だれかの王子様わたしの神様
彼は、彼のクラスで、王子様扱いされているらしい。
なんでも、シャトルランで100回を超えたくらいのことで女子たちからきゃあきゃあ言われていたとか。「たいして顔がかっこいいとかじゃないのに」彼の隣のクラスで、体育の授業で一緒だという友達が、そんなことを言って、ごうごうと動くエスカレーターに乗っていく。わたしは黙って、エスカレーターの下っていくほうを眺める。ちがう、彼はかっこいい。すごく。でも、と思う。
地上がじわりじわりと近づいてくる。喫煙所が見えたり、ホームから電車がたつのが見えたり、金髪の高校生が逆方向のエスカレーターに乗っていったりする。友達は、もうさっきの話題は忘れたのか、たまに見かけるきれいとはいえない猫を探している。わたしはやっぱり、下のほうをぼんやり見ている。そうしていると、同じくエスカレーターの、下の方の段に乗っている彼のことを見つけた。
彼と目が合うことも、だいぶ少なくなった。そもそも、いままで目が合っていたと思っていたことは、都合のいい幻かなにかだったのかもしれない。エスカレーターを降りた先では雨が降っていて、彼は丁寧に、傘をさしていく。彼は、かっこいい。とてもかっこいい。すごくかっこいい。でもそれは、シャトルラン100回程度で見えるものではなくて、余裕で走りきって女子たちに微笑んでみせたとしても疲れ切って汗を流して眼鏡を外してシャツで汗を拭っていたとしても、それはほんとうの彼のかっこよさではなくて、もっと崇高な、どこかでばかにされながらもこっそり崇められるマイナーな神様のようなものであるから、きっと、彼のクラスの女の子たちは、彼のことを正しくはわかっていない。
わたしは友達の小さな折りたたみ傘に身を寄せながら、彼を見失う。駐輪場まで歩いて、そこでまた彼を見る。すれ違うのに目は合わない、わたしばかりが彼を見ている状況に、嫌気が差す。女の子にきゃあきゃあ言われるようになったから、わたしのことはとりあえずはどうでもよくなったのかな、と考える。それでもいい、いつだって自分に都合のいいほうを選ぶ、彼の正直で、愚かにも見えてしまうようなところが好きだ。自分以外の人間を正直バカにしていそうなところ、自分よりも立場が弱いと感じ取った男子に対しては高圧的なところ、格好つけた鞄の持ち方がどこか浮いているところ、ちょっと愛想を振りまけば女子はみんな自分のことが好きになると信じきっているところ、よくわからない女の子と仲良くしていい気になっているところ、一度だけわたしの名前を呼んで、笑いかけてくれたこと。
わたしだけが、たぶん、正しく彼のことが好きだ。わたし以外の誰も、彼のことをほんとうの意味では、知らない。友達曰く顔はあんまりかっこよくなくて眼鏡をかけていて剣道部でシャトルラン100回、そのなかにあるものをわたしだけが知っている。ほんとうに、そうだろうか。彼はわたしが思っているようなひねくれた人間じゃないかもしれなくて、女子たちが思っているようなきらきら運動部かもしれない。誰も、真に彼のことはわかっていないんじゃないか、彼以外は。そう考えると、身体の芯から冷えるような心地がして、彼をわかってあげないと、と思った。でも。そんな間に、わたしはまた彼を見失って、雨が強くなって、一度だけ名前を呼んでくれたときのたのしそうな声だけが響いていて、傘からはみ出した肩が濡れて、彼のことが少しずつ、わからなくなる。彼はほんとうは、ほんとうに、王子様なのかもしれないし。
だれかの王子様わたしの神様