終末は汝のために
2020
1
先日、Twitterにて「死は救済である」という何やら物騒な言葉がトレンド入りを果たした。これは、死をもってこの世のあらゆる苦しみから自身を解放するというある種の厭世主義的な考えに基づいた言葉の一つである。
はじめにこのトレンドを目にした時は、「悲観論が流行ってしまってはいよいよ世も末だな」などと俯瞰中毒者じみたことを考えていたのだが、実際にトレンド入りの経緯を追ってみると、背景にあるのは選択的中絶についての議論の過程で生じた炎上によるものだった。
火種となったのは以下のツイートである。
「炎上覚悟で言いますが、選択的中絶を検討されるような人間って、言ってしまえば不幸になる可能性が高いってことだから、中絶による死も、場合によっては一種の救済とみなしても良いんじゃないかなあと思うんです。不幸な人間にとって死は救済であるとも言われていますし……」
それなりにインターネットに慣れ親しんできた人ならば、一目で燃えると確信できるツイートだろう。何ならその炎上を脳内に携えたインターネットでシミュレートする事だって容易だと思う。
その問題点については既に多くの人に指摘されていると思うが、まず「ほとんどの先天異常児の人生が不幸である」ことを前提に話しているのがダメだし、その差別思想を無自覚に垂れ流してしまっている時点で炎上の要件は満たしている。曲解してしまえば「障碍者は全員死すべし!」といった更に過激な主張にすり替えることが可能なのも高ポイントだ。選択的中絶を正当化するにしても些かピントがズレているような気もするし、「炎上覚悟で言いますが」という枕詞で過激な主張をごまかそうとしているところもネット民の心証を悪くしている原因の一つだと考えられる。まあ、援護のしようがないのは事実なのだろう。
しかし、選択的中絶を巡って賛成派と反対派の双方が睨み合っている中で、こんなに「わかりやすく間違った」発言が議論の渦中に迷い込んでしまったのだから、一部の反対勢力が我先にと批判を浴びせるのも無理もない。賛成派にしても、味方に足手まといが居たら自分達の主張まで一緒くたにされかねないから大変だ。現在Twitter上では、批判や誹謗中傷はもちろん、発信者の住所や家族構成を特定する動きが出てきたり、中絶反対派による釣りツイート説が提唱されたりしている。今まで何とか形だけ保っていた議論の顔も、今回の炎上で完全に失われてしまったようだ。
いずれにしても「世も末」だったわけだが、今日の本題はそんな事ではない。(さして重要ではない話でも筆の赴くままに長々と語ってしまうのは私の悪い癖だ。ただの日記なのだから、ここで一つの話題に絞らなければいけない理由は特に無いのだが)
今日ここに書き留めておきたいのは、昨今のZ.H.B騒動を踏まえた新しい生活モデルの提案についてだ。
ご存知の通り、現在世界の合計特殊出生率はZ.H.B.騒動の影響で下落の一途を辿っている。その減少率は、まだ少子高齢化が囁かれていた頃のものとは比較にも及ばず、最早これから先人類が存続していくのは不可能なのではないかという悲観論が飛び交う始末である。
もしも彼らが言うように、本当にこの騒動が永遠に終結しなかったとしたら、私たちはどのようにこの無子高齢化時代を乗り越えていかねばならないのだろうか。
私は、「存続するのが困難なら、いっそのこと計画的に絶滅しちゃえば?」と思っている。あえて先程の話と絡めるなら、「絶滅も死と同様で救済になり得るのでは?」ということだ。
……いきなり何を言い出すんだと呆れ返った人も多いかもしれない。
思想が強めの人だとは思われたくないから先に弁解しておくと、私は反出生主義者ではないし、ましてや終末論者でもない。今から述べる事は単なる未来予想であり、これを政治的な意見に昇華させたり積極的な啓蒙活動を行ったりする気は更々ない。だから、これより述べる事は、どうか一つのSFのようなものだと思って聞いてもらいたい。
かつて、人類が環境問題による破滅を迎える前に、繁殖を禁じることで徐々に人口をゼロに近づけて、自主的に絶滅を迎えるべきだと主張した団体があった。しかし、当時はまだ子供を産んで育てることが幸せの在り方の一つだと信じられていたため、彼らの主張が大衆に受け入れられることは無かった。そもそも、政治、経済、宗教など、国によって様々な事情がある中で、「じゃあ今日から全員子作り禁止ね」とするのはちょっと現実的ではない気がする。それに、彼らの主張は程度の差はあれど生殖の自由の制限を前提としているのだから、過激思想とみなされても仕方がない側面もあった。
だが、もしこのまま出生率が永久に低迷し続けるとしたら、わざわざ生殖の自由を制限しなくとも、彼らの主張する自主的な絶滅は達成されるのではないだろうか。
別に自然保護や反出生主義に頼らなくても、人々の間に障害児に対する差別や偏見がある限り、大多数の人間が自らの意思で生殖を控えてくれるのだ。自主的な絶滅運動を支持する者にとってこれほど好都合な状況はない。
それでもこの主張が人々に受け入れられにくいのは事実だ。子育てとは、人類誕生以来絶えることなく続いていた社会常識の一つである。「もう子供を育てる必要はないですよ」と言われて、おいそれと捨てられるような価値観ではない。歴史から見ても、絶滅とは、死と同様、その過程において恐怖や惨劇を生じやすい事象であることがよくわかる。恐竜は巨大隕石の衝突によって滅びたし、数多くの動物が我々人間の自然破壊によってその種を絶やしていった。絶滅という言葉に対して何か得体の知れない恐怖を感じる人が居ても何ら不思議ではない。
だがその悲劇とは絶滅という生物種の運命に抗った結果に過ぎない。どんなに我々が必死に子孫を繁栄し、環境問題を解決し、国際協調を保っていたとしても、必ずいつかは死に絶える日がやってくる。今のままいつか来る終わりを後の世代にたらい回しにしていけば、きっとどこかで戦争や飢餓の憂き目を見ることになるだろう。
世界規模で出生率が著しく低下している今、人類の絶滅モデルを本気で検討していく時が来たのではないだろうか。
もし貴方が出産を選択するならば、なぜ子供を産むのか今一度考えてみてほしい。「子育てこそが人生の幸福」だとか、「子を産んでこそ一人前」というような、旧世代の盲目的な子育て信仰に囚われていないだろうか――。
2
「――秀斗!」
突然、下の階から突き抜けるような怒号が飛んできた。
また部屋に入ったのか[#「また部屋に入ったのか」に傍点]。阿良橋秀夫は深くため息をつくと、腕を掲げて身体をそらし、背中に溜まった疲労を天に逃してやった。
「もう、何度言ったらわかるの?」
不快な怒鳴り声に集中力が断ち切られてしまったので、さっきまで読んでいた部分をもう一度目で追ってみる。何度読んでも、そこには「旧世代の盲目的な子育て信仰」と書いてあった。ここまで過激に言い切ってしまう筆者に感服しながらも、その主張の強さには違和感を覚えた。文中で筆者は反出生主義者ではないと言っていたではないか。
「秀斗も、お母さんみたいに病気になっちゃうかもしれないんだよ?」
ヒステリックな声は絶えず響いている。分かってはいたが、やはり自分が向かわないと事態は収束しないらしい。秀夫は、机の上のパソコンを閉じると、重い足取りで階下へと向かった。
「どうしてわかってくれないの!」
階段を一段下がるたびに悲哀と病的なほどの興奮に満ちた声は鮮明さを帯びてくる。秀夫は、連日のヒステリーにいい加減嫌気がさし始めていた。しかし、現在彼女が置かれている境遇を考えれば仕方のないことなのだと自分に言い聞かせる他なかった。
間も無く、けたたましい程の泣き声が廊下中に響き渡った。早歩きで部屋へ向かうと、息子の阿良橋秀斗が部屋の真ん中で大粒の涙をこぼしながら泣いていた。
