心理世界の守役 二
幕間 一
そこは、小さな村だった。
村民のほとんどが農業を営み、自給自足をしている、辺鄙な片田舎。山間に位置するその村は、余所者が入ることもなく、その村の中だけで世界が完成していた。
その村の中に、村を取り仕切る家系があった。
その家には、二人の姉妹が住んでいた。妹の少女は、唯一の姉を心から尊敬していた。肉親としても、尊敬する女性としても。
けれど、ある日、少女は現実でない異世界で、思いも寄らない現実を目の当たりにした。それは少女にとって何より最悪で、流し続けた涙さえ、枯れ果ててしまうほどだった。
(お姉ちゃん……)
彼岸花の咲き乱れる世界。
その中心で、少女は血塗れの刀を持ち、呆然とした。
目の前に実の姉の死体が倒れている。
少女の脳裏に焼きついていたのは、最後まで微笑みかける、姉の姿だった。
姉も、この刀で母を殺したと言う。
たった一本の刀を受け継ぐために。
ただ、それだけのために。
そして、それと同じように、少女は自分の手で姉の命を奪った。
いくら泣いても、叫んでも、姉は殺しなさいとしか諭してくれなかった。少女は、たった一本の刀よりも、姉の命の方がかけがえのないものだったのに。
姉の心を映した世界は、やがて崩れていった。
壊れていく世界の瓦礫に彼岸花が押し潰され、慕っていた姉の心が、どんどんと崩れ去っていく。
こんなにも鮮やかで綺麗な世界が、もう二度と見られることもなく、消えてしまうのだ。
姉の死体は、未来永劫、この世界にあり続けるのだろう。
彼岸花の咲き誇るこの美しい世界で、彼女の心とともに、ずっと。
けれど、少女は永遠には、ここにはいられない。
現実に出て、自分の運命を全うしなければ、命を果たした姉に合わせる顔がないからだ。
姉と再会するのは、きちんと使命を果たしてからでないといけない。
壊れゆく世界の中、ただ彼岸花だけが、かすかに揺れる。
その日、少女は言葉を失った。
二幕 日常 Changed_everyday
「……まさか、私と殺り合う気ですか?」
生温い風が吹いた。
廣瀬のサングラスの奥――そこに、凍てつく殺意が膨れ上がる。
「よく、分からないです。でも、この娘だけは、守って見せます」
悠は断言した。
もう、そこに迷いはない。
守ると決めたのだ。
この温もりを、二度と亡くしはしないと。
(この娘だけは……)
「さっきまで死にたいと吐かしていたくせして、もう気が変わったのですか。あなたの覚悟は、見て来た絶望は、たったそれだけの物だったんですねッ」
互いの刀身が、ギチギチと震える。
緊迫した状況の中、決して油断できる瞬間などなかった。
「ッ、クソ! なら、私があなたに本当の絶望を見せてやりますよ。ガキ一人さえ守れず、あなたは死んで泣き叫べばいいッ!」
急に、廣瀬が後方へ退いた。
刀に乗っていた重みが、一気に解放される。
距離を取った廣瀬を警戒しながら、悠は少女を一瞥した。刀を完全に胸元から引き抜くと、虹の穴はたちまち収束してしまう。
夕暮れから突然変わったこの世界も。
いきなり斬りかかって来る廣瀬も。
そして、一振りの刀を預けてくれたこの少女も。
何一つ、悠には分からない。相手が何者で、少女が何者で、自分はどんな状況に置かれてしまっているのか。
(けど、)
けれど、一つだけ分かることがあった。
悠は、少女のおかげで生きたいと思えた。死にたいという気持ちを忘れさせてくれた少女のために、彼はこの刀を守ろうとしている。
なら、するべきことは決まっている。
この刀を守り、そして――
(この娘を、守る!)
「刀を使える者がいないと聞いていたので、つい油断してしまいましたが。ここからは本気で殺しに行きますよ?」
軽い金属音が鳴った。
廣瀬が、刀を構える。彼の左の人差し指が、輝く刀身を、ゆっくり、ゆっくり撫で、
「――介呪、発動」
その呟きと同時、青く波打っていた波紋が消えた。
廣瀬の愛刀、妖刀ムラマサ。
その刀身が、指でなぞられていくごとに、刀身が黒く染まっていく。
(どうなってるんだ……)
指でなぞるだけで、みるみるうちに黒く変色するなんて。
普通では、ありえるはずがない。
(それに、)
介呪、とは何か。
それを廣瀬が呟いて、刀が変化し始めた。その言葉に、何かの意味があるのだろうか。
「さあ、行きましょうか」
やがて、ムラマサの刀身がすべて、漆黒に染まる。
一つの乱れもなく。
一つの他色もなく。
たった一つの色に、すべて。
黒く、鋭利な輝きが、光を反射した。
「……一の陣、紅蓮ッ!」
途端、廣瀬の正面に巨大な『陣』が現れる。
ムラマサを引き抜いたあの時のような、虹のような光で描かれた紋様。
だが、今度はその形状が違った。
円の中に五角形を組み、線の外と内にびっしり異国の文字を刻んだ形。それが、廣瀬の背丈はあろうという大きさで、浮かんでいるのだ。
そして、何より次の瞬間。
悠は信じられない光景を、目の当たりにした。
轟ッ!!
