覚束なくなる、そんな錯綜感。
不意に、五年前の自分が頭の中に浮かんだ。
楽しかった、本当に楽しかった、あの頃。
だがその時間は、その瞬間は、何の前触れもなく消え去った。
そう。
ちょうど今のように、何の音もなく――
「うそ、だ」
信じられなかった。
昨日までは、愛歌も楽しそうにしていたのに。
つい昨夜までは、こんな時間がずっと続いてくれたいい、そう思っていたのに。
(そんな、愛歌ちゃん……っ)
体が強張るのを、悠は感じた。
ふと、リビングに入って、机の上に追いてあった一枚の紙に気付く。
それは、愛歌の持っていたスケッチブックの紙だと、一目で分かった。
『ごめんなさい、ゆうおにいちゃん。かのんおねえちゃん。
ふつかかん、ありがとうございました。』
急に目頭が熱くなる。
何度も、何度も、その短い文章を読み直した。
その事実を、認めたくなかったから。
けれど。
「……花音っ」
名前を呼ぶと、洗面所から、歯ブラシを咥えた花音が顔を出した。
「ぉひたの、ゆうふん?」
間の抜けた声に、悠は真剣に言う。
「愛歌ちゃんがっ! 愛歌ちゃんが、出て行ったんだっ!?」
カン、と軽い音がする。
花音が、咥えていた歯ブラシを落としたのだ。
しばらく、彼女がぽかんと口を開ける。
「えええええええええっ!?」
驚いた花音が、急いで口の中を濯いだ。
「う、うそ、出てっちゃったの!?」
ぐいと花音の顔が詰め寄る。
訳が分からないのは、悠も同じだ。
何の確証もない、信じたくもないが、悠は頷いた。
「……みたい、なんだ」
ぎゅっと、拳を握り締める。
今度こそは、この時間が続いてくれると思っていた。
それなのに。
(――何で)
「早く、早く探しに行かなくちゃっ! ゆうくん、急いで準備して!」
そう急かされ、悠は動き出そうとする。
だが。
ふと、不安が胸を過ぎった。
「どうしたの?」
急に立ち止まったせいだろう、心配そうに声をかけられる。
愛歌――彼女は、自分から出て行ったのだ。
それはきっと、一緒に居るのが嫌になってしまったのかもしれない。
何か、自分にいけないところがあったのかもしれない。
(ぼくは……)
「花音、」
「……?」
「ぼくは、愛歌ちゃんを探しても、いいのかな。それが、愛歌ちゃんにとって、迷惑だったり、しないかな……」
自信が持てなかった。
自分がやろうとしていることに。
その、行動に。
沈黙を破ったのは、背中にそっと触れた、優しい掌の感触だった。
「ゆうくん、あのね」
その一瞬、悠は思わず、俯けていた顔を上げた。
柔らかな、細くて白い腕が、彼の体を抱き締める。
決して力強くはなく、優しく、包み込むように。
「わたしはね、この二日間、ゆうくんのことをもっと好きになったんだよ。五年前みたいにゆうくんが笑ってくれてるの見て、わたしもすごく、嬉しかった」
「花音……」
「それはきっとね、ちょっとだけ悔しいけど、わたしじゃなくて愛歌ちゃんのおかげだと思うの。ゆうくんが愛歌ちゃんを連れて来た時は、何でって驚いたけど、でもだんだん、その理由が分かった。ああ、ゆうくんが本当にほしかったものって、こういうことだったんだって」
「……ごめん、花音。ぼく、花音に本当に、つらい思いを」
「ううん。謝らなくていいんだよ、ゆうくん」
花音の息遣いを、背中に感じた。
それはどこか、悲しそうで、苦しそうで、胸のうちを強く握り締められた気がする。
「わたしは、今のゆうくんを見れているだけで、すごく胸の中があったかくなるの。愛歌ちゃんと二人で笑ってると、すごく、すごく楽しそうで……だからね、ゆうくん」
「うん……」
