心理世界の守役 一

  序幕 鼓動 The_moment

 沈黙を感じた。
 短い、短い静止した時間。
 風を切る音が聞こえる。ぼくを切り裂く刃が、すぐそこにまで近付いていた。
 手が何かを掴んだ。こんな小さな少女の胸元――虹色に輝く穴の中で、ぼくは確かに熱い何かを掴んだ。
 心臓が脈動する。鼓動が早鐘を打つ。
(ぼくは、何をしているんだ……)
 死にたいと思っていた自分がいた。
 生きていて仕方がないと感じていた自分がいた。
 それなのに。
 それなのに、今この熱い何かを、ぼくは思い切り引き抜こうとしている。死ぬことを選んだはずのぼくが、どうしてか、生きるための道具を手にしようとしている。
(死にたかったはずじゃ、ないのか。生きることを諦めたんじゃ、ないのか)
 分からなかった。 
 何でぼくは、今生きようとしているんだ。
 何でぼくは、この力を手に入れようとしているんだ。
(……でも、)
 少女がくれた温もりを、思い出した。
 あたたかかった。優しかった。絶望していたぼくを、そっと優しく包み込んでくれた。
 ああ、そうだ。そうなんだ。 
 これは。この感覚は。
 彼女の胸に埋めていた腕を、一気に引き抜いた。手には、一振りの刀。彼女の温もりを湛えた刀を、ぼくは強く握っている。
 剣戟が、鳴り響いた。
「――ぼくも、生きたいんだ」
 
 君のおかげで、ぼくはこの気持ちを思い出せた。



  一幕 出会い Dead_or_alive

「シー、ちゃん……」
 気がつけば、如月悠(きさらぎ ゆう)の頬に一筋の涙が伝っていた。
 透明な雫は滑らかな白い肌を伝い、枕の布に滲む。温かな水分が頬の上で乾くのを感じて、手でその跡を拭った。
「まだ、この夢を見るんだ、ぼくは」
 不甲斐なくて、情けなくて、寝起きに構わず呟いた。
 悪夢を見たのだ。
 一度たりとも、この悪夢を思い出さなかったことは今までにない。それほど鮮烈に焼き付いた『彼女』の最期は、今も、悠の中で深い悲しみを帯びて溜まっている。
 体を起こして時刻を確認すると、まだ朝の六時半だった。制服に着替えるにも、少し早い。とりあえず母が朝食を作っているだろうから、その配膳の準備をして時間を潰そうと考える。
「朝、なんだよね。今日も、何も変わらずに」
 この眩しいほどの朝陽は、確かに目の前の現実だ。
 何の変哲もなく、いつも通りに変わらない朝が、そこにある。その朝をゆっくり過ごして、またいつものように学校へ向かうのだ。
 ベッドから降りて、カレンダーに目をやる。
 今日は七月十日。ちょうど夏が本番に差し掛かる頃合だ。だが、もう少しで訪れる夏休みに思いを馳せることはできなかった。どうせいつものように、ただ起きて、何となくのんびりして、家事を手伝ううちに日数が減っていくだけなのだから。
 一階に下りて朝食の用意をしていた母に、声をかける。
「おはよう、母さん。父さんは、まだ起きてないの?」
「お父さんなら、もうお仕事に行っちゃったわよ。言ってなかった? 今日から出張なの。お父さんも、忙しいのよ」
「そうなんだ」
 朝食の内容は、目玉焼きとソーセージ。そこにいくらかの野菜。
 父の分が要らないので配膳は手早く済んだ。とりあえずニュースを眺めながら、ご飯を口に運ぶ。ちょうど七時二十分になった時、皿を洗い終えた。
「あら、あとちょっとで花音ちゃんが来るんじゃないの? 悠、ちゃんと準備できてる?」
「できてるよ。それより、今日、帰りがちょっと遅くなるかもしれないから。街に行って、買いたいCDがあるんだ」
 母が送ってくれた了解の声を耳に入れ、悠は一度、二階の自室に戻った。
 学校鞄を取って、今度は玄関へ向かう。
 時刻は七時二十五分。
 その時、一秒の誤差もなく玄関の扉が開かれた。
「悠くん、お迎えに来たよー」
 その声が頭上から聞こえたのは、彼が靴紐を結んでいる時だった。
 慌てることもなく、慣れた手つきで紐を結ぶ。立ち上がってトントンと爪先を蹴り、調子を整えると、悠は優しく、その声に微笑(わら)いかけた。
「ありがと、花音。じゃあ、行ってくるね、母さん」
 長い栗色の髪を後ろで結ったポニーテール。
 柔和な顔立ちの花音にお礼を言って、リビングの母に聞こえるよう挨拶をした。そのまますぐに外に出て、通学路を歩き始める。
「悠くん、今日の数学、わたし当てられちゃいそうなの。学校に着いたらでいいんだけど、ちょっと教えてもらえないかな? お願い?」
「数学?」
 確か、今は三角比の応用問題辺りをやっていたと思い出す。そこまで苦手なところではない。得意でもないが、それなりにできはする部分だった。
「いいよ。ぼくも、復習しておきたかったし」
「ありがと、ゆうくん! 助かったぁ、これで立たされなくて済むよ!」
 喜ぶ花音に、悠は薄く笑った。 
「困った時は、ぼくも『花音』に頼ってるしね。そういう時は、お互い様だよ」
 その何気ない言葉に。
 それだけの言葉に、悠はどんな意味が込められているのかを分かっていなかった。
 だから、その一瞬、花音が表情を曇らせたことに彼は気付けない。
「うん、そうだね。わたしも、数学がんばらないといけないんだけどなぁ」
 ため息をこぼす花音の傍で、悠は歩調を合わせる。
 悠の表情には、少しぎこちない笑みが浮かんだままだった。一体どれくらいだろう、彼が本当の笑顔を忘れてしまって、流れた月日は。
 でも、花音はそんな悠に咎めるような視線は向けなかった。分かっているのだ、もうずっと前――五年も前に、彼の本当の笑顔は、崩れ去ってしまったのだと。
「ゆうくんは、学校、楽しい?」
 唐突な質問に、悠のぎこちない笑みは消えていった。
 蝉の鳴き声が聞こえる。
 どこからか甘い蜜柑の匂いが漂ってきそうで。
 でも、それはただの幻想なのだと、悠は分かっている。
 答えは、すでに決まっていた。
「楽しいよ、うん。花音もいるし、みんなとも話せて、幸せだよ」
 悠はやはり、薄く、淡く、微笑む。
 五年前、悠は大切なものを失った。
 もう取り戻すことのできない、かけがえのない大事なもの。
 でも、それは、大事なものであるがゆえにあっさりと壊れてしまったのだ。
 ――もう、あの頃に戻れはしない。
「花音こそ、どう? 楽しい?」
「わたしは、」
 いつも通り、いつもの答え。
 そんな悠があまりに痛々しく見えて、花音は言葉を詰まらせる。
「わたしも、楽しいよ。ちゃんと、楽しんでる。ゆうくんと話せるだけで、わたしは幸せなの」
「そう、なんだ。ありがと、花音」
 まるで告白のような花音の言葉は、呆気なく流された。
 そこにどれだけの意味があるのか、悠は分かっていないわけではない。ただ、自分の感情が虚ろになってしまった彼に、決して応えることはできないのだ。
 それに、花音も、また彼も、はっきりと分かっていた。
 二人の胸には、まだ五年前の『彼女』がはっきり残っている。
 そして、悠の頭の中から、その『彼女』が消えていないことも。
「ゆうくん、わたしね」 
 不意に、重い声が悠の鼓膜を震わせた。
 小さい頃から、二人を包む影は消えていない。
 目の前で『彼女』を亡くしてしまった、あの時から。
「わたしね、思うの。ゆうくんがどうしたら、笑ってくれるんだろうって。学校のみんなと、いつになったら、本当に笑って話してくれるんだろうって」
「花音……」
「わたしじゃ、やっぱり駄目なのかな……?」
 哀しく微笑む花音に、悠は何も言ってやれない。
 悠は悠で、周りの皆に、そして彼女に気を遣っているつもりだった。
 そのために覚えたのが、偽りの笑い。
 相手が傷つかないように、少しでも楽に思ってくれるように、たとえぎこちなくとも、悠は必死にその笑顔を練習した。
 それが、今の悠の、精一杯だったのだ。
 いつの間にか足を止めていた二人は、互いに少しずつ俯く。お互い傷を持っているから、その傷の深さを知っているから、何も言えない。
「……ごめん」
 悠はそう言って、唇を噛み締める。
「ううん。それより、早く学校に行こっ! 龍夜(りゅうや)くんも待ってるしね!」
 彼女の笑顔が強がりだと分かるほど、悠の胸は強く締め付けられた。

