エリン島 灌木の丘と霧の色

前編・失墜  (エリン島 灌木の丘と霧の色)

1・ディエジ

 風音を割って馬の疾走する蹄音が近づいてきた。その音が唐突に天幕の真ん前で止まった。
(来た)
 アーサフは小声で呟く。僅かに息を飲む。
「使者が来たぞ!」
「早く中に入れ、王が中に居るっ」
 外では衛兵達が騒ぎだした。その複数の人数の影が、天幕の壁布に映っている。慌ただしい動きを絵の様に映し出している。扉口から侍従が飛び込んでくる。
「アーサフ王! 急使が来ました」
「来たか、遅かったな」
「すぐにこちらに来ますっ、リートムの街からの急使ですっ」
「リートム?」
 アーサフは驚いた。
「リートムから伝令? ケルズのオドワ王からではないのか? 休戦の話し合いの申し出だろう?」
 何を妙な事を言っているんだ。戦場にいるというこんな時なのに。何を失敬な冗談を言っているんだ? と、思った。
だが。――見ろ。
天幕の出入口の辺り、そして外。衛兵やら侍従やら側近やらの様子がおかしい。明らかに人声が大きくなっている。大きな動揺を示している。おかしい。
何が起こったんだ?
たった今寝付いたところを起こされ、まだ半ば寝ぼけていたアーサフの頭は、急いでここまでの事態を振り返った。
……自信はあった。
西野ルースも南のイライゴにも、隣国の動きには万全を敷いた後での出陣だった。今回の対ケルズの遠征戦に、問題は無かった。敵の今回の軍勢が少人数であることも確認していた。明日、自分と自分の国リートムの軍勢は、ケルズとの短い戦闘に勝利を収めるはずであると、自分も確信していた。だからほぼ間違いなく、ケルズのオドワ王は今夜の内に休戦申出の使者を送って来ることも。
「アーサフ王、とにかくここから隣の天幕へ。急いで――」
 その声の語尾が僅かに震えているのに気付く。
 何が起きているんだ、今故郷のリートムに? との疑念に今は構っている暇がない。取りあえず着付けたままの胴着の上にマントを羽織り、アーサフは進み出る。左側の分厚い垂れ幕を腕で払って隣の天幕へと入った瞬間、
 ムッとする程の光。その光の中。
 一斉に自分に集中する視線。厳しい、緊張した表情の。
 すでに勢揃いして彼を待ち構え、見捕えている側近は七人。
「……。軍議ならば、いつもマクラリの天幕でやるはずではなかったか?」
「――」
「何が、起きたんだ」
 と、アーサフの前に伝令兵が進み出た。
 瞬間、鼻がツンと刺激される。上衣も靴も泥と水滴に塗れ、べっとりとした汗の臭を覚える。にもまして眩しい光の中、相手の凄まじく疲労と苦悩ぶりが怖い程にはっきりと読み取れる。
 アーサフは僅かに唇を強張らせた。
「何が起きた? 言えっ、何が――」
 途端、使者は叫んだ。
「祖国リートム市街の守備についているヨアンズ卿より急報!
 本日早朝、突然領内にバリマック族の武装一団を確認。その人数は約二百人。
 敵は攻城用の武具を携帯、東からフィー川を遡って真っ直ぐにリートムの街に接近中。ほぼ間違いなく今夕には街に到着と思われる。
 アーサフ王には即座に全軍と共に帰還されたし。リートムの防衛に全力を!」
「バリマック族がリートムに!」
 誰もが大きく叫び、と同時、主君の顔を見る。
 主君は――アーサフは固い表情のままだった。
 並ぶ七人の男達のうち最も若く、まだ少年の印象すら残す彼らの主君は、口許を固く引き締めたままだった。全ての視線に囲まれて、しかしじっと固い目付きのままだった。そのまま低い声を発した。
「ヨアンズ卿からの報告はそれだけか?」
「はい」
「街はすでに攻撃を受けているのか? 我々がここから戻るまでの間、ヨアンズは街を防衛し切れるのか?」
「市壁や防護柵は万全です。武器・食料も備蓄は充分です。しかし今現在の街の現状は分かりません」
「どうして海賊のバリマック族がリートムのような内陸の領に現れるんだ」
「分りません」
「バリマックは、彼らは北からやって来る海賊だ。荒らすのは海辺の地のはずだ。西からフィー川を遡って来る間にはもっと大きな街が幾つもあるのになぜリートムが狙われるんだっ」
「分りません」
「なぜリートムなんだっ、一体街は今、どうなっているんだっ」
「分りません」
「いい加減に何か答えろっ、一体何なら分かるんだ! 貴様それでも――」
「王。この者も何も分からないのです」
 見事な間合いで言葉が差し挟まれた。
 最年長の側近・マクラリだった。彼は、その年齢と経験に見合った充分な落ち着きと共に、今現在に必要な最も妥当な言葉を簡潔に述べた。
「怒鳴る必要はありません。すぐに対策に入りましょう」
「……」
「王? 聞こえていますか? 早く検討に」
「――すぐに、馬を用意しろ」
「無理です。ちょうど今、陽は没しました。いくら伝令兵とはいえ、今から派遣させる事は出来ません」
「伝令兵は要らない。私が行く。私の馬を」
「何を言っているのです、王。
 今夜は曇天です。月は隠れています。闇の街道を走る事は、専任の伝令兵でも難しい。増してここからの帰還となると、途中で沼地を抜けなければなりません。余りに危険が伴います。
 違いますか? 今は感情を控えて下さい。アーサフ王」
 アーサフの硬い顔を見ながら、マクラリはよほど為政者らしい口調で続けた。
「貴方は貴方の義務を果たして下さい。今はやるべき事が多数あります。
 さあ。リートム王としての貴方の意見を」
「――。分かった」
 十七歳の若い王は、表情をもとに戻した。常通りの思慮深さを取り戻した。
 だが。
 王の目の瞬きが妙に遅くなり、その指先が僅かに不規則に動いているのに気づいた者が、一人だけいた。
 真左に立つ、ディエジ。
 身体を微動だにせず、腕を組んだまま、彼はじっとアーサフを見ていた。主君より数年だけ年上の若い側近は、きつい印象の顔立ちを一層に引き締め、鋭い視線でアーサフの動きを捕えていた。
 リートム王アーサフは、固い顔を示す。己と信頼で結ばれた七人の側近達一人一人の顔を見る。そして言った。
「皆。聞いてくれ。
 事は急を要するから、今から告げる指示を受け取り、その通りに動いてくれ。
 まず、夜が白み次第、私はリートムへ伝令を出す。と同時に全軍を率いて帰還をする。つまり今回の対ケルズ遠征は中止だ。リートムの実状がどうあれ、こんな状況では戦闘は出来ない。
 朝になっても兵士達にはまだ事情は話すな。真相には絶対に気づかれるな。動揺は与えず、しかしとにかく急いで戻る。多少無理をかけることになっても、何としても明後日の午後のうちに街の南丘までに到着しているようにしたい。
 とにかく、今はまだ何も分からない。出来ることはこれ以上無い。だがもし、事態がヨアンズ卿の報告通りだとしたら、今頃リートムは――」
 言葉は、詰まった。そして、アーサフの体内には、鮮やかに微笑みが甦った。
(ご無事で。お帰りを待っていますわ)……
 彼は僅かの間、固く眼を閉じた。
「……。私の考えは以上だ。マクラリ。貴方の意見は?」
「付け加える点があります」
 常の通りに冷静さで、老臣は的確に発した。
「マナーハンに使者を出しては如何でしょう。
 マナーハンのコノ王ならば――貴方の義理の父君ならば、リートムの危機状態にも支援の手を伸ばしてくれるはずです。
仮に街がバリマック族の強襲を受けて占拠されているとすれば――守護聖者の名においてそんなことはあってはならないのですが――、我々が街を奪回する為には、マナーハンの援軍無しには難しいでしょう」
「マナーハンに、援軍を」
「掛け合う価値はあるはずです」
「……」
 王は黙った。横に立つディエジなどは思わず神の名を唱えた程の名案だったというのに、若きリートム王は無言のまま返答に手間取っていた。
 しかしそれも、マクラリや他の重臣達にとっては、意外なことでは無い。
 今、狭い天幕の中心で皆の視線にさらされているのは、彼らの主君の常通りの顔だった。常の通り、他社の意見を充分に聞き取り、静かに、慎重に考えを巡らせているリートムの王の顔だった。まだ十七歳という若さだというのに、それでも確かに自分達が信頼と忠誠を捧げるに足る、いつも通りのリートム国王・ガルドフ家のアーサフの姿だと、そう思った。
 ――大間違いだ。それは。
 この時アーサフは、己への嫌悪に歯ぎしりをしていたのだ。
 本当に、言われるまで気付かなかったのだ。援軍の必要という、今最も重要な観点を、他人に言われるまで見事に忘れていたのだ。何という間抜けな頭だ。王だというのに。リートムという国の全ての責を負う、王だというのに。
 そしてもう一つ。今、彼の頭から冷静な思考を奪って止まないものは、
(ご無事で、お帰りを待っていますわ)
 ……明るい瞳の少女の、微笑み。
「王。意見はまとまりましたか」
 目の前の臣下達の顔が、現実を引き戻した。
「そうだな。コノ王は信頼に値する。王には事情を知らせ、援軍を要請しよう」
「ではこれからすぐに書簡を準備しましょう。さらに、今後の我等が軍勢の動きについての検討が必要です。隊長達も呼び出し、あらためて座を整えますので、王、それに皆、私の天幕の方へ移動して下さい」
「分かった。が――、すぐに向かうが、少しだけ時間をくれないか」
「では我々は先に退出しておりますので」
 マクラリは見事に落ち着き払った態で一礼を払うと、すぐに室内から踏み出す。それに続き、他の六人も次々と立ち去っていく。
「ディエジ」
 弾かれたように振り向いた。
 リートム王に呼ばれ、すでに退出仕掛けていた足を反転させる。素早い大股の数歩で戻ってくる。アーサフにとって限りなく親しみを覚える馴染みの顔が、再び室内の光の中に照らし出される。
「何だ?」
「――」
「もう皆出ていった。何だよ、話せよ」
「ディエジ」
 アーサフの表情が歪む。
「諸聖人の名において、本心を言ってくれ。
 リートムに、――本当にリートムにバリマック族が襲来したと思うか?」
「思う」
 粗野に言い切った。
「間違いでこんな罰当たりの報を流す奴はいない。事実だな。そして事実なら――俺もバリマック族の噂はよく聞いている。恐ろしい素早さで街に攻撃をかけ、略奪の限りを尽くすそうだ。今頃リートムの街は本当に危うい」
 途端、アーサフの顔は隠していた弱さを露呈してしまった。
「お前――なぜそんな冷静に話せるんだ? なぜだ? 恐ろしくないのか? 不安じゃ!」
「不安? 不安かだって?
 不安だよ、不安でどうしようもないっ、俺だけじゃない、皆そうだろうよ。
 でもしょうがない。俺一人だったら今すぐに馬を飛ばしてリートムに戻りたい。だがそれは出来ない。俺はお前の家臣だからな。お前の命令なしに単独では動けない。お前の指示に従わなければならない」
「私の指示……」
「お前がリートムの王だ。決定をだすのはお前だ」
「どうして私だけが、自分で決めなければならないんだ」
「――何だって?」
 隠すように唇の端を噛んだ。それをディエジが見逃すことは無かった。
「混乱しているな。お前の動揺を見抜けないとでも思っているのか。俺達は鼻水を垂らしていたガキの頃からの仲なんだぞ。
 アーサフ、落ち着け。今のお前には、俺達の誰よりも冷静でいなければならない義務がある。だから落ち着け。いつものお前らしい充分の慎重さを保てよ」
(それをなぜ、私にだけ要求するんだ!)
 アーサフの叫びは寸前で噛み殺されたのであった。
 ディエジは即座に動き出す。
「先にマクラリの天幕に行く。皆がお前を待っているんだ。少なくともその怯えた顔色だけは殺してから来いよ」
 黒い上衣の裾を翻し、ディエジは天幕から出ていってしまった。
 そしてアーサフは、松明の輝く天幕の中に、ただ一人になった。…

「あれ? アーサフ王はまだこちらに来ていないんですか?」
 侍従の小僧が間抜けた口調で訊ねる。
 途端、真っ先に振り返ったのはディエジであった。
「もうあっちの天幕にはいませんでしたよ。どこかへ立ち寄っているんでしょうか?」
 敏感に、極めて敏感に嫌な現実を予測したのも、為に誰よりも早く顔色を変えたのもまた、この王の幼馴染であった。
「お前、馬を見て来いっ、王の馬だ、今すぐ!」
「王の馬って……?」
「いいから行け! 今すぐ、早く! お前もだ、全員すぐ行け!」
 気の毒な侍従達は、何もよく呑み込めないまま、慌てて追い立てられていく。雲間から月が浮かびだした夜営地の斜面へと走ってゆく。
 天幕の中では、集まっていた臣下達と側近達の声が大きくざわめき出した。
「これはどういう事だ。ディエジ」
 今まさに、自らも外に飛び出そうとしていたディエジは途端、噛みつくようにマクラリを振り返った。
「アーサフがいないっ」
「意味が良く分からんな」
「いないんですよ。アーサフが今、ここにいない、俺はそう言ったんですよ!」
「ここというのは、この天幕の意味か? それともこの野営という意味か?」
「だから俺は――っ」
 苛立ちも露骨に言葉を続けようとした瞬間、遥か斜面の上の方から声が響いて来た。
「ディエジ卿、王の馬だけがいませんっ」
「良く探したのか!」
「はいっ、でも一頭だけいないんです、なぜ?」
「あの――アーサフの奴!」
 怒りをぶちまけて怒鳴った。周囲の者がまだ状況を呑み込みきれない中、ディエジは素早く斜面へと走り出す。その肩口を後ろから引いて止めたのは、またもマクラリだった。
「ディエジ。つまり王が、この夜営から単独で出奔し、帰国したという事か」
「そうですっ」
「あの慎重な質の王が、そんなに無謀で意味のない行動に出たというのか」
「そうですよっ」
「何故だ」
「『何故だ』?」
 今度こそディエジの苛立ちは怒りとなり、真っ向からぶちまけてられた。鷹のように鋭い眼を一層に引きつらせ、喰いかかるようにマクラリを睨んだ。
「そんな冷静な口調で俺に訊ねるな!
 そうだよっ、あの慎重な、臆病な程慎重なアーサフが、たった一人で夜中の街道に馬を走らせるなんて気違い沙汰に出たんだよっ。しかも途中には沼地があるのに! しかも奴は早馬が下手糞なことを自分でも分かっているのにだよ!」
「なぜ、あの冷静な王がそのような愚行に出たのだ」
「黙れ! だからそんな涼しい声で訊くな! 知るか!
 俺が今すぐ知りたいのはそんなことじゃない! アーサフが今、どこにいるかだっ、無事でいるかだ!」
「その通りだな」
 またもや涼しい口調であった。
 もはやその時点で、ディエジは留まっていなかった。怒りも露骨に主君への罵倒を叫びながら、灌木の生える斜面を下ってしまっていった後であった。

・            ・           ・

 エメラルドの緑の色の島。エリン島。
 ……
 ほぼ全島がなだらかな丘陵から成っている。
 その丘陵を、緑の灌木が覆い尽くしている。
 一年を通して雨が多い。垂れこめた雲と小雨、そして何よりも霧が、島にたっぷりの湿度を含ませる。この湿った空気により、灌木の丘は色味を増している。宝石のように深い、万緑の色彩に染まってゆく。
 しかしながら。その島に住み人々に平和と安定は少なかった。
 人々が知る昔から、エリン島には豪族達が住んでいた。彼らは父祖より受け継いだ土地に太い根を張り、それを護り、増やすことに夢中になっていた。小さな戦闘や、交渉や、協定や、婚姻や、それらを何度も何度も何度も何度も繰り返し、統合と分裂を繰り返し、繰り返し、繰り返し続けて力を競い合ってきた。
 彼ら、全島に三十数人を数える豪族達を、人々は『小王』と呼んでいる。
 そして今夜。
 三十数人の小王の一人、リートム王ガルドフ家のアーサフは、夜の闇の中に馬を走らせていた。

