小説『メメント・モリ』の里程標 第二章

長岡まさ

小説『メメント・モリ』の里程標 第二章
  1. 第一章 ミデルフォーネとクランベ
  2. 一 お会いしてみたい憧れの「あの方」のこと
  3. 二 私と「意地悪な人」の稀有な顛末

第一章 ミデルフォーネとクランベ

   一 お会いしてみたい憧れの「あの方」のこと
   二 私と「意地悪な人」の稀有な顛末
   三  
   四  
   五  
   六 
   七
   八
   九

一 お会いしてみたい憧れの「あの方」のこと

 ウェイトレスの運ぶコーヒーの香りが、柔らかく辺りを包む。
「こちらホットコーヒーとアイスティーになります」
 テーブルに白いソーサーとカップが置かれる。遠目から見ても気付くほど、持ち手の部分が特徴的な作りのカップだ。
「ありがとうございます」
 男性は顔を上げずにウェイトレスへ礼を告げる。彼の向いに座るもう一人の男性は、彼女の顔の方を見て軽く頷いた。
「以上でご注文の品はお揃いでしょうか」
「はい」
「では、ごゆっくりどうぞ」
 彼女の淡白な声音は、今ここへ向かっている待ち合わせ相手の声に、少し似ている気がする。
 そうして隣のテーブルの配膳を終え、私の横を通り過ぎて行くウェイトレスの後ろ姿に、ちらりと目を遣った。それは丁度、腰の白いリボンがふわりと揺れる瞬間だった。その清潔そうな白を見つめながら、開いていた手帳をぱたんと閉じ、明るく声を掛ける。
「すみません。私も注文、いいですか?」

 待ち合わせの十三時までは、まだ十分な時間がある。
 私は目の前に並んだホットコーヒーと軽食のセットをまじまじと眺めた。サンドウィッチには、ハムとたまごと、私が追加注文したスライスチーズが三枚も挟み込まれている。サラダには緑を覆い尽くすようにエビとトマトがたっぷりで、テーブルの上が一気に華やいだようだ。
 とりあえずコーヒーを片手に、今朝駅で購入した新聞を広げる。パンの端を擦らないように一枚、一枚と、嵩張る紙を捲りながら見出しの文字を注意深く目で追った。
「あった」
 お目当ての記事は、大分後ろの方、それも新聞の折目部分に近い下段に、小さく掲載されていた。

「若き異彩小説家ダルト・スリオルト 没後三十周年」
 不遇の新進気鋭作家であったダルト・スリオルトの没後三十周年を記念し、初の全集が満を持して刊行。未発表原稿多数収録。再来月より隔月一冊刊行予定。

 たった数行のその囲みを、鋏を使って丁寧に真っ直ぐ切り抜く。そして、革の大きな黒鞄からスクラップブックを取り出し、新たなページの上段に貼り付けた。
 また一つ、私の大好きな先生コレクションが増えたのだ。
 私はサンドウィッチに齧り付きながら、今度はスクラップブックの歴史を、現在から過去へと捲って行く。
 最初に目に入る十数ページは、ほとんど私の手書きメモばかりが貼り付けてある。それより遡ると、途端に随分と年期の入った新聞記事が現われる。急いで鋏を入れたからか、あの人のせっかちな性格からか、切り抜きの周囲はどれも極端に歪んでいた。

 カラン。
 喫茶店の扉が開くのと同時に、上部に取り付けられた鐘が鳴る。さっと顔を上げると、私の待ち侘びた彼女の姿が店の入り口にあった。
「あ、クランベさん! こっちです!」
 私は慌てて立ち上がり、右手を振る。直ぐに彼女は此方へ気付き、柔和に微笑んだ。
「ごめんなさい、メリアさん。お待たせしてしまったみたいで」
「いいえ、私が早めに来てしまっただけですから」
 彼女の着こなしたスーツから、薬品のような、それでいてほんのり甘いような香りがする。
 高鳴る胸を抑えつつ、私は彼女の顔を真っ直ぐ見つめた。
「寧ろ、本来ならこちらからお訪ねしなくてはいけないのに。わざわざありがとうございます」
「それは良いのよ。この喫茶店、以前から入ってみたかったの」
 彼女はテーブルの上をちらっと見て目尻を下げた。
「お食事中、だったかしら」
「あ、すみません!」
 放り出していた新聞と鋏を脇に寄せ、サラダボウルと齧り掛けのサンドウィッチの皿を手前に引く。
「クランベさんも、何か召し上がりますか?」
「私はもう済ませてしまったから、コーヒーだけ。気にしないでゆっくり食べてね」
 席に着いた彼女は、優雅な仕草で先程のウェイトレスを呼び、慣れた様子でコーヒーを注文した。