と、陣の中から勢いよく炎が溢れ出る。それはだんだんと形を捉え、巨大な牙を生やした、灼熱の龍に化けた。
長い、長い胴体が、蛇のようにうねる。
噴き出した熔岩のように炎を散らす炎熱の塊が、瞬間、吠えるように口を天に向ける。
そして。
「行きなさい、紅蓮」
鱗の一枚一枚まで丁寧に作り上げられた神話の幻想獣が、悠目掛けて突進してくる。顎を目一杯に開き、火花を散らす牙を見せつけ、彼の恐怖を底知れなく煽いだ。
悠は咄嗟に少女を連れ逃げようとしたが、それほどの時間はなかった。
それに、悠が体を動かせば、龍も同じように進路を変えようとする。逃げることも、避けることも叶わず、彼は咄嗟の判断で刀を盾に使った。
刀身を左手で押さえ、柄を右の手で押さえる。
数秒。
一寸の狂いもなく、灼熱の龍は悠に激突した。
「……ッッ!」
とてつもない衝撃が、体を襲う。
だが。
炎に焼かれるような痛みは一つもなかった。
皮膚が灰に化していく苦しみも、汗腺が焼け尽きていく激痛も、何も感じない。ふと目を開けてみれば、悠は自分の体が火達磨になっていないことに気付いた。
焼けるような熱風は感じる。
けれど、それだけなのだ。
「これ、は」
悠は気付いた。
別に、龍の炎が見せ掛けだったわけではない。
盾にするように構えた、この刀。
まるでそれが壁であるように、灼熱の龍がぶつかり、消えていく。
刀に触れた瞬間、炎の塊が分解され、消え去っていくのだ。
やがて、龍の尾までも分解し終え、廣瀬の前に浮かんでいた陣が砕けるように散った。
(終わった、のか……)
心臓がバクバク音を鳴らしている。
一瞬、本当に死ぬことを覚悟した。だが、信じられないことに、まだ地面に立っていられている。
「これはすごい、紅蓮をこんなにも簡単に消してしまいますか」
刀を降ろした廣瀬が、感嘆の声を漏らした。
「さすがは神具といったところですね」
「しん、ぐ?」
「おっと。余計なお喋りでしたか」
今一度構え直して、廣瀬は言う。
「ですが、本当に侮れないことは分かりました。手段を選んでいる暇はない。全力で奪い取れ、ということですよね?」
慌てて、警戒するように悠も構え直した。
今まで、刀を握ったことなど、一度もない。だが、悠はどこか、胸のうちに余裕と言えるようなものを感じていた。
この刀を握っていれば、何も問題ない。
得も知れない何かが、そう教えてくれる。
「次は確実に、殺しますよ?」
瞬間。
廣瀬の手にあるムラマサが、一際激しい、輝きを放つ。
まるで黒曜石が陽光を反射したような、そんな闇の光輝。
「現れなさいッ」
笑うように、歌うように、廣瀬は。
「紅蓮紅蓮紅蓮紅蓮紅蓮紅蓮紅蓮紅蓮紅蓮――、」
いくつもの陣が、廣瀬の周りに浮かび始める。
その一つにも目もくれず、彼は告げた。
「死角すら埋め尽くし、塵も残さず燃やしなさいッ!」
一瞬の間に、周囲に浮かんだ陣から一秒の誤差もなく九匹の龍が飛び出す。
炎に空気が焼かれ。
唸り声に大気が震え。
龍たちが、悠を取り囲むように四方八方から襲い来る。
咄嗟に、悠は足を走らせていた。
ほとんど無意識の状態で、体が動いたのだ。
そして、ワンピースの少女と少しだけ距離を取り、彼女が巻き込まれない位置で止まる。その時には、もうすぐそこにまで、灼熱の龍たちが近づいていた。
――だが。
「っっ!」
必死で、地面を踏み締める。
腕の筋肉を限界まで絞り出し、目一杯に腰を捻り、左から右へ思い切り刀を薙いだ。
正面から襲い掛かってきた三匹の顎を切り裂く。
一瞬で爆炎が巻き起こった。
そのまま炎塵に目を細めながら、体を反転させ、頭上から襲い来る一匹を、刀を大きく縦に振り下ろし、斬る。
すぐ近くで爆弾が爆発したような暴風が、悠を襲った。
けれど、それでも、彼は動きを止めない。
普段の彼からしてみれば『とっくに限界を超えている』動きをしていながらも、足が、手が止まることはなかった。
後方から悠を襲おうとしていた龍たちが、反転した彼の正面から飛び掛かる。
その数、五匹。
彼の視界を埋め尽くすほどの数だ。
四匹が下を、残りの一匹がそれらの上を飛んでいる。
悠は一匹一匹の配置を確認すると、自分から一歩前に踏み出し、左薙ぎに斬りつけた。四匹の龍が爆ぜ、その衝撃に巻き込まれないようわずかに身を逸らす。
正面に視線を戻せば、目と鼻の先に熱気を帯びた灼熱の顎があった。
一秒となくぶつかる、そんな距離に龍の牙が迫っている。
だが。
トン、と悠は一歩、足を後ろに退く。
そして、そのまま、わずかに空いた空白の一瞬に、下げていた刀を斬り上げる!