「エリンの小王、リートム王国の地の王、
 ガルドフ家の、アーサフ」
 ゆっくりと彼は、自分の称号を呟いた。
 緩やかな、しかしだらだらと続く丘陵の斜面に、少しずつ馬を進めているところだった。
彼は、疲れ切っていた。身体も思考も、疲れ切っていた。分かっている。
分かっている。
王座に就いてから初めて、衝動に負けてしまった。一瞬の感情をこらえきれずに、自分に信頼してくれる臣下達を裏切ってしまった。それが何とも意味のない、愚かな行為だと判っていても。
(そうだな。確かに夜の沼地を突破するのには無事に成功した。
 ――ただし、これならば朝、夜明けと同時に出立しても大して変わらない程に時間を喰ってしまった上だが)
 疲れた顔には、もう自嘲の笑みも浮かばない。
 馬の歩みは遅かった。昨夜、あれ程の勢いで野営地から走り出したアーサフが、今はもう鞭を入れようともせず、馬が勝手に進むままにしていた。
(一刻も早くリートムの街へ!)
 思いは今も熱く彼を苛んでいる。が、これ以上鞭を入れても馬は走れないだろう。例え走れたとしても、鞍上の自分の方に姿勢を保っているだけの余力がないだろう。
 疲弊しきった頭は、物を考えることを嫌がった。様々なものが緩い波となって浮かんでは消えていくのを漠然と受け止めているだけであった。例えば、
 リートム。
 エリン島の典型を見るような風景。
 たるみを持フィー川の流れ。緑の放牧地。手つかずの灌木の丘。
 自分が支配をする――させられることになってしまった地。
 ……
リートムの領地をガルドフ家の祖先が手にしてから、すでに長い歳月が流れていた。綿々と連なってきたガルドフの当主達=リートムの小王達が行ってきた事は、常に同じであった。
 自分の領地を守ること。
 だから、自分の場合も同じだった。
 あの日、あの時から。
 忘れるものか。いつだって、いつでも、望まなくても思い出してしまう。あの日、あの時の……

「アーサフ――っ」
 悲痛の大声だった。アーサフは驚いて振り返った。そしてあらためて、さらに驚いた。
 城の通路を必死でこちらへ走ってくるディエジは、泣いているじゃないか。
「お前が泣くなんて……。初めて見た」
 ちょっと唖然としてアーサフはいう。その目の前、ディエジは立ち止まった。息を激しく弾ませ。目から涙を流しながら、ディエジは悲壮な声で叫んだ。
「たった今、急使が――、負けたっ、リートムの軍勢は負けた!」
「負けたって!」
 途端、アーサフも眉をしかめる。今回の隣国ライゴ国との戦には、父王も万全を喫していたものを。
「じゃあアスターの水路は奪われてしまうんだっ、腹が立つなあっ。あそこは元々リートムの領民が掘ったんだぞっ」
「……」
「兄上のレイリーは今頃カンカンだろうな。帰国したらすぐに次の遠征の話を持ち出すぞ。今回の戦役だって、相手の汚いちょっかいが目に余ると兄上が訴えた事から始まったんだし」
「……」
「兄上は誇り高いからな。決してリートムへの侮辱は許さないから。
――何だよ、ディエジ。いくら敗戦だからって……。水路ならすぐに取り戻せるよ。怒った兄上が軍勢を整えて機を見てまた遠征――、
 どうしてそんなに泣くんだよ? なんでお前がそんな――」
「アーサフ。レイリー王子は怒ってないよ」
「え?」
「王子だけじゃ無い。王も、――いまは安らかにいる」
「止めろよ。こちらから仕掛けた上での敗戦だぞ。並外れて誇り高い兄上と父上だ、絶対にあり得ない。絶対に今頃は激怒しているはずだ」
「王も王子も戦死した」
 その時、世界が歪んだ。
 目の前にいる親友も、石組みの通廊も、通廊の窓から見える淡色の空も、全てが歪んだ。まだ言葉の持つ意味を完全に飲み込めなかったというのに。
 しかし現実は猶予しなかった。目の前で涙で充血した眼に哀しみと怒りを見せつけるディエジを介して、現実は、
(まさか――嫌だ――言うな)
恐ろしい一言をアーサフに宣した。
「お前が次の王だ」
(嫌だ――)
「お前しかいない。お前が王だ。
 守備隊長の所に行くぞ。ライゴの軍勢が勢いに乗じて街までやって来るかもしれないからすぐに守備隊長と話し――、アーサフっ、おい! 聞いてるのか?」
「――、嫌だ」
「え?」
「……無理だ、だって」
「何が」
「無理だ……、嫌だ、王なんて、僕には無理だ」
「黙れ、――アーサフ、今は動転していられる時じゃないんだ、駄目だっ、
 分かってる、父親と兄を、肉親の二人を突然同時に亡くしたんだ、混乱して耐えられないのは分かっているよっ。でも今は駄目だっ、哀しむのは後に――ライゴとの決着がついてからだ!」
 泣きながらディエジが捲し立てる。だがアーサフは涙を流す事も出来ない。今、懸命に考えるのは、どうすれば守備隊長と合わずに済むかだけだった。とにかくこの場に留まり続け、その間に誰かが事態を整えてくれるのを願うことだけだった。自分の運命の流れが元の戻るのを待つだけだった。
「しっかりしろ! アーサフ!」
 大声にびくりと怯える。
「何をしてるんだ、急げ!」
 すがる様に相手を見る。
「――。だって、違うから……」
「何がっ」
「だって、違うはずだ。だって……レイリーが、兄上が王座を継ぐって、そう決まっていたのに……、それを今さら――酷いじゃないか、第一、それより、
 それより、お前だって知ってるくせに。みんな知ってる、僕には到底リートムの王なんて務まらない。そんな器じゃない、知ってるくせに」
「――」
「みんなそんなの分ってるくせにっ。なのに、なのにいきなりそんな――王位なんかを押し付けるなんて、ずるいじゃないかっ。僕はリートム王なんかになりたくないっ、嫌だ!
 そうだ、ディエジ! お前がいい! お前にも母方からガルドフ家の血が流れてるんだ。お前の方がよっぽど王位に相応しいんだから、お前に権利を渡すよ。皆だって納得してくれるはずだ。お前の性格と力量の方が優れているんだから、――だからリートムの為になるんだから、だからその方がいい。僕は王にならない。無理だ、嫌だ。お前がリートム王に就いてくれ」
「……。アーサフ」
 その時、相手の顔が笑ったと思った。だから自分も泣きそうな顔で笑った。
これで避けられる。
 リートム王に就くなどという途方もない厄災から、これで逃げられる!
 ――乾いた、痛烈な音だった。
 頬の痛みを覚える間も無かった。振り上げて見た視線に驚かされてしまった。
 そこには、幼い時からの無二の親友の見事な姿があった。軍衣を生粋からの服のように着こなし、腰の剣を鮮やかに観に馴染ませた全身があった。自分より遥かに王者の資質に恵まれた者の、しかしながら歯を剥かんばかりの、身を震わせんばかりの壮絶な怒りの顔があったのだ。
「早く守備隊長の所へ行け!」
「ディエ――」
「早く行け! 行け! 貴様が王だ! リートムを守るのが貴様の義務だ!
 アーサフ、早く行け――!」

 ……十三歳の、初冬だった。
 その時からの四年間は、ガルドフ家の先祖達が繰り返したのと同じく、ただひたすらに、リートムの土地を守るだけの日々だった。
 周囲の国々との、小さな土地をめぐる小さな戦いの繰り返し。
 たかが牧草地一つをめぐる、たかが数十人の豪族と兵士達による、たかが一~二時間で決着がつく小さな戦い。
 その一つ一つに、アーサフは全力で取り組んだ。王国の四方を取り囲む熟達の小王達を相手に、懸命に戦い続けた。泣き出しそうな顔をしながら、それでも己のやるべき事をやり続けた。
その努力は、どうやって恩寵深い神の御心にかなったようだ。気づいた時、リートム王国は一片の領地も失うこと無く、四年間を終えていた。それに対して領内の人々は至極無邪気にこう言って讃えたのだ。
『アーサフ王には、神の御加護がある、
 父王の代からの優れた重臣達を引き継げるという幸運によって、
若いのに見事に国を護っている』
その通りだと、アーサフもまた思った。
そしてまた表情を強張らせた。

 陽の光は、厚く淀んだ雲の向こう側あるはずだ。
 夕刻までにはまだ十分な時間があるはずなのに、世界は肌寒い色彩に沈んでいる。
 アーサフは、猛烈な喉の渇きを覚えていた。ここに至るまでに何度も小川を越えたというのに一度も馬を降りなかったことを、今更にように後悔していた。
 疲労と眠気に襲われる。その中で、意識はぼんやりと思い出す。自分の人生の、二つ目の転機、
 数週間前の晴れた朝。
 婚礼の日の、朝。

「友好の意味での婚姻だ。どこの王の結婚だって、同じようなものだ」
 生真面目な口調のアーサフに対しディエジは、持ち前の陽気な皮肉を交えて主君をからかった。
「とは言っても気の毒な話だな。一度も見たことも無い女を妻にしなければならないとはね。で、どんな花嫁様なんだ? 大国マナーハンのお姫様は。たかだが十四歳の有り難い花嫁様は?」
「止めろ」
「心の底から目出度い、有り難い話さ。あんな大国がリートムのような弱小国に姫君を賜って下さるんだからな。感謝の限りだ。まさに花嫁様様だ」
「いい加減に口を慎め」
 そう叱咤したのは、二人に並んで歩くマクラリ卿だった。アーサフでは無かった。
 アーサフは、無言だった。
 彼は自己に課せられて義務に対して、敢えて反発する気はもう無かった。
 自分はリートム王なのだから。
だから、リートムの利になることをこなすだけだ。物語で散々に語られているような運命の乙女と出会い、愛し抜き、そして結ばれるなんて、自分には無縁だ。やるべき事をやるだけだ。いつもの通り。
 リートムの城内は、主人の婚礼当日を迎えても、ぎりぎりの準備に大騒ぎであった。なにせ当の花婿は一昨日に街の郊外で起こった水路の決壊の対応から、やっと今帰還したばかりという状況なのだから。
 その慌ただしさの直中を、アーサフ、ディエジ、マクラリの三人は礼拝の間へと急ぐ。
「王っ、マナーハンの姫君御一行はとっくに準備を整えられて礼拝室に入っておられます、ずっとお待ちです」
 留守を預かっていた古参のヨアンズ卿が飛び出してきて叫んだ。
「貴方の御不在にいささかご立腹のようで、たった今も――
 王! まさかその汚れた服でお会いになるわけでは!」
「分かっている、すぐ着替えるけれどでも、取り敢えず一言ぐらいは先に謝罪しておかないと」
「そうだよな、何せこのリートムなどには勿体無い、大国よりの花嫁様だ、何があっても御機嫌だけはとっておかないとなあ」
 ディエジの茶化しにも、アーサフは口元一つ緩ませなかった。昨夜来の固い表情を続けるだけだった。
 彼らは足を速める。騒々しい物音が立つ通廊を歩み、擦り減った石段を上り、家臣や使用人達の発する焦った声を聞き、角を右に二回曲がり、その果てについに礼拝室に隣接する小部屋にたどり着いた。
そこへ入室した途端、
「ガルドフ家のアーサフ王!」
 花嫁に同行する多数の女性達が、一斉に振り向いたのだ。
 アーサフは気まずさを覚える。誰もが華やかに着飾った女性達の、しかし誰もが苛立ったり不満気だったりの顔の、どこに視線を合わせれば良いのか分らなかった。泥まみれの服をまとった自分の全身を舐めるように観る目に、息苦しさを感じた。
「どうしてこのように遅れるのですか? まさかこのまま、婚礼の日取りを延期なさるおつもりではないでしょうね」
 一番年長と思われる侍女が、嫌味な笑みと共にいきなり核心を付いてきた。
「こちらの国では、約束事が遅れるのは当たり前なのですか? 私どもは何時まで待たされればよろしいのでしょうか?」
「――。その件ですが。すでに聞き及んでいらっしゃるでしょうが、こちらの国内に災害が発生ました。為にマナーハンの姫君には大変長らくお待ちいただいており、大変申し訳なく感じています」
「とは仰られても、いくら何でも朝から延々と待たされるとは……。こちらとしても今日の日に為に様々な段取りを整えてきましたのに。なにより当方の姫も待たされ続けて疲れてしまっています。不安を感じながら待たされる心情を理解されているのですか?」
「申し訳ありません。もっとこちらへ頻繁に使者を送るべきでした。私の落ち度です。この度の姫君の御不安そして御不快に対して私――」
「不快ですって?」
 女達の向こう側から、柔らかな声が響いた。
 アーサフは直感した。
(これが、妻だ)
 その声の持ち主が進み出てくるまでの僅かの時間、身体は露骨な緊張を訴えた。喉の奥が締まり、脈が早まり、頬の肉が固くなった。
 ――トビ色の眼だった。
 汚れた物を見ない眼だった。相手を信じ切る眼だった。その眼が今、真っ直ぐに、真正面から自分を見ていたのだ。
「リートムの国王様はとても領民思いだと聞いていましたから。領民が困っている時に、何を置いてもそちらへ向かわれるのも当然です」
「……」
「私なら、何時まででもお待ちしています。アーサフ王様」
「……。初めまして、イドル姫」
 ようやく、アーサフは返答出来た。
 小柄で華奢な身体を、華やかな婚礼衣装で包んでいる。豊かな黒い髪をぴっちりと結い上げてはいるが、それでも十四歳という年齢は隠せなかった。一国の王妃となるにはいかにも幼く、愛らしく、少女の純粋さそのものだった、
 そしてアーサフは、はっと息を飲んだ。
 唐突にイドルはアーサフの方に歩み寄って来た。何のていらいも無い。本当にごく間近まで、その婚礼衣装の豪奢な裾がアーサフの足に触れる程までの間近に歩み出て来たのだ。
「貴方様が私の夫となるのですね」
「――はい。そうです。
 出来ることならば、生涯の伴侶として……共に良い関係を築いていきたいと願っています。いかがでしょうか」
 その瞬間だった。
 少女は笑ったのだ。
 アーサフの目の前で、彼女は笑ったのだ。怖れの無い笑みだ。初めて会ったこの瞬間にもう未来の夫の事を信じ切ったのだ。共に生涯を過ごすことへの幸福を伝える愛らしい笑みを、真っ直ぐにみせたのだ。
 それを拒めるだろうか?
 自分もまた、素直に今この瞬間の感情を示せば良いのだろうか?
「さあ。急いで着替えを」
 家臣の一人の声に、アーサフは遮られる。室内の騒々しさが、耳に戻ってくる。
 彼はディエジとマクラリに挟まれながら再び歩み出す。急がせる従者達の声や、相変わらず皮肉口をたたくディエジの声が耳をかすめていく。心の中は驚きと混乱と、それを上回る痛いような激しい感覚に貫かれている。
 その感覚の奥の方で、ようやく今、アーサフは幸福感の片鱗を自覚し始めていた。
 父と兄の悲報を受け取ったあの日以来の、初めて覚えた感情であった。

