赤いパプリカ
赤猫幻想小説 話はハンガリーでの赤い猫。縦書きでお読みください。
赤(あか)丹(に)はマルギット橋を渡って、ペシュト側に来ると、ドナウ川沿いを歩いた。脇を2番トラムが走っていく。夜だと行く手にセーチェニ鎖橋の照明が輝いている。
ここ、ブタペシュトのドナウ川沿いの夜景は世界で一番だとも言われている。確かに何度来ても奇麗だという感動が薄れない。やっと、セーチェニ鎖橋のところに来た。その橋をブダ側に渡ると、今度はエルジェーベト橋まで歩く。また橋を渡ってペシュト側を自由橋まで歩いて、再びブダに戻る。これで、四つの橋を渡ったことになる。
おそらく八から九キロも歩いたことになるだろう。若い赤丹でもかなり大変なことである。今までは、トラムを使って、四つの橋を渡ってきた。しかし、今日は最後、百回目である。歩いて四つの橋を渡ったのである。そこから、トラムと地下鉄を利用して自宅まで帰った。
一日のうちに四つの橋をすべて渡る。それを百回行なうと、願いがかなう。なぜかそれを信じた。日本のお百度参りと似た話である。ハンガリーには日本にある神話や昔話によく似た話がある。このお百度のことは、マーケットのパプリカ屋のおばあさんから聞いた話だ。
「あたしゃ、若い頃に一日のうちに四つの橋をわたるのを、三年かけて百回やって、亭主を捕まえたのさ、いい亭主だったよ、おととし逝っちまったけどね、あんないい男はいないよ、ペシュトの女の憧れだったさ、それがあたしの亭主になったんだよ、働き者でね、子煩悩、孫が八人もいるんだよ、この店だって、頼まれて、このマーケットに入ったのさ」
そういうマリアばあさんは九十を越しても元気にパプリカを売っている。足元には四角い顔をした赤い猫が寄り添っている。
「赤い猫はね、あの四つの橋をわたるのを百回やった者にしかなつかないのだよ」
確かに、その猫はマリアばあさん以外には知らん顔である。店に来た人が頭をなでると嫌がるようなそぶりを見せ、好きなはずの咽をさすろうとすると、さっさと店の奥に入ってしまう。
その頃、まだハンガリーに来て間もなかった赤丹は英語しかしゃべれなかったが、ハンガリー語をまじえながら、「仕事だと、車で何度も通るのではないですか」といらぬことをきいたのだ。
「日本の奥さん、それがね、一日のうちに四つの橋、すべてを歩いて渡らなければならないんだよ、それを百回」
「毎日ですか」
「いや、それは、何日かかってもいいんだよ、ともかくすべての橋を一日のうちにわたるのさ」
「日本にも、橋を渡るのではないのですが、毎日同じことを百日続けると願いがかなうという話があります」
「やっぱり日本は勤勉だね、だけと、年寄りじゃ、それは願い事が出来ないだろう、からだの悪い人はそれじゃ無理だよ、マジャールオルザークはそういう人にもやさしいんだ、一日おきでも、週に一回でもそれをすればいいのさ、いつかは百回になるもんさ」
おおらかでいいな、赤丹は日本人であることがなんとなく恥ずかしいと感じた。確かに、弱者のことを考えれば、毎日でなくても良いはずだ。
それと、その時、はじめて、マジャールオルザークということばを聞いた。おそらく、このあたりの人間のことを言ったのだろうと、想像したのだが、家で、亭主のアルムスに聞くと、「それは古い言葉で、ハンガリーという国のことをいうのだよ」と笑った。
ハンガリー人のアルムスは、日本の大学に留学して、日本の中堅商社に勤めた。赤丹はそこで彼と出会い、結婚したのだ。しばらくは日本で暮らしていたのだが、結婚して三年目に、ハンガリーへの出張を命じられた。会社としてもそのつもりでアルムスを雇ったのだろう。いずれは、支店でもだすつもりかもしれない。
アルムスはペシュトのバラッツに一戸建てを借りた。静寂な住宅街で、街中にも出やすい、いい環境である。
ブタペシュトにきて、赤丹は日本人会のようなものには入らなかった。ただ、料理の好きな赤丹は日本語が少しわかる人がやっているハンガリー料理の教室には通った。もちろんアルムスと、地元のいろいろな店に行ってハンガリー料理を味わった。ハンガリー料理が好みでもあったのだ。
料理教室には日本人の奥さんも数人来ていた。赤丹と同じように亭主がハンガリーに赴任したので一緒に来た人たちである。
先生のシルビアは、日本に十年ほどいたことのある女性であった。太った赤ら顔の人のいい女性であった。シルビアは面白い日本語を話す。
「赤丹しゃん、パプリカにはいろいろある、とても辛いのがある、ほら、これ、小さくて青いの、丸いの、とても辛いよ、気をつけて」
そのパプリカは、ちょっとかじっただけで、赤丹には失神しそうに辛かった。ハンガリーの代表料理であるパプリカチキンやグヤーシュなど、香辛料とチリペッパーのきいた、辛味の効いたものが多い。
料理教室の日本人の奥さん方の旦那は日本人の医者や研究者で、ハンガリーの大学に一年ほど研究に来ている人たちであった。商社マンの奥さん方とはちょっと違う感じがする。あまりべたべたとすることはなく、赤丹とは特に親しくなるわけでもなく、淡々としているところがあって気が楽だった。一年で日本に帰ることがはっきりしているからかもしれない。
アルムスは日本料理が好きで、ハンガリー料理は家で無理して作らなくてもいい、外に食べに行けばいいよ、と言っているが、折角ハンガリーにいるのである、もしかすると、永久にハンガリーかもしれない。自分のハンガリー料理を作りたいと赤丹は思っていた。
最初に教わったのは、やはりパプリカチキンである。家でも作ってみた。もも肉や手羽先を使うが、レストランで食べたのは手羽先だったので、マーケットで手羽先や玉葱を買った。パプリカや香辛料はすでに買ってある。教わったとおりに、作ってみた。しかし、レストランで食べたものとはだいぶ違う、たくさん作ったほうが美味しくできるのだろうが、鶏の肉の選び方もあるのだろう。しかし、アルムスは「美味しいよ、日本的だけどね、僕は好きだよ、レストランと同じにすることはないよ」と言ってくれた。
マーケットのパプリカを売っているマリアばあさんとはよく話す。
「料理って言うのは、家によって味が違うものさ、アカニはアカニの味にすればええよ、一度食べてみたいねえ」とおばあさんは言った。赤い猫が金色の目を細めて赤丹を見る。少し慣れたようだ。頭をさすると、嫌がりはするが、どこかに行ってしまうことはない。
「ハラースレは食べたかい」
マリアばあさんが聞いた。
「うん、オレグハラースというレストランで食べたけど、美味しかった」
「そこは、きっとブタペシュト風だろうよ、ハラースレは地方地方で味が違うんだよ、ゼゲドが本場さ」
ゼゲドはブタペシュトの南東方向にある由緒ある町である。
ハラースは漁師という意味である。ハンガリーには海がないが、ドナウ川もあるし、大きな湖もある。バラトン湖は保養地としても有名である。だから、淡水魚しか食べることができない。鯉、鯰、フォーガッシュという魚の料理が一般的である。
漁師が釣り上げた魚をその場で料理をしたのがハラースレすなわち、ハラーススープで、鯉などの魚とパプリカ、それに玉葱などを入れてぐつぐつ煮たものである。やはり香辛料のパプリカが入っている。赤丹は作りたいと思うのだが、料理の先生はまだ教えてくれない。
