心理世界の守役 三

  幕間 二

 その日の夜は、凄惨な地獄が広がっていた。
 三人の人間が、床を血で濡らし倒れている。
 茶色い板の上を伝って、真紅の液体が少女の足元に流れて来た。
 生温かい感触が、足から伝わる。
 少しだけ足を動かせば、ぬめりと気持ちの悪い感触が纏わり付いた。粘っこい音が鳴る。
 少女の前には、三つの死体があった。
 一つは母親と慕っていたもの、一つは父親と尊敬していたもの、最後の一つは弟と可愛がっていたもの。
 少女の前には、三つの、『家族の』死体があった。
 悲鳴が喉まで出かかった。
 けれど、口を塞がれているせいで、声が出せなかった。
 体を押さえている『男』の手を振り払おうと、少女は必死でじたばたと暴れた。
 いや、振り払おうと考えたのではない。ただ家族の元へ、死んでしまった家族の元へ、近づきたかったのだ。
 必死に、母に、父に、弟に、手を伸ばした。
 誰か掴んで欲しいと、生きていてほしいと、ひたすら涙を流して願った。
 でも、それは叶わない。誰一人と少女の手を掴んでくれる家族はいなかった。生きている命は、もう、目の前には存在していなかった。
 背後で、『男』が嗤った。
 少女の大切な家族を奪った『男』が、愉快そうに、嘲るように、大声で笑った。
 その男は、少女のことをこう呼んだ。
――原初の(オリジン)
 と。
 そして、家族を殺した時、少女を捕まえて高らかに喜んでいた。
 幼かった少女には、男がなぜ家族を殺したのか分からなかった。原初の者、という言葉も分からなかった。ただ分かっていたのは、絶望と、悲しみと、憎しみと。
 何より、家族を失った残酷な事実しか、分からない。
 やがて、少女と家族の距離は、どんどんと離れていった。
『男』に連れられ、家から引っ張り出される。血で塗れた家族の死体だけを頭に焼き付けて、惨劇に染まった我が家から離れていく。
 その日。
 七月十日。
 少女――真宮処凛は、九回目の誕生日を迎えた。


  




  三幕 事情 Secret_of_someone

「ゆうくん、学校行くよー?」
 玄関から声が聞こえた。
 時刻は七時半。すでに、学校に向かう時間だ。
 だが。
「ええと、ごめん、花音。今日はぼく、学校は休みたいんだ、けど」
 靴を履いて調子を整える幼馴染に、悠は手を合わせて謝っていた。
 その後ろには、ワンピースを着た愛歌が立っている。面白がっているのか、悠が頭を下げるたびに、彼女も真似をして笑っていた。
「休むの?」
 花音は心配そうに愛歌を一瞥して、
「うーん、仕方ないなぁ。今日だけだよ?」
 と呆れたように許してくれた。
 それから、花音は扉を開けて、先に出て行く。彼女と登校しないのも久し振りで、どことなく妙な感じはしたが、今はそれどころではないと一度自室へ戻ろうとした。
 とりあえず、もう少し時間が経ってから、愛歌と会ったベンチに行こうと計画している。そこでしばらく待って、待ち人を見つけようというのだ。
「愛歌ちゃん、もう少ししたら行くから、テレビでも観ててくれるかな?」
 そう言うと、愛歌はトコトコとリビングに入り、リモコンのスイッチを押したのだが、何を思ってか、ふと悠の元に戻って来た。
『ゆうおにいちゃんは?』
 不思議そうに見つめられ、悠は少しだけ笑みが零れる。
(……可愛い)
 そんな感想を抱くことが今までなかったから、何だか胸の辺りがふわふわした。
「そうだね。一緒に観ようか」
 小さな手に服の裾を掴まれて。
 こんな朝もいいな、と悠はほころんだ。


 真宮処凛は、近くのファストフード店から、街の休憩所を監視していた。
 隣に廣瀬はいない。 
 かと言って、彼が同じように監視していることはないだろう。彼は別の手段で『あの少年』を見つけるだろうし、来るかどうかも分からない、分の悪い賭けはしない人物だ。
 時刻は八時半。
 本当ならすでに始まっている学校を思い浮かべて、処凛は苦笑した。
(廣瀬に、うそ吐いちゃったな……)
 学校に行くと行って、こんなところに来てしまった。
 たった一人の少年に、会うために。
「それにしても、遅いなぁ」
 もう一時間は待った。
 ここに来た頃には、すでに人込みは多かった。制服を着ていたので、たぶん『あの少年』も学生なのだろう。
 朝が遅いわけでもないと思うし、それにしては来るのが遅い。
(守役を置いて学校に行くとも思えないしなぁ)
 なら、『あの少年』はこの場所に来る可能性がある。
 どうして守役がこの場所にいたのかは分からないが、何かの理由があったのだとしたら、なおのこと。
「……、コーラでお腹いっぱいになっちゃったじゃない」
 ずずず、と処凛はストローを吸う。
 その時だった。
 勢いよく紙コップを机に置いて、処凛は窓の外を見つめる。
「来たっ!」
 ベンチから少し離れたところに。
 私服姿の少年と、ワンピースを着た少女が。
 確かに、立っていた。