 教室に入って席に着くと、突然、声をかけられた。
「何だ、今日も暗いじゃないのゆう! 何? どしたの? もう少し笑いなって、ほらあははっ!」
 顔を上げると、髪を金色に染めた、けれどにへらとした顔の男子生徒が立っていた。
 その男子生徒――金堂龍夜が、不意に悠の頬を引っ張る。
 楽しそうな彼の腕を軽く掴んで、悠は言った。
「やひぇてよ、ゅうや」
「はは、発音ぜんぜんなってないじゃない。面白いわよ、その顔」
 笑うだけ笑って、龍夜はつねった頬を解放した。
 じんじんと痛む両頬を押さえ、悠は明るい金髪少年を見上げる。彼のこんな口調は初めからだったけれど、悠にとって、自分とは対照的な彼は新鮮な存在だった。
「龍夜は相変わらず元気そうだね。何かいいことでもあったの?」
 特に根拠はなかったが、悠は適当に聞いてみた。
 調子者の龍夜は、おちゃらけた風に。
「そうなのそうなのよ、ゆう! 聞いてよもう!」
 どこかで見たおばちゃん風に、彼は手を振った。
「昨日ね、街でナンパしてたんだけど……って、あら何よその顔? わたしがナンパしてちゃ悪いって言うの? やーねえ、今時そんなのはもう古いのよ。これからは私たちの時代なんだから。ちゃんと覚えときなさい?」
 よく分からないが、悠はとりあえず苦笑してみせる。
 龍夜は何を思い出したのか、気持ちの悪い含み笑いをした。
「それでね、ナンパしてたら、ちょうどすっごく可愛い()見つけちゃったのよっ! もうっ、あれはわたしのドストライクゾーンだったわ!」
「そ、そうなの? でも龍夜、いつも可愛い女の人見つけたって言ってないっけ?」
 龍夜が街中でナンパすることは、もはや珍しいことではないと知っている。
 そういう話は毎度のことで、、休日を挟んだり、学校が早く終わったりすると、いつもこうして自慢話を聞かされるのだから。
「いやね、可愛いっていうのも、色々あるのよ。ゆうにはまだ早いかもしれないけれど、軽い可愛いから、淫らな可愛いまで、ね?」
「……」
 妖艶に微笑む龍夜に、悠はぞっとしたものを背筋に覚えた。
「え、と。それで?」
「あら、可愛いの度合いについて聞きたいのかしら? なら、わたしが一から手取り腰取り教えてあげちゃうわよ?」
「遠慮、しとくよ」
「まあそれでね、昨日ナンパした女の子なんだけどね。身長がとても低くって、小学生ぐらいだったの。そうね、ゆうの胸辺りかしら?
 何だか知らないけどスケッチブックとペンを持ってて、どこか不思議系少女だったんだけど……でもね、ワンピースとあの身長がものすっごく可愛かったのよっ! もう~~っ、何て言うの? こうぎゅっと抱き締めてあげたくなっちゃうくらい!
だからね、ついお茶でもどう? って誘っちゃったのよ!」
「小学生、を?」
 ふと犯罪めいた匂いを感じて、悠は先行きを不安に思った。
 とりあえず耳を傾けて、龍夜の話しを聞く。
「そっ。それで、その()何て言ったと思う? ……ん? ちょっと違うわね。何て『反応』したと思う?」
「……反応?」
 ナンパ自体よからぬことだと思うので、悠は答えに困った。
 だから、ただ何となく、
「逃げ出した、んじゃないかなぁ?」
 普通に考えれば、それぐらいが妥当のような気がした。
 だが。
「まっ、失礼ねえ、ゆう」
 本当に驚いたように、龍夜は口を開けて。
「わたしのどこ見て逃げるってのよ、もう」
 自覚していない辺りが、ある意味恐ろしかった。
 彼は一つため息を吐いてから、
「その娘はね、わたしを見てスケッチブックにこう書いたのよ。まったく、聞いて驚かないでちょうだい? その女の子は、確かにこう書いたの」
 龍夜は机にあったシャープペンシルを手に取る。
 そして、さらさらと悠の机に何かを書いた。短い、平仮名の単語を一つ。
「お、に、い、ちゃ、ん?」
 文字が反対に見えるので読み難いが、確かにそう書いてあった。

