何千回思い出す度に

何千回思い出す度に

若すぎて未熟な私達には超えられないあまりに沢山の問題が二人を取り巻いてた。
同じ同和問題で悩み苦しむ若い恋人達のために私にできることはないか。今でも、その事を考えない日は無い。

毎年春になると思い出す。京都の賀茂川の川べりの草の上でパンを一緒に食べた。
春風の薫りとパンの甘い匂いが私をとても幸せな気持ちにしてくれた。

でも、彼女の横顔はとても難しい表情だった。理由はわかる。私もその事を考えると辛かった。

その年の夏、高校野球の決勝戦で川西北高が優勝した日、東京まで来てくれていた彼女が大阪に帰るので、新幹線のプラットホームで、二人新幹線を待ちたたずんでいた。

突然、彼女が切り出した。「ひろし、今まで本当にありがとう。私、これで最後の東京にするわ。」私には唐突過ぎて訳がわからなかった。だが、彼女の顔は語り得ぬ疲れと諦めで、涙で目をはらませていた。

「私、ひろしの事ずっと忘れへん。結婚考えて、お父さんお母さん説得するの真剣に頑張ってくれたこと。ほんま、ありがとう。」と、涙ながらに話す姿がけなげで、やりきれないほどとても切なかった。

その見送りの帰り、日曜の夜、人気の少ない東京駅から八王子に帰る下りの中央線の中で、私は声をあげて泣いた。そして、世の中にはどうにもならないことがあるのだと悟った。

東京駅に「銀の鈴広場」というところがある。
私には思い出深い場所だ。

私が小学校に上がりしばらくしたころ、祖母は千葉の外房の白子町という海の近くののどかな農村に住み始めた。

白子町との所以は、太平洋戦争までさかのぼる。 当時、母の家族は浅草に住んでおり、私の祖父にあたる人は優秀で、旧制中学を卒業し警察官をしていた。 昭和18年~19年、太平洋戦争は激化し、空襲は本土まで達した。

祖母と、母と兄弟は、父を残し(戦争に招集されたため)、その白子町に疎開した。 その時から、祖母たちと白子町には縁があった。 まあ、そんなわけで、私が十になるころ、祖母と叔父夫婦は白子町で百姓を始めていた。

別に 私達家族は八王子にマイホームを構え家族4人で暮らしていた。

学校が夏休みに入ると母と私と兄の三人で祖母たちのいる白子町に三日〜四日で泊りに行った。

私は、毎年それが夏の恒例行事で一年の中で一番の楽しみだった。 田舎なので、クワガタやカブトムシがとれたり、昼間は海に海水浴に行き。また、従兄弟たちも 日程を併せて泊りにきていたので、にぎやかでとても興奮した。 その祖母の家での夏休みの数日は、私にとって最高に楽しい行事であった。

泊りに行く数日前から胸がはずんだ。あれをしよう~これをしよう〜。 このおもちゃをもって行こう。 おばあちゃんと何を話そう。叔父さんは、どこに連れて行ってくれるのだろうか。お小遣いはいくらくれるのだろうか。

でも、なにより、私にとって、その数日の滞在での一番の幸せは、大好きな祖母の近くに居られることだった。祖母の真っ黒に日焼けしていて、目じりに垂れさがる深く優しい笑いじわのある顔が私は大好きだった。

「ひろちゃん。」と祖母は私の事を呼ぶ。 一人で虫を追いかけていたり、一人遊びの好きな私が、うらの竹林で遊んでいると「ひろちゃん。」と、心配して見に来てくれた。 夕方になると、井戸水で良く冷えたスイカを切って食べさせてくれた。

夜は花火をしたり、ホタルを見に手を引いて用水路まで懐中電灯を照らし、連れて行ってくれたりした。 祖母は、決して怒ったりすることはなく、常に私たちの事を心配してくれていた。 それは、子供の私にもよく伝わってきた。 祖母のやさしい眼差しや、かすれた優しい声。 今でもすぐに脳裏に浮かぶ。