「愛歌ちゃん、しばらく、この辺りで待ってみようか」
 こくり、とワンピースの少女が頷いた。
 昨日、愛歌が待っていたベンチから三つほどずれた、別のベンチ。
 ちょうど斜めに位置しているので、目的のベンチに誰が訪れたか、確認しやすかった。
『来るかな?』
 心配そうに、ちょこんと愛歌が首を傾げる。
「大丈夫だよ。きっと来るよ」
 安心させるように、悠は愛歌の頭を撫でた。
 オレンジの瞳が、ゆっくり細まる。悠はベンチの方ばかりを見ていたが、その時の愛歌は、とても気持ちよさそうな顔をしていた。
 が。
 その時。

「見つけたーっ! 守役とそこの少年っ!」
 
 ビク、と体を震わせた。
(え、な、何……っ)
 振り向けば、雨のごとく注視を浴びている少女が、こちらを指差していた。
 だんだん視線の波が、悠たちに向けられる。
「あ、」
 声を出した。
 思い出したのである。そういえば、この少女を昨日、廣瀬と一緒に見た、と。
(ここにいちゃいけないっ)
 瞬時に、そう判断した。
 あの少女がいるということは、廣瀬もここにいるかもしれない。
 危険に晒される前に、早く逃げて――
「あっ、ちょ、ちょっと待ちなさいよ!」
 悠は愛歌の手を引っ張る。
「愛歌ちゃん、行くよっ!」
 勢いに任せて、悠は走り出そうとした。
 愛歌が転ばないよう気を付けながら、あの少女から逃げるために。
「ってだから! ちょっと待ちなさいって、言ってんじゃないの――っ!」
 だが。
 逃走を図ろうとした悠は、瞬時に飛来したバッグ(教科書入り)によって、足を止められてしまった。
「っっっ!?」
 言葉にもならないほどの激痛が、脳に直撃する。
 衝撃のあまり、思わず悠は転んでしまった。目の前に転ぶバッグを見て、信じられない気持ちで一杯になる。
(こんなもの、ふつう投げる……!?)
 痛みの残る頭を抑えていると、少し息を荒くした少女が、悠を見下ろすように立った。
「やっと落ち着いてくれたわね」
「ひぃ、食べられるぅ!」
「た、食べる!? わたしそんなんじゃないわよ!」
 怒ったように胸を反らす少女に、悠はどうしようと思った。
 捕まってしまった。
 こんなにも呆気なく。
「……、」
 と、不意に悠の頭が影に隠れて、彼は驚いた。
「愛歌ちゃん……」
 手を広げて、小さな少女が悠を守るように立っている。
 こんなに小さいのに、必死になって、悠を守ろうとしてくれている。
(そうだ。考えてるより、早く)
 今一度、あまり力の入らない足で立ち上がろうとした。
 ちょうど、その時である。
 少女――処凛が、ため息を吐く。
「ああ、もう……違うって言ってんじゃないの。今日は廣瀬は一緒じゃないのっ。わたしは、ただあんたたちと話をするためだけに来たのよ!」
 まったく、と処凛は呆れたように手をひらひらさせた。
「話し、に?」
 ほっと胸を撫で下ろす。
 昨日みたいに、強引に連れて行こうとしているわけではないのだ。廣瀬も、今はいないと言う。
「そう、なんだ。それじゃ、」
 互いに、和解できるかもしれない。
 その可能性を望んで、悠は立ち上がろうとした。戦わなくても、傷つけあわなくても、もっと穏便に解決できるかもしれない。
 そう思った。
 のだが。
 その、一瞬だった。

「心理世界、展開」

 それは、処凛の声ではない。
 それは、処凛の世界ではない。
 ただ気付けば、辺りにいた人込みはなくなっていた。
 跡形もなく。
 最初から、『この場所』にいたように。
「……っ!」
 戦慄が駆け上る。
 見知らぬ墓地だった。何人もの墓標が立ち並ぶ、不気味な世界。
 階段のように敷き詰められた墓石が、三人を見下ろしていた。まるで『そちら側』に誘うように、ただ静かに。
「ここ、は」
 唖然としたまま、悠は見る。
 男が立っていた。その傍らには、小柄な少女も。
 そして。
 その少女の瞳は、オレンジの宝玉によく似ている。
「さあ始めるぜ、クソ野郎!」
 男が、言った。