「美味しいハラースレを作ってみたいなあ」
赤丹がマリアに言うと、「いろいろな味のハラースレを食べてごらん、作り方は難しくないから、ただ、いい魚を選ばなければね」と言った。
アルムスに「ハラーススープは好き」と聞くと、「もちろんさ」と答がかえってきた。
「シルビアはまだ教えてくれないの」
「家庭では、クリスマスに作るんだ、それでまだ教えてくれないのじゃないのかな」
「あなたは作れるの」
「ああ、ママがよく作ってくれたよ、それに、子牛のスープも美味しかった」
アルムスはペイチに近い、バヤというところの出身である。一度連れて行ってくれたが、小さいが奇麗な町で、ドナウ川が流れている。しかし両親も家ももう無い。
「材料が肝心だね、失敗するっていうことは無いよ、美味しい魚なら、どのようになっても食べられるよ」
と笑った。さらに、
「その、美味しい魚が難しい、だけど、マーケットで売っている新鮮な魚なら大丈夫、作ってごらんよ、香辛料のパプリカと玉葱を入れて煮りゃいいんだ。塩などは味見しながら入れればいい」
と、いとも簡単そうに言う。確かに、自分で工夫してみるのもいいだろう。
そう思って赤丹はマーケットで「ハラースレを作るのにいい鯉がほしい」と、あまり大きくないものを選んでもらった。「ハラースレ用におろしといたよ」と、魚屋の叔父さんが、三枚におろしたものをビニール袋に入れてくれた。
家に帰ると、玉葱をみじん切りにし、炒めた上で、魚とともに乱暴に煮て、かなり魚が崩れたところで、漉して、魚とスープをわけた。スープにチリペッパーと塩をいれて、漉したものから食べられる身を、戻し、改めて煮た。さて、味見をすると、魚はそれなりに食べられるが、やはりレストランで食べたようにはいかない。
「ああ、素朴でいいじゃないか」と、アルムスは言ってくれたが、これから、工夫が必要だろう。香辛料や、魚の選び方、上手になりたい。赤丹はちょっと楽しみが増えた。
料理教室では、パプリカの肉詰めや、豆のスープなどを教わり、少し食卓がハンガリー風になってきた。しかし、アルムスはご飯と味噌汁、肉じゃが、豆腐、そんなものを食べたがる。
マーケットには様々なものがある。肉類は安くて、便利だ。サラミやソウセージ類は豊富で美味しい。驚いたのは、レバーペーストである。直径が七ー八センチもある太くて長いソーセージがあり、なんだと思っていたところ、ケノマーヨシュすなわちレバーペーストであった。日本では、中村屋のレバーペーストしか知らなかった。父親が好きで、東京に行くと買ってきたものである。ブダペシュトのものに比べるとはるかに小さいもので、しかも高価であった。それが、ここでは、とても安く、栄養価の高い食べ物として、庶民の間で当たり前のように食べられていた。厚く輪切りにして、パンにはさんで食べるととてもおいしい。
ブタペシュトにきて二年が過ぎた。ハラースレはいろいろ工夫しながら、作ってみてだんだん自分の好みの味になってはきた。アルムスの仕事も順調で、しばらくハンガリーにいることになりそうであった。
アルムスは子供を欲しがったが、どういうわけかなかなか出来なかった。赤丹もアルムスもいたって健康体である。
そんな時、マーケットの野菜売り場のマリアばあさんから、一日のうちに四つの橋を渡り、それを、百回行なうと、願いがかない、その上、赤い猫と仲良くなれるということを聞いたのである。
赤丹は、子供ができるように、それに、ハラーススープが美味しく作れるように願って、橋を渡ることにしたのである。彼女は渡るごとに、回数をつけておいた。アルムスと旅行に行ったり、風邪を引いたりして、毎日できたわけではないが、はじめてから一年五ヶ月ほど経った、今日、六月四日、百回を達成したのである。
明くる日はペンテコステ、すなわち、キリスト復活五十日の祝いで、国中、仕事は休みである。その日、アルムスとセンテンドレまでドライブをすることにした。ドライブをしながら、アルムスにマリアばあさんに言われた四つの橋渡りを百回達成したことを言うと、「何を願ったんだ」と聞いたので、「赤い猫と話せるようになることと、もう一つ」といっておいた。彼は、そのような風習に関しては知らないらしい。バヤ生まれからかもしれない。
センテンドレではマルギット・コバチの美術館や、フィエンツイー・カーロイー美術館を見て、街中のレストランで食事をして、家に戻った。
次の日、買い物に出た赤丹は、マーケットの入口から中に入ると、野菜売り場で、マリアばあさんが、椅子に腰掛けて客の一人と話しているのが眼に入った。願掛けを達成したことを話そうと思って、売り場にいこうとしたときに、柔らかいものが赤丹の足に擦りついた。ふと下を見ると、マリアばあさんの赤い猫が擦りついている。なんだろうと思って、赤い猫の頭をなでると、赤っぽい髭を手に擦りつけた。もしやと思って抱き上げると、赤丹の腕の中でグニャンと嬉しそうに目を細めた。やっぱり、百回、四つの橋を渡ったので願いがかなったのだろうか。そのまま猫を抱えて、マリアばあさんのところに行くと、マリアばあさんが振り向いて「やったのかい」と笑顔になった。
赤丹は頷いて、猫を下に下ろした。
「願いはかなうよ、人に言わないでおきな」
とマリアばあさんは言った。
「あたしを信じたのはあんただけさ、今時のブタペシュトの若い連中ったら、あたしの言うことを聞こうともしない、日本の奥さん、あんたは幸せになるよ」
そう言うと、真っ赤な大きなパプリカをとって、「お祝いさ、もっておいきよ」と差出した。
「え、いいの」
「もちろん、それからね、いつか赤い猫があんたのところに住み着くけど、赤い猫は赤いパプリカが大好物なんだよ」
「パプリカを食べるの」
「そう、マジャールオルザークのヴォーロシュ、マチュカだからね」
ヴォーロシュは赤、マチュカは猫だ。それにしても、猫の好物がパプリカだとは不思議だ。鼠は捕らないのだろうか。
「パプリカしか食べないの」
「いんや、パプリカが一番好きなんだよ、もちろん、魚も好きさ、ハラースレなんか好きだよ」
「鼠は食べるの」
マリアばあさんは大きな口を開けて笑った。
「仲がいいよ」
そこへ、赤い猫がマリアばあさんの脇におちゃんこをした。おばあさんがひしゃげた赤いパプリカを下に置いてやると、赤い猫は、がぶっとかじりついた。
「この猫ちゃん、名前はなんていうの」
「エメッシュ」
「かわいいのね、今日はパプリカとゴンバをいただくわ」ゴンバは茸である。
「今日は茸の料理かね」
「ええ、スパゲッティにしようかと思って」
「そりゃいいね、牛肉をお入れなさいよ」
と、マリアばあさんは袋に、マッシュルームを大きくしたような茸を数個と赤いパプリカを三つ入れた」
本当に赤い猫がなついた。
なんだか、うきうきして、家に帰った赤丹はスパゲッティーの用意をした。
「ねえ、アルムス、あの言い伝えほんとだったのよ」
「どうしたんだい」
「マリアの赤い猫がなついたのよ、自分から寄ってきたの」
「そりゃあ良かったじゃないか」