当時は私のうちには自家用車がなく、毎年毎年、八王子から外房まで、電車で4時間かけて訪ねて行った。

行きは、途中の東京駅の銀の鈴広場で、お昼を食べたり、昼寝したりして休んだ。外房線に乗りおやつを電車の中で食べたり、母と話したり、兄とふざけたりして電車での4時間を過ごした。

そして、3~4泊の祖母の家での滞在を終えて、また4時間かけて外房の祖母のうちから八王子まで帰った。 祖母と、叔父は見送りに、最寄りの駅まで車で送ってくれて、ホームで私たちを見送ってくれた。

帰りたくなかったけど、カブトムシやらお小遣いやら、買ってもらったおもちゃやら、沢山のお土産があったので 私はそれほど寂しくなかった。

ある年、見送りにきていた祖母が、眼一杯に涙をためていた。手拭いでしきりに涙を拭っていた。 例年は、そんな風に露骨に寂しさを露わにすることのない祖母だったのに、その夏だけはとてもとても悲しんでいた。私はそんな祖母を見ていられなかった。

今でも、その時の光景は忘れられない。 なぜ、あの年だけ祖母はあんなに泣いていたのだろう。 走り出した電車の車窓から見ても、祖母はまだ手拭いを顔にあてていた…。

祖母とのことで思い出で深いこと

もう一つ私の祖母の事で思い出に残るのは幼い私と二人で行った、よみうりランド、よみうりランド事件だ。それは、多摩地区にできたばかりの遊園地。学校の友達の先陣をきって行くことができる私は自慢気だった。

電車に乗り継ぎ、遊園地に近づくほどに増えていく音楽や、同年代の子供たちの笑顔に、ときめき興奮した。しかし、遊園地につき、いざ発券場に並んだ祖母は貧血を起こして突然倒れてしまった。

救急車がきたりして、応急処置を受けたりした。大事には至らなかったものの、結局、遊園地には入れず、遊園地の医務室のベッドに横たわり、真っ青な顔をした祖母は「ヒロちゃんごめんね」と謝っていた。
私は悔しくはなかった。「またこようよ、おばあちゃん。」
祖母は静かにうつろに、一回だけうなづいた。結局、祖母とよみうりランドに行く事は叶わなかった。

そんな祖母が亡くなる少し前に病院でその事を思い出してつぶやいた。「ひろちゃん、よみうりランド行けなくてごめんね。」「ああ。懐かしいねおばあちゃん。」

私も忘れかけていたその事をふっと脳裏に鮮やかに思い出してしまった。そして、そのことが、そんな些細な事が祖母にとってずっと、気詰まりだった事に気づかされた。人間の思い出とは、時になんと残酷な事か。

その日の、私と微笑んだ写真を見て思った。 祖母は遊園地でもどこでも良かったのかもしれない。歩けるうちに、最後に孫の私と何処かにいければそれがどこであろうと。


そんな私も大学を卒業し、社会人になり国家公務員として大人になろうとしていた。

今から十数年以上前の話。

当時ひょんな事で出会い、就職前から付き合っていた関西人の彼女がいた。私にはほとんどはじめての恋人で、 愛されることの幸せも愛することの幸せも、みんなあの人が教えてくれたような気がする。明るくて、笑顔が可愛くて、優しい人だった。

年上の姉に近い感じの恋人だった。色々な手ほどきを受けた私にはマドンナ。
そんな彼女と、大阪と東京で遠距離で付き合っていた。彼女が東京にくる時、二人はよく、東京駅の銀の鈴広場で待ち合わせた。

まだ真冬の寒い季節、私は寒がりの彼女のために缶コーヒーをカイロがわりに買ってまっていた。その缶コーヒーを毎回彼女はとても喜んでくれた。

社会人になって初任給で彼女にプレゼントをしたこと。本気でお互い結婚を考えていたこと。

しかし、ある時、告白を受けた。彼女は同和地区出身者なのだと。そして彼女が同和地区出身者だから、差別問題で、両親には結婚を猛反対された。

若すぎて未熟な私達には超えられないあまりに沢山の問題が二人を取り巻いてた。
同じ同和問題で悩み苦しむ若い恋人達のために私にできることはないか。今でも、その事を考えない日は無い。