 
 声が聞こえた。
 真宮処凛は、その声の鳴らした言葉に、体を強張らせる。
 気付けば、世界が変わっていた。
 景色も、空気も、何もかも。
 ここは現実ではない。ここは、本当の世界ではない。
 誰かの心の中の、異世界だ。
「さあ始めるぜ、クソ野郎!」
 男の声がした。野太い、乱暴な口調。
 正面に、男と少女の二人が立っている。
 男は黒いコートを羽織り、靴からすべての衣服を黒で統一している。愉しそうに剥き出しになった犬歯は、快楽殺人者や異常者によく似たそれだ。人を殺すことに慣れてきたどころではない、人を殺すことを愉快に思えて来た、それが一目で分かる。
 隣にいる少女は、男の胸元辺りの身長だった。フリルの着いた黒のドレスを着ている。白髪――いや、銀髪の髪に黒のカチューシャを飾り、さながら西洋人形のような容姿をしていた。
(この二人は……)
「昨日、」
 男の方が、口を開いた。
「この辺りでトツカノツルギの守役が見つかったって情報を仕入れてなァ。それでここいらを見張ってたんだが――」
 声の波が、安定していない。
 高くなったり低くなったり、それでいて、この男の視点はどこにも定まっていなかった。
(もしかして、薬を)
 そうも考えた。
 だが。
 人の死を目の当たりにするこの世界で、精神に異常を来たす者など、稀ではない。
「おまえらどっちかが、そうなんだろォ? ヒャハッ!」
 急に、男は甲高い笑い声を上げ始めた。
 どこで情報を手に入れたのかは分からない。だが、守役の素性までは、ちゃんと把握できていないようだ。
 隣で、『あの少年』と守役の少女が困惑している。
「ッ」
(こんな時に……)
 油断できる状況では、とうていなかった。
「あんた、名前何て言うの?」
 これから、こちらの指示の通りに動いてもらわなければならない。
 そのためにも、名前を知らないのは不便だ。
「え……悠、如月、悠、です」
「そっ」
 少年――如月悠を一瞥して、処凛は男を睨む。
「指示するから、その通り動いて」
 処凛は一度、大きく息を吸い込む。
(ミスは、許されない)
「あんた、WAOね?」
 男がほう、と声を漏らした。
 処凛は、もうずっと廣瀬と一緒にいる。
 だから、この世界のことも、ある程度は知っていた。
(よし……)
「ということは、あんたも神具に何か恨みがあるのよね? 恋人でも殺された? 家族でも殺された? ま、大体はそんな感じだと思うんだけど」
 嘲るように、処凛は淡々と言った。
 WAO。
 世界調整組織(World adjustment organization)
 それは、神具を持つ人間を恨み、最強の武器とも言われる神具を破壊して回る組織だ。
 男の眉が、敏感に跳ね上がる。
「んだおいっ、それがてめぇに何の関係があるってんだ? ああ?」
 怒声が飛んだ。
 やはり、男の方は短気らしい。すぐ、挑発に乗ってくれる。
「安い挑発に乗らないで。馬鹿みたいよ」
 だが、冷静なその言葉が、処凛の思惑を邪魔した。
 舌打ちする。
 もう少し、もう少しだけ、時間を稼げればいい。
 そうすれば、処凛の頭の中でイメージが完成するのだ。後、もう少しで。
「うっせぇな。んなこたァ、分かってんだよ」
 面倒くさそうに男が吐き捨て、銀髪の少女がくすりと笑んだ。
 嫌な予感がする。
 このギリギリの駆け引きで、あの少女の存在は危険だ。
 だが。
 それはもう、遅かった。
「――ッ、行くぜクソアマ!」
 男が叫ぶ。
 豪快に、豪放に。
 天にその咆哮を轟かせるように、大声で。