視界が埋め尽くされるほどの爆煙が上がった。
咄嗟に、悠は周囲に警戒の目を走らせる。
――その、瞬間。
ドクン――
急に、一定していた鼓動のリズムが、また崩れた。
かすかな眩暈に襲われる。
(……何、)
だが。
その一瞬を、目の前の敵が逃すはずもなく。
立ち昇る煙に包まれた悠を、突然――
轟! と背後から何かが襲った。
「トツカノツルギッ、素晴らしい、何と素晴らしい物なんでしょうかッ! 早く私にそれを渡しなさいッ! てめぇが死のうが生きようがどうでもいいんですよッ、早くそれを寄越せっつってんですッ!」
激しい剣戟と、やがて鍔迫り合いの金属音が響く。
首を絞めるような緊張が、二人を包んでいた。
「……ぐっ」
さっきまでとは比べ物にならないほど、廣瀬の押しが強くなっていた。
ただでさえ筋力のない悠は、それに押し負けそうになる。
そこに眩暈と、急激に襲われた疲労感も合わさり、腕から力が抜けそうになるが――
けれど。
「だ、だめです。これは、この刀は、あなたには渡せませんっ!」
悠は疲れ切った腕で前へ、前へ押していく。
腕が痛い。体の至るところが、悲鳴を上げている。
それでもまだ、諦めることはできない。
そして――
「うぉおあああああああああッ!」
絶叫のような廣瀬の声が、耳を劈く。
先に鍔迫り合いを解いた廣瀬が、身を屈め、斬りかかろうとした、その時。
けれども刃は、ピタリと止まった。
「廣瀬っ! もう時間よ!」
下方から切りつけるムラマサが、悠の首元を捉えようとしたまま、静止する。
上方から振り下ろそうとした悠も、動きを止めた。
(この声……)
逼迫した中で、視線を逸らすことはできない。
けれど、この声が、廣瀬とともにいた少女のものだということは分かった。
互いに視線をぶつけあった後、やはり先に、廣瀬が刀を降ろす。
「ッ、仕方がありません。今日は、ここまでにして置きます」
「……」
構えを解いた廣瀬が、再び陣を出してムラマサを直す。
それでようやく、悠も刀を降ろした。
何がどうなっているのか、一つも分からない。
ただ、廣瀬は、何かのタイムリミットの中で戦っていたらしい。
忌々しそうに舌打ちをして、廣瀬は、
「近く、その刀は絶対に奪わせてもらいます。それまでに、死なないようにしてください」
それだけを残し、パチン、と指を鳴らした。
瞬間、二人の姿が掻き消える。
まるで何もなかったように、あっさりと。
「え……?」
それがあまりに淡々としていたものだから、悠は戸惑った。
「どう、すればいいの」
後ろを振り返れば、ワンピースの少女だけが、嬉しそうに笑っていた。
玄関の扉を開けると、悠は一番に苦笑を浮かべた。
ふらふらの体で帰って来て。
ただいまと口にしようとすると、
「ゆ~う~く~ん?」
と、般若のような幼馴染が、血管をピクピクさせて待っていたからである。
「え、と。た、ただいま、かの……」
「もうっ、こんな時間までどこいたの!」
珍しく、花音の声がキンキンと響いた。
彼女が怒ることは滅多にない。途中でいなくなって、しかもこんな時間に帰宅したのは、やはり彼女でも我慢ならなかったのだろう。
「ご、ごめん。それより、何で花音が、うちに」
「小母さんに頼まれたの! ちょっと小父さんのところに行かなきゃいけない用事ができたからって! でっ? 何をしてたの!?」
むぅ、と頬を膨らます花音に、悠はどう説明しようか迷う。
迷子の少女に話しかけて。
廣瀬と言う人物に会って。
龍を斬って来ました。なんてことは、口が裂けても言えない。
(言っても、信じてもらえないし……)
そこに、誰かが悠の服の裾を引っ張った。
(あ、そうだった)
悠の後ろに隠れるようにしている、小柄なワンピースの少女。
先に、この娘を紹介しようと考えた。
「花音、あのさ」
「何?」
むくれっ面の花音に、悠は苦笑する。
「大丈夫だよ。このお姉ちゃん、怖くないからね?」
その台詞が、少し花音の怒りゲージを上げたことに、悠は気付けない。
少女はなかなか出てきてくれなかったが、促すにつれ、次第に諦めた様子でおずおずと足を前に出してくれた。
