わたしだけのねむ

 四限目のおわりころ、ねむはあらわれた。ねむは、わたしのつくえのまえに突っ立っていて、いくら、わたしいがいのひとにはみえないからって、ダイタンなやつだと思いながら、わたしは、先生のはなしをきいているふりをする。まじめにきいています、という態度で、でも、意識は、ねむの方に向いていて、ねむは、ちいさくあくびをして、はやくやきそばパンたべようよ、という。学校の近くにあるパンやさんが販売する、やきそばパンが、ねむのおきにいりなのだった。わたしは、だまったまま、うなずいた。うなずくと、まるで、ちゃんと、先生のはなしをきいているって感じがした。やきそばパンもおいしいけれど、メロンパンもすてがたいんだよなぁと、あの、さくさくで、ふわふわの食感を思い出しながら、わたしは、先生が黒板に書くことばを、ぼんやりとながめている。現代社会。そういえば、きのう、となりのクラスの吹奏楽部の子が、おとなのおとこのひとと、二十一時の街を歩いていた。となりのクラスの、おとなしそうな子で、おとなのおとこのひとは、その子のおとうさんという雰囲気ではなくて、なにか、こう、ならんで歩いていることで発せられる、違和感、みたいなものが、あった。おとうさん、といわれれば、そうもみえなくはないけれど、あれはちょっと、そういうものではない気がする。おにいちゃん、でもなさそうだった。おとなのおとこのひとは、スーツで、その子は、二十代後半くらいの、会社勤めをしているおんなのひとが好みそうな服を、着こなしていた。たしかに、いかがわしいにおいは、したけれど、いっしょにいたねむの予想どおり、あのままホテルに行ったかどうかは、わからない。ほんとうに身内かもしれないし、純粋に、年のはなれた友だち、とかかもしれない。ふたりでホテルに泊まるような関係でも、そこに愛があれば、それは、結局のところ、いわゆる恋人同士と、なんら変わりないものなのではと、わたしは言った。世間はそんな甘いものじゃないと、ねむは吐き捨てた。手をつないでいる、わたしとねむだって、まわりのひとからすれば、なかよしなおんなともだち、にみえるかもしれないけれど、ちがうじゃないと、わたしは思った。まず、ねむが、わたしいがいのひとにみえることが、大前提なのだった。わたしは、ねむのからだをすみずみまで、しっているし、ねむも、わたしのからだのなかみまで、熟知しているけれど、ねむは、わたしいがいのひとには、みえないのだから、まわりのひとからすれば、いま、この瞬間も、わたしという女子高生がひとり、二十一時の街にいる、というだけのことであった。お酒をのめるお店が集い、にぎわう通りのひとごみにまぎれていった、吹奏楽部の子と、おとなのおとこのひとのようすからは、うしろめたさより、しあわせそうな空気がにじんでいた。
「あの先生、はなしながくない?」
 ねむが、わたしの机のすわり、ぼやく。じゃま、と思う。でも、わたしにしかみえない、ねむのことを、わたしはいつも、すこしだけ、かわいそうだとも思う。お昼休みになったら、さりげなく、となりのクラスをのぞいてみようときめて、わたしはねむにかまわず、教科書をそっととじた。

わたしだけのねむ

わたしだけのねむ

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2020-07-02

CC BY-NC-ND
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