夕暮れの惑星

夕暮れの惑星

近づく予感

  ター坊

 溜息、出そう。
 今日は一人で先に行こうと思っていたのに、宮坂にしっかり捕まってしまった。
 宮坂とは小六から同じクラスだ。
 向こうは、こっちが転校生だったから知ってたのかもしれないけど。
 少なくともこっちが宮坂のことを知ったのは、中学で天文部に入ってからだと思う。
 今時、宇宙に興味を持つ人は少ないし、一学年六十人の学校だから、天文部には一年の頃からずっと宮坂と私の二人しかいなかった。
 部と言っても、科学研が理科室を押さえているので、せまい第二理科室が部室で、対外活動は文化祭の時のつまらない掲示くらい。
 毎週のように、星を観察したり、太陽の黒点運動を調べたりしているけど。一年の頃から宮坂と二人で遊んでいるのとあまり変わらなかった。
 その天文部は、来年、廃部になってしまうことが決定済みだった。
 最初、仕方ないとか思ったけど。
 宮坂が絶対に私たちの代でつぶしたくないって言うものだから。四月、五月、昼休みの時間は一緒に勧誘に歩いたし、声をかけられる人にはみんな声をかけた。
 できることはすべてやったと思う。 
 だから、最後、宮坂は泣いてしまったけど、あきらめがついたようだ。
 そういう性格の宮坂相手だから仕方なく校門で待っていた。脇には古ぼけた天体望遠鏡とハンドヘルドコンピューターのケースを置いて。
 誕生日に買ってもらった男もののクオーツ(ショーウィンドーで一目ぼれ)の針は、ここに来てから五分ほど進んでいた。
「あ、ター坊」
 その声で顔を上げるとクラスメイトの絵梨香がいた。
「絵梨香、帰り?」
「うん。ター坊は宮坂君ね」
「そう、逃げ遅れた」
「宮坂君。一生懸命ピロティー掃いてた。あと、二十分は無理じゃないかしら」
「えー」
 掃除なんて適当に済ませばいいのに。と言うのは心の中だけにしておいた。
「宮坂君って真面目だから。しかも、かわいいし」
「ま、そりゃ。真面目なのは認めるけど。あれは、やりすぎ」
 絵梨香はくすくす笑い出し、
「そうかも」
「ね、絵梨香。今日、復帰戦でしょ?」
「うん」
 絵梨香はふわっと浮き上がるような感じで両爪先立ちになってみせた。
 お嬢様タイプの絵梨香がやると、カバンを持ったセーラー服姿でも自然と様になる。
「今日は基礎練習だと思うけど。でも、いきなりまたボキリっと言ったりして」
 そう言ってクスクス笑ったけど、ぜんぜん笑いごとじゃないって。
 絵梨香はクラスでただ一人、隣町でバレエを習っていた。バレエのほかに庶民のピアノではなくハイソなバイオリンとお茶まで習っていて。あとは黒い自動車で送り迎えをしてもらえば、完璧に、(小学生の頃読んでいた少女マンガに出てくる)お嬢様だ。
 実は、本当にこの二ヶ月間、絵梨香は車で送り迎えをしてもらっていた。見るだけで痛々しいギブスと松葉杖をついて。
 先日、やっとそのギブスが取れたのだけど。
「本当にボキッと言ったの。ふくらはぎの裏のとこが」
 などと嬉しそうに、人が聞きたくないことを何度も何度も丁寧に説明してくれる。
 最近のお気に入りは手術跡を消すための治療の話しで。
「黒く血の固まったガーゼを、こう引きずり出すの。こう……」
「やめなさい」
 想像するだけで鳥肌が立った。
「早く行きなよ。遅刻したら何にもならないでしょ」
「はーい。じゃね、ター坊」
「バイバイ、絵梨香」
 絵梨香の背中を見送った後クオーツを見ると、さらに五分進んでいた。
「お、ター坊。今日もデートか?」
 今度は大原か。
 今にもガハハと笑い出しそうな、陽気さだけが売り物のような声と姿。同じクラスの野球部だった大原だ。だったとなるのは、野球部は夏の総体が終わりで、もうとっくに引退している。
 天文部も、あと一ヶ月に迫った文化祭で引退しなければいけない。
 そっか……。
 望遠鏡に視線を向けた。古ぼけてて傷や汚れが目立つけど。自分のお小遣いではとうてい買えない電子望遠鏡。
 だから、こんな風にこの望遠鏡を借りられるのも、あと二、三週間。その間には秋祭りもあるし。
 実質三回か。
 ……それにしても、このオヤジは。
「そんなわけないでしょ」
 こらえて冷静に返すと、
「ちょっと今、いいな、とか思わなかったか?」
 と来る。
「いいわけないでしょ」
「なぁ、一気にやっちまえよ。やっちまったモン勝ちだぜ」
「あのね」
「誰も見てないんだからさ」
「はい、はい」
 ヒラ、ヒラ、手を振った。
 溜息が本当に出てしまった。
 大原に悪意がないことはわかってる。
 大柄だからキャッチャーになったのか、キャッチャーだから大柄になったのかはわからなかったけど。この熊のようなオヤジはクラスのムードメイカーで、下ネタ担当。
 だから、こういうのが彼のごくごくまっとうな挨拶だった……だったぁ?
 ちょっと待って。(同じクラスの)絵梨香とかの前では絶対下ネタを振らない……ような気がする。
「どうしたんだ? ター坊。急に黙りこくって」
「ものすごく腹が立ってきた」
 大原はへへへと笑った後。
「じゃあな、ター坊」
「また明日」
 手を振って答える。まったくやれやれ。
「おくれてごめんね~」
 遠くの方で声がした。
 やっと来た。
 宮坂が昇降口の方から、それこそトコトコ走ってやってくる。
「ター坊待った?」
 息を切らして顔を上げる宮坂。
 変なのだろうか? 頭痛を感じる。
 言いたい文句をすべて忘れてへたりそう。
 宮坂はかわいかった。本当にかわいい。
 女の私から見ても、十分、かわいい女の子で通用する。
 悲しいけど、私がこういうしぐさをしたって気持ち悪いだけだ。
 でも詰め入りの宮坂の方が様になるなんて。
 頭痛い。
 多分、小学生の頃の印象がないのは、宮坂のことを引っ込み思案で、病気がちな女の子だと勘違いしていたからかも。
「行くよ」
 理科備品の天体展望鏡を担いで歩き出した。
「ああ、待ってよ。PCの方、私が持つよ」 
 普通、男の人だったら天体望遠鏡を持つよ、と言わない? でも、宮坂の場合、ケースに入ったハンドヘルドPCがせいぜい。それでも少し迷うけど。結局、宮坂にハンドヘルドPCの入ったケースを渡した。
 でも三十分後。
「よせばよかった」
 神社の社務所の裏から伸びる山道を登っていた。
 わざわざトレッキングシューズにジャージなんて装備をすることはなかったけど、それなりに険しい。
 しかも、今日は特別足元が悪かった。昨日雨が降ったせいで、落ち葉が滑るし、岩のところも滑りやすくなってる。
 宮坂はもう息が上がってる。 
 情けない。
 頭に付けたヘッドライトをつけた。
 場所によってはだいぶ暗くなってきていた。
 今はまだ、夕闇の暗さが中途半端な感じであったけど、帰りはそうはいかない。
「あ、そこ気をつけて、すべるよ」 
「うん。ねぇ、もう少しゆっくり歩かない」
「そんなこと行ってると頂上につく前に日が暮れちゃうでしょ」
 だから先に行きたかった。日が暮れてしまう前までに行かなければ意味ないのに。
「ター坊。馬力ありすぎだよ」
 宮坂は私を〝ター坊〟と呼ぶ。
 クラスのみんなも〝ター坊〟と呼ぶ。
 小学校でつけられたあだ名で由来は覚えていないけど。でも、今のはなぜかすこしだけ不快だった。
「なんせ、ターボがついてますからね」
 嫌味で返したつもりが宮坂は笑ってる。しかもこんな時でもかわいらしい。
 妙に腹ただしくなったので話題を変えてみた。
「ところで、今日のテストどうだった?」
「そこそこ。ター坊は?」
「まぁまぁ」
「まぁまぁね」
「そ、まぁまぁ。何かある?」
「ター坊のまぁまぁって……わっ」
 宮坂がふらついた。
 本当に情けない。倒れる前に袖を引っ張ってあげる。
「あ、今、ター坊、ドンくさいとか思ったでしょ」
「思ってないよ。でも、小学校の頃、大原たちとよく来たのに、って」
「そうだね」 
 宮坂の声が、夕闇が作っていく影の中に消えそうな気がした。
「ん?」
「どうもしない。ね、後どれくらい?」
「あと少し。PC持つ?」
 右肩に担いだ望遠鏡を左肩に直した。
「いいよ、大丈夫」
「そ」
「そ。ね、あと、どれくらい」
 頂上までのことじゃない。クオーツを見た。
「四分」
 と答えてあわてて駆け出した。
 やっぱりギリギリになった。だから一人で先に来たかったのに。
 でも、ここまで来ればあと少し。
「ちょっと待ってよ」
 宮坂の声を背に聞きながらスロープを駆け上がった。
 大またで最後の坂を上りきると、夕闇の世界が開ける。
 小さな祠と、三百九十m表示の三次元式ポインターの水準点。
「綺麗」
 宮坂の声。
 その声で、ここに来た理由も忘れて、ボーとしまったことに気がついた。
「うん」
 頬に当る冷たい風が心地いい。
 何者にも遮られることのない澄んだ空が、茜や萌黄、灰色や紺色に染まっていた。
 明るい星たちが瞬き始め。田んぼや、灯りをつけた街はほとんど影の中に沈んでいた。
「ね、あと何分」
「あと一分もない」
 クオーツからまだ少し茜色の残る方へ顔を向けた。
「来た」
 流れ星にしては大きすぎる空をひっかくような白い光。
 光跡は、月の輪郭が浮かぶ夕暮れの空を駆け抜けていった。
 耳を澄ませば大気を切り裂く音も聞こえてきそう。
「間に合って良かったね」
 宮坂の嬉しそうな声に、「うん」としか返事ができなかった。
 定期貨客船が残す光跡よりも、さっき見た景色が頭から離れなかった。
 夕暮れの赤。
 雲の紫。
 蒼い空の色。
 黄金の月の輪郭。
 土の匂い。
 風の冷たさ。
 すべてが違う。
 ここは、故郷とはまったく違っていた。
 当たり前のことなのに今日はどういうわけか、そのことから離れられそうになかった。