俯き気味の彼女を見て、急に花音が目を見開く。
「え? っへ? 何で? ゆうくんどうしたの、この娘!」
「ええと、迷子になってたから、連れて来たと言うか、それとはちょっと違うと言うか……」
あんまり説明しづらくて、悠はポリポリと頭を掻いた。
(何て説明しよう……)
「え? ゆうくん、まさか誘拐、とか……?」
「い、いやいや、違うよ花音! そんなんじゃない! そんなんじゃないから!」
だよね、と花音が胸を撫で下ろす。
そんな誤解を受けたら、本当に何の弁解もできなくなる。
「……とりあえず、私、この娘お風呂に入れていいかな。ゆうくんもだけど、何かすごい汚れてるから……もしかして、二人で遊んでたの?」
公園かどこか、ということなのだろう。
ひとまずそうしておいた方が、いいのかもしれない。
「そんな感じ、かな。お風呂に入れてくれるなら、助かるよ」
「そっか。それじゃ、とりあえずね? ゆうくんもちゃんと入るんだからね?」
「うん。分かってる」
その前に眠ってしまいそうな気がするけれど。
心配そうな顔をするワンピースの少女を連れて、そのまますぐに花音は風呂場へと向かう。
二人が入っている間、悠はどうしようか迷ったが、とりあえず居間にいることにした。
靴を脱いで、フロアに上がる。
今朝までは何気なかったはずの家なのに。
どうしてか今は、とても新鮮に感じた。
体を包む空気が、ひんやりとしていた。
街から外れた道を歩いて、処凛は銭湯へ向かう。
隣にはふてくされた廣瀬も歩いていて、街灯の明かりを浴びながら、気に入った玩具を買ってもらえなかった子供のように、不機嫌そうな顔をしていた。
「いつまでふてくされてるの、廣瀬」
その声に、軽いブーイングが聞こえてきそうな顔で廣瀬が振り向く。
「ふてくされてなんかいませんよ、別に。私はただ、もう少し戦っていれば、絶対にトツカノツルギを手に入れられていたんです。自分の力不足を悔やんでいるだけですよ」
それをふてくされていると言うのだが。
その言葉を言おうとして、けれど処凛は喉の奥に沈めた。
今の廣瀬に何を言っても、仕様がないのだろう。聞こえないよう小さくため息を吐いて、彼女は夜空を見上げる。
「廣瀬ががんばってるのは、知ってるよ。私のために色んなことをしてくれてるのは、ちゃんと分かってる。でも、たまにはいいんじゃないかな、こんな風にゆっくりするのも」
廣瀬が神具を欲しがる理由は、何より処凛のためだった。
彼は処凛の事情を知っていて、肩代わりをするように想ってくれているからこそ、その強大な力を手に入れようとしている。
「廣瀬はがんばり過ぎなのよ。だから、たまには休憩もしないと廣瀬の体が壊れちゃうでしょ? そうなっちゃったら、私心配するよ? いいの?」
「……、」
廣瀬はやる瀬ない感じを滲ませながら、俯く。
けれどすぐに、一つ息を吐いて、顔を上げた。
「そう、ですね。処凛ちゃんに心配をかけてしまっては、元も子もないです。――分かりました、今はこれでよしとしましょう。次に向けて精一杯がんばりますよ」
参ったとばかりに両手を挙げる廣瀬。
廣瀬は、処凛の言うことだけはしっかりと聞いてくれた。
約束だって、今まで一度も破ったことはない。
もちろん、彼から嘘を吐かれた覚えもなかった。
従兄弟の廣瀬は、いつだって、処凛に優しいのだ。
――『あの夜』に、必死になって、いなくなった処凛を探して嘆いてくれたほどに。
「しかし、」
廣瀬が不思議そうに首をかしげて、
「誕生日プレゼント、本当にあれだけでよかったんですか? どうせなら、レストランにでも行って盛大にお祝いしたいのですが……」
今日、七月十日は処凛の十五回目の誕生日だ。
だから、廣瀬と一つの約束を交わしていた。今日だけは仕事を早めに切り上げ、一緒に誕生日ケーキを買いに行くと。今日だけは、ちゃんとゆっくり、二人で過ごすのだと。
約束していた時間がトツカノツルギの守役たちと戦闘を繰り広げていた最中と重なったのは、ただの偶然だが、内心、処凛はこれでよかったと思っていた。
処凛は、できるなら廣瀬に戦って欲しくない。
