ただ、息をしていること
うさぎたちがねむっているあいだに、野原は焼かれた。
かなしみしかのこらないことを平然とおこなう、そういうひとびとがいることを、ただ、つらい、と思いながらも、それは、表面上の、うすっぺらな偽善に近いものであるのだと、ぼくはわかっていた。テレビのなかのできごとに、共感、同情しているようでいて、じっさいにはちょくせつ、かかわりのないことは、すべて、俯瞰しているような感じなのだった。つまりは、遠くから、じっと眺めているだけで、かなしみしかのこらないことをおこすひとびとを、どうにかしようとかいう積極性などは、ないのだった。でも、つらい、という気持ちは、まぎれもなく、なにかをうしなったときの、つらい、に等しく、つらい、と思うことに、うそいつわりはなかった。
いきもののいない町は、ときどき、夢にみた。
森のなかで息をしている、せんせい、だったものに逢いに行くとき、ぼくはかならず、町はずれの教会に立ち寄った。教会の、なかにははいらないで、そとから、教会の、屋根のてっぺんにある十字架を、しばしみつめた。時間にして、十秒くらいだと思うが、体感では一分ほど、十字架と向き合っているような心持ちだった。なにを祈るでもなく、灰色のような、銀色のような十字架を、みつめているあいだは、ふしぎと、世に蔓延る、あらゆる理不尽に対して、おおらかな心で、ゆるそう、と思えるのだが、教会をはなれてしまえば、せんせい、が、森のなかでしかいきられないものになった、この、理不尽なせかいに、ふつふつと、怒りをおぼえるのだった。
森のなかは、いつもつめたかった。
森の奥深くに、せんせいはいて、森のものたちの養分となりながら、息をしていた。
ぼくは、水筒にいれてきたコーヒーをのみながら、ただ、息をしているせんせいのことを、じっとみつめていた。
ただ、息をしていること