茸のスパゲッティを出すと、彼はいつもより旨いと、おかわりをした。
「これからもいいことがあるさ、四つの橋を渡るのは続けた方がいいよ、からだにもいい」
そういわれて、赤丹は、もう一度、百回やったらまた新しい望みがかなうのだろうか、マリアに聞いてみようと思った。
そして、一月経つ頃、赤丹は妊娠した。アルムスの喜びようはなかった。彼の仕事がさらに発展していて、おそらく、ブタペシュトに支店が開設されるだろうというところまでいった。彼が支店長で、部下は現地採用である。彼は飛び回っている。
「マリアさん、私、願いがかなったのよ、子供ができた、結婚して五年なの」
彼女は、マリアばあさんに報告した。
「おお、日本の奥さん、本当によかったね、日本人はまじめに、言い伝えを信じるからいいのだよ」
「また、百回橋を渡ったら、新しいお願いがかなうかしら」
マリアばあさんは、歯の抜けた口を大きく開けて、高らかに笑った。
「そりゃあ、欲張りすぎだよ、だけど、子供ができたんだから、歩いた方がいいよ、悪いこたあないさ」
確かにそうである。ちょっと、赤丹は恥ずかしくなった。
「素直ないい奥さんだ、いい子供が生まれるよ」
赤い猫、エメシュが赤丹に擦りついてきた。
「ありがとう」
その日、御礼も兼ねて、四つの橋を渡ってみた。かなりの時間がかかり、これを続けるのは無理なことが分かった。でも、一日に一つぐらい渡ろうと思った。
アルムスが「お手伝いさんを雇おう」と言った。赤丹はちょっと戸惑った。というより、日本人はあまりそのような習慣が無い。他所の人が家に入るのがなんとなく怖いところがある。しかし、ヨーロッパでは普通なのかもしれない。
「赤丹はこれから子供を産む準備をしなければならないし、俺の方は支店を開設するのに、仲間を家につれてくることもあると思う、小さなパーティーを開くことになるよ、そのためにも、お手伝いさんを雇う必要がある、費用は大丈夫だ」
彼はそう言って、「友人にいい人を探してもらうが、いいかい」と聞いた。
赤丹は、どうしたらいいかわからないこともあるが、慣れないとだめだろう、頷いた。
そのような話をして、二週間経たないうちにお手伝いさんがきた。
長い赤い髪を頭の上でまとめている、堀の深い顔立ちの女性だった。
「エメッシュだよ、友達が探してくれたんだ、料理は上手だし、子供にもなれている。日本語はだめだけど、英語は少し出来る、なんでもたのんだらいい」
エメッシュは、高い背をかがめて、日本風にお辞儀をすると、にこやかに「よろしくお願いします、奥様」と言った。
「赤丹です、こちらこそ、よろしくお願いしますね」と赤丹もお辞儀をした。
「彼女には、朝の十時から、夕方の四時まで働いてもらう、水曜日がお休み」
「そんなに長くいいのかしら、ご家族があるのでしょう」
「大丈夫だそうだよ、ただ、エメッシュは、夜、歌を歌っているから朝早くこれない、朝の食事はきみに頼むよ」
「もちろんいいわよ、何もしないと大変、それで、どこで歌っているの」
「ジャズバーだよ、ジャズというより、ハンガリーの古い歌が得意だそうだ、俺はまだ聞いたことが無いけどね、一度いってみよう」
「いいわね」
エメッシュは、すぐに、台所をチェックし、掃除の方法や、洗濯の方法などを、赤丹に相談した。二日後からくるという。赤丹にはとてもあたりが柔らかくて、ほっとする女性だった。
午後、エメッシュと一緒に買い物に出た。マーケットで、マリアばあさんのところに連れて行った。そこで、マリアばあさんの赤い猫と同じ名前であることに気が付いた。
「おや、お手伝いさんかい」
「ええ、エメッシュ、これから、買い物も頼むことになるからよろしくお願いします」
「うちの猫と同じ名前じゃないか」
マリアばあさんは、マジャール語でエメッシュと早口でしゃべると、
「日本の奥さん、いい人見つけたね」と笑った。
赤い猫のエメッシュが、エメッシュに擦りついた。赤猫が慣れている。もしかすると、エメッシュも、あの言い伝えを知っていて、橋渡りを行なったのかもしれないなと、ふと思った。
「エメッシュ、ハラースレはつくれる」
そう聞くと、笑顔で頷いて、ちょっとたどたどしい英語で「はい、奥様、得意です。今日つくりますか」と、きいてきたので、頷くと、魚売り場に行った。
魚売り場のおじさんとも、顔なじみになっている。ハラーススープをつくるためにずい分魚を買った。
「お、日本の奥さん、今日も、ハラースレかね」
「ええ、エメッシュにきてもらうことにしたの、今日はエメッシュが作るわ」
おじさんはエメッシュと、早口で、二言三言、ハンガリー語で話をした。エメッシュは一匹の魚をとった。鯉である。
「これはいい、鯉だよ、この人はきっといい料理人だよ」
おじさんは、エメッシュに魚を袋に入れてわたした。
「これからもよろしくお願いしますね」
おじさんは赤丹と、エメッシュに目で挨拶をした。
家に帰ると、エメッシュは食器棚を開けて「どれを使ってもいいのですか」ときいた。
「もちろんよ、好きなように使ってね、それに必要なら、買ってください、アルムスが会社の人を連れてくる時には、足りないでしょうから」
「はい、パーティーの時、必要なら私もお手伝いするようにします」
「だけど、歌を歌っているのでしょう」
「ええ、でも、前もって分かれば休みはとれますから」
「無理しなくてもいいけど、お願いすることもあるかもしれないわね」
エメッシュがちょっとかしこまって言った。
「奥様、私に、日本料理を教えてくださいませんか」
「あ、それはいいわね、アルムスは日本料理が好きだから、刺身は無理だけど、てんぷらなどの揚げ物や、豆腐料理を教えてあげるわ、ご飯もいろいろあるのよ、炊き込みご飯」
ご飯そのものは、電気がまで焚くことが出来るが、中に具を入れて焚くのはこちらの人はあまり知らないだろう。
「お願いします」
「エメッシュは、ご家族はいないの」
「ええ、一人です、ゼゲドに年とった両親がいます、たまに帰ります」
あのハラーススープで有名なゼゲドである。
「ハラーススープもおいしいのですが、サラミの生産を最初に行なった町なんですよ」
エメッシュはそう言いながら、自宅のアパートの住所と、電話番号を紙に書いて「携帯電話です」と言って渡してくれた。
「エメッシュが住んでいるアパートは遠いの」
「いえ、地下鉄で十分ほどです」
その後、エメッシュは夕食の用意をした。
その日、作ってくれたハラーススープは、とても美味しかった。あまり辛くない、しかし、魚の味と匂いが、スープの中で、他の香辛料と溶け合って、舌触りと香りがとろりとしたものになっている。魚ももちろん美味しい。
作るところを見ていたら、玉葱の量と炒め具合、香辛料の量、入れるタイミング、やはり熟練者だ。すぐに真似は出来ないという思いになった。
アルムスは「これはきっと、ゼゲドの味なんだよ」と言って、「うまいな」とも言った。
「あたしも練習するわ」
「いや、君のは君の味じゃなきゃな、同じにすることはないさ」と前と同じことを言われた。