「貴様の血肉は我が血肉と一体にッ!
 貴様の堅強な鎧は我が皮膚と一体にッ!」

 その言葉の意味を、処凛は瞬時に把握した。
 危ない。
 全身が総毛だって、警鐘を響かせている。
 このままでは、ここにいる三人全員が、死んでしまう、と。

「その手に握る大剣を我が右腕にッ!
 その手に構えし盾を、我が左腕にッ!」

 瞬間、男の頭上に巨大な陣が現れる。
 それは廣瀬のものとは、比べ物にならないほど大きい。暗澹とした空を埋めるようなあの陣から、一体どんな異形の物が出てくるのか、三人は固唾を呑んだ。
(いけないっ! あれを出させたら、いけない!)
 やがて、陣の中から巨大な足が現れる。
 石像のような体がみるみるうちに現れ、四本の足、獣のような胴体、鎧を身に着けた人間の上半身、兜を被った頭部が、すべて露わになる。
 その右手には、一振りでこの辺りを破壊し尽くすような、巨大な大剣。
 その左手には、何人をも貫かせない、絶対無比の盾。
 ドスン――ッ!
 と土煙が上がった。
 わずか男の後方に、その絶対なる石像の騎士が、顕現したのだ。
「大、きい……」
 隣で、悠と守役の少女が言葉を失っていた。
 今一度、処凛は舌打ちする。
(早く、早く急がないとッ)
「ああ? てめえら、神具はださねぇのかよ神具はっ。トツカノツルギとやらはどこいっちまったんだああッッ!」
 ブンッ。
 と巨大な騎士の斬撃が、処凛たちのわずか数メートル前方を過ぎる。
 突風に体を吹き飛ばされそうだった。
 つぶった目を開いて、処凛は驚愕する。
 男がその気になっていれば、今の一撃だけでも、三人は皆殺しになっていた。
 目の前でパックリと大地が口を開けているように、男の指示次第で、いつだって自分たちはあっけなく殺されてしまうのだ。
「クソッ、出さねーなら、つまんねーだけじゃねえか」
 男が不満そうに吐き捨てる。
 そして。
「んじゃ、さっさと死に晒しとけ、クソ野郎」
 その一言で、石像の騎士が大剣を振り上げた。
 ゆっくり、ゆっくり、迫り来る死に処凛は目をつぶる。
(ごめん、廣瀬――ッ!)
 頭に浮かぶのは、今朝嘘を吐いてしまった、廣瀬の顔だった。
 両親が死んで、ずっと廣瀬が育ててくれた。
 親のように、ずっと、愛情を注ぎ続けてくれた。
 それなのに。
 自分は今、こんなところで死んでしまいそうになっている。
 大事な人に嘘を吐いたことが裏目に出て、何の挨拶も、声もかけられないまま、別れを告げてしまいそうになっている。
(ごめんなさいっ――)
 と、処凛が胸の中で叫んだ、その瞬間。
 何かが、土を蹴る音がした。
 ふと目を開ければ、目の前を影が過ぎていく。
 その影は、振り下ろされる大剣に向かって、ぐんぐん、ぐんぐん伸びていって。
「きさらぎ、ゆう……」
 処凛は呟いた。
 一振りの刀を握ったあの少年が、怖気ることなどせず、立ち向かっている。
 あんなにも、死にたそうにしていた人間が。
 自分を殺してほしいとすら、頼んでいた人間が。
 今、目の前で――
「うああああああああああっ!」
 トツカノツルギが、その何倍の大きさもある大剣を、斬った。
 その刀を振り抜くのは、死にたがっていたちっぽけな少年。
 だが。
 その一振りは、どこまでも強く。
 どこまでも、果てしなく。
 目の前にあるものすべてを、斬り裂いた。
「――ッ!」
 背中を向けていた男が、絶句する。
 自身が出した絶対なる騎士が、その武器を折られたのだ。
 言葉を失うのも、無理はない。
「……てん、めえええええええええええええええええッッ!」
 男の怒声が響き渡った。
 だが。
 今度はもう、そちらの方が遅い。
「如月悠! こっち、早く!」
 墓地で埋め尽くされていたはずの世界に、小さな亀裂が生まれている。
 そう、処凛がイメージしたものは、この空間に穴を開けることだったのだ。
 心理世界という異世界そのものに干渉できるのは、同じ心理世界を作ることのできる原初の(オリジン)だけだと限られている。
 心理世界に介入させる『介呪』を使えない代わり、原初の者は特別な力を持っているのだ。
「待ちやがれッ! クソガキがアアアアアアッッ!」
 背後から、恐ろしいほどの怒鳴り声が聞こえた。
 けれど、もう遅い。
 この勝負は、
「わたしたちの勝ちよ」
 眩い光の中。
 処凛は温かい少年の手を引いて、世界の外に出た。


「はぁ、はぁ、はぁ……っ」
 悠は膝に手を突いて、肩を揺らしていた。
「もう、もうここまで来れば、大丈夫なのかな……」
 隣を見れば、愛歌も少し息を荒くしている。
 処凛が作ってくれた亀裂から逃げて、街の中まで思い切り走ってきたのだ。
 小さな彼女の体は、そうとう疲れているはずだ。
「たぶん、もう大丈夫のはず……それより、ありがとう、如月悠」
「え?」
 あまりにいきなりだったので、悠は驚いた。
 声を漏らすと、処凛はどうしてか、かすかに笑う。
「助かったわ。あんたが助けてくれなきゃ、今頃、全員おだぶつだもの」
「え、いや……はは、どういたしまして」
 感謝されることなど滅多にないから、どこか照れてしまう。
 けれど、それを言うならば。
「処凛さんこそ、ありがとう。処凛さんがいなかったらって考えると、ほんとぞっとするよ」
 言って、悠は苦笑した。
 どこか処凛が驚いたような顔をするが、彼は気にしない。
「……ほんと、変わってるわね、あんた」
「え?」
 ふと、彼女が何て呟いたのか聞こえなくて、悠は尋ねようとするが、
「何でもないわよ」
 と処凛が言うので、よく分からないが、尋ねることは止めた。
(何だったんだろう)
 すると。
 そう首を捻っているところに、処凛が一度息を落ち着けて、口を開く。
「それより、本題が後になっちゃったんだけど」
 その言葉に、悠は思い出す。
 本題は、ここからだ。
「ちょっとそこで、いい?」
 悠は一度、愛歌を一瞥して。
「分かった」
 そう、頷いた。


