【サンプル】あかつきのドロップ

しずよ

【サンプル】あかつきのドロップ
  1. 一、七月十一日の海浜公園、 十八日の自宅
  2. 二、八月七日の純喫茶からマンションへ
  3. 三、八月二十二日の警察庁、十三年前の新潟
  4. 四、九月十七日のキャンパス、二十一~二十二日の公園

大学生の鯉登くんが、ある日海浜公園で発作的に飛び降りようとしたあやしげな男の携帯電話を拾ってしまいます。返そうと思い電話帳を確かめると、登録された電話番号は『鶴見篤四郎』の一件のみ、しかもその中には虐待を受けたと思われる男の写真が多数入っており、見てしまったことに罪悪感を覚えます。一週間後に電話がつながり返却すことになりますが、電話の落とし主・月島基にはある目的がありました。
さて、彼は一体何者でしょうか?というお話です。
いちおう転生パロですが、明治時代を覚えているのが月島さんのみ(しかも断片的)なので、彼は子供の頃に頭のおかしい人扱いされていたかわいそうな過去があります。
シリアスぶってますがハッピーエンドです!

※カップリング等諸注意
鯉登くんがモブ女にちょっと絡まれてます。
杉リパ白が、三人でわちゃわちゃしている感じです。谷マッは名前のみ出てきます。本人たちは出てきません。
年齢が原作とは少し違います。
月島さん、兄さぁは原作より少し下で、杉元と白石が同級生でリパさんが彼らのひとつ下、鶴見さんは少し上です。
サンプルに入らない箇所に、流血表現があります。

一、七月十一日の海浜公園、 十八日の自宅

 バスの運転席隣にある機械にICカードをタッチして、ステップを降りて開いたドアから外に出た。するとたちまち全身を夜の蒸し暑さが包む。鯉登音之進が家庭教師のアルバイトをしている中学生宅から帰宅する途中だった。ピリリリリ、とスマホが鳴る。珍しくラインではなく電話の着信音だ。
「はい」
「ねえねえ、鯉登ちゃん。なんで今日来なかったの〜?」
 聞こえてきたのは白石由竹の呑気な声だった。だから鯉登は少し苛立ち、声を荒げる。
「バイトだと言ってあっただろう!」
 そして腕時計で時刻を確認すると、午後十一時だ。
「飲み会は終わったんだろう? 何も用が無いなら切るぞ」
「あ、待って待って! あのさ、いま帰ろうと思って駅に来たらさ、電車止まってるんだよね。人身事後で」
「そうか、それは災難だな」
「そうなのよ〜、災難だからさ、鯉登ちゃん迎えに来てく」
 鯉登はそこまで聞いて、画面の通話終了ボタンをタップした。ツー、ツー、ツーと音が聞こえる。すぐさまピリリリリリ、と再び呼び出し音が鳴った。画面に表示された名前は白石である。応答ボタンをタップする。
「くだらん要件でかけてくるな」
「あー、出てくれて良かった。鯉登ちゃんのこういう律儀なところが好きよォ」
「気持ち悪いことを言うな」
 電話の相手には見えないが、思い切り口元を歪ませて不機嫌さを表す。
「あのね、JRが今のところ二時間遅れになってるのね。地下鉄は無事だからオレと杉元と明日子ちゃんは東西線まで歩いて行けば帰れるんだけどさァ、ひとり無理そうな子がいるのよ」
「タクシー相乗りすればよかろう」
「それがタクシーも全然捕まらないのよ。タクシー待ちの行列が……、こっちも二時間待ちかな?」
「ではバスで帰るように伝えろ」
「バスがもう終わってるんだって。房総方面でさ、遠いのよ。どうすればいいと思う?」
 白石の質問に、鯉登はため息をついてこう答えた。
「……本人に代われ」
 今日の白石らの飲み会に参加した相手を、鯉登は知っていた。大学の同級生の水鳥川(みどりかわ)(みどりかわ)という女子だ。が、話をしたのは先月大学のラウンジで一度きりで、ほとんど他人も同然だ。
 だから鯉登は「いくら交通機関が麻痺していたとしても、私のような知らない男を信用して頼るな!」と説教しようと思ったのだ。
 それなのに電話に出た相手は、しおらしい口調で謝った。しかも、家まで送ってほしいと本人は言っておらず、白石の発案だと分かった。どうやら水鳥川への点数稼ぎのために、鯉登を頼ろうとしているらしかった。そうなると強い態度で正論を述べることはできなくなってしまう。



 彼らとの話が終わり、鯉登が家に着いたのは、十一時半だった。
「おかえりなさい」と母がキッチンから顔を出す。就寝前に炊飯器のセットをしていた。
「車は?」と母に尋ねる。
「車? お父さんまだ会社なのよ。今日はちょっと遅いわね……」
 母は壁掛け時計に目をやり、少し疲れた顔をした。
「そう」
 鯉登は短く返事をし、きびすを返した。すると「あら、また出かけるの?」と戸惑っている。
「ああ」
「どこへ?」
 聞かれるとは思わなかった。子供じゃあるまいし、との反抗心が、わずかにもたげる。しかし母が心配する気持ちを理解できるので、素直に白状した。
「……JRの人身事故で帰れなくなった同級生がいるから、家の近くまで送ってくる」
「送るって……、何で迎えに行くの?」
「自転車だ」
「え?」と母は口に手のひらを当てて驚いている。「二人乗りは違反じゃないかしら?」
「たぶん駄目だろうな」
 鯉登は玄関に腰かけて、スニーカーの紐を結び直しながら応える。
「……。そうなの、気を付けて行きなさい」
 母は息子を諭そうとしたのかもしれない。一拍、返事が遅れたので察した。だけど息子の頑固さをも知っているから、無謀だと止めるのは諦めたのだろう。
 玄関を出る。駐車スペースに、二台目の車が実は停まっている。しかしその所有者である兄は、一年前に短期留学先のエストニアで失踪した。いまだに行方が掴めない。これを見るたびに胸が重たくなる。そして再びこの車が走る姿を願う。
 いつでも兄さぁが戻って来られるように、部屋も靴も車も全部そのままで。
 そして鯉登は、軒下にある自転車を走らせた。



 それは先月、東京が梅雨入りした六月十一日のことだった。
 鯉登が大学から帰ろうとしていたら、バケツをひっくり返したような雨だった。これはしばらく帰るのは無理だな。時間をつぶすべくキャンパス内のラウンジへ向かう。そこはすでに学生であふれていた。みんな同じ理由でやり過ごしているらしい。席を見つけコーヒーを飲んでいると、後ろから声をかけられた。杉元佐一だった。
「よぉ。あのさー、誰か女の子紹介してほしいんだけど」
「断る。だいたい貴様には付き合っている奴らがいるだろう」
「はァ? 奴ら? 複数?」と杉元は憮然としている。
「後輩女子と風来坊の坊主だ」
「女子はともかく風来坊まで何でオレのお付き合い対象なんだよ殺すぞ」
 杉元が悪鬼の形相で睨む。鯉登は目をそらしてつんと取り澄ます。でもこの手の応酬はいつものことだから、杉元は話を続ける。
「つーか俺じゃなくて女の子紹介してほしいっつってんの、その風来坊の白石だよ。なんかさァ、最近泣きながらやたらと絡んでくんだよ」
 げっそりとした顔をして見せる。白石は杉元とは同じ中学校へ通っていたと聞く。高校を卒業したあと、彼はアルバイトを転々としていたようだが、二年前からとある喫茶店で店番をするようになった。そこが鯉登の行きつけの店だった。だから今ではすっかり顔見知りだ。愛想がいいので店員としては申し分ないが、誰か知り合いを紹介したい気持ちは皆無だ。そんなお調子者だ。
「しつこいぞ杉元。断ると言っている」
「まあ、断りたくなる気持ちも分かるんだけどね」と杉元は苦笑いする。
 白石とは七年前からつるんでいるが、こと女癖に関しては信用がないと言う。だから顔見知り程度の女の子であっても、紹介する気にはなれなかったと愚痴る。
「あいつも全くもてないこともないんだけどさー、先月は失恋してひどく落ち込んじゃって、見ていられなかったんだよね」
 杉元は慈愛に満ちた目をする。なんでも、とある占い師に入れ込んで、個人鑑定を受けるためにバイト代を注ぎ込んでいたそうだ。そうして占いの館に通い詰める日々だったのに、白石の熱意は叶わなかった。彼女は先月妊娠が発覚して、相手との結婚がすぐに決まったと言う。
「それでさ、白石のやつ店番してる最中にオレに泣きついてきてさ、涙と鼻水が止まらなくて仕事にならねーんだよ。きたねー顔でさ。しまいにはオレにコーヒー作らせようとするんだぜ。他の客に出すやつを」
「は? 杉元が作ったのか?」
「ああ、スマホで調べながら淹れたぜ」と杉元は達成感でいっぱいな顔をする。
「貴様……、優しいな」
「あ? 気色わりいこと言うなよ。お客さんのこと考えたらそうするだろ」
 オレはオレに求められる役割を引き受けただけさ。そう言いたげに杉元がはにかむ様を、鯉登は冷静に見定める。こんなふうに杉元は、自分のプライドを引っ込めて大局的に動く時がある。それが長所だと鯉登も認めている。だから普段は反りが合わなくても、何だかんだとつるむのである。しかし飛び入りの素人が、客に提供する調理をしていいのだろうか。もたげた疑問を杉元に聞いてみようと口を開きかけたその瞬間に、女の声がした。
「その白石くんて人、今はどうしてるの?」
 誰か人がいたのか? 虚をつかれた鯉登が、声のした方に振り向く。背後に女子学生がひとりたたずんでいた。気配に気付かず驚いた。どこの馬の骨か知れない白石の失恋話を聞き続ける熱心な者が、自分の他にもいたのか。鯉登は感心した。
「ああ、元気ないよ」と杉元は苦笑いする。女は続けざまに白石に関する質問をしてきた。大学生なのか、芸能人で言えば誰に似ているか、占い師の前に付き合っていた彼女は、何という占い師か、白石と杉元はどのような関係なのか、と。
「あー、うん。オレと白石は中学の同級生で、腐れ縁。大学には通ってなくて、アルバイトしてる。芸能人には詳しくねえから誰似なのかは……」
 杉元はそこで言葉を切って、鯉登を見る。助け舟を出しやがれ、みたいな視線を向けるから、そっぽを向いた。杉元から一瞬だけ殺気が向けられた。
「まあ何だ、お調子者だよ。付き合ってる人の話は詳しく聞いたことはないけどさ、二年前にその占い師に恋愛運を聞いたって言ってたな。そしたら、今後二年間は諦めてくださいって言われたらしい」
「当たってるな」と鯉登が言う。三人の間に妙な空気が流れた。これは、白石と水鳥川を引き合わせる流れじゃないのか。杉元と鯉登は珍しくアイコンタクトで通じてしまい、お互い同じ結論に達したのを確認した。ごくり、杉元が生唾を飲み込む。
「……白石を励ます会、する?」
 そういう経緯で、今日四人は舞浜にいた。白石、杉元、水鳥川に明日子も参加していた。励ます会と称した飲み会の後に、近くの児童公園で手持ち花火をして遊んでいたとのことだった。



 確かにあの駅で足止めされたら人混みで大変だろう。夢の国から帰る客で駅構内はひしめき合っているに違いない。鯉登は少しだけ同情した。彼女の自宅は千葉県市原市だという。地下鉄で千葉県内まで行って、他のJRに乗り換えたら自宅近くまで行けそうな気がする。が、いろいろ検討して無理だと分かり、こちらに連絡してきたのだろう。とにかく彼らのところへ行ってみることにした。
 都内の鯉登の家からだと、大きな川を二本渡ると夢の国に着く。おそらく一時間かからないはずだ。出発から三十分間は夢中でペダルを漕いだ。喉が渇いて、水すら持って出なかったと気付く。だからコンビニを探して休憩することにした。
「知らない道だからやはりナビがいるな……」
 スマホで道案内を念入りに確認した。一息つき気を取り直して、再び自転車を漕ぎ始める。それから約十五分後、ついに舞浜駅近くの公園に着いた。
「こ、鯉登くん! ホントに来てくれたんだ、嬉しい!」
 水鳥川は抱きつかんばかりに感激している。そして少し怪訝な表情で「車は?」と聞いてくる。「あれだ」と鯉登は出入り口に停めている自転車を指さした。彼女がどんな反応をするかなんて興味がなかったから、水を飲んで汗を拭った。杉元と白石が「まじか」「これは予想外だね」と言う。十分後、鯉登と水鳥川は彼らに見送られて公園を出発した。
「ねえ鯉登くん。二人乗りって違反じゃない? 確か高校の時に自転車通学してた友達が言ってた。『後ろのタイヤに金具つけるの禁止!』って学校からプリント配られたって。あたしが乗ってんの、その禁止された金具だと思う」
「そうだな」と鯉登は素っ気なく返事をする。この自転車には後輪の中心部の両側に、棒状の金具――ハブステップが付けられている。これに足を乗せて後輪を跨いで立つと、二人乗りが可能だ。小学生の頃に兄の漕ぐこの自転車で、家から少し離れた場所まで出かけた。兄から「本当は二人乗りはやっせんど」と教えられて驚いて、ルールを破る自分たちが少し大人になった気がした。兄がいるなら何でもできるようになると、その後ろ姿を見て思っていた。
「ねえ鯉登くん。鯉登くんの家には車二台あるんじゃない?」
「……なぜそんなことまで知っている?」
「ああ、杉元くん達に聞いて……」
 チッ、と後ろに聞こえないくらいの小さな舌打ちをした。もしかして兄の件を勝手に話したのか? 鯉登は急に腹立たしくなってきた。
 杉元は白石と違って他人の秘密を軽々しくしゃべる人間ではないと思っていたのだがな。ああ、それとも白石から聞いたのか。それなら合点がいく。
――正直、放り出して帰りたい気分だ。
 そして進路を変えた。それまで走っていた道より広い道を目指して進む。そうすればトラックがかなり増える。騒音で後ろからの声は聞こえなくなるから、好都合だ。会話をしなければ怒りを感じなくて済む。
 これ以降、鯉登は聞こえない振りをして前進することに集中した。浦安市から房総半島方面へ向かうには、途中大小の川を何本か渡る。小さな川だとやたらと溝臭いところがあり、辟易しながら橋を探した。大型車に煽られて、接触しそうな身の危険も何度か感じた。
 海から付かず離れず東へ向かい、約二時間後に幕張メッセに到着した。見覚えのある建物が目に入ると、鯉登は急に肩の荷が下りたような気持ちになった。そしてふと昔の出来事を思い出す。これも小学生時代の記憶だった。幕張メッセでのWホビーフェアに行ってみたいと、駄々をこねたことがあった。それは毎年冬に開催されている、小学生にはたいそう人気のあるイベントだった。それで前年も同級生のほとんどが連れて行ってもらっていて、イベントで配布されたノベルティグッズを各々自慢していたのだった。しかし鯉登の父と母は仕事の忙しい時期だから、と断られた。そこで落ち込む音之進を見かねた兄が、連れて行ってくれたのだった。会場に到着したのが正午で、目当てのノベルティはどれも配布終了していた。それでも、兄の愛情を感じられる大切な思い出のひとつだ。
「ねえ鯉登くん! お手洗い行きたいんだけど!」
 後ろからの叫ぶ声で現実に引き戻される。今度は舌打ちはしなかった。コンビニに寄ることにした。鯉登が買ったペットボトルを外で開けていると、水鳥川も買い物を済ませて店から出てきた。
「午前二時か~。鯉登くん、眠くない?」
「いや、大丈夫だ」
「え、ホントに? 夜型なの?」
「どちらかというと、朝型だな。用がすんだなら、出発するぞ」
 会話をすると、また何か気に障ることを言われるのではないか。何か含みを感じたので、話を切り上げ自転車に乗った。
「ねえ鯉登くん。あっちにある美浜大橋って昔は有名スポットだったって話、知ってる?」
「有名?」
「そう、ナンパ橋って呼ばれてたって、親から聞いたことある」
 今から約二十年前、その橋は週末になると車が列をなして停まっていた。ずらりと数キロメートルにも及んだ路上駐車の車は、ナンパ待ちの女性ドライバーの車だった。そうして路肩に並ぶ車に、男性ドライバーの車が徐行しながら近づくのである。隣に車を停めて、窓を開けて乗車したままで会話を楽しむ。意気投合すれば、カラオケや居酒屋やボーリングへ行ったりしたのだ。そういう時代もあったと聞いた、と水鳥川は語る。
「今とだいぶ違うから、最初親があたしを騙そうとしてるのかと思っちゃった」
「そうだな」
「うちら車持ってる人、少ないよね」
「そうだな」
「……鯉登くん、やっぱり疲れてるでしょ」
「疲れてないぞ」
 まだ体力が残っているのだと証明するために、漕ぐスピードを速めた。揺れに耐えるために肩に捕まる彼女の手に、力が加わる。ふと長い髪が耳に触れた。不思議に思った次の瞬間、首筋に柔らかいものが当たった。
「あたし立ってるの疲れちゃった。この辺で休憩しない?」
 後ろから伸ばされた手が指差す建物は、ホテルだった。