『おにいちゃん』

 果たして、それは何を意味しているのだろう。
 一度茶化すように、龍夜は鼻で笑う。
「まったく冗談じゃないわ! わたしに向かって『おにいちゃん』だなんて! せめて『おねえさま』って書きなさいよね!」
「……反応するとこ、そこなんだ」
 呆れた風に、悠は呟きを落とした。
「でもま、可愛かったから許してあげちゃおっかなー♪」
「……ぼくにウインクされても」
「まあいいじゃない? わたしはゆうのこともちゃんと好きよ? ゆうが望むなら、ちゃあんと、『異性』としてもね?」
「……、」
「冗談よっ。オカマの言うことは、真に受けちゃ駄目なのよ?」
 額を小さく小突かれて、悠は苦笑した。
 いつも通り、いつものように誰かと会話する。
 それは幸せなことなのかもしれないけれど、今の悠には、やはり実感できなかった。

「ゆうくんー、帰ろー?」
 終礼が終わって放課後になると、隣のクラスから花音が迎えに来てくれた。
「うん、分かった。あ、そうだ。そういえばさ、龍夜も一緒に行かないかな? 帰りにCD買いに行くんだけど」
「お、本当? じゃあわたしも行くわ」
 教室を出て正門を抜けると、ちらほらと帰宅部の生徒たちが帰宅し始めていた。
 部活動生が帰宅するのは、大体十九時ぐらいだろう。そういえば、龍夜は演劇部に入部していた。彼曰く、ほとんど幽霊部員らしい。
「ゆう、何のCD買うわけ? 誰の?」
 道すがら、鞄を肩に乗せた龍夜が、不思議そうに聞いてくる。
藤篠蓬(ふじしの よもぎ)、っていう歌手なんだけど、たぶん知らないと思うよ?」
「う~ん、そうねぇ、わたしは聞き覚えないわ。どっちかって言うと、わたしロックとかそこら辺聞くし。かーちんは知ってる?」
 かーちん、というのは龍夜が付けた花音の呼び(ニックネーム)
「わたしも、知らないかな。でも、どんな歌を歌っている人なのかは、ちょっと分かる気がするなぁ」
「分かる? 何で?」
 歩きながら、花音は少しだけ誇らしげに声を弾ませた。
「うん。ゆうくんが聞く歌って、いつも悲しくて、しんとした歌が多いの。哀しい恋愛を歌ってたりとか、別れ話の歌とか。雰囲気が綺麗で、わたしも好きなんだ」
「哀しい、ねぇ」
 龍夜はふと、微笑を浮かべる。
「まったく、もうちょっと明るい歌聞いたらどうなのよ、ゆう。もしわたしが彼女だったら、そんな歌許さないわよ?」
 ふざけ調子で言う龍夜に、悠はただ苦笑を返す。
 彼なりに元気付けてくれているのが、目に見えて分かった。
「かーちんも、たまには明るいやつ聞かせなくっちゃ駄目よ? 夫の面倒は正妻が見るものなんだからね」
「せ、正妻っ?」
 驚いた花音の耳元に、龍夜は楽しげに唇を寄せる。
「そっ。正妻よ。奥さんよ、おくさん!」
「わ、わたしが……」
「かーちんならいいお嫁さんになれるわよ。まあもちろん? 朝から夜まで色々と、だけれどね?」
 ぼっと花音の顔が茹で上がった。真っ赤な林檎より赤いかもしれない。
 悠の肩に、手が乗せられる。
「よかったわね~、いい奥さんができそうよ?」
 茶化した風な声に、悠はただ苦笑した。
 けれどその瞳は、龍夜も気付くほど、虚しさを湛えている。
 彼の苦笑はやはり、あの『ぎこちない笑み』に過ぎないのだ。
「そう、だね。花音と結婚した人は、たぶん、すごく幸せになれるよ」
 その相手は、決して自分ではない。
 悠の言葉は、そう告げていた。龍夜は、気付かれないよう、小さくため息を吐く。
「そう、ね」
 一時の沈黙に、龍夜は声を出した。
「……ごめん」
 その沈黙を作ってしまったのは自分だと、悠はすぐに分かった。だから謝る。それが、余計に花音の傷を深くするとも分からずに。
 やがて電車に乗り、街に着いた。
 辺りは人でごった返している。この場所は、この風利市では一番大きく、賑わいのある場所だった。
 CDショップに足を運んだ悠は、目的の品を手に入れて、しばらく店内で龍夜と雑談をしていた。花音が、試聴して気に入ったCDを買おうかどうか迷う、と言うからである。
 普段と変わらない話しをしていたが、最後に一つだけ、龍夜は真面目な顔をして言った。
「わたしは、ゆうの昔のことはあんまり詳しくないけれど。でも、今のゆうは、今のゆうじゃない? だから、少しはかーちんの気持ちも汲み取ってほしいのよ。余計なことだって分かってるんだけど、かーちんが、ちょっと可哀想だから……」
 それきり、龍夜は何も言わなかった。
 花音が、どうして悠のことを好いているのか、彼は分からない。単に幼馴染だから、なのかもしれなかった。もしかしたら、そうではないのかも。
 結局のところ、悠は何も分からないのである。
 だが、それでも悠には関係がなかった。少なくとも、今の悠にとっては。
 理由がどうであれ、悠は『過去(ゆめ)』から思いを切り離せずにいる。自覚さえしているこれは、弱さと言えば、きっとそうなのだろう。
 でも、たった十五歳の悠には、その弱さを断ち切れる力も、『過去を過去として受け入れる』力もなかった。彼という存在は、まだちっぽけで、どこまでも儚い。
 呆然としていたその時、ふと悠の頭に、声が聞こえる。

 ――ゆう。わたし、ゆうのこと……

 それは、もうこの世には存在しない者の声だ。未だに聞き続けてはいけない、思い出してはいけない、他ならぬ彼女の声。
 過去は今を苦しめ、今は過去を苦しめる。
 友達の忠告は、悠の胸に、ただ蟠り続けた。