 暗い墓地の中心で、海棠狩哉は不満を叫んだ。
「くっそがッッ! あんのクソガキ、ぜってぇぶち殺してやるッ!」
 彼の後方に立った、巨大な石像の騎士。
 これは、彼にとって分身のようなものだった。
 必死に何度も何度もイメージを練習して会得した、この『介呪』。
 介呪というものは、頭の中でイメージを作り上げ、その手助けとなる祝詞などを口にすることで、介入者のそのイメージを心理世界に介入させ、具現化させる術だ。
 その過程を経て、ようやくこの石像の騎士を、狩哉は心理世界に顕現させることができる。
 ただ、人間の脳には限界があって、その容量分しか介呪を行えなかった。
 この石像の騎士は、巨大で、威力の高い代わりに、狩哉の脳ではこれをイメージするのが限界なのである。この騎士がいる限り、狩哉が他の介呪を使うことはできない。
 だが。
 この騎士は、今まで一度たりとも負けたことはなかった。
 文字通り、絶対なのだと狩哉は自負していたのだ。
 たとえ介呪に必要な魂の消費量が多くとも、それ相応の力があった。
 それなのに――
「く、っそが……」
 今日、あっさりその得物を折られてしまった。
 あんなにも、簡単に。
 彼は、ずいぶん前に家族を殺されていた。神具を持った人間に襲われて、家族の皆が、そいつに嬲り殺しにされた。
「オレは、まだ弱ぇのかよ……」
 トツカノツルギの守役がいると聞いて、この街に訪れたのだが、やはりその力は想像以上のものだった。あのまま戦っていても、勝てるかどうか、分からないほどに。
「クソッ!」
 拳を地面に殴りつける。
 もっと強くならなければいけない。
 もっと、もっと、神具などに負けないぐらいに。
「やめて、狩哉」
 彼の拳を、小さな手が優しく包む。
 顔を上げると、銀髪の少女――シズクが、彼を心配そうに見つめていた。
「あなたは強くなった。もう少しよ。もう少しだけ、がんばって」
「……ッ」
 つらい時、いつも彼女は慰めてくれる。
 彼女だって、つらい思いをして来たはずなのに。それなのに、いつも狩哉のことを気遣ってくれて。
 パートナーだから、だけではないのだろう。
 きっと、それだけではない。
 だが。
 狩哉はそんな風に慰められる自分が、大嫌いだった。
 弱いのは自分のせいだ。
 自分自身が努力して、力を手に入れないといけない。
「分かってるさ。次はぜってぇ殺してやる」
 胸の中に決意して、狩哉は立ち上がった。
 それに安堵したように、シズクも立ち上がる。今からあの二人を追って、神具を破壊しなければいけない。
 そのために、狩哉は一歩、前に踏み出そうとして。
 気付いた。

「誰だ、てめぇ」

 男が立っている。
 あの少女が開けた亀裂の近くにいるということは、そこから入ってきたのだろうか。
 黒いハット帽を被り、赤いフレームの眼鏡をかけた男。
 亀裂が見えた、そしてこの世界について知っている風であるということは、明らかに一般人ではない。
「てめえ、とは物騒な言葉遣いですね」
 男はゆっくりと歩き出すと、そのハット帽に指をかける。
(んだ、こいつは……)
「実はですね、私今、少し腹が立っているんですよ」
 まるで他人事のように笑顔を浮かべながら、男は言った。
 薄気味悪い。
 率直に、狩哉はそう思う。
「んなこたァ、オレの知ったこっちゃねぇ。殺されてえのか、てめえ」
 歩き出した男に合わせるように、対峙するように、狩哉も歩き出す。
 やがて、少し距離を置いて、二人の足は止まった。
「まさか、処凛ちゃんが私に嘘を吐くとは思わなかったんですよ。今日は、ちゃんと学校に行ってくれていると思ったんですが」
 呆れたように、男は首を振る。
「仕方がありませんね」
 そして。
 男は胸ポケットから一枚の紙切れを取り出し、素早く投げて、宙に浮かせる。
 ちょうど正中線と重なり合った瞬間。
 パチン、と両面を叩いた。
「陣……」
 男の右に浮かんだ紋様を見て、狩哉は呟く。
「はッ、最初(はな)からやる気満々だったってか?」
「そうですね。そして、あなたはこの世から消えてしまいます」
「ああッ?」
 狩哉はすかさず、頭の中でイメージした。
 すぐにでも、この石像の騎士の大剣を動かせるように。
「行きますよ?」
 そして、男は言った。
「一の陣、紅蓮」
 その瞬間。
 現れた陣から飛び出した火龍を。
「蹴散らせッ」
 石像の騎士の大剣が、斬り裂いた。