 不愛想なフロントを通り過ぎると、そこは木々に囲まれたナチュラル志向の内装で、ペンションに似た雰囲気だ。健全さに騙されそうになる。が、ここは確かにラブホテルだった。利用料金が二時間ごとに区切られている。部屋に入ると水鳥川が「ね、喉乾かない?」と聞いてきて、ドリンクメニューを眺める。
「シャンパンでスカッとしたいな〜」
「酒を飲んだら返って喉が渇くだろう?」
「そう? 蒸し暑いからおいしいと思うよ。鯉登くんもこっち来て座りなよ」
「シャワーをあ」
──プルルルル。室内の固定電話がいきなり鳴って、ふたりともどきりとする。鯉登が受話器を取る。フロントからだった。手短に会話を交わして通話を終えると、水鳥川が聞いてくる。「フロントから? 何かあったの?」
「自転車の件だ。裏に従業員用の駐輪場があるから、そっちに停めてくれと言われた。移動させてくる」
「分かった」
 鯉登は建物の表に停めていた自転車にまたがる。そこでようやく一息ついた。肩に力が入っていたことに気がつき、背伸びをして深呼吸する。
「……さて、帰るか」
 荷物は持って出てきた。最初からそのつもりだった。ほとんど知らない女と泊まる気など、さらさら無かった。それに男がシャワーを浴びている隙に、財布や貴重品をくすねて姿を消す強盗がいるとも聞く。用心するに越したことはない。だから水鳥川に先にシャワーを勧めて、その間に宿泊料金だけを残してひとりで帰るつもりでいた。電車が復活するまでここで安全に過ごしてくれたら、鯉登としてはそれで良かった。タイミングよくフロントから電話がかかったので、自然に外へ出られて助かった。
 それにしても女は分からん。鯉登はため息をつく。見た目も派手ないかにも蓮葉(はすは)な女ならば、こうして男に積極的に迫るのも分かるのだ。しかし彼女は、どちらかと言えば目立たないタイプの女子だ。だから鯉登は、ラウンジで背後に立っている気配にすら気づかなかった。第一、彼女は白石を気にかけていたから、今日会ってきたんじゃないのか。
「……はあ……、私は何をしているんだ」
 鯉登は気を取り直して、自宅へ向けてまた走り出した。
 一年前までは彼女がいた。高校一年の時からだったから、すっかり理解し合っていると鯉登は思っていた。しかしそれも一方的な思い込みだったようだ。象徴的な出来事は半年前のこと。兄からの連絡が途絶え、心痛で普通の生活をするのに手一杯で、気持ちに余裕などまだ持てない時期だった。「どこか旅行へ行かない?」と連絡が来たのだ。
 もしかしたら、気分転換になるかもという気遣いからの提案だったのかもしれない。あるいは、自分が落ち込みやすくて気にし過ぎる性質なのかもしれない。しかし鯉登にしてみれば「事件もやはり他人事なのだな」という諦めの方が大きかった。他人に勝手に期待するから、裏切られたと思うのだ。深く関わらなければいい。鯉登は周囲の人間関係に急速に醒めていった。それは実の親に対しても。
 ホテルを出て一時間ほど経過した。空が白み始めた。自転車を停めて振り返る。東は自分の背後だ。おそらくあと一時間ほどで日が昇る。唐突に海が見たいと思った。海は好きではないのに。だから鯉登は、実は海水浴にも行ったことがないし、剣道の冬季合宿で定番の、砂浜の走り込みが苦痛だった。それなのに、今日はどういう心境の変化なのか、自分でも不思議だった。交差点の手前にある案内板に、左折すれば海浜公園へたどり着くと書いてある。だから左に曲がって海を目指した。数分して大きな看板が見えた。海浜公園だ。駐輪場を探して自転車を停める。堤防へ向かって歩く。
 さあ、海だ。──と思ったのに想像と違った。目を凝らす。堤防の下には水ではない黒いものが広がっている。砂ではない。その上をコサギが歩いて何かを啄んでいる。
「……干潟だ」
 公園の入口に設置されている案内板まで戻って確かめる。干潮時には干潟になると書いてある。鯉登は東京湾にもそれがあることを、すっかり忘れていた。そして堤防まで戻る。改めて海を眺める。干潟の先には一面に暗い水が広がっていた。正直、少し怖い。この公園は南に面しており、陽の光がまだ及んでいないから、引きずり込まれたら二度と浮上できないような重たい色をしている。
 空や雲がやけに赤く染まり始めた。今日は朝焼けだ。しばらく無心で堤防から海を眺めた。わずかに流れる潮風に絡めとられた前髪の一房や、伸びた爪の先までも、昨夜の自分が洗い流されそうな気分になっていた。苦手なくせに、どうして海に行こうと思ったのか自分で自分が分からなかったが、毒を以て毒を制すみたいなものだったのかと、ふと思う。時おり背後を犬の散歩の人が通り過ぎる。
 間もなく太陽が出てくるはずだ。それを見届けてから帰ろうか。しかし、胸の辺りに焼けたような熱が広がり始める。頭はぐらりとふらつく。やはり克服できた訳ではなかった。堤防に突っ伏すが、おさまる気配がない。やっぱり帰ろう。そう決めた時だった。
 異臭がした。酒のにおいだ。ハッとして鯉登は振り返る。男がひとりいた。足取りがおぼつかず、ゆっくりとこちらに歩いて来ていた。
酔っ払いか。顔をしかめて鯉登は立ち去ろうとする。どさり。男が転んだ。
「……」
 派手な転び方ではなかったから、すぐに起き上がるだろうと思った。それなのに男は転んだままの姿勢でうずくまっている。何となく鯉登は見ていた。起き上がるなら帰ろう。大人なのだから、膝を多少すりむいたとしても、面倒を見てやることもないだろう。
 でも男は動かない。どうしたのだ。打ち所が悪かったのか。おそるおそる近づく。慎重に、足音をたてないように。そうしてじりじりと距離を詰め、腕を伸ばせば届くほどになった、その刹那。
 むくりと男は起き上がり、地面に座り込んだまま鯉登を見上げた。
 目が合ってしまった。
 その目には強い意思が宿っていた。鯉登は驚いた。二日酔いの最悪な状態だと思っていたのに。酔っていないと言うかのような、確かな視線。この様子なら、おそらく逆ギレをするような変人の類じゃないだろう。鯉登は慎重に声をかけた。
「……顎から血が出ているぞ」
 そう言うと、男は無造作に自分の顎を触る。そして手を見る。「ああ……」手に付いた血を見て納得した様子だ。それから額や顎髭についていた砂を払い、男はよろりと立ち上がった。鯉登から視線を外して、堤防へよたよたと歩いて行く。
 鯉登は見ていた。大した怪我じゃないのが分かったら、帰るつもりだったのに。
 男は堤防にたどり着く。そこにしがみつくように、上半身でもたれかかる。堤防の高さは約一メートル二十センチ。男は鯉登より身長が低かったから、胸まで隠れる高さだ。それなのに男は次の瞬間に、足を堤防の上にかけてよじ登った。酔っ払いとは思えないその身のこなしに、鯉登はあ然としてしまった。いったい何をする気なんだ。
男は堤防の上に立ち、そして前へ一歩。
「おい! 止めろ!」
 鯉登は前に踏み出した。いくら下が泥であっても、五メートル落下して無事で済むとは思えない。というかこの男はいったい何がしたいのだ! 頭の中には批難の言葉が大量に押し寄せる。次の瞬間、鯉登は堤防の男の服を掴んだ。
「……う、ぐっ……」
 男は自分の着ているシャツに喉元を締め付けられて、うめき声をあげた。彼は足を滑らせる寸前で、なんとか堤防にとどまった。しかし今にも重心が空中に投げ出されそうな、ぎりぎりの縁にかかとだけ乗っている。男の長袖シャツが破れないように、こちらに引き寄せる。腕を掴む。そして渾身の力で引き寄せた。
「うわあっ!」
 男は叫んだ。堤防の上からアスファルトに落ちた。鯉登は尻餅をついた。男は地面で膝を打ったらしく、低くうめいて顔をしかめている。鯉登は砂を払ってすぐに立ち上がる。そして男に問うてみた。
「何をしているんだ」
「……頼んでません」
「……え?」
「助けてくれなんて、頼んでません」
 冷静な非難だった。支離滅裂かもしれないと思っていたのに。しかも丁寧語を使うなんて。でも責められる筋合いはないのではないか。ひるまず鯉登も言い返す。
「目の前で人が飛び降りたら寝覚めが悪い」
 そう言うと男は黙ってにらみつけた。鯉登も不機嫌をあらわにする。まったく、昨日から何なのだ。何かの歯車でも狂ったのか。ため息をつく。
 帰ろう。
 にらみ合いを止めて、鯉登はくるりと身を翻す。駐輪場を目指した。歩く間、さっきの出来事が頭の中で何度も再生する。死にたかったのか? しかしそれなら干潟なんて選ばない。ただの酔っ払いだったのだろうか。それにしてはやけに落ち着いた口調だった。鯉登は胸の中がぐちゃぐちゃにかき乱されていた。あの男の行動や台詞や表情の何もかもが、ちぐはぐだ。赤い空も暗い海も酒のにおいも、すべてがかみ合わず気持ち悪い。
 自転車の横に立ちポケットを探る。ジーンズのポケットに仕舞ったはずの、自転車の鍵がない。落としたのか。
 鯉登は下を見ながら来た道を辿った。そしてまた堤防へ来てしまった。男の姿はもうなかった。鯉登はどことなく安堵する。男を引き上げて口論した場所をつぶさに探すと、携帯電話が落ちているのを見つけてしまった。
「これは……」
 鯉登は周囲を見回す。ジョギングしている者、犬の散歩をしている者は数人見える。しかし道というよりこの一帯は広場になっているから、みんな堤防のすぐ脇を歩いたり走ったりしていない。つまり鯉登のいる場所からは離れている。十中八九、通行人のものではなくあの男のものだろう。
 携帯電話は二つ折りだった。ガラケーだ。鯉登は使ったことがない。指紋やパスワードでロックされているのだろうか。ひとまず開いてみる。するとメニュー画面が表示された。どうやらロックされていない状態らしい。なんと無用心な。鯉登は勝手にあの男に憤る。
 電話帳を開いてみる。もし持ち主の電話番号が登録されていれば、連絡しようと思った。交番に届けるより、早く持ち主へ返せそうだと思ったからだ。
 しかしその電話帳の中身は、異様だった。一件だけしか登録がなかった。
「鶴見、篤四郎か……。なぜひとりだけしか番号が入ってないんだ?」
 普通に考えれば家族だろうが、こんな使い方をする人物が周りにいないので、釈然としない。スマホで調べてみると、使用者の氏名と電話番号が表示される機能があると知った。ガラケーはどの機種も共通していて、メニューボタンの次に0を押すらしい。早速押してみる。が、そこに表示された名前は、やはり鶴見の名前だった。
 結局、落とし主の連絡先が分からない。だが、ここで色々考えても何も解決しないので、鶴見に電話をかけてみることにした。電話の向こうでトゥルルル、と呼び出し音が聞こえる。三十秒経過。呼び出し音が鳴り続ける。出ない。一分経過したところで電話を切った。
「……はあ」
 息を逃す。知らない相手に電話をする緊張感から、肩に力が入っていた。
 どうしようか。やはり交番へ届けるべきか。散々迷って、何か手がかりを探るべくボタンを適当にポチポチと操作していた。おさいふケータイや赤外線通信機能等、自分のスマホには無い機能に新鮮な気持ちになる。やがて行きあたったのが写真フォルダだった。鯉登は手癖でほとんど無意識に開いてしまった。
――、あ。
「なんだ……、この写真は」
 そこに並んでいたのは、先程の男の裸の写真だった。顔はうつむいたりトリミングされていたりして、よく分からないものが多い。衝撃だった。まぶたや口の端が切れて赤黒く腫れていたり、みぞおちや腕、背中など体中のあちこちが紫や青痣になっていたり、手の甲に火傷や水ぶくれの痕があった。そして下腹部に切ったような傷があった。手術痕なのか詳しくは知らないが、とにかく男の体は傷だらけだった。
「なぜこんな惨たらしい写真ばかりが……」
 鯉登は衝撃で動けなくなって、次第に携帯を持つ手が震え始めた。見てはいけない彼の秘密じゃないのか。それを勝手に暴いてしまった。
「だから真夏なのに長袖を着ていたのか」
 先ほど感じた違和感のひとつが、それだった。それにしても、一体何枚あるのだろうか。
 下矢印ボタンを押して、写真フォルダをさかのぼる。まず顎髭のある写真は一枚も無かった。そして体つきは別人のようにやせ細っている。先ほどの男は、筋肉質だとシャツ越しでも分かる程だった。実物と写真との違いは歴然で、ここに収められている画像はおそらく彼の十代のものだろう。
 交番に届けたら、これらも警察官らに見られてしまうんだろうか。それは気の毒な気がした。うっかり目にしてしまった自分の記憶も消し去りたい気持ちになった。だから本人に直接返す方がいいと思った。時間をおいて再び電話連絡してみよう。
鯉登は携帯電話を自宅に持ち帰った。が、その日は結局電話は繋がらなかった。