・              ・            ・

 単調な馬の歩みが斜面で一度、大きく揺らいだ。
 びくりとアーサフは眼を上げる。鞍上で眠りかけ傾いていた身体を、急いで起こす。
(あと少し……)
 遠い前方を見ながら、アーサフは呟く。この数時間に何度となく乾いた口の中で繰り返してきた通り。
(あと、もう少し……)
 だが今度こそは違う。今度こそ、言葉は真実に近づいている。
 今たどっているこの斜面を登り切れば、リートムの街が視界に映るはずだ。長い一夜の果てに、ようやく街に帰還できるはずだ。
 そう思った時、アーサフの頭の中には、無意識に抑え込こんできた思考がよみがえってきた。最悪の予想図が覆いかかってきた。
 ……燃え残る炎 ……焦げた城壁 ……残骸と、血と……
 夢中で眼を上げる。前方の空の陰気な灰色が映る。
止めろ。今は。進むことだけを考えろ。エリン島の空はいつにもまして暗く、重く、冷えている。
(あと、あと少し……)
 丘の頂までもう数歩だ。疲れ切った馬が、のろのろと歩む。手綱を持つ手が汗ばむ。
(あと少し、あと、もう少し……、もう少し……)
 頂に出た。
 一気に広がった視界。海のように広がる灌木の斜面の、その果て。
そこに街はあった。
 薄く曇った午後遅くの空の下に、リートムは確かにあった。あったのだ。だが。
 生々しい赤の色が、アーサフの眼を捕える。淡くくすんだエリン島の色彩の中を、鮮烈な真紅色が貫いていた。円形で街を取り囲むリートムの城壁の上に、多数の赤い龍の旗印が翻っていた。
 街は、失われていた。
自分は、国を奪取された。
現実を目の当たりにし、頭の芯が凍り付いた様に冷めてゆくのが判る。目を離すことが出来ない。アーサフは、前方を見捕えてゆく。
不思議なことに、街そのものは変わっていない。放火や略奪を受けた跡もない。あまつさえ、城門は大きく開かれている。
 ほんの三日前のことだ。自分は確かに、その門の許にいた。
 この街の王として、隣国との戦いのために出陣した。勝算の自信をもっての出陣であり、予定通りであれば次の安息日には勝利と共に帰還できるはずであった。 
 視界に映るあの南の城門から出場した朝を、アーサフは完全に覚えていた。つい昨日の出来事のように思い出せた。いや実際、たった三日前の出来事ではないか。
 ……
 その朝。夜明けの直前。淡い光の中。
アーサフは引き締まった顔で城門の前に立っていた。きらびやかな軍装の諸侯達、馬の蹄音と犬の吠え声、冷えた空気と薄霧の中にはためくリートム旗、周辺に集まる街の住民達。賑やかな喋り声の中。
 あの少女もいた。妻のイドルも。
 数人の侍女達と共に、夫となって五週間目の若者との最初の別れの為に、華やかに着飾って見送りに来ていた。
「すぐに戻ってくる」
 出陣直前の、身体を縛る緊張と興奮の中でアーサフが告げると、彼女は微笑んだ。
「御無事で。お待ちしてますわ」
 黒い眼は夫の勝利を信じて疑わず、安心しきっていた。その妻に向かって、アーサフは手を伸ばした。妻の首を抱いた。
 豊かな髪の感触、柔らかな肌の弾力、そして熱い温もりを、アーサフは確かに思い出すことが出来たのだ。

“御無事で。お待ちしてますわ”
 少女は微笑む。無邪気に。純粋に。
 ……遂にアーサフは現実と共に、哀しみを受け止めた。あっけなく奪い取られてしまった己の街、そして妻という現実に、忘れていた涙を覚え始めた。
 一体、イドルは今どこにいるんだ?
 助け出せるのか? 再び無事に会えるのか? それより――
(生きているのか?)
 ただ一度だけ、アーサフの喉が叫びを突き上げた・
 風が出始めた。丘陵の灌木が、大きく枝先を揺らせてなった。丘陵の上をたどる街道の上、数人の巡礼達が遠い聖地へと旅立つ姿が、小さな影になっていた。
 今にも霧雨が降りだしそうであった。
 アーサフは馬を降りた。
   
・            ・            ・

「馬がいました、ディエジ将!」
 丘の下方からの声に、弾かれた様に振り返る。
「いたのか!」
「馬が! 王の馬です、ほらっ、あそこの雑木林の陰に、あんな所に――」
「馬はいいっ、アーサフは!」
 湿った斜面を滑るように走る。瞬く間に部下の兵士の許へたどり付くや、その指差す先を見る。そこに、何事も無いようにのんびりと草を食むアーサフの馬を見つける。
「やっぱり……、街の中へ入ってしまったのかな?」
 兵士のもらした言葉こそは、ディエジが最も恐れていた予想であった。それが現実味を帯びたことに、彼は深刻な危機を覚えた。
 夜明けの薄明と同時、ディエジと数名の兵士達は馬の腹を蹴った。
 最悪の事態となる前に何とかリートム王に追いつこうと、強引に沼地も走破した。ディエジを筆頭に早馬には自信のある面々だったが、それでも昼前に王を探し当てるという目標には余りにも時間を費やしてしまった。
(あの中へ――)
 霧雨が覆っている風景を、ディエジは唇を噛みながら見通す。淡いベールを掛けたような丘陵の向こう側には、リートムの街の全景がある。その市壁に、赤い龍の旗印を見せつけている。
(あの街へ入っていったのか。蛮族がいるあの中へ――)
 苛立った思考が猛烈な後悔と共に思い出すのは、昨夜の天幕の中、松明の光に照らしだされたアーサフの表情だった。
 慎重で思慮深い王。冷静に他者の言葉を受け入れる王……。そんな評とは裏腹に、実は頼りない程に不安を抱え、必死に脆さを隠しているとは、自分こそが一番良く知っているのに。だというのに、
「昨日、あの時、奴を一人にしてしまった」
 独り言のはずが、低い声は霧の冷気の中に広まった。
 ディエジはリートムを見つめ続ける。霧の午後は、夕刻へと近づいてゆく。彼の険しい表情に疲労と焦燥が増してゆく。
 少しずつ、空は光を薄めてゆく。夕刻が進み、ディエジの焦燥に最悪の絶望感が混ざり始める。徐々に薄れ始めるリートムの全景を、輪郭を、食い入るように見据え続け――
 その瞬間、ディエジの眼が見開かれた。
まさか――、そんな――、神様! との言葉を発してしまった。

(御無事で。お待ちしてますわ)
 そして少女の首に腕を回した。柔らかで暖かな感触が、身体に伝わった。
 ――
 どうして? 誰?
 誰だ? どうして邪魔をするんだ?
 誰かが背中を強く揺すってくる。
嫌だ。止めろ。このままでいたいのに。
「生きているんだな?」
 このまま、身体も思考も丸く縮こまっていたいのに。
「無事なんだな?」
 嫌なのに。このままでいたいのに。
それでも仕方なく、少しずつ目を開けてゆく。
「無事なんだろう? 生きているんだろう? 死んでる訳じゃないんだろう?」
 霧と、暗くなりだした空。それを背景に、見慣れた顔がある。少女ではない。でも同じぐらいに見慣れた顔だ。安堵を感じる、頼りに出来る顔だ。
 灌木の直中に倒れていた身体を、アーサフはゆっくりと動かした。
「――。ディエジ?」
 その瞬間、友の顔が泣きだしそうに笑ったのが見えた。さらにそれが、すぐに怒りに変わるのも。
「何でこんなところにいるんだ! 街の目の前だぞっ、見ろっ! 敵が目の前にいるんだぞ!」
 何を怒っているんだ? 何を見ろって?
 まだ醒めきっていない身体をゆっくりと起こす。彼は、振り返った。
そこにはリートムの城壁が巨大に、視界一杯に広がっていた。今、彼ら二人は、街を目の前にした灌木の斜面の中の僅かな窪みにいた。
「私は、こんな所に……。寝ていたのか?」
「寝てただと? 緊張と疲労で倒れたんだ! 殺されて捨てられたんだと思ったぞ、この馬鹿が! 倒れるにしてもなんでこんな所で! 誰にも見つけられなかったのは神の奇跡だ。いや、神より先に間抜けの悪魔に感謝しろ!」
「……」
「勝手に夜営を飛び出しただけでも許されないというのに! さあ言え! 言い訳しろ! なんなんだ、昨夜のあの馬鹿げた仕出かしは!」
 あの時?
 疲れた頭が罵倒を理解するまでには、生ぬるく時間がかかる。
 あの時。――ゆっくりと頭の中に、昨夜の時間がよみがえってゆく。
 あの時。昨夜のあの時。ディエジは先に出ていった。松明の輝く天幕で、自分は独りになった。
 あの時。冷気が頬をかすめたのを覚えている。すでに親友は、天幕の出入り口を開け放したまま出ていっていた。
(皆が待っている。行かないと)
 確かにそう思った。だからその為に歩を進めた。天幕から出て、歩みを進めようとした。
その瞬間に、月が現れたのだ。
 全くの偶然、厚い雲が割れたのだ。真っ白の満月が現れ、透明の光が地上を照らしたのだ。だから、混乱したんだ。
“お前には冷静でいなければならない義務があるんだ”
 ディエジの厳しい言葉と表情。だが――、
“御無事で”
 微笑む少女。その姿が、彼の心を掴んでしまった。その為に、
「月が――」
「何だって?」
「――。いや」
「アーサフ」
「ディエジ。お前はいつここに到着した?」
「一時間ほど前だ。俺と、もう四人。かなり無理をかけて走って来た。
 ああ、お前のせいで俺達は心身とも疲れ切っているとも」
「済まない」
「謝るな。腹が立つ」
 その通り、アーサフは呼吸三回の間、無言で丘陵の連なりを見た。
「他の者たちは今どこだ?」
 王の友人は、後方の丘を指差した。
「あの丘の向こうに二人、馬と一緒に待たせている。後の二人は疲れているところを可哀想だが、街の中に送り込んでおいた。リートムの街の中の様子を調べさせている。
 それから、マクラリ卿からの伝言だ。
『マナーハンのコノ王への支援要請の使者は、万全を期した上で送り出しておきます。コノ王が即答を下せば、最も早くて三日後にはその返書を受け取れると考えています。
 今ここにいるリートム軍勢については、ターラ村近郊に私の旧知の僧院があるので、取り敢えずそちらに移動をさせます。ひと時身を隠す避難所としては十分なものでしょう』
 どうだ? マクラリはお前の意見を聞きたがっていたが」
 アーサフは黙ったまま、前方のリートムを見ていた。
 ディエジは言った。
「街を奪われたんだ。動揺して、混乱しているんだろう? その気持ちは理解できる。だがな、アーサフ?」
 相手が自分の言葉を聞いていないことに気付いた。アーサフの眼は自分の肩越しにリートムだけを見ていた。
「アーサフ?」
「――るか?」
「何?」
「リートムの王について、人々がどう言っているか、知っているか?」
「――」
「『リートムの若い王は、神の御恵を賜っている。
 父王の良き家臣達をそっくりと引き継ぐことが出来、ゆえに安定した良き統治が出来る』。
 本当にその通りだと思って。リートムの家臣たちは有能で忠節で、文句の付けようが無い。若い王自身は、全く何も出来ない無能というのにだ」
「止めろ」
「――」
「お前の気持ちぐらい分かると言っただろう」
「――」
「俺もマクラリも、臣下達は誰一人お前を無能だなんて思っていないはずだ。少なくとも俺だけは、神に賭けて思っていない。だから、もし皆が悪魔に唆されてお前を見限ったとしては、俺だけはお前を裏切らない。諸聖人の名の一つ一つに賭けて、最後の時までお前を敵から護る」
「――。それに値しない王なのにか?」
 突然、ディエジはアーサフの襟首を掴んで引っ張った。
 殴られるな、とアーサフは思う。
 あの時と同じ。あの四年前のあの日と。城の通廊、混乱に陥って自分を殴った時。あの時、泣いていたディエジの顔。あの時と同じように殴られる、とアーサフは思う。
だが、そうはならなかった。ディエジはごく間近からアーサフの眼を見捕えて、はっきりと告げただけであった。
「俺達が付いている。お前はこの苦境を必ず切り抜ける」
 複雑な感情と共に、アーサフは聞く。
「だが、違うな。そうだろう、アーサフ?」
「――何が」
「お前にこんなに無駄な、無謀な行動を取らせた理由は、それだけじゃない。街の安否だけじゃ」
「――」
「奥方のイドルだろう?」
 アーサフは答えなかった。
 彼はゆっくりと立ち上がった。冷え切った身体のまま、無言で灌木の斜面へと歩み出していった。
 細かな霧雨が始まった。風は無い。そろそろ夕刻が始まろうとしていた。



2・ モリット

「無事の帰還を、神に感謝します」
 マクラリ卿は、この言葉でアーサフを迎えた。
マクラリは常の通り、王との再会までに、老練した眼光と行動力の駆使していた。やるべき事全てを、卒なく遂行していた。
「軍勢は皆、僧院内に避難させました。ここは十人程の僧たちが寝起きしている外には、ほとんど人の出入りがありません。僧院長は私の旧知ですが、彼は我々の立場に同情を示しています。事態の解決が長引いても、ある程度の長時間ならば兵士達を留めておくことが出来ます。ここならば密かに留まり続け今後の対応を進めてゆくのに、問題はありません」
 そう告げながら、いつ廃院に追い込まれてもおかしくない、古びて荒れた修道院の通廊へとアーサフを案内してゆく。歩きながら引き続き、食料の調達状況から、自身の判断で兵士達にリートムの街の現状について伝えた事等々、アーサフの不在中に執った処置について簡素に的確に報告を続けた。
だがしかし。最も重要な件については、決して王に語りかけることはなかった。
(なぜです? なぜ臣下達の信頼を裏切り、周囲に散々の迷惑をかけてまで勝手な行動をとったのです?)
 真っ向からそう問い詰めて責めなじってくれた方が、よほど楽なものを。
 そしてそう責めなじってくれたならば、逆にこちらこそが問い詰めることが出来たものを。
(なぜだ? 貴方ほどに優秀な卿が、貴方自身こそが君主に相応しい卿が、どうして自分のような価値も能力も無い王に忠誠を捧げてくれるんだ?)
 もう隠し切ることも出来ない。その淀んだ感情を、アーサフは表情にさらしてしまっていた。
 ところどころが崩れた外壁。鳥の毛と糞だらけと鐘楼。ほとんど使い手がいなくなった僧房個室。掃除のされていない、がらんとだだ広い食堂。……
 古く小狭い僧院を、取り敢えず見て回る。ほんの十人程とはいえ、いまだに僧達が住んでいること自体が感動的だった。
ぐるりと視察を終えるや即座、今度はマクラリやディエジが派遣していた偵察達から収集した報告を聞くという仕事が待っている。
『……はい。バリマック族はあっという間にリートムの市壁を突破したそうです。十分な攻城道具を携えて真っ直ぐにリートムに襲来し、街の守備部隊がろくに応戦する間もなく街へと突入したと』
『……いえ。意外なことに、バリマック族は略奪行為は取らなかったそうです。放火もありませんでした』
『……はい。恐ろしい蛮族と聞いていたのですが、意外にも破壊行為はありませんでした。住民達に死者や怪我人はほとんど出ず、家財への被害もほとんどありませんでした』
『……はい。守備隊長のヨアンズ卿を始め兵達二十人は全員捕えられて、街から連れ出されましたが、その先は全く分かりません』
『……いえ。バリマックは残虐な蛮族と聞いていたのに、今も街も住民もそのままです。変わったのはガルドフ家の旗印がバリマックのものになっただけです。意外でした、どういうことなのかは判断できませんでした。どうしてでしょう?』
 長く、長く続く報告を、アーサフは押し殺した表情で、静かに、無言で聞いていた。
 だが一度だけ、この報告を聞かされた時だけは、
『……いいえ。申し訳ありません。イドル王妃の消息だけは、分かりませんでした。城の中にいたほとんどの女達は城外へと追い出されたそうですが、王妃だけは消息が分かりませんでした。おそらく城内にそのまま捕えられているのではと思われますが、何も分かりませんでした』
僅かに、押し殺した息をもらした。
 だが、耐えた。淡々と頷くだけで、終えた。勿論、ずっと王の横に座して恐ろしいまでの注意深さで見続けてきたディエジは、友の内心を見抜いていたのだが。
 そして未だに、アーサフが最も待ち望んでいる使者はやってきていなかった。