「暫くぶりね」
「そうですね。今日お会いできるの楽しみすぎて、昨夜は全然眠れませんでした」
 私は笑いながら、お言葉に甘えて、とトマトへフォークを突き立てた。
「前回お会いしたのは……私がまだ大学に通っていた頃でしたから、ええと」
「もう十年くらいになるかしら」
「たぶん、そのくらいに」
「じゃあもう、あの事件の頃のお父さんのお歳、並んでしまったのね」
「そうなんです」
 レタスと小ぶりなエビを重ねてフォークに差す。
「最近父に似て来たって、母にも言われて。娘としてはすごく複雑な気分です」
「ふふ。でもメリアさん、昔からお母さん似だったわね。アマンダさんにお会いしたのはあの時の一度だけだけれど、彼女の穏やかな雰囲気、ちゃんとメリアさんに受け継がれているわ」
「母は穏やかっていうより、のんびり屋って感じですけどね」
「今でも変わらずお元気で?」
「はい。父の手伝いも板に付いて。最近は母の方が、文壇の方と交流深いんですよ。結構楽しんでるみたいです」
 柔らかく微笑んだ後、クランベさんは頬杖を突いた。
「メリアさん、髪、かなり長くなったわね。手紙で髪を伸ばし始めたって読んでから、色々想像したのよ。もしかして想い人でも出来たのかしら」
「えへへ、内緒です」
「似合ってる。本当に綺麗になったわ」
「ありがとうございます」
 思わず頬が緩んでしまう。以前は肩に付くと直ぐに切っていた髪を、今は思い切ってロングにしている。理由は少し恥ずかしくて誰にも明かしていない。
「クランベさんだって。十年前と全然お変わりなくて、やっぱり綺麗」
「ありがとう。そう言って貰えると嬉しいわ」
 お世辞では無かった。目の前の彼女は、十年前に会った時と変わらず、否、初めてお会いした三十年前から変わらず、知的で涼しげで、何処となく深みのある淑女のままだった。とても、もう五十歳を超えているとは思えない。
「先程から気になっていたのだけれど」
 店内の蓄音機から流れる音が一瞬止んで、再び上品なクラシック曲が流れ出す。
「何を見ていたの?」
 彼女は私の手元を覗き込んだ。
「これですか? 私の秘蔵コレクションです」
 私はスクラップブックの表紙を上にして、彼女へ手渡した。
「『ダルト・スリオルト先生の記録』。随分年季の入った表紙ね。題字、メリアさんの字では無い様だけれど」
「はい。それ、父の筆跡です。誕生祝いに強請って、譲り受けたものなんです」
「開いても?」
「良いですよ。クランベさんからしたら、真新しい情報は無いでしょうけど」
 最初に彼女が開いたページは、小説『嘴に緑のオリーブを』に登場する鳥の描写について、私なりに論じたメモが貼ってある箇所だった。
「白い鳩の最初の登場シーン……かなり深く読み込んであるわね。ふふ。本当に好きなのね」
 私は齧ったサンドイッチを急いで飲み込み、大きく頷く。
「はい! 私の人生を変えてくれた人ですから、スリオルト先生は」
 彼女はさらに中程のページを開いた。
「あら、この記事……」
 今度は私が、彼女の手元を覗き込む。
 そこには何度も読み返した、あの新聞記事の歪な切り抜きが貼ってあった。澄まし顔のうら若き青年の写真が、ぼんやりと正面を向いている。