ハラーススープだけではなく、ジャガイモの茹で方も、チキン料理も、エメッシュのつくるものは、美味しかった。赤丹は、エメッシュが料理をしている時、一時も離れずに見ていて、ノートに細かく書き残した。一方、エメッシュに日本の料理を教えた。エメッシュは物覚えが速く、器用だった。一番知りたがったのは、酢飯である。酢の調合を教えたら、自分で調合して、美味しい寿司飯を作った。ハンガリーでは、刺身はあきらめていたのであるが、サーモン、アボガド、きゅうり、パプリカの寿司は、結構いける。エメッシュは豆腐の味噌汁を、とても美味しいと、喜んだ。ゼゲドに帰ったとき、日本料理を両親に食べさせるのだと、いろいろな料理に挑戦した。
エメシュが来るようになって一月経った。朝、家に入ってきたエメッシュが赤丹に「相談があります」と、言ってきた。なんだろうと思っていると、
「パブで歌うのをやめました」と言った。アルムスとエメッシュの歌を聴きにいこうと言っていて、そのままになっている。
「どうしたの」
「私、いつか、ゼゲドで、小さなレストランをつくりたいのです、ここで、日本の料理をもっともっと教わってみたいのです、それで、お願いは、朝十時から、六時まで働かせていただけないかと思っているのですが」
「私は助かるけど、アルムスに相談しなければ」
「はい、お給料は前と同じでかまいません、それに、夜のお客様の時は、必要な時間おります」
お腹も大きくなってくるし、私には都合が良かった。
「明日、返事するわね、もちろんアルムスも言いというわよ」
アルムスは半分も話さないうちに、オーケーをだした。賃金も延長した分増額をした。そのことをエメシュに伝えると、とても喜んで、ますます良く働いてくれた。仕事のない時には、子供部屋にする予定のところにいてもらうことにした。仕事が一段落すると、エメッシュはその部屋に入って、本を読んでいた。
「何を読んでいるの」と一度聞いたことがある。すると、何冊かの本を持ってきてみせてくれた。日本料理、イタリア料理、フランス料理の本であった。
「料理が本当に好きなのね」
「はい、奥様、特に日本料理は他の国のものとは全く違います。是非覚えたいのです」
赤丹も正式に日本料理を教わったわけではない。そのことをいうと、「いえ、家庭料理でいいのです、雰囲気を教えてください」という。
エメッシュは赤丹に、小さなことを聞きながらは、日本料理をつくった。赤丹にとっても、改めて日本料理のことを考えることになり、それが、ハンガリー料理との違いを知ることにもつながって、勉強になった。一人だったら、おなかの子供のことばかり気になっていただろう。とても助かっていた。
たまに両親が日本のものを送ってくれる。梅干や沢庵、ふりかけをエメッシュは美味しいととてもよろこんだ。そばが届いた時、茹でて食べさせたところ、「不思議なヌードルです、日本の味です」と、面白い感想を言った。
そんなある日、アルムスが雇った三人のハンガリー人を家に呼ぶことになった。エメッシュにすべてを任せた。彼女は半分ハンガリー料理、半分日本料理にします、といって、朝から、マーケットに買出しに行った。
客間のテーブルの上には、日本の家庭料理が並んだ。どうってことはないものであるが、エメシュは、全部自分で作った。サーモン寿司、豆腐の冷奴、肉じゃが、茸の煮しめ、鳥の炊き込み飯、トンカツまで作った。味も本当に日本の家庭の味になっている。ハンガリー料理は、お手のものの、野菜サラダに、パプリカチキンである。エゲルのワインを用意し、赤丹の両親が送ってくれた日本酒もある。アルムスは、日本酒を緘(かん)して飲むのが好きである。温かい酒なんてめずらしいよ、世界でも日本だけだ、と言ってたまに飲む。
アルムスが雇った三人のハンガリー人は、おとなしそうな男の子たちである。大学を出て、まだ2、3年だろう、みな礼儀が正しく、よく働いているということである。それぞれ、こちらの企業で働いていたのであるが、アルムスの会社の規定だと、給料が倍近くなるそうで、喜んで移ってきた。彼らはアルムスに恩義を感じているようである。給料の金額を聞くと、日本では高くも安くもなくといった平均的なところである。
彼らは日本の家庭料理は初めてのようである。寿司を食べたことがあるというが、豆腐料理などは確かに食べる機会はあまりないのであろう。美味しいと喜んだ。トンカツてんぷらはもっと喜んでいた。
若い男の子だけあって、日本のゲームやアニメのことはよく知っていた。むしろ赤丹は知らないことだらけである。一方、アルムスがよく知っていた。話はそれでもりあがった。
「あなた達、音楽はどのようなものを聴くの」
と尋ねると、一人はアメリカの、何とか言う歌手の名前をあげた。一人はクラシックが好きだそうである。残りの一人は、日本のAKB何とかがいいという。若い女の子のグループである。お世辞でそういったのかと思ったが、そうでもなさそうで、グループの中のだれだれがいいとかよく知っていた。
「エメッシュは歌手なのよ」
と、ワインをあけようとしていた彼女を紹介した。
「え、エメッシュ」
エメッシュはそれを聞いて頷くとちょっとはにかんだ。
「どうしたの」
赤丹が聞くと、その男の子は、
「伝説の女王さまだ」
と笑った。赤丹が分からない顔をしていると、アルムスが「神話があってね、エメシュという女王が最初のマジャールオジャークをつくったんだ」と教えてくれた。
「僕は、サーカニィといいます」とその男の子が自己紹介をした。そういえば、名前を聞くのを忘れていた。アルムスも気が付いて「ああ、そうだった、エムベルとトゥルル」と、あとの二人を紹介した。改めて彼らと、握手をした。
「それで、どのような歌を歌うのですか」
サーカニィがエメッシュにたずねた。
「ジャズや民謡」
「何でも歌うの」とトゥルルがきくと、エメシュがうなずいた。
「聞きたいな」、エムベルがいうと、エメッシュが赤丹をみた。どうしましょうという顔をしている。アルムスが「お願いしよう、歌手として、お支払いしますよ」と言った。
私が頷くと、エメッシュは「お金は要りませんが、お好きな歌を言ってください、知っていたらうたいましょう」と話を受けた。彼女はエプロンをはずすと、テーブルから離れて、キッチンの入口まで下がって立った。ずいぶん離れている。誰も、リクエストをしなかったので、赤丹が、
「あなたの一番好きなのを歌ってちょうだい」と言った。
いきなり、エメッシュの声が部屋中に響き渡った。とても大きく通る声だ。後で聞いたところ、マイクは一切使わないとのことだった。
歌声は、とても心に響くものでる。古いハンガリーの歌のようで、切なさと、お腹の中から叫ぶような歌であった。そう、ちょっと、ポルトガルのファドと似ているかもしれない。みなは大きな拍手を送った。
楽しいパーティは十一時頃お開きになった。エムベル、サーカニィ、トゥルルはタクシーで帰っていった。後片付けが終わると、アルムスはエメッシュに、その日の特別の給金をタクシー代とともにわたすと礼を言った。エメッシュは「こんなにすみません」とそれでも嬉しそうに帰っていった。
落ち着いたのは一時近くだった。テレビを見ながらアルムスは珈琲、赤丹はココアを飲んでいた。