 次の日も電話をした。朝と昼と夜と、時間帯を変えて。そして携帯を触るたびに落ち着かない心地になる。さらに明くる日、もしかして携帯電話が壊れているのだろうかと思って、鯉登は自分のスマホからもかけてみた。でも、やはり鶴見は出ない。そして写真フォルダを表示する手前まで操作して止めて、ぱちんと携帯を折り畳んだ。電話が繋がらないことに、じりじりとした焦りが鯉登の胸を占めていく。そして携帯電話を見るたびにあれを思い出してしまう。彼の傷の赤黒さと痣の青さが、まぶたの裏にこびりついて離れない。じわじわと全身に毒が回っていくかのような、そんな剣吞な気持ちに蝕まれていった。
 そうして拾って七日が経過しようとしていた。これ以上、長く所持するのは不自然だ。明日までに繋がらなかったら、交番へ届けよう。
 手放すと決めたら清々した。明日になればあの傷だらけの男から、解放されるのだ。



 翌日、土曜日の午前中は大学の剣道部の練習があった。鯉登らはキャンパスから近くの八幡宮まで走り込む。神社に到着すると、そこの石段を駆け上がる。別の部員を抱えたり、横向きのままだったり、何度も往復して下半身の筋力を鍛えた。それからキャンパス内の柔剣道場に戻り、切り返しの稽古をする。基礎的なそれらをこなして、正午過ぎに練習を終えた。午後一時過ぎに自宅に到着すると、リビングから母が顔を出す。
「お帰りなさい。部屋でずっと携帯電話が鳴ってたわよ」
スマホはちゃんと持っている。リュックの中に仕舞っている。となると――。鯉登は二階への階段を駆け上がる。そして自室のドアを開けると荷物を床に放り、机の上に乗せておいたガラケーを開いた。
『不在着信 四件』
 画面には着信を知らせるメッセージが出ていた。着信履歴を確認すると、鶴見篤四郎からだった。鯉登は慌てて折り返しの電話を入れる。トゥルルル、トゥルルルと音が鳴る。出てくれ。祈るような気持ちで鯉登は携帯を握っていた。そして呼び出し音が十回なった後「はい」と男の声が聞こえてきた。
「あ、あの、突然すみません。私は海浜公園で携帯電話を拾った者ですが」
「ああ! それはどうも親切にありがとう。その電話の持ち主が困っておったよ」
 そう言って電話の相手は、たっぷりとした優雅を声に乗せて笑った。歳はどれくらいだろうか。父親より少し若い声に思えるので、四十代だろうか。
「交番に届けるより、直接ご連絡した方が早いと思いまして……」
 尻すぼみになった。なんだか言い訳めいて聞こえなかっただろうか。
「ふむ、確かに。警察署だと平日夕方までに出向かなきゃならんし、身分証だ委任状だと言われずにすみます。お心遣いがとても嬉しいです」
「いいえ、とんでもない」
「それなら、持ち主がそちらに取りにお伺いしても構いませんかな?」
「は、はい」
「では……、そうだな。七月二十三日のご都合は如何かな?」
「二十三日ですか……。あの、実は私はその日が引っ越しなのです」
「おお、連休中にお引越しですか」
 男はいささか驚いた声だ。
「ええ、ひとり暮らしを始めるんです」
 するすると言葉が出た。不思議な感覚だった。会ったこともない人物に、軽々しく個人情報を話すのはどうかしていると自分でも思う。それよりも怪しまれたくない気持ちの方が強かった。だから聞かれてもない詳細を話してしまった。
「そうでしたか。うーん、それならば来月になるな。八月七日はどうですかな?」
「はい。その日はおそらく大丈夫です」
 そうして、ふたりは携帯電話を渡す日時と場所を決めた。鯉登は自分の名前と連絡先を伝える。すると相手が最後に伝えたのは、あの男のことだった。
「順番が最後になってしまったが、自己紹介いたしましょう。私は鶴見といいます。その電話帳に登録されている者です。それから当日は、電話の使用者であるツキシマという男が参ります」
「ツキシマさん、ですね」
 やっと名前を知った。鯉登の胸は達成感でいっぱいになっていた。

二、八月七日の純喫茶からマンションへ

 八つ上の兄・平之丞は高校に通い始めた途端に、家にいる時間が短くなった。それは通常の授業でも生徒一人ひとりが課題研究への取り組みが必須であり、高大連携して大学の博士課程に在学する等のカリキュラムがあったのである。それに加えて部活動だ。
 当時小学二年生だった音之進は、兄がいないのをとても寂しく思っていた。が、それを口にしてはいけないのだという子供らしくない自制心もあった。しかし兄は聡いので、何も言わない弟の心情にも気付いていた。部活動が休みになった夏休み中に、千代田区にある高校の最寄駅の地下街にある古い喫茶店へ連れて行ってくれたのだった。ほの暗い照明で、壁紙やイスから昭和を連想させる内装の店だった。今時の高校生には全く似つかわしくない。なんでもその店のカレーライスがおいしいのだと、剣道部の先輩が教えてくれたのだと言う。じゃがいもは煮込まず、別にスライスして炒めたものを、皿によそったカレーに乗せてあるらしい。子供用ではないので少し辛かったが、炒めたじゃがいもの食感が新しく、何とも言えない感動があった。
 以来、兄は大学を卒業するまで七年もの間、半年に一度その純喫茶へ連れて行ってくれた。音之進は高校生になっていた。それからは友達や彼女と一緒に来るようになった。
 八月七日。鯉登は地下鉄を下りて、その地下一階にある純喫茶を目指して歩く。そこは地下街と言っても店が五店舗しかない小さなエリアだ。腕時計に目をやる。午前十一時。開店したばかりの店に辿り着く。カウンターに目をやり、働いているのが誰かを確認する。今日、そこでコーヒーを淹れていたのは白石だった。その上、働く白石と向かい合うカウンター席に並んで座っているのは、杉元と明日子だった。
「マスターは?」と白石に声をかける。
「おー、鯉登ちゃん、いらっしゃい」
「鯉登ちゃんいらっしゃーい」
続いて杉元がやる気のない表情をして、白石の口真似だけする。嫌がらせか。鯉登は顔をしかめる。
「コイトも追試は受けずに済んだようだな」と明日子が力強い笑みでサムズアップして見せた。実は今日は大学の前期試験の追試日だったのだ。今の時間帯に喫茶店で時間を潰しているということは、ふたりとも試験は大丈夫だったのだろう。
「マスターは昨日から穂高岳だよ」と白石が鯉登の質問に答える。
「穂高岳? 昨年も登ったのではないか?」
 鯉登は壁に掛けてある写真を見やる。それはこの店のマスターである二瓶が、昨年穂高岳に登った際の記念写真だ。もともと猟師で山歩きに慣れているから、今でも年に二度は三千メートル級の山にアタックしている。
「オレも同じ質問したのよ。したらさ、ルートがいくつもあるって言ってたぜ」
「そうか。で、いつ帰る?」
「明後日じゃない? マスターに用事あるの?」
「いや、特に」
「そう。カウンター座る?」と杉元の隣を指差すから、今度は仏頂面をした。
「いや、今日は人と待ち合わせだ」
 鯉登は奥の四人掛けテーブル席に腰かけた。白石がおしぼりとお冷を運んでくる。
「アイスコーヒーを頼む」
「はいよ。……ところで鯉登ちゃんさぁ」
「なんだ」
鯉登が素っ気なく相槌をうつと、手のひらで口元を隠して声をひそめる。
「水鳥川ちゃんのことなんだけど、ホテルに置いてけぼりにしたでしょ」
 鯉登は誰のことなのか戸惑って、ぐるぐる考えた。ああそうだ、一ヶ月前のあの女。
「私は最初から泊まるとは言わなかったぞ」とむくれる。
「でも女の子から誘うのって、とっても勇気が必要だったと思うよ〜?」
 白石が水鳥川の肩を持つので、鯉登は余計にむきになって反論する。
「……仮に性別が逆だったとしよう。その場合、好きでもない男がホテルに誘ってきたなら、キモいだの無理やりだのケダモノだの私から批難されてもしょうがないと思うが。それなのに男が女から同じことをされたら、据え膳食わぬは男の恥だと責められねばならんのか? 理不尽だと思わないか? どう思う、白石由竹」
「私もコイトの意見に賛成だ!」と明日子が加勢した。聞き耳を立てていたらしい。すると白石がしおらしくなった。面倒な展開になったと感じたんだろう。「ああ、うん、なんかごめんね。……あの子さァ、オレを励ます会に、鯉登ちゃんも参加するんだと思ってたらしいよ。そういうの聞いてたら、健気に思えてきちゃってさ」
 白石は失恋したばかりだから、恋心に敏感なのかもしれない。しかし鯉登は何の感慨も覚えなかった。私は冷酷なんだろうか? あの女子を可哀そうだとか健気だとか思えない。そしてそう思ってしまう自分に、罪悪感を覚える。
 数分後に水出しのコーヒーが運ばれてきた。鯉登が少し飲んだところで、杉元が「ところでさぁ、家出したんだって?」と聞いてきた。「家出じゃなくて、独り暮らしと言え」と注意した。その直後、出入口に人の影が見えた。四人が同時にそちらを見る。
 海浜公園の男が立っていた。
 そして鯉登の顔を見るなり、ばつの悪い顔をする。あの海浜公園で口論になった経緯を覚えていたのだろう。鯉登はほっとした。どうやら真っ当な倫理観の持ち主のようだ。拾って連絡して良かった。
「空いているお席にどうぞ~」と白石が明るく声をかける。
「待ち合わせしておりまして」
「おっ! 鯉登ちゃんの待ち人ね」と人好きのする笑顔を向ける。白石はちゃらんぽらんだが、こういう愛想のよさが接客業に向いていると鯉登は感心する。自分には真似できない。男はまっすぐ鯉登のテーブルの前へやってきた。
「あの……、鯉登さん。先月はご迷惑をおかけしました」
 会うなり深々と頭を下げる。きっと「助けてくれなんて、頼んでません」と鯉登に抗議したことに謝罪しているのだろう。
「それはもういいから、こちらに腰かけたらどうだ」と自分の向かい側の座席を指し示す。
「はい」と落ち着いた表情に戻った。
 白石がお冷やとおしぼりを運んできて「注文が決まったら呼んでね」と言って、パチリと片目をつむった。それを見たツキシマは、無表情になる。
注文は決まっていたようだった。「オレにもアイスコーヒーをお願いします」
「はーい、ちょっと待ってね」
 ツキシマは鯉登に向き直る。そして「あの、携帯電話を拾っていただき、ありがとうございました。それと、酔って大変失礼なことを……」と、また頭を下げようとした。
「謝らなくていいから」と鯉登は手を掲げて制する。その仕草にすら、申し訳なさそうな顔をした。謙虚なのか気が弱いのか。携帯電話に保存されていた暴行痕の写真が脳裏をかすめる。受けた暴力がツキシマの自尊心を挫いたのだろうか。自分は何も危害を加えないから、おどおどしないでほしいと思った。
携帯電話を入れた紙袋をさっそく手渡すと、月島はうやうやしく受け取った。
「本当にありがとうございました。あの、これはつまらないものですが……」
月島もまた持参した紙袋を、鯉登に差し出そうとした。
「そんなものはいらん」と鯉登は断った。
「それならあの、連絡先をお渡ししてよろしいでしょうか。お礼すらできなかったら、連絡を受けた鶴見さんも残念がると思いますので。気が変わったらこちらに連絡ください」
 リュックサックから名刺入れを取り出して、一枚をテーブルに静かに置いた。
「都立H学園 支援員 月島基」
 鯉登は名刺を読み上げた。月島の氏名と職業を知って、妙な感動がわき上がる。厳つい風貌の坊主頭だから、もしかしてその筋の者じゃないかと考えた瞬間があった。あの身体中の傷も、暴力団の鉄砲玉か何かをして負った可能性がある、と考えないでもなかった。しかし本物の反社会的組織の一員は、身なりが良く物腰柔らかで腰が低くて、非合法活動をしているようには全く見えないものだということも、聞いていた。
「だから音之進、そういう人物が近づいてきたら、くれぐれも気を付けろ」
 一年前、そう言ったのは父だった。兄が失踪した直後のことだった。
そこに月島の声が割り込んできて、鯉登は我に返る。
「学園といっても通常の学校ではなく、児童自立支援施設です。どういうところかご存知ですか?」
「知らないな」と小首をかしげる。
「問題を抱えている子の更生を手助けする施設なんです」
「それは……、とても難しそうだな」
「ええ、施設にくる子は、いわゆる『普通の家庭生活』を送ってこられなかった子供たちばかりです。なので日常を淡々と積み重ねることが一番の目的で、更生への近道です。でもこの仕事をしていると『普通』というものが、どんなにかけがえのないものなのかが、身に染みてよく分かります」
 鯉登は感動していた。一月前までは、体の傷以外は何も知らなかった男。とりあえず名前は鶴見から聞いた。でも、普段どんなことをして過ごしているのか──危険な目にあっていないか、実は知りたくて渇望していた。それら諸々が本人の口から語られる感動に、鯉登は純粋に胸をいっぱいにしていた。そして月島の話をもっと聞きたいと思った。
「でもこんなふうに一人前っぽく話をしていても、私は嘱託職員なんですよ。名刺を渡すような機会もありませんので、実は先月末パソコンで初めて作ってもらいました」
 そう言って笑った。笑えるのか。重たい過去を背負って辛い人生を歩んでいるとばかり思っていたから、とても意外に思えた。そうして月島にとっての初名刺をありがたく受け取った。鯉登もまた名刺を受け取るのは初めてだった。
「私はK大学二年生の鯉登音之進だ」
「K大学ですか。私は実は社会福祉士の資格を持っていないので、今年の春からどこかの大学か短大へ通いたかったんですよ」
「やめたのか?」
「受験勉強が厳しかったので、専門学校の通信教育を受けています」
「試験はいつだ?」と鯉登が聞くと「来年二月です」と月島は答えた。
──「そうですか、試験がんばってください」「はい、ありがとうございます」「じゃあ、月島さんお忙しいでしょうから、私はこの辺で失礼します」「はい、鯉登さんもお気をつけて」──用が済みその後は二度と会うこともなく、他人に戻る。
 そんなのは、困る。
 鯉登は、はっきりとそう思った。月島を引き留めたい。正直な自分の気持ちに驚きは無かった。芽生え始めた感情に気づかないほど、鯉登は鈍感ではなかった。では、どうすればいいのだろうか。
「……、さん? どうかしましたか?」
月島が首をかしげてこちらを見ていた。
「ああ、少し考え事をして……、ぼんやりしてしまって申し訳ない。月島さん、顎と膝の怪我はどうなりましたか?」
「ええ、大丈夫です。打撲とすり傷だったので、すぐに良くなりました。あの日は本当に、助けてくれてありがとうございました」
 そしてみたび頭を下げそうな勢いだったので、鯉登はわざとにらんで牽制した。
「謝ってほしか訳じゃなか。なんで飛び降りようとしたんじゃ」
 ずっと、あの日の真意を聞きたかった。けれどまだ顔見知り程度の自分に、そんな繊細な事情を話すわけがないとも思った。でも言いたい。答えてくれなくても構わない。だから方言でまくし立てた。標準語は本音を伝えるにはもどかしいのもあった。
すると月島は、一瞬だけ目を見開き、視線を逸らした。
「……それは、今ここではちょっと……」
 反応したから鯉登は驚いた。「わいもかごんまん者じゃったか」
「いえ、何となくは分かります」
 そして月島の目が泳ぐ。なぜだ。
「ふん、そうか。ここじゃ話せんのなら、場所を変えたやよかか?」
「……」
「沈黙は肯定じゃととれるど」
 鯉登は念を押す。月島はうつむいてずっと何かを考えているようだった。