部屋の奥では、妻の阿良橋美雪が泣いている秀斗を眺めていた。泣いている秀斗の姿を見て頭を冷やしたのだろうか、先ほどの剣幕が嘘のように静かであった。
美雪の腹部に目をやると、以前よりも膨らみが大きくなっており、一刻も早い決断が迫られていることを静かに警告していた。
「ダメじゃないか、部屋に入っちゃあ」
秀夫は慌てて秀斗を部屋の中から引きずり出した。
「ねえ、秀斗が部屋に入ってこないようにちゃんと見張っててって言ったよね?」
美雪は、呟くように秀夫の過失を責めた。
「ああ……ごめん」
秀夫は美雪をこれ以上刺激しないよう素直に謝った。
「次は、絶対に入れないでよ。いい?」
美雪は抑揚のない口調で念を押すと、俯いたままこう言った。
「……うつる[#「うつる」に傍点]から」
一瞬、髪の間から見えた妻の目には、何も映っていなかった。光も世界も、何もかも闇に吸い込んでしまいそうな目だと秀夫は思った。
「……わかったよ」
大人しく従うしかなかった。秀夫は、妻の変わり果てた姿を見て、無念でたまらなくなった。しかし、そんな妻にかける言葉が見つからず、胸に無力感が広がった。
「それじゃあ秀斗、お父さんとこっちで遊ぼうか」
秀夫は、秀斗に部屋から出るよう促した。
「やだあ、お母さんがいい!」
抵抗する秀斗を無理やり抱き抱えると、逃げるように妻の部屋を後にした。
「お母さあん! お母さあん!」
秀斗の泣き叫ぶ声が廊下中に響き渡った。洗面所まで運ぶと、泣きじゃくる秀斗の手首を掴み、石鹸で入念に手を洗わせた。
手洗いを終えてリビングへ戻る頃には、秀斗の号泣は嗚咽に収まっていた。秀夫はひとまず秀斗をソファに座らせて落ち着かせた。
「お母さんは今病気なんだから部屋に入ってはいけないよって何度も言ってるだろう」
秀夫は秀斗に諭すように言い聞かせた。
「お母さん、お熱もお咳も出てないじゃん」
秀斗は拗ねた声で言い返した。
「確かにそうだな……」
意外にも的確な指摘だったので、秀夫は一瞬言葉に詰まった。
「お母さんはな、お前の知っているような病気じゃないんだ。おかしいと思うかもしれないけど、お医者さんがそう言ってるんだよ。勝手に部屋に入ったら、秀斗にもその病気がうつっちゃうかもしれない」
「じゃあうつっていい」
秀斗は俯いて口を尖らせた。やれやれ、と秀夫は内心苦笑した。
「お父さんは、秀斗に病気になって欲しくない。お母さんも同じ気持ちだ。だから、お母さんの病気が治るまで部屋に入っちゃダメ。いいな?」
そう言って秀夫は強引に話を切り上げると、おもむろにテレビのリモコンを手にとった。
「秀斗は、仮面ライダー好きだったよな? お父さんと一緒に見るか?」
秀斗は黙って頷いた。番組が始まって暫くすると、秀斗の目は画面に釘付けになっていた。秀夫はようやく騒ぎが収まったことに安堵した。
だがその反面、父親として、もっと厳しく言ってやった方が良かったかもしれないという後悔も感じ始めていた。今まで子供にあまり関心を持とうとしなかったツケだと思った。せめて妻の妊娠期間中だけでも、秀斗ときちんと向き合おうと決めていたはずなのに。
だが、五歳児にこの複雑怪奇な状況を理解してもらうのは困難だと思った。第一、大人だってよく分かっていないのだ。
現在、人類は全世界で染色体異常児の出生数が急増するという異例かつ原因不明の事態に直面していた。
最初にその傾向が見られたのは今年の二月ごろ、アフリカ中東部からだが、その時は例年よりも少々数が多いと言われる程度で、表立って騒がれるようなことはなかった。
しかし、その年の四月にはヨーロッパの各地で相次いで胎児に染色体異常が確認され、五月末には全世界で染色体異常児の出生数は週間の新生児出生数の八割を超えた。
人類はこの現象を人類史上最大レベルの災害とし、Z.H.B現象と名付けた。
専門家は、この現象について様々な見解を示した。薬害、放射能、大気汚染、感染症、環境ホルモン、電磁波……。どれもが憶測の域を出ないものばかりだったが、人々はそれに縋るしかなかった。最終的に、症状の広がり方や、症状が人から人へと感染していく性質が確認されたことから、新型の感染症説が最有力とされたが、胎児や妊婦に検査を行ってもそれらしいウイルスは見つからず、依然として原因は不明のままであった。
各国の政府は感染拡大を防ぐため、国民に対して都市封鎖や営業停止命令等の措置に乗り出した。日本もその流れに殉じた。
政策には疑問や不満の声が多かった。政府はまだ人々の生活を大幅に制限するほど説得力のある理屈を持ち合わせていなかったのだから、当然である。
そのうえ、政府は感染症の存在について頑なに明言を避けていた。官僚がマスコミの前で感染症の話をする際は、決まって『原因不明の脅威』という曖昧な表現が使われた。要するに、感染症の存在の是非についての責任は取れないが、もし感染症によるものだった際に困るから一応協力して欲しいという話なのだろう。国民が感染症対策に懐疑的になるのも無理もなかった。
さらに、もし本当に感染症だとしても、胎児以外には影響が出ていないのだから、我関せずと自宅待機命令を無視して遊び歩く人間も多かった。
結局、政府の感染症対策は八方塞がりで、症状は広がる一方であった。
そして美雪にも、原因不明の脅威の魔の手が及んでいた。一週間前の出生前診断の際、突如として二十一番染色体に異常が見つかったのである。美雪は国に感染者の烙印を押され、自宅隔離命令を受けることになった。
美雪は、自分のせいでお腹の子供にハンディを与えてしまったことにひどく動揺し、精神的ショックを受けた。そして、堕すかどうかという命の選択に激しく苦悩した。
――うつるから。秀夫は先ほどのことを思い出す。
前は、あんな虚な目をするような娘ではなかったのに。
国からの命令で自室で一人隔離生活を送るようになってから、美雪は自分をウイルス同然の存在だと思い込み、ますます塞ぎ込むようになってしまった。
「美雪さんは調子はどうなの?」
美雪の胎児に異常が発覚してから、秀夫の母は頻繁に電話をかけてくるようになった。
「変わらないよ。ずっと引きこもってる」
「そう……、気の毒にねえ。妊婦さんのストレスは、お腹の子供にも良くないし……」母は続けて言う。
「やっぱり、私は貴方たちが心配よ……。あと一ヶ月で妊娠二十二週でしょう」
「ああ、言われなくてもわかってるよ」
「ごめんねえ。また、お節介なことを言っちゃったねえ……」
母は、こうして心配を装って、こちらの口から出産に関する情報を引き出そうとしているんだなと秀夫は思った。
母はどうやら、はっきり口にしたことはないが、美雪に子供を堕して欲しいと思っているようだった。だが、この騒動の影響を考えれば、そう望んでしまうのは仕方のないことだった。
今や出産は不幸への片道切符である。
昔から強かった障碍者への風当たりは、今回の騒動で注目を浴びたことにより、更に激しさを増していた。特に知的障碍者に対しては群を抜いて酷かった。小学生コミュニティにおける特別支援学級に属する児童を不浄なものとして扱う遊び、俗に言う『エンガチョ』は、今回のウイルス説によって(少なくとも子供たちにとっては)確固たる裏付けがなされ、全国的にエスカレートした。染色体異常児こそ感染源であり、人類を破滅へと引き摺り込む悪魔だと唱える者も少なくなかった。それに伴い、『浄化』を目的とした障碍者への暴行事件や障害者支援施設の襲撃事件が跡を立たなかった。無論、障害者理解への啓発活動も以前より活発になったが、多くの人にとってそれは偽善であり、悪しき多様性であり、この混乱に乗じて生じた理想論の一つでしかなかった。
もし産むのなら、その子供には相当辛い人生を歩ませることになる。自分たちは、そうした不幸から子供たちを守り抜くことができるのか、甚だ不安であった。
――子供は三人がいいなあ。
秀夫は、昔美雪が言っていた言葉を思い出した。
