エメトフィリア
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ハイキングに行く日に雨が降った。部屋のガラス戸に滴る雨粒を見ながら、私は孝治に電話するかどうか迷っていた。バケツをひっくり返したような大雨だから、たとえ止んだとしても地面はぐちょぐちょで歩けたものじゃない。今日のために有給を取ったが、私は内心ほっとしていた。
不意にスマホが鳴り出した。案の定、孝治からの電話だった。
「ハイキングどうしたい?」
私が決めていいような聞き方に一瞬迷いが生じる。行きたくないんだけど、と正直に言えば孝治はがっかりするだろう。だが、嘘をついてまで孝治に気を遣うのは疲れるし、嫌だった。
「枝里?」
「あ、ごめん。私今日生理きちゃって…、また今度にしない?」
「もちろん!いや、ほんとゆっくり休んで。無理しないで」
執拗なくらい孝治は私に労いの言葉をくれて、電話を切った。孝治は一言も、部屋に行くとは言わなかった。孝治なりの優しさだと思うが、私はまた、その優しさを無視してしまう。
孝治にはカミングアウトしていないが、私は嘔吐癖がある。適当に食べ物を胃に詰め込んで、苦しみながらすべて吐き切るのだ。身体には良くないことだとわかっている。
自覚した上でやめられないのは、もうどうしようもないと思う。孝治への罪悪感すらも、快感になるのだから。
「…もしもし。私、枝里だけど、今ひとり」
「すぐには行けない。まあでも十分くらいで終わるから、三十分後でいい?」
「いいよ。じゃ待ってるから」
スマホを床に置いて、部屋の片付けをするため立ち上がる。自室の方は軽くでいい、ソラトが好むのはトイレでの行為だから、隅から隅まで念入りに掃除しなくては。
どうせすぐに汚れてしまうけど。うん、だからこそ綺麗にする必要があるのだ。
三十分後、ソラトは雨でずぶ濡れた姿で玄関先に現れた。
「家じゃなかったの?」
ソラトは私があげたバスタオルで顔を拭きながら、軽く笑みを浮かべた。
「ここ来る前に一回やってきたんだよ」
「ふうん。私の相手をする体力はあるの?」
「心配ない。前の人はほとんど一人でやってて、俺は見てただけだから。見られながら吐きたいって人で」
「そういうプレイって楽しいのかな。私はつまらないと思うけど」
肌にまとわりつく雨粒を大体拭き終えたソラトは、タオルを洗濯カゴに投げた。そして、トイレのドアを開け隅々までチェックした。壁にシミはないか、床にゴミが落ちていないか、便座は綺麗に磨かれているか、便器のなかは嫌な臭いがしないか。私は、毎回ソラトが完璧なチェックをしているのを見るのが好きだった。文句の一つも言わせない、それくらい私にも自信があったからだ。
吐かされるのは私なのに、私が不快に思う生半可な掃除をするわけないのだから。
「いいね。満足にやれそう」
「あなたのお墨付きなら大丈夫だね」
「何食べたの?」
「今日は惣菜のコロッケと、玉ねぎ」
「強烈な匂いがしそうだな」
「もらいゲロする?」
「いや、俺はあんまり…」
他人を吐かせるのは上手なのに、ソラトは自分が吐くのは苦手なようだった。
そういえば、今まで私がどんなに酷い嘔吐をしてもソラトはそれをもらうことはなかった。
淡々とした動きで、私の喉奥と胃の真ん中を刺激するだけだった。エメトフィリアでもないらしい彼は、私のあられもない姿を見て勃起することもなかった。
私は、そのことにだけ不満があった。
私とソラトがトイレから出てきたのは、雨も上がった昼下がりの三時だった。
お互いに疲れて無言でベッドに横になる。シングルサイズに大人二人が寝転ぶと窮屈で、仕方なくベッドをソラトに譲ろうと起きあがった。
だが、私はソラトによって再びベッドに寝かされた。上にソラトが覆いかぶさり、この眺めに少女漫画的展開を思った。
ソラトにも性欲があったんだ。
なぜか私は安心し、彼がどうくるか固唾を飲んで待った。
「セックスしたことある?」
「あるよ。二回」
「相手は?」
「言う必要あるかな。…あなたは何で私を見下ろしているわけ?」
「こうやって見ると、俺が男なんだってわかるから」
私はソラトの腕を跳ね除けた。ベッドから抜け出して、トイレに戻ってドアの鍵をかけた。
強烈な胃酸の臭いが鼻につく。また吐き気が舞い戻ってきそうになり、私は慌てて別のことを考えた。
私にその役割をお願いするような、謙虚で弱々しい表情の裏によぎった、膨張した承認欲求を湛えた瞳に私は怖くなったのだ。だからソラトから逃げて、今、トイレの前に座り込んで嘔吐の二波を予感している。
エメトフィリア
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