「じゃあ、わたしはもう帰るわね。誘ってくれてありがとっ」
 それから少し遊んだ後、悠は人込みに溶けていく龍夜の背中を目で追っていた。金色の髪が揺れ、夕焼けの紅に鮮やかに映える。
「帰ろう、ゆうくん」
 購入した服の入った紙袋を持った花音に声をかけられた。
 見えなくなった金の髪を追うのを止め、声の方を振り向く。
 穏やかに微笑んだ花音が、悠を待ってくれていた。いつものように、ただ、そこで。
 そして、二人は一緒に歩き出そうとする。
 だが。
(……ん?)
 その瞬間、
 ――ふと悠は、視界の端に『何か』を留めた。
 樹木が植えられ、その周りを取り囲んだ円状の休憩用ベンチ。
 ぽつりぽつりとスーツ姿のサラリーマンが座っている中、ベンチの上に立って、きょろきょろと辺りを見回す少女がいた。
 着ている服は白色のワンピース。
 手に持っているのは、スケッチブックとマッキーペン。
「あの()は……」
 今朝、教室で聞いた龍夜の話を思い出す。
 その話に出た少女の姿と、よく似ていた。ワンピース、スケッチブック、ペン。そして、小学生のような身長。確かに、少女は悠の胸元までほどしかない。
 誰かを探しているように忙しない少女は、もしかすると、迷子なのだろうか。
(はぐれちゃったの、かな)
 だからと言って、悠一人がどうこうする話ではない。
 放って置けばいいのだ。
 何も見なかった。そのうち何とかなるだろう、そう思って。
 けれど――
 なぜだろう、悠の体は突き動かされるように動いた。その衝動がどこから来るものなのか、彼は自分でも分からない。
 気が付けば、花音に声をかけていた。
「花音、ちょっと待っててくれないかな」
 戸惑う声も聞こえたが、悠は気にしないで少女へ近づいた。龍夜のように不純な動機ではないが、少し不安が胸を過ぎる。
(……何、してるんだろう。ぼくは)
 少女の前に立つと、彼女の小さな体がびくりと震えた。
「え、と。お父さんとお母さん、探してるの?」
 できるだけ優しくした口調に、けれど少女は答えなかった。
 代わりに、マッキーペンのキャップを取って、スケッチブックに何かを書き始める。
 その時、悠はふと気付いた。
(え? 外国の人、だったの?)
 紙面を真剣に見つめる瞳が、黒ではない、オレンジ色をしている。
 つい見惚れるほど、吸い込まれそうになるほど、深く、美しい。
「ん?」
 見惚れていると、少女がスケッチブックを前に出して見せて来たので、悠は少し驚いた。
 そこには、聞いた通りの言葉が、書かれている。
「おにい、ちゃん?」
 龍夜の言葉を思い出す。
 ナンパした少女は、スケッチブックに『おにいちゃん』と書いて見せてきたのだと。
「おにいちゃんは、まあ、おにいちゃんだけど」
 何となく、龍夜と同じ状況に直面して、彼のことを思い出した。彼はどういう風に答えたのだろう。
 興味はあるが、今の悠はただ困るばかりだった。
「お名前、何て言うのかな?」
 聞いてみると、少女は忙しなくペンを走らせ、
『おにいちゃんは、おにいちゃんじゃない?』
 思わず、悠は首を捻った。会話が噛み合っていない。
 悠は一度、視線を後ろへ向ける。
 早く花音の元にも戻らないといけないので、できれば急ぎたいところだ。だが、振り返ってみると、どこにも彼女の姿は見当たらない。
(どこ、いったんだろう)
 首をかしげる。人通りが意外と多いせいか、彼までもはぐれてしまったらしい。
 少し悩んだが、まず少女を優先することにした。
「お父さんとお母さん、一緒に探してあげるから、お名前教えてくれる? いいかな?」
 そう、小さな少女に尋ねて。
 そっと優しく、手を伸ばして。
 その時。
 ――不意に、声が聞こえた。

「その必要はありませんよ。その子の身元は、私たちが知っています」

 驚いて後ろを振り返ると、ハット帽を被った男が立っていた。すらりとした長身。赤いフレームの眼鏡。口元に浮かんだ三日月の笑みが、やけに嫌らしい。
(だれ……?)
 男の隣には、少女が立っている。身長は、ちょうど悠と同じくらいだ。服装は短いジーパンに軽いシャツと上着。朱に染めた髪のせいもあり、少し目立つ。
「この娘のお知り合い、ですか?」
「ええ。そうです。さすがに、お父さんとお母さんではありませんけどねえ」
 口調が纏わり付くように、ねっとりとしている。
 男ははたと思い出したように、急に帽子を取って浅く頭を下げてみせる。
 眼鏡の下に覗く瞳が、獲物を捕らえた獰猛な獣のように眼光を光らせていた。
「紹介が遅れましたね。私は生明廣瀬(あざみ ひろせ)と言います。
 苗字で呼ばれるのは嫌いなので、どうぞ下の方でお呼びください。ええまあ、その娘とは親戚のような間柄なんですよ」
 廣瀬と名乗った男は、帽子を被り直す。
 その瞳が、隣の少女を向いた。
「この娘は真宮処凛(まみや かりん)ちゃん。私の最も愛する愛娘なんです、ってんぐっ」
 処凛というらしい少女に足を踏まれ、廣瀬が苦悶の声を漏らした。
(えと、何なんだろう……)
 いまいち、二人の関係がよく分からない。
 それでいて一緒にいることに、悠は何の違和も感じていなかった。
 処凛は不満そうに、不機嫌そうに廣瀬を睨み付ける。けれど、それは本当に人を毛嫌いしているような視線ではない。
(あ……)
 気付けば、処凛の瞳は不思議な色をしていた。
 悠や廣瀬とは違う、オレンジ色の、榛のような双眸。
 このワンピースの少女と同じ――瞳の、色。
 透き通った綺麗なそれは、まるで宝玉のようにも見える。
「あ、れ……」
 悠は、不意に違和感を覚えた。
 オレンジ色の瞳、それをいつか、見たことがあるような気がする。その瞳を、彼はいつか、綺麗だと思ったことが――
「どうされたんです? 立ち眩みでもされましたか?」
 廣瀬が心配そうに声をかけてくる。
 結局、思い出そうとしても、いつどこで同じ瞳を見たのか思い出せなかった。
「い、や。大丈夫、ですから。気にしないでください」
「そうですか? しかし、体の具合が悪いなら、病院にでも」
「いえ、本当に大丈夫ですから。すみません」
「いえいえ、謝らなくて結構ですよ? 心配というのは、お互い様ですからね」
 そこまで言って、廣瀬は視線の先をワンピースの少女へ変えた。
 一瞬、悠は背筋がぞくりと震えるのを感じた。
 なぜかは分からない。だが。
 何かが、危険を知らせてくれている。
「それより、ですねえ」
 廣瀬がくいと、眼鏡を直す。
「連れが待っていますので、その娘を早く連れていきたいんですよ」
 その言葉に、悠は相槌を打つ。
 目的は、迷子の少女を両親に届けることだ。
 それがもう、達成されようとしている。そのはず、なのに。
(この娘を渡しても、いいのか……)
 知り合いだと言っている。
 身元を知っていると言っている。
 それなのにこの胸に不安が蟠るのは、一体なぜだろう。
「さあ、行きましょう。急にいなくなったから、皆さん待ちかねていますよ?」
 廣瀬が近寄り、少女に話しかける。
 すると、少女はスケッチブックを見せ付けた。
 悠にしたように、『おにいちゃん』と書かれた紙面を。
 しかし、廣瀬はそれを『わずかに戸惑うだけで無視する』。
 伸びた彼の手が、少女の華奢な腕を掴んだ。
 その瞬間、スケッチブックとペンの落ちる音がする。空しい落下音が響き、そして、少女は――ワンピースの少女は、