「ゆうくんは、迷わなくたっていいんだよ? ようやく、ゆうくんが安心できるものを見つけられたんだから。一緒にいたいって、そう思える人と、巡り合えたんだから」
「……」
鼻をすする音が聞こえて、悠は驚いた。
(花音、泣いて……)
「だから行こう、ゆうくん」
不意に、花音の腕が離れた。
彼女の温もりが、与えてもらった勇気が、じんわりと体に滲む。
「愛歌ちゃんも、きっと待ってるよ!」
そう手を差し伸べられて。
今度こそは、もう何も失わない。
大事なものを、失いたくない。
「花音、」
悠は、その手を取る。
守りたいものを、守り抜いて見せるために。
真宮処凛は、雑踏の中を歩いていた。
時刻は八時半。
本来なら学校に行っている時間だが、今日は廣瀬に休むよう言われた。
――話しがあるので、明日、事務所に来てください。
そんな彼の言葉を、処凛は思い出す。
(やっぱ、如月悠、だよね……)
面白いことを見つけた、と言っていた廣瀬を思い出し、処凛はため息を吐いた。
一体、どんなことを調べたのだろうか。
ただの一般人にしか如月悠は見えなかったが、廣瀬が興味を引かれるほど面白いこととは、果たして何があるか。
(まあ、いいかな)
だが、処凛は楽観することに決めていた。
如月悠を襲撃するには、もう少し時間がかかるだろうと踏んでいるからだ。
廣瀬自身の準備もあるし、万が一、如月悠を殺してしまったなら、何か他の理由付けで処理しなければいけない。その手間が、かかるのだ。
(……殺させは、しないけど)
処凛は静かに、足を進める。
廣瀬という人間は、これまでにもう、何人もの人間を殺して来た。
それは、処凛が彼を知る前も、知ってからも。
(もう、だめなんだから)
処凛は、廣瀬が殺しをすることを嫌っていた。
だから極力、無駄な戦いはさせないようにするし、何か理由を付けて止めを刺す瞬間を止めたりもする。
これ以上、廣瀬という人間に、家族に、人の命を殺めてほしくない。
(絶対に)
そのために、処凛は如月悠と接触しようと図っている。
廣瀬には秘密で、話し合いだけで、解決できるように。
(次は絶対、説得してみせるもの)
そう意気込んで、処凛はあるビルの前に立った。
表向きは、適当な企業の名前を借りている。だが、その中身は、決して普通ではない。
その自動ドアを、処凛は潜ろうとする。
一歩前に足を出して、中に入ろうと。
だが。
「――ん?」
ふと、何かが視界の端に入った気がした。
白い、不思議な、何か。
あのトツカノツルギの守役が着ていたワンピースのようにも見えたが、見間違いだろうか。
ごしごしと目を擦る。
もう、どこにも不思議な物体はない。
「見間違い、よね」
それだけを呟いて、処凛は中に入ってエレベータに乗り込む。
やがて最上階の支部所長室のドアを、ノックした。
「いいですよ。入ってください」
何かで確認したのだろうか、中からそう声が聞こえたので、処凛は室内に入る。
そして。
「廣瀬、話って、何?」
率直に尋ねたその時。
彼は、こう答えた。
「ふふ……」
待ちかねたように、不気味な笑みを零して。
「ソウルメイトとサーバー、そして」
その事実を、告げる。
「実験体――如月悠について、ですよ」
「ゆうくん、いたっ!?」
街の休憩所のベンチ。
その前で、如月悠は息を荒くしてその声を聞いた。
「いない、どこにもいないよ……っ」
額に汗の球が浮かんでいる。
それは目の前の花音も同じようだった。肩で息をしながら、二人とも、街中を走ってどれくらいの時間が経っただろう、体力も、もう限界に近い。
「愛歌ちゃん、一体どこに……」
ふと、悠の頭に嫌な可能性が映った。