         ・         ・        ・

 ガルドフ家のアーサフが僧院にやって来てより四日目の夕刻。
 午後一杯続いた小雨が止み、今度は深い霧が立ち込め始めていた。
 アーサフは、上階の小部屋で簡素な食事をとっていた。この数日間、彼には食欲など全く無かったが、同席する従者達に無駄な心配をかけてはいけないという義務感だけで簡単な味のスープを口に運んでいた。
 食卓越しには人のよさそうな顔立ちの僧院長が座っており、何とも同情の念を訴えてきている。
「――ですから、全能なる神は人間には時に試練も必要と試されるのですよ」
「そうかもしれません。僧院長」
「聖典にも記されています。かつて聖カニサが己の驕慢と怠惰を自覚し、全てを捨てて荒野に出た時ですが、その信仰生活への志に対して神が最初に与えた試練――、
 アーサフ王。この話は御退屈ですか? 食が進んでいらっしゃらないような」
「いえ。興味深いです。続きを」
 淡々と答える。それだけだった。ゆっくりと匙を動かす。その時だった。
 アーサフ自身も気づいた。荒々しい声だ。外壁の門の辺りで、数人の兵達の間にちょっとした騒ぎが起こっているらしい。
どうしたんだろう?
 匙を止めて、窓の方をみる。
「何かあったのか?」
自ら席を立ち、窓枠に乗り出して外の様子をうかがう。が、濃い霧しか見えない。
彼は僧院長に一礼して部屋を出ると、そのまま地階へ降りた。通用口をくぐり外へ出た途端、冷えた感触が肌を覆った。
霧がかなり濃い。乳白色になって世界を覆い尽くしている。
「番兵か? 良く見えないがそこにいるのか?」
 中庭を横切り外門へ達する。辺りは真っ白の中、ようやく兵の輪郭が見えてくる。
「騒々しいが何があったんだ?」
「はい、妙な奴がここへ入り込もうとしており、今捕えたところです」
「違うったら! 俺は用があって――腕を放せよっ、俺はリートムの王様に用があって来たんだよ!」
 甲高い声が響いた。アーサフは目を凝らす。二人の兵に両腕を押さえられてわめく者の、その輪郭が見える。こちらに引きずられてくる。
「リートムの王様に会わせてくれよっ。ここにいるんだろう? ……痛いだろう! 俺は王様に用があって――直接会えと念を押されたんだよ、アーサフ王に会わせろよ!」
 霧の中に現れた。
 霧と、夕刻の薄闇を透して現れてきた。まっすぐに自分を見据えてくる眼、極めて印象に残る黒くて生き生きとした眼だった。
「あんたがアーサフ王様?」
 真っ向から自分を見ながら言った。
「……。そうだが。お前の名前は?」
「イリュード」
 十四~五歳にぐらいに見えた。痩せた子供だ。
茶色の胴着、それに短靴。なかなか質の良いものを着ている割には、どれも汚れきっている。櫛など入れたことが無いのではと思われるくしゃくしゃの前髪の下から、真っ直ぐに黒色の眼がこちらを見据えている。
「本当にリートムのアーサフ王様? 貴方が?」
「そうだ」
「王様、貴方に渡すものを預かってるんです。だから頼みます、俺の腕を放して下さい」
「分かった。話してやれ」
 番兵は露骨な不満顔を見せながらも、従った。自由を取り戻した瞬間、少年は大きく笑う。その笑顔が余りにも素直だったので、アーサフはちょっと面喰ってしまった。
「よかったっ。だっていきなり腕を掴んで俺のいう事は全く聞こうとしないから、このまま牢へ押し込まれたらどうしようかと――、
 それでリートムのアーサフ王様、俺は貴方宛の手紙を預かってきたんです」
 そう言うと胴着の中に手を伸ばし、くしゃくしゃの書状を取り出すと、真っ直ぐ差し出してきた。
 それを見た途端、アーサフの表情に緊張が走った。
「この封蝋! お前、これをどこで手に入れたんだっ」
「街道の東の外れです。今朝そこで、落馬で足をくじいている人に会って、その人に言われました。この手紙をもってすぐに街道を進み僧院へ行けと。そこにリートムのアーサフ王がいるから渡せと。絶対に人に見せずに、確実に本人に手渡せと、そう言われたんです。だから俺――」
「誰にも見せなかったんだな!」
「あ、はい」
「番兵っ、すぐにディエジとマクラリを呼んで来い、急げっ、早く!」
 突然の剣幕にイリュードはきょとんとしている。その少年をちらっと見ながらアーサフは短く言い切った。
「これは、マナーハン王の封蝋だ」
 ……
 まとわりつくような濃い霧をかきわけて二人の忠臣が合わられるまでには、ろくに時間がかからなかった。
 アーサフは、読み終えた書簡をマクラリに手渡す。老忠臣は周りに信用のおける者しかいないことを確認すると、声にして読み上げた。
「神の恩寵を賜れたるリートムのガルドフ家のアーサフ国王よ。義理の息子よ。
 貴殿がしたためた我が国への援軍要請を受け取った。
 蛮族バリマック族のより領国を占拠されたとの悲報に対する驚愕それに続く屈辱の念は、貴殿と同じくエリン島の小王の身である我として、察するに余りある。
 我、マナーハン国王ホーリン家のコノは、エリン島の守護聖者の名及びマナーハン王の名誉にかけて我が盟友であり我が娘の誠実な夫である貴殿への援助を約束する旨を、ここに記す。
 我は近日中に、我が子であるマナーハンの嫡男が率いる三百兵からなる軍勢を出陣させ、貴国との領境に近いニリス村に待機させる所存である。出陣の期日については、こちらの準備が整い次第追って連絡をするものである。
 よって、今後の事態の詳細にかんしては、心をして次の書簡を待たれるよう――」
「神は讃えられろ! 援軍が来る! リートムを取り戻せる!」
 ディエジが大声を上げ、アーサフの肩を掴んだ。その喜びはアーサフにも伝わる。アーサフは本当に久しぶりに眼を輝かせた。その眼でマクラリを振り向いた。
「これでリートムを取り戻せるっ。待った甲斐があったっ。マクラリ、すぐに返書を書こう」
「いや。王。水を注す訳ではありませんが……」
 マクラリはもう一度丹念に書面を目で追った後、厳しい顔を上げた。
「やはり気になります。この、三百という兵数が多すぎます。
 いくら強国マナーハンとはいえ、一時に三百の兵を出陣させてしまえば、自国の防御が手薄になります。バリマック海賊が内陸部にまで現れたというこの状況下においては、あの狡猾なコノ王らしからぬ気がします。しかも次の王となるべき大切な嫡男の王子までを送り出してくれるとは」
 的確であった。アーサフの顔から笑みが消えた。
「コノ王にはもう一人息子が、私の義兄に当たる王子がいたな」
「確かに。しかしその弟王子は病弱で人前に出ることすら出来ないとか。マナーハン王国にとって世継ぎの王子は事実上一人です」
「だが、この書簡に押されている封蝋は、確かにコノ王のものだ」
「この書簡は誰が運んで来ました?」
 アーサフの視線が素早く流れた。
 その視線に反応する。薄汚い少年は慌てて怒鳴った。
「俺は何も知りませんから! ただ手紙を頼まれただけです、本当です、正直者だった親父の名に賭けて嘘は言ってませんっ」
「まだお前を疑っているとは言っていない。イリュードだったな、お前に手紙を託したという男だが――」
「その人っ、最初は商人かと思いました、それっぽい服を着ていたし。足をくじいて酷く困っているようで、俺が通りかかるとすぐ呼び止め、自分は実は秘密の伝令兵だと言ってこの手紙を押し付けてきたんです。とにかく大至急の重要な手紙だと、リートムの王宛てだって」
「それにお前はおかしいと思わなかったのか? 噂では私はケルズとの戦闘の最中に行方知らずになっているそうじゃないか」
「勿論変だと思いましたよっ。何か面倒に巻き込まれそうだし。――でもその人は、無事に手紙を届ければ必ず十分な礼を貰えるからって……、俺は全然金を持っていなかったし、第一とにかく腹が減っていて――、
 本当です、それだけです、王様! 信じて下さいよっ」
「……」
 アーサフは相手を無言で見据える。
彼――イリュードは、不思議な印象をもつ少年だった。眼が印象的だ。相手のことをはっきりと見据え、相手が自分を受け入れると信じて疑わないその眼は、なんとも言えない存在感がある。
ちょっと意外だが、何の理由も無いのに、相手の言葉を信じようとしている自分がいる。
 アーサフは、ディエジを見る。
「どう思う、ディエジ? 筋は通っていると思うが」
「思う。筋は通っている。だからこそ信じてはならない気もするがな」
「ちょっと待て! どういうことだよ! 俺がリートムの王様を騙して何の得になるんだよっ、それだったら俺はこんな面倒な事をしないでもっと簡単――」
 突然、イリュードの言葉が途切れた。
 その目の色が変わっている。視線が前方の霧の向こうに向けられている。
霧の向こう、そこには今もう一人がいた。もう一人の見知らぬ男が、番兵に付き添われて現れ出てこようとしている。
 その途端、イリュードはいきなり走り出した。逃げ出したのだ!
 が、ディエジの方が速い。脇をすり抜けようとそる少年の真ん前に足を突きだし、見事に相手を転ばせた。すぐさましっかりと、その上腕と掴み取った。
「貴様、ついに見つけたぞ!」
 現れるや男は叫びながらイリュードに向かうとあっという間、とりあえず相手の顔に派手な平手打ちを喰らわせた。
「貴様の悪運もここまでだ! もう逃がすかっ、よりによって僧院の中でひっ捕まえられるとは、これも神の裁きだ。さあ来いっ、村まで引きずっていってやる!」
「僧院の中にいる者には誰も手が出せないって、それが昔からきまりじゃないか! 俺を引っ立てようったって無理だぞ!」
 二度目に殴打の音が響いた。イリュードが地面に倒れる音も。
 その男、壮年の肉付きの良い男は、肩を揺らしながら憎々げにイリュードを見下ろしえいる。誰だ? 何が起こっているんだ?
ここまでの様を唖然と見ていたアーサフは今、ようやく割って入る事を思い出した。
「おい、とにかくもう殴るのは止めろ。とにかく僧院の中が避難所であるというのは正しいのだし。第一、まずお前は何者だ」
「そう言う貴様は誰なんだよ?」
 訊き返してくる胡散臭そうな目つきを前に、アーサフは一種の躊躇を見せた。だが、神の名においての秘密の保持を誓わせた上、そしてディエジの猛烈な反対を抑えた上で、
「リートムの王、ガルドフ家のアーサフだ」
自分の名を言ったのであった。
 事態は一転した。相手は驚きで真っ赤になり、次に当惑と、さらに面倒に足を突っ込んでしまったことに苦笑を見せた。困ったように口ごもった。
「いえ……リートムの王様ですか……。失礼を済みませんでした。貴方様はどこぞとの戦で死んで、そして街にはバリマック族が来たと噂で聞いたもので……まさかこんな所にいらっしゃったとは……」
「お前は?」
「私はサティフという名で毛皮の行商でして。ここに来たのは――ええ! こいつです! このこそ泥野郎を遂に見つけて後をつけてきた訳で!」
「こそ泥って、この少年のことか?」
「勿論です、王様! こいつは悪魔に目をかけられたガキです、持ち逃げ、かっぱらい、空き巣、忍び込み、何でもやるこそ泥ですっ。王様も名前は知っているはずです、なんせ貴方様の城にも忍び込みましたから。覚えてますでしょう? カラスのモリットですよ!」
カラスのモリット――
と聞いた途端、全員が驚いた。アーサフも例外では無かった。彼こそが最も驚いていた。
「覚えている、カラスのモリット。半年前だ。誰にも気づかれずにガルドフ城に忍び込んで荒らした上、まんまと逃げ切った盗賊だ。忘れるものか。だが……、信じられない。まさかこんな子供だったなんて」
「聖者バリマに賭け本当ですともっ。王様、こいつには俺も俺の商人仲間も何度となく痛い目に合わされてましてね、この前も上物の白テンの胴着を盗まれてもう……! 全くこいつの狡賢さときたら、正にカラスそのものだ!
 だがもう逃がさないぜ。このまま村まで引きずっていって、皆の前でたっぷりと礼を返してやるさ」
 その台詞と同時、三度サティフの腕が上がり、イリュード=モリットが喚こうとする直前、慌ててアーサフは口を挟んだ。
「サティフ。事情は分かったが、とにかく落ち着け。ディエジももう腕を放してやれ。
 イリュード。私の前に立て」
 こうしてようやく場は整ったのだ。
イリュードは、傍目にも哀れな顔をさらしながら、アーサフの前に震えるように進み出てきた。
「お前。正直に答えろ。お前は本当にカラスのモリットなのか?」
 少年は露骨に身を縮めた。
「調べればすぐに判ることだ。今の内に神の御前を思って正直に言え。お前の名前はイリュードとモリットのどちらなんだ?」
「……」
「なぜ答えない。早く言え」
「……」
「言えと言っているっ。貴様は盗人のモリットなのかっ、そうなのか?」
「……。はい」
 狼狽に色を失いながら、ついに少年は頷いた。
 途端、ディエジが息を突き、つまらなそうに言った。
「面白くも無い。ガルドフ城の侵入に成功した程の盗賊ならば、さぞや頭の冴えたしたたかな奴だと思っていたのにな」
「まさか。こいつに出来るのはこそこそとネズミみたいに忍び回ることだけでそよ。王様の城に入れたのは、穢れた盗っ人の神の加護があっただけだ。ただの薄汚いこそ泥でしかあるものか」
「それだけで十分だ」
 アーサフが、小声で呟いたのだ。
 アーサフは、ゆっくりとモリットの間近まで近づいた。視線をそらそうとする盗っ人の真ん前に立った。
「カラスのモリット。今までに何度ぐらい盗みを働いた」
「……。済みません。憶えていません。多分、沢山です。……済みません」
「盗みは聖典と教会法に反する罪だ。その罰を受けて当然だな。お前の行為で多くの人々が迷惑を被った」
「……はい。分ってます、悪いことだとは……。
俺は――、やっぱりあいつに引きずられて行くんですか?」
「もし私が免じてやると言ったら?」
 ディエジがアーサフを見た。
 何か、嫌な予感を覚えた。ディエジは口を挟もうとするが、
「俺の罪を許してくれるんですかっ、お願いします、王様!」
「罪を許す許さないは神の領域だ、私には出来ない。だが。私はお前に用がある」
 嫌な予感がする。嫌な思惑が浮かぶ。誰よりもこの友の事を良く知っているディエジだけが嫌な、極めて嫌な展開を予測する。
「カラスのモリット。話がある。付いて来い」
「はい」
 その瞬間。一瞬、カラスが笑ったのをディエジは見た。
 今度こそディエジは声を出そうとする。だが、すでにアーサフもモリットも歩を進みだして行ってしまった。
 僧院の周囲で、霧はまだ消えていなかった。