「人気の若手小説家 ダルト・スリオルト氏死去」
 先日、ガロンネッツ通りのスリオルト邸書斎から出火。数時間後に鎮火も屋敷は全焼。邸内から男性一名の遺体発見。調査の結果、遺体は当主で小説家のダルト・スリオルト氏と判明。また、火災発生時、同邸を訪れた担当編集者ルルボッチ・バルフォン氏も全身火傷により現在意識不明。ランプ用の燈油缶に暖炉の炎が引火か。現場は気密性が高く、バックドラフト現象により被害が拡大した模様。当局は事故として処理。

 店の奥で柱時計が時を知らせる鐘を打っている。十三時だ。
 クランベさんは、いつの間にか運ばれて来ていたコーヒーカップの持ち手に、指を絡ませていた。
「……報道陣の踊らされようと言ったら、まるで滑稽なマリオネット」
 彼女は溜め息混じりにそう呟いた。そして瞬時に、はっとしたように眉間の辺りを片手で覆った。
「ごめんなさい、メリアさん。自身の知らない分野について、とやかく言うものでは無いわね。もし気を悪くしたなら謝るわ」
「いいえ」
 私は首を大きく横に振る。
「私もこういうのにうんざりしている一人ですから。同じ業界の人間として情けない話です」
 すっかり冷めてしまったコーヒーと相まって、少ししんみりとした声が出てしまう。
「あの日の詳しい話は、お父さんから聞いているのでしょう?」
「はい。でも、あの父ですから、大袈裟と言うか、感情的と言うか。何処まで鵜呑みにして良いのやらって感じです」
 私が苦笑いをしたのを見て、彼女は口元を隠すようにして笑った。
「楽しい方ですものね。そうね、私の口から話しても良いのだけれど……」
 思わぬ言葉に鼓動が一気に速くなる。
「本当ですか! 聞きたいです!」
 クランベさんとは直接お会いできなくなってからも頻繁に文通していたが、あの日の事は何と尋ねたものか迷ったまま話題にした事は無かった。
「これは個人的な話だから、記事には含めないって約束してくれるなら」
「勿論です! 今日の取材は対談ってことになってますから、遅れている対談相手の先生がいらっしゃるまでは、全て古い友人との唯のおしゃべりです」
 私はテーブルに半身を乗り出さんばかりにして、クランベさんの顔を覗き込んだ。
「あなたのそういう所、お父さん譲りね」
「それは……褒めてますか?」
「勿論、褒め言葉よ」
「うーん、喜んでいいのか、ちょっと複雑です」
 落ち着きのまるで無い父の姿が思い浮かび、私は照れ臭くなって笑った。
「メモを取っても?」
「ええ。でも、メリアさんや先生方のように、上手くは話せないわよ」

 こうして雑誌記者の私は暫し職務を放棄した。
 穴が開くほど繰り返し読んだあの小説たちの生みの親、お会いしたくても叶わない“あの方”の新たなエピソードを、我が家宝に書き加える機会を得たのだ。

二 私と「意地悪な人」の稀有な顛末

「白き翼の天使よ、我が心は貴女の元へ……」
 ベッドに横たわったまま、顔の上で万年筆の側面をなぞる。感覚の研ぎ澄まされた指先が、その文字列を詠んだ。コバルトブルーの胴軸に、銀色の箔押し、今は遠く離れてしまった祖国の言語だ。
「この私に向かって白い翼の天使だなんて。ほんと、意地悪な人」
 消毒液の香る薄暗い部屋で、私は独り言を呟いた。
 明後日は久しぶりに、古い友人と会う約束をしている。メリアーヌという二十も年下の彼女との繋がりは、この万年筆から始まったと言っても過言ではない。
 私は壁掛け時計に視線を移し、時間を確認して起き上がった。椅子の背に掛けていた白衣に、さっと腕を通す。胸ポケットにペン先の無い万年筆を差しながら、足を前へと踏み出した。
 ドアノブに手を掛けようとした所で、先にノブが回る。
「ああ、クランベ先生! やはり仮眠室だったんですね」
 顔を出した大柄な看護婦長が、安堵の息を吐いた。
「何かありましたか?」
「はい、また急患で」
「容態は?」
「外傷が酷すぎて、副主任クラスでは対応し切れないっておっしゃって。直ぐ出られます?」
「ええ。このまま行きましょう」
 胸元の硬い感触を確かめてから、私は院内の仮眠室を後にした。