 連れ立って店を出て、階段を上がり地上に出る。気温と湿度が一気に上がった。そしてはたと気づく。誰にも聞かれたくない話は、どこですればいいんだろう。個室か……。カラオケ店はうるさすぎて話にならないだろう。第一この近辺で見たことがない。それよりも何よりも、鯉登はこれまでの人生で片手の数ほどしか行ったことがなく、馴染みがない。そうだ、個室のあるレストラン。それなら近くにたくさんありそうだが、夏休みのおり、予約していないと難しいだろう。となると、残るはホテルか……?
「どこへ行きます?」
 上目遣いの月島の顔が眼前に迫っていた。思わず心臓が跳ねる。いま頭に浮かんだ邪な提案を、一瞬で葬り去った。急に汗がだくだくと流れる。そして「つ、月島はどこか行きたいところがあるのか?」と質問に質問をぶつけてごまかした。
「もう少し先に、公園がありますね」
 月島の指す先に緑が見える。ビルとビルの間にある木々だった。
「行ってみるか」
 自宅近くの公園では、夜に高校生や大学生らが暗い中でも話し込んでいるのをよく見かけるから、秘密の話をする場所としては間違いではないのだろう。
 でも着いてみると、すぐに選択間違いだと分かった。この公園には池のような形の浅く水を張った一帯があり、そこで十人ばかりの子供たちが水遊びをしている真っ最中だった。水しぶきがきらきらと眩しい。その周囲には、彼らを見守る保護者たちが立っている。
「……みんな楽しそうですね」と月島がつぶやく。
「ああ、涼しいだろうな」と鯉登が答える。
 月島に移動する気配がないから、ふたりして子供たちをしばらく眺めた。やはり子供が好きなんだろうか。鯉登は隣の男の横顔を見る。いま何を考えているのだろう。目を細めているのは日差しがまぶしいのか、何かに思いを馳せているのか、どちらだろう。こうして隣に佇んでいるだけでも、胸の奥から郷愁に似た気持ちがわいてくる。なぜ。
 浮かんだのは月島に率先して、自分が駆けて行くイメージ。
 それで鯉登はついぽろっとこぼしてしまった。「うちに来るか?」
 それを聞いた月島はやや驚いた顔で固まった。そうして見つめ合うこと十秒間。
「……。近いんですか?」
「ああ、まあ……近い……かな?」
「そうですか」
 月島はそう言ったきり、言葉が続かない。視線は子供達に戻っている。やっぱり不自然だと思われたのか。これで手詰まりか。鯉登は天を仰ぐ。いや待て。「また日を改めよう」と言ってみようか。しつこすぎるだろうか。鯉登がうなだれていると月島の声が聞こえた。
「駅はこっちでいいんですか?」
 鯉登が面をあげると、もと来た道を指している。
「き、来てくれるのか月島ァ」
 鯉登が感激して泣きそうになっていると、月島は小さく吹き出した。
「あなたが誘ったんでしょう」