もちろんそれは、あのトツカノツルギを持った守役や少年ともだし、それ以外の人たちともである。
それでも廣瀬は『組織』に入っていることもあって、戦いを止められはしない。それは彼が、自ら望んだことだから。
だが。
今日、トツカノツルギを前にして、処凛は直感した。
感覚として、分かってしまったのだ。
たとえ廣瀬と言っても、神具に勝てるかどうかは、分からない。
廣瀬が今まで戦って来た相手で、ああまで『紅蓮』という龍を凌いだのは、あまり見た試しがない。
廣瀬自身でも難しいだろうことを、あのトツカノツルギは、少年は、いとも簡単にやってのけてしまったのだ。
原初の者ではない人間が行うことができる、介呪。
心理世界で自分の想像を具現化できるそれは、魂を源にして行われる。
『魂を斬ることができる』トツカノツルギは、その力ゆえに、神具と呼ばれるようになったのだ。
その力の差は、歴然としているのかもしれない。
「どうしたんです? やっぱり、今からでもレストランに」
考え事をしていたせいか、心配そうに、廣瀬が顔を覗いて来た。
「ううん。レストランは、別にいいよ。プレゼントももらったし、後は廣瀬と一緒にいられたら、それだけで嬉しい」
「そう、ですか? 処凛ちゃんが言うなら仕方ないですが……しかし、何かあったらすぐに言ってくださいね? 私は何でもしますから」
「うん。ありがと」
前から欲しがっていたヌイグルミやケーキ、ちょっといいなと思っていたアクセサリーまで、知らぬ間に買ってきてくれていたことのある廣瀬。
気が利いていて優しいのだが、これ以上頼むのは、さすがに度が過ぎると処凛は思っている。第一、彼女は廣瀬と一緒にいられるだけで、十分だった。
と。
「あ、あれだ」
古びた銭湯の屋根を見つけ、処凛ははしゃぐように声を出す。
家に風呂がないわけではないが、今夜は夜道を歩いて銭湯に行きたかった気分なのだった。もちろん、廣瀬と一緒に。
「廣瀬、早く!」
少しだけ駆け足で、銭湯へ急いだ。
幼い子供のように無邪気に笑って、廣瀬に声をかける。
彼はただ優しげに微笑んで、
「今行きますよ。銭湯は逃げませんから、焦らないでください、処凛ちゃん」
けれど忠告も空しく、処凛は何もないところでこけた。
「ゆうくーん、ちょっといーいー?」
居間で眠り被りながら、テレビを見ていた時だった。
十分ほどして、廊下を挟んだ向こうから、そんな声が聞こえる。
(花音、か……)
ふわあ、と一つあくびをして、ゆっくり立ち上がった。
「どうしたのかな」
今は風呂に入っているはずだ。
それで悠を呼ぶことが、何かあっただろうか。
脱衣所に入ると、モザイクガラス越しに二人が動いているのが見えた。何をしているのかはよく分からないが、お湯の音からして、花音が少女の頭を洗ってあげているのだろうか。
「どうしたのー?」
眠りかけていたので、何だか頭の中がふわふわしていた。
ガラスの向こうから、声が返ってくる。
「あのねー、この娘の着替えなんだけどー、後で私の持ってくるから、とりあえずゆうくんのシャツ、一枚貸してくれないかなー?」
なるほど、そういうことか。
納得した悠は、
「分かったー」
と返事をして、二階の自室に一度戻った。
今日の運動量はいつもの何倍もあったから、ずっと眠気が絶えてくれない。ぼーっとした頭のまま、適当なシャツを一枚引き出しから出して、再び一階へ降りる。
そして、再び、脱衣所でガラスの前に立って。
「持って来たよ、ここにお――」
いとくね。
と、言う前に。
ガラガラガラッ――
と目の前のガラス戸がいきなり開いて。
「……え?」
悠は一瞬、我が目を疑った。
瞬間、体に何かの衝撃が加わる。そう、まるで何かに抱きつかれたような、そんな衝撃。
脱衣所に湯煙が広がる中、悠はふと視線を下ろした。
裸体の少女がいる。
白い滑らかな肌を露わにした少女が、悠に抱きついている。
それはまるで、何かから逃げて来たような格好で。
咄嗟のことに状況を掴めず、悠は思わず視線を上げてしまった。
すると、今度は浴場のすべてが視界に入ってしまう。
そうしたら、そこには少女と一緒に入っていた花音もいるわけで。