          ・         ・         ・

 呼び出したのはモリット一人だったのに、ディエジ・マクラリ・商人サティフの三人ともが納得しなかった。結局、リートム王が話し合いの場所にと選んだ食堂には、合計五人の者が顔を揃えることになってしまった。
 アーサフの目の前で、カラスのモリットは提供されたスープをかき込むように頬張っている。その姿があまりにも夢中で、幸せそうで、しばらくは事を進めるの待たざるを得なかった。相手が皿に残った最後の人参の欠片を口に入れた後、ようやくアーサフは言葉を発した。
「リートムについて、知りたい」
 まず、毛皮商人に尋ねる。
「サティフ。行商の仲間から何か聞いていないか。バリマックの支配に入ったリートムの様子について」
「はあ。リートムでしたら、……そう言えばつい今朝がた、リートムに立ち寄った布地屋と会いまして。
 街はバリマックの物になっているんですが、住民の生活は普段通りだったとか。いえ、それどころか、外から軍勢が入って来た分、商いが活発になっていて、その男も散々良い商売をして来たとか」
「――」
「実は私もこれからリートムへ行って儲けにあずかってこようかと……。
 はあ。何だかリートムの元の王様――あっ、済みません、リートムの王様の前でこんな事を言うのは悪い気もしますが……」
「悪い事じゃないよ、本当のことなんだから。
 王様、俺も先一昨日、リートムを通りがかりました。活気がありましたよ。きっと街の住民にしたら街が平和なら、王様が蛮族だろうと誰だろうと気にしないんじゃないんですか?」
 パンを頬張ったまま、無邪気にモリットが言い切った。勿論ディエジは、この無神経極まったガキを一発殴る気でいたのだが、アーサフが苦笑いでそれを制した。
「ディエジ。いい。ある意味では正しいんだから。
――それより、皆。聞いてくれ。
 もう分かっているだろう。私達がリートムを奪回することだけに関してならば、確実に希望が持てる。マナーハン王の援軍が来れば、兵数は十分だ。攻城戦になったとしても、市壁や城壁の弱点はこの私が一番良く知っているのだから。とにかく援軍さえ来れば、戦いが始まってしまえば、街を奪回することは出来るはずだ」
「おい。ガキ。今さらあのコノ王の書簡が偽物だとか言い出すなよ。もしそうだったら貴様を真っ当には死なせてやらないからな」
 ディエジの眼に、モリットは必死の笑顔で返した。アーサフは続ける。
「ディエジ。手紙の件は、信用して良いんじゃないか?」
「まあ確かに、あの封蝋を捺せるのはコノ王だけだからな。信用は置ける」
「貴方の意見は、マクラリ?」
「この子供がただの素性の知れぬ子供ならもう少し慎重になりますが。が、こそ泥とバリマック族が通じているとは考えにくいですね」
「かえって身の潔白が証明された訳だ。お前の意見は、サティフ」
「私はお国の戦闘の事など分かりません。でも、とにかくこいつは悪党ですよ、王様。
一体こいつの何が王様の役に立つんです?」
「奥方の救出にだ」
 言ったのはディエジだった。
 一瞬アーサフの顔は驚き、次の瞬間には共にとっくに考えを見抜かれていたことに対する羞恥に赤くなった。
「そうだろう? アーサフ」
「……。イドルだけでは無い。おそらく城内で捕囚となっているらしいヨアンズ隊長もだ。奪回の戦闘の前に、彼ら全員を救出しなければ……」
「それで?」
 ディエジの鋭い眼が、一分の隙の無く凝視してくる。それを前に、
(落ち着け)
アーサフは感情を抑えながら続ける。
「――。ずっと考えていた。もし私がバリマックへの攻撃を開始したとなると、城内で捕囚になっていると思われる者達の生命が絶望的に危うい。
 さらに彼らを人質とされてしまうともっと悪い。特にイドルは――彼女は、コノ王の娘だ。忠義に篤いマナーハン王の兵士達がバリマックへの攻撃を嫌がるかもしれない。いや。それ以前に、もしコノ王が自分の娘がいまだにバリマック族の手の中にあるとしたら、果たして我々に援軍を派遣してくれたかどうか」
「つまり、俺達は一刻も早く、コノ王に知られる前に奥方を救い出さねばならないということだ」
 ディエジが簡潔にまとめ上げた。そして。
 アーサフ王もディエジ将も、同じところに視線を向けていた。
とっくに他人顔をして、引き続きパンをちぎっていたモリットに。
「え……? 俺? ……?」
 ゆっくり、深々と、アーサフ王は頭を縦に振る。
 途端、泡を吹かんばかりにこそ泥は喚いた。
「冗談じゃない、何でだよ! 俺が何――、何を――何で俺が……! まさか俺にやらせる気じゃないよな、その奥方の救い出し!」
「お前がやるんだ」
「何で!」
「お前は半年前に、ガルドフ城への侵入に成功している。半年前に出来たんだから、今回もまた出来るはずだ」
「あの時は何も知らなかったから……! あの時は、母ちゃんの腹から出て一番は怖い目を見たんだっ。城中が大騒ぎになって、みんな剣を持って追っかけてきて、犬が地獄の犬みたいに吠えまくってさあ! 俺はこの半年、人様だ騙したり物をかすめ取ったりとみみっちい事ばっかりやってんのは、あの時味わった恐怖のせいなんだぜ。嫌だよ! 見つかって捕まって地下牢なんか行きたくない!」
「多分今回は、捕まっても地下牢へは行かない。そのまま首に縄をつけて城壁の上へ連行されるだろう」
「ならいよいよ行かないぞ、絶対!」
「行かないならば、ここの塔の上に連行する。首に縄を付けてだ」
「そんなのありかよ!」
モリットが大きく叫んだ。
 四人の眼が、じっと注がれている。それにさらされながら、こそ泥のカラスのモリットは己の置かれている立場に懸命に考えている。情けない表情をさらしている。己の最低の運の悪さを露骨に恨んでいる。悪魔への呪いを小声で呟いている。
 その様を、アーサフはじっと見つめていた。
 不思議な事に、アーサフはこの少年に、興味を覚えていた。豊かで素直な感情表現に惹かれてしまう自分に、少し驚いていた。
 何が興味深いんだろう? この薄汚いガキのこそ泥の?
 ふぅっという大きな溜息が聞こえた。毛皮商サティフだった。
「まあ……少なくとも、こいつの忌々しい逃げ足がリートム国の役に立つって事か」
 首にぶら下げる護符をしきりにいじっているモリットを見据えたまま、アーサフは少しだけ口端を上げた。
「お前の持っている技術が必要だ。とにかく時間が無い。他の方法を考えている時間が無い。悪いとは思うが、ガルドフ城への潜入に一緒に来てもらう」
「一緒にという事は、王様、貴方も行くんですか?」
「そうだ」
 反射の如くディエジは身を乗り出した。凄まじい勢いで大声を上げようとする。が、アーサフの方が早かった。
「私があの城の主人だ。私が行く」
「じゃあ俺も行く、いいな」
「極秘での行動だ。人数が少ない方が良い。お前は連れていけない。私とモリットの二人――」
「駄目だっ。なんで貴様がこんな危険に出なければならないんだっ。この任務なら俺の方が適任のはずだっ」
「ディエジ。その判断と決定は私がする。リートムの王の権限において、これは命令だ。私が行く。いいな、ディエジ」
「汚いぞ、アーサフ! こんな時だけ君主の特権を振りかざすなっ。
 忘れたのか? 五日前にも貴様は危険を冒して独りで勝手にリートムへ変えるという馬鹿をやらかしたじゃないかっ。言えよ、あの行動に何の意味があったんだよ、俺達に不安と迷惑を押し付けるという以外に何の意味があったんだよ!」
 瞬間、アーサフの頬が紅潮する。恥辱の為に両掌が握りしめられる。
「ディエジ。聞こえなかったのか? これはリートム王の命令だ。お前はそれに従うべきだ」
「何だとっ、王権なんて糞くらえ! 貴様がそんな口を利くとは思わなかったぜ。何だよ、その血走った目は! 第一――、
 落ち着け! お前らしくも無い。何で今、そんなに感情的になるんだ」
「私には考えと勝算がある。だから――」
「考えと勝算! いいぜ!
 貴様があてにもならないガキのこそ泥をつれて城に忍び込むというその案にどれ程の考えと勝算があるのか、十分に聞かせてもらうぜ。但し、聞き終わった時に俺が納得しなければ、一歩たりともこの僧院の外には出さないからな。その前に――、アーサフ! 椅子から立ち上がるのは止めろ!」
「なぜだっ。なぜ私が行動することをそこまで反対するんだっ」
「アーサフ、座れ! そんなに眼を剥くなっ。どうしたんだ、いつもの慎重さと思慮を取り戻せよ。まさか自分がそんなに勝手な我儘を言える立場あるとは本気で――」
「貴様だって本心では私が思慮深い王などとは思っていないくせにっ」
「何だと? 俺がいつそんな風に貴様を評してると言ったか?」
「私の力量なら、一番良く知っているくせに!」
「これだけ言ってもまだ現状が理解出来ないのか! それ以前になぜだ! なぜ俺達を信用しない! だから貴様――」
「もういいだろう? 分かってやりなよ。王様は自分の考えと行動でどの位の事が出来るのか試したいんだよ、やらせてやりなよ」
 ハッと、全員が振り向いた。
 突然の沈黙の気まずい空気には、発言した小僧は自ら驚いてしまった。パンを千切る手を停めてしまった。ただし、それが如何にリートム国王の神経を根本から逆撫でしたという事までは分からなかったが。
ディエジの眼が、アーサフに戻る。
先程までの激しい感情はもう消えて、転じていた。困惑とも同情ともとれる繊細な、複雑なさを見せつけてきた。無言で懸命に訴えていた。
アーサフ――
見つめることで訴える。至極真っ当な意見を。そして心からの感情を。
アーサフ。俺が不安を覚えるのはおかしいか?
俺がお前を危険にさらしたくないと思うのは、その心配はおかしいか。アーサフ?
その無言の言葉が、耳に聞こえる気がする。
だが。しかし。
――それでもアーサフは、椅子に座る事を拒否した。
立ったまま、固い無言の表情を死守したのであった。
……
表では、夜が近づいたのを告げる微風が吹き始めていた。乳のように淀んでいた霧が、少しずつ動き出していた。



3・ モリットⅡ

出立の夜明けもまた、しっとりと霧が立ち込めていた。

この朝を迎えるまでに、リートム王アーサフとその周囲の人間は、エリン島のうねり連なる丘陵と同じほどの紆余曲折を経なければならなかった。
……まず大きな問題。
アーサフ王自身がガルドフ城へ帰還するべきか否か。
何一つ利が無いと真正面から正論を述べるディエジに対して、アーサフは徹頭徹尾、子供じみた我儘で対抗した。
『私の身がなんだというんだ! そんなにガルドフ家の血が大事なら、貴様が王座に就け、貴様がリートムを引き継げよ!』
 最後には泣き出しそうにそうにまでなって叫ぶアーサフを前にした時、遂にディエジも溜息と突いてしまった。ただ物言いたげに見つめるだけで、その口を閉じてしまった。
 ……次。
 マナーハンのコノ王からの援軍の件。
『コノ王からの援軍派遣が確約された時点で、私は出立する』
 主君のこの明言に、一度は敢えて援軍確約を遅れさせるべく画策しようかとも考えた忠臣マクラリであったが、迷った末にこの考えは破棄した。彼は、驚くほどに協力的な態を示すコノ王と、綿密な連絡を取り交わし続けた。
 いとも順調に、リートム奪回の為の援軍派遣準備は整えられていった。
 ……そして。毛皮商人サティフ。
 リートム王と泥棒カラスの奇妙な策謀に立ち会わされることになってしまったこの商人に向かい、アーサフ王もマクラリ卿も当然の様に告げた。
『悪いが、こちらが許可を出すまで僧院から出ていく事は禁ずる』
 その途端、サティフは猛烈に狼狽え、喚きだしたのであった。
“商売に差支えが……!”“女房と子供達が心配して……!”“王様、秘密は守ります、信用して下さい……!”。サティフは泣き顔までさらして懇願した。
 それを黙らせたのは椅子の上に丸く座り、にやにやしながらこのやり取りを見ていたモリットであった。
『いいじゃない。商売の埋め合わせなら王様が払ってくれるだろうよ。しばらくここで昼寝でもしてればいいじゃないか』
 散々に困った顔でアーサフやらモリットやらを見つめた末に、ようやくサティフは指示に従ったのであった。
 ……そして最後。最後はモリット。

 その時も、霧が立ち込めていた。
 淀んだ白色に染まった灌木の丘を、アーサフは見つめていた。
 言葉は無い。思考もまた、霧の中のように混濁している。それでも前方を見据えながら僧院の門の許に立ち尽くしていた。出立の準備が全て整うのを――出立の時が来るのを待っていた。
「アーサフ」
 振り向いた。
「すぐ馬の準備が出来た」
 ディエジがこちらを見ていた。
 子供の頃から長く見慣れた顔を、自分を見ていた。常に引き締まった、大胆で毅然な内面をそのまま映し出す顔立ちが、自分を見ていた。
 その顔立ちからして判る。誰が見ても自分よりずっと王の質に相応しいと思える。おそらく本人も自覚はあるはずだ。だからこそ常に、何があっても自分の絶対の忠節を捧げ、護り続けてくれる。その顔が今、無言で自分を見つめている。
 ただ無言で。恐ろしい程に固い表情で。
「……。何を言いたい。ディエジ」
「――」
「まだ、私がいく事に反対している訳だ。もう止めろ」
「――。不安なくせに」
 独り言のように呟いた。
「ただの馬鹿馬鹿しい、下らない意地だけなのに。この仕事を自分でやり遂げれば、お前は自分をリートムの国王と認めることができるのか?」
「――」
 アーサフは答えない。答えられない。
「そこまでしないと、お前は自分の王位を認められないのか? だとしても、ここまで危険を冒す事は無いだろうが。馬鹿が。
 それでお前。これから行う救出作戦に、万全の自信を持っているのか?」
 ディエジの口元が、力一杯皮脂決められている。ディエジは、――自らに腹を立てている。
“お前がそこまで我を張って起こした行動だ、俺達に引き留める権利はない”と切り捨てるには、この期に及んで目の前の友は、余りに脆くて危うげなのだから。それでも相手の意地という名の誇りを尊重しなければならないのか? と、怒っている。
「止めろ。信用し切れない者とバリマック族の直中へ行くなんて、自殺行為だ。アーサフ」
 そこまで己を追い詰め続けたものなのか? 己が王でいなければならない事。
 泣きながら戴冠したあの時から?
「はっきり言う。俺はあのガキを信用していない。奴は決して見た目でだけ判断でき無いぞ。何をしでかすか分かるか。あの胡散臭いガキ。」
「だが、彼に賭けるしか無い。もう他に方法は無いんだ。密かに、一刻も早くイドルとヨアンズ隊長を救出するには」
「……」
「だから私は信用するしかないんだ。今。そのはずだ。信用すべきだ。あの男、いや、子供……。いやがおうにも信じるしか無いから、奴を……、モリット――」
 突然だった。
「王様?」
 突然の声に、二人は同時に振り返った。
 心象が現実になった。ただしそこに見たのは、二人が心に描いていたよりは余程に無害な、愛想をもった顔であったが。
「どうしたんです? 二人とも、俺の肩越しに悪魔でも見ましたか?」
「……。いや。モリット」
「マクラリさんが呼んでますよ。そろそろ全部整うって。あとは貴方の身支度だけですよ、王様。早くどうぞって。
 ――本当にどうしたんです? 俺の顔、何か変ですか?」
 屈託ない無邪気さで、モリットは言った。
 アーサフはもう答えなかった。意図する訳でも無く、心の中では神と聖バラクの名を唱えていた。
 ……そして、霧の中。時が進んだ。
今、僧院の前に立ち、最後まで自分を見続けているディエジの姿も、霧の白色の中に消えていった。
最後まで自分の無謀に反対し、しかしそれでも強引に止める事はしなかった友の姿は、霧の中に消えた。
覚悟はしていた。だが、その見慣れた輪郭が消えてしまう瞬間、僅かな逡巡そして痛切な孤独感がアーサフの感情の中に生じた。
アーサフは今、自分がモリットと二人きりで世界に放り出されたことを自覚した。
 