「エメッシュは料理も、歌も上手いねえ」
アルムスはが呟いた。赤丹もうなずいた。
「ほんと、驚くほど早く料理を覚えるのよ、頭のいい女(ひと)だわ」
「いい人が来てくれて、赤丹も安心して子供を産めるね、子供が生まれてからも来てくれるといいね」
本当にそう思う。
あまり眠くないが、寝ようかと、時計を見ると、一時半になろうとしている。その時、入口の戸をポンポンとたたく音がする。トントンではなくポンポンと聞こえた。
「何かしら、今頃」
「風も吹いていないようだし、なんだろうね」
アルムスが立ち上がった。また、ポンポンと音がする。明らかに玄関の戸をたたいている。アルムスが玄関の覗き穴から外を見た。
「何かいるよ、人じゃなさそうだ」
「それじゃ何なの、ノラ犬なんかこのあたりでは見かけないし」
アルムスはチェーンをかけたまま、玄関の戸を少し開けて外をのぞいた。そのとき、赤っぽいものが、するりと、隙間から玄関の中に入ってきた。
「あれ」
アルムスが変な声をだしたものだから、赤丹も玄関を見た。
そこには、赤い猫が、アルムスの足元で、かしこまって座っていた。
「え、赤い猫ちゃんが入ってきたの」
赤丹は猫好きである。玄関に行くと赤い猫に手を伸ばした。
「赤ちゃんに大丈夫かい」
アルムスが注意したが、もう、赤い猫は赤丹の腕の中に抱かれて、ごろごろ咽をならしていた。マリアばあさんの赤い猫、エメッシュによくにているが、まだ若い。
日本の両親にも妊娠中は動物に気をつけなさいといわれてはいた。だけど、赤丹の猫好きはそのようなことをすべて外に追いやってしまった。
「飼いたい」
赤丹はアルムスにねだった。
「うーん、飼猫かもしれないよ」
「それじゃ、飼い主があらわれるまででもいいわ」
「それじゃ、その猫を、獣医さんに連れて行って、飼い主を探してもらうのと、人に移す病気をもっていないかどうか調べて、大丈夫ならそうしよう、朝早くに、車で連れて行くよ」
と、アルムスが妥協をした。
ミルクをやると、赤い猫は美味しそうに飲んだ。赤丹はマリアばあさんの猫を思い出して、あまっていたサラダの中から赤いパプリカの切り身を与えてみた。やっぱり、美味しそうに食べた。
「パプリカが好きなのか、めずらしい」
「あのマーケットの赤い猫もそうだったの」
「へー、パプリカを食べて赤くなったのじゃないよな」
アルムスも、赤い猫の頭をなぜようとしたが、赤い猫はちょっと避けるようなしぐさをして、後ずさりした。橋をわたらなければだめなのよ、赤丹は思った。
その晩はキッチンの隅に寝床を作ってやると、そこに入っておとなしく寝た。
とうとう、赤い猫が来た。赤丹は何かいいことが起こるのではないかと、わくわくして、ベッドにはいった。
朝早く、アルムスは知り合いの獣医を電話で起こし、赤い猫を連れて行った。その結果、全く問題ないということで、すぐに赤い猫は家に戻ってきた。迷い猫の連絡もないとのことだった。
赤丹は赤い猫を膝の上に載せ、名前を考えた。四角い顔をして、まん丸な大きな黒い目が赤丹をみつめている。おや、赤丹は赤い猫の顔に自分の顔をよせた。長い髭を指で引っ張った。この猫、髭も赤い。
マリアの赤い猫はどうだったかしら。思い出そうとしたのだが、髭までは思いだせない。行って見なければと思っていたところに、エメッシュが来た。
赤丹は玄関に走っていって、「赤い猫が来たのよ」と報告をした。
「それはよございました、奥様」
と、エメッシュは部屋に入ってきた。
ほら、と、居間に居た赤い猫を赤丹が指差すと、今いた赤い猫がいない。
「どこ行ったのかしら」
赤丹が他の部屋を探してみてもいない。
「奥様、居間の窓が開いていますよ、きっと遊びにいったのでしょう、赤い猫は必ず戻ります、きっと、仲間に自慢しにいったのですよ」
「なにをかしら」
「素敵な家に飼われることになったって、それに素敵な奥様がいるんだって、猫ってそうなのですよ、ブタペストの猫たちに自慢しているのですよ」
「そうかしら」
赤丹は心配になったが、エメッシュの言うことを信じることにした。確かに雄猫は昼間、外に遊びに行くものである。
仕事が終わったエメッシュはマーケットに買い物に行くという。赤丹も一緒に行くことにした。
マーケットにつくと、買い物をエメッシュに任せて、マリアばあさんのところに行った。
「おはよう、日本の奥さん、体の調子はどう」
「とてもいいの」
「いい子を産みなさいよ」
「エメッシュはどこ」というと、陰から四角い顔をして、赤い猫が出てきた。
「日本の奥さんも赤い猫に好かれたね」
赤丹はエメッシュを抱き上げて顔を見た。やっぱり、髭が赤い。
「お髭が赤い」
「そうだよ、赤い猫は髭まで赤いんだ、それじゃなきゃ赤い猫じゃない」
「マリアさん、実は昨日の夜、赤い猫が家に来たの、エメッシュよりもっと小さいけど、それで髭が赤かったものだから」
「おーおー、赤い猫がきたのかい、そりゃすばらしい、いいことがおこるよ」
「だけど、朝、ふっと、どこかにいっちゃったの」
「赤い猫は自由だよ、だけど、必ず戻ってくるさ、安心おし」
お手伝いのエメッシュが言ったことと同じことをマリアばあさんも言った。
「はい、うちの赤猫のために、赤いパプリカをちょうだい」
「はいよ、ほら、売り物にならない赤いパプリカをもっておいきよ、たくさんあるから」
とマリアばあさんはどっさりと赤いパプリカをくれた。
その日、エメッシュが仕事を終えて、玄関を出たときである。ひゅーっと、赤いものが玄関に入ってきた。
「あ、赤い猫ちゃん戻ってきた」
大きな声でエメッシュを呼び戻そうとしたのだが、すでに、姿はなかった。
こうして、赤い猫が、赤丹の膝の上にまた乗っている。
「なんという名前がいいのかな」
赤丹はハンガリーの名前を考えていたのだが、知っている単語に限度がある。日本語でもいいじゃないか。そう思うようになった。やはり「赤」か、いやもっと赤い、ということは「緋」か、だけど、そのままじゃおかしいかしら、ぐるぐる頭の中で赤い猫の名前が回る。そのうち、緋から「火」がみちびきかれた。火か、いいかもしれない。「炎」もいいか。いや、ハンガリーの人たちが言いにくいかもしれない。どちらにしろ、Hが最初に来る。こちらの人には発音はしにくいだろう。単純に、ハンガリー語で「赤」でいいか。「ボーロッシュ」。男っぽい。
赤丹は赤い猫の尾っぽを持ち上げた。雄だ。「ボーロッシュ」にしよう。
赤丹は帰ってきたアルムスにそう言った。
「ボーロッシュか、いいよ、だけど、ボーロッシュが日本人には男の名前のように聞こえるんだね、俺はそうは聞こえないけど」
「私の感じ方よ、日本人がということじゃないかもしれない」
「ボーロッシュ」アルムスが呼ぶと、赤い猫は顔を上げたが、あまり興味はないようである。アルムスが抱き上げようとすると、ちょっといやがった。
「あなた、やっぱり、橋を百回わたらないと、猫がなれないのよ」
「そうみたいだな」と、アルムスは苦笑した。
それからのボーロッシュは、家の中では赤丹の後を付いて歩いた。ただ、朝になると、どこかに遊びに行ってしまう。雄猫はそういうものよ、とエメッシュは言っている。いつもエメッシュが来る前に、外に出てしまう。エメッシュが帰ると、家に戻ってくる。