美雪は、この騒動が無ければ出産を迷わず選んでいたのだろうか。子供にハンディがあるならあるなりに、幸せな家庭を築けたのだろうか。
――どうしてこうなってしまったのだろう。秀夫は、家族をここまで貶めた原因不明の脅威を心底恨んだ。
3
【Z.H.B.】人類絶滅は人類にとっての救済!? とあるブロガーのnoteに騒然【終末論】
今、自主的な人類絶滅運動を巡ってネット上に論争が巻き起こっている。
発端となったのは、都内在住のボブサップ小太郎さんがnoteに日記として投稿した記事である。
(noteのリンクが貼られる)
ボブサップ小太郎さんは、いつまで経ってもZ.H.B.現象終息の兆しが見えない現状を踏まえて、「存続するのが困難なら、いっそのこと計画的に絶滅しちゃえば?」と提案。絶滅はこの地球上の生物種の運命であり、いつかは目を向けていかなければならない事象であるとし、今回の出生率の大幅な低下により自主的な人類絶滅運動が決して夢物語ではなくなったことを強調した。
更に、「もし貴方が出産を選択するならば、なぜ子供を産むのか今一度考えてみてほしい。「子育てこそが人生の幸福」だとか、「子を産んでこそ一人前」というような、旧世代の盲目的な子育て信仰に囚われていないだろうか」と、反出生主義的な問いかけで記事を締めくくり、読者に問題意識を植え付けた。
本記事は、日記として投稿しているのにも拘らず、わずか一週間で8000pvを超え、多くの支持が寄せられた。
「確かに、なんで私たちって子供を産むんだろう。ネットで調べても結局は自分のエゴか世間の風潮の何れかに帰結するような理由ばかりだし、納得できるような理屈が存在しないんだよな」
「終息に尽力したところで、元の生活に戻れるのが五十年後とかだったら意味ないしなあ。いつ解明されるかわからない研究に人類の未来を託すよりも、冷静に人類の絶滅モデルについて議論していた方がこの先安心して生活できるんじゃないか、って気がしてきた」
「国はそろそろハッキリとした姿勢を見せるべきだよ。いつまでこんなに中途半端な状況を続けるつもりなの?」
一方で、こんな反対意見もある。
「要は障害者は産まれない方が良いってこと?」
「たとえ先天異常児であっても自分の子を育てたいという人の声を無視している」
「たかが半年で終息することはないとみなすのは流石に気が早すぎるだろ」
地球上に存在する生物種である以上、いずれ私たちは絶滅に目を向けていかなければならない。果たして、Z.H.B.騒動を迎えた今がその時なのだろうか? 答えは、Z.H.B.現象の終息に尽力している全ての人間の手腕にかかっている。
(ライター : まえしま)
「ふうん」
秀夫は、数日前に何気なく目にした日記が、某まとめサイトに取り上げられるほど有名になったことに感心し、思わず鼻を鳴らした。それ程この前代未聞の状況において、朧げながらも道標を示してくれる未来予想は人々の関心を引くということだ。特に今回のような少しばかり過激な未来設計は、SFファンなら浪漫も感じるだろうし、そうでない人にとっても過激故に一際目立ちやすいのだろう。
だが、そうやって過激な主張故の一時的な注目にすぎないと一蹴できるほど茶地な主張なのかと思うと疑問が残る。本当に自主的な人類絶滅が実現できるのなら、Z.H.B.現象だけでなく、様々な環境問題が解決に向かうことになる。子持ちなのにも拘らず、自分が「旧世代の子育て信仰」に囚われていると言われると、「どうせ劣悪な家庭環境で育った人間の僻みだろう」と頭ごなしに否定したい衝動に駆られる反面、どうも言われた通りである気もしてくる自分がいる。
「主張は荒いが一考の価値あり。少なくとも、今のどっちつかずな状況よりこの記事が掲げる終末を目指した方がマシに思えてしまう自分が恐ろしい」
画面の中で誰かが言った。すると、皆は口々に喋りだす。
「ええっ。まさか、こんな破滅思想の為に元の生活に戻れる可能性を潰すつもりなの? 科学研究って、半年そこらで結果を出せるものじゃないでしょ……」
「私も、若い頃はこんなことを考えてたな~。今って反出生主義って名前が付くようになったんだね。懐かしいなあ」
「本当に障碍者は産まれない方が良いと思ってるのは世間の方なんだよなぁ……。筆者はその風潮を踏まえた上で解決策を提示しただけだから。日本ってこんなに識字率低かったっけ?」
「反出生主義者って、きっと、親から愛されなかった人たちなんだろうな。そう思うと、今TLで過激な終末論を叫んでいる人たちにも優しくなれる気がする」
「人類、愚かだから滅んで良いと思う」
「筆者は『あくまでSFのようなもの』と銘打って保険をかけているつもりみたいですが、このような危険思想は、たとえSFであっても発禁処分になると思います」
「例の反出生主義者の記事、バカ発見器になってて笑う」
「選択的中絶界隈の炎上を馬鹿にしてたみたいだけど、自分の方が炎上するっても微塵も思ってなかっただろうなw」
「このままQoLの低い人間を量産していった先の未来くらい想像できないの?」
「これに同調している人間はラスボスの才能ありそう」
「健常者って、『俺たちが否定しているのは障害者ではなくて障害だから、障害者差別にはあたらない』とかいう訳のわからん主張を平気な顔でしてくるよね。それって『障害者は出来るだけ生まれない方が良いけど、生まれてしまったものは仕方ないから不本意ながら我慢している』という無自覚な差別思想の表明だって気付けないのかな」
「そもそも何の権利があって親は俺の同意なしに俺をこんなゴミみたいな世の中に産み落とすことができたんだよ。なんでお前らの一時の快楽のために俺が一生悪夢を見続けなければならないんだよ。誰か説明してみろよクソが」
たかが数行の活字が頭の中で目まぐるしく回転した。全てが正しく、また間違っているように思えた。
「それで、決心はついたのか?」
電話口の向こうで、産婦人科医の是枝圭吾が言った。
「俺はもう心を決めている。だが、美雪がな……」
「まだ、先天異常を受け入れ切れていないのか?」
「……ああ」
「もうこれ以上は待っていられないぞ」
圭吾は、苛立ちを隠さずに言った。
「今、病院は中絶手術の予約待ちでいっぱいだ。一ヶ月近く待ってもらっている患者もいる。妊娠二十二週に間に合わなくて望まれない赤子を産んだ夫婦だって珍しくない。親友だからといって特別扱いするわけにはいかないんだよ」
秀夫は口を継ぐんで沈黙を電波に乗せた。
「……悪い。命に関わることだ。簡単に決められるわけないよな」
「いや、悪いのはこんな状況で無理を言ってる俺の方だ」秀夫はすかさず訂正した。
「結局、どうするんだ? 奥さんの同意がなきゃあ手術はできない」
「出産できるような精神状態ではないことは確かなんだ。必ず堕すことになると思う。だからもう少しだけ待ってくれ」
圭吾は、苦しそうにため息をついた。
「いいか、待つのはこれで最後だ。明日の朝にまた返事を聞こう」
「……わかった」
「短いと思うかもしれないが仕方ないんだ。中絶手術の患者はこれからさらに増える見込みだからな」
「いや……充分だ。感謝するよ」
「そうか……」
圭吾はまた小さくため息をついた。
「……なあ、俺って、何の為にこの仕事してるんだろうな。毎日赤ん坊殺してさ……。こんなところ、倅に見せられんよ」
秀夫は美雪の部屋のドアの前に立っていた。
「美雪、入って良いか?」呼びかけてみるが、返事はない。
「入るぞ」
「妊娠していた妻を階段から突き落とした男が昨日逮捕されました」
美雪は椅子に座ってテレビを眺めていた。部屋の中は相変わらず荒れていて、知育玩具や教育本が散乱していた。
「なあ……」
依然として反応はなかった。美雪は相変わらずこちらに背を向けているし、ニュースキャスターは淡々と原稿を読み上げている。