毎年春になると思い出す。京都の賀茂川の川べりの草の上でパンを一緒に食べた。
春風の薫りとパンの甘い匂いが私をとても幸せな気持ちにしてくれた。

でも、彼女の横顔はとても難しい表情だった。理由はわかる。私もその事を考えると辛かった。

その年の夏、高校野球の決勝戦で川西北高が優勝した日、東京まで来てくれていた彼女が大阪に帰るので、新幹線のプラットホームで、二人新幹線を待ちたたずんでいた。

突然、彼女が切り出した。「ひろし、今まで本当にありがとう。私、これで最後の東京にするわ。」私には唐突過ぎて訳がわからなかった。だが、彼女の顔は語り得ぬ疲れと諦めで、涙で目をはらませていた。

「私、ひろしの事ずっと忘れへん。結婚考えて、お父さんお母さん説得するの真剣に頑張ってくれたこと。ほんま、ありがとう。」と、涙ながらに話す姿がけなげで、やりきれないほどとても切なかった。

その見送りの帰り、日曜の夜、人気の少ない東京駅から八王子に帰る下りの中央線の中で、私は声をあげて泣いた。そして、世の中にはどうにもならないことがあるのだと悟った。

その彼女を呆然と立ち尽くし新幹線を見送ったのが、結局、彼女との最後の別れになってしまった。

十数年の歳月は、二人の間の色々な記憶を蝕むが、一末の無念があの悲しい恋愛に十年の歳月を経てもなお、風化させなかった。

いや、むしろ、雨垂れが石をも穿つ様に、物事の本質を剥き出しにするようで。

生きているなかで経験する事で、忘れてもいい事柄、忘れてはいけない事柄、優劣はないが、忘れてはならない事柄は何かの形にしなければいけないと思った。それを体験した人間の宿命はその人生での宿題だと思う。

春先になると、彼女が教えてくれたスイートピーの花言葉を思い出す。
それは…「優しい思い出」


私は新境地へ

スイートピーの彼女と別れてから四年後、恋人ができた。三歳年上の看護師をしている人だった。
あの悲しい過去を忘れさせるくらい好きになれた。彼女との幸せな時間は時の経つのを忘れさせるほどに幸せだった。また、彼女も私と同じ気持ちなのだと信じていた。
だが、現実は違っていた。いろいろあって、彼女には、17歳歳上の既婚者の不倫の彼氏がいる事が分かってしまった。

彼女への愛情は不審感に変わった。
もう、二人の間に信頼関係はなくなっていた。婚約直前まで辿り着いたのに、彼女が身を引く形で二人は、終わった。 一度、寂しさから復縁を申し出たが、「一度ダメになってしまったものはもう元には戻せないよ。」と彼女は言った。それはよくわかっていた。

 彼女と一緒だった一年間は本当に幸せだった。夏に行った伊豆の下田へのドライブ。
ディズニーシーで口喧嘩をして彼女が泣いたこと。ファミレスで、遅くまでよくおしゃべりしたこと。

だが、過ぎ去った優しい思いでは今では自分を惨めに思わせるだけのものになってしまった。そうして、愛していた彼女は他人となった。あっけない事だなと思った。

 ある日、大阪に出張した帰り、四ッ谷で仕事の接待の飲み会に参加した後、時間はもうすぐ夜の10時になろうとしていた。
お開きになり、四ッ谷見附から四谷三丁目に向かい歩き出した時にちょうど雨が降ってきた。いつもなら四ッ谷駅から丸ノ内線に乗って一瞬で移動する距離を、歩いた。

歩きたい気分だったのだと思う。駅や地下鉄の車内で自分を見られるのが嫌だった。今の自分の酷い顔は想像がついた。当時の事は今でも思い出すと言葉にならない。 婚約をしていた彼女の長い不倫という隠し事が発覚し、信頼関係が壊れ、婚約破棄にいたるまでは俊巡があったが結論は彼女が身を引く事で修めた。