その花音も、今は裸になってしまっているわけで。
驚きのあまり、何もできずにいる彼女を見つけてしまった。きめ細かな肌に、二つの大きな双丘が映る。弧を描くくびれに、肉付きのいい体が動く度、柔らかな桃が揺れ動き――
「わ、わわっ! ごめん! ごめん花音っ!」
悠は必死に謝った。目を手で覆い隠し、見てないと弁解する。
だが。
「ゆ~う~く~ん……」
ちらりと指の間から覗いた瞬間。
「ゆうくんのばかぁ!」
花音の拳が、龍よりも勢いよく、悠の顔面を突き飛ばした。
夜、悠は廊下を歩いていた。
リビングでは、少女と花音がテレビを見ている。
花音が服を持って来てくれたので、さっき見た時はワンピースではない、ネグリジェみたいなものを着ていた。一応、寝る前ということを意識したらしい。
体がいつも以上に火照っていると、悠は感じていた。
今は風呂上がりである。そのせいもあるが、ここまで体を酷使したことが、今まで一度もなかったからだろう。
(体中、痛いし……)
タオルを首にかけたまま、悠は玄関へ向かう。
今、家の中にいると、内側から焼け死んでしまいそうだ。スリッパを履いて外に出ると、涼しい夜風が体を包んだ。
「気持ちいい……」
この実感が、今生きている心地を与えてくれる。
ほんの少し前までは、こんなことを感じることはなかったのに。風を気持ちいいと感じることも、一日が、こんなに楽しいと、感じることも。
「……」
ふと、背中を突かれたような気がして、悠は振り返った。
視線を下げると、スケッチブックとマッキーペンを持った少女がいる。この少女のおかげなのだと思うと、ふと口元がほころんでしまう。
「どうしたの?」
時間は経っているとはいえ、彼女が湯冷めしないか心配した。
だが。
『お話、したいの。』
「話?」
『うん。あ、さっきはごめんなさい、ゆうおにいちゃん。』
さっき、というのは、風呂場でのことだろうか。
悠は思い出して、苦笑した。自分のせいで、悠が花音に殴られたと思っているのだ。あながち間違いではないが、そこまで気にすることでもない。
「大丈夫だよ。まさか、お風呂が嫌いだったなんて思わなかったけど」
早く上がりたい一心で扉を開いてしまった――そのせいであんなことになってしまうとは、この少女も思っていなかっただろう。
「あ、それより、今さらなんだけど、一ついいかな?」
少女が首を傾げる。
「え、と。名前、教えてもらってもいい? どっちとも、ちゃんと自己紹介してなかったから」
こくり、と少女が頷く。
『千鳥愛歌、です。』
「愛歌……愛歌ちゃん、か。いい名前だね」
照れたように、少女――愛歌が俯く。
それが何だか、悠にとって微笑ましかった。
「ぼくは如月悠。今さらだけど、よろしくね」
手を差し出すと、愛歌はおずおずと握手をしてくれた。
こうして人と接することもなかったので、心持ち、悠は嬉しく感じる。
「ええと、それで? 話って、何かな?」
少女は、忙しなくペンを走らせる。
『トツカノツルギ。おにいちゃん、何にも知らないから』
「トツカノ、ツルギ……」
一瞬で、今日、街であったことを思い出した。
少女の胸から引き抜いた、ひどく綺麗な刀。
その刀を使って、廣瀬という男と戦った。灼熱の龍を斬り、九匹の龍に囲まれ、それでもなぜか体が勝手に動いて、悠は難を凌いだ。
『いい?』
少しぼうっとしてしまった悠を、愛歌が心配そうに見つめる。
「え、あ、うん。ぼくも、あの刀のこと、知りたいから」
廣瀬はトツカノツルギを狙っている。
その守役である、愛歌も。
さらには、そんな異常な世界のことを知った、悠もだ。
だったら、知らないわけにはいかないだろう。
愛歌が真っ直ぐに、悠を見つめる。オレンジの瞳が、わずかに細まった。
そして、一瞬。
視認すらできないまま、世界が移り変わる。
ただ気付けば、周りの景色が彼岸花で埋め尽くされていた。
『ここは、わたしの心理世界』
スケッチブックに書かれた愛歌の文字が、どこか寂しそうに見える。それは、彼女の表情がその一言に尽きたからかもしれない。
(心理世界……?)
愛歌はこの世界が、自分のものだと言った。
(どういう、こと?)