「……胎児は、妻が転倒した際に下敷きとなり、死亡が確認されました。夫婦は中絶を希望していたのにも拘らず、三日前に妊娠二十二週目を迎えてしまっていたとのことです。調べに対し、夫は『障碍者の子供を産むのは嫌だから流産させてやろうと思った』と供述しています」
どうしてこれから中絶の話をするというのにこんなニュースが流れるのだろう。秀夫はタイミングの悪さに頭を抱えたくなった。
「貴方も、私に流産してほしいと思ってる?」
次のニュースに切り替わった時、美雪はそんなことを言い出した。
「そんなわけないだろう」
「じゃあ、私の子供を殺したいと思ってる?」
嫌な質問だった。
「……俺たちの、だろう」
美雪は何も言わなかった。
「美雪は、産もうと思ってるのか? ……子供を」
「名前で呼んで」
「え?」
「名前で呼んでよ。『灯』って」
「ああ……」
その名前はまだ試案だっただろう、と言い返す気にはなれなかった。
それに、今から堕ろそうとする赤ん坊に名前をつけるのは抵抗があった。後で罪悪感に揺れて何も決断できなくなるのではないかという懸念があったからだ。
だが、こんなところで揉めても仕方がない。「……その、灯に関わる話だ」秀夫は話を切り出すために、渋々美雪の要望に従った。
「さっき、是枝先生と電話で話をした。もう、これ以上は待てないらしい。堕すかどうか、明日の朝までに決めてくれと言われた」
秀夫は野良犬を宥めるようにゆっくりと続けた。美雪はまだ背を向けたままだった。
「だから、この子をどうするか、今ここで二人で話し合って決めたいと思う。話し合いに際して、ここで決めたことは、もう覆らないと思った方がいい。
産むと決めたのなら、二人で責任を持って灯を幸せな子にしよう。産まないと決めたのなら……俺たち家族は障碍者を育てる負担から解放されるが、灯には二度と会えない」
テレビは天気予報を流し始めた。場違いな番組マスコットがテレビ局前を中継している。
「俺の意見を表明する」秀夫は言った。
「俺は……言いにくいけど……堕した方がいいと思っている。その子を産むには、あまりにも解決すべき問題が多すぎる。もし今の騒動が終息しても、差別は世代単位で根強く残るだろう。
俺は、そうした不幸からその子を守ってやれる自信がない。家族全員で茨の道を進むことになる。それに、お前だって出産できるような精神状態じゃないだろう」
秀夫はそこまで言い終わると、美雪を一瞥した。美雪は、秀夫の話に反応を示す素ぶりを見せず、ただ黙ってテレビの画面に視線を置いていた。
「……堕す」
一瞬、それが誰の台詞なのか分からなかった。まるでどこからともなく発せられたラップ音のように感じた。
「今、何て」秀夫は、その空虚に向かって問うた。
「堕す」
再びその声を聞いた時、美雪のものであると解するのに今度は数秒もかからなかった。だが、その内容は人物像や会話の流れ、その他あらゆるものと乖離しており、秀夫のさらなる混乱を引き起こした。
「ま……待てよ。自暴自棄になってるんじゃあないだろうな」
秀夫は慌てて確認する。急すぎる合意だった。
「なあ、これは真剣な話し合いなんだぞ? 灯の命がかかっているんだ」
「わかってる」
「本当に堕していいのか?」
「いいの」
呆気なさすぎる、と秀夫は思った。愛する娘の命に関わる問題ではなかったのか。秀夫は、目の前の女がかつて幸せな家庭を築くことに幸せを見いだしていた人間だとは思えなかった。
「……理由を教えてくれ。なぜ、堕すと決断できたんだ?」
美雪は初めてこちらに顔を向けた。
「私も、貴方に中絶を勧められたら、イエスと答えようって決めていたの」
4
秀夫と美雪の出会いは至って平凡であった。
大学二回生の夏、映画サークルに在籍していた彼は、同サークルに途中加入してきた一回生の彼女に密かに心を寄せていた。ある時、思い切って映画に誘ってみると、彼女は快くオーケーしてくれた。
当日は松本人志監督の『大日本人』を観に行った。その日は尋常じゃない程に暑く、新聞の見出しに「国内最高気温、七十四年ぶりに更新」と載っていたのを憶えている。映画はあまり面白くなかったので、その後は同じく芸人である北野武監督の話で盛り上がった。美雪が好きな作品は『あの夏、いちばん静かな海。』で、秀夫は『キッズ・リターン』だった。それから、何回か食事や映画を重ねていくうちに親密になり、そのうち交際することになった。
当然だが、彼女は「他人はともかく、少なくとも自分は将来的に子供を作ることになるだろう」というごく一般的な人生設計を持っていた。サークル活動の一環で『ダンサー・イン・ザ・ダーク』という映画を見た際も、一度は暗い結末に打ちひしがられたものの、最終的には主人公セルマの親としての献身に理解を示すようになっていた。
対して秀夫は、セルマの気持ちが全く理解できなかった。なぜ子供に視覚障害が遺伝すると知りながら産んでしまったのか。作中でセルマは、その問いに対して、『赤ちゃんが抱きたかったから』と答えていた。よくその程度の理由で貧困と視覚障害の逆境の中で子育てをする気になったものだと思った。
そもそも秀夫は、子供を産むことに対して懐疑的であった。わざわざ金と身を削って自分以外の命に責任を持つことに一体どんなメリットがあるのだろうとさえ思っていた。
秀夫は小学校高学年の自分を思い出す。あの頃は、中学受験のストレスで、親に相当辛く当たっていた。部屋に引きこもり、勉強中だからと言って親が作ってくれた夕飯を拒否したりするほどであった。夕食を拒まれた親と口論に発展することもしばしばであった。
あの頃は、理屈では自分が悪いと分かっているはずなのに、親への怒りを抑えることができなかった。秀夫はそんな理不尽な自分に嫌悪した。その自己嫌悪さえもストレスとなり、更なる反抗心を産むという悪循環だった。
自分が親の立場だったら、こんな恩知らずな餓鬼は到底耐えられない。育児放棄も辞さないだろう。だが両親は、そんな自分を捨てたりなどせず、健全な自立を遂げるまで致命的な不自由なく育ててくれた。むろん、秀夫をこの世に産み落としたのは紛れもなく両親なのだから、その責任を果たしてしかるべきだと言われたらそれまでなのだが、秀夫は、両親に感謝しつつも、なぜ自分を産んだのかという月並みな疑問を拭えなかった。
確かに、息子娘というのは、親の自分が居ないと生きていけない存在だと思うと、それなりに生きがいになるのかもしれない。しかしそれはペットにも同じことが言えるはずだ。単に扶養者になりたいのなら、犬や猫を飼う方が圧倒的にコストパフォーマンスが良いのではないか。
もしかしたら、子供を産む理由を求める方がナンセンスなのかもしれない。思春期の子供が親に反抗的な態度をとる可能性を孕んでいるのと同じように、結婚したら子供が欲しくなるのもまた遺伝子に刻まれた人間の形質なのだ。そこに変に理屈を突き詰めたら非合理さを感じるのは当然だろう。理屈とは、単なる欲望の装飾品に過ぎない。
だが、遺伝子に刻まれた形質だからと言って開き直るわけにはいかない。たとえ反抗期が遺伝的に決められていたとしても――そもそも、『反抗期』という言葉自体が科学的に認められておらず、現時点においてこれを仮定するのは不自然に感じるが――、そこに自由意思が介入する余地があるならば、親への不当な精神的ないしは肉体的な暴力行為は回避するよう徹するべきだ。
それに、自分にも、理屈抜きで何となく子供が欲しいと感じるようになる日が来るかもしれないと考えると、少し怖かった。
「秀夫って、なんか難しいことを考えるんだね」美雪は言った。
「不毛だとは思っているよ。こんな中学生みたいな事をうだうだ考えても暗い気持ちにしかならないからね」
「いや、まあ、真面目だなあって思うよ。普通はそんな事で悩まないし」
「そうかい」
「じゃあ一応、私からも反抗期のエピソードを一つ話しておこうかな」
「興味深いね」