無限の喪失感は一歩一歩の足どりを重たくした。汗だくになりハンカチで顔を何度も拭った。新宿まで歩いて中央線で帰ることをなんとなく考えていた。

歩きながらとりとめもなく考えていた。恋人は同じ気持ちなのだと信じていた。ずっと。思い出すたびとても寂しい気持ちになった。しかし、それと同時に不倫していた彼女が許せなかった。その二人の関係を私は呪った。
そして、私はいつかこの憎しみを乗り越え、再生することを心に誓った。

しばしば私は職場のトイレの個室で仕事の隙間に彼女との楽しかった想い出を振り返って自分を慰め耐えた。少なからず誰しもあることだと。


親友の死

その年の夏の終わりに友人が突然亡くなった。

病名は急性骨髄性白血病。最後に会ったのが亡くなる前年の暑い夏の夜だった。有楽町で飲んだのが最後だった。それ以降はたまにメールをする程度でお互い平凡な日常を過ごしていると思っていた。

彼と私は小学校の時の同級生であり、そのころからの親友であった。放課後には日がどっぷり暮れるまで、自転車で駆けずり回って泥んこになって遊んだ。中学校以降は別々の学校になっても、よく遊んでいた。

高校を卒業して、それぞれ別の進路を進んだが、彼は常に私の傍らにいてくれるように味方であり、友人であり続けていてくれた。

 子供の頃は私が一人で喧嘩をしていれば理屈抜きで味方になって一緒に戦ってくれたり、私がはたちの時に始めて彼女が出来、それを報告した時など「めでたい!」とわがことのように喜び、朝まで一緒に酒を飲んでくれた。

彼は女の子にもとてももてたので、そっちの方の経験も私より豊富であり沢山アドバイスしてくれた。

 彼は決して怒ったりすることなどなく、人に当たることなどなく、友達思い、家族思いであり、周囲の人達をとても大切にする人であった。その人間性は私など足元にも及ばない人であった。葬儀の時のご親族や会社のご同僚の方々の嗚咽がそれを物語っていた。

悲しみに優劣はない。しかし、親友を失うことがこれ程までに悲しい事だとは思いもしなかった。今思えば、あれもしてあげてない、これもしてあげてない~など、悔やまれることばかりだった。

その中でも最も後悔している事は、彼に友達として、彼を常に想い尊敬している事を伝えていない事である。二十数年も一緒にいてくれたのに。

この経験から学んだ事は、大切な人にはその想いを短かくても手紙でもメールでもいい、しっかりと伝えて欲しいと思う。

想いを伝える事はとても勇気のいることだし、素直な気持ちを伝えることはとても難しい。しかし、自分が人に言われた時のことを考えてみれば、とても嬉しいことだろう。

 何故ならこれが私達の原点になるのだから。

夏の終わりの芒漠とした深夜に思い出す彼との少年時代の想い出は、今では涙の種のようである。

人は本当に明日のことはわからない。今日という一日は彼が何としてでも生きたかった一日かと思えば言葉にならない重みを感じる。我々は精一杯生きているだろうか。


祖母の死

その年の11月末に、祖母が亡くなった。季節は冬に変わろうとしていた。

私の家庭は両親は共働きだったので、お弁当をおばあちゃんに作ってもらったり、いつもおばあちゃんに頭を洗ってもらっていたりして、典型的なおばあちゃんっ子で私は育った。

 入院中の祖母の容態が急に悪化し、たった七日間で亡くなってしまった。心筋梗塞であった。月末にすぐお通夜と告別式を執り行い、おばあちゃんはこの世からいなくなり、すぐに真っ白なお骨と位牌だけが残った。