    
  前 夜

 遺伝子の秘密はすべて解明されたはずなのに、不思議だと思う。
「A、ターン。はい、そこで堪える。B、手首が甘い。C、C、ターン、もっと集中して。A、ターン、Aダッシュ」
 手を叩きリズムをとっている初枝さんは、あの大原のお姉さんだった。
「ター坊。何か考えことしてない?」
「別に、何も」
「では、最初から通していきましょう。ほら、いやな顔をしない。明日が本番なんだから。二回目のBの型、手首が明後日向いてたわよ。足の運び、手の運び、すべてに集中すること」
 初枝さんは厳しい。というより鬼。
 今(七時二十分)から、御神楽の舞いを通しでやると、八時を軽く回ってしまう。
 ビデオをとってきて正解だった。
 学校から戻って、夕食まで受験勉強(いくらなんでも高校浪人はできない)に勤しんでいる時。映話がかかって来た。
「ター坊の言っていた裾の直しが済んだんだけど。三十分ほど出てこれない?」
 と笑顔で話す初枝さん言葉に何も考えず神社へと出かけた。
 水路にかかる橋を越えた所で、何か違和感を覚えた。
 神社の石段を登り始めたときには、正直すごーく嫌な予感がしていた。
 その予感は見事に的中。
 おとといのリハーサルを兼ねた練習の時に、「これがラストだから、明後日の本番までゆっくり休んでね」とか言っていたのに。神社に着いた四時頃から、きっちり練習をさせられた。
 六時には大原家で夕飯をいただいたし(初めてのときは、クラスメイトの大原と食卓を囲んで食べるのに抵抗あったけど、もう慣れた)、それ以外に一回、休憩をはさんでる。
「これが終わったら、衣装合わせをするから」
「初枝さん何度目の台詞ですか、それは」
 そうは応えても、実は、そんなに悪い気はしない。
 今のまま本番を迎えたくないという気持ちがある。きっちり練習することで細かな部分のレベルアップができる気がする。
 しかも、舞うのは好きだ。
 はじめは、ちょっとした驚きだったけど。そうじゃなければここでこうして舞ってはいない。
 舞うことに全神経を集中させてノってくると。怖いくらいに頭の中が空っぽになってゆくことがある。
 踊ること以外のすべてのことが、頭の中から溶けてなくなってしまったかのように。その存在すら感じることも、考えることも出来なくなる。
 音と踊りがイコールになり。私と踊りがイコールになる。
 その瞬間がすごく好きだった。
 新しい私を発見できたかのような気分になれる。
「小さなことは気にしない。大事の前の小事と言うでしょ」
 なんか違う、と口に出かけたけど、初江さんのこういう言い方は大原とそっくりで、やっぱり血が繋がっているんだと、今さらのように感心してしまう。
「ター坊は、六中の三十四人から巫女に選ばれたんだから」
 初枝さんの言う、六中の三十四人から選ばれたというのは事実と違ってた。
 秋祭りのクライマックス、御神楽は、神社の氏子に当る六中の三年が舞うことになっていた。
 でも、舞いを奉納できるのは一人だけ。競争倍率は毎年、六中三年の女子生徒と同数になった。
 小さい頃からの憧れだったとか、夢だったとか、そんな純粋な想いのほかに、御神楽を舞った子は、第一志望の高校を推薦で決めたとか、隣町の片想いだった人に告白されたとか、その手の都市伝説まで揃ってる。
 憧れの巫女。
 実際、去年、御神楽を舞った先輩が、祭りの直後から付き合いだしたのは、有名な話だ。
 宮坂に指摘されてむっとしたけど。別に、そういうことにはまったく興味がなかった。
 もちろん、第一志望の高校に受かりたいけど。
 御神楽の巫女に憧れを抱くほど、小さな頃から見てきたわけではなかったし。片思いとか、恋愛なんて、小説とテレビの中だけのことで、あまり現実味がなかった。たしかに、クラスの中にはそういう子もいたけど、テレビか小説に感化されただけに見えた。
 だから、御神楽の最初の練習会に参加したのは自分の意思とかじゃなくって、宮坂が大原の家にノートを取りに行くのに付き合った日が、たまたま最初の練習会の日で。「はいはい、六中の女子生徒はこっちの方ね」と、初枝さんに強引に腕を引っ張られたからで。何か特別な想いとかがあったわけじゃなかった。
 そんな成り行きで参加したのに、二ヶ月前、御神楽を舞う巫女に決まった。
 話しだけ聞くと、ものすごい幸運なことに聞こえるかもしれないけど。そうじゃない。
 三日おきのきっつーい練習。初枝さんに泣かされた子も一人や二人じゃない。気がつけば、御堂に三十人はいたクラスメイトたちは、二週間で、私一人になっていた。
 単に、逃げ遅れただけ。
 逃げ遅れた理由に、逃げるタイミングの見積もりの甘さと、大原の目の届くところで弱味を見せたくなかったというのもある。
 私は六中三十四人の中で、逃げ遅れためにイケニエではなく巫女になったと言うのが、巫女に選ばれたというよりよっぽど事実っぽい。
 事実はどうあれ、舞うのは本当に楽しい。
 舞う楽しさを感じて逃げ遅れたというのも、あると思う。
「とにかく。あなたの後ろには六中、三十三人がついているのよ。がんばりなさい」
 と、また、お約束の台詞。
 本当に、そういうところだけ大原と姉弟なのかもしれない。
 ちらりと、缶ジュースの入ったアルマイトの洗面器を見た。少し早めに出されたストーブの上で湯気を立てている。
 舞うのは構わないけどその前に一口でも飲みたい。
 でも、
「初枝さんちょっと休憩……」
 ください、までちゃんと言えなかった。
 初枝さんの顔の下に、鬼の顔が見え隠れしてる。
 やば。
 暑かった季節が過ぎて、寒い季節がやってこようとしているけど、練習のきつさも初枝さんが鬼であることも変わりはなかった。
「さ、もう一度。いくわよ」
 無情にも、楽がスピーカーから流れ始める。
 口の中に広がる甘さとほのかな酸味を思い浮かべ。ホットカルピス飲みたかった、と心で呟いてから、顔を引き締める。
 鉦鼓の甲高い音。
 ダンと最初の一歩を踏み出す。手首を利かせて、ぶどうのような神楽鈴を振るうと、涼やかな音が手の動きに続いた。
 A、A、B、1、2、3、Aダッシュ  
 一つ一つの型がはまり、流れ出す。
 先ほどまでの舞が嘘のように、今は楽と自分の舞が一つに合わさったような感覚。
 舞を舞うたびに、頭からつま先、胸から指先まで、体中が充実していく感じ。
 やっと来た。 
 イヤになってしまうことや、どうしようもない怒りとか、嫌なこととか、私の中のすべてが溶け出していくこの感じ。
 この感覚が来ないと、練習は厳しいだけで、舞いにも自信が持てない。
 いつものように心の中で叫ぶ。
 もっと、白くなれ。
 嫌なことすべてなくなってしまえ。
 A、ターン、B、C、C、ターン、A、ターン、Aダッシュ……