昨日襲って来た、WAO。
あの二人が、また愛歌を見つけてしまったのではないだろうか。あるいは、すでに廣瀬が、愛歌を連れて……
ぶんぶん、と悠は首を振る。
(そんなこと、考えちゃだめだ)
嫌な予感を案じるよりも、一分でも早く、彼女を見つけた方がいい。
「花音、ぼく、東側の方、もう一度探してくるよっ!」
そう言って、悠はまた走り出した。
「じゃあわたしっ、西側探してくるっ!」
背中にその声を聞いて、人込みを掻き分けて進む。
きっと、必ず。
必ずその先に、希望の少女がいることを信じて。
その一言に、処凛の頭は混乱した。
「実験、体……?」
目の前の廣瀬が何を言っているのか理解できず、ただ立ち尽くす。
廣瀬が、眼鏡を正した。
カチャリ、と。
たったそれだけの仕草が、やけに、網膜に張り付いた。
「そうです。過去、原初の者を『使った』実験が、行われていたんですよ」
未知の存在――原初の者。
そのことについて今も研究されていることは、処凛も知っていた。
だが。
その実験体が如月悠だったとは、どういうことか。
(原初の者じゃ、ないのに)
「処凛ちゃんは、ソウルメイトとサーバーについては、知っているでしょう?」
カツン、カツン、と廣瀬が処凛に近付く。
ふと、その口元に微笑を浮かべて。
「とりあえず、座ってください」
そう言われたので、廣瀬と対面するように、ソファに腰掛けた。
そして、記憶の知識を探る。
ソウルメイトと、サーバー。
その二つをいつか、廣瀬に教えてもらったことがあった。
死んだ人間の魂が行き着く、その世界。それが、ソウルメイト。
そして。
全人類の記憶がすべて蓄えられている世界。それが、サーバー。
「サーバーが実在する、ということが実証されたのは、シェルドレイクの仮説によってでした。記憶喪失者が記憶を取り戻すのは、どこかにすべての記憶が保管されているからなのだと。そう話したことがありましよね?」
今よりもまだ小さい頃、よく分からないながらも、そんな話を耳にしたことがある。
だが、今ならば、何を言っているのかちゃんと理解できた。
「如月悠が関わっていた実験は、後もう一つの世界を実証するための、実験だったんです」
呆れたように苦笑して、廣瀬は言った。
後もう一つの――それは、
「つまり、ソウルメイトが実在すると実証するための実験に、如月悠という人間が、実験体として選ばれたんですよ」
「……」
言葉を失った。
廣瀬が言っているのは、つまり関係のない一般人を利用した、『人体実験』を行っていたということなのだ。
そんなことが、あっていいはずがない。
俯いた処凛の意図を察したように、廣瀬が薄く笑った。
「本当なら、もちろん許される話ではありません。ですが、何年も前の、まだ研究が上手く進んでいなかった頃の話なんです。その時を鑑みれば、そう考えるのも、否定はできません」
「それで、どうなったの?」
「実験は途中まで、順調に進んだそうですよ。ソウルメイトに最も近いと言われる原初の者の魂と、普通の人間の魂を『融合』させる陣を、当時任されていた花飾夫妻が考案したそうです。それで、一時的にソウルメイトを覗くことが可能になった、と報告書に書かれていました」
「ちょっと待って、廣瀬……融合って、どういうことなの?」
廣瀬は一度、軽く笑って。
「文字通りですね。死んだ原初の者と生きた人間の魂を『融合』――つまり繋げるようにした陣を、実験の中で生み出したわけです」
「……」
その内容を頭に思い浮かべると、あまりに悲惨過ぎて、処凛は押し黙った。
死んだ原初の者。
だが。
その原初の者を、一体どうやって調達する?