告別式の日、遺影とお骨と位牌を上座にして葬儀所の近くの料亭で親族一同が集まり故人を忍んだ。久しぶりにあった従兄弟と世間話をしたりして時間を潰した。

次の日早い時間羽田から飛行機で福岡に出張の予定だったので、お焼香を母に促され、祖母の遺影の前に正座した。

急に、祖母と二人きりになった気がした。「おばあちゃん、早かったなあ。ぼくは、まだまだおばあちゃんに元気で生きていて欲しかったよ。」と心の中でつぶやいた。

私は慌てて、そそくさと席を立ち会場に一礼して、親戚の叔父さんに挨拶をして外にでた。もう辺りは真っ暗だった。

駐車場まで歩き自分の車を開け運転席に座った。キーを回してエンジンをかけた。真っ暗な車内で、ラジオから昔の歌謡曲が流れてきた。どっと涙が溢れだした。とめどなく涙は流れた。

祖母が亡くなったことで、祖母が住んでいたこの外房の大好きだった田園の広がるのんびりした田舎の土地が、急に私の知らない異国の地のようになってしまったような寂寥感を持った。また一つ自分の帰る場所がなくなったと思った。



私の病気について

プライベートの不幸とは別に仕事はますますその後忙しくなった。

当時の私の在籍する課は毎日異常なほど忙しく、いつも帰宅して午前2時前、朝は7時に起きて職場に向かった。毎日が猛スピードで過ぎていき雑務に忙殺されていた。月々の残業もかなりの時間になり、休みも土日はどちらかは死んだように寝てすごした。

時に捜査官として検査の仕事が未熟であり、先輩調査官に叱責を受けたりしたが落ち込む暇などなかった。

 それから数ヶ月後、仕事は相変わらず忙しかった。しかし、ある日急に心身の力が抜け無気力な藁人形のようになってしまった。明らかに心と体に異変を感じはじめた。

発病

 三つの悲しみは日に日に大きくなり、小さな自分をまるごと飲み込んでしまった。
空虚感、絶望感。仕事についていけなくなり、手がつけられないくらいケアレスミスを連発。病院にいったところ、うつ病という診断を受けた。
 しかし、休職するのが怖く(障害者扱いのようになるのが怖かった)、処方されたパキシルを飲みながら2年間頑張った。
その後、課を異動し、仕事が変わったっりしたが、あまり楽にはならず、病気も一進一退が続いた。

 そして、うつ病を患って3年目の秋が終わるころ、抗うつ剤を変えた。途端、うつ症状が酷く悪化し、とうとう、まともに出社できなくなり、当時の課長に全てを打ち明けた。出張は取消しになり、とりあえず病気休暇を取得させてもらった。

 結論から言えば復職には一年かかった。

休職中は、毎日、公園や自分の部屋、喫茶店の壁を五時間も六時間も見つめて過ごした。

 今思えば、運悪く不幸が重なり、悲しく辛い。という事を上司に相談して、早めに休暇を取ればよかったのかもしれない。その際は、甘えだという意見もあったかもしれない。

しかし、少なくとも、自分が精一杯やってきたことの結果なのだから仕方がないと自分を納得させることはできたはずだ。打ち明けることができたなら、違った心境になり、また違う結末になっていたのかもしれない。

 うつ病、日本ではこういう事を話すことは、人として軟弱や怠け者の仮病とされてきたことが事実としてあった。
 だが、人間は自分の力だけで生きてる訳ではなく生かされているのであり、どうしても一人では乗り越えられない時が人にはあるのだから、人間を自分の周囲の人をなるべく孤立しないようにしてあげようと私は思う。人の居場所は人の心の中にしかないのだから。

生きていく意味

 我々の属する世界にはほぼ、人と人のつながりや、愛し合うことや、敵対や、恐怖や、憎しみや、優しさで成り立っている。

 時間の流れは、人との出会いと別れを繰り返すスケールに過ぎず、人と人との繋がりの深度を深めて、更にその深度を永遠に深めると思わせながらも、無残にも本当にたやすく何事もなかったように全てを奪い去り、人を孤独にしてしまう。

出会って、別れて、深めて、無くして、それでも我々は何かを残そうと絶え間なく一念の思いを一瞬に注ぎ込む。
だけど、よく考えれば、それは無くなることを前提とした非建設的行為から抜け出せていないことは本当は悲しむべき事なんだと思う。