「私、昔は両親と並んで歩きたくなかったんだよね。家族と一緒にいると思われるのが嫌だったから、いつも両親より数メートル後ろを歩くようにしていた。
親が中学の授業参観に来た時の夜は凄かったなあ。『なんで学校に来たの』って言って喧嘩になったから、頭に来た私はそばに置いてあったビール瓶を床に叩きつけて、泣きながら家から飛び出したの」
「そいつは酷いな」
「ね、馬鹿みたいでしょ?」美雪はふふっと笑った。
「でも両親は、そんな私に愛想を尽かすことなく、最後まで責任を持って育て上げてくれた」――おれと同じようなことを言うんだな、と秀夫は思った――「だから私は、自分に子供ができたら、あの時親が注いでくれた愛情をそっくりそのまま注いであげようって決めているの。そしたらきっと、私たちの子供も、幸せに育ってくれるはず。もしかしたら、その子にもいずれ家庭を持つ日が来て、私たちから貰い受けた愛情を引き継ぐ対象を授かるかもしれない。勿論、無理に子供を産めとは言わないけれど。
でも、親の愛情って、こうしてバトンみたいに何世代にもわたって受け継がれていくのかなって思うと、ちょっと素敵じゃない?」
「んー、そうなのか」秀夫はあまり釈然としない気持ちで呟いた。
「あーごめん、やっぱ本気にしないで。今のは、即興でそれっぽい理由をでっち上げただけ。正直、子供を産む理由なんて、そんなに深く考えたことも無かったからさ」美雪は慌てて釈明した。
「えー。その嘘、必要なかったろ」
「しょうがないじゃん、勢いで喋っちゃったんだから。まあ、秀夫の疑問の一つの答えってことで、許してくれない?」美雪はにやにやしながら言った。
「全く、いい加減な事ばかり……」秀夫は美雪の適当さに呆れて笑った。同時に、美雪の飄々としている姿を見ていると、まだこさえる予定もない子供を産む理由についてあれこれ思索を巡らせるのも何だか馬鹿らしくなってきたな、とも思った。
「東京オリンピック、二○二○年に開催決定」
確か、新聞でそんな記事を目にした頃だろうか。
秀夫と美雪はおよそ五年間の交際期間を経て、遂に結ばれることになった。プロポーズは秀夫からだった。
「御嶽山、七年ぶりの噴火 死傷者五十人超」
美雪は念願かなって、遂に赤子を身籠った。男の子だった。
自分の腹越しに我が子を撫でる彼女の姿は多幸感に満ち溢れており、とても印象的だった。
秀夫も、昔ほど出産に対して否定的ではなくなっていた。それどころか、早く自分の子供が生まれて欲しいという気持ちまで芽生え始めていた。やはり昔の自分の言う通り、子供を欲しいと思う気持ちに理由など要らなかったのかもしれない。
その反面、もし子育てに耐えきれなくなったらどうしようという不安も未だ健在であった。赤ん坊のうちはまだ良いが、口をきくようになったら可愛くなくなるかもしれない。昔から園児や小学生は煩いからあまり好かなかったし、中高生のような野蛮な連中はもっと嫌いだった。果たして今美雪の中にいる子供はその例外なのだろうか?
だが、そんな心配はひとまず杞憂に終わった。
「新国立競技場計画、白紙に戻る」
生まれてきた赤ん坊は、とてつもなく愛おしかった。二人は、その赤ん坊に『秀斗』という名前をつけた。
彼と彼女は、新しい命に身を寄せ合い、家族の未来について朝まで語り合った。同時に彼は、この世の親と呼ばれる人間は、この生まれてきた時の幸せな記憶を支えにして子育てに励んでいたのだと悟った。
「沖縄県 首里城が全焼」
美雪は、二人目が欲しいと言い出した。過去に三人欲しいと言っていたのだから、そろそろだろうと思っていたところだった。
秀夫はその要望を肯定的に受け止めた。これまで仕事が忙しくあまり家庭に居られなかったが、秀斗という息子の存在は、確かに自分の心を癒してくれたし、反対する理由など見つからなかった。
それに、仕事だけでなく家庭にきちんと目を向ける良い機会でもあった。秀夫は、二人目ができた時は、美雪の負担を減らす為に、秀斗の面倒は自分がみようと考えた。
「ヨーロッパ諸国で染色体異常児急増 感染症の疑い」
美雪は二人目を妊娠した。今度は女の子だった。
美雪は、秀斗の時は買いに行く暇が無かったからと言って、早くも消耗品の買い出しや部屋の掃除等に乗り出していた。
そういえば、娘の名前を考えておこうとも言っていた。いずれも気が早すぎる話だった。
秀夫は、今朝新聞で見た障害児急増現象の記事が少し気がかりだった。もし感染症という話が本当ならば、日本に上陸してくることも有り得るのではないだろうか。だが、それを伝えたところで美雪に無用な心配をさせるだけなので、胸の奥にしまっておくことにした。
「原因不明の染色体異常児急増現象 ついに日本上陸か」
悪い予感は的中した。不安に思った秀夫と美雪は急いでNIPT検査を受けた。
「地方議会議員『障害児ウイルス』発言で炎上 障碍者福祉団体が署名活動」
検査の結果、二十一番染色体に異常が見つかった。ダウン症である。Z.H.B.現象によるものであることは明白であった。
秀夫は、自分の娘に貼られた障碍者というレッテルの存在に全く実感が湧かなかった。そのレッテルは、今まで秀夫が頭ごなしに忌避し、自分の世界と分断し、見ようとしてこなかったものだからだ。今まさにその娘を腹の中に有している美雪でさえも、現実を受け入れきれないといった様子だった。受け入れられるわけがなかった。
NIPT検査は非確定検査なので、確実な結果を求めるなら羊水検査を受けるべきだと言われた。ただ、他にも希望者は多数居るため、検査までには時間がかかるとのことだった。
その日の夜、二人は夕飯を食べなかった。部屋からは彼女のすすり泣く声が聞こえてきた。秀夫は、徐々に家庭が暗雲に包まれていくのがわかった。
「国内の月間中絶件数三万人を超える 産婦人科パニック状態」
羊水検査の結果は以前と何も変わらなかった。
こうして二人は、以前の検査結果は偽陽性であるという僅かな希望さえも捨てなければならなくなった。
是枝には、遠回しに早いうちに決断した方がいいと言われたが、当然すぐに決断できるはずがなかった。
憔悴し切った妻を連れて病院を出る時、秀夫は、泣き喚く赤ん坊をベッドに放置したまま虚空を見つめる女を見かけた。夫の姿は確認できない。赤ん坊の耳は潰れていて、口蓋が唇と鼻腔を縫い合わせるような形で裂けていた。このご時世ではもう珍しくない形態異常児である。中絶手術が間に合わず、望まない形で結ばれた親子に違いなかった。
秀夫は、生まれてくるその瞬間さえも幸せを感じられないのなら、この人はこれから先何を支えに子供を育てていくのだろうと思った。
「世界の健常児出生数、三週連続ゼロに」
秀夫は、堕す方向に気持ちが傾きつつあった。
この数日間悩みに悩んだが、障碍者の子供を抱える覚悟などまるで湧かなかった。
ダウン症の育児ブログや体験談を片っ端から漁ったが、いくら子供のためとはいえ、やはり自分には、価値観を一新して差別感情を捨て去るようなことは到底無理だと思った。
それに、灯にだって苦しい思いをさせるに違いない。灯の存在は、苦しみで満たされているに違いなかった。
美雪は、政府からの自宅隔離命令を受け、次第に家族と顔を合わせることさえ拒むようになっていた。秀夫もそんな妻にどう接していいのか判らず、話を切り出せないまま数週間が過ぎた。
「イタリア、ドイツの一部地域で外出禁止令が解除」
そしてある時、彼と彼女は、紆余曲折を経て、灯を堕す方向で意見が合致した。手術は一週間後になると是枝は言っていた。
「ヨーロッパ全域に解除命令、米各州も解除検討」
結局、私は貴方と同じだったみたい。ふとした時、病室で美雪はそんなことを言っていた。
「花札首相 外出禁止令解除の意向を示す」
どういう意味だ、と聞いても美雪は何でもないと頭を振るばかりだった。
「二○二一年一月一日より、外出禁止令解除が正式に決定」
そして明日、彼と彼女は自分の娘を堕す。