 結局、(久しぶりに、)シャワーまで借りてからの衣装合わせになった。
 いつもだったら、シャワーを借りることに抵抗はなかったけど(最初はあった)。今日は祭の前日だけあって、青年団とか、商工会議所の人とか、お祭の打ち合わせと言う名目で、大騒ぎをしていたので、なんとなく抵抗があった。
 衣装合わせは、もっと、いまいちだった。
 初江さんとおばあさんが手際よく着付けてくれるのはいいけど。何度着付けてもらっても、まるで着せ替え人形にでもなったようで、あまり気持ちのいいものじゃなかった。
 もしかすると、小二の誕生日に買ってもらったリカちゃん人形に復讐されてるのかも。
 そんな、どうしょうもないことを考えながら、着付けが終るのを待った。
 緋色の古風な袴、白い袖長白衣。それに、松が銀糸(?)で縫われた千早というカーディガン(?)チョッキ(?)を身に着けられる。
 最初、ひんやりとして肌になじまなかった肌襦袢の布は、今は肌によくなじんでいた。綿なんてここでしか着けない素材の特徴らしい。
「さぁ、ここまでやったら、髪の毛もやりましょうか?」
 えー、九時過ぎたのに、と前なら言っていたと思うけど。初江さんの強引さと争う気はない。
「お任せします」
「いいの? ター坊、もう遅いのに」
 おばあさんはそう言ってくれるけど、
「ター坊がいいって言うんだからとことんやりましょ」
 初江さんニッコニコ。  
 私は、鏡台の前に座って自分の姿を見た。
 バタークリームのような少し黄色みがかった白の長袖の衣(千早)と、緋色の袴。
 鏡を見なくたって、顔がほころんでしまうのがわかる。
 この白い服を着るのは、おとといのリハーサルを入れて二度目だったけど。なかなか。
 鏡の中の自分も思わずニヤつく。
 宮坂には勝てなくても(宮坂が一瞬ちらついてしまったことにムッとした)、これはこれで悪くはないと思う。
 何? あれ?
 最初、誰が悲鳴を上げているのか、わからなかった。
 鏡に映った押入れのふすまの間に、最初、何があるのか、わからなかった。
 人の目が縦に二つあった。
 すぐに、
「やっぱり見つかっちゃったよ~。っどーしよー」
「わぁ、馬鹿、声出すな」
 私の悲鳴は、大原の声にかき消された。
 勢いよくふすまを開けた初江さんの前に、宮坂と、大原がいた。   
「あなたたち」
 恐ろしい声と、廊下を慌てて遠ざかって行くたくさんの足音。
「お父さん、おじさんたちまで」
 鬼が吼える前に息を吸い込むとしたらこんな感じ? 
 この神社に棲む、こわーい鬼が声の限りに、吼えた。       