しかし、そういう赤猫の習性にも赤丹はなれた。自分のお腹も少し膨らんできたし、昼間のボーロッシュの外出は気にとめなくなった。初めての子どもであり、ちょっと不安もあり、猫のことは頭の片隅に追いやられていたのだ。しかし、赤丹はアルムスの知り合いにいい病院を紹介してもらって、信頼置ける産婦人医につくことができた。今では、元気な赤ちゃんを産むことに意識を集中していた。
ボーロッシュは夜になると戻ってきて、ベッドの脇で丸くなり、赤丹が何かのことで目を覚ますと、必ず顔を上げ、赤丹をみつめた。いつも見張っていてくれるようで、赤丹は心が落ち着く思いである。
「ボーロッシュはどうしてるね」
マーケットに行くと、必ず、マリアばあさんが尋ねる。
「元気よ、昼間はいつもどこかに遊びにいっているの」
「そうだろうよ、このあいだ、うちのエメッシュに会いに来たよ、大きな雄猫になったんだね」
「こんなところにきたの」
「ああ、赤猫は自分達の世界があるからね」
そんな会話をしたのだが、家に帰って、マリアさんはなぜ、うちのボーロッシュであることが分かったのか不思議に思えてきた。
エメッシュにそう話すと、「赤い猫はそういないから、マリアさんそう思ったんでしょう」とうがった答がかえってきた。
クリスマスになり、ブダペシュトもかなり寒くなった。赤丹は妊娠五ヶ月になる。クリスマスイブにはアルムスがまたエムベル、サーカニィ、トゥルルを家に呼んだ。三人ともそれぞれの部署のチーフとして部下を何人か抱えるようになっている。
クリスマスは家族で祝うのが習慣のようだが、三人は家族と離れていて、みな一人暮らしだ。それで家に呼んでやりたいとアルムスが言ったので、赤丹はかまわないといったのだが、エメッシュがいないとパーティーは無理である。だが、幸い、エメッシュも実家に帰るわけではなく、手伝うことが出来るということで、我家でのパーティーとなったわけである。彼らは今までも何度となく家に来て、食事をともにしているし、家族のようなものである。
赤丹は赤ちゃんを産む準備に気をとられていて、彼らどころか、エメッシュもボーロッシュとは顔を合わせていないことを忘れている。クリスマスイブにも、みんなが集まっている時には家から姿を消していた。
エメッシュがつくったハラースレはいつにもまして美味しいものであった。それに、ずい分立派なクリスマスケーキをつくった。
みなで楽しく食事をし、話をしている時に、アルムスが私に言った。
「どう、ブタペシュトは気に入った」
「ええ、とてもいいところだと思うわ」
「実は、自分の会社をもとうと思うんだ、日本の今の会社ともいい関係を持ったまま独立したい」
赤丹はアルムスがいつかはそうするだろうと、最近は思っていた。仕事にとても熱を入れていて、あの三人とも馬が合っているようである。
「何をするの」
「うん、基本的には今までとあまり変わらないよ、商社だね、ただ、ハンガリーものを日本に輸出したい、今の日本の会社が間に入ってくれる、逆に、今の会社から日本のものを輸入する、今の会社としても、支社をつくるよりやりやすいようだ。いずれ、ヨーロッパに手を広げたい」
「それはすてきじゃない」
赤丹も大賛成であった。
「ただ、会社はブタペシュトじゃなくて、もっと南の方で作りたいんだ、その方が、ハンガリーの農産物を仕入れたりするのに便利だし」
「どこかに移るのね」
「うん、ゼゲドを考えているのだ、いい町だよ、歴史がある、大戦後のハンガリーを樹立する時の、臨時の首都になったりしているのだよ、川もある丘もある、自然は、ブダペシュトよりいい、大学に医学部があるから、医療も大丈夫」
「子供を産む前に越すということね」
「うん」
「ゼゲドって、エメッシュの田舎ね」
「うん、エメッシュにも手伝ってもらえる」
エメッシュがいてくれるなら、心強い。エメッシュはゼゲドでお店を開きたいのだから、エメッシュにもいいのだろう。ちょっとは不安があるが、アルムスを信頼していた赤丹にあまり抵抗はない。
「いいわよ」
「よかった、ブタペシュトには、支店を置いておくから、たまには来ることもあるよ、泊まることもできる。その時は一緒に来て買い物でもすればいい」
「そうね」
「家は、探しておく、もっと広くて、庭が広くなる、しばらくはエメッシュにも一緒に住んでもらうといい、エムベルたちも、向こうで家を買いたいと言っている。きっと家庭をもつだろうよ」
「それは素敵ね、寂しくないし」
赤丹は決して寂しがり屋ではない、むしろ一人でいるのを好んでいたほどだが、結婚をし、子どもがお腹にいる今は、周りに人がいる方が楽しい。
「予定は五月だろう、四月ごろには新しいところに移って、少し慣れたほうがいいね」
「うん」
こうして、年が変わり、アルムスはゼゲドに頻繁に通うようになった。二月のはじめ、アルムスが、面白い家を見つけたので、一緒に見に行こうと赤丹を誘った。妊娠は順調で、医者も太鼓判を押してくれている。車に乗るのもかまわないというので、ゼゲドまでドライブをした。まだ、かなり寒い。アルムスは、安心だと全面的に信頼している日本車を持っている。ハンガリーではかなり高価だが、赤丹にもなんとなく安心感があった。
ゼゲドの街の中にはいると、赤い瓦の屋根の建物が続く、とても簡素で奇麗な町であった。確かに歴史を感じさせる。アルムスはセンチューニ広場から、主要なところをまわって、町をちょっと外れると、高台に車を走らせた。葡萄畑のあとらしく、枯れたようにみえる葡萄の木が並んでいるところを過ぎると、木々の間から、古い大きな屋敷が見えてきた。赤いレンガで出来た、小さなお城のような家である。
彼はその前で車を止めると、赤丹に降りるように合図をした。
「これはなに」
赤丹は有名な歴史的建物なのだろうと思ってアルムスに聞いた。
「昔、十五世紀ころに建てられた、ワイン城さ、葡萄の栽培をやっていた貴族のものだったらしい、三十年ほど前、持ち主がなくなって、その子供はあとを継がなかったので、葡萄畑はあんなになってしまっているんだ。ちょっと中をみてごらん」
入口から中にはいろうとすると、赤い猫が子猫を二匹連れて中から出てきた。陽の当たっているブドウ畑のほうに歩いていく。
「ここにも赤い猫がいるわ」
「縁起がいいじゃないか」
赤丹が中にはいると、驚いた。お城のようだ。といって、けばけばしさはない。白い壁には葡萄を配した落ち着いた模様が書かれている。エントランスのホールはかなり広い。
「三階建でね、屋上の眺めはいいよ。二階は持ち主が住んでいた。地下には葡萄酒の保存の蔵があるんだ、一階はブドウ酒を作る工場だよ、道具はみな置いたままだ、ちょっと外に出てみてくれよ」
アルムスについていくと、アルムスは、建物の裏にまわった。丘の斜面の木々の間に可愛らしい家がいくつか建っている。やはり赤いレンガ造りで、それぞれに広い庭がある。今は誰も住んでいないようだ。
「働く人たちに建てたものらしいけど、よく出来た家なんだよ」
アルムスが一つの家に赤丹を連れて行くと、中を見せた。