 地下鉄から私鉄に乗り換えて、鯉登の住む世田谷区内に着いた。大学の近くだった。千代田区からは決して近いとは言えない距離だったが、月島はそれについては何も言わなかった。
「おじゃまします」と月島が律義に一声かける。
「すまん、客用スリッパがなかった」と鯉登が謝る。
「大丈夫です。きれいにしてますね」
「先月末に引っ越したばかりだ」
「ご実家から大学まで遠かったんですか?」
「うん、まあ、親に頼りたくなかったというか」
「自活しようと考えて実行できるのはご立派ですよ。保護者と然したるトラブルがなくとも、二十歳くらいになれば親を疎ましく感じる人が増えます」
「月島は仕事でそういうのに詳しいのか?」
「ええ、そうですね」
「月島もひとり暮らしか?」
「ええと、私は……」
 また言葉に詰まっている。そういえば結婚指輪をしていないから、独身だと思い込んでいた。が、妻や子供がいるかもしれないし、結婚前提の彼女と同棲中かもしれない。そうでなくとも、親の面倒を見ている孝行息子かもしれない。
「一緒に暮らせる仲の良い家族がいるなら幸せではないか」
 嫌味ではなく本心からそう思った。あの携帯電話に保存されていた写真は、親からの虐待の証拠だと思ったのだ。自分の予想が違ったのなら、それでいい。しかしそうなると、いったい誰からあんな目にあわされたのか。……学校でのいじめか? 鯉登が考え事をしていたら、月島が口を開いた。「それはそうと、喫茶店での質問なんですが」
「ああ! あれはその、とっさに口にしてしまったが、答えたくないなら答えなくていい。それで、代わりと言ってはなんだが……」
「はい」と返事をして、月島はひたむきに鯉登を見る。
「あの、私と友達になってくれないだろうか?」
「……え?」
「駄目か?」
「いえ、……なんというか……、びっくりしました。友達になってくれと、言われたことがないので」
「驚かせてすまん。私も初めて言った」
 同じクラスになって近くの席で、休み時間や部活動で話す時間が増えて、そして放課後や休日に出かけて。友達とはそうやってだんだんなっていくものであると思っていた。昨日までは。面と向かって友達申請したことなど、鯉登にとっても初体験だった。
 月島と二度と会えなくなるのだけは、勘弁してほしい。その一心だった。
当の月島はまだ困惑気味で「でも友達って、何をすればいいのかオレ分かりません」と真剣にとらえている。だから鯉登は一緒に考えて、こう答えた。
「うん……、ラインとか」
「ライン」
「飲みに行ったり」
「あなたはお酒強そうですね」
「うん、弱くはない。あと映画……。あ! あの店でカレーを食べてくればよかったな」
「おいしいんですか?」
「ああ、じゃがいもが後乗せでほくほくしている」
「食べ物の話を聞いたら、急にお腹が空いてきました」
「ふふ、月島もカレーは好きか?」
「ええ」
「好きな食べ物が一緒で私は嬉しい」
 そうして笑いかけたら、月島は反対に泣きそうな顔をした。どうしたんだ。鯉登は一転して気が休まらなくなる。すると月島は素早く身をよじって顔を隠そうとするから、鯉登は月島の手首を掴んでこちらを向かせた。
「月島」
「ちょっとあくびが出て」
月島の目が少し赤い。
「ごまかすな。私が何か気に触ることを言ったなら、注意してほしい」
「そういうことではありません。大丈夫ですから」
 そうは言っても、強がりにしか見えない。鯉登は業を煮やして月島を抱きとめた。
「……あの、鯉登さん。本当に大丈夫ですから、離してください」
「嫌だ」
 鯉登はなぜここまでして月島を労わろうとしているのか、自分で自分が分からなかった。ただ、月島が黙って耐えたり、ひとりでひっそりと泣くようなことがあってはならない、と思った。それは自分の落ち度だと、なぜだか思えた。
「鯉登さん、苦しいです」
月島から背中を軽く叩かれて、我に返る。
「すまん」
鯉登は謝って腕の力を弱める。しかし離れ難くなった。尚も腕の中から離さないでいると、月島は怪訝な表情をする。「離してください。友達だからといって、私の勝手な気分の浮き沈みにまで、あなたが責任を感じることはないんですよ」
「うん……」
言われなくても分かっている。友達を正面からこんなふうに抱き締めたことなどない。体温が直に伝わり嬉しかった。少し汗のにおいがした。首筋に汗が浮いている。それで魔が差したのかもしれない。そこに顔をうずめた。月島の体が強張るのが伝わった。それでも止めるつもりはなくて、右手を月島のうなじに添えた。
「こ、鯉登さん」
月島の声から動揺が伝わった。鯉登はそっとくちびるを寄せた。触れる直前、瞠目する月島が見えた。でも抵抗しなかった。逆に、まつわるように鯉登の服を掴んでいる。角度を変えて深くまで舌を差し入れようとした。──ガツン! 額に重い衝撃が走る。頭突きを食らった。額にびりびりと衝撃が残る。そして月島が両肩をぐいと押しやった。
「あなた何してるか分かってるんですか!」
「わ、分かってる。月島こそ何をするんだ」
「友達同士でこんなことしませんよ」
ぷいと顔を背ける。
「すまん。でも、したかったんだ」
鯉登が包み隠さず話すと、月島は驚いてこちらを見る。
「し、たかったって……。友達って、ひょっとしてセフレ募集だったんですか」
「違う!」
「でも、したかったんでしょう?」
「……」
「あなた、男と経験あるんですか?」
「……いや、ない」
 月島は「はあ」とあからさまにため息をつく。「ただの興味本位なら他の人をあたってください。あなたなら相手に不自由しないでしょう?」
「興味本位じゃない、私は真剣だ」
訴えると月島は押し黙る。そして不機嫌そうな顔をした。
「そんな顔をするな。真面目に答えてくれ」
「では真面目に聞きますが、最後までするんですか?」
「……え? ああ……」
 月島の意味するところが正直よく分からなかったので、曖昧な返事をしてしまう。
はあ。月島のため息は大きくなる。「それなら、どちらをご希望ですか?」
「どっち?」
「突っ込む方がいいのか、それとも挿れられる方がいいのかの確認です」
「……正直なところ、自分が挿入されるのは考えたこともなかった……」
「あの、本当に大丈夫ですか? 私相手に勃つんですか? 実はそれが一番難しいんですよ」
月島は鯉登の瞳の奥まで探るように見つめてきた。
「大丈夫だ」
 鯉登が静かに答えると、月島は目を伏せて小さく息を吐く。吐き出された息が、少しだけ戦慄いているように見えた気がした。本当は不安なのか? 真意が分からない。
「シャワーお借りしますね」
 鯉登が複雑な気持ちを抱き始めている隙に、月島はさっさと浴室へ消えていった。部屋の中にひとりぽつんと取り残される。自分でもあり得ないと思うほどの唐突さで迫ったのに、月島はすっかり腹をくくっている。感心する。そしてくちびるの柔らかさと、胸の中に異様な高揚が残った。
 鯉登は冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出す。月島はもしかしたら一時の気の迷いだと思っているかもしれない。唐突だが錯乱ではない。実は一月前から、すっかり月島に魅入られていたのだ。あの携帯電話の写真が原因だった。
 最初は、なんて惨たらしいんだ、と心を痛めた。それでもう二度と見ないと決めた。それなのに鶴見と連絡が取れるとほっとして、禁を破ってしまった。その時、実は見たくて見たくてしょうがなかったのだと鯉登は知った。
 痛そうでかわいそうで救ってあげたくて包んであげたくて大切にしたくて。
それから酷く興奮を覚えて抱いて骨抜きにして離れられなくして愛して独り占めして。
 そうして今日まで写真を眺め続けた。こんなねばねばとした執着心が自分の中にあったのかと驚いた。しかもそれが恋情をも伴うなんて、思いもしなかった。それまでの自分の知る恋とは違った。もっとふわふわとした甘ったるい気分が、自分の頭上に浮かんでいるようなものだったのに。でも鯉登は、そういう自分の心の変化を淡々と受け止めた。あんな出逢い方をすれば誰だって運命だと思うだろう。相手の生命に関わりを持ったのだから。きっと恋の形もひとつではないのだ。鯉登はそれだけは妙に確信を持てた。だから携帯を返した後も引き止めて、友達でも何でもいいから関係を繋げておきたかった。そしていずれ、月島にとってかけがえのない人に、自分がなりたかった。
 さっき降ってわいた劣情ではないのだ。
 シャワーの音は続いている。男同士のやり方を知っているのか、と確認をしてきたから、今のうちに調べておくべきか。スマホを手に取ると、自分の手の爪が目に入った。少し伸びている。月島の体を傷つけないために、切ってやすりをかけなければ。爪切りを探してぱちりぱちりと切っていく。その間、頭を占めるのは月島の過去だった。男に抱かれたことがあるんだろうか。慣れているような素振りが気になって、胸の奥がちくちくと痛む。嫉妬だ。さっき芽生えたばかりの一時的な感情ではないことの、証左だと思った。
 シャワーの音が止まった。ドアが開く音がする。
「鯉登さん、バスタオル貸してください」
「洗濯機の上の棚に入ってる」
 しばらくして月島が出てきた。肩にバスタオルを羽織った下着姿だった。その下に伸びた足には、痣がいくつか見えた。右足の小指の爪も、ほとんど潰れていた。鯉登の心が痛みを覚える。
「気が利かなくてすまん。Tシャツと短パンを持ってくる」
「気にしないでください。どうせ脱ぐので。それよりコンドームとローションはありますか?」
「ローションは……、無いな」
鯉登は自分の段取りの悪さに気まずい思いをする。
「私が今から買いに行きましょうか?」と月島が申し出るが、手間をかけさせたくはない。 鯉登は部屋の中を見渡して、何か代替品がないか探す。
「……そうだ! これは?」
 竹刀メンテナンス用の椿油をクローゼットから取り出した。月島が手に取り確かめる。
「えっと、確か油とゴムは駄目だったはずです」
「溶けたりするのか?」
「私も溶けるのを見たことはありません。が、注意書きが……」
「す、すぐに終わらせる!」
鯉登が前のめりになると、月島は「え……」と怪訝な表情をした。しまった。焦って下手をうってしまった。鯉登は落ち込む。きっと月島は「何を馬鹿なことを言っているんだ」と内心、呆れているのだろう。射精のタイミングを思う通りにコントロールするのは難しい。ましてや、初めての相手なのに。しかし落ち込んでいる場面ではない。鯉登は気を取り直す。「すまん、やはり買ってくる」
「……結構ですよ」
「ないごて」
「これでいいから、あなたもシャワー浴びてきてください」
 すっかり呆れられたと思ったので、言葉を失って直立する。すると、くるりと体の向きを変えられて、月島に背中を押された。
 鯉登は急いでシャワーを浴びて出てくると、くちゅくちゅという水音が耳に入った。セックス時に聞くあの音だ。居室に戻ると、ベッドの上に月島が伏せていた。ぼんやりとしてこちらを見た。腰はバスタオルで覆われていて、そこから右手を慌てて引き抜いて起き上がる。その手の指は、油でぬるぬると光っている。頬を染めて気まずそうにした。
「準備が必要なんです。風呂で広げようとしたのですが、ローションがないと指もなかなか入らなくて……」
「私にもできることがあれば教えてくれ」
「あの、できれば見ないでほしいのですが」
「なぜだ。こんなにいじらしい姿を知らずにいるなんて、もったいないだろう」
 鯉登が訴えると、月島は一瞬目を丸くしたあと無表情になる。それからベッドに突っ伏して「なんでそういうことを……」と、ごにょごにょと口ごもる。照れたらしい。月島の心をわずかでも動かせたことが嬉しかった。もう遠慮はしたくなかった。
「隣に入るぞ」と声をかけると、月島が奥へ体を移動させる。
「ベッド……、広いですね」
 鯉登のベッドはセミダブルだった。大人ふたりでもくっつけば寝られる幅だ。
「シングルだと真っ直ぐ寝たら、少し足がはみ出るんだ。だから私は高校の時からこのサイズのベッドに、斜めに寝ているんだ。誰か連れ込むためではないぞ」
 必死に理由を説明すると、月島はおかしそうにほんの少しだけ眼を細めた。その姿を愛おしく思った。そっと口づける。くちびるを離すと、月島の目が自分にまつわるように見えた。胸の高鳴りが腰まで響く。途端、すぐに挿入したい気持ちが強くなり、抑えられなくなった。私はこの瞬間を待っていた。
「月島、すまん」
ひとこと断りを入れると、鯉登は月島の足の間に体を割り込ませて、両足を持ち上げる。肩に足首を乗せて尻をやや上向かせると、月島の顔色が変わった。
「ちょっと待ってください、まだ早い!」
 言い終わらないうちに、切っ先を飲み込ませていった。月島は固く目を閉じ歯を食いしばっている。ゆっくりと進めていても、そこの狭さが変わるわけではなかった。まだ亀頭の半分ほどしか入っておらず、つまり一番太いところはまだこれからだ。それなのに鯉登は穴の狭さに痛みを覚えて、萎えてきてしまった。いったん抜いてコンドームを外した。
 すぐさま月島にのしかかり口づける。そして月島の腰に陰茎をぐりぐりと擦りつけると、それだけですぐに頭の中が煮えたぎる思いがした。鯉登はこれまで性欲を持て余すなんて、自分とは無関係だと思っていた。ベッドの中でも理性を忘れず紳士的に振る舞える男だと、妙な自信があった。
 でも違った。
 裸の月島を目の前にしたら、理性というものが分からなくなってしまった。心と体の傷を労わって、大切に慈しみたいと確かに考えていたはずなのに、そんなのはすべて消え去った。とにかく早く体をつなげたい。今はそれしか考えられない。どくどくと心臓がやかましく動いて、全身に血を巡らせる。じきに下半身には血が集まり芯を持ち、陰茎が大きくなり脈を打つ。先からぷくりと先走りが出てきて、お互いの腹を濡らしていく。そしてそれは鯉登にだけ起こっているのではなく、月島もまた鯉登の腹に擦られて勃起していた。時おり感じ入った声がもれ、そのか細さに胸を鷲掴みにされた。
 だからもう大丈夫だと思ってしまった。
 つかの間脱力していた月島は、再び足を抱えられて、瞬時に体を強張らせた。
「あ!」
月島は息を詰めて体を固くする。力が入ると余計に痛くなるから、体の向きを変えようと思った。きっと月島からは見えない方がいい。鯉登は月島の体をひっくり返す。うつ伏せにして腰を高く持ち上げ、穴に油分を足した。指を深くまで二本差し入れると月島は「うう」と喉の奥でつぶしたような声をあげた。枕にしがみついている。指と指にすき間を作り、そこにもう一本を差し入れる。指の腹で微かに感じる膨らみを、押しつぶすように繰り返しなぞる。
「あっ、ああ……、鯉登さん」
 今にも泣き出しそうな声で月島が名前を呼ぶから、よけいに気持ちが高ぶった。衝動を抑えようと唇を噛む。でも時間稼ぎにもならなかった。発作的に後ろから貫いた。
「うう……、あああっ、……」
 月島は枕に顔を押し付け、こらえきれない声を染み込ませている。痛いのか苦しいのか、それとも気持ちがいいのか確かめられないでいた。強引なセックスをしていると、頭の片隅では分かっている。でも止められなかった。
 ゆっくり腰を引くと、月島の内壁がカリ首に引っかかり、腰から背中に電流のように痺れさせた。引いた腰を再び奥までぐっと突き入れたら、ねっとりと根元まで絡みつく。こんなのは初めてだった。亀頭や裏筋の感じるところすべてにみっしりと吸い付いて、ざらざらと擦られて、そしてぎゅっと締め付けられた。腰がまるで言うことを聞かない。これは何だ。セックスとはこういうものだったのか? 初めて経験する生の快楽に、膝立ちの下半身から力が抜けそうになる。
「は、…あ、ああ、……ん、ああっ!」
「つ、つきしま……、ふ、あっ、……月島」
 自分の体液と混じり合い、中から聞こえるぐちゅぐちゅという水音が、次第に大きくなっていく。月島も気持ちがいいのだろうか。気になって前に手を伸ばして陰茎を触ってみる。柔らかくはない。が、固くもない。それでも先はぬるぬるとしていて、先走りで濡れていた。感じてくれているのか、そうじゃないのかが分からない。
 それなのに鯉登は、エアコンを付けているのにまるで涼しくなくて、頭から汗が幾筋も流れて頬を伝い、顎の先からぽたりと月島の腰に落ちていくのを見た。一滴、二滴、三滴──腰の揺れに合わせて落ちる汗と、規則正しく体に刻みつける刺激が、月島も酔わせるのだと思いたかった。そうしてふたりで快楽を分け合った後に抱き締めたら、それに応えて背中に腕を回してくれるだけでも良かった。
「……う、くっ」
鯉登は絶頂が近づき堪えきれない声がもれる。月島が「な、中には出さないでください!」と懇願した。が、わずかに耐えきれずに抜く途中で出してしまった。
「あっ、……月島、すまない」
はあはあと荒い呼吸の合間に言葉を絞り出した。それから、まだ達していない月島の陰茎に手を伸ばした。でも「私は結構ですから」とすぐに拒否された。さっと起き上がり、浴室へ入って行った。青ざめているように見えた。鯉登は呆然と見送ることしかできなかった。ほんとうは、達してぐったりとしている月島を抱き締めてキスをしたかったのに。



 浴室から出てきた月島に、鯉登は覚悟を決めて想いを伝えた。
「月島、私と付き合ってほしい」
「……今日会ったばかりですよ。あなた、私のことなんてほとんど知らないでしょう」
 水を飲み、帰り支度を始めた月島がぶっきら棒に答える。
「今日いろいろと教えてくれたじゃないか」
「それとも、昔の写真を見ましたか」
「……」
「ひょっとして、あなたも暴力が趣味ですか」
月島の視線の色が、呆れから蔑みに変わる。
「ち、違う」
半ば強引に抱いておきながら、否定するのは自分でも滑稽だと思った。しかし月島を傷つけたい意図はなかった。
「じゃあ同情ですか、哀れみですか。それとも正義の味方ごっこですか」
「違う!」
「……恋人にはなれません」
「じゃあ、なんで抱かれたんだ」
「私は……、そういう人間なんですよ」
 取るに足らない、価値のない人間だと言う。鯉登が抱きたいと言ったから、体を差し出したのだと居直る。そうして「望まれれば何でもしますよ」と、うそぶく。殴られ屋だろうが、公開オナニーだろうが、失神ゲームだろうが法律の範囲内ならば、と付け加える。
「嘘だ」
「本当です」
「また会いたい」
 月島は鯉登には目もくれず、リュックサックを背負う。
「私に深く関わると、ろくなことがないですよ」
「そんなふうに自分を決めつけるな!」
 横顔の瞳が揺らいだように見えた。だから再び気持ちを込めて名前を呼んだ。「月島」彼はちらりと時計を見る。午後五時。「明日は仕事なので、もう帰ります」
「送っていくから、ちょっと待て!」
 聞こえなかったかのように月島が玄関に向かうから、鯉登は慌てて服を着て後を追った。

三、八月二十二日の警察庁、十三年前の新潟

 盆明け、K大学剣道部の稽古が再開された。十月に開催される全日本大会まで、時間の猶予はあまりない。午前九時に鯉登はキャンパス内の柔剣道場に集合した。室内で体幹や足捌きの強化から始まった。それから面打ちや小手うち、互角稽古などに取り組んでいると、途中からひとり社会人が稽古に飛び入り参加した。警察官の前山だ。彼は鯉登の実家近くにある警察署の巡査長だ。本来なら現役の警察官が大学の剣道部の練習に加わることはないのだが、彼は昨年、臨時コーチを一ヶ月間ボランティアとして務めたのである。
というのも、三名のコーチのうちのひとりが交通事故に遭遇。入院が必要になり、退院までの穴埋めを前山が引き受けたのだった。前山は入院したコーチの大学の先輩だった。それが縁で、今でもたまに練習をのぞきに来ていた。