 車で送ると、顔を真っ赤にしたおじさん(大原のお父さん)は言ってくれたけど。丁重にお断りした。
 夕飯の時からキリンを三本も空けて、打ち合わせでベロンベロンになったおじさんの車に乗りたいとは思わなかった。
 対向車は来ないけど、寒くなってきた夜に(寒くなく、夜でなくても、)畑とか水路に落ちるのは正直ごめん。大原家の広い玄関だって、すごくひんやりしている。
 こんな日に水路に落ちようものなら目も当てられない。
「本当に送らないでいいの?」
 初枝さんとおばあさんが玄関まで見送りに出てくれた。
「はい。家までそんなに遠くないし」
「懐中電灯は?」
 と、おばあさん。 
「ヘッドライト持って来てますから」
 ナップザックからいつものへッドライトを出して見せた。
「風邪なんか引かないでよ」
 初枝さんはそう言ってくれるけど、それは体の心配してのことか、祭を心配してのことか。素直に聞くと初枝さんは素直に答えてくれてこちらが凹んでしまいそうなので、聞く気にはならなかった。 
 でも、「はいはい」と一応答えておいた。
「お邪魔しました」
「気をつけてね」
 その声を背中に、大原家のある社務所から境内に出た。
 寒い。息は白くならなかったけど身が引き締まり目が冴える感じ。
 社務所の中は、男の人の笑い声や、人の気配で溢れていたけど。ここは暗く、静かだ。
 神社の境内は、樹齢が二百年とか三百年を軽く超える大木が天を突くように生えている。なので、はっきり言って境内を照らすライトだけでは役に立たない。
 いつものヘッドライトを灯けようとした指が止まる。 
 夜の闇が、今日はなぜか深く感じられた。怖いとかじゃなくて、引き込まれてゆきそうな闇。
 光のない深い闇。
 でも、不思議と怖くない。
 前にもこれと同じことを感じたことがあるような、不思議な感覚がした。
 冷たい空気の流れが私をまるで川の中の杭のようにして流れてゆく。
 ああ、私。故郷の夜を思い出しているんだと思った。
 小学校の時のナイトハイク。
 定期貨客船よりも巨大な極相に達した森の中をクラスメイト達と一緒に一列に並んで歩いた。
 みんなのライトが集まって明るいはずなのに、そのライトの明かりを受け入れない原生の森。
 心細いはずなのに、怖さよりも、森は夜目覚めることをはじめて知った。
 夜にこそ、森はその本当の姿を現す。
 この神社の森も同じだ。
 この森も木々も、ここに人が来る前から、そのずっと前からここにこうしてあったに違いない。
 遠くの木々が風に騒ぐのを聞きながら、胸の奥まで冷たい空気を吸い込んで、ゆっくり吐き出してから。ヘッドライトをつけた。
「あ、待ってよ。ター坊」
 情けない声が私に小さくため息をつかせた。もちろん、宮坂だ。
 でも、いつものように歩調を合わせてあげる気にはならなかった。顔だって見たくないから歩き出す。 
 どーってことなかったけど、どーってことないはずなのに、ひどく腹ただしかった。
 初江さんにきつくしかられたのを見てかわいそうに思ったし、(大原にそそのかされたにしても、)そういうことする勇気が宮坂にもあったんだという感心? もあったけど。
 のぞかれて嬉しい人がいるはずがない。
 おじさんたちは未遂で終わったらしいけど、少なくとも、大原と宮坂とは目が合ってる。
 でも、宮坂が迷子の子猫のような声を出すたびに、揺らいでしまう。それも事実。
 ああ、それも、なんか腹ただしい。
「なんで、宮坂来たりしたのよ」
「だって、ター坊の家に電話したら。ター坊は神社だって言うから。心配になったんだ」
「心配? 痴漢の心配でもしてくれたわけ?」
 あ? あれ? 声がきつい。すごい嫌味かも。
「そ、そうじゃないよ。あれは大原君が」
 何かが急に高まってきて、自分でも最初、何を言っているのかわからなかった。ただ、声を出した後に、もうどうにもならなかったことだけ、わかった。
「うるさい。人のせいなんかにしない」
 叫んでいた。
 思いっきり叫んでいた。
 お腹の底から叫んでいた。
 石段を駆け下りて、宮坂の声を背中に聞いても。
 二キロ先の家まで駆けて帰っても。
 もう収まりそうもなかった。
「宮坂君と会わなかったの?」
 って、母さんが聞いたけど。
「知るわけないでしょ」
 って答えて、二階に上がると。日記も書かずに、そのまま布団の中に飛び込んでしまった。


  夕暮れの惑星
 
 翌朝、眼が覚めればお祭ならよかった。
 正午から祭が始まるので、一応短縮三時間だったけど。一時間一時間は普通の授業と変わらない。
 小学校の頃は、芋煮会と季節はずれのお楽しみ会を一緒にやる日だったから、朝から晩までお祭一色の一日だった。
 中学ともなるとそうはいかない。しかも三年生。
 お祭を前に、娘より緊張し始めた父さんとハイテンションの母さんの「どう? ちゃんと(御神楽)やれそう?」攻撃を適当にごまかしながら、朝食を食べて。
 古典、音楽、理科Ⅱの教科書ノートの確認をして、家をいつもの時間に出た。
 雲ひとつないお天気。でも、この季節の天気の朝は寒い。冷たい風が吹き抜けていく。
 ロングコートとマフラーは少し早い気もするけど、今日は欲しいかも。
 冬は正直苦手。しかも、あと一月すればここは雪に埋もれる。
 朝から溜め息がでた。
 いつもの道を、気まぐれに吹く冷たい風を背中に受けながら歩いた。いつもの雑貨屋の曲がり角を曲がって、メイン通りを……。 
 ……女の子が間違って詰め入りを着てしまったような宮坂の姿を見つけた。
 どうして、違う道で来なかったんだろう。
 顔をしかめた。
 宮坂のことじゃなくって、どうして〝私が〟違う道で来なかったんだろう、と思ってしまったことがショックだった。
 今までにだって色々あったはずなのに、何で?
「おはよう」
 宮坂の覗き見るような視線を感じながら、「おはよう」と呟いて歩き出す。
「ター坊。昨日はごめんね」
 いつもだったら、それですべて済んできたはずなのに。でも、済んできたことも思い出せないほど、眼がチカチカして頭の中が熱くなった。
 走るような早歩きで学校に急いだ。
 そこまですることないのにって思っている自分がいる。でも、この感情をどうすることもできなかった。
 教室でも、ずっと宮坂を無視した。
 罪悪感のようなものがこみ上げて来たけど、どうしようもなかった。 