 だが、形にならず、何も残らず、思い出は、脳の神経細胞に残された事象の影に過ぎず、愛情は脳の錯覚に過ぎず、生命の誕生は細胞同士の科学反応に過ぎず、魂は存在せず、神も悪魔も存在せず、この不条理な世界にたった一人孤独に生まれてきて、一人ぼっちで死んでゆく。

 だけど、生きたがる訳でもないが、死にたがることもない。
生きてきた日々の事象は脳細胞に刻まれた記憶の影に過ぎず。生きた証は将来から見れば、要約された名も無き短編小説に過ぎず、成し得た功労は時間がたてば上書きされ名前とともに消え去る。

 そう考えれば、生きてる意味はなく、こんなにも仰々しい無意味な物事はこの世にないのではないだろうか。

それでも今の私は生を否定しない。幸せだった記憶が遠くかすんで、思い出すのに段々時間がかかり、いつか忘れてしまったとしても悔いは無い。

無くてもいいじゃないか。

すべての物事の理由はいずれも本当に小さな小さなつまらないこと。何千回も思い出し、そして、考え、悩む事も否定しない。

誰とも分かち合えない孤独を永遠に生きるような、そんな孤独にどっぷり浸ってしまい、自分以外の誰も目に入らず、うなだれて、必死に電車のつり革につかまっている。
電車を降りて、家路を歩く人達にまみれ、泣き言も言えない。

家に帰って、スーツを脱ぎすてタバコを肺いっぱいに吸い込む。たちまち二本も灰にして立ち上がる。寂寥感でいっぱいになり逃げ出したくなる辛さを胸につかえて、何の味もしないパンをかじる。

これらすべてが、昨日のことであり、明日のことであり、永遠に繰り返す。

逡巡はたれのせいでもない。自らの過去の罪を償い、人や社会の役にたつたためにひたすら生きる。二本足で突っ立って、横断歩道のめいっぱい横を人にぶつからないように歩く。オフィス街の昼休み、身体いっぱいに冬の寒風を受け、目が渇き涙がそれを濡らす。

 私はこんな、まぶしい色彩世界に生まれ、崇高な虚無感と孤独感を感じて胸が痛くなる。嘘偽りなくその心の奥で思う。生あったかいだけが人の幸せじゃないと思える。
真の愛を持ち得るのは、うつ病であっても、今の私の心は愛で満ちているし、私もはかりしれない存在で人々を愛している。


でもそれらは、なにものにもならない一瞬の火花のようなもの。でも、今の私は否定しない。

何回、何千回思い出しても何にもならない。そして人は宿命的に同じ過ちを繰り返す。それは過失ではなく因果だから。

初めから決められ仕組まれた成り行きで人の力では変えられない事なのかもしれない。

だけどまだまだ生きてみようと思う。
何故なら、全ての出来事には例外がある。
神秘や奇跡や、その他はかりしれない何かを期待して。
だって無限の喪失感からでも、人は再生に向かうのだもの。

今の私なら、例外を楽しむだけの生き方で、理由は十分になれたから。

何千回思い出す度に

何回、何千回思い出しても何にもならない。そして人は宿命的に同じ過ちを繰り返す。それは過失ではなく因果だから。

初めから決められ仕組まれた成り行きで人の力では変えられない事なのかもしれない。

だけどまだまだ生きてみようと思う。
何故なら、全ての出来事には例外がある。
神秘や奇跡や、その他はかりしれない何かを期待して。
無限の喪失感から、再生に向かう。

今の私なら、例外を楽しむだけの生き方で、理由は十分になれたから。

何千回思い出す度に

普通の幸せが、いかに得難いものか。それを手にした人には永遠にわからないだろう。 世の中には、どうにもならないことや、乗り越えられないものがあること。 人は、どうせいつかは死んでしまうこと。 時に、心はたやすく傷つき、生きることにおびえてしまうように なることがあること。 極めて普通に、健気に生き、人を愛する事を原点に。 自らの経験を通し、無限の喪失感から再生に向かう様を書いた。

  • 小説
  • 短編
  • 恋愛
  • 時代・歴史
  • 成人向け
更新日
登録日
2012-11-10

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