練習開始から約二時間、突き技の稽古が開始された。道場内に各々の掛け声と竹刀の当たる音が鳴り渡る。鯉登は前山と組んだ。始めて数分後、鯉登の剣先が前山の喉に強く当たった。
「う、ぐっ……、ゲホッ!」
 前山がむせる。両人とも足が止まる。
「すみません! 前山さん、大丈夫ですか」
「あー、気にしないで」と前山は見た目通りの柔らかい声で鯉登を気遣う。
「力加減を間違ってしまいました」と鯉登は重ねて謝罪した。前山は喉元を押さえながら道場の隅に移動する。心配した鯉登も稽古を中断して前山に続いた。汗を拭ってしばらくすると、喉の調子も元に戻ったようだった。前山と鯉登は雑談を始める。
「それはそうと鯉登くん、先月の選手権は二位だったね。動画がアップされていたから試合見たよ。おめでとう」
 すると鯉登は複雑な表情をした。
「ありがとうございます。私としては満足のいく試合運びじゃなかったので、手放しでは喜べません。突きの軌道で面を打つなと監督にも指摘されました。さっきも少しぼんやりして、混乱してしまって」
「そうだったの。色々と心配事があるだろうけど、稽古の最中は、ひとまず脇に置いといて。君が怪我をしたら僕も心配だよ」
「……そうですね」
 鯉登は神妙な表情でうつむく。
「ところでさ、稽古終わったらちょっと付き合ってもらえるかな? 今日、時間ある?」
「ええ、大丈夫です。何か……」
「見てもらいたいものがあるんだ」
 前山は軽い口調であっても、有無を言わさない意思の強さがあった。なので詳細を聞かずとも、鯉登は思い当たった。実は前山は、平之丞の捜査における所轄の担当者でもあった。それは約一年前、兄からの連絡が途絶えてしまい、父が警察署に相談した日のことだった。最初に親身に話を聞いてくれたのが前山だった。それから捜査が進展し、平之丞が事件に巻き込まれた可能性が高いと伝えてくれた。今は在エストニア日本国大使館を通じて、地元警察と協力して捜査を続けてくれている。
 午後一時に稽古が終了した。前山は大学まで車で来ていたので、同乗してファミレスへ行くことになった。あまりに大学に近い店だと鯉登の同級生に話を聞かれたらまずいので、少し遠くの店を目指した。
「君の家の途中の店に寄るよ」と前山が運転席から声をかける。
「あ、それなんですが、私は先月からひとり暮らしを始めたんです」
「そうだったの?」と前山はひどく驚いた声になる。首都高に乗る直前だった。料金所を通過した後に前山は質問した。「新居はどの辺なんだい?」
「大学の近くです」
「そしたらここから移動したら家から遠くなるな。ごめんね」
「いえ、先にお伝えしなかったのは私の方です」
「後で新しい住所を教えてね」
 車中、剣道や大学生活の話をして、やがて首都高を降りる。そして日比谷公園近くの建物の門をくぐる。ここは警察庁が入る合同庁舎だ。地下の駐車場へ車は向かう。
「あの、前山さん。どうしてここへ?」
「見てほしいものがあって。でも先に腹ごしらえしよう」
 にこにこと柔和な笑みを浮かべる。やはり前山は警察官らしくないな、と鯉登は思った。駐車場から地下一階に向かうと、職員食堂があった。ずいぶん広くて鯉登が驚く。食事をしている人がかなり多い。しかも彼らはみな警察官なのだ。けっこう壮観だな、と思った。「おごるよ」と前山が言い、食券機の前で何が食べたいか聞かれる。
「そうですね……、何が評判ですか?」
「じゃあ僕のおすすめにするね」
 そうしてふたりして大盛りの海鮮丼を食べた。それからエレベーターに乗り五階を目指す。通された一室は資料室のようだった。スチール棚や会議テーブルもたくさんある。前山がノートパソコンを間仕切りの向こうから持ってくる。
「昨日あちらの大使館から届いたばかりの画像なんだ」
 開かれた写真は遠景だが、三人の男が写っているのが分かる。おそらくひとりは白人で、ふたりは東洋人だ。
「で、拡大したのがこれ」
「あ、兄さぁ……!」
「やはり平之丞くんだよね」と前山が力強く念を押す。
 鯉登がこぼれんばかりに目を見開き、食い入るように見つめる。前山が詳細を付け加えた。「これは地元警察に協力してくれている、日系のガンソクさんて方が撮影した写真なんだ。個人ツアーガイドや日本からのメディアのコーディネーターやってるらしい、けど」
「けど、なんですか?」
 前山が不自然に言葉を切る。鯉登が不安になり催促する。
「場所が、ロシアなんだ」
「ロシア?」
「ああ、サンクトペテルブルクで撮影されたものだと、大使館の職員に説明があったらしい。平之丞くんともうひとりの東アジア系男性は、エストニアから連れ去られた可能性が高いと見られている」
「ロシアに……」
 鯉登はそう言ったきり押し黙る。前山は感情を抑えた声で、捜査の進展状況を話した。
「犯人らしきグループを刺激しないように、注意深く捜査が続けられているよ」
鯉登は思う。慎重に捜査を続けてもらっていることには感謝する。しかし現地警察がどれくらい頼りになるのか分からないし、第一あのロシアである。制度上は民主主義国家の体をなしながら、本質は社会主義を手放す気がないと思われる国。『礼儀正しい人々』によってクリミア半島をわずか一ヶ月程で侵攻するような、西側諸国の法治が通用しないと言わざるを得ない国である。
 鯉登はぎりっと奥歯を噛む。半年前にも日本の携帯電話会社の社員が、ロシア通商代表部の職員に情報提供していたとして、出頭を求められる事件があったばかりだ。要するにロシアのスパイに仕立てられたのだ。その情報が軍事転用される技術だったならば、一民間企業の落ち度だけでは済まされない。
 鯉登の父・平二は防衛装備品を手掛ける企業の役員であった。だから、父はかねがね他人から贈られる金品や身元の不確かな女性には異様なほど注意を払っていたし、平之丞と音之進にも言い聞かせていた。
「日本にはスパイ防止法がなかで、奴らはやろごたっ放題なんじゃ」



 午後六時、月島は学園での雑務を終えて帰宅する途中のことだった。ピリリリリ、と携帯電話が鳴る。月島は画面に表示された名前を確認する。前山からだった。
「はい」
「月島くん、突然ごめんね。今日これから話す時間あるかな?」
「直接がいいよな」
「うん、電話じゃちょっと」
「大丈夫だ。今から帰るところだから、家に来るか?」
「あー、そうだね。自宅が一番安全だね。じゃあ午後七時くらいになるけどお伺いします」
「了解。気をつけて来るんだぞ」
 通話から一時間後、午後七時過ぎに前山は月島の暮らす小平市内のアパートを訪ねてきた。月島の部屋に上がると挨拶もそこそこに、前山は知り得た画像の件を月島にも話す。
「エストニアの大使館から外務省に連絡があったんだ。それで外務省から本庁に、平之丞くんの」
「ちょっと待て、その話はそこまでで結構だ」
月島は手のひらを前山へかざして制止する。
「そう? さすがにデータの持ち出しはしてないよ」
「そんなぎりぎりの綱渡りをするんじゃない!」
「えー、僕だってそこまで間抜けじゃないよ」
 そう言って前山が笑うから、月島もつられた。喉が渇いているのに気づき、冷蔵庫の麦茶を二人分用意する。
 前山は月島の幼馴染だ。月島はもともと母と東京で暮らしていた。小学二年生の時に五年生だった前山が、学校生活における月島のお世話係だった。そうして一年後に係は終了したが、気が合うから進級後もよく遊んでいた。小学四年生の時に月島の母が亡くなり、新潟に引っ越すまでは。
「それはそうと、月島くん大学はどうなった? いつから通うんだっけ?」
「本科学生じゃなくて聴講生だがな。でも、それは必要なくなったんだ」
「え、そうなの?」
「ああ、彼とは友達になったから、わざわざ通学する必要がなくなった」
「へえ、友達になったんだ! どうやって?」
「どうって……」
 月島は口ごもる。落とした携帯電話を返してもらった日にセックスした、などと言える訳ないではないか。前山は柔和な顔をして月島の答えを待っている。しかし月島に教える気配がないと察したのか、前山が知りたかった理由を説明した。
「月島くんと鯉登くんとは、なにもかも違う気がしてさ、ほら、単純にジェネレーションギャップあるでしょ。年が結構違うから、話が合うのかなって」
「うん、まあ、食べ物の話とか」と、月島がお茶を濁す。
「食べ物? 彼、カップ麺とか食べたことなさそうに見えるけど」
 この部屋にあるカップ麺に目をやり、前山が笑う。月島はいつも適当な食事をしているから、買い置きのそれらが常に数個あった。そうして前山はひとしきり笑った後に、目尻の涙を指で拭ってこう結んだ。
「何にせよ、月島くんが楽しそうならいいや」
「え? たの……?」
「うん、子供の頃にだって、君がそんな生き生きとしているの見たことないよ」
 そう言われて月島は愕然とした。ひょっとして鯉登にも同じ表情で接していたのではないか? つけ入る隙を与えてどうするんだ。月島は胸の内で自分自身に喝を入れる。それから両の頬をぺちぺちと勢いよく叩く。真顔に、無表情に徹しなければ。
唐突な月島の行動に、前山はおろおろとする。
「ど、どうしたの月島くん……、自傷は止めなよ」
「心配するな、気合いを入れているだけだ」
「そう? それならいいけど。それはそうと、実は今日、K大学の剣道部の稽古に参加したんだ。それで鯉登くんに会ったんだけど、彼、背筋がすっと伸びてまるで一本の刀みたいでさ、男から見てもホント格好いいよねー」
 それを聞いて月島は思わず麦茶を吹き出してしまった。前山にかかってしまう。
「月島くん……、きたない」
「すまん、タオルを持ってくる」
 動揺してしまった。前山が鯉登の容姿について、関心があるとは思ってなかったからだ。月島はタオルを手渡す。前山が顔を拭きながら続ける。
「僕もあんな風に生まれたかったな、と思ったよ」
「前山はそのままが一番だぞ! お願いだから今のままでいてくれ!」
 月島は前山の肩を掴んでがくがくと揺さぶった。前山はその迫力に目を丸くしたが、何か閃いたのか、一転してにやりと笑う。
「一緒にいる友達がイケメンだと、自分が引き立て役になっちゃうもんねー」
「そ、そうなんだよ! お前が格好よくなるとオレが困るだろ!」
 月島は前山に合わせて真剣にまくし立てた。そしてふたりして馬鹿笑いした。
「まあでも、彼はイケメンでも近寄りがたい雰囲気はあるよね。それも自分から周囲の人を避けている傾向があるのが気になるよ。協調性がないわけじゃないだろうに……。お兄さんの件が影を落としているんだとすると、僕はやり切れないな」
「……ああ」
「だから彼、ご両親とあまりうまくいかなくて、ひとり暮らししているそうだよ」
「ああ」
「知ってた?」
「まあな」
「そっか。友達だから、そういう話もするよね。でもさ、あまり深入りはしない方が……」
「わかってる」
「ごめん。お節介だったね」
 前山が心配そうな顔をする。あまり気遣ってほしくなくて、月島は話題を変える。
「ちょっと前山に聞きたいことがあるんだ」
「何かな?」と前山が珍しく前のめりで聞いてくる。
「あのさ、秘密の話はどこでしたらいいんだろうな?」
 月島はずっと考えていた。あの日、公園でもなく彼の家でもなく、本当はどこへ行くのが正解だったんだろうか、と。
「今みたいな話を、自宅以外でってこと?」
「そうだ」
「うーん、僕は職場以外で他人に聞かれたらまずい話はしないからなァ……」
「そうか……」
 月島が腕を組み、浮かない表情をする。だから前山はさらに考えを巡らせる。
「職場以外だとどこになるんだろう……、料亭?」
「やはり個室のある店か」
「それか車の中かな。……あ、そういえば取り調べで感じたことなんだけど、寝室で内緒の話をしているケースが多いんだよ」
 月島はそれを聞いて呆然とした。「し、寝室か……」
「うん、親せきや職場の人、ご近所さんの悪口。あと仕事の機密。で、そこから何らかのトラブルに発展する」
「相手がかなり限られるな」
「そりゃあね、寝室が一緒ってことは信頼してるってことだから」
「……」
 鯉登の部屋で過ごした午後を思い出す。彼はおそらく自分に信頼を寄せている。正確には、信頼というより庇護なのかも知れなかった。携帯電話に入っていた昔の虐待写真を見た影響だろう。「正義の味方ごっこ」と揶揄したことは、実は本心では無かった。人の痛みに心を寄せて支えようとする真っ当な精神を、斜に構えて揶揄するような大人であってはならない。
 それでもなお、鯉登の中で育まれた道徳観や責任感は、月島には眩しくて目を背けたくなるものだった。きっと自分が罪人だからだろう。まるで、真夏の太陽に焦がされたアスファルトの上でのたうち回るミミズにでもなったような気分になる。
 相応しくないのだ。あの人を前にすると身の置き場がない。
 不意に携帯電話が鳴った。月島のものだった。画面を見ると、鯉登の名前があった。
「電話に出なよ。僕、もう帰るね」
 前山が立ち上がる。月島は軽く手を挙げて、感謝の意を伝えた。通話ボタンを押す。
「月島、話したいことがあるんだ」
 思い詰めた鯉登の声が聞こえた。兄の件かもしれないと思った。でもそれ以外の理由でも、鯉登が呼ぶなら会いに行くのが今の月島の道理だ。そして彼の声を聞いた瞬間、わずかに心が揺れる自分を見つけた。けれど、それはすぐに忘れることにした。



 午後九時、月島が鯉登の家の最寄駅の改札口を通過すると、券売機の横で待つ姿を発見した。
「鯉登さん」
「月島ぁ!」
 花が咲くような笑顔を向けるから、月島はどぎまぎしてしまった。自分がとても単純な生き物に思える。それより鯉登も電話では暗い調子だったのに、今の表情は明るい。深刻な話があったんじゃないのか、と月島は首をかしげる。おちあって駅から三分ほど歩くと、鯉登が前回と違う道へ曲がった。
「あれ、家はこっちじゃないんですか?」と月島は分かれている道を指さす。
「月島は一度通った道をよく覚えているな。確かに私の家は向こうだ。今日はちょっと寄り道したいんだ」
 月島は大人しくついて行く。三分ほど歩くと、前方の視界が開けて緑が増えてきた。
「あの公園の中を通って行こう」と鯉登が指をさした。
「何かあるんですか?」
「着いたら分かる」
 かなり広い公園だった。低い石段を登って木々の間の道を進むと、だだっ広い空間に行き当たった。野球場とテニスコートがあった。そこでは社会人チームらしき人たちが、練習をしていた。周辺はライトでかなり明るいせいか、夜なのにセミが鳴いている。それらを横目にグラウンド脇を通り過ぎると、公園の奥にはベンチのある広場と児童公園があった。そこでは親子連れが二組と、高校生らしきグループが花火をしていた。
「この広場では手持ち花火をしていいんだ」
 鯉登の説明に相槌もせず、月島はつい花火に見入ってしまった。
「月島?」と鯉登が怪訝な表情で顔をのぞき込む。月島は我に返る。そして感じたことを口にした。「小さな花火なのに、ずいぶん眩しいんですね」
「……そうだな」
 鯉登は静かに同意した。広場の奥にはベンチが並んでいたので、鯉登がそこに腰かける。ひとりだけ立っているのも変だと思い、月島も隣に座った。鯉登は何も言わずに彼らの花火を見ている。だから月島も黙ってそれを眺めた。
 月島は自分の過去に蓋をして生きている。思い出したくない経験ばかりだったけれど、家が破綻した原因は自分にもあるから、これは罰なんだと甘んじていた。だから今、目の前に広がる光景──親子で花火を楽しむような、こんな現実もあったのかと、まるで新大陸を発見したような気分になっていた。自分の住んでいた世界とはあまりにも違っていて、眩しくて。
「今度ここで花火をしよう」
 鯉登の小さな声が耳に届く。月島は聞き返す。「……は?」
「花火だ」
「はあ、……どうして?」
「どうしてって……、きれいだろう?」
「そうなのですが……」と月島が渋ると、鯉登は声に少し苛立ちを含ませた。
「月島はいちいちもっともらしい理由がないと、楽しむこともできないのか?」
「でも唐突ですよ」
「でもだってどうせ、なんて断る理由ばかり探すんじゃない」
「私なんかより、大学の友達と楽しんでください」
「月島も友達じゃないか。それで十分だろう?」と鯉登は月島の顔をのぞき込む。
こうして電話で呼ばれて駆けつけて同じ時を過ごしているなら、それは友達と呼ぶには十分なんだろう。しかしこんな屈託のない娯楽を提案されて「いいですよ」と即答できるような明朗さは月島にはない。
 そもそも、不純な動機があって近づいて不純な行為をしてしまい、結果混沌とした気持ちを勝手に抱えているのだ。自分で自分の感情すらあしらえないで、何が大人なんだろう。
 月島は言葉が続かずうつむいてしまった。鯉登はすっかり気持ちを切り替えて、仕切り直しをしようとしている。なのに、これでは前回の悶着を月島自身が蒸し返してしまう。気ばかり焦るが答えが出なかった。
 ふたりとも何も言わないまま、花火をしている人達を見守った。風向きが変わり花火の煙がこちらに流れてきた。意外と目に染みて、火薬のにおいも強くて咽そうになる。月島は手を顔にかざして煙を避けようとする。目を瞬かせると目尻に涙がたまった。
 すっと鯉登が立ち上がる。「……月島、帰ろう」
 そして手を差し向けるので、月島はその手を取って腰を上げた。
 オレなんかに気を遣わず、年相応にもっと伸び伸びと振る舞えばいいのに。その方がこっちも割り切れる。月島は頭の中で、来るべき日に対する備えを常にしていた。