 二時間目は音楽。
 音楽は家庭科や体育と違って移動教室でも内職ができた。もちろん、単語帳持参。
 それは、いきなり来た。 
 足の小指をオルガンの角にぶつけた。上靴の上からではなく、靴下を通して直に。
 音楽室を上履き厳禁にしたの誰?
「痛っ」
「大丈夫、ター坊」 
「う、うん」
 クラスメイトの絵梨香にそう答えていると。
「ター坊、彼女(宮坂)とうまくいかずに調子が出ないんじゃないか?」
 クラス一のお調子者の木村が、いつもの感じで声をかけてくる。
 私は何も言わずに睨んだだけで、木村はニヤついていた顔を凍らすと、視線をそらしてしまった。
 あ、あれ? 私ってそんなに怖い?
「おい、ガンツが来たぞ」
 すべての元凶、大原の声で、みんな席に着いた。
 ガンツは、自称ピアニストならぬチューバニスト。体育教師といった方がいいくらいの肉体派。授業は必ず半分脱線するのに、歌を歌う時、本気で歌わないとチューバで鍛え上げたという、ものすごい声量で怒り出す。
 その時、耳にガッツンと来るからガンツなのか、本名、岩津剛士だからガンツなのか、多分、六中の生徒は誰も知らない。本人も多分知らない。
「音楽の授業を始めるぞ」
 ガンツはグランドピアノに腰を下ろすと、蓋をあけて、指慣らしにチャララランと弾いた後。
 ジャン(起立)
 ジャーン(礼) 
 ジャン(着席)
 およそ外見に似合わない音をピアノに奏でさせながら、 
「前回、大学時代の碁会の話をしたよな?」
 どこが音楽の授業なんだろう? 疑問に思ってしまったらガンツの授業は負けだった。
 中には脱線を嫌う子がいたけど。五十分のうち二十分が脱線。あとの二十分はひたすら集中して、歌ったり楽器を演奏したりする(五分遅く来て五分早く終わるからこれで計算は合う)。
 集中の時は私語の一つ、許してくれなかった。でも、逆に脱線の時は何をしていても許してくれる。
 さっそく、単語帳をスカートのポケットから出そうとした。どうしても、今週中に、十二人のドーチェの足跡を覚えなければいけない。
「ん? 宮坂、元気ないな? おい、ター坊。宮坂どうした?」
 え? なぜ? 私。
「知りません」
 イヤになるほど不機嫌な声が出た。
「いかんな」
 何が?
「ちゃんと相手をしてあげないと、愛想をつかされてしまうぞ」
 はい?
「宮坂くらいの子は特にデリケートにできているからな。ター坊のように強い人が必要なんだ。さて、碁会にいた先輩の話しの続きだが……」
 変な、前置きはやめて。 
 何人かの好奇の視線を感じた。 
 絵梨香に脇でつつかれる。
「何?」
「宮坂君と何かあったの?」
「知らないよ」
「いつもなら一緒に学校に来るのに」
「それは、雑貨屋の角で、いつも宮坂が待っているから」
「へぇ。雨の日も風の日も待ってくれてるの。それは知らなかった」
「あら、絵梨香そんなことも知らなかったの?」
 前の席のミリが体を乗り出す。
「一年の時なんか、毎日家まで迎えに行ってたって、ね? ター坊」
「ち、ちがう。四月のときはそうだったけど、恥ずかしいから断ったの」
 何で、顔を赤くして手を振り回さなきゃいけないの?
「でもいいよな。ター坊」
 ミリの隣の隼人がニヤニヤしながら、
「宮坂みたいな彼女がいるんだもんな」
 あのね。
「ああ、俺にも宮坂みたいな彼女が欲しいよ」
「お前には無理だな」
 大原も話しに加わってきた。
 元はと言えば、大原が原因なのに。
 何も分かっていない大原に、何か言ってやりたくなった。
「ほらほら、ター坊。怒らない、怒らない。でも、本当のところはどうなの? 宮原君と付き合ってるんじゃないの?」
「絵梨香ぁ」
 親友のあなたがそう言うかい。
「ター坊、宮坂と付き合ってるのか?」と大原。
「え? そうなのター坊?」とミリ。
 あと、もうちょっとで爆発しそうだったのに、隼人がとんでもないことを言った。
「あれ? 去年の文化祭の練習の時、コクッたって聞いたぜ?」
 は? 
「なに、それ」
「あれ? 俺もどっかで聞いた」
 と、今まで話しを聞くだけだった久米。
「ちょっと待ってよ」
 去年の文化祭? 文化祭といえば、「落窪姫」のキャストを男女逆でやったくらいしか覚えていない。
 確かこれも、大原の提案だったと思う。
 私が王子役で、宮坂が落窪の姫。
 あることが記憶の奥底から湧きだして、
「大原」
 と呼んだ。でも、当の本人は窓の外に視線を向けてしまったまま、こっちに向こうともしなかった。
 向こうがその気なら、不機嫌そうな顔で、単語帳から目を離さないことにした。
 それで、この話は打ち切りになってしまった。
 音楽の授業は後半に入って、〝大地讃頌〟の練習になった。
 卒業式に向けて今から練習している第二校歌のような歌。
 先輩もそのまた先輩もこの歌を歌って卒業していった。次の春、この歌を歌って中学を卒業する。そして、後輩たちもみなこの歌を卒業の時、歌うのだ。
 この歌のいいところは、歌詞もそうだったけど、本物の校歌と違って、胸の中のすっきりしないものを出すかのように歌うことができる。
 ソプラノ、アルト、テノール、バスのすべてのパートが決まると、これほどいい曲は、年末の第九以外にないと思う。
 歌を三回歌い終わる頃には、心のモヤモヤがなくなることはなかったけど、宮坂を許してあげようと思っていた。
 まず、ごめんなさいから。