今日は、手術の前処置として、子宮口を広げる為にラミナリアを一本ずつ挿入していくのだ。この処置には、想像を絶する激痛を伴うらしかった。
秀夫は美雪を見送ると、病室の前の長椅子に座り、これまでのことを回想していた。
……つまり、おれも美雪も、選択することに疲れただけなのだ。どうしてまだ生まれてもいない灯の人生を不幸だと断言できたのだろう。今まで灯のためだとか家族のためだとか調子の良いことを言ってきたが、結局のところは、彼女の苦痛の証明を社会に押し付けて、命の天秤を「もし後でその決断を悔やんでも責任が生じない」方に傾けたに過ぎないのではないか。
胎児を殺しても罪には問われない。生命の境界線は人間にとって都合の良いように決められているのだから。秀夫は、それが悪いとは思わない。突き詰めすぎた倫理はいずれこの世の陰りとなると信じているから。
もしも灯が健常者だったら、秀斗は良き兄を全うしたのだろうか。もしも灯が健常者だったら、美雪は苦しまずに済んだのだろうか。もしも灯が健常者だったら、彼女を秀斗のように愛せたのだろうか。
それとも、変わるべきは灯ではなく俺だったのだろうか。
廊下には、美雪の乾いた慟哭が響いていた。
5
明日から、全都道府県の外出禁止命令及び営業自粛命令が解除される。
この日本とその他オセアニア諸国の解除命令を以って、全世界の政府が感染症対策を中止したことになる。遂に人類は、もしこの脅威が感染症によるものだったとしても、全ての人間が感染している為、これ以上の感染症対策は無意味だと認めたのだ。
今まで通りの生活を送るには、この脅威の正体が解明され、再び健常児を出産する機能を取り戻す手立てが見つかるまで待つしかない。だが、未だにZ.H.B.現象に関する研究成果が露ほども現れないこの状況で、事態の好転を前提とした社会を持続していくのは計画性が欠如していると言えるだろう。
したがって、現在我々は未来永劫健常児が誕生しないことを想定した対応を迫られている。
まずその対応として第一に考えられるのは、世間の染色体異常児に対する偏見を無くす為に、障碍者理解への啓発活動を推奨することだ。これにより、世間の染色体異常児を産むことへの抵抗を低減させ、出生率の向上を図る。そして、私たち『健常者』世代がダウン症患者をはじめとする染色体異常者を基準とした新しい社会を形成していくのだ。社会づくりの基準となる人種を『健常者』と呼ぶとしたら、染色体異常者はそうした社会づくりを通して『健常者』の仲間入りを果たすことになる。
ところが、出生率を上げたところで、社会全体の生産性の大幅な低下は免れない。啓発活動によって殖やせる新しい生命の数にも限度があるし、今回の騒動以降に生まれてくるであろう世代に、増え続ける予定の地球人口を支えられる程の能力が充分にあるとは現時点では思えない。
勿論、いわゆる『生産性の無い人間』は排除すべきという思想は危険だ。生産性の有無に拘らず、誰もが人間らしい生活を保障される社会こそ、人類が目指すべきものだと私も重々承知しているつもりである。
しかし、『生産性の無い人間』の生活保障というのは、社会全体に十分な生産能力が備わっていてこそ成り立つ。社会が抱え込める『生産性の無い人間』の数には限りがあるのだ。
もちろん、この『生産性』という言葉は、私たち旧『健常者』世代の価値観に基づいた考え方であり、染色体異常児との共存が叫ばれている現在では、あまり有効な規格ではないのかもしれない。
だが、何らかの方法で旧『健常者』世代と新『健常者』世代の共存が実現できたとしても、私たち旧『健常者』世代は数を減らしていく一方なのだから、ゆくゆくはマイノリティ集団に属することになる。それはつまり、結局は同じ社会の繰り返しであり、現在存在している多くの人間にとって都合の悪い社会の形成を強いられる可能性が高いということだ。そのうえ、いわゆる絶滅問題に対する解決策は何も提示されないわけだから、先ほど示した共存社会に、導入コストに見合うほどのメリットがあるとは言えないのである。
したがって私は、再三申し上げている通り、今回の騒動が『自主的な人類絶滅』への第一歩であると認識し直す必要があると主張する。これは、資源不足などの数多の環境問題から人類を救うだけでなく、社会に生産性という一面的な価値に捉われない余裕を作る有効な方法の一つでもあると考えている。
もっと端的に言い換えると、『健常者』世代を基準とした社会の持続を選択したうえで、『生産性のない人間』の数を抑えることによって、現時点で存在している『生産性のない人間』の生活を守ることができると主張しているのである。
この記事を以って、私の考えは差別思想や優生思想を伴ったものではないということを表明しておきたい。
一人一人が滅亡を意識することにより、人類の未来は変わっていくのだと、私は思っている。終末とは、日常の延長線上にあるべきものなのだ。
2050
1
無限に続くかのような微睡の中で、彼は一人佇み、娘を見ていた。
目蓋の裏に造られた無数の層が増減を繰り返しながら、徐々に深くなっていく。
今度は、後部座席から談笑する二人の男女を眺めていた。運転席には息子が、助手席には娘が座っている。車窓の外では、海原が太陽の光をあちこちに反射させながら、地平線にまで広がっていた。
娘は、肩先まで髪を伸ばしていて、薄花色のセーターを身に纏っていた。黄色い横顔から、人懐こい笑みが見え隠れする。
息子は何か白いもやに隠されてよく見えなかったが、彼の幸福は手に取るように感じられた。
二人が何を話しているのかはよく分からなかった。けれども、そんな事はさほど重要には思えなかった。ただ、この光景を眺めているだけで彼の心は安らいだ。
(お父さん)
娘がこちらに身を乗り出してきた。会話に加わって欲しいようだった。
彼はそれに応えようとしたが、何と言えばいいのか分からなかった。
いつの間にか薄暗い部屋の中に居た。
きっちりと閉められたカーテンの隙間から、朝日が朧げながらも顔を出している。その光はさっきまで居た世界の明度と相違なく、夢がそのまま現実でも連続しているかのように錯覚させられた。
しかし、彼の意識は今日も健気に虚構と現実との間に隔たりを作り始めている。たった今夢を夢だと認識できたのも、その隔たりのおかげだ。今なら辿れる夢の筋も、その隔たりを作り終える頃には、まるで砂浜に描かれた模様のように、忘却の波に消し去られてしまうのだろうな、と彼は思った。
自室の時計は午前六時半を指していた。彼は、虚構の世界へと引き戻されないうちに、まだ身体に残留する眠気に逆らいながら、ゆっくりと上体を起こした。足をついて姿勢を作り、腰を痛めないよう細心の注意を払って立ち上がった。腕を掲げて身体をそらし、背中に溜まった疲労を天に逃してやると、自室のドアを開けて廊下をのそのそと歩き始めた。
……また、死んだ息子と娘が夢に現れた。十年前に息子の訃報を聞かされてから、何度も同じような夢を見ている。彼女らは、自分たちを早逝させたおれを呪うわけでもなく、責め立てるわけでもなく、ただ生きた人間のように日常を過ごしていた。
おれは、連続しているのが悪夢ではなくて安堵する反面、自分がひどく傲慢にも思えた。息子はともかく、娘には恨まれて然るべきことをしたのに、なぜ彼女らは夢の中でおれを歓迎してくれるのか。
勿論、悪夢を見たからと言ってその苦痛が償いになるとは思っていない。そもそも、死人に許しを乞うことはできない。ただ、罪を犯した者は、その罪の重さに一生苛まれる方が自然であると考えているだけなのだ。
もしかしたら、誰にも恨まれず、ただ『もし、息子や娘が今も生きているのなら』というifの世界を過ごした方が、かえって罪悪感を掻き立てて苦しくなったりするのかもしれない。あるいは、まだ心のどこかで、許されたいという傲慢な望みが捨て切れていないのだろうか。