 カラン、とコップの中で音が鳴った。
 緩やかな空気が流れている。
 耳に流れるリズムは、少し古めかしい感じがした。けれどそれが、胸の奥を落ち着かせてくれる。
「どこから、話しましょうか」
 対面して座っている処凛を、悠は見つめた。
 彼女の細い指が、コップの縁をなぞる。
 また、氷が動いた。
「まず、私たちについて話すのが、当たり前かな」
 口を挟めない状況に、悠は黙ったまま聞いた。
「廣瀬はね、わたしの親、みたいなものなんだ。わたしの家族はもうずっと前に、亡くなっちゃったの。ううん、殺されたのよ」
 沈黙が耳に張り付く。
 低いメロディに、頭の中を揺さぶられた気がした。
「生き残ったのは、私一人だった。毎日毎日悲しくて、そんな時に、廣瀬が現れたの。
『私と一緒に、来てくれませんか?』
 なんて、あいつ幼い時のわたしに言ったのよ? おかしいったらないわ。でも、そんなところだけは、あいつずっと変わんないのよね」
「……」
 処凛が目を細める。
 その感覚は、きっと悠も知っているものだ。
 彼が五年前を思い出す時も、同じ仕草をする。
「わたしの家族が殺されたのは、わたしが原初の者だったからなの。原初の者って、聞いたことない?」
「……ない、かな。ごめん」
「謝ることじゃないわ。そっか。普通は、ないものね」
 処凛は一度、小さく息を吐いて。
「心理世界は、もう分かるでしょ?」
「うん。何となく」
「その世界を作ることができる人間を、原初の者って呼ぶのよ。その原初の者の心の中にある心象風景が、作り出した異世界に映し出される。わたしの場合は、あの公園ね」
 昔、よく遊んだから。
 と処凛は寂しそうに付け足した。
(じゃあ、愛歌ちゃんのは……)
 一面に咲き誇った、彼岸花。
 それを、愛歌は家族と一緒に見たと言う。
 処凛が公園でよく遊んだように。
 小さな守役の少女も、そこで、確かな思い出を作ったのだ。
「原初の者の力が、どれだけすごいか、あんたにも分かるでしょ? 入れるとさえ認識すれば、私たちは誰だってあの世界に入れられるのよ。たとえ、相手が嫌がっていたとしてもね」
「……どういう、こと?」
 処凛の言っていることは理解できる。
 だが、それだけではないようが気がして、悠は聞き返した。
 もっと、もっと深く、恐ろしい何かがあるような気がするのだ。
「原初の者は、簡単に言えば未知の武器なのよ。誰にも知られず人が殺せるんだったら、喜ぶ人は多いでしょ? たいていは行方不明で片付けたりするけど、世界中で、そういうことは起こってる。それに、」
 処凛は一度、言い難そうに躊躇って。
「原初の者欲しさに、人を殺すやつだって、いるのよ」
 その言葉に、悠は納得した。
 処凛は家族を失った。
 だがそれは、神具を持っているような人間ではなく。
 原初の者の存在を知ってしまった人間が、彼女の大切な家族を殺したのだ。
「……ふざけてる、そんなこと」
 我慢できなくて、悠は呟いた。
 許せなかったのだ。
 その、あってはならない、現実が。
「そうね。ふざけてるわ」
 けれど、処凛はあっさり認めた。
 そこに感慨はない。怒りはない。ただそれが、当然だと言うように。
「そのために、わたしたちのいる組織があるの」
「そし、き? わたしたちって、もしかして廣瀬さん?」
 悠と愛歌を襲った、あの男。
 そんな廣瀬と世界の平和に、どう関係があるのか。
「そうよ」
 だが。
 処凛は誇張するでもなく、言った。
「Guard protection organization」
 一瞬、理解が追いつかなくて、悠は戸惑う。
「GPOって略して呼ばれてるけど、日本じゃ守役保護組織って意味にしてるの。廣瀬はその、意外と上の方に居てね? 今はこの風利市の支部長してるのよ」
「GPO?」
「そう。主な目的は、守役や神具の保護。それから、原初の者の保護ね」
「保護……でも、廣瀬さん、愛歌ちゃんを襲って……」
「初めから、乱暴にするつもりはなかったわ。そこに、あんたが加わったからよ」
「ぼく、が?」
 あの一件は、すべて自分のせいだったと言うのだろうか。
 けれど、あの廣瀬の切迫感は、尋常ではなかった。とても、『保護のために』愛歌を連れて行くようには、感じられなかったのだが……
「あ、そういえば、それじゃあWAOっていうのは、」
 少し誤魔化すためもあったが、GPOという単語を聞いて、悠は思い出した。
 たぶんそれも、何かの組織なのではないだろうか。
「ああ、WAOね」
 処凛は少し、面倒くさそうに。
「正式名称は、World adjustment organizationよ。世界調整組織って言って、神具に恨みのある人間が集まってるの。さっきみたいに、神具を見つけたら飛んで壊しに来るわ」
「……もし、壊されたら」
「壊れるわ。ただ、意識を直結させてる守役も死ぬけどね」
「っっ!?」
「守役から強引に神具を奪ってはいけないの。ただ、」
 ふと、処凛が愛歌の方を見る。
 ずっとジュースをちょっとずつ飲んでいたのだが、少し飽きたのだろうか、悠に寄り添って眠っていた。その寝顔が、とても無防備で、可愛らしい。
「ただ、守役は、次の守役に引き継ぐ際に、神具で殺してもらうそうよ」
「殺して……?」
「守役は、意識を神具と繋いでいるの。正確には、それを切り離して死ぬんじゃなくて、頭の中が、心の中がなくなってしまう、っていう意味の死なのよ」
「……」
「先代の守役は、後代に神具を託して、殺してもらう。生きていても死んでいる状態なのが、嫌だからよ」
 ふいと、処凛がそっぽを向いてしまう。
 悠は愛歌の顔を、見つめた。
 この娘は――千鳥愛歌は、トツカノツルギという神具の守役だ。
 つまり、守役である彼女は、先代の守役を、
「その守役は、実の姉を、手にかけたそうよ」
 苦虫を噛み潰したように、処凛が言った。
 トツカノツルギの先代の守役は、愛歌の姉だった。
 その姉から継承する時、愛歌は――
「……あんまりだよ」
 悠の唇から、言葉が滑り落ちる。
「まだ、こんなに小さいのに。それなのに、家族を手にかけないといけないなんて……っ」
「わたしも、そう思うわ。だから、組織があるの」
 くっ、と悠は唇を噛んだ。
 これ以上、神具によって犠牲者が増えないうちに。
「でも、一つだけ、納得できないよ」
 振り絞るように、声を出した。
 そう。
 たった一つだけ、その組織にもいけない点がある。
「そのGPOっていうところに神具を集めて、何をするの……」
 そんなにも強大な力が、一点に集まってしまったら。
 誰かが、そんな力をすべて、持ってしまったら。
 何のために。
 本当に保護のために、神具を集めているのか。
「……それは」
 処凛が、言葉を詰まらせる。
 WAOは、神具を恨む人間が集まる場所だ。
 なら、GPOは、どういう人間が集まる場所か。
 答えは、簡単だ。
 神具を使おうとする人間が、集まる場所なのだ。
 悠の言葉の意味を察したのか、処凛が俯く。その顔は、決して分からなかったとは言っていない。分かっていて、話をしたのだ。
「処凛さんは、トツカノツルギを、愛歌を、利用するつもりなの?」
「……仕方が、ないわ。だって、それしかないんだもの」
 その答えに、悠は失望する。
 これは、初めから和解などでは、なかったのだ。
「情報が、入ったの。わたしの家族を殺したアイツが、神具を手に入れたって……だってこのままじゃ、廣瀬が負けちゃうっ。廣瀬が戦ったら、死んじゃうものっ!」
 神具の力は、強大だ。
 それはたとえ、廣瀬といえども。
「処凛さんは、仇を討つために、神具が必要なの?」
 悠は処凛の瞳を見つめる。
 透き通った、綺麗なオレンジの双眸を。
 処凛は、かすかに、悲しそうに笑った。
「……ううん。わたしは、仇討ちなんて、もういいのよ」
 その答えを聞けると、悠は分かっていた気がした。
 神具を欲しいと彼女が言ったことは、示した行動は、何一つなかったから。
(処凛さんは、廣瀬さんを……)
「わたしにとって、廣瀬はたった一人の家族なの。もう、大事な家族を失いたくない。廣瀬だけは、絶対に死んで欲しくないのっ……」
 その目には、薄っすらと涙が滲んでいた。
 仇を討とうとする廣瀬。
 その廣瀬を守るために神具を手に入れようとする、処凛。
「そういうこと、なんだね」
 悠は納得する。
 二人の関係は、本当にかけがえのないものなのだ。互いに離れたくない、それほど長い年月を共に過ごし、絆を深めて来た。
 大事な人を失う気持ちは、失いたくない気持ちは、痛いほど分かる。
 けれど。
「でも、ごめん」
 悠にもまた、守りたいものができたから。
「これ以上、愛歌ちゃんに悲しい思いを、させたくないんだ」
 だから。
「トツカノツルギは、渡せない」
 ――カラン。
 氷の落ちる音が、鳴った。
 