「これはちょっと大き目の家で、部屋は八つある、大家族向きだが、どうだろう」
赤丹はアルムスのいっていることが、ちゃんと理解できていなかった。
「この家はどうだい」彼はまた言った。
赤丹はやっと、アルムスがこの家を買おうとしていることに気が付いた。
「素敵だけど」
「街中まで、ちょっとかかるけれども、車だとすぐだったろう、いいと思っただけど」
「高いのでしょう」
「お金は大丈夫、君がいいと思うのなら、ここにするけど」
「周りに人はいないのね」
「我々が越してくるころには賑やかになっている」
アルムスの言っていることが、ここでもまだ理解できていなかった。我々ってどういうことだろう。そのあと考えてもみなかったことを彼は言った。
「この、城と丘を買っちまうんだ、また、葡萄酒作りを復活させようと思うのだけどね、ハンガリーには、甘くて美味しいデザートワインのトカイワイン、渋みと酸味のエゲルの雄牛、があるだろう、それより美味しいワインを作ろうと思う」
「だけど、これだけの場所を買うには大変なお金がかかるでしょう」
「サポートしてくれる人がみつかったんだ、ここで商社も続けるし、ワインが出荷できる様になるまでは時間がかかるけど、大丈夫だと言ってくれている」
「誰なの」
「ヴォルシュ イシュトバーンという人でね、富豪なんだ」
どういう人なのだろう、だけどアルムスが信頼した人なら大丈夫なのだろう。
「素敵ね、この丘が私たちの土地になるのね」
「そうだよ、あのワイン城の二階は事務所と、ワインの研究室。それに、レストランも作ろう。三階は、元のまま使おうと思う。コレクションルームや貴賓室、客用の寝室があり、城主の大きな部屋がいくつかある、要するに我々の部屋でもある。貴賓室はその昔貴族がワインを飲みに来たときなどに使っていたようだよ。
「すごいわね」
夢見たいな話だった。その日は街中のホテルに泊まって、ゼゲドの空気に触れた。
こうして、四月の始めに引っ越すことになった。赤い猫のボーロッシュは、相変わらず昼間はどこかに姿をくらましてしまったが、必ず、夜には戻っていた。赤丹の膝の上で、咽をごろごろいわせて、赤い髭を赤丹のお腹に擦りつけた。
ボーロッシュのために赤いパプリカを買いに、マーケットのマリアおばあさんのところに行くと、赤い猫のエメシュが擦りついてくる。
「赤い猫に守られていれば、いい子が生まれるよ」
「わたし、四月にゼゲドに引っ越すの」
「そうだってね、ゼゲドはいいとこだ、ハラースレを楽しんでな、だけんど、ブタペシュトにきたときは寄っておくれよ」
「誰に聞いたの」
「はは、ボーロッシュだよ」
マリアばあさんは笑いながら言った。冗談でしょ。
「はい、必ず子供を連れてくるわ」
「ボーロッシュも連れていくのだろう」
「もちろんですよ、あのお手伝いのエメッシュもいっしょにいくのよ」
「ああ、あの娘はいい子だよ、よかったね」
マリアばあさんはパプリカを袋一杯にしてくれる。
家に戻ると、エメッシュが夕食の用意をしていた。
「お帰りなさい、先ほど、旦那様から電話がありました。電話をくださいということでした」
そういえば、携帯を家に置きっぱなしで、マーケットに出かけてしまったのだ。アルムスに電話をした。
「赤丹、あそこを買う事ができるようになったよ、それに、昔、あの屋敷で葡萄酒作りをしていた老人がみつかって、指導をしてもらえることにもなった。もう八十をこえているが、四十年ほど前、ワイン作りの責任者だったそうだ。話をもっていったら、とても喜んでくれた。工場で働く人たちも彼が選んでくれるということだし、ブドウ畑の世話や収穫には、あのあたりの人たちに声をかけてくれるそうだ。まだ彼の顔が利くようだ。ただ、葡萄の木をどうするかは見てみないと分からないといっていた。でもすぐに作業にかかってくれるそうだよ」
「後二ヶ月ないのね」
「住むところや、ワイン工場の改修は終わっているよ、それで、三月の三十一日に越したいのだが、いいかい」
「後、一月半ね、大丈夫よ」
電話はそれで切れた。
「エメッシュ、引越しの日が決まったわ、三月三十一日よ」
「荷造りできるものはやっておきましょうか」
「ええ、でも、借りている家で、あまり持ち物はないから、急ぐ心配は要らないわ、エメッシュも行ってくださるのでしょう」
「もちろんです、私の両親も喜んでいます」
こうして、とうとう、引越しの前日になった。
ボーロッシュを籠にいれておいて、昼間に出てしまわないようにしなければならない。朝起きた時、まだベッドの脇で寝ていたボーロッシュを籠の中に入れた。ボーロッシュは何事かと、一端は立ち上がったが、まだ眠いと見えて、中に入れた赤いパプリカの脇で丸くなってしまった。
「エメッシュは昨日のうちにゼゲドにいっていてくれている、家にすぐ入れるようにしてくれているんだよ、それに、あの三人はもう引っ越している」
身の回りのものを車に入れると、赤丹はボーロッシュの入った籠とともに後ろの席に身を沈めた。
ブダペシュトの町を後にして、昼前にはゼゲドに着いた。なぜかなつかしいワイン城が見えてくると、赤丹はこれからここに住むんだ、という、ほっとした気持ちが胸のなかに湧いてきた。いいところだ。赤ん坊は女の子であることがわかっている。それを知ったアルムスは大喜びである。
ワイン城には人が出入りしている。もう、ワイン作りの準備が始まっているようだ。車はその前を通り越して、上に登る道に入ると、裏にある住む予定の家の前に止まった。家の中からエメッシュが出てきた。
エメッシュは笑顔で、後ろのドアを開けて赤丹の降りるのを手伝ってくれた。アルムスが猫の籠を車の中から取り出した。
家の中は奇麗に整理されていた。
「奥様の部屋は二階です、荷物は入れてあります」
二階の眺めの一番いい部屋が赤丹の部屋だった。
「奇麗にしてくれたのね」
「家の管理会社にアルムス様が頼んだのです、私は荷物を入れただけです」
二階には寝室、子供部屋、アルムスと赤丹の部屋、衣装室があり、広いベランダが付いている。ゼゲドが見渡せるすばらしい景色である。ワイン城の屋上が見える。
一階に降りた。一階は広い客間と、キッチン、居間、それに、三つの寝室がある。エメッシュはその一つを使うことになっていると言った。子供の生まれる一週間ほど前から、泊まってくれるそうである。その後、しばらくはいてくれるが、その後は、実家から通うことになっている。
居間においてあったボーロッシュの籠を見ると、もう外に出てしまっていると見えていなかった。
「どこに行ったのかしら」
「大丈夫ですよ、赤い猫は必ず戻ります、いつも奥様の元にいます」
「ちょっとワイン城の中を案内しよう、二ヶ月できれいにしたし、それに、エレベーターもつけた。君も大丈夫だよ」
アルムスに言われ、ワイン城に行くと、数人の人たちが待っていた。その中にエムベル、サーカニィ、トゥルルが背広姿でいた。
「奥さん、いらっしゃいませ」
作業服を着た丸顔の老人が、腰を低くして挨拶した。
「ワイン作りの師匠だよ、ベラ コラーニだ」
「これからもよろしくお願いします」
赤丹が頭を下げた。
「美味しいワインを必ず造ります」