・            ・           ・

 僧院からリートムまでの一日半の道のりを、アーサフとモリットの二人連れは足早に歩んでゆく。
 くすんだ色合いの上衣と胴着。上質を隠して泥を塗った短靴……。
 一応は普通の旅人に見えない事も無い。だが。旅人にしてはいかにも荷物が少ない。そしていかにも顔を隠している大きなつばの帽子……。
 少しでも目の効く者が見れば、いくらでも粗は探せた。だがそれでも普通の目の者ならば、騙せないことも無かった。
 実際、二人連れの片割れ・モリットは、丘陵地のだらだら坂を上る間にも普通の旅人と全く変わらない、下らない世間話を延々喋り続けていた。明るく楽し気な表情で、たった今も粉屋の女房絡みの馬鹿馬鹿しい笑い話をご丁寧に“これは事実だよ”と付け加えて上で話し続けているのだ。
 それにアーサフは全く応じなかった。
彼は、無言と無表情を貫いていた。それによって、己を中の不安を隠すのに必死になっていた。
人気の無い丘陵沿いの街道は延々と続いている。
朝方の霧はすでに消え出している。灌木の枝先を風が抜けている。モリットの無駄話はまだ続いている。――と。
「……で。お金はどの位持ってきたんです?」
 聞き流していたものを、ふっとアーサフは顔を上げた。
「何だって?」
「お金の事ですよ。王様」
「王と呼ぶな。人に聞かれたらまずい。名前で呼べ。――金は持って来ているが」
「だから、どの位持って来たんですか?」
 すっと、アーサフは足を止めた。警戒を込めて言った。
「お前。それをどうして知りたいんだ」
 モリットも足を止めた。
十歩先から振り返ってこちらを見ている。その眼が少しずつ張りつめていくのが、アーサフにもはっきり分かった。こちらの警戒心に気付いたらしい。
 モリットの口元が、猫のように上がった。
「俺に何か言いたいんですか? 王様、じゃなくてアーサフ様」
「……。悪いが、私はお前を完全には信用していない」
「別に悪くないですよ。貴方の判断は普通だ。俺がアーサフ様の立場だって、同じように思いますよ」
「……」
「うん。だからもっとはっきりと言って良いんですよ。アーサフ様。“誰が信用するものかっ”って」
「――」
「“所持金のことなどこの泥棒野郎に言ったが最後、聖人様の瞬きの間に持ち逃げされるのが落ちだ、この地獄落ちのガキが!”ってね。アーサフ様。そう思ってるんでしょう? 言って良いんですよっ」
 言葉の辛辣さに驚いた。なのにニコニコと純粋に笑っているその顔にも。
 アーサフは眉をしかめる。相手に何を言うべきか迷う。立ち尽くしたまま無言になる。そして。
 目の前の動きを見捕えた。
モリットが右手を懐に入れる。――取り出す。見間違うはずもない。キラキラとした金属の小片。
 信じられないと思った。と同時に“やっぱり”とも。
 途端、モリットは猫のしなやかで飛び出した。アーサフも素早く歩を踏み出す。後ずさりで避けようとする。が、肩口を掴まれ、引かれた。勢いが余ってアーサフは背中から灌木の中に倒れこみかける。その喉元に一分の隙も無く狙いをつける短剣の切っ先!
(殺す気か、本気に!)
 その瞬間にアーサフの頭をよぎったのは、つい先ほど自分が吐いた言葉そのものだった。
“私は本当に、信じて良いはずなんだ、モリットをっ”
 背中が地面にぶつかる鈍痛。自分にのしかかってくる重量。目の前には、磨き込まれた短剣に切っ先が。
(信じて良いはずだったのか?)
完敗だった。己の愚かさに悔やみ、腹立つ間もなかった。もうどうしようもない。最後の祈りの句が口を突きかける直前、小声を発した。
「信じて良いはずだったのに」
 ……身を裂くだろう激痛は、アーサフの上に起こらなかった。
 代わりに起こったのはあっさりの笑い声、それに短剣に変わって突き出された左腕だった。
「ほら。いつまで泥の中で寝ているんですか?」
 丸っきり面白がる笑顔。
「だから貴方は、素直に俺を信用しとくべきなんですよ」
「……」
「ずっと俺を疑ってたんでしょう? 聖天使に代わって、俺を信用しなかった懲罰ですよ。そんな怖い顔しないで下さいよ、本当に、ちょっとした冗談なんだから。今までこんな冗談遊びはしたことなかったんですか? ――ほら、早く俺の手を取って。起きて下さいよ」
 冗談。
「今の貴方の状況ならば、俺を信じた方が良い。その方が物事が上手くいく。そう教えただけです」
 何を言っているんだ、このカラスは? 
 その言葉の通り、信じるべきなのか? そして今、自分は怒るべきなのか? 冗談として質が悪すぎると相手を殴るべきなのか? でも、なぜだ?
 モリットが素直に笑っている。腕を伸ばしている。
アーサフは、その手を受けた。
なぜだろう? でも。これは、正しいのか?
「……。地獄落ちの泥カラスが」
「こんな冗談を真に受ける方が、明日は地獄落ちの憂き目ですよ。アーサフ様。
 で、そろそろ本当のところを教えて下さいよ、持ち金はどの位なんですか?」
 深く息を吸う。立ち上がり、乱れた服の泥を払う。それから静かに言った。
「四百ディル」
「それだけ? 四百ディルだけ?」
「街へ戻り城に潜入するのに、大金の準備は不要だろう」
 と、モリットは、踏み出そうとするアーサフの一歩前に立ちふさがった。
「金が無くても良いって、一体貴方はどんな策を考えているんです?」
「まだ教える訳にはいかない」
「それは、策に対して自分でも自信がないからですか?」
「……。お前は、なぜ平気でそういう不敬なことを言――」
「ねえ。城に忍び込むのを助けるのが俺の役目でしょう? だったらここは俺に任せて下さいよ。貴方を一番良い方法でバリマック族のいるガルドフ城へ入れてみせますよ。
 但しそれには、四百ディルの倍の金が必要です」
 灌木の丘の上を、冷えた風が抜けた。アーサフの心にもまた、冷ややかな感情が生じた。
 硬い息を吐き、彼は言った。
「八百ディルもの大金を、私は持ち合わせていない」
「僧院に戻っても?」
「お前には分からないだろうが、軍勢を僧院に駐留させているだけでも確実に大金がかかるんだ。即座の金の調達は難しい」
「そう。じゃあ、金は自分で集めるしかないな」
 思わず、驚いた眼で相手を見てしまう。その目の前でモリットは、ぞくりとした感情を掻き立てる一言を言った。
「やることは一つしか無いよ」
 やることは?
目の前の斜面を見下ろすこと――。
 ……
 先ほどの一件から、太陽が一時間分進む間を経ていた。
アーサフとモリットはのろのろと続く斜面を、その斜面の一番下を一直線に貫く小さな街道を見下ろしていた。光景を一望できる丘の一番高い位置から、見下ろしていた。
「モリット」
 押し殺した声をかける。が、返事は無い。
アーサフは横を振り向いた。カラスのモリットは、こちらを見ていなかった。丘の頂の灌木の陰、そこに腹ばいになりながら、じっと下方を見捕えていた。輝きをもつ茶色の目は今、静かな緊張を讃えて、沈黙していた。
 同じく身を伏しているアーサフは、この沈黙に苛立つ。このカラスに主導を取られ、振り回されている現実にも。
「本当に来るのか?」
 三度目になる、同じ問い。またもや返答無し。またもや無視される。
この泥ガラスに振り回されている。その現実が嫌だ。こんな事に付き合わされている暇はないはずだ。当初の考え通りすぐにリートムに向かうべきだ。
 そう思い口にしようとした瞬間だった。突然、相手の眼が大きく輝いた。
「来たっ、ほら!」
 はっと目を下に向ける。アーサフが見つけたのは、街道を西側から遡ってくる荷馬車だった。
「王様――アーサフ様、あれだ、どんどんこっちに近づいて来る」
 狭い街道を三台の荷馬車、それに乗っている五~六人の男達の姿が見捕えられる。見間違えようもない。それはエリン島の各地を回る、行商人の一行だった。
「知ってたんだ、街道の先にあるメディの街で季節に一度開かれる市に向かっている。市は明日だから、今日は絶対にこの道を行商人が通るって知ってたんだ。
さあアーサフ様、打ち合わせ通りにやろう。あれはマナーハンの生地商人だな、うん、多分」
 途端、モリットが素早く立ち上がろうとするのを、アーサフは襟を掴んで引き留めた。
「あれはマナーハンの商人なのかっ」
「うん。あの御者台に乗ってる男の服装は、マナーハンの人間だ」
「待てっ。マナーハンならまずい。もしコノ王が知ったら激怒する、リートム王自らが友好国であるマナーハンの商人を襲ったなんて――」
「貴方だとばれなきゃいいんだよ。さあ、行きますよ。さっき話した通り、いいですねっ」
「待てと――!」
「あの連中から金を盗むよっ」
 嬉々とした笑顔。モリットはアーサフの手を振り切り、あっという間に斜面を走り下ってしまった。
 こうなってはアーサフも、立ち上がらざるを得ない。一度痛烈に表情を歪ませた後に、後を追って斜面を下っていった。
 ……ぬかるんだ泥をはね上げ、幌を張った二台の荷車は山積みの荷でよたよた揺れながら近づいている。
 御者台には商人達が五人。それに賊に備えての用心棒もいるのだろう。屈強な若い男達も二~三人混ざっている。すでに今までの行商で結構な稼ぎを上げて来たのか、どの顔にも高揚しており、声高に喋りあっている。
(ここから金を奪うのか、自分が)
 罪悪感と不安と屈辱と、そして何よりも混乱をごったまぜにしてアーサフはそれを見ていた。街道の真ん中に立ち、強張った表情をさらしていた。
前方では商人たちのお喋りが止まる。向こうが、こちらの存在に気づいた。
荷馬車はゆっくりと立ち止まる。そこから飛び降りて小走りでこちらにやって来たのは三人の男達だった。
「何だ、貴様」
 鋭い口調が響いた。先頭の若い男が自分を睨み付けている。
 アーサフは、必死の笑顔を作って答えた。
「生地商人の御一行ですね。私は今旅先よりリートムへ戻ろうとしているのですが、実は――このような場所で恐縮ですが、品物を少しばかり見せて頂けないでしょうか」
 すると男たちの怪訝そうな表情が消えた。客筋になるというのなら、話は別ということなんだろう。後ろへ向けて大声をあげ、行商の主人を呼ぶ。客の来訪を知らせる。
 残されたアーサフの背筋には、冷えた汗が浮かびだす。
 今度はマナーハンの生地隊商の主人が出てきた。ニコニコと良い愛想をもってアーサフを出迎えることになった。
「リートムの方ですか、それはそれは。生地をお探しですか? どうぞこちらへいらして下さいな」
 ということで、つい先ほどまで灌木の丘の上でアーサフが主張した、
(こんな場所で行商隊が立ち停まるものか)
という説は、モリットのにやにやしながらの主張、
(停まるよ。奴らは一つでも物を売るのに必死だもの。どう? 何か賭ける?)
という説に敗れたことになった。
「私たちも朝からずっと街道をたどっていましてね、丁度ここらで一休みしようと思っていたところなんですよ」
 隊商の主人は、でっぷりとした体形の男だった。愛想よく話しかけながら、先頭の荷馬車のもとへアーサフを導いていく。その背後で一行の男達は早くも、荷袋から食べ物と飲み物を取り出し、食事の準備をしている。
 アーサフは、滑るような笑顔でそれを見守る。
「で。毛織物ですか? 大判で上質の?」
「ええ……、はい」
「昨日の内にマリ村に来てくれればなあ、良い品が残っていたものを。
 ちょっと待っていて下さい。あっちの荷台の下の方に積んでいるはずだから」
「いえ……こんなところで足止めをさせて、ご迷惑をかけます」
「迷惑なものですか。今すぐに取り出しますよ、さあ、こっちに来て」
 荷馬車の荷台のすぐ横へとアーサフを案内する。馬に水を与えていた小僧の一人に命じて、奥の方に山積みなった布地を引き出させてゆく。
「ちょっと待ってください。確か空色で、織の細かい品があったはずだ。染め色が見事に出ていて。大判で。――おい、お前。右の下の方のその箱を出せ、そこの奥の方だっ」
 命じられた小僧が、荷台の奥の方に押し込まれている荷物箱を引きずり出そうと、奮闘している。その間にも主人は手元にある様々な布地を広げて、熱心に売り込みをかけてくる。
「これなんかも綺麗でしょう? ランドールで織られた品ですよ。もう少し濃い色合いが良いなら、こっちがいい。ただ、厚みは少し薄くなりますけどね」
 聞き入るアーサフの笑い顔は、引きつり出している。
ここまで愛想良く対応している相手が全くの冷やかしだと聞いたら、この男はどんなに怒りを心頭するだろう。まして、その財布を狙う輩だったら? ましてや、リートムの王と知ったら?
 モリットから与えられた指示は、とにかく主人との商談を長引かせろ、聖教会の教義論争のように長引かせろ、ということだった。
(長引かせるだけです。いいですね。その間に俺が荷馬車の中に忍び込んで金を盗むから)
 商品の売り込みを聞き続けるアーサフは、掌の中にじっとりと汗をかいていることを自覚し始めた。
 連なって停められた荷馬車の前方では、男達が座り込んで干し肉とパンと配り回している。小汚いガキが水差しをもって走り回っている。隊商は完全に立ち止まっている。
 ……モリットは、うまく忍び込めたのだろうか?
 掌の汗がひどくなってゆく。焦りがこもったアーサフの目が、ちらちらと周囲を
気にし始める。
 主人の愛想笑いが、ちょっと途絶えた。
「どうしたんです?」
はっと引きつった笑いで返す。だが、落ち着きの無さはもう隠し切れない。
「どうやら、気に入ったものが無かったようですね?」
「いえ――いいえっ。そういう訳ではなくて……ただ私は――」
「うちの品に何か不満の訳があるんですか? なら言ってくれ」
「いえ、決して不満などありませんが――ただ、ちょっと待って下さい」
「何が気に障ってるんです? 言って下さいよ」
「そんな事は決して――! ただ……いえ、少しだけ――」
 アーサフがいびつな笑みを晒す。
分かっている。自分が今やるべきこと。今となってはそれをやるしかない。だが。
信じ切れない。あのカラスを。
だから、今自分がやるべきことに確信が持てない。だから、もう我慢が出来ない。だから彼は
「ちょっと……、すみません。、独りで見させて下さい……」
ゆっくりと後方へと歩み出してしまった。
(モリットは本当に今、やっているのか? 忍び込んでいるのか?)
 ぬかるんだ道を五~六歩、後ずさるように進んでしまう。前方の灌木の斜面、腰を下ろして肉を食べていた男達が、ちょっとだけ目を上げて自分を見た。
“俺の方は一切気にしないで。貴方はやるべき事だけをやって下さい”
 念を押す口調でそう言った。モリットは。
 今は信じるべきだ。目的達成の為には、このまますぐに主人の許に戻った方が良い。そのまま商談もどきを続けた方が。
 その賢明な考えが浮かんだのは一瞬だった。分かっていた。いたのに、しかしまたアーサフは泥道の上を歩んでしまった。
 一つ後ろの荷馬車へと歩みよる。幌の中からは赤ん坊の泣き声が聞こえている。チラリと覗いた隙間からは、もうあやすのもうんざりといった体の若い母親の疲れた顔が見えた。取り敢えずここにモリットがいるはずないのは確かだった。
 さらにアーサフは進む。最後尾の荷馬車へ向かう。
 もはや彼に行動は、食事中の男達の注意を完全に引いてしまっていた。中でも特に、濃茶のマントを羽織った男は、明らかに不穏の事態を予測している。鋭い目でアーサフを見捕え出している。
 なのにアーサフは、全く気付いていない。焦燥と不安と緊張にかられて、頭の中はただモリットの存在だけを探してしまっていた。そのまま、最後尾の荷馬車の許まで進んでしまったのだ。
“俺のことは一切忘れて。貴方のやるべきことだけをやって下さい、いいね!”
 そう言った。言い切った。笑顔で命じた。モリットは。
 ――その顔がそこにあった。
 正に荷馬車の反対側、僅かに幌を動かして大きな車輪の影へと身を滑り降ろした瞬間のモリットがいた。片手に重そうな金袋を握りしめて。
 モリットの顔が、振り向いてこちらを見捕える。黒い眼が驚き、それがみるみるうちに不快を帯びてゆく。アーサフに動揺を与える。
「モリ――」
「誰だっ、そのガキ!」
 はっと後ろを振り向いたアーサフが見たのは、鋭くモリットを指差す茶色のマントの男、
そして一斉に立ち上がった男達の姿。
 失敗した!
 身体に悪寒が走る。こんなところで失敗した。もう街へ戻れない、彼女を――イドルを救うことが出来ない!
「その男、リートムのガルドフ家の王だよ」
 え?
 モリットは平然と続けた。
「リートムのアーサフ王だよ。首に懸賞がかかってるぜ。捕まえなよ。早く」
 何が? 神様? 何が起こっている?
「早く! 逃げられるぜ」
「モリット! 何を――!」
 おかしい! 話が違う! なぜだ、モリット!
 アーサフは右足で泥道を蹴る。が、適わない。背中側から伸びてきた茶色のマントの男の腕が、アーサフの肩口を掴んで引っ張った。
「放せっ、触るな!」
 夢中で振り払う。そのまま走り出そうとするのを男は再び力づくでアーサフの首を捕えようとする。
(逃げろ!)
再び身をよじり腕を払う。モリットに構っていられない。夢中で走り出した瞬間、ちらりと視界の隅で見たのは、裏切り者の泥ガラスが素早く懐へ金袋を押し込み、反対側に走り出すところだった。
(逃げろ、今はとにかく逃げろ――っ)
泥を跳ね上げ、街道を右へ。アーサフは走り出す。
「本当にリートム王なのか!」
「リートム王は戦死したって話じゃないかっ」
「何でもいい、とにかく奴を捕まえろ!」
後方で飛んでもない騒ぎが生まれている。怒鳴り声が背中側から響いてくる。犬まで出てきた。ざわつき場につられてけたたましい吠え声をたてる。
「とにかく追え!」
「追えっ、追えっ、追え、捕まえろ!」
「追い続けろっ、金が出るぞ、獲物だ!」
アーサフは走る。ひたすら走る。追手の声はどんどん近づいてくる。
「すぐに疲れるぞっ、捕まえられるから追え!」
その通り、アーサフの息はどんどん上がってゆく。このままではすぐに追いつかれてしまう。逃げおおせるには――、逃げおおせる唯一の可能性は――、
橋だ! 前方に見える。丘陵の谷間にかかる橋。あの古びた橋。
「橋だ! 奴は橋へ逃げ込む気だっ」
「橋の前に捕まえろ!」
橋だ――。そこは聖域だ。誰が決めたか知れない。だがいかなる人間も、その上に立つ限りは神と聖点において保護される。誰もが知るエリン島の掟だ。
橋だ――。アーサフは走る。深い峡谷、速い流れの川にかかる古びた石橋だ。それが無言で彼を待ち構えている。
あと少し。あと数歩。あともう少し……。
あっ、と思った。瞬間、まともに泥土の上に倒れ込んだ。激しい痛みを胸元覚えながらも夢中で顔を上げる。石橋の擦り減った手すりはもう手を伸ばせば届く位置にある。
もう一度無我夢中で立ち上がった。夢中で地面を蹴った。走った。走り、そして右足は遂に橋の石の畳に達した。
(届いた!)
と同時、アーサフのみぞおち、最も弱いところに、見事な正確さで殴打が入った。
「神の慈悲なんか、貴様には無いぜ。さあ、こっちも向きな」
 濃茶の上衣の男は、苦痛に咳き込むアーサフの襟首を力任せに締め上げ、その頬に短剣を押し当てた。丹念に磨き上げられた刃が、薄日の許に鈍く輝いた
「止めろ! 橋の上だぞっ。放せ!」
「貴様、リートムのアーサフ王か?」
「止めろ、橋の上は避難所だ、誰も誰かを捕えられない、誰からも逃げることが出来る、それがエリン島の慣習だ! 知らないなんて言わせ――」
 再びのみぞおちへの一撃がアーサフの言葉を奪った。
「黙れ。聞かれた事だけ答えろ。避難所なんて知ったことか」
「そんな事は神の御前に許されないはずだ!」
「なら文句は神にいいな。言え。答えろ。貴様はリートムのアーサフ王か?」
「――」 
「まさかな。アーサフ王は遠征中に街を奪われ、領境をうろついているところをバリマック族の兵に見つかって犬死したっていう話だし。
それにアーサフ王が友好国であり王妃の故郷である俺たちマナーハンの商隊を襲ったりするものか、そうだろう?」
「――」
「さあ。縄をかけるぞ」
「待てっ、一体私がなにをしたっていうんだ! 私はただ荷馬車の所で品物を見て――」
 叫びの続きは喉の奥で潰れた。何という手際の良さだ。後ろからバタバタと追いかけてくる男達の手には、本当に荒縄を握っているではないか。
「待ってくれ! 私は何もしていない、ただ商談をしていただけじゃないか! 盗みも何もしていないのになぜ……!」
「なら、なぜ逃げた? これまでも何人も盗賊どもを捕えて領主に突き出して来たぜ。荷馬車に手を掛けただけで突き出したこともある。どいつにも悪事に相応しい罰を与えてやることが出来た。
 貴様が誰だか知らんが、取り敢えずひっ捕らえておくには十分だ」
 その言葉と共に短剣の先がアーサフの頬に押し付けられ、僅かに動いた。自分の左の頬骨の辺りから僅かに出血したことを自覚した。
「さあ。立て」
「――。弁解をする。だから待ってくれ」
「待ってやるよ。だが取り敢えず先に言え。貴様はまさか本当にリートムのアーサフ王なのか?」
 アーサフは目を閉じ、そして開けた。心の中で一度、すがる様に守護聖者の名を唱えた。
「私はリートムの、ガルドフ家のアーサフだ」
 この判断は正しかったのか? 判らない。
 相手はほとんど表情を変えなかった。ただ無言で凝視することによって、アーサフに続きを喋ることを強いた。
「私は――つまり、事情があって……それで貴方たちの隊商を停めた。――リートムにかんする情報を調べるために……。だが、極度に緊張してしまい、疑いを呼ぶような行動をとってしまい……だから――」
「貴様がリートム王なら、さっきのガキは何だ」
「彼なら――」
 言いかけ、一瞬言葉が詰まった。
 驚くじゃないか。この期に及んで一瞬モリットをかばおう、隠そうと思ってしまった。あの最低の裏切り者の素性を隠して逃がしてやろうと思ったなんて。
「彼こそが、お前たちが捕えるのに値する者だ。こそ泥のカラスのモリットだ」
「――」
「聞いたことがあるだろう? 悪質な泥棒だ。奴にこそ恨みを溜めている者がたくさんいる。早く奴を捕えろ」
「――」
「なぜ黙っている? なにをしているんだ、早くしろっ」
「――」
「なぜ黙っているんだ」
 目の前で、男は無感動に告げた。
「カラスのモリットは死んだって聞いたがな。まあどうでも良い。今さら雑魚なんてどうでもいいんだよ。貴様がリートムの王であるほうが余程重要だ。貴様の首でバリマック族からたっぷり賞金がもらえる」
 アーサフの表情が凍り付いた。まさにその時、縄をもった男達が目の前に到着した。
「止めろ! 私を縄で捕縛するのか? 止めろ、私はリートムの王だぞ!」・