 燃え盛る炎に、幾人もの魂が悲鳴を上げていた。
 瓦礫と化してしまった石像の騎士が、狩哉の視界に映る。
 刀で刺し貫かれ、倒れてしまったシズクの姿も。
「シズク、シズク、シズクッ!」
 仰向けに倒れたまま、狩哉は必死に起き上がろうとした。
 だが。
 その彼の掌を、グサリ、と刀が突き刺す。
「うッ、があああああああああああああああああああああああッッ!」
 悲鳴が響いた。
 絶叫が木霊した。
 炎に焼かれる鎮魂歌(レクイエム)に、ふと、狩哉は男の声を聞く。
「いいですね、いいですね。もっと泣いてください。もっと喚いてください。それが私の心を、突き動かしてくれるのですから!」
 嗤い声が響く。
 ひどく、ひどく狂った、男の声が。
「ふざけ、るな……シズクを、シズクをッ! っがあああああああああああああああああああああああああああッ」
 刀が、右の掌から乱暴に引き抜かれる。
 激痛が走った。
 痙攣した右腕が、もう、動いてくれない。
「仕方がありませんね。時間もないですから、もう殺して差し上げましょう」
 にたり。
 不気味な笑みが、狩哉の視界を埋め尽くした。
「ふざけるな、ふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなッ!」
「元気ですね。ですが、少しうるさいですよ?」
 赤いフレームの、その眼鏡の奥で。
 人を殺すことに慣れた、本当の殺人者の光が。
 すべての感情を押し殺した、孤独の人間の果てが。
 そのすべてを秘めた瞳が、笑っている。
「やめろ……、やめろやめろやめろ!」
 迫り来る刃に。
 彼の命を奪う、その切っ先に。
「やめろおおおおおおおおおおおおおおお――ッッ」
 その声も虚しく、狩哉の喉を、漆黒の刀が貫いた。
 小さな舌打ちがなる。
「……汚い、ですね」
 ただ燃え盛る炎が、一つの心を壊し、一つの命を――
 奪っていった。