「ですが、研究が最終段階まで移行した時、不幸な事故が起きました」
「事故?」
「ええ。花飾夫妻の一人娘が、死んだんです」
「……」
「それを折りに、研究は中断になりました。何を思ったのかは分かりません、ですが、花飾夫妻が研究を止めたんです。あまりに突然、唐突にですね」
その理由は、一体。
「まあそれで実験はなくなったんですが、私は一つ、腑に落ちなかったんですよ」
廣瀬はもう一度、眼鏡を正す。
「なぜ実験を止めたのか、ということもですが、着目すべきはそこではありません。
本当に見るべきは、」
廣瀬は一度、そこで口を止めて。
「『原初の者だった』彼らの娘が死んだ時に、実験を終えたことです」
「……原初の者、だった?」
「そうです」
「それが、どう、関係するの?」
「気付きませんか?」
廣瀬は立ち上がって、ゆっくり窓際へと進む。
そして。
「最終段階であった実験は、彼らの娘――花飾時雨が亡くなった瞬間に、すでに成功していたんですよ」
――如月悠の魂と、娘の魂を融合させることによってですね。
そう廣瀬は付け足し、窓の外を眺めた。
「如月悠の、魂と……」
処凛は呆然と呟く。
そんなことがあってしまって、いいのかと。
「処凛ちゃん、」
不意に呼びかけられ、顔を上げる。
そこには、不気味なほど満面の笑みを浮かべた廣瀬が、こちらを向いていた。
「如月悠とトツカノツルギの守役――」
だが。
その笑みに、感情と言えるものは、何一つない。
「二人の出会いは、本当に、ただの偶然だったんですかね?」
空が朱に染まる。
如月悠の瞳には、一人ぼっち、膝を抱えた少女の姿が映っていた。
儚い、白色のワンピース。
傍らに置かれたスケッチブックと、マッキーペン。
「……愛歌、ちゃん」
息が乱れていた。
必死に落ち着けようと、呼吸を整える。
振り向いた。
驚いたように、信じられないように。
小さくて、可愛い、綺麗なオレンジの瞳が、わなわなと震えて、悠を見つめる。
だが。
「待って、愛歌ちゃん!」
慌ててベンチから飛び降り、逃げようとした彼女の腕を掴んだ。
小さな体が震える。
まるで、怯えたように。
「何で、逃げるの? ……何で、急に」
けれど、少女は何も言わなかった。
何かを言おうと、彼女の唇が動く。けれど。
やはり、噤んでしまう。
「……ぼくはね、愛歌ちゃん」
悠は、細くて、今にも折れてしまいそうな腕を、けれど強く掴む。
この手を、絶対に離してはいけないから。
「愛歌ちゃんと会うまでは、何をしても、何も感じなかった。時雨がいなくなって、本当に、全部の色を失ってしまったんだ」
五年前を境にした、楽しかった日々と、無気力な日々。
だが。
それが一瞬で変わった瞬間が、あった。
「ぼくは、ずっと忘れないよ。愛歌ちゃんと出会えたこと、死にたいと思ったぼくを、愛歌ちゃんが叱ってくれたこと。絶対、絶対に、忘れはしない」
そのおかげで、また生きたいと思えるようになった。
誰かと一緒にいたい、誰かを守りたい、そんな気持ちを思い出せた。
もう二度と、無色な世界に戻りたくは、なかった。
「ぼくを救ってくれたのは、愛歌ちゃんだ。なら、ぼくは君を救いたい。捨てるはずだった命を、君のために、使いたいんだ」
悠は優しく微笑む。
そのすべてが、偽りない彼の本心だったから。
目の前の小さな少女と出会って、まだ日は浅い。だが、時間ではない、一秒でも、一分でも、彼女から感じられたその温もりに、悠は本当に感謝している。
それはきっと、どんな高価な物よりも、価値あるものだから。
「だから、」
悠は一度、大きく息を吸って。
今できる一番の笑顔を、彼女に向けた。
「ぼくと一緒に、いてくれないかな」
少女の瞳から、涙が零れる。
それはきっと、悲しみの涙ではない。
きっと、何かを悔やむ涙ではない。
そう。
それはきっと、もっと明るくて、じんわりと心に滲むものだ。
小さな腕を放して、悠は彼女の頬に手を添える。