一同が、赤丹に向かって頭を下げた。赤丹はなんだか、気恥ずかしかった。
「君はこのワイン城の奥方様だからね」とアルムスが赤丹の様子を察して笑った。
みんなの足元から赤い猫が出てきた。
「ワイン工場には猫はいるものです」
ベラ老人が言った。
とさらに赤い猫が二匹でてきた。最初この城に来たときに出てきた子猫が大きくなったのだろう。
猫たちはみなの足元をすり抜けると外に出て行った。
エムベル、サーカニィ、トゥルルが赤丹の前に女性を押し出した。
「家内です」と、三人が言った。
クリスマスの時には独身だと思っていたのに、三人とも結婚をしていたのだ。もしかするとだいぶ前に結婚していたのかもしれない。
「ワイン城の裏の家に住むことになっています、なんでもいいつけてください」
ワイン城の裏にあるいくつかの家は彼らが住むのである。とても心強い。
彼らの奥さんは、みな可愛らしい女性達だった。金髪、黒髪、赤っぽい髪、みな髪の毛の色が違う、しかし顔はよく似ていて、目が大きく、青い眼で赤丹に微笑んだ。
「奥様、よろしくお願いします」
みないい友達になれそうで、赤丹は彼女達と握手をした。
「ブドウ畑も助かりそうなんだ、本当にだめになったのは一割くらいかな、ほとんどの木は手入れをしたので、今年からでも、少しだが収穫は出来そうなんだ」
「四十年前に手入れを止めていたのでしょう」
「植物は強いね」
「お城の名前をね、アカニにするよ、アカニ城のアカニワインだ、ラベルには赤い猫の絵を入れよう」ともアルムスは言った。
日本の両親はそれを聞いたら、飛び上がって喜ぶに違いない。
「なんだかはずかしい、でも嬉しいわ」
何から何までうまくいっている。赤丹はとろけそうな気分を味わっていた。
ボーロッシュはブタペシュトに居た時と同じように、昼間は外にいて、夜、家に戻ってきた。城の猫たちと遊んででもいるのだろう。赤丹が居間に居ればそばに来て、咽をごろごろいわせて擦りつく。ずい分大きな猫になって、寄りかかられると重いほどである。夜は寝室の赤丹のベッドの足元で丸くなっていた。
ゼゲドの大学病院で診てもらったところ、すこぶる順調に子供は育っており、予定日の五月五日ごろ間違いないということであった。アルムスのすすめもあり、予定日の前の日から、入院することにした。エメッシュが付き添ってくれることになり、何から何まで申し分なかった。
四日になり、エメッシュに付き添われ、赤丹は大きなお腹を抱えて、病室に入った。そして、その日は生まれなかったが、予定通り、五日の夕方に、元気な女の子を生んだ。
「赤丹に似ている、よかった」
アルムスはとても喜んだ。まだ似ているのかどうかもわからないのに。
子どもの名前は、女の子だと分かった時から、アルムスに任せると言ってあった。
アルムスは「アマテル」にしようと言った。
「え、アマテル、どんな意味なの」
「知らないのかい、日本の太陽の神様、女の神様だよ」
彼は日本では歴史を学んでいた。天照大神のことだ。赤丹もよく知っている神さまだ。赤丹はアルムスの日本へのこだわりを嬉しく思った。赤丹を思ってのことだろう。
二日後、赤丹はアマテルをつれて、アルムスの車で家に戻った。
アルムスは家に入る前に、アカニ城三階にある貴賓室に寄るという。みんなが祝福のために集まっているのだそうだ。
赤丹は、白い布にくるまれたアマテルを抱きかかえて、部屋の中に入った。中ではエムベル、サーカニィ、トゥルルが背広姿で立っている。「奥さんおめでとう」と声をそろえた。
彼らの脇に、教皇が座るような立派な椅子が置いてあり、アルムスが赤丹に座るように指さした。なんだか仰々しいと思いながらも、赤丹はアマテルを抱いたまま赤いふかふかした椅子に腰をかけた。
三人がアマテルを覗き込んだ。アマテルは白い布の中で赤い小さな手を前に突き出して笑った。
「王女さまだ」、三人は大仰なしぐさでお辞儀をした。
「きたよー」
その時聞きなれた声が聞こえた。赤いガウンを着た小柄の老女が、扉を開けて入ってきた。手には金色に輝く丸い器を持っている。
赤丹はその女性を見て驚いた。
「マリアさん」
「ほ、ほ、日本の奥さん、いや女王さんだね、おめでとう」
「どうして」赤丹は嬉しいにしても、なぜという疑問の方が大きかった。
アルムスが「ヴォロシュ、マリアさんだよ」
赤丹にはすぐにはわからなかった。
「ヴォロシュ、イシュトバーンさんの奥さん、ここの出資者だよ、イシュトバーンさんは亡くなっているけど」
こんなことがあるのだろうか。驚くことばかり起こる。
マリアばあさんは、アマテルをのぞきこむと、
「ああ、いい子だ、いい娘になる」
そういいながら、手に持っていた金の器の中の赤く透き通った水に人差し指をいれ、アマテルのおでこを濡らした。
アルムスも、エムベル、サーカニィ、トゥルルも、目を瞑って、胸で十字を切った。アルムスは無神論者で、クリスチャンではないが、と思い見ると、もう一度、少し斜めに十字を切った。これは八つ十字だ。クリスチャンではない。なんだろう。
おでこにかすかな赤い液体を付けてアマテルが目を開けた。生まれたばかりの赤子の目が開いた。黒い目で赤丹を見た。手足を動かして、キャッキャと喜んだ。
貴賓室の扉が音を立てて大きく開いた。四匹の赤い猫たちが、尾っぽを立てて、ゆっくりと歩いて来た。みな赤い長い髭を揺らしながら、赤丹に向かって来る。
先頭にいるのはボーロッシュだった。後の三匹はアカニ城に住んでいた猫たちだ。
マリアばあさんが、
「きたね赤い猫たちよ、アマテルと赤丹を守りなさい」と言った。
アマテルが赤い猫たちを見た。
ボーロッシュの立てられた尾っぽから赤い煙があがった。煙がボーロッシュを包むと、そこから人間があらわれた。エメッシュだった。雄猫なのに彼女になった。エメッシュが赤丹の脇に立った。
「奥様、おめでとうございます」
赤丹の手をとった。エメッシュの手は猫の手のように柔であった。
三匹の猫も赤い煙をあげて大きくなった。エムベル、サーカニィ、トゥルルの奥さんになった。三人の女性は赤丹を囲んで、アマテルの額や手にそうっと触れた。
赤丹は何が起きているのか分からなかった。ただ、これからも、赤い猫たちに守られて、この地で、一生を終えるのだろうということを感じていた。
赤丹はただただ、しっかりとアマテルを抱いた。
「あたしゃ、ゼゲドで赤いパプリカを育てるからね」
そう言って、マリアばあさんが、年取った大きな赤い猫に変わった。
赤丹は今も、ゼゲドのアカニ城のある丘で、自分の子ども、アマテルとともに世界で一番幸せな人間として、暮らしている。そばには、五匹の真っ赤な猫が、よりそって赤丹とアマテルを見上げている。
アルムスたちはアマテルが大きくなるのを楽しみにしている。王女、アマテルはやがて、大地を照らす神となり、ブドウ畑に明るい日の光をもたらし、極上の葡萄を実らすことになるのだ。アマニワインは、ハンガリーだけでなく、世界の最も貴重なワインとして、珍重されることになるのである。赤い猫の女王、アマニのワインとして。
赤猫幻想小説集「赤い猫」(2019年一粒書房発行)所収
赤いパプリカ