 鯉登の部屋の玄関ドアを開けると、カレーのにおいがした。そして靴を脱ぐや否や「晩飯は食べたのか?」と鯉登が聞いてくる。
「いえ、食べ損ねてしまって、まだなんです」
「そうか! 実はカレーを作ったんだ。一緒に食べよう」
 鍋の温め直しをしている間に、生野菜を盛り付ける。月島も何か手伝おうとキッチンをうろうろするが、勝手が分からずテーブルを拭くことしかできなかった。カレーとサラダとコンソメスープが並ぶ。が、そこで異変に気付いた。卓上に並べられた食事は三人分ある。なぜだ。月島は理由を聞いていいのかどうか迷った。もしかして、オレに見えていないもうひとりがこの部屋にいるのか。そこまで考えて、にわかに青ざめる。すると配膳を終えた鯉登が席について「月島の考えていることを当ててやろう」と軽くにらむ。
「オレに見えない誰かがいるのか? と戦々恐々としているんじゃないか?」
「……その通りです、よくお分かりで。あの、なぜ三人前なのですか?」
 月島は白旗を上げて、素直に尋ねた。
「陰膳だ。兄さ……兄の分だ」
 鯉登は食事の合間に、兄の話を月島に聞かせた。留学先のエストニアで足取りが途絶えた兄が、つい先日ロシアのサンクトペテルブルクで生存が確認されたこと。実家でもずっと陰膳をしていたこと。兄がいなくなって以降、両親との折り合いが悪くなり、一ヶ月前からひとり暮らしを始めたこと。
 何と声をかけるべきか。鯉登より年嵩なのに、こう言う場面で同情や哀れみではない言葉が出ない。自分の裸の気持ちを、そのまま鯉登に伝える方法があればいいのに。
「月島、カレーはどうだ。口に合うか?」
 鯉登から話題を変えてきた。気を回したのだと思った。
「とてもおいしいです。鯉登さん、料理も得意なんですね」と月島が嘆息すると、鯉登は「月島、カレーはまずく作る方が難しいと思うぞ」と神妙な顔をした。「レタスはちぎっただけ、トマトときゅうりは切っただけ、卵は茹でただけ。スープは固形コンソメをお湯に溶かしただけだ。ただ、じゃがいもは普通に煮込んでしまった。手抜きだ」
 七日に待ち合わせした喫茶店のカレーを、本当は真似したかったのだと言った。料理そのものは、兄のことを思えば手間には感じないのだろう。家族に対する愛情を分けてもらったようで、月島は申し訳なく思った。ほとんど他人のオレには場違いじゃないのか。そう言う遠慮がありながらも、心地よくて自分からはこの場を離れがたい気持ちもある。
 月島は十四〜十五歳の約二年間を児童自立支援施設で過ごした。寮での集団生活だったが、意外と馴染みのある毎日だった。その時の食卓をふと思い出した。
「花火の件、考えておいてくれ。夏が終わる前に」
 鯉登の気持ちは変わらないようだった。
「分かりました」
「ああ、それと夏といえば肝試しだな」
 鯉登は子供が悪だくみをする時のような顔で笑いかける。
「きも……? え? 夜中に廃墟に行くんですか?」
 月島が困惑すると、鯉登はたいそう愉快そうに笑った。あまりにおかしそうに笑うから、自分の顔が面白かったのかと思ってしまった。それでも、笑顔が似合う男だから、いつも笑っていてほしいと思った。誰にも知られないように、心の中でひっそりと。
 終電に間に合うから帰ると言う月島を引き止めるから、そういうことなんだろうと覚悟していた。白状すると怖かった。でも鯉登の強引さが怖かった訳ではない。いざとなれば反撃できるくらいの、体技の心得はある。
 月島が怖かったのは、自分の心の弱さだ。
 求められたら上手にいなすことなんてできない。それは自分の役目じゃないのに。
 でも風呂に入る時にも着替えと新しい歯ブラシを用意してくれるから、前回と様子が違うと感じた。考えてみれば、この部屋に来てから指一本ふれていない。
 風呂からあがった鯉登が「月島はこっちで寝るんだ」と、自分のベッドを指差す。
「え、鯉登さんはどこで寝るんですか?」
「おいはここだ」
 床で寝ようとするから「ベッドで寝てください!」と大声でやめさせた。
「何で部屋の主が床で寝るんですか」
「呼んだ客を床で寝かせるような奴にさせんでくれ」と鯉登が心底困った表情をするので、月島は「じゃあ一緒にここで寝ましょう」と床に横たわった。鯉登は一瞬だけ呆気に取られて、それから晴れやかな顔をした。
「ふふ、キャンプみたいだな。シュラフを買っておこうか」
「もうしばらくはラグの上に寝転んでも、タオルケットで十分ですよ」
「また泊まりに来てくれるのか?」と鯉登は月島に笑いかけた。
 鯉登の兄がボーイスカウトに入っていたから、自分も憧れて幼稚園の頃から活動をしていたのだと言う。正式には幼年部隊はビーバースカウト、小学校中学年がカブスカウトという呼び名らしい。
「どんなことをしているか、月島は知っているか?」
「キャンプや街頭募金をしている印象があります」
「その通りだ」と鯉登の声は弾む。
 彼の所属していた隊はとにかくキャンプが多く、様々な場所での過酷なキャンプを経験したと語った。春や秋には山の夜はまだまだ寒く、夏でも大雨になったなら、テントごと流されそうな身の危険を感じながら眠った、と思い出話をした。その頃にカレーを散々作ったから、実は一番得意だと打ち明けた。鯉登の語る声は月島の耳によく馴染んだ。寝物語にしては健全で、ずいぶん優しかった。いつまでも聴いていたいと思った。大人になってから結ぶ友人関係も、これなら続けられるのではないかと、この時はそう思いながら眠りについた。

「夢日記はつけない方がいいよ」
 口と顎に豊かな髭をたくわえたうつくしい男は、会うなり月島にそう忠告した。最初に鶴見篤四郎に会ったのは、今から約十三年前、新潟県内の施設だった。彼は月島にとっての二人目の保護司だった。
「あれを続けると夢と現実の区別がつかなくなる」
「……そんなことはしていません」と月島は反論した。
 普段の日記を書くことは、寮夫母からむしろ勧められていた。それで彼ら職員と交換日記をして信頼を重ねていくのだ。なので当時は月島も申し訳程度に日記をつけていた。
 あの短い文章が夢の内容だと感じたのだろうか。ずいぶんおかしなことを言う人だと思った。それに保護司という仕事は皆ボランティアだと聞くから、定年退職後になる人が多い。だから月島の最初の保護司も六十代の穏やかな男性だった。
 その基準からみても、四十前の鶴見は異例だった。



『午後四時三十分頃、被告人は中学校から帰宅。すると自宅で飲酒をしていた被害者から、通学したことを咎められて口論となった。激昂した被害者は、被告人の襟首をつかんで引きずり回し、足蹴りするなどした。そして被害者はカッターナイフを持ち出し、被告人の下腹部等を切りつけるなど、さらなる加害に及んだ。怪我を負いながらも被告人は被害者の顔面を殴打。しかるにこの反撃は、自分の生命身体を防衛するためのものであり、積極的加害意思はなかった。従って本事案は正当防衛の成立に該当すると主張します』
 月島の付添人である弁護士の主張に、審判廷の裁判官や家裁調査官の異論は無かったようだった。
 十四年前、十四歳の月島基が自宅で父親の顔面を殴打し死に至らしめた事案で、家庭裁判所は『月島基を児童自立支援施設へ送致する』と決定した。家裁調査官の調べでも、父親と同居を始めた十歳から暴力を振るわれていたこと、事件当日は月島自身も腹部に重傷を負ったこと、十四歳だったので更生が期待できると鑑みられ、検察官への逆送は相当ではないと判断が下された。施設で共同生活を送りながら敷地内の中学校へ通い、矯正教育を受けながら社会復帰することとなった。
 一年を過ぎ退所後の身の振り方について、施設長と面談を重ねていった。そこで月島には身元を引き受ける保護者がいないことを指摘された。退所しても帰る家がない。高校受験や就職をするにも、ひとりで生きていくのは困難だと思われた。だから保護司から民間の更生保護施設を紹介され、そこで世話になりながら仕事を探そうと決心した後のことだった。月島の保護司に健康診断で病巣が見つかり、当分のあいだ療養することとなった。なので別の保護司を紹介された。そうして会ったのが鶴見だった。



 鶴見は夢日記が見当違いだと分かり、月島に謝る。
「君は幼少期から『昔の話』をすると書いてあった。私はそこに大変興味を惹かれてね。──ああ、すまん。君はこれで大変な苦労をしてきたのに、興味本位だなんて他人事みたいに言われたら腹が立つな」
 そう言って申し訳なさそうに目を伏せて首を振る。
「いいえ、頭がおかしいのは自分が一番よく分かっております」
「何もおかしくはないさ。しかも生まれてから一度も行ったことのない北海道の話が一番多かったそうだな。都内で母と二人暮らしだった幼児期なら、子供にありがちな空想だと微笑ましい話で済んだ。だが事情が変わった」
 鶴見はそこで一息入れる。紅茶を口に運ぶ。
「母親が病死して新潟県佐渡市に住む父親に引き取られて以降、さらに悪化してしまった、か……」
 小学校はまだ通うことができた。だから父親からの暴力の痕跡を発見した担任教師から、児童相談所へ通告され保護された日もあった。中学生になると学校へ行かなくなり、虐待の発覚が遅れた。その矢先に事件は起きた。
「北海道へ行ってみたいと思うか?」
「……いいえ」
「しかし不思議だなァ。いくら精神科のカウンセリングを受けたからと言って、たった一年間でPTSDをほぼ克服できるものだろうか? 君を見ていると、最初からどこもおかしくはなかったんじゃないかと感じるよ」
 鶴見は机に両手のひらをつき前傾姿勢になると、月島の顔を顎下からぎらぎらと光る目で見上げた。その仕草に月島は度肝を抜かれて、イスごと後ろに倒れそうになった。言動がおよそ保護司らしくない。でも、これまで会ったことがないタイプの大人だった。少なからず興味を惹かれた。
 鶴見は会うたびに月島の興味のない話をした。甘味処、鶴見の嗜む武道、クラシック音楽、カメラ、そして海外の文化。月島は淡々と相槌を打って過ごした。やがてその相槌が月島からの質問に変わっていくと、鶴見は大そう嬉しそうに丁寧に答えてくれた。やがて、これは自分の教育を兼ねているのだと気がついた。
「月島くん、その通りだ。これらは教育というより教養と呼ばれる類のものだが、学校では教わらないことも多い。君ならば私の話を分かってくれると思っていたよ。やはり君は賢い子だ」
「鶴見さん、それは買いかぶりすぎです」
「なあに、謙遜することはない。ちゃんと学校へ行ってないからと言って、自分を低く見積もるのは君の悪い癖だ。学校が全てではないよ」
 鶴見から褒められるのは悪い気はしなかった。いや、むしろ嬉しかった。誇らしいという気持ちが、自分の中に初めて芽生えた。自分を認めてくれる人がいる。自信というものが、月島にはようやく理解できた気がした。
 施設での面談を重ねて、鶴見の自宅へも伺うようになった。鶴見には妻と小学一年生の女児がいた。でも三人からあたたかく出迎えられることに対して、恐縮した後に恐怖を感じるようになってしまった。こんな厚遇は殺人犯の自分には相応しくないのだ。また何らかのきっかけで我を忘れて、鶴見一家に牙をむくかもしれない。その前に親交を深めるのは止めにしないと。
 その一方で、鶴見は月島の心の変遷が手に取るように分かっている様子だった。その正体不明の恐怖は、父から与えられたものだと鶴見は説明した。
「それはほんらいの君ではない。反省と自虐は別物だ」
 月島のいびつな鎧には次第にヒビが入っていき、時間をかけてぼろぼろと壊されていった。さなぎから羽化するのはこういう感覚なのだと、月島は冷静に自分自身を見つめられるようになった。その頃から鶴見は養子縁組の話をするようになった。が、月島はすぐに断った。これは恐怖や自虐ではなかった。
「お話は大変ありがたいです。しかし中学校を卒業してから仕事を見つけるまでに、オレみたいな境遇の者を住まわせてくれる施設があると聞きます。だから、そちらにしばらく世話になろうと思います。就職したら貯金して引っ越して、鶴見さんにもまた会いに来たいです」
 うん、うん、とひとつひとつ頷きながら、鶴見は月島の話を真剣に聞いた。
「その就職なんだがな、ひとつ懸念がある。これを見たまえ」
 鶴見はそばに置いてあったノートパソコンを開いて見せた。画面に表示されたのは、インターネットの巨大掲示板の過去ログだった。月島は書き込み内容に目を通す。
『七月に佐渡島で起きた事故死、実は息子に頃されたって知ってる?』
『月島基 地元じゃ有名なDQN一家 みんな知ってる』
『DQNていうよりメンヘラじゃね? 海に飛び込んで漁師に助けられたの見たことあるわ 運ばれた病院で、医者や警察とかにもうするなって説教されてたって聞いた』
『溺れて死ななかったのはすげえ!』
『病気だなそりゃ』
『どうせ精神鑑定してすぐ出てくる』
『その前に少年法(定期)』
 その書き込みの下には小学校の卒業アルバムの写真が貼ってあったと鶴見が言う。過去ログでは画像は削除されたようだった。少年犯罪だから月島の名前は実名報道されなかったが、狭い島内での事件だから、島民にとっては周知の事実だった。
 インターネットというもうひとつのこの世の実相を目の当たりにして、月島は何も言えなくなってしまった。父が致命傷を負うまで殴ってしまった自分が一番悪い。罪を償い心を入れ替えてやり直すつもりでいても、周囲がそれを受け入れられないのも現実だと、月島は思った。
「そこでだ。名前を変えてみないか」
 鶴見は身を乗り出して提案した。家庭裁判所で改名が認められたら下の名前の変更を、そして保護司が自分の養子に迎えて名字を変えることも可能なのだと言う。
「こういうのはデジタルタトゥーと言ってな、一度ネット上に晒された情報を完全に削除するのは不可能なんだ。だから前向きに検討してくれないかね」
 素直に好意はありがたいと思った。しかし鶴見の家族に迷惑をかけやしないか。その迷いも鶴見は想定済みで、養子縁組後の相続に関しての懸念も打ち消してくれた。
「あらかじめ公証役場で遺言状の作成は済ませている。君の意思に関わらず、養子になれば法定相続人だ。そうなれば尚更、君はこの話から辞退するだろうからな」
 私が死んでも君には何も残してやれないが、と鶴見は肩をすくめた。その力の抜けた姿が、月島の気持ちを軽くした。
「養子になったからといって、一緒に住もうと言ってる訳ではないよ。自活してくれて構わん。ときどき私に会いに来てくれたら、それでいい」
 そう言って笑いじわを作った。鶴見の説得を聞くうち、養子になるのが道理であると思うようになっていった。中学校卒業まで残り二ヶ月となっていた。その矢先、鶴見に転勤の打診があったので、春までに決めてほしいと言われた。
「小学校へ上がったから、妻と娘は当分引っ越しはしたくないらしい。勉強のスピードが違うし、転校を機にいじめが始まる場合もある。子供の育成環境というものは、繊細なものだからな。だから転勤が決まれば、私は春から単身赴任になる。君が良ければ、家族となって東京でふたりで生活するのはどうかね? 今年は間に合わないから、来年の高校受験も視野に入れて」
 夢のような話だと思った。
 その年の三月、月島は中学卒業と同時に更生プログラムを終了し、施設からは退所した。鶴見は内示通りに四月から東京での勤務となった。異動する前に養子縁組の手続きをした。
「さあ、今日から君の名前は、鶴見××だ」
 人生を再スタートするために新しい名前をもらった。
 そうして『月島基』という人物は、この世からいなくなった。