  ◇ ◇ ◇
  
 境内に、空気を震わすような大太鼓の低く響く音と、鞨鼓の乾いた音、鉦鼓の金属音が響き渡る。
 懐かしいはずがないのに、どこか懐かしい響き。
 この三ヶ月でこの音とはずいぶん親しくなった。
 今、六年の子たちはこの楽を楽しむ余裕はなかったはずだ。
「やー」
 空に溶けてしまいそうな、三十六人の声。
 右手に持った神楽鈴が涼やかな音を一斉に立てる。
 ミニ神楽が始まった。
 六年生の女の子全員が舞う神楽。背の高さも、髪型も異なる三十六人の巫女たち。
 三年前、転校早々に練習に参加させられ、一人で重点的にやらされた覚えがある。
「ター坊。わからなくなったら中央の円で舞っている絵梨香さんたちを見てもいいから」 
 そんな風に、あまり好きではなかった二組の先生に言われたことを覚えているけど。そうならないために必死だった。
 トン、トン、トン、トン。リズムに乗りながら、右腕、左腕、右足、右足、左足、左足、大きく回る。
 あの頃、心の中で、舞いの順番と型を一生懸命呟いてた。
 多分、この子達も一緒だと思う。中には一生懸命呟いてる子もいると思う。
 あの子うまい。
 中央の円で舞う子の中でも、絵梨香の妹の花ちゃん(パッちん留めの子)の舞は見事だった。
 それに比べて、外の円の髪の毛を二本に束ねた子の舞はいまいちだった。周りの人の舞を見て舞うようなことはなかったけど。
 あ、間違えた。右じゃなくって左足。
 そこは右。
 ミニ神楽は、御神楽のAとBの動きにターンを交えながら、隊列を何度も変えて続いてく。今にして思えば簡単だけど、あの頃は、嫌いな算数の文章題よりも、複雑で正しい答えがまったく見えてこなかった。
 そんな、私が、舞うのが好きになったのは、今に思えば、ミニ神楽の中であの感覚に包まれた時からだ。
 リズムと舞が重なり合い、何も考えなくてもいい、何も悩まなくてもいい、指先の一本一本まで舞に同化してゆくあの感覚。御神楽の練習でノっているときにも時々感じられるあの感覚。
 あ、また間違えた。
「そこは右手の返しから切り返す」 
 危なく声を出してしまいそうになった。
 さぁ、そこでターン。
 二本に束ねた子はリズムに乗り切れていない。
 あと少し、もう少し、そう、がんばれ。
 最後の隊列に変わって、フィニッシュ。
 境内に拍手の大雨が降リ注ぎ、手が痛くなるほど拍手をした。
「いよいよ、ター坊のお嫁入りが始まったぞ」
 隣でミニ神楽を見ていた(神主の)大原のおじさんがニヤニヤと笑う。(大原の笑いに貫禄をつけるとこうなるのかも。)
 え? お嫁入り?
 何かの聞き間違いかと思った。
「巫女は神様の一夜妻。つまりだな神様の愛人なのだ」
「はぁ」
 何と答えればいいのやら。
「巫女の舞いは、本来、ひたすら求愛する神様をはぐらかし、もったいぶる……」
「お父さん」
 初枝さんの声に、おじさんはびくッと体を震わせた。
「ごめんなさいター坊。父がまた変なことを言って。お父さん、早く御神輿のほうに行って」
 おじさんは、はいはいと答えて「じゃ、ター坊。リラックスリラックス」と肩を回しながら御神輿の方に歩いていった。
「はぁ」
 としか言えなかったけど、つられたように肩を回すと、体がいつもより固くなっていたことに気がついた。
「毎年こうなんだもの。若い子見るとすぐああなんだから」
 初枝さんの鬼の顔が今も見えているような感じがして、ははは、としか笑えなかった。
「でも、そんなことよりも、今年のミニ神楽は、なかなかだったでしょ。とくにあの野々原さんはすばらしかったわ」
 初枝さんは、眼鏡をかけた母親と話している子(花ちゃん)を指差した。
 初枝さんの言うとおり、花ちゃんの手の伸び方、足の動き、リズムの取り方は、どれを取っても際立って上手だった。
「今年は根性なしばかりだったけど、あの子達が中三になったときはものすごく楽しみよ」
 聞いた話しだと、練習途中でほとんどの子が逃げ出してしまったのは、長いお祭の歴史から見ても初めてのことだったらしい。ただ、絵梨香の名誉のために言わせて貰うと、彼女は練習に出たくても出れない事情があった。自転車事故で足を骨折してしまい。ギブスが取れたのは、ついこの間のこと。
 急に、何かが思い浮かんできて弾けた。
 それが絵梨香の笑顔になる。
 絵梨香は、何であんなに素直に喜べるんだろ?
 私が巫女に決まった時。松葉杖をついて練習を見に来ていた絵梨香は、自分のことのように喜んでくれた。
 でも、絵梨香のほうが絶対に上手だった。
 絵梨香は週二でバレエを習っているだけあって、はじめての練習の時から際立っていた。
 小六の時も上手だったけど、一回目の練習の時から代表に選ばれることが決まっていたようなものだった。
 ここで生まれ育った絵梨香にとって、御神楽は特別な意味を持つはずなのに。
 なぜ、自分ではなく、よそ者の私が代表に選ばれたのに、あんなに素直に喜べるのだろう。
 あっ。
 絵梨香がこっちに気がついて、手を振って駆け寄ってきた。
「こんにちは、初枝さん」
「こんにちは」
「ター坊、その巫女の衣装すごく似合っている」
「そ?」
「御神楽がんばってね」
「う、うん」
 絵梨香の笑顔に、何かひどい嘘でもついているかのような気持ちになった。
「絵梨香……」
「何?」
「ううん。なんでもない」
「クラスのみんなでター坊のこと応援するから」
 なんで、そんなことを本気で言えるんだろ。
「絵梨香、やっぱり……」
 今、言いたかった言葉が、何だったのか、結局、分からなかった。
 青年団の髭団長の咆哮が、すべての音をかき消した。
「よーし。お前ら行くぞ」
 その空にまで届きそうな吼え声に合わせて、響くような「オウ」の声とともに、神輿が持ち上がる。
 祭囃子の笛の音が境内に流れ、威勢のいい太鼓が響く。
 よやさ、よやさ、よやさ、よやさ。
 法被姿の男の人たちの何度も吼えるような声と、見物客の独特なリズムの囃子声、拍手の中、神輿が踊るかのように境内から鳥居をくぐり、石段を下っていく。
「次、大原君たちよ」
 と、絵梨香は法被姿の大原を指差した。  
 いつもの大原と違う大原がいた。
 クラスメイトの男、全員そうだった。
 紺色の法被を着たいつもの馬鹿連中。でも、今日はなんとなく、カッコよかった。(乱闘騒ぎになってしまった体育祭の騎馬戦と似ていたことに後で気が付いた。)
「六中神輿、行くぞ」
 大原の大声に、
 六中三年生の三十二人が叫ぶ。二基目の神輿が上がる。
 若い叫び声の中に、宮坂の甲高い声も混じっていた。 
 神輿を担いだ大原と一瞬、目が合った。 
 いつものニヤけた感じじゃなくって、真面目な顔。
 野球部のキャプテンの時の顔。
 がんばれって言いたいの?
「じゃあ、私、大原君たちを見に行ってくるから。がんばってね」
 絵梨香は両手で握り締めた。
 結局、絵梨香に何も言えなかった。何が言いたかったのか、よくわかっていなかったけど。
「ター坊。本番をはじめましょうか」
「初枝さん」
 何を言いたいのかわからないまま、初枝さんに声をかけていた。 
「どうしたのター坊」
 初枝さんは袴の腰に手を当てて覗き込むように見た。 
 何も言葉が見つからない。 
「なに?」
 私、御神楽をやりたくありません、という言葉がみつかった。でも、本当にそう言いたいのか、わからなかった。だから、
「なんでもありません」
 と、うやむやにしてしまった。
「そう」
 もし、そのまま初枝さんが歩き出さないで、もう一度聞いてくれたら。きっと、今度は御神楽を断った。
 一度、初枝さんは振り返って、
「あ、そうそうター坊。あなたの顔に御神楽をやりたくありませんって書いてあるわよ。でも、そんなの却下だから」
 あんまりにも呆然としてしまったからだろうか。
 初枝さんはくすくす笑って、
「ター坊みたいに当日になってやめたいって子、少なくないのよ。緊張のあまり過呼吸になっちゃう子までいるんだから」
 勝てない。この人には勝てそうにない。
 でも、やめたいことを否定する気にもなれなかった。
 やめたくないと、やめたいが、蔦のように絡み合っている。
 でも、もし、心の中の言葉にもならないことを言うくらいなら、何も言ってはいけないと思った。