 ……あとは、混乱だけだ。
 自分に、出来ることが無くなった。
行商の連中にとって、彼の身はよほどに金を産む大切なものらしい。両手首はご丁寧に何重にも縄でくくられ、しかも長く垂れた縄の先は、橋の手すりにこれまた厳重に巻き付けてくくられていた。
 これでは丸きり『熊いじめ』の哀れな熊だ。昔、リートムの城でも折々に催したものだ。鎖につないで動きを奪った熊を、遠くから槍や棒で突いて傷つけてゆく気の利いた宴席の娯楽だ。
 と、ここまでを思った瞬間、アーサフの全身な猛烈な屈辱感が走った。
「縄を解け! 私は罪人でも動物でも無いぞ! 仮にもエリンの小王にこんな扱いが許されると思っているのか!」
 勿論、この叫びは微塵とも相手にされなかった。
 アーサフを橋の真ん中につないだまま、商隊の主人と男達は先程から、自分達のすべきことに夢中になっていた。文字通り顔を突き合わせての議論を延々と続けていた。
 風に乗って断片となって聞こえてくる声、“バリマックの賞金なら…”“リートムまで連行し…”“価格に吊り上げを求め…”。そんな単語をいつまでも聞かされなければならないのか。叫び続けたい程の恥辱に塗れながら。
(落ち着けっ、この場を逃れる方法を考えろ)
 夢中で己に言い聞かせる。周囲を見渡す。
 橋の下、川は濁流となって動いている。それを見ながら必死に落ち着こうとする。考えようとする。考えねばならない。逃げねばならない。しかし何一つまとまらない。逃げる手段を思いつかない。
 感情が抑えられない。感情が散り散りになる。川の流れに、イドルの笑顔が過った気がする。このままでは、もう二度と見ることが出来ないのか? このまま永遠に? 自分もイドルもこのまま死に追いやられるのか?
 今にも叫びを張り上げそうになるのを、すんでの所で噛み殺す。
 そして混乱に散らかった感情は――。
「モリット」
 喉から漏らして言った。
 先程、最後に見た瞬間、奴は素晴らしく冴えた顔でこちらを見ていた。瞬時で状況を判断し、そして瞬時で結論を下した。自分を見殺し、
(その男、リートムのアーサフ王だ。首に賞金が掛かっているぜ!)
己は早々に逃げおおせるという、見事に的確な判断を!
 怒りに、苛立ちに、衝動が体を抜けた。叫んでしまった。
「どこに行った、モリット!」
「ここだよ」
 え?
 振り向く。まさか。
 いや。今のはモリットの声だ。絶対に。
 アーサフは周囲を見回す。思わずよろけるよう、数歩を進みだしたところを、縄によって動きを止められる。もう一度振り向いたところ、
「何をしているんだ」
 つい今まで金の算段話の輪にいたものを、茶色のマントの男はいつの間にか、アーサフの真横に立っていた。
「喚くのは止めたのか? 何を見てる? 助けでも来たか?」
 じっと見捕えてくる。まるで刃物のようだ。隙が無い。
 全く、なぜ今日という日にこんな鋭敏な男と出会ってしまったんだ。
「……。私の身柄への懸賞金は、うまく受け取れそうか」
「ああ。心配するな。抜かりは無い」
「水を注すが、私の首には賞金は出ていない。ただの噂だ。金になどならない」
「なるぜ。懸賞金が駄目なら報奨金だ。貴様の身柄のついてはバリマック族も気にしているというのは間違いないだろう? こっちから話を持ち出してやる。
 安心しろ。こっちとしても上手くバリマックの首領――確かカジョウとかいう名だったな、そいつと要領よく取引が出来るように、じっくり時間をかけて進めてゆくぜ」
「……」
「貴様も言いたいことがあったら、早目に言えよ。例えば、カジョウが払う金額より1ディルでも高い金を払う意思があるのなら相談に乗ってやるから。それ以外にも、何かしら俺達を喜ばすような素晴らしい提案があるなら言いな。
 まあ、無理な話だろうけれどな。あっという間に街を奪われ、何の因果だかこんな所でこそ泥の真似事をしてるような国王陛下じゃなあ」
「……」
「どうした。悔しいのか? 黙ってないで何か言えよ、それとも泣きたいのか? リートムの国王陛下」
 露骨な軽蔑を見せ付け、男が笑んだ。
 喚くのは嫌だ。まして涙だけは嫌だ。そんな屈辱的な事だけは。縛られた手首に、夢中で力を込める。口を引き締める。とにかく涙だけは。アーサフは避けるように視線をずらし――
 全くの偶然だった。全くの。
 いた。
橋の反対側の口。灌木の陰。猫のようにじっと身を潜めているモリット!
「モリット! 裏切り者――!」
 反射的にアーサフは叫ぶ。途端、モリットは立ち上がる。猛烈な勢いでこちらへ走ってくる。右手に短剣を握りしめて。
「仲間か!」
 男が叫ぶ。即座に素早く腰から短剣を抜く。そのしなやかな動作だけで、この男が腕の立つ者とアーサフには分かる。
「止めるっ、無駄に殺すな、モリットを殺すな!」
「黙れ!」
 男はアーサフを後ろへ突き飛ばす。その強い力によろめく。視界が流れ、モリットの姿を見失った、見失ってしまった!
 ――何が起きたのかアーサフにはわからなかった。
 胸を打つ唐突の強い衝撃。今度こそ転びかける。夢中で視線を上げる。その瞬間モリットの顔が目の前にあった。
「泳げるね」
 何の事だ?
 夢中で縛られた両手のまま、橋の手すりにしがみつく。が、無理だ。再び手すりに押し付けられた背中は、大きく傾く。平衡を失い、大きく空へとせり出す。身体は今、下に落ちようとしている。
「川に落ちる!」
 アーサフと男が同時に叫ぶ。夢中で振り上げた眼がとらえたのは、雲に覆われた美しいエリン島の灰色の空。そして喉が本当に小さく、あっという悲鳴をもらし、次の瞬間。
 アーサフは橋から落下した。
 ……身体を突き抜けたのは、手首を襲う猛烈な痛感だった。
 瞬間、吐き気すら覚えた。身体の自由は利かない。いまさら襲ってくる恐慌と恐怖。
「泳げるね」
 え? なぜまた? モリット? なぜ、今? どこ? 血の臭い? なぜ?
 頭上で自分を見降ろしているモリット。そのモリットが今、欄干から飛び込もうとしている。その直前、右手の剣先が動いた。欄干にくくられていた縄を切った。
「泳ぐよ」
 もう叫ぶ間は無い。唐突、手首の痛みが消えた。落下した。
 あとは、水だった。
 