 万年筆の贈り主、私の人生の筋書きを一新した方、はたまた私では手の届かない意地悪な初恋の人。
 あの人との関係を言葉で適切に表現する術を、私は知らない。

 先生、ダルト・スリオルト、出会った当時はナナと呼ばれていた彼に、私は一目惚れをした。否、心酔したという方が、或いは適切かもしれない。
 彼、“メメント・モリのナナ”は、私達ノモモギ出身者の仇であり、ノモモギ生存者の英雄だった。
 辺りに響く大人達の怒声、立ち込める鼻をつんと刺すような黒煙の臭い、風に煽られ舞い上がる炎の粉を、今でも鮮明に思い出す事が出来る。戦渦に取り残された十三歳の少女は、地獄の果てで、涼しげな目をした救世主を見た。
 あの時、あの場に居たのが他の人間であっても、彼は迷わず助けたのだと思う。だから彼にとって、私は特別な誰かでは無かった。それでも、私にとっては唯一の希望で、憧れのヒーローで、同時に魂を絡め取る悪魔だった。
 戦後の混乱の中、姿を消したナナを私は必死に捜し出し、あなたの手足にして欲しいと頼み込んだ。
 彼は当初、私に“ダルト・スリオルト”と名乗り、ナナと同一人物である事を認めようとはしなかった。それでも一向に引き下がらずまとわりつく十三歳の戦争孤児を、彼はどんな思いで眺めていたのだろう。
 私が彼の名にちなんで、“ダルタエ”という新たなファーストネームを使い始めた時、彼は苦笑しながら“クランベ”という姓をくれた。当初の私は無邪気に喜んだ。彼が私を認めてくれた、傍に居る事を許してくれた、そんな気がしたからだ。
 しかし程無くして、彼は一度もダルタエという名を口にしてはいない、という事実に気が付いた。彼は大抵私に“君”と呼び掛け、時折思い出したかのようにクランべと姓で呼んだ。それらが意味する距離感を、私は何となく察した。
 その時期からだったか、私は彼を“先生”と呼ぶようになった。物書きを生業にすると告げた彼に対して、丁度都合が良かった。
 私は必死で先生の隣に居続けるための、自身の存在価値を模索した。そうして志したのが医学の道だ。
 人命救助に尽力したいと願う戦争経験者達に混じって、ただ先生に必要とされるため、その隣に立って遜色無い地位を手に入れるために私は奮闘した。その先にあるのが、今の私である。
 果たしてダルタエ・クランベは、彼の理想の手足と成れたのだろうか。その問いの答えは未だ与えられていない。