 家に帰る頃には、すでに日が暮れかけていた。
 朱に染まる空を見ながら、悠は帰宅する。その隣には、小さな愛歌も連れて。
「愛歌ちゃん、明日も、行ってみるかな?」
 ちょこん、と服の裾を掴んだ愛歌が、けれどふるふると首を振った。
(まあ、あんなこともあったしね……)
 待ち人を待っていて襲われた、なんて二度と経験したくない。
 だが、他にどうすればいいのか、悠は分からなかった。
 普通なら、こういうことは警察なんかに任せるところだが、今はそういかない。
 それに、巻き込まれてしまった悠も、気は抜けない状況なのだ。
「何とか、なる、かなぁ」
 そうなってほしい、そんな希望だけを抱え、悠は足を進める。
「おかえりなさい、ゆうくん、愛歌ちゃん」
 玄関の扉を開けると、花音が待っていてくれた。
 まだ一日しか経っていないのに、悠はこの感覚に馴染んでしまっている。
 愛歌がいる、この柔らかな日常に。
「どうだった? 何か進展あった?」
 靴を脱いでいる最中に、そう聞かれた。
「うーん、あったような、なかったような……」
 本当にどっちとも言えなくて、悠は苦笑する。
 けれど。
「まあ、あったと言えば、あった、かな」
 今日は愛歌のことを知った。
 愛歌のいる世界を知った。今はこれだけでも、十分のような気がする。
「あ、あんまり急いじゃだめだよ、愛歌ちゃん」
 手を洗いに行こうとした愛歌が少しあぶなっかしくて、悠は慌てて声をかけた。
 だが。
 トテン、と。
 勢い余って転んでしまった愛歌が、半べそをかく。
「……だから言ったのに」
 そう口にした自分の口元が笑っていることに、悠は気付かない。
 泣き出した愛歌を見て、急いで家の中に上がった。



 真宮処凛は、俯いて家路を歩いていた。
 如月悠との交渉が、失敗したのである。トツカノツルギと戦うことさえ危険なことなのに、自分は廣瀬のために、何もすることができなかった。そう後悔する。
(わたしは……)
 それでも、あの神具を手に入れないといけない。
 自分のためにも、廣瀬のためにも。
 と。
 その時。

「処凛ちゃ~ん、どうしたんですー? 学校の帰りですか~?」

 そんな間延びした声が、背後から聞こえた。
 後ろめたさもあって、処凛は驚いて振り返る。
 すると、ちょうど廣瀬が駆け足でこちらに近寄ってくるところだった。処凛を見つけて嬉しそうに、走ってくる。
「いや、偶然ですね? 私も今、仕事が終わったんですよ?」
 廣瀬は、処凛が学校に行ったのだと勘違いしているはずだ。
 だから今、処凛が取るべき言動は気を付けなければいけない。
「そ、そうなんだ? 今日は早く終わったのね」
「そうなんですよ。早く帰れると思うと嬉しくて嬉しくて……そういえば、今日の晩御飯は何にするんです?」
「ええと、そうね、廣瀬は何がいい?」
「そうですね、処凛ちゃんの作る物だったら何でもいいんですが、あっ、カレーとかどうです? やっぱり、シンプルイズザベスト、じゃないですか?」
「ふーん、それじゃ、今夜はカレーで決まりね。美味しいの作ってあげるから、楽しみにしててよ」
 普段と何ら変わらない話をして、いつもと同じように笑顔の廣瀬が隣に居る。
(……バレては、ないのかな)
 ほっと一つ、処凛は胸を撫で下ろした。
 後はいつも通り、いつも通りにしていれば、何も問題ない。
 ――そのはず、だった。
「あ、そういえば、処凛ちゃん」
「え、何?」
 その一言が、処凛の脳裏に絶望を見せる。
「如月悠について、面白いことが分かりましたよ?」

心理世界の守役 三

心理世界の守役 三

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2012-11-11

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted