聴牌

iiiii

聴牌

 配牌(ハイパイ)ですでに立直(リーチ)になっていた僕だが、そろそろ終局になるにも関わらず、なかなかあがれないでいた。
 彼女はワイン数杯でまともに歩けなくなるくらい酒には強くないが、僕のペースに合わせてビールを飲むので頬もいくらか赤くなり、いささかボディタッチも増えてきた。その度に僕は平然を装うも内心は動揺しており、女性経験のない男子高校生ではあるまいしいちいち過度な反応はしなかったものの、本気で彼女のことが好きなゆえに、彼女がリップクリームを塗りに一旦席を外して戻ってきたときに毎回のように肩に手を置かれるので、それだけで鼓動が一瞬にして速くなり、それがものすごく不愉快で、同時に愉快でもあったので、僕の感情はひどく錯綜していた。
 帰ってきた彼女の唇は席を外す前より赤くて、艶があった。その真っ赤に近いルージュは色白な彼女の顔を際立たせるのに従事するだけでなく、そのルージュの色は僕を意識して選んだのだろうかなんて、僕を今まで以上に虜にさせるので、非常に厄介な協力者でもあった。
 彼女はおまたせ、と言って僅かに首を傾げてはにかむように微笑んだ。大抵の女性なら僕と数回ほどデートするだけ落とせるが、幾度とデートを重ねても彼女を一向に落とせる気配がなかった。男は自惚れる生き物であるが、しかし今日の彼女の男を意識した清楚なワンピースといい、頻繁に前髪をいじる仕草といい、見る目もやけに色気を感じるので、さすがに今日こそ、彼女を自分のものにできる自信しかなかった。
 「会計済んだから出ようか」
 「え、払ってくれたの?ありがとう。今度は私が払うよ」
 「いいって。今回の会計、俺じゃなくて知らないおじさんが払ってくれたから」
 彼女は目を丸くさせるも、すぐに目を細めて、再び微笑んだ。その仕草がわざとだということは重々承知しているが、それでも二返事で許してしまうくらい、彼女の笑顔に価値があった。実際のところ金銭の余裕は微塵もなかったが、僕は彼女の笑顔が見たくて、こんな風に席を外している間に会計を済ませた。そのあともユーモアを織り混ぜることで気を遣わせないようにし、ついでに彼女の笑顔も二度見れるので、この立ち回りはスマートであり、男として正解の行動だと思う。
 「聖也って優しいよね」
 「当たり前でしょ」
 惚れた女だから、なんてキザなセリフは到底言えないが、他の女性と比べて贔屓しているのは事実だった。
 僕はスマートフォンをポケットにしまうと、すでに準備ができていた彼女に目配せし、店を出た。店から駅までは歩いて5分ほどかかるので、その間に雰囲気を作っておきたいが、僕としたことが彼女と長らく話してしまい、終電が近いことに気づく。告白は次回に持ち越したほうがいいことはわかっているが、お互い忙しくなる前に告白はしたい。彼女は今、資格を取るのに必死で毎日バイトと並行しながら徹夜で勉強しているのは知っている。今回のデートで告白しなければ、彼女と次会えるのがいつになるかもわからない。その間に他の男に取られてしまうなんてことも考慮して、若干ムードには欠けるものの、彼女と別れる前に告白するのが聡明な判断だ。
 「今日、楽しかった?」
 「うん、とっても。いい息抜きになったよ」
 「こちらこそ。璃子、もうそろそろ帰る?」
 まだ帰りたくない、と甘えてくれるかもしれない。彼女の色白な頬はすでに桃色に染まっていて、目も少しばかり焦点が合っていないようにも見えた。もしかしたら今日はあるかも、と淡い期待を抱くも、彼女はそんな軽くはなく、急いで終電の時間を調べていた。
 「そうだね。あ、もう少しで終電が来るみたい」
 彼女の目線の先にあるディスプレイには「桜木町→阿佐ヶ谷 0:33」と映っていた。今は25分なので若干余裕はあるものの、彼女は待ち合わせの15分前には必ず到着しているほど時間にはルーズではないので、そろそろ別れるべきだろう。
 「あ、ちょっと待ってね、このLINEだけ返しちゃうね」
 そう言って真剣な面持ちでディスプレイを睨みながら、黙々とメッセージを読む彼女の顔を横目で見ていると、次第に体中が火照ってきた。まぶたはLUSHのシンクピンクのバスボムみたいに優しい桃色の上にラメが輝いていて、視線を少し下げたらビューラーで丁寧にカールされている、長くて柔らかいまつ毛が蝶のようにパタパタと動くので、そのままでも綺麗な平行二重をより一層目立たせた。細い鼻筋の線は綺麗な曲線を帯びていて、鼻先に小さくあるホクロも華奢な鼻筋にアクセントをいい塩梅に加えている。僕は真っ赤な唇とは対照的に白く滑らかな彼女の肌を、今すぐ強引に触れたいという衝動に駆られた。たびたび彼女のフローラル系のコロン香りが僕の優しく鼻をかすめるので、火照る頬を彼女に見せないように俯くも、彼女の胸元は大きく開いているのでどうしてもそこに視線がいってしまうのは下心を隠せていない証拠だろう。ここで発情するのは紳士ではない。思えばお互いに忙しくなる前に告白しなくても、もう少し時間に余裕がある時に最高の環境を用意して告白したほうが成功するかもしれない。もしかしたら僕の告白したくてたまらないこの気持ちは、本当に彼女を愛しているからで違いないが、根本は彼女に今すぐ触れたくてたまらないから、簡単に言えば発情してるからであるとも言える。
 「ごめんね、終わったよ」
 思い立ったように彼女の胸元から目線を外した僕は、駅前で肩を組みながら楽しそうに話している中年男性の団体を眺めていると、隣から彼女の声が聞こえ、目線を彼女に移した。
 彼女はバイト先の店長から送られてきたLINEの内容に対して文句があるみたいで、だらだらと愚痴を話していたがこの際どうでもよかった。しかし僕は彼女の話よりも、斜め後ろにある外灯に照らされた彼女の顔のほうに夢中だった。白く滑らかな肌が綺麗で、触れたこともないのに柔らかいのがわかった。今すぐ彼女を僕のものにしたくて、僕だけを見ていてほしくて、僕だけが滅茶苦茶にしたくて、僕なしじゃ生きられないようにしたくて、たまらなくなった。
 僕は彼女の細く折れそうな手首を、思いきり掴んだ。
 「あのさ。まだ一緒にいない?」
 彼女が唾を呑んだのがわかった。僕は急いで掴んだ手を離す。
 「ごめん、ここで。ずっと前から好きだったから」
 「だからまだ、璃子と一緒にいたくて」
 目を逸らしたら負けだ。逸らしたら本気ではないと思われてしまう。僕は彼女の目を、アーモンド色のカラーコンタクトを、ただひたすら見つめた。
 「ありがとう」
 嫌な予感がした。一瞬にして心のうちに黒いもやがかかった。
 「でも、ごめんね。私ね、聖也にはまだ言ってなかったんだけど......彼氏ができたの」
 「え?」
 「今日はそれを伝えに来たはずなんだけどね」
 これ以上、なにも言わないでほしかった。
 僕に気を遣って申し訳なさそうに目を逸らす仕草も、夜に聞けばよく眠れそうなその落ち着いた声も、なにもかも、すべて自分のものにしたくて、僕だけを見ていてほしいのに、彼女が"名前も知らない男と愛し合っていた"という事実をぶつけないでほしかった。それにもかかわらず、僕は矛盾して彼女の返答を待ち望んでしまう。
 「来たはず、だけど?」
 「だけどね、聖也と一緒にいるとやっぱり楽しくて、忘れちゃってた」
 ああ、そうか、全部わかってしまった。
 恋は盲目とはよく言うが、彼女のことが好きだった僕は本当にその通りの様であり、自分で自分を恥じた。彼女のどんな言動も、身悶えするほどすべてが愛おしくてたまらなかったが、ほとぼりが冷めてしまった今、僕は彼女に対して初めて否定的な感情を抱いた。
 彼女は卑怯だった。結ばれるはずだった僕を振った理由に二通りの考えがあるが、彼女がどちらを選んだとしても、僕は彼女に対して見損なう他なかった。一つ目は彼女が僕のことを好いてない場合で、明らかに好意を向けているとわかっている相手に対し、完全に突き放すのではなく、むしろ相手に甘い言動を与えることで虜にしたまま、好きな人と結ばれたら即座に突き放し、結ばれない場合は妥協して相手を選ぶか、寂しさを埋めるために利用するという、いわゆるキープという魂胆である。このケースは一概には言えないものの、多くは半年で熱が冷めるか、セックスフレンドになるかの二択に終わる。妥協して得た愛には、妥協するほどの価値しかない。僕はそんな恋愛を望んでもいないし、むしろ毛嫌いした。二つ目は彼女が僕のことを好いている場合で、このケースは好きである対象が複数人いることが多く、これも一つ目と似ているが、簡単に言えば誰が先に告白するかで決まるという早い者勝ちの型である。
 彼女はもっと純粋無垢であると信じていたが、所詮人間である以上根本は堕落しており、僕のことを掌で転がして面白がっていた、そういった曲がった性分には違いなく、僕は恨むもなにも自分がまるで餌を求めている鯉のようで思えてならなく、非常に情けなかった。
 僕はひとりになりたかったので一緒に終電に乗らずに駅で彼女を見送ると、彼女と歩いた道をもう一度ひとりで歩いた。
 彼女のことを意識し始めたのは高校二年生だった。僕と彼女は同じクラスで、図書委員になった。当時の僕はかなり陰気だったので友人は一人としておらず、おまけにたいして誇れるようなスペックもなかったので常に孤立していたが、そんな僕に唯一笑顔を向けてくれたのが彼女だった。僕は何年も前から好きだった彼女の隣にいつまでもいたいがために、食事制限と運動を継続することで大幅な減量に成功し、その後も大学受験と並行して自分磨きを怠らなかったので、卒業式には何度も告白されるまでになったのは、僕の手に入れた誇れる部分ではあった。大学入学後は新しくできた友人たちに何度も合コンに誘われ、そこで異性に慣れ、どんな女性でも高確率で落とせるほどのスキルを手に入れたにも関わらず、大学四年生になってもなお、肝心な彼女のことは落とせないままでいた。そしてこの日のためにインターネットの記事や口コミを駆使して夜な夜な組んだデートプランも、染め直して透き通るような金色になった髪をいつもより丁寧にセットしたことも、セレクトショップで働く友人にコーディネートしてもらった服装も、予想に反して上手く事が進んだデートも、なにもかもがあの一瞬で水の泡になり、僕はいつまで経っても呆気に取られていた。
 観覧車のネオンが、かき氷の上に何種類ものシロップをかけたように、くどくてうざったかった。一度偵察で来たときはひどく感動し、彼女と一緒に乗ろうと決めた、あの時の自分のほうが彼女よりもよほど純粋無垢だと思った。人を信じることは、時には傷つけられるのだと改めて再確認した瞬間でもあった。
 彼女のために取っておいた「初めて」も、もうどうでもよくなって、無性に誰かを抱きたくなった。なにもかも思い通りに女を操りたくてたまらなくなり、僕は出会い系アプリをインストールして、片っ端からなんの思いもない「いいね」を送った。男のくせに通知が多いことは自尊心を満たすためには丁度よかったが、それがやけに虚しくて、なにより寂しかった。
 海辺のベンチに腰掛け、ポケットからジョン・プレイヤー・スペシャルの箱を取り出すと、ジッポーライターで先端に火を点し、肺に深く煙を入れてすべて吐き出す。観覧車のネオンに白いもやがかかり、いい気味だった。
 通知が鳴り止まないのでオフにすると、いけると思った女に適当に返信し、何人かと飲むことになるも、飲んだあとにお持ち帰りすることはこの出会い系アプリの暗黙の了解だった。外見だけで物を判断し、自分の身を一時の欲のために捧げる彼女たちは、つくづく頭が弱いなと思った。頭が弱い、というよりも自暴自棄になっていて、むしろ哀れむより救ってあげたく、可哀想に思えた。そしてこんなやつらの相手をしようとしている自分自身も同レベルなので、ダサくて格好がつかなかった。
 「やられたな」
 今日は駅で待ち合わせした時から僕の勝ちは確定していた。みなとみらいのなにもかもを把握し、身なりも自分の最高を極限まで引き出し、彼女との会話も、彼女に対する行動も、何度も彼女の心を掴んで、たまに離したりして抑揚をつけ、最後に告白することで僕は綺麗にあがれるはずだった。配牌で立直とはこのことだ。しかし局の最後で違う男に河底撈魚(ホウテイラオユイ)であがられるとは思いもよらなかった。最後の最後に僕の捨て牌でロン上がりされ、しかもその役が役満であり、対照に僕はいつまで経っても聴牌(テンパイ)のままで、挙げ句の果てに大量の点を失った。この世は無情と椎名林檎も歌っていたが、今、身をもってその無情を体験できたことを、皮肉を込めて彼女に感謝したい。ありがとう、君はたいした女だ。
 僕は改めて自分の詰めの甘さに落胆し、静かに敗北を認めた。

聴牌

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  • 恋愛
  • 青年向け
更新日
登録日 2020-07-08

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