「つ、きしま……」
 十三年前に消し去ったはずの名前を呼ばれて、意識が浮上する。隣に横たわる鯉登の寝言だった。室内はまだ暗い。
 あなたの夢にオレは出ているのか。妙にむず痒い気持ちと、泣きたくなる気持ちが入り混じる。前山が「あまり深入りしない方がいい」と忠告したけれど、元よりそれは無理なのかも知れなかった。鶴見や前山、その他の誰にも感じたことのない気持ちが胸の奥からわき上がる。苦しくて自分が弱くなったように感じるから身構えたのに、それじゃ寂しい。
「こい……」
 口をつぐむ。名前を呼ばれると返事をしたくなる。そしてあなたの名前を呼びたくなる。けれど「寝言は彼岸の国の言葉だから、返事をしてはいけないよ」と鶴見から教わったのを思い出した。
 あなたはいま、夢路に惑っているのだろうか。それとも夢の中の私が彼岸にいるのか。ならば此岸にいられるように、私をしっかりとつなぎとめていてほしい。私の中にいる死んだ男の記憶の断片が、私を海へ引き寄せるのだ。
私は、本当に今を生きているんだろうか。
 月島は鯉登の手をかたく握り、再び隣で目を閉じた。

四、九月十七日のキャンパス、二十一~二十二日の公園

 大学の後期授業が始まった。明日子は交差点を渡って、歩道からキャンパスの敷地内に入る。すると、いつもより学生たちが何やら騒然としていた。果たしてうちの大学は、こんなに賑やかだったか? 長い夏休みが終わって久々にやって来たので、いささか戸惑う。掲示板の前に人だかりができていたので、人を掻き分け確認する。
『学生の皆様へ確認のお願い 今朝方から発生しているシステムエラーで、履修登録内容が初期状態に戻る現象が一部で発生しております』
「初期状態だと……?」
 何だかとてつもなく面倒な事態になっている様子だ。明日子は早速スマホを取り出してマイページを確認してみる。
「消えてなかった」
 ほっとして、それから掲示内容に続きがあるので読んでいると「キエエエエエエッ!」と、突如として辺りに猿叫が響き渡った。ああ、コイトが来ているのか。新学期早々、騒々しい奴だな。もしかしたらコイトも登録が消えているのかもしれない。それなら気の毒だ。どこで騒いでいるのかと思って、明日子はきょろきょろと見回す。するとあちらの校舎の影から出てきたのは、エンジニアの尾形だった。彼は学内で運用しているサーバー等のトラブルがある度に、大学に呼ばれるシステム屋のひとりである。彼の姿に気付いた女子学生らが、急にざわつき始める。
「ホラ、尾形さん来てるよ」
「ホントだ〜!」
 彼女らは尾形にスマホのカメラを向けて連写した。尾形はと言うと、わき目もふらずに前方にある校舎への階段を登って行った。その直後、鯉登も後を追うように階段を駆け上がって行った。
「おっはよ〜、明日子ちゃん! 探したわよ☆」
 とつぜん肩を叩かれる。現れたのは白石だった。
「なんだシライシじゃないか。こんなところで何をしている」
 白石は明日子の質問には答えず、きょろきょろと周囲を見回す。
「ねえねえ杉元はまだ来てないの?」
「杉元は今日、二限目からだ」
「そっかー、後で来るのね? じゃあさァ、明日子ちゃん申し訳ないんだけどォ、杉元にラインしてくれない?」
「なぜ自分で連絡しないんだ?」
「いやあ、実はスマホ止められてて」と頭をかく。
「バイトはしてるんだろう?」
「そりゃあ、もちろんちゃんと仕事はしてるよォ」
 そう言って、なぜかもじもじと恥ずかしそうにした。仕事はあるのに、なぜそんなにお金に苦労しているんだ。が、白石のことだから、きっとまた新しい女に入れ込んでいるのだろうと思った。挙句、杉元にたかる気満々らしいから、明日子は適当にあしらって教室へ行こうとした、その時。
「実はマスターが昨日、鹿肉を持って帰って来たんだよ。富士山に増えすぎてて、駆除をお願いされたんだって。明日子ちゃんにもぜひ分けてあげたいって言ってたよ」
「鹿肉か! 新鮮なんだろうな?」
 明日子の口内に、じゅるりと唾液が湧いてくる。
「もちろん! 明日子ちゃんお料理上手だから楽しみだね」
「しょうがないな、シライシ。今回だけだぞ」
 菩薩のような表情をしながら、明日子はバッグからスマホを取り出した。



 プルルル、枕元のスマホが鳴ったので、杉元はすぐに画面をタップした。
「……はい」
「私だ、杉元。起きてたか?」
「おはよう、明日子さん……、今起きた」
「だろうな。今日は二限からだったな?」
 その直後に電話の向こうで、小さく猿叫が聞こえた。
「そう。つーかいま鯉登が後ろで騒いでるだろ。あいつ何してんの朝っぱらからさァ」
 起き抜けに耳触りな声を聞いてしまった。杉元は不機嫌が全開になる。
「コイトはオガタと罵り合ってるみたいだ」
「げ、尾形も来てるのか」
「そうだ、さっき小耳に挟んだんだが、サーバールームがサウナ状態だったらしい」
「はあ?」
「その部屋の空調が壊れて、そこから水が吹き出していたそうだ。それで尾形が真っ青な顔してあちこち連絡しているのを私も見た」
「えー、サーバーのこととか詳しく知らないけど、それ大変じゃねえ?」
「そうだと思う。それが原因で、メールサーバーの障害が起こってるらしい。先生たちがおろおろしている」
「あー、それで尾形と鯉登が喧嘩してるのね。しかし、さすがにサウナには同情するわ」
 大学ではメールサーバーがまだクラウド化されておらず、理工学部の学生がサーバーを立てている。理工学部に在籍しているからと言って、別に鯉登が責任者ではないのだが、尾形が一番からかいやすい相手が鯉登なのだった。なので朝からふたりは揉めているのである。それから明日子は、もうひとつのトラブルを杉元に告げる。
「それはともかく、別の問題があるんだ。杉元、履修登録をすぐに確認してみてくれ」
「え、履修登録? いったん切るね。また電話する」
「分かった」
 杉元は通話を終了してから、スマホのブラウザでマイページを見てみる。
「……あれ、無え。なんでゼロになってんだよ……、あり得ねえ……」
 杉元は呆然とする。四月に登録したものが、全て消えていた。そして慌てて明日子に電話する。
「明日子さん、オレの登録したやつ全部消えてんだけど、何が起こってるの?」
「あちゃー、杉元もか。実は一部の学生のデータが飛んでるらしい。それで学生と教務課が大騒ぎなんだ。それと一番伝えなきゃいけないことがあるんだ。今、シライシが大学に来ている。杉元が来るのをラウンジで待っているそうだぞ」
「はあ? どうせ金貸してくれー、だろ? 直接オレに連絡してこないってことは、スマホ料金支払ってなくて止められてるとかじゃねえの」
「さすがだな! 杉元。当たりだ!」と明日子は感嘆した。
「やっぱりな。人をあてにすんなっつっといて」
「了解だ、伝えておく。どうやら一限が今から始まるようだ。では杉元、また後でな」
「うん、ありがとう明日子さん。また後でね」
 杉元はすぐに支度をして大学へ向かった。



 大学に到着した杉元は、ラウンジ内の白石を探す。いない。クソッ、うろうろしてないでちゃんとここで待ってろよ。心の中で悪態をつきながら、杉元は学食に移動した。こっちにもいなけりゃ放っとこう。スマホ利用料金を肩代わりしてやる気はないが、お腹を空かせているなら、米を分けてやろうと、家から五キロ持って来た。
「ああ杉元! やっぱり来てくれると思ったー!」と後ろから白石が腰に飛びついてきた。
「うおっ、後ろからぶつかってくんじゃねーよ」
 そして杉元は白石に米袋をひょいと手渡す。
「えー、何これ?」
 突然の大きな荷物に白石は困惑する。
「当面これでしのぎな」
「わー、杉元ありがとう……。家で炊いておにぎり作って、杉元ん家に持って行くね。明日子ちゃんも一緒におにぎりパーティーしよっか」
「俺はいいって。ひとりで食えよ。じゃあちゃんとバイト行けよ」
 そうして去って行こうとする杉元のTシャツを掴んで、白石が呼び止める。「んだよ」と迷惑そうな顔をする。
「あのね、電車代、貸してくんない?」と白石が手を差し出した。杉元は苛ついた表情をして、ジーンズのポケットに入っていた小銭を取り出す。それからその手に叩きつけた。
「お前は給料日まで茶店で寝泊りしろ」
「今度コーヒーセットおごるね☆ ところでさァ」
 白石が不自然なところで言葉を切って、近くの空いている席へ杉元を引っ張った。腰かけると白石は、口の前に手を垂直に立てて戸口のようにする。内緒話なのだろう。察して杉元は白石の口に耳を寄せた。
「窓際に一人で座ってるリーマンぽい奴いるじゃん、ツーブロックの。あれ誰? 学生?」
 白石が視線だけ窓際に向けるので、杉元もその先に目をやる。すると十メートル離れた場所に、尾形が座っていた。遅い朝食なのか早い昼食なのか知らないが、食事をしている。
「出入りの業者だよ。奴がどうかしたのか?」
「どっかで見た顔だなーと思ってずっと考えてたんだけどさ、さっき思い出したんだよ。マッちゃんの披露宴に出てたわ、あいつ」
「え? 占い師の?」
「そう。しかも鯉登ちゃんの待ち人の坊主頭と一緒のテーブルでさ、マッちゃんの旦那としゃべってたわ」
「ふーん、坊主……? ところで披露宴いつだったの? 白石も出席したのか?」
「八月二十九日。日比谷公園の中にある、昔っからあるレストランだったよ」
「ああ、確か明治創業の老舗だよな」
「そうそう、でもオイラみたいな訳ありの男が出席したら、旦那がかわいそうじゃん。だから遠慮して、遠くから見守ってたんだよ」
「ご祝儀出せなくてのぞき見してたんだろ? つーか白石の場合は、お得意様枠で呼ばれたんだろ。結婚したって占いができなくなる訳じゃねえんだから、落ち着いたらまた占いの館に行ってやれよ」
「クゥーン」と白石が犬の鳴き真似をした。
「というか尾形も占い師の元に足繁く通ってたんだとしたら、なんか可愛げがあるよな」
 杉元は尾形が占いの館で、水晶玉を前にして真剣に悩み相談する姿を想像して微笑む。
「みんな俺と同じお得意様だったのかなー。罪な女だぜマッちゃん……」
 白石は今にも泣きそうな顔を作り、テーブルに突っ伏した。
「いや普通に考えたら、そのふたりは旦那の友達枠だろ」
 杉元が呆れた視線で白石を見る。その時に、ふたりの頭上からひらひらとお札が舞い降りた。ふたり同時に上を見上げる。杉元の背後に立っているのは鯉登だった。
「おい、白石由竹。その話を詳しく聞かせろ」
 険しい表情で杉元と白石を見下ろしていた。

【サンプル】あかつきのドロップ

【サンプル】あかつきのドロップ

  • 小説
  • 中編
  • 成人向け
  • 強い性的表現
更新日
登録日

Derivative work
二次創作物であり、原作に関わる一切の権利は原作権利者が所有します。

Derivative work