 連れて行こうとする廣瀬に、掴まれた手をじたばたと振って抵抗している。
 
 わずかの間、悠はそれを見ていた。
 少女が遊んでいるのかと思った。だが違う。
 少女が駄々を捏ねているのだろうか。それにしては、あまりに必死過ぎる。
(何で、どうして)
 何がどうなっているのか、よく分からなかった。
 だが次第に、その光景に周囲の視線が集まった。一人、二人、とそれに気付いていく。やがて、いつの間にか、ただ見ていただけの悠の体は動いていた。
 気付けば、悠の手は廣瀬の腕を掴んでいる。
 そして、少女の体を引く手が、ピタリと止まった。
「どう、されたんですか?」
「い、え。その、」
 自分からこういうことをしようと思ったことは、今まで一度もない。
 責められているようで、体が強張った。
「その娘、少し、嫌がっているみたいで……」
「だから、どうしたんです?」
「え?」
 驚きの声しか、口から出せなかった。
 困惑する。
 こんな小さな子が嫌がっているのに、だからどうした、なんて。
 廣瀬は急に朗らかな表情を浮かべる。明らかに、不自然なほどに。
「実はですねえ、この前、この娘とある玩具を買ってあげる約束をしたんですよ。しかし、私がそれを破ってしまったせいで、この娘が怒ってしまいまして。しかし連れて帰らないわけにはいかないでしょう? ここに一晩中、いさせるのはいけませんから」
「それは、そうですけど」
「でしょう? なら、この手を離してもらえないでしょうか? お分かりに、なられたんですよね?」
 一瞬、廣瀬の顔を道化師(ピエロ)と錯覚した。
 話自体に矛盾はない。
 けれど、少女の必死な表情を見てまで、信じられる話ではない。
(ぼくは……)
 と。
「い、いたたたたたっ!」
 急に廣瀬が声を上げた。
 彼の手を見れば、ワンピースの少女が服の袖ごと思い切り噛み付いている。華奢な腕から乱暴な手が離された瞬間、少女は、ベンチから降りて悠の背後に隠れた。
「ッッ、このクソガキがっ!」
 悠の手が勢いよく振り払われる。
 さっきまでからは想像もできないほど、廣瀬の犬歯が剥き出しになっていた。
 それはとても、肉親に向けるような表情ではない。
「廣瀬、さん?」
 だから、悠は聞く。
「ええッ?」
 度すの利いた声に、びくりと体が震えた。
「――と、これは失敬、失敬。私としたことが、つい取り乱してしまいました」
「……、一つ、確認させてもらっても、いいですか?」
「はい。何でしょう?」
 にこやかな営業スマイルに、悠は恐る恐る言葉をぶつける。
 だが。
「廣瀬さん、この娘の親戚、なんですよね?」
「ええ。もちろん」
 厳しくなった思考が緩み出した、その瞬間。

「違うに決まってるじゃないですか」

 一拍、悠の頭の中が停止した。
 震える唇を、ゆっくり開く。
「……、え、と。どういう、ことですか?」
 はっきり、答えを聞いた。
 そうなのだろうとは、初めから薄々分かってはいた。
 だから、これが最終確認だ。
「あなたは耳が悪いんですか? 聞こえなかったなら、ぜひ耳鼻科をお勧めしますね」
 信じられないことに、廣瀬はにたりと笑った。
「私がそんなクソガキの親戚なわけねぇだろ、つってるんですよ?」
 言葉を失った。
(じゃあ、何で、この娘の親戚なんて……)
「……違ったん、ですか?」
「ええ。もちろん」
 にっこりスマイルが、やけに苛ついた。
「じゃあ、何でこの娘を」
 かすかに震えているワンピースの少女を、一瞥する。
「この娘を、連れて行こうと」
「あなたが知る必要はありませんね。これ以上、あなたが首を突っ込むことではありません。分かるでしょう?」
 廣瀬の顔から、笑みが消える。
 一瞬感じた、獲物を狩る猛獣のような眼光が、再び悠を捉える。
 後悔した。一瞬にして、悠は後悔した。
 この男を瞳に映した時点で、悠の本能がうるさく警鐘を鳴らしていた。それなのに、自分らしくないことをするんじゃなかった。早く、逃げるべきだった……
 正義感なんかではない。
 偽善なんかではない。
 なぜ自分がこんなことをしているのか、彼にも分からないけれど。
 けれど、こうしなければいけなかった――そんな気がした。
「まあ、あなたはもう、遅いんですがねぇ」
 口元に浮かんだ三日月を、赤い舌が嫌らしく舐める。
 遅い。何がだ?
 警告に従わなかったのが?
 この場を早く離れなかったのが?
 それとも、少女を見捨てるのが?
 ――いや、答えはすでに明瞭だった。そのすべてが、遅かったのだ。
「仕方がありませんね。これはすべて、私ではなく、『あなたが』悪いんですよ?」
 勝手な言いように、悠は思わず口を開こうとする。訳が分からない状況でも、何かができるのではないかと、考える。
 けれど。
 そうする間に、悠は自分の身に起きた異変に気付いていた。いや、おぞましいほどに駆け上がってくる違和感が、今から起きるその異変を、知らせてくれる。
 ゆらり。
 夕焼けに照らされた廣瀬が、得も言えない異様な雰囲気を纏う。
「処凛ちゃん、心理世界(オーディズム)を展開してください」