そっと、そっと優しく。
そして。
ふとその瞳を、細めようとして。
「如月、悠さん?」
だが、その瞬間、背後から声が聞こえた。
それは避けようのないものだ。
この少女を守るためには。
この温もりを、守るためには。
「幕引き《ラストショータイム》と、いきましょうか」
彼女のためにも、その決着は、必要だから。
いきなりだった。
今日の夕暮れ、如月悠を襲撃すると言われ、真宮処凛はひどく当惑した。
早いのだ。
何かを焦っているように、廣瀬の動きが早過ぎる。
時間を延ばせば、他の組織や人間に情報が回ってしまうリスクもあるが、それでもまだ、十分な準備ができているとは言えない。
せめて、明日明後日に決行すべきだ。
そう、処凛は思っていたのだが。
いつの間にか、目の前に如月悠が立っている。
いつの間にか、標的である彼と、トツカノツルギの守役が、目の前に存在してしまっている。
(廣瀬が、戦う……)
駄目だ。
それは、駄目なのだ。
戦って欲しくない。そう思っている。
互いに無事では済まない、どちらが死んでしまうかもしれない、そんな戦いをして欲しくない。そう、心の中で願っている。
それなのに。
なぜ、自分は止められないのだろう。
たった一言、止めてほしいと口にするだけなのに。
たった、それだけだというのに。
(ううん……)
拳を、握り締める。
分かっているのだ。
真宮処凛という人間がいくら言おうが、制止しようが、今の廣瀬は止められない。処凛の家族の敵を倒せる、そのための最大の手段を目の前にして、廣瀬が止まるはずがない。
それが分かっているから、処凛は悔しいのだ。
自分では止められない。
自分には、何もできない。
説得することすら、何も。
『――私は死にませんよ、絶対に』
いつか、廣瀬がそう言ったことがあった。
本当にそうなら、どれだけ嬉しいか。その言葉が絶対なら、どれだけ安心できるか。
だが。
廣瀬の、処凛のいるこの世界では、人の命など簡単に消えてしまう。
廣瀬が弱いわけではないのだ。
彼は強い。この世界に関わり、戦う人間としても、普通の人間としても。
(でも……っ)
決して、死なないわけではないのだ。
まして、神具という強大な力を、目の前にして。
死んで欲しくない。そう、強く思っている。
今はもう、たった一人の家族なのだから。
たった一人だけ残った、大事な人なのだから。
敵討ちよりも何よりも、彼にだけは、ずっと、ずっと傍にいてもらいたい。
それなのに。
「幕引きと、しましょうか」
その言葉に、絶望が脳裏を過ぎった。
視界が暗くなる。
頭の中が、何も考えたくないと、麻痺してしまう。
(止めて、ほしいのに)
自分の無力さに、唇を噛み締めて。
(戦ってなんか、ほしくないのに)
たったそれだけなのに、どうして、こんなにも伝わらないのだろう。
この胸にある気持ちが、そっくりそのまま、彼に伝わってくれればいい。そうしてくれれば、どんなにか、楽になれるだろう。
(何で、わたしじゃだめなの……)
歯痒さを覚える。
廣瀬という人間が。
その温もりが、いつまでも消えないで欲しい。
そう思っている、だけなのに。
景色が切り替わった、その世界。
見慣れた公園が、廣瀬の視界に広がった。
パン、と音が響く。
宙に浮かんだ陣に手を差し入れ、ゆっくり、その中から刀を引き抜いた。
刀の柄を、強く握り締める。
(これで……)
これで、終わりにするのだ。
神具を手に入れ、仇の男を殺して。
(私は、これで終わりにしなければいけないんです)
真宮処凛という大事な人間がいる。
その家族を殺した男を、廣瀬は絶対に許せない。
殺伐とした日常に、光をくれたのは彼女だった。まだ幼かった彼女と一緒にいることで、体に纏わり付いていた死の匂いを、少しずつ、少しずつ、感じなくなった。
(私は、絶対に殺さなければいけない)
あの男を。
処凛を絶望の淵に叩き落とした、憎い人間を。