 胸騒ぎがした。
 あの事件、小説家ダルト・スリオルトが死んだ日の、前日の事だ。
 私は奇妙な事件の一端を、先生の相棒として担う最後の幸運を得た。
 当時、アデックケナー病院という国立大病院の研修医となっていた私はあの日非番で、日用品の買い出しのために街へ出ていた。
 紙袋を二つ、両腕で抱えるように持ち、路肩に停めていた車へ近付いた時、後方から声が聞こえた。
「やあ、クランベ」
 振り返ると、少し先にスリオルト先生がいて、此方を手招きしていた。私はこれ見よがしに溜息を吐いてから、其方へ歩いて行った。
「買い物?」
「これが先生には一体何に見えるのですか?」
「たまの休日を有効利用した、まとめ買いの産物、かな」
「ええ、その通りです」
「持とうか?」
「いえ、直ぐ其処に車を停めてありますから。先生に呼び止められなければ、もう重い荷物を降ろして、席に着いて一息吐いていた所です」
「それはごめん。タイミングが悪かったね。特別話す事は無いんだけど」
「そうでしょうね。では」
 立ち去る素振りを見せたにも関わらず、先生は全く調子を変えなかった。
「これからそこの喫茶店で、担当編集さんと打ち合わせなんだ」
「そうですか」
「会わせたことあったっけ? ミデルフォーネさん」
「ありませんよ」
「凄く面白い人でね」
「そうですか」
「近い内に紹介する事になるけど……道の向こう側」
 先生が其方へふと顔を向けたのに釣られて、道路の反対側に目を遣った。
「黄色の」
 路肩に数台駐車されている中に、小ぶりで鮮やかな黄色をした車があった。
「あの車、そのミデルフォーネさんのなんだ」
「つまりは既に待たせている、という事ですね。早く行ったら如何ですか」
「うん、そうするよ。ところでさ」
「はい?」
「あの車、緑色の方がいいと思うんだけど、どうかな?」
「それは」
「呼び止めて悪かったね。じゃ、また後で」
 先生は何時も唐突に現われては、猫のように気紛れにふらりと去って行く。
 私は店へ入って行く先生の後ろ姿を紙袋の間から見送ってから、車に戻った。
 荷物を抱え続けていた両腕がすっかり痺れてしまっていた。だるさが抜けるまで暫く、運転席から黄色の小型乗用車を眺めた。丸みを帯びたそのフォルムに何処となく愛嬌を感じ、それがそのまま、車の所有者である担当編集ミデルフォーネ氏のイメージとなった。

 下宿先に着いてからだったと記憶している。妙な胸騒ぎがした。
 先生が別れ際に言った「また後で」の一言が無性に気になった。あの先生の事だ、意味のない言葉の選択はしない。“後日”と言わず“後で”と言ったのは恐らく、今日の事を指しているからだ。そして、私と先生が明確な場所の指定も無しに会えるような所は、片手で数えられる程しかない。
 ふと私は最近院内で持て囃されている噂話を思い出し、呆れながらハンガーへ手を伸ばした。出勤日と同じように白衣と鞄の支度をした。先生はあの病院で会う心算なのだと思い至ったからだ。
 私の研修中の病院には、先生のご友人が長い事入院されている。勿論、それが理由で其処を研修先にと願い出た。
 その方の病室があるという東病棟を、何故か先生は面会可能時間外に、受付を通さずに訪れる。今まで院内関係者に見つかっていないのが不思議なくらいだった。ここ数カ月は訪問頻度が増したせいか、患者からの目撃情報が相次いでいた。
 戦争の後遺症から精神を病んでいる患者が多いアデックケナー病院において、掴み所無くふらりと廊下に現われる人影は、戦禍に犠牲となった特別な誰かに見えるのかもしれない。既に亡くなった人物の名を口にしながら、医師に縋り付く患者の姿をもう何度も見ている。
 病院の消灯時間を過ぎたのを確認してから、私は白衣を片手にゆっくり部屋を出た。
 念のためと言うべきか癖と言うべきか、病院とは逆方向へ車を走らせ、遠回りをして目的の場所に向かう。
 随分昔に、先生に教わった事だった。

「何かもし、如何しても辿り着きたい場所がある時」
 手に持った麦の穂をくるりと回しながら、青空を見上げたまま彼は言った。
「君ならどうする?」
「私なら……必死に努力します。自身の持てる力全てを使って、其処へ辿り着く最短ルートを探して」
「うん、全く、君らしい」
「先生なら、如何されますか?」
「僕か。僕なら兎に角、真っ直ぐには進まない。まず、真逆の方向へ走り出すかな」
「真逆?」
「そう。思いっきり遠回りをしてから向かうってこと」
「何故です? 敵を撒くため、ですか?」
「その方が楽しみを後に取っておけるから。それに時間の隙間が生まれる」
「時間の隙間。それは……何かの例え話ですか?」
「どうかな?」
「私には……よく分かりません」
「クランベは真っ直ぐな性格だからね。長所だよ。僕はほら、こんなだから」

「全くあの人は」
 闇の中、私はハンドルを切りながら、頬が緩むのを感じた。

小説『メメント・モリ』の里程標 第二章

小説『メメント・モリ』の里程標 第二章

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  • サスペンス
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2020-07-15

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