 それからは、まるで一瞬の出来事だった。
 景色が反転したことにさえ気付けず。
 世界がぐにゃりと歪んだことさえ視認できず。
 ――ただ気付けば、『世界の景色が変わっている』。

 悠は戸惑いよりも、困惑よりも、まず単純に驚いた。一瞬にして、今いた世界の景色が変わったのだ。明らかに、この近くにはありえないだろう場所に。
 一度も見たことのない、広大な公園。
 草木が植えられ、遊具が建てられ、晴れやかな景色が広がっている。滑り台のすぐ傍にいた悠と少し離れたブランコのところに、廣瀬は立っていた。
 だが、どうしてなのだろう。
 早鐘を打つ心臓を落ち着けてみれば、驚いているのは悠一人。
 廣瀬はもちろん、彼の隣にいる処凛も、悠の隣にいるワンピースの少女さえも、ほとんど驚愕の表情を見せていなかった。ワンピースの少女だけは、物珍しげに遊具を見ている。
「さあ、お気に召されましたかね?」
 やがて、廣瀬は笑うように。
「処刑の時間(ショータイム)の、開幕ですよ?」

「ショー、タイム……」
 楽しげな笑顔を浮かべる廣瀬を見つめ、悠は呟いた。
 瞳が揺れている。
 理解し切れない現状に、頭の中が混乱していた。
 隣を見れば、少女が辺りを見回しながら、やがて怯えたような瞳で廣瀬と処凛を見る。けれど、その様子からは、悠のように困惑していることは感じられない。
 つまり、この『現象を知らない』のは、悠ただ一人だけということになる。
「驚いているようですね。無理もないことでしょうが、しかし、私たちには時間がないのですよ。『死にたくなかったら』、そのガキを渡してもらえないでしょうか?」
 まるで冗談のように。
 まるで談笑の時のように。
 いとも簡単に、あっさりと、廣瀬は脅迫して来た。
 それがあまりに現実味を帯びていなくて、冗談としか思えなくて、悠は当惑する。
「え、と……う、うそ、ですよね?」
 死にたくなかったら。
 初対面の人間にそう言えるほど、悠と目の前の男には、何かの差がある。
 知る必要のない――いや、本来なら知ってはいけない、何かの。
「嘘ではありませんよ。あなたの頭の中がお花畑で埋まっていなければ、これがどういうことか、理解できるでしょう?」
「でも、ぼくは……」
 脅されたからと言って、この少女を渡してしまったら、あまりに情けない。
 自分はいい。『自分だけ』なら、別にいい。
 けれどせめて、助けられるのなら、少女だけは。
「仕方ありませんね」
 廣瀬が呆れたように呟く。
 それから、初めに付けていた手袋を取ると、それを地面に投げ捨てた。
 新しい手袋(グローブ)を、ポケットから取り出す。
 そして、内ポケットから一枚の紙切れを出すと、
「これは、大サービスなんですよ?」
 ふざけたように、笑った。

 紙切れには、赤いインクで六芒星のような模様が描かれていた。
 円の中に正三角形を二つ重ね合わせ、線に沿うように内側と外側に異国の文字がびっしりと刻まれているのだ。
 廣瀬はその紙を素早く手から離し、宙に浮かせる。
 そして、彼の正中線と重なった――その一瞬の間に、紙の両面を挟み込むように、彼の手が思い切り紙切れを叩いた。
 パチン。
 手を合わせる音が、鳴り響く。
 同時に、紙切れに描かれていた紋様が、虹のような光の線で描かれ、廣瀬の右に浮かんだ。紙切れよりも何倍も大きいそれを確認せず、彼はその模様の中心に右腕を差し入れる。
 この場所は、人間にとって原点とも言える場所だ。
 この場所で、人は自由な創造力を得る。
(……掴みましたね)
 何かを掴む感触を、確かに掌に感じた。
 深々と挿した右腕は、けれど陣の向こう側へは突き抜けていなかった。
 やがて、廣瀬はその腕をゆっくりと引き抜く。
 ゆっくり、ゆっくりと。
 もったいぶるように、見せ付けるように。
「これは、私が愛用している『妖刀ムラマサ』です。どうです、この刃紋? 素晴らしく見事でしょう?」
 引き抜いた右手は、しっかりと得物を握っていた。
 光を反射して、淡く青色に波打った刃紋。
 全長は一メートルを超すほどで、立派な刀工が打った名刀だ。
 人間の体を斬っても刃毀れ一つしない妖刀が、今ここに存在したのである。
 そして。
 その切っ先を、廣瀬は目の前の少年へ向ける。
 目的はただ一つ。
 あの少年の背後にいる少女――
 この世界の最強の武器を持つ、トツガノツルギの守役だ。