 気持ちとは関係なく、儀式は進んだ。
 禊が終って、髪を水引と呼ばれる白い繊維紙で飾り付けて一本に結んだ。
 大原のあばあさんは、ウィグを使わなくていいと、喜んでくれたけど。髪の毛を伸ばしていたのは、この日のためではなく、つまらないこだわりがあったから。
 小学校の頃。いつかは帰れるんじゃないかと思ってた。
 六年生なのだから、大人たちの空気もわかったけど。
 でも、帰れると思ってた。
 だから、帰れるその日まで切らない、そう決めていた。 
 休部状態だった天文部に入ったのも、最初は興味よりも、天体望遠鏡で故郷の太陽を眺めるため。
 最近ようやくわかってきた。帰れる確率なんかまったくないことが。
 ここは、本当に美しい世界だった。けど、故郷じゃない。
 空気も、
 風も、
 雨も、
 森も、
 すべて似ているようで、みんな違う。
 何か言葉にはならないものが胸の中で暴れた。
 それを言葉にする必要があるのかもわからなかった。
 遠くの方から、風に乗って御囃子が聞こえる。
 こんな気持ちのままでも、神輿が帰ってきて御神楽を舞えば、すべては終わりになる。 それでいいの? 
 何をしたいんだろ。
 何を言いたいんだろ。
 逃げてしまおうか? なんてこと考えてしまったけど。その考えには魅力がなかった。「ター坊。お疲れ。あとは神輿が御霊をお連れするまで何もないわ。水でも飲む?」
 初枝さんが私の顔を覗き込むように見た。
「何も口にできないって、おばあさんが」
「水と塩だけはなぜか別」 
 なぜ塩? そう思ったけど口にはしなかった。
「ねぇ、ター坊。知ってる?」
 そんな風に聞かれたら「知らない」と首を横に振るしかない。
「御神楽がどれくらい古いのか」
 また首を小さく横に振ると、初枝さんは言葉を続けた。
「神話時代らしいわ」
 初枝さんは肩をすかした。
「人の世界よりずっと、ずっと前の話。四千五千じゃきかないほど昔なのだから、その間に、御神楽も祭の形も絶対に変わっていると思わない?」
 想像のつかない話だけど。でも、そういう話は嫌いじゃなかった。
 遠くの星が輝いて、光が宇宙の闇の中を旅する間に、どれだけのドラマがあったのだろうか? 
 どれだけの人や人の思いがあったのだろうか? 
 そういうことを考えるのは好きだった。
 初枝さんの質問には、「そうですね」と素直に答えた。
 初枝さんは、珍しく、「ちょっと、怒らないで聞いて欲しいけど」と、前置きをしてから、
「ター坊。あなたの今の気持ちで、御神楽を奉納するのは正しいことじゃないかしら」 
 怒らないで、と前置きをされていたのに、初枝さんの言葉に、言葉が弾け出そうになった。
「ター坊。この神社の最初の御神楽がどうだったのか、想像できる?」
「え?」
「一番最初の巫女は何を想って舞いを奉納したと思う? 十年前の十和子さんは? 去年のミホピーは? わからないでしょ?」
「……でも、だからって」
 ……こんな気持ちのままでいいわけない。 
「ター坊は、ター坊よ。今の自分の思いを大切にして」
 その言葉に息を飲んだ。
「それが、なんだかわからないのに」
「大丈夫。ター坊は自分の気持ちがわかってる。少なくとも、ター坊は舞うのが好きでしょ?」
 初枝さんは、答えを待つように、待っていたけど。
 結局、何も答えられなかった。
「好きという思いを大切にして。それで十分だから」
 御囃子が、今ははっきりと聞こえた。
「さ、ター坊行くわよ」
 まともに返事もできないまま立ち上がった。

  ◇ ◇ ◇

 よく倒れなかったと思う。
 今はもう、境内に御囃子の声も楽も聞こえない。かがり火の中で薪が燃える音と、鳥の声が遠くの空に聞こえるだけだった。
 境内の中央に立って、神楽鈴を振る。 
 空へ、地面へ、周りの人々へ。 
 体が重い。まるで自分の体ではないみたい。
 取り囲むかのように立つ、町の人の顔、顔、顔。
 境内は夕闇に包まれて、知っている人の顔でも判らないはずなのに、すべての顔が見えた。
 父さんと母さんの顔も見えた。
 正面に向き直った時。宮坂、絵梨香、大原の顔が見えた。
 宮坂の色白の顔が、さらに白くなったように見える。
 絵梨香は動き一つ一つに、笑顔でうなずいてる。
 大原は何か苦いものでも噛んだような顔だった。
 ダメだ。私。
 鉦鼓の甲高い音が境内に鳴り響く。最初の一歩を踏み出す。
 ダメ。 
 手首を利かせて、神楽鈴を振るうけど、もう手首に力が入らない。立てない。
「ター坊。一気にやっちまえよ。やっちまったモン勝ちだぜ」
 境内の中に空気が流れて行く。
「ター坊がんばって」 
 私の中で何かが満ちてくる。次の二歩目は、ざわめきの中、正確に踏み込んだ。
 何が起きたのか私にはわからなかった。
 鉦鼓の音も、太鼓の音も、突然聞こえなくなった。
 でも、Aの型とか、Bの型とかじゃなくって。体が、まるで生まれる前から知っていたかのように舞いを舞いはじめる。
 今は、町の人全員の顔がわかる。
 声を上げた大原と宮坂に何か言おうかと、眉毛を吊り上げるおじいさん。
 驚きの表情になるクラスメイトの木村。
 その隣で、大原たちの顔を見る絵梨香。 
 涙を浮かべてる宮坂。
 怒ったような鋭い目のままの大原。
 かがり火がものすごくゆっくり燃えている。炎を吹き出すかのように燃える薪の姿も、炎の先端が踊るような姿も、はっきり見える。
 境内の石畳。古く割れている物。荒々しく削りだしたときの傷を表面に残す物。雨水がたまり緑に苔むした物。すべてが輝き。輝きが溢れ始める。
 瓦葺の正殿が、空を貫くような杉の大木が、その間から見える様々な紫に染まった雲と茜色の空が、すべてが輝いていた。
 嫌なことも、悩んでいたことも、すべて輝きの中に溶けていく。
 石畳を踏む足の指先。神楽鈴を振るう手首。空へと伸ばした指先。目にすら力が宿って輝きだしてるのがわかる。
 私、笑ってる。
 急に耳が聞こえるようなったけど。楽の調べは今まで聞いたどんな曲よりも心地がいい。
 何かに包まれる感じ。
 私を受け入れてくれるの?
 ねぇ、私を受け入れてくれるの?
 最後の石畳に伏せる時。この星が見えたような気がした。
 六年生のとき救護船から見た。海の蒼さと、大地の碧さ、雲の白さが心の中に鮮明に浮かび上がる。
 静けさを破るかのように、すごいビートの拍手が起こった。
 少し遅れて、もう一つの大きな拍手と歓声。
 その二つの拍手が広がっていくかのように、だんだん大きくなる拍手の雨に、私は包まれた。