階段を降りると、妻の美雪がキッチンで朝食の準備をしていた。「おはよう」と彼が言うと、彼女も事務的に「おはよう」と応じて、洗い場からコンロの方へと退いてくれた。
秀夫は、美雪に退いてもらった洗い場で、コップに七割ほど水を注ぐと、一気に口に含んだ。潤いが隅々まで行き届くように顎で水を弄ぶと、シンク目掛けて吐き出した。序でに喉に巣食う痰も一緒に吐き出しておく。すかさず二杯目を注ぐと、今度は天を仰ぐようにして飲み干した。水は、口腔内に残留した酸味の層を幾分か洗い流すと、痰と絡み合いながら喉を滑り落ちていく。不快な成分を一掃して満足した秀夫は、使用したコップを水で洗うと、いつものようにコーヒーを淹れ始めた。
「今日、世絵子さんの手伝いに行こうと思ってるんだけど」
朝食の際、サラダにドレッシングをかけながら美雪は言った。
「そうか」と、秀夫は応じる。
「昼は、冷蔵庫に昨日の夕飯の残りがあるから、それ食べて」
美雪は素っ気なく言うと、ブロッコリーを口に運んで閉ざした。
「ああ……」秀夫も適当に相槌を打った。
その後、この夫婦の間で会話が交わされることはなかった。時折、食卓にはバターナイフと食パンの擦れる音が聞こえた。
この静寂に気まずさを感じたのは何年ぶりだろう。そんな感情はここ数十年の膨大な沈黙に静かに削り取られて風化したと思っていた。
今朝、家族の夢を見て、改めて美雪を妻として意識し始めたのだろうか。
いいや、ないな……。秀夫は妻を横目にコーヒーを啜った。
確かに自分の子供とは、仲睦まじい夫婦という演目のオーディエンスでもある。そういった子供の目によって辛うじて関係が保たれている夫婦も珍しくない。
だが、今まで何度も見たような夢で、今更虚構の世界に住む子供の目を気にするようなことがあるのだろうか。第一、あの夢に妻は登場しなかった。それならば、やはり介護のことが気がかりなのだろうか。
二年前、美雪の父である米澤一寿が亡くなった。参列の際、親族は美雪の母である米澤豊美に、いいかげん故郷の高知を出て娘の家で暮らすべきだと強く勧めたのだが、何故か彼女はその忠告を断固として拒否し、自らに故郷での孤独な生活を強いていた。その孤独が魔の手を引き寄せたのか、いつの日か豊美に何か致命的な人格の変化が現れ始めた。立ち振る舞いに落ち着きが無くなったし、こちらの話など聞く耳も持たず、癇癪を起こすのも頻繁になった。その症状は顔を合わせる度に悪化していき、それが前頭側頭葉型認知症によるものだと正式に診断されたのは、一寿の死からおよそ一年後のことだった。
それから美雪は介護のために家を空けることが多くなった。美雪は決して秀夫に助けを求めず、今日のように留守番の際の要のみを伝えて家から出て行ってしまうばかりだった。仕事で疲れているだろうと気を遣われているのだろうか。あるいは、関わりを持ちたくないから必要最低限の会話で済むようにしているのかもしれない。何にしても、呆けたのは姑で関係が薄いとは言えど、一応は家庭の問題なのだから、ある程度は苦労を分かち合いたかった。秀夫は、妻たちが僅かなプライベートの時間を割いて姑の介護をしている中、自分だけが蚊帳の外にいるのはひどくきまりが悪かった。
秀夫は、そのきまりの悪さに耐えきれず、朝食を片付けて黙然として家を出る準備をしている妻を見て、つい尋ねてしまった。
「俺も行っていい? その……豊美さんの介護に」
「別に構わないけど、なんで?」美雪は訝しげにこちらを見た。
「いや……、まあその、なんだ。いつも休日を返上して介護に行ってるから、大変そうだなって思って」
美雪は、怪訝そうな顔を崩さなかったが、やがて翻って、「ふうん、そう。じゃあ、世絵子さんにも伝えておく」と言った。
妻との外出は実に六年ぶりであった。
2
宇和島城から二時間弱、来村川沿いに車を走らせ、県境を超えると、二十年前に廃線になった土佐くろしお鉄道宿毛線の終着駅、宿毛駅の跡地が見える。そこから五分ほど北方へ進んだところに、美雪の実家はあるらしかった。
これまでの道のりのインフラは劣悪を極めていた。ラングラーが道路の亀裂や隆起の上を通るたびに車内は大きく揺れ、車窓が軋むような音を立てた。秀夫は、普段美雪は一人きりでこんな悪路を行き来しているのか、と目を丸くした。
だが、ここら一帯は十年以上前から市民社会サービス対象外区域である。南極に道路は敷かれないという喩えは些か言い過ぎではあるが、国に大金を出して守るほどの文化も名産もない無居住地域のインフラをわざわざ整備する義理はない。都市集約化という社会の流れにあえて背くような立場をとっている身として、そこら辺の理屈は重々承知しているつもりである。
しかし、やはり衰退とは虚しいものだなと秀夫は思った。今こうして眼前に広がっている家々が全てもぬけの殻だと考えると、少しだけ悲しくなった。まだ純粋無垢だった息子に性知識を啓蒙した悪童も、畦道でふらつきながら自転車を走らせていた老人も、皆どこかへ消えてしまった。以前ここら辺には一面に田畑が敷き詰められていたはずなのだが、今は草木が無造作に生い茂っており、開拓地が徐々に自然に還っていくのを見て取れた。
廃校舎の角を右に曲がると、突き当たりに広がる墓地の隣に木造の屋敷が建っていた。推定百坪くらいはありそうな屋敷は、その壮麗な見た目の反面、全体的に暗く滲んでおり、腐敗の進みを窺わせた。それでもかつては大所帯を支えたという自負を屋敷全体から感じとることが出来て、若かりし頃の美貌を想わせる老婆のようでもあった。
「毎度毎度こんな辺境へ出向いてもらって悪いねえ。秀夫さんもどうもご無沙汰で」美雪の妹、米澤世絵子がその屋敷の玄関先で迎えてくれた。
「お久しぶりです」と、秀夫は軽く頭を下げた。続けてこれまで四ヶ月間も姑問題に我関せずでいたことを詫びておこうと思ったが、まだ謝罪が済んでいない美雪を前にして言うのは憚られ、言葉に詰まった。
しかし世絵子は秀夫の不安そうな振る舞いなど気にも留めず、待ってましたと言わんばかりに喋り始めた。
「いやあ、人手が増えて本当に助かります。私一人で二十四時間つきっきりだし、頼れる近所の人もいないし、もう限界だったんですよ」
「苦労されてるんですね」
「ええそりゃあもう。そういえば、秀夫さんとは結構ご無沙汰でしたよね。最後にお会いしたのっていつでしたっけ」
「ええっと、たしか、一寿さんの通夜以来じゃないですか」
「はあ~、じゃあもう五年も前なんですか。早いもんですねえ」
今度は美雪の方に駆け寄り、すぐさま捲し立てる。
「聞いてよ美雪。遂に豊美さんに大便を投げて遊び始めたんだよ」
エエッ。美雪は驚愕と悲嘆が入り混じった声をあげた。
「既に弄便の症状が出ていたのは知っているでしょう。でも、今回のは特にショッキングだったの。昨日の夕方ね、夕食の準備をしてた最中だったんだけど、豊美さん、ちょっと目を離した隙に、また居なくなっちゃってさ。いつもみたいに伊藤さん家に行ったんだろうなって思って見に行ったんだけど、誰も居なくて。じゃあ森見さん家かなって思ったらそこも違くて。『遂に知らない人の家にも上がり込むようになってしまったのか』と途方に暮れていたら、井上さん家の方から、何やら、べちゃ、べちゃって音が聞こえてきてさあ! この街は静かだから、そういう些細な音でも聞き取れるんだけど、私『まさか!』と思って、そっと居間を覗いてみたんだよね。そしたら、中では豊美さんがオムツの中の大便を弄って壁に投げつけて遊んでたんですよ! 現場を目の前で見た時は現実を受け止めきれなくって、『ああ、そういえばお母さんって高校は女子野球部だったからなあ。壁当て練習のつもりかな』なんてぼんやり考えたりしたものだけど、大便を片付けてるうちに、段々これが自分の親なのかって思いが溢れてきて、もう涙が止まらなかった。そりゃあ噂には聞いてましたけども、いざ自分の親のそれ[#「それ」に傍点]を目の当たりにしたら、悲しくて悲しくて」