「心理世界って、何なの?」
『心の中のけしき、っておねえちゃんが言ってた』
誰にでも思い出の地があるように。
その誰かにとって、決して忘れられない場所があるように。
その心象風景を写し取った世界が――心理世界。
「じゃあ、これは」
愛歌が丁寧に、言葉を綴っていく。
『ずっと前に、お母さんとおねえちゃんといっしょに、お山の中で見たの。』
「そう、なんだ」
それを聞いて、悠はふと思った。愛歌には、母と姉がいる。
「お母さんとお姉さん、愛歌ちゃんのこと心配してないかな」
事の経緯は分からない。
けれど、実の娘がいなくなったのでは、さすがに心配するだろう。
だが。
愛歌の返事に、悠は言葉を失った。
『お母さんも、おねえちゃんも、もういない。どこにも。』
もしかしたら、彼女の深く、悲しい部分に触れてしまったのかもしれない。
「ごめん、愛歌ちゃん……」
謝る悠に、けれど愛歌は首を振って見せた。
その表情に悲しそうなものはないが、それは、少し強がっているようにも見える。
『気にしないで、おにいちゃん』
そんな愛歌がふと愛おしく見えて、悠は彼女の頭を撫でた。
最初は驚いた風でも、大人しくしていてくれる。
『おねえちゃん、言ってた。』
愛歌の瞳に、不安は何も感じなかった。
『優しいおにいちゃんが来てくれるって。ゆうおにいちゃんだったの?』
あのベンチで待つよう言ったのは、愛歌の姉だったのか。
ということは、もしかしたら、あの場所で待っていたら、誰か訪れるのかもしれない。
(行く、べきなのかな)
愛歌のためを思うなら、会いに行くべきだ。
だが、もしその人物が愛歌を連れて行くと言ったなら。
悠ともう、一緒にはいられないとなってしまったなら。
(でも、それでも……)
「ううん。違うよ」
自分のことばかり、考えていてはいけない。
今大事なのは、愛歌のためになるかどうか、なのだ。
「明日、もう一度あの場所に行ってみよう。そうしたら、誰かいるかもしれない」
『ゆうおにいちゃんじゃ、ない?』
「うん」
愛歌が、寂しそうに俯く。
答えていいのなら、自分だと言いたかった。
けれど、それでは何も、どうにもならない。やはり、悠一人では力不足でしかないから。彼女のためにできることは、ほとんど何もないから。
(……仕方が、ないんだ)
「お姉さんは、その、トツカノツルギっていうのに、何か言ってたの?」
顔を上げ、愛歌はスケッチブックに書き始める。
今は、これでいいのだ。
『トツカノツルギは、神具っていうぶきなの。かんたんに、人をころしちゃうって。』
刀を持つだけでも、悠は危険過ぎると思う。
だが、それ以上に危険な世界が、今現実にあるのだ。
心理世界。
その中で、人が人を殺す空間が、当たり前として存在してしまっている。
『だから、』
強調するように、愛歌は見せ付けた。
『人をころしちゃうような人に、わたしちゃいけないって、言ってた』
トツカノツルギ――神具というものが、実際にどれくらいの凶器なのか、悠にはまだ計り知れない。
でも、悠はあの刀の、力の一端をその身で体験した。
敵意に晒されるだけで、どう動けばいいのかが手に取るように分かる。次の動作も、タイミングも、何もかもが。
さらには、灼熱の龍すら斬り裂くことができるのだ。
そんな物を、悪用するような人間に渡してしまうなど、絶対に許されない。
「……分かった」
守役。
廣瀬の言っていた言葉を、悠は思い出す。
彼女は――千鳥愛歌は、文字通りその神具を守って来たのだ。そして、悠の予想が合っていれば、きっと彼女の姉や母も……
そんなに大切な物を、簡単に奪われるわけにはいかない。
(ぼくが、守るんだ)
トツカノツルギを。
愛歌を。
と、そこでふと、悠は気付く。
愛歌の母や姉は亡くなってしまった。
それでは、他の家族は?
愛歌は、どうやってここまで来た?
「愛歌ちゃん、そういえば、なんだけど」
それが触れてはいけない部分にあるような気がして、言葉をかけづらかった。
「お父さんは、いるの? 最初にいたあの場所まで、もしかして、一人で……」
そこで、初めて愛歌の表情に暗い影が差した。
今にも泣き崩れそうで、でもそれを必死に我慢している、そんな痛々しい表情。
(こんな、小さな娘が……)
『お父さんは、村にいるの。でも、お父さん、わたしのこときらいって言ってた。』
それが、どんなに悲しそうな顔だったか。
それが、どんなに泣きそうな、つらい表情だったか。
一目でいい。
その父親の顔を見て、怒鳴りたい衝動に悠は駆られた。
ぎゅっと、強く拳を握る。
『あそこまでは、一人で来たの。おねえちゃんが、あそこでまってればいいって。』
大事な人を亡くし、一人言いつけを守り。
かけがえのない人を亡くす痛みを、悠は知っている。
けれどこの小さな女の子は、それ以上に、悲しい思いをしていた。
愛歌は、ちゃんと泣いたのだろうか。
母を亡くし、姉を亡くし、ちゃんと泣かせてくれる人がいたのだろうか。
『おにいちゃん?』
唇を噛み締めていた悠に、愛歌が心配そうに覗き込んで来た。
――なんで……
「ううん。大丈夫だよ」
悠は平静を装って、安心させるように返す。
こんなところで怒っても、かえって愛歌を心配させるだけだ。
それが、はっきり分かるから。
「実はね」