  そして
 
 文化祭前準備の騒ぎって、すごく好きだった。
 文化祭そのものより、実はこっちの方が楽しいのかもしれない。そう思うのは、邪道かな?
「宮坂そっち押さえといて」
「はい」
 宮坂が模造紙を押さえてくれたところで、画びよを刺した。
 六中天文部最後の出し物は、例年通り、廊下の掲示だった。最初、宮原がVDRを借りて上映会をすると言ったけど、それは全力で却下した。
 今どき、天文に興味を持つ人は本当にいない。
 もし、VDRと上映する教室まで借りて誰か来るのを待っていたら。誰も来てくれなくって、宮坂じゃなくても泣いてしまいそう。
 それで、例年通りの廊下での掲示にしたけど。少しは興味を持ってもらえるように、ということで。今年は明けの明星で知られる第三惑星〝敦〟と月のレポートにした。
 小学校六年生の時の、朝の観察会を覚えている人がいれば、興味を持つようなレポートになっ……てないかもしれない。
「なになに、第五惑星軌道にあった敦は、十六億五万年前に、相対速度45km/s質量7.35e22 kgと推測される小惑星との激突を受け、その約42.5%が失われ今の形となった……。わかりにくい文章だな。これター坊が書いたのか?」
「ひどいよ。大原君」
 宮坂がすぐに泣きそうな声を上げた。
「宮坂か」
「そ、私が清書したの。手伝わないのなら、あっち行ってって」
 大原は暇だった。引退しているから部活の出し物には口しか挟めないし、クラスの出し物は喫茶店で、大原のようなタイプはパネルの運び込みが終れば用済みだった。
 よーするに、完璧な暇人だった。
「わかった、そこまで言うなら手伝ってやる」
 何も言ってないけど?
「これ張るのか。押さえててやるから、さっさとやっちまえ」
「ありがとう。大原君」
「ありがとう大原君」
「ター坊、似合わねぇ」
 そうでしょうとも、どうせどうせ。 
「そういえば」
 大原と宮坂にはまだ、ありがとうを言っていなかった。
「な、何だよ。ター坊。俺の方じっと見て」
 大原が珍しくひるんだ。
 あ、これおもしろいかも。
「ありがとね、二人とも」
 一年前、大原に告白された(超能力者でもないと普通、告白されたなんて気がづかないような告白の)ことが気になりだしてる私がいた。

 でも、
 この直後。
 宮坂からもコクられて、大原がパックリ口を開けるのを見ながら。
 それに、グラつく私もいるわけで……。


  さらに、そして

 荷物の無くなった部屋は広くなったはずなのに、なぜかものすごく小さく感じた。
 所々に残る十一年間の生活のあと。掛け時計や絵を外されて日焼けを隠せなくなった壁紙は思ったよりもずっと汚れていた。
 いつものカーテンのない窓は少し寂しげに見える。
 自分の部屋を出て階段を下る。二階から降りる踊り場の壁にかかっていた少し怖い感じの達磨の絵は、そこにあったことを示す壁紙の色の違いを示すだけで、なくなってしまっていた。
 こいつのおかげで、夜トイレ行くのがどんなに怖かったことか。
 玄関には、下駄箱も傘立ても、今はもうない。
 家を出て主道まで歩いてみる。
 私の生まれた街。
 ほとんど直線の主道を中心に、直線の支道で編み目に区切られた小さな街。
 十一年間育った私の街。
 今はもう静まりかえっている。
 車や自転車の姿を見ることはない。
 紅い三輪車に跨って果敢に飛び出してくるカズ君姿は、もうない。
 うるさく吠える角の黒犬の姿も、もうない。
 けれど、主道はいつものように地平の果てまで伸びていて、空は高く。何よりも青かった。
 友達と遊ぶときの集合場所だったスーパー。その前にキリンの黄色いケースが乱雑に積まれているのが、せめてもの私たちがここにいた痕跡。
「果穂」
 その呼び声に、胸を氷で突かれたかのような冷たさを覚えた。
 振り向くと、小学生の時の友達がいた。
 琢己くんたちだ。
 そっか、私、あの頃あだ名がなかったんだ。
「夕日見に行こうぜ」
 尚や、麗もいる。
 そう言えば、小学生のころ、みんなでよく夕日を見に行った。
 主道を歩いて街を出ると。緩やかに波を打つ大地に、どこまでも牧草地が広がっていた。
 春夏秋冬。夕日はいつも違う。 
 私は、秋を迎えたころの夕日が一番好きだった。
 大地も空も、すべてが燃えるのだ。
 真っ赤な日に照らされて、すべて真っ赤に。
 背後に、真っ青な夜が忍び寄ってくるのを見ながら、怖いぐらいの赤に覆われて、熟れたトマトのような太陽が、大地に沈んでいくのを見るのが好きだった。 
「ター坊」
 控えめに、呼ぶ声がした。
 わかってる。
 琢己君達にはついていかない。
 ついていくことは出来ないし。
 ついていってもどうしょうもないもの。
 私の目には、手のひらの先。空を貫くような杉の隙間から見たあの夕暮れが焼き付いていた。
 様々な紫に染まった雲と茜色の空が輝いている姿。
 私は夕暮れの中にいる。
「ター坊」
 今度は野太い声。
「しつこいなぁ、もう」
 そう言ってしまって後悔した。
 頬は火が出てもおかしくないほど熱くなり、全身は一瞬で凍り付く。
 クラスはストーブの燃える音が聞こえるほど静まりかえっていた。
 タマネギのような髪型にまとめた年配の女性教師と目が合う。
 タマネギティーチャーは、明らかにわざとらしいため息をつきながら、目線を黒板に戻した。
 チョークの音が彼女の想いを代弁するかのように不機嫌にこだまする。
 私は申し訳なく思い。心の中だけでタマネギティーチャーに謝った。 
 でも、多分、彼女も諦めているのだろう。
 クラスの中はまだ遠い春のぬくもりにも似た空気そのものだった。
 クラスの三分の一が先月の特色選抜入試で進路を決めていた。今日は、第三高校の一般入試のため、クラスの残りがいなくなっている。
 今や授業は、おまけでしかなかった。
 流石に授業中おしゃべりすることはないけど。どこか生暖かいような雰囲気の中。黙々と授業を進めるのはタマネギティーチャーの意地に他ならない。
 生徒たちは、この引退直前の先生を善良なお婆さんのように思っているとこがある。だから普段の授業でも邪魔をすることはない。今日もまた、善良なお婆さんが意地を通すのに、積極的な協力はしなくても、進んで邪魔をすることはなかった。
 むこうも、多分それを知っていて(あきらかな授業妨害でない限り)怒ることはない。
 今日は、そんな雰囲気にすっかり迎合してしまっていた。
 雪のため白い光を投げかける窓の方を向いた。
 きっと声を出さずに笑っているだろう大原と宮坂の顔を見るために。
 あ。
 そうか、第三高校の一般入試。
 胸の奥で小さく波が揺れたような気がした。
 空っぽの席は、心の奥底の不安か寂しさなのかは、よくわからないものを揺り起こす。
 あれだけ勉強したんだから絶対に大丈夫。大丈夫。
「落ちないでよ。みんな」
 新しく春が来たら、みんなで同じ高校に行くのだから。
 あくびが一つ洩れた。
 睡魔がどこからかやってくる。
 タマネギティーチャーには悪いけど。 
 逆らわず。そのまま眠りに身を任せていく。

夕暮れの惑星

初出 04年5月

遠未来SFのつもりで書いたらファンタジーだと言われ納得。
ター坊の巫女のそれは、ピークエクスペリエンスという言葉で解釈を付けることが出来ます。

イラスト:藤池ひろし 『Fantasica』 http://www.fantasica.org/

夕暮れの惑星

ター坊と呼ばれる少女は巫女に選ばれて御神楽を舞うことになった。 イラスト:藤池ひろし 『Fantasica』

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 青春
  • SF
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2012-11-10

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

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