秀夫は世絵子のあまりの勢いに圧倒されそうになったが、考えてみれば仕方のないことだった。世絵子は、普段は無居住地帯に痴呆の老人と二人きりで暮らしているのだ。介護の愚痴でさえ画面越しにしか聞いてもらえない環境で、久しぶりに面と向かって話せる相手が現れたのだから、興奮状態になるのは無理もなかった。
「そんなにお母さんの認知症が進んでいたなんて……」美雪は困惑を隠しきれない様子だった。
世絵子は、一通り話終えると、いきなり喋りすぎてしまったことを恥じたようで、申し訳なさそうに言った。
「ごめんなさい。私ったらせっかくのお客さんを玄関に立たせて話し込んでしまうなんて。しかもこんな汚い話……」
「いえ、無理もありません。これほどのショックを一人で抱え込むのは苦しかったでしょうし……」
「そう言ってくださると救われます。どうぞ、上がってください」
玄関と居間を繋ぐ廊下を進む途中で、薄暗い和室の真ん中にどこか恍惚とした表情を浮かべて座っている一人の老婆が目に入った。
目蓋や頰肉は垂れ下がり、顔のシワには埃が溜まっているように見える。シミだらけの皮膚には血管や関節の形がくっきりと浮き出ており、無造作に広がった白髪はまるで使い古した歯ブラシのようだった。
一見、それは年相応な老化現象であり、世絵子や自分たちと同様の性質のものに思われた。だが世絵子の話を聞く限り、いつも気丈に振る舞って米澤家を支えていた頃の豊美の姿は失われてしまったのだろう。一見しただけではその空洞化を実感できないという点は、この村に立ち並ぶ家々に似ているな、と秀夫は思った。
「お婆ちゃん。美雪さんと、秀夫さんですよ」世絵子は低い声で豊美を呼ぶ。豊美は、とろんとした目をこちらに向けて、二、三回頷くのみだった。
「ごめんなさいね。また、後で話しかけてみてください」世絵子は慣れた口調で許しを乞うた。
秀夫は、一連のやり取りを見て、秀斗が幼い頃にこの家で飼われていた猫のことを思い出していた。秀斗は猫が大好きだったので、米澤家に来ると必ず猫に付き纏っていた。豊美も秀斗を喜ばせたかったようで、秀斗が猫にかまうたびに「おリンちゃん、秀斗に挨拶なさい」などと優しく呼びかけていたのだが、当の猫は呼びかけに一切理解を示さず、秀斗や豊美を煩わしそうに遇らった後、鈴をしゃらしゃらと鳴らしながら自分の寝床へと駆けていくのであった。今の世絵子と豊美の会話はまさにそれで、以前は熱心に猫へ挨拶を呼びかけていた豊美が、数年後には実の娘に全く同じ事を言われている光景はなんだか滑稽だった。
「じゃあ、お茶を淹れてきますからね。ほうじ茶でいいかしら?」世絵子は落ち着かない様子で尋ねた。
「気を遣わなくて良いんだよ、世絵子」と、美雪は世絵子を宥めた。
「淹れさせてよ。この街に四人も人がいるなんて滅多にないんだから」
世絵子はそう言うときびきびとした動作で台所へ向かってお茶を淹れ始めた。ここにまだ水道と電気が通っていることに驚きだった。もうとっくに役所に愛想を尽かされたとばかり思っていたが、近くに国立の研究機関があるため、辛うじてCSS対象外区域入りは免れているのだ。
まもなく、ほうじ茶が木目のテーブルに置かれた。
秀夫は、厄介ごとは今のうちに済ませてしまおうと、開口一番に謝罪を口にした。
「この度は、米澤家が大変な時に四ヶ月間も顔を見せなくてどうもすみませんでした。正直、介護と聞くと行きづらくって……」
「気にしなくていいんですよ。これは米澤家の問題ですから」
「そうは言ってもですね、やっぱり、自分でも薄情すぎたと反省しております。美雪にもすまないことをした」
「貴方が気にするようなことではないと思うけど」美雪は我関せずという風にお茶を啜りながら、平然と秀夫の発言を一蹴した。
「まあ、とにかく来てくださったことは本当にありがたく思っとるんです」世絵子はたまらず口を挟む。「他の親戚連中は皆本州の方に移ってしまいましたから、なかなか会いに来てくれないんですよ。四国に居てくれるだけまだまし[#「まし」に傍点]――いや、嬉しいですから」
「いえ、別にそんな……僕らは、近くに宇和島城があって、多少人口が減っても国が文化財保護の為に守ってくれますから、移住の必要はないって言うか……」秀夫はそこで何かに思い至った。
「そうだ。重要文化財の近くに移住するのはどうですか。重要文化財が近くにある土地は、人がいなくなってもしばらくは安泰ですよ」
「そうは言ってもねえ、秀夫さん」世絵子は困ったような笑みを浮かべて言った。「豊美さんが、ここを離れるわけにはいかないと言うんですよ。それも、凄まじい執念でして。一度だけ、試験的に本州に住む弟の家に豊美さんを連れて泊まったことがあったんですけど、三日過ぎたあたりから段々怪しくなってきて、『帰りたい』だの、『なぜお前らは高知を出て行ったんだ』だの喚き散らかし始めたんです。義妹は隣人に頭を下げて回りましたし、姪は顔面を殴られ眼鏡を壊されました。弟にもう来ないでくれと言われた時はショックでしたけど、豊美さんが垂化した事を考えれば仕方なかったのだと思います」
「なら、高知県内で移住先を探すのはどうでしょう。 高知にも重要文化財はありますよ。ここからなら大平寺とかが近いんじゃないですかねえ」
「うーん、どうなんでしょうね……。いやまあ、多分ですけど、この人は宿毛市じゃないと駄目だって言うと思いますよ」
「はあ、そうなんですか」秀夫は今一つ解せないといった様子で言った。世絵子はすかさず続ける。
「まあ、この人は、生まれてからずっとこの街にいるもんだから、今更離れるのは抵抗があったんでしょうねえ。それに、知らないうちに出歩いたりするでしょ。この街なら人様にも迷惑をかけないし、電車や車に轢かれる心配もないから、こちらとしても気が楽なんですよ。今思えば、彼女の故郷への執着って、認知症の常同行動の一環だったのかもしれませんね」
「なるほど……そうですか」
釈迦に説法だったかな、と秀夫は自身の言動を恥じた。むろん、これくらいのことは真っ先に思いつくだろうし、何か留まる理由があってのことに違いないと思い至らなかったわけではない。提案というより、純粋に移住しない理由を知りたかっただけなのだが、相手にその意図が伝わるような言い方が出来たかどうかは微妙であった。
「あの、急で申し訳ないんですが、そろそろ私は出版社の方に行かなくてはならないので、失礼します」
世絵子は椅子の下に置いてあった鞄を手に取って、申し訳なさそうに持ち上げて見せた。
「あれ、もう行かれるんですか」秀夫は予想よりも早い世絵子の申し出に意表を突かれた。
「はい。いらっしゃったばかりの所申し訳ないのですが」
「いえ、気になさらないでください」
「豊美さんの介護のことは、美雪に聞いてください。本当に急ですみません。それでは」世絵子は持っていた鞄を小脇に抱えてそそくさと出て行ってしまった。
「お気をつけて」と、秀夫は努めて穏やかに言いつつも、美雪に介護の説明を求めなければならないことに少しばかり悄然としていた。
世絵子は美雪が家に来る日に合わせて外に用事を作るので、いずれは二人きり[#「二人きり」に傍点]で留守番することになるだろうとは覚悟していたのだが、まさか介護のイロハすら教えてもらえぬうちに取り残されるとは思わなかった。元々おれが来る事は予定に入っていなかったのだから仕方ないにしても、世間話の時間を削れば、せめて基本だけでも教えるくらいできたはずだ。世絵子が秀夫と美雪の関係が冷え切っていることを知らないはずがないのだから、美雪との会話が最小限で済むように気を遣って欲しかった。
「それ、片付けて良い?」美雪は空っぽになった湯呑みを指して聞いてきた。
「ああ」と、秀夫は一言で返事を済ます。
美雪は黙って自分の湯呑みと重ねると、茶菓子と一緒に台所の方へと運んでいった。
(続く)
終末は汝のために