だが。
そのためには、もっと力が要る。何者にも負けることのない、何人にも揺るがされることのない、強大な力が。
そのために。
深淵を湛えた刀が、標的を捉える。
大気を震わす緊張が、殺気が、辺りに漲った。
「だから、」
たとえ、自らの命がどうなろうとも。
その果てに、引き返すことのできない、修羅の道があろうとも。
「だから私は、あなたを殺すんですよ、如月悠」
噛み締めるように、そう呟いた。
目の前で戦う、彼を見つめた。
剣戟が咆哮を上げる。
彼のしなやかな体が、神具を――トツカノツルギを、叫ぶほどに奮い立たせていた。
(ゆうおにいちゃん……)
胸の前で、ぎゅっと拳を握る。
彼はきっと、自分のために戦っているだけでは、ないのだろう。
きっと、自分だけではなく、出会ったばかりの愛歌のためにも戦ってくれている。
純粋に、嬉しいと思えた。
彼と一緒にいられたことが。
自分を守って、彼が必死に戦ってくれていることが。
だが。
灼熱の龍が躍り、氷で作られた無数の刀剣が彼を襲い――ゆっくり、けれど確実に傷ついていく彼の姿を見てまで、愛歌は、自分を守ってもらいたいとは思えなかった。
(ごめんなさい、ゆうおにいちゃん)
愛歌は一歩、足を進ませる。
彼と一緒にいられた時間は、本当に温かかった。
あまりにあったかくて、優し過ぎて、思わず自分が存在する意味を、忘れてしまいそうになるほどに。
けれど、だからこそ。
それを忘れてしまう前に。
これ以上、彼を巻き込んでしまう前に。
まだ、取り返しが付く前に。
その前に、愛歌は彼の前から、姿を消そうと思った。
そうしてまた一人になって、彼にはもっと普通の生活を送ってもらえるようになって、それですべてが、上手くいって。
そのはず、だったのに。
それなのに、彼は愛歌を見つけてしまった。
日が暮れ始め、もう探すことを諦めてくれただろう、そう思っていた時に、彼は見つけてしまったのだ。
挙句には、一緒にいてもらえないか、なんてことまで言って。
本当に。
本当に、涙がでるほど嬉しかった。
できるなら、彼と一緒にいたい。
彼に、守られたい。
だけど、それはただの、わがままだ。
彼に迷惑をかけてしまうと分かっている。彼の命が危険に晒されると分かっている。それなのに、彼をこの世界に、置いていてはいけない。
本当に彼のことを思うなら。
彼の幸せを願うなら、一緒にいては、いけないのだ。
(……ごめんなさい)
だから、そのために、愛歌は決意する。
彼には生きていてほしい。
そのために、自分は。
自分自身の、命は――
「……っ!?」
背後から、息を呑む音が聞こえた。
迫り来る漆黒の刃が、瞳に映る。
風を裂く音が聞こえた。
見えない後ろから、自分の名を呼ぶ彼の声も。
(これで、いいの……)
死を目の前にして、愛歌はそっと目を閉じる。
これでいい。これで、いいのだ。
千鳥愛歌という守役が死んでしまえば、その意識と直結している神具トツカノツルギも、同時にこの世から消え去ることになる。
そうすれば、この争いは、戦いは、すべて理由をなくしてしまうのだ。
だから、愛歌は二人の戦いに割って入った。
負荷を負った彼では反応し切れないタイミングで、彼の身代わりになるように、振り下ろされた漆黒の刀の、その前に。
――ごめんなさい、ゆうおにいちゃん。
たったの三日間。
それだけの時間が、一生分の思い出になった。
絶対に忘れられない、楽しい、楽しい思い出に。
(私の分まで、幸せになって――)
そうして、彼の叫び声を聞きながら、愛歌の意識は薄れてゆく。
自分の命と引き替えに、大切な人を守るために。
そうすることができて、本当に、本当に、嬉しいと思えるから。
――だから。
「愛歌ちゃああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああん――!」
心理世界の守役 四