悠は、遠い、遠い過去を思い出す。
昔、幼い頃、色を失ってしまった、あの日のことを。
「ぼくも、昔大事な人を亡くしたんだ。ぼくはあの時、すごく悲しかった。もう何もかもが嫌になって、何もしたくなくなって。だから、少しなら、愛歌ちゃんの気持ち、分かるような気がするんだ」
驚いたような顔をする愛歌の頭に、ぽん、と悠は手を載せた。
にわかに、彼女が目を見開く。
「だからね、」
悠は、優しく微笑んで。
「泣きたいときは、ちゃんと泣いていいんだよ?」
それが一番大事だと、彼は思うのだ。自分の時も、そうだったように。
少女の目に涙が溜まっていたから、悠は愛歌の頭に手を載せた。少しでも落ち着いて、少しでも多く、つらい感情を吐き出してもらうために。
「……っ」
小さな瞳から、ぽろぽろと涙が零れる。
彼女は一体、どれくらい我慢していたのだろう。
どれくらい、泣けないことを、泣かないことと勘違いしていたのだろう。
悲しい時に、言葉は必要ない。
ただ傍にある温もりだけが、癒してくれるのだ。
「ぼくでよかったら、胸、貸すよ」
そっと、悠は愛歌の体を包んだ。
そんな彼の胸に顔を埋めて、愛歌は嗚咽を漏らす。
彼のシャツをぐしょぐしょに濡らして、ただ、泣き続けて。
誰かの悲しみを背負ってあげられることが、悠は嬉しかった。
事の成り行き、のような感じで花音も泊まることが決まった。
花音はたまに泊まりに来るので、いつも通り別の部屋で寝ればいいのだが――そう悠は言ったのだが、最後まで花音は『同じ部屋に寝る』と譲らなかった。
(まあ、この娘のせいなんだろうけど……)
二人分の布団を敷いた、その中心――悠は首を回して、右隣に眠っている少女を見た。
肩くらいまで伸びた髪に、あどけない顔立ち。
(まだ、十二才くらい、かな)
こんなにも小さいのに、その体に抱え切れないくらい、重いものを抱えている。
それがすごく可哀想に思えて、悠は居たたまれなくなる。
いつかは、その重荷を減らすことができたら。そう思って、彼は少女の頬に手を添えようとしたが――
「ゆうくん、まだ、起きてる?」
その声に、ビク、と体を震わせた。
今度は百八十度、首を回して左隣を向く。
だが、すぐ目の前に花音の顔があって、悠は驚いた。せめて、あまり目を合わせないように、視線を逸らす。
「愛歌ちゃんに、変なことしてないよね?」
心当たりになりそうなものが一つあって、視線が泳いだ。
「し、してないよ。するわけ、ないよ」
愛歌が起きないように、小声で弁明する。
少し不審がられたが、花音はふと、息を吐いた。
「……ごめんね、ゆうくん。無理言っちゃって」
花音が謝っているのは、たぶんこうして宿泊していくことだろう。急な話であったし、愛歌が悠と一緒に寝ると聞かないので、こうして三人一緒に寝るようにまでしたのだから。
(気には、してたんだ)
そういう素振りを見せなかったので、今まで気付けなかった。
けれど、だからと言って、何かあるわけではない。それぐらいどうもない関係が、幼馴染なのだから。
「大丈夫だよ。気遣ってくれて、ありがとう、花音」
「……優しいね、ゆうくんは。そこはずっと、変わってない」
何かを思い出すように、花音が目を細めた。
その仕草は、悠も時々、同じようなことをする。それは、悠と花音と『彼女』が、まだ一緒にいた頃を、思い出すためだ。
「ゆうくん、あのね?」
花音が、どこか悪戯めいた笑みを浮かべる。
「今、楽しい?」
それは、いつも彼女から聞かれていた質問だった。
今朝だって、彼女から問いかけられて。
いつもなら、悠の答えは決まっていた。簡単に、ただ同じ台詞を言うだけで。
けれど、今の悠は、その答えに悩む。
もう、今朝までとは違っているから。死んでいた自分には、別れを告げたから。
「うん。楽しいよ」
言葉は同じでも、そこに込められた意味は、まったく違っていた。
「すごく、楽しい」
こんな純粋な笑顔を浮かべたのは、一体いつ以来だろう。
自分でも分からないほど、悠は久し振りに、素直な気持ちになれた。今、自分は楽しんでいるのだ。この変わった時間を、楽しいと、そう思えているのだ。
「そっ、か」
花音は嬉しそうに、優しく微笑む。
「なら、よかった。うん、よかった」
それだけ残して、花音は頭まで布団を被った。
「おやすみ、ゆうくん」
そんな大切な幼馴染がいてくれるから。
悠は、いつも安心できるのだ。
「おやすみ、花音」
――夜。
千鳥愛歌は、彼の隣で体を丸めながら、夢を見た。
それはいつか見た懐かしい記憶で、丘一面に咲く彼岸花を家族三人で見に行った時の景色だった。母は花の中を歩き回って、姉は愛歌と一緒に一面の景色を眺めてくれていた。
姉は、教えてくれたのだ。
彼岸花は悲しい花だけれど、その分、立派に咲く優しくて綺麗な花なんだと。
誰かの悲しみを背負って、強く生きる花なんだと。
その時の愛歌は、その言葉の意味も分からないほど、とても幼かった。ただ姉の声に耳を傾けるばかりの、小さな子供で。
でも、今ならその意味が分かる。姉が何を言っていたのか、悲しみを背負って強く生きるということが、どういうことなのか。
「おねえちゃん……」
そう大好きだった人を呼んで。
愛歌は、閉じた瞼から一粒、涙を零した。
心理世界の守役 二