 びく、と悠は背中から小さな震えを感じた。
 それがワンピースの少女のものだったのか、自分のものだったのか、よく分からない。
「嘘、だ……こんな、こと」
 額にびっしりと脂汗が浮かんでいる。
 気付けば、恐怖の声が口を突いていた。喉が急に渇き出す。見開いた目の奥で、瞳孔が、網膜が、目の前の光景を拒否しているように震える。
「嘘ではありませんよ。そんなはずが、ないでしょう?」
 けれど残酷にも、目の前の現実は、ただの現実でしかなかった。
 いきなり光の紋様が浮かび上がって。
 その中から、廣瀬が一振りの刀を抜いて。
(何が、どうなって……)
 現実のはずなのに、これは悠の知っているそれではない。
 ありえないはずの世界が、そこに広がっていた。
「渡す気になってくれたでしょうか?」
 鋭い切っ先が、こちらを向いていた。
(ぼくは、)
 渡せない。
 渡しては、いけない。
 そのはずなのに。
(ぼく、は……)
「まだ引き渡してはくれませんか。なら、」
 廣瀬は一度、刀を降ろす。
「トツカノツルギの守役、あなたのことはすべて調べてあります。私たちは傷をつけたくないのですよ。早くこちらに来てもらわなければ、そこの少年が死んでしまいますよ?」
 ビクリ、と。
 背後で少女の体が震えた。今度は確かに、彼女が怯えたのだと、分かる。
「……仕方がありませんね。本当に、仕方がありませんね」
 隠れたまま答えない少女に、廣瀬は今一度、刀を構えた。
「できれば、穏便に済ませたかったのですがね」
 そして。
 悠の全身から、一気に緊張が溢れた。
 土を蹴る音が聞こえる。刀を持った男と、何も動けない悠の距離が、一瞬にして縮まってしまう。
「大丈夫。殺しは、しませんよ」
 その声と同時。
 すでに、廣瀬の顔は悠のすぐ目の前にあった。
 刀が風を切る。
 刃の切っ先が、瞳に吸い込まれていく。
 目の奥に感じた衝撃に、乾いた目を閉じることができなかった。
「……これで、どうですか?」
 瞳に触れるか触れないか、そんなわずかもない距離で、刃が止まっていた。
 今少しでも動けば、切っ先が瞳を傷つけ、中身を抉られてしまうだろう。
 恐怖した。
 ただひたすら、怖いと思った。
 だが。
 それと同時。
 照り付ける日差しの中で、頭の中にただ懐かしい、過去の記憶だけが過ぎった。
(ああ……)
 意識が遠のいていく。
 ゆっくり、ゆっくりと。
 その中で。
 そんな、中で。
 悠の脳裏に、五年前の『彼女』の顔が浮かんだ。
(ああ、そういうこと、だったのかな……)
 らしくない。
 その理由が、ようやく分かった。

「……は、はは」
 少年が笑っていた。
 彼の瞳に、刀を突き付けているというのに。
 まるでそれごときでは、何の恐怖も感じない、そう言っているようだった。
(何を考えて、)

「は、ははははは! ははははは! はっ、ははははははははははははははははははははははははははははははははっははは――ッ!」
 
 哄笑とは言えなかった。
 嘲笑とも、言えなかった。
 ただ狂ったように、笑っている。何が可笑しいのか。何が面白いのか。その瞳に、一体何を映しているのか。
(今さら、このガキに何かできるはずはありませんが……)
 何かがあるとは思わない。
 とうてい、この少年が今の状況を覆せるとは微塵も思わない。
 それなのに。
 何かが、胸の中を過ぎる。この少年を、このまま生かしておいてもいいのか、と。
「――ッ、廣瀬、さん」
 名前を呼ばれた。
 殊更、警戒しているわけではないが、刀は下ろさない。
 殺意は感じずとも、この胸に、得体の知れない何かがあるからだ。
「一つ、お願いしたいことが、あるんです」
 予想もしていなかった言葉に、廣瀬は訝しむ。
「お願い、と?」
 その言葉の意味が、廣瀬には理解できなかった。
 この状況で願うことなど、たった一つしかないだろう。だが、それはすでに、廣瀬は約束している。
 この少年を殺しはしない、と。
「命なら、私は一言も奪うと言っていませんよ。仮にあなたが周りの人々に私のことを言い触らしたとして、信じる者は誰一人、いないでしょうからね」
 廣瀬としても、今ここで人一人を殺めるのは、あまり好都合ではない。
 後々の処理が、まだできていないのだ。流れでこの世界に入れてしまっただけの人間を殺していては、行方不明として片付けるにしても、やはり面倒くさいほどの手間がかかる。
「いいえ、違うんです、廣瀬さん」
 だが、少年は首を振った。
 廣瀬はその、少年の瞳を見つめる。恐怖も何も、色がなかった。光がなかった。そこに人間としての尊厳はなく、生への渇望はなく、ただ虚しさだけを湛えている。
 それだけで、彼の言いたいことは大体、予想できた。
(……面倒くさい人種を、入れてしまったようですね)
 内心で、廣瀬はため息を吐く。
 少年と同じような人間を、廣瀬は以前にも見たことがあった。そういう『人種』は、口を揃えて必ず同じことを懇願する。
 そう。
「ぼくを、殺してください」
 耳にしたくもない。
 クソつまらない言葉だ。

 如月悠は、今までの自分自身を振り返った。
 他人に心配ばかりかけ、迷惑ばかりかけ、自分に自信も持てず、ただ色褪せた日常を行き続けて。これからもそうして生きていくのだろう、そう思って生きて来た。
 内心、悠は気付いていたのだ。
 自分は生きているのではない。決して、命のある人間ではない。
 ――心臓が動いているだけの、息のない、ただの屍なのだと。
 死骸となった人間が、生きているフリをしているだけなのだと。
(分かって、いたんだ)
 五年前に『彼女』が死んで、ともに如月悠という人間も死んでしまった。
 色褪せた五年間は、死んだ者が見ていた、ただ虚ろな幻想だったのだ。
 だから。
「死ねるのなら、ぼくはそうしたいんです。ぼくは死ぬということからすら、逃げて来た。だから、ぼくは」
 もうこれで、誰かに心配をかけなくて済む。
 もうこれで、誰かに迷惑をかけて生き続ける必要も、なくなる。
 その絶好の機会が、今、目の前に訪れたのだ。
「……まさか、あなたもそういう『人種』だったとは思いませんでしたよ。もう少し、マシな人間かとは思っていたんですがね」
 呆れたような声が、頭上から降った。
 それでもいい、今の悠ならそう思える。今さら、誰かを守ろうだなんて馬鹿なことをする必要はないのだ。それに、ワンピースの少女を助けようと思ったことすら――
(自分でも、気付けなかったなんて……)
 ただ、見知らぬ世界に触れて見たかっただけだった。
 もしかしたら、何かがあるかもしれない。それはもしかしたら、こういう風に、自分の運命を変えてくれるような、そんな何か。
 そして、それを悠は見つけたのだ。
 自分を殺してくれる、その存在を。
「偽善でもなく、正義でもなく、ただの自殺願望者、ですか……いや、他殺願望者ですか。自分では死ぬことができない、だから生きている臆病者ですからね?」
 何を言われても、悠が動じることはない。
 ただかすかにだけ、口元が笑っていた。
 それは歓喜か、絶望か。
 どちらにしても、悠の運命は、この場所で終焉を迎える。
「いいでしょう。殺したくはありませんでしたが、あなたの願いを叶えて差し上げます」
 廣瀬は一度刀を降ろし、そして、振り上げる。
 ゆっくりと、けれど確実に。
 近付いてくる死に、やはり、悠は後悔をしていなかった。つらい五年間は、これで終わりを迎える。ようやく、悠の苦しみは、地獄は、終焉を告げるのだ。
 振り下ろされた刃に、ふっと目を伏せる。
 震えていた体は、いつの間にか大人しくなっていた。諦めた脳が、体が、もう彼の意思に従ってくれている。
(これで、終われるんだ……)
 そう思った、矢先。

 何かが、悠の体を突き飛ばした。

「っっ!?」
 目を開けると、頬が地面にぶつかる寸前だった。
 勢いよく目をつぶった瞬間、衝撃が全身に伝わる。ひりひりとした痛みを我慢し、瞼を開ければ、遠い青空が見えた。呆けたように、けれど咄嗟に上半身を起こす。
「君、は」
 隣には、一緒にあのワンピースの少女も転がっていた。気絶したように倒れた少女は、不意にパチリと目を開き、起き上がる。
 そして。
 上半身だけを起こした少女は、
 パチン! と悠の左頬を思い切り打った。
「……何、で?」
 驚いたのは、悠だけではなかった。
 近くに立っていた廣瀬も、離れて見ていた処凛も、少なからず驚いた。だって、それは誰がどう見ても、悠より幼い彼女が、彼を叱っているように見えたから。
「……っ」
 少女は言葉を発しない。
 大声で、悠を怒鳴りつけない。
 その代わり口をパクパクと動かして、何かを伝えたそうに涙を流している。悠の痛みを代わりに嘆くように、ぼろぼろと。
「何で、君が泣いて――」
 訳が分からなかった。
 死のうとした悠を、少女が助けて。
 まるで死ぬなと言うように、互いによく知らない彼女が、涙を流して。
(何で……)
 見れば、少女の細い足から、血が滴っていた。
 もしかしたら、悠を突き飛ばした時に刃が掠ったのかもしれない。小さな傷とはいえ、止め処なく、血が流れていた。
「君っ! 血が――っ!」
 だが、慌てる悠に反して、少女はただ泣き続けた。
 必死に、ただ必死に。
 大切な何かを、守るように。
 悠はゆっくりと手を伸ばす。何で、と彼女の頭に触れようとして。
 その瞬間、少女が勢いよく悠を抱き締めた。
 慌てる暇もなく、彼は、少女の腕の中に包まれる。
 力は感じない。ぎゅっと強くしているんだとしても、それは、弱く、儚く、心地いい。
「君、何、して」
 驚くばかりで、まともに言葉さえかけられなかった。
 温かい。
 心の底が、何だかほうっとして来そうなほど、柔らかい温もりを感じる。
 そこには、確かに包み込むような優しさがあった。
 そこには、確かに、悠が久し振りに感じた温もりがあった。
「――シーちゃん」
 幼い頃に、今と同じように優しく抱き締めてくれた人がいた。
 彼女は大切な幼馴染で、悠にとってかけがえのない人物だった。悲しい時、傷ついた時、彼女は必ず隣にいてくれた。
 その温もりを、今、別の少女が感じさせてくれている。
 乾き切った心に、少しずつ、少しずつ、温かい水を湿らせてくれている。死にたい、死ねる、そう思っていたことすら、もう今の悠は覚えていなかった。
「ったく、何しやがってくれてんですか……」
 背後から、忌々しそうな呟きが聞こえた。
 振り返れば、廣瀬が苛立たしげに舌打ちをし、地面に刺さっていた刀を引き抜いている。
(だめだ……)
 再び、刀が振り上げられる。
 廣瀬の足が、一歩ずつ、距離を縮めた。
「死にたいってえなら死ねばいいんですよ。手間かけさせてんじゃねえぞ、ああッ?」
 そして、一振りの刀が、その獲物を捉える。
(だめ、なんだ……)
 風を切る音が聞こえた。
 迫り来る刃に、悠はかすかな沈黙を覚える。
(――ここで死んだら、だめなんだッ!)
 そう思った瞬間、悠は立ち上がろうとした。
 だが。
 それよりも早く、少女が動き出す。
 咄嗟に悠から体を離し、彼の手をすかさず取ると、自分の胸元へあてがった。そして、その手を、『光を放ち始めた』自分の胸元へ沈めていく。
 瞬間。
(これ、は)

 ドクン、と心臓が脈動した。

 その行動を目にした廣瀬の刃が、一瞬、速さを鈍らせる。
 一瞬だけ生まれた、一秒もないタイミング。
 その間に、すでに悠の手は『少女の中で』何かを掴んでいた。
 何かは分からない。
 この手が何を掴んだのか、その正体は知らない。
 だが、すべて感覚で分かる。
 今この手で掴んでいる物を、引き抜かなければいけない。
 躊躇うことなく、力強く、握り締めなければいけない。

〈力が、欲しいか〉

 そんな声が、どこからか聞こえた。
 心臓が早鐘を打つ。
 悠の瞳が、限界まで、迫り来る刃を見つめた。
(……欲しい)
 その声に、彼はそう答える。
 死ぬことは忘れていた。
 生きることだけを、ただ願っていた。
 だから、そのために――

「くッ!」

 呻き声を漏らしたのは、悠ではなく、廣瀬だった。
 けたたましい剣戟音が鳴り響く。
『二刀の刃』がぶつかり合う音が、公園に響き渡った。
(ぼく、は)
 悠は手にしたそれを見て、思う。
 波打った波紋。
 輝く刃。
 まるで虹が敷き詰められたような少女の胸の『穴』から伸びる、その一振りの刀を見て。
「――廣瀬さん」
 悠は呟く。
 力強く、少女の温もりを湛えた、刀を握って。
「何であなたがその刀を……情報と違うじゃないですかッ! 早くその刀を渡しなさいッ! 今すぐ私に渡せッッ!」
 追い詰めるような必死の形相が、そこにあった。
 だが。
「すみません、廣瀬さん」
 もう、さっきまでの自分とは、違ってしまったから。
「この刀を、渡しちゃいけない気がするんです」
 だから。
「……さっきは、ありがとう」
 悠は少女の瞳を見つめる。
 綺麗な、透き通るようなオレンジの瞳を見つめて。
「――ぼくも、生きたいんだ」

心理世界の守役 一

心理世界の守役 一

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2012-11-11

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