『泳げるね』
 泳げるとも。
 子供の頃、リートムの短い夏の晴天の日に、城の裏手の小川へ行った。そこでディエジから泳ぎ方を教わった。内心では面倒で嫌だったのだけれど、ディエジから半ば遊び、半ば真剣に泳ぎを教え込まれた。
“なぜだよ、ディエジ。リートムは内地だ。泳ぐ機会なんて一生ないよ”
“どんな事だって出来て損したって事は無いぜ。泳ぎだっていつかお前の得になることもあるかもしれないだろう? 違うか?
 それにしても……。ようやく少しは様になって来たけれど、お前は本当に何もやらせても不器用で下手くそだな、アーサフ”
 川面の反射に眼を細めながら、ディエジは確かにそう言った。
 だけど、ディエジ。
 ――これは絶対に不器用のせいじゃない、絶対に!
 川の流れが凄まじいのだ。
逆巻く流れのせいで、上手くいかないのだ。肺は夢中で空気を求めているのに、水面を目指しているのに、流されて泳げないのだ。
 手首の縄はどうにか緩んで外れた。腕の自由は戻ったが、だがどうしても泳げない。激しい流れと、それに短靴。短靴が邪魔なんだ。靴のままに泳ぐことがこんなに難しいなんて教えてくれなかった、ディエジ!
 無我夢中で狂ったようにもがく。何度が水面に顔を出すが、その度にまた流れに引きずり戻される。何度となく水を飲み、喉と肺が痛みを訴える。
 空気が足りない。肺から始まった痛みは見る見るうちに全身に達する。熱くて苦しくて、空気を求めてもがくことすら出来無くなってゆく。すぐになってゆく。
 ――溺れ死ぬ。
 熱い苦しみの中、妙な冷静さでアーサフは予測する。
 苦しい。身体が動かせない。その代わり、妙に頭が冴える。恐怖と恐慌が襲い、それもすぐに消えてゆく。黒く濁っているはずの水中の世界が、奇妙に白く見えだしてきた。苦痛すら薄れ、妙に明晰に感じる。
 その時が来たのか? 散々に教会で説教をされた時。死神の鎌が振り降ろされる時。
(……。イドル)
 会えずに終わるのか。
 いつも光を帯びていた気がする。あの少女。白い光の中で、穏やかに、幸福に笑んでいた。
 死の前の、苦痛の時は終わった。肺の熱さが消えてゆく。死の前の苦痛の時は終わった。もう無い。不思議と漠然としたやすらぎを覚え出す。愛する少女の顔を思い浮かべながら全てを終えるのならば、それも悪くないと思える。
 ゆっくりと、祈祷の一節を唱え始める。苦痛は消え、意識も薄れだし、ただ、穏やかに少女の顔を見つめる。このまま、これで、全ては終わるはずだ。平穏の中。
 終わるはずだ。
が。
 ――どうしてだ? 
薄れてゆく意識の隅が、ひどく妙な事を考えようとしている。こんな時に。神に召されようとしているこんな時に。
 ……イドルの顔。似ている。誰か――誰に。よく見る顔……誰?
 ああ。解かった――思い出した。うん。……不思議だな、似てるなんて。――に、
 モリット、に。
 一瞬、何かまともに胸の中心にぶつかった。
激痛が走った。平穏が消えた。何か巨大な物にぶつかった。意図では無く反射で、アーサフはそれを掴んだ。抱き着いた。
 一度、耳を付く激しい水音が復活し、そしてすぐに消えていった。
 その後は、闇だ。

・            ・          ・

(ご無事で。お待ちしてますわ)
 夜明け前の淡い光の中、イドルはそう言って微笑んだ。
(行ってくる)
 アーサフも告げた。馬上から身をかがめ、そっと妻を抱き寄せた。柔らかな感触を十分に味わい。そしてもう一度、愛して止まないその顔に見入った。
薄い霧と冷えた空気の質感の中、明るく透き通るような黒色の眼が真正面から自分を見ていた。愛情を込め、自分を信頼し切って素直に自分を見ていた。淡い、白い光の中。
 ……イドルが、自分を見ていた。
 いや。イドルではない。彼女はここにいない。
いない。淡く、柔らかい光ではない。今は、薄闇に、揺れる光だ。
ならば? 誰?
 ぼんやりと、でももう少しだけ目を開けて見る。
赤くほのかな光が揺れている。イドルではない。それはイドルではない。でも見覚えのある少年の顔だ。
「アーサフ様?」
 膝を抱えて座り込んだまま、モリットは静かな眼でこちらを見ていた。
 ……規則正しい音。大きく、低く響く音。なに?
 ……揺れてる。火影だ。囲炉裏か? 薄暗い光が揺れてる。
 揺れる光の中に照らし出されている。僅かに強張った表情の顔。思い出す。
 ああ。本当だ。そう言えば少しだけ似ている。濡れた髪の感じとか。下から見る顎の線とか。
 だからか。最初に見た時から、なぜだか妙に気を引かれたのか。いや? 気を引かれたのは違う? どこか不穏で……信じ切れなくて……。だから……。
「……。私は、助かったんだ」
 静かに、ゆっくりと相手は頷いた。無言で。
 ゴトン。ゴトン。と、大きな音が規則正しく響いている。低い音だ。アーサフは薄暗い室内を見る。音は、室内の隅にある木製の支柱と歯車が起こしていた。
判った。水車小屋だ。
「どこ……水車小屋か? なに――なぜ……」
「もう死神の鎌は去った?」
「え?」
「生きるつもりなんですね? だって、このままもう一度眠り込んでそのまま死んでしまうんだったら、説明が無駄になるからね」
 ぎこちない冗談、そしてぎこちない笑が薄明りの中に映った。
 まだ思考も感情も、覚醒しきっていない。だがアーサフは理解出来た。相手は――モリットはずっと自分のことを見ていた。見て、守っていた。揺れる光の許。
「ここは、どこだ」
「シャン村の外れだよ。小川の粉ひき小屋」
「粉ひき小屋って、人は……守番か誰か――」
「守番はいたけど、小金をやって追い払った。誰もいない」
「今は、いつだ」
「もうすぐ陽が昇ると思う。貴方は溺れて、午後一杯とほぼ一晩、気を失って寝ていた」
「溺れ――」
 感情と感覚と思考。曖昧模糊だった全てが、一斉に動き出す。
 渦巻く水の音は、記憶か? 規則正しい水車の音の向こう側。
突然、身体が冷たさを覚える。目の前で炎が揺れているのに、寒い。猛烈な肺の熱さ。息苦しさ。逆巻く水音と恐怖感。思い出してゆく。目の前では温かい炎があるのに。
思い出してゆく。転落の瞬間。手首と肩を襲った凄まじく痛みと恐怖感!
「貴様が――」
 記憶がよみがえる。一瞬にして感情が逆立ってゆく。
「貴様が、突き落として――」
 ゴトンゴトンという音がうるさい。あの時の恐怖感、死の恐怖感。
 その死を招いた相手が目の前にいる。
「貴様が、裏切って――」
 水車の音がうるさい。感情が乱れる。とにかく怒りが!
「貴様のせいだっ、あの時!」
「まだ寝てた方がいい。夜が明けるまでまだ間が――」
「私に触るな!」
 反射的に伸ばされてきた手を振り払った。
「貴様のせいで――! 言え! なぜあんな裏切り――、今言え!」
「何を言えっていうんだよ」
「やっぱり貴様などを信用するべきでは無かったんだっ、裏切り者がっ」
「貴方の身分をばらしたこと? なら仕方がないだろう? 俺まで捕まってはどうやってあの窮地を逃げられたんだよ。俺だけは逃げる必要があったんだ。俺だけは逃げないと、逃げてその後貴方を救出――」
「救出? 橋から突き落として溺れかけさせることが救出だと?」
「だってまさか貴方が泳げなかっただなんて思わ――」
「泳げるぞ! 馬鹿にするな、泳げるとも! だが靴が邪魔だったんだっ、靴さえなければしっかり泳げていたものを。しかも手首を縛られていたんだぞっ、その私を橋から突き落としたんだ、貴様は!」
「――」
「どうせ私を見殺しにして逃げる気だったんだろう? 貴様はしっかりと大金を握って、あの場で騒動を起こして隊商の男達の気を引き、その間に自分は逃げおせる気だったんだろう?」
「――」
「卑怯な裏切者が! 私が馬鹿だった、こんな奴を信じようとした私が!」
「何とか言え! 泥ガラス!」
 アーサフは身を起こす。その瞬間、左の胸から肩にかけて鈍い痛みが走ったがそれを無視して腕を伸ばす。怒りに任せて相手の襟首をつかんで引っ張る。
 その瞬間、モリットは悲鳴じみた息を漏らした。そしてアーサフも、
「……」
無言になった。
「その傷――」
 相手のはだけた胸から肩口にかけて、大きな傷があった。まだ塞がり切っていない傷口にうっすらと染み出して残っている血が、揺らぐ薄明りの中で鈍く光っていた。
「なんだ。その傷は」
「――。貴方が川に落ちた後、奴らの一人がしつこく貴方を追いかけようとしたんだよ。ほら、あの茶色のマンとの男。御陰でちょっともみ合いになってね」
「もみ合いって……、それだけの酷い傷なら、もみ合いでは済まないだろう、違うのか?」
「まあね。何とか逃げ切れたけど」
「……」
 狭い室内、二人とも口を閉じた。そして静寂。
 水車の回る規則正しい音が響く。小さな炎が揺れている。アーサフは自分の思考と感情が乱れているのを自覚する。
 目の前、モリットが無言で自分を見ている。その頬が僅かに強張っている。表情が、眼が、いつもと異なっている。涙を溜めているのか? まさか。
「俺を信じて無いでしょうね。王様」
「――」
「俺が盗んだ金を持って、そのまま貴方を見捨てて逃げると思ったでしょうね」
 そうだ。そう思った。だから尋ねた
「なぜその通りにしなかった」
 再びの静寂。揺れるほのかな光。
 モリットの顔が迷いを見せつけている。言うべきか否かを本当に迷っている。その果てに、言葉を選びながら、ゆっくりと語り出す。
「昔――。どこかで貴方の噂を聞いた。
『リートムの新しい王は不思議だ。ひ弱で何の才覚も無いのに、あの優秀な王城の臣下達が皆付き従っている。臣下達の忠誠すら集めている』
それともう一つ、
『リートムの新しい王は変わっている。王座に就きたくないと、泣き喚いたそうだ』」
「……」
「どんな人なんだろうと、ちょっと思った事があってね。だから今回、神の導きで会うことになって、何だか興味を持った。どんな人なんだろう、泣いて王様になりたくない奴って」
「――。それはまだ答えになっていない。モリット」
「俺は、目端が効くから。人を見る目も持っていて。だから。
 この数日貴方を見ていて、思った。リートムの新しい王様の噂は、当てにならないなって。噂に聞いたような、ひ弱くて無能な人ではない。少なくとも、人から信頼を寄せられるって。
 だからディエジさんやマクラリ卿を始め有能な臣下達がみんな貴方に付いてくる。当たり前だよ。だから王座に就いてからずっと、領土を失わずに守り続けている。
 本人はやたらと自分を卑下しているけれど、君主としては最大の素質を持っているものを……。だから、この先あと何年か経ったら、エリン島中に知れ渡るような強い王になるかもしれないものを、ここで犬死させるのは……、
 まだ続けなければならない?」
「それが、私を救った理由か?」
「まだ続けなければならない?」
 苦笑いし、それで逃げようとした。
 しかし揺れる光の中、アーサフは真剣に見続けている。
 だから、続けた。
「うまく言えない。でも、貴方は俺にとって大切な人に思えたから。見捨てられなかった」
「――」
「ディエジさん達と同じように、俺も貴方が好きなんだ。それだけ。
 まだ続けなければならない? やっぱりまだ、俺を信用出来ない?」
 光が揺れている。静寂の中。
 暖炉の火が揺れ、光が揺れている。ほのかな暖気が立ち込めてくる。それをアーサフは、心地良いと感じている。
「まだこれを、信用できない?」
 今度は、自分の番だと思った。
アーサフは、自分が相手に対して今どのような感情を持っているのかを、素直に言った。
「モリット。有難う」
 その瞬間相手がにこっと笑ったのが、素晴らしく印象的だった。こんな時だというのに。
「私はお前を無理矢理、危険な――無謀な私の任務に付き合わせてしまった。済まない。そして有難う」
 揺れる光の向こうで、相手もまた微笑む。それが心地良い。
 だが。なぜだろう?
 心地よさの一番深い所、意識の片隅に、小さな冷えた物がある。
 信頼という温かさ、心地よさだけでは無い。その中にありながら、アーサフの思考のどこかが冷えた物を感じ取っている。
“信用しきってはいけない”
 なぜ?
“信用しきってはいけない。この少年の言動は、見事に整いすぎている”
 なぜそんなことを思う?
 モリットは素直に笑んでいる。その笑みを信じた方が良い。その方が自分の今後によほど良い。そう理解できる。素直に思える。なのに、
(信用できない者と共に行動に出るなど馬鹿だ)
 ディエジの鋭い眼がこちらを見ている気がする。だからこそ、自分はこの少年を信じた方が良いのだ。
モリットが素直に微笑んでいる。素直に、当たり前のようにこちらに近づいてくる。素直に、自然に自分の上体を抱きしめて来る。素直に告げてくる。
「こちらこそ有難う。俺を信じてくれて有難う」
 モリットの傷口から、微かな血の匂いがした。
「必ず奥方様を救い出します。俺の力を尽くします」
「……。有難う。頼む」
「出来るなら早目にここを出てリートムへ向かった方がいい。あの隊商が貴方の身元を信じているかどうかは判らないけど、取り敢えず奴らより先にリートムへ行きたい。傷は痛みますか? 夜が明けたらすぐに出発出来ます? ここからならリートムは、あと半日の距離だ」
 静かな言い方だった。妙な程に静かだった。
 アーサフの中に、また違和感が生じた。眼を上げて、相手を見た。
 規則正しい水車の音の中、揺れる光の許、モリットの眼が自分を冷えた眼で見ていた。
「ここからは俺の策に従って下さい。全て俺に任せて下さい」
 冷えた眼。揺れる光の中、感情を表さない落ち着いた、冷えた眼。気になるほどに。
「任せて。信じて下さい」
 カラスのモリットはそう言った。
 アーサフは、無言で聞いた。



4・カジョウ

 正午へ間もない頃。珍しく薄日が射した。エリン島に光がこぼれる空の下。
 ガルドフ家のアーサフは、己の街へ帰還した。
 アーサフの目の前には今、リートムの堂々たる市門・聖マル門がそびえ立っていた。見慣れているはずのその門の全景が、今は自分を威圧しているかのように感じた。
彼は、無意識のうちに右手が胴着の上から左の胸元を押さえた。
「大丈夫ですか? 胸の傷が痛みます?」
 振り向く。モリットはいつも通り、明るく光をたたえた眼でこちらを見ていた。
 アーサフは“いや”と小声で答えただけだった。決してそれ以上は――感情の深いところにあるしこりについては触れなかった。
『俺の策に従って下さい。そうすれば、全ては成功します』
 成功? その成功は、誰にとっての?
「行こう」
「うん」
 行く。行って、事を進める。そこに何かがあっても。
「行かないと」
「ええ。早く行きましょう。王様」
 赤い竜の旗印が大きく翻るリートムの街へと、アーサフとモリットは入城した。

・           ・           ・

 聖マル門をくぐった途端、モリットが発した。
「今日は何かの祭りの日ですか、アーサフ様?」
「いや。何もないはずだ。大市が立つ日でもない」
「へぇ、じゃあこの賑わいは何です?」
 指さした先、そこはアーサフにとって馴染みの、聖マル広場だ。しかし今、そこは見慣れたと呼ぶには大きくかけ離れた姿になっていた。
 広場には、華やかな露店が所狭しと立ち並んでいるのだ。それを目当てに多くの人びとが集まっているのだ。荷物や家畜も次々と運び込まれ運び出されている。大変な賑わいだ。通り抜けるのにも苦労するほどだ。
「今日は、第九月の最後の日だ。大市の日でも祭りでもない。いや……大市の日だってここまでの人出になることはほとんどないが……。おかしいな」
「おかしいなら調べないと。誰かに訊いてみましょう。――ああ、ちょうどいい、あそこの二人連れに――」
「待て、モリット!」
 人ごみの中に今にも踏み入ろうとする直前、モリットは止まった。
 アーサフは慌てて自分の姿を確認する。着古して色褪せた灰色の上着を数枚重ね、一番上には薄汚れた黒の外套を羽織っている。勿論、つばの広い帽子は目深にかぶっている。ごくありふれたている大人しい自分の顔立ちなら、これでも一応変装にはなるはずだが。だが……。
 モリットはにんまりと笑った。
「大丈夫ですよ。貴方の正体には、よほど身近にいた人でなければ気づかれませんよ。
 聖イリュードに賭けて、貴方の姿はいいところ近在の商人がリートムの賑わいを下見に来たってところだから。
 さあ。慎重に過ぎたるはただの愚鈍って諺が俺の故郷にはあったよ。さあ早く、行きましょう」
「お前の故郷って?」
「マナーハン。さあ早く、さあ――
 今日は、旦那方! 貴方様の上に諸聖人の恵みあれ!」
 この一言に、広場の片隅、鋳物屋の露店の脇に立つ二人連れの男達が同時に振り向いた。
 ばれはしない――。
そう信じてはいても、自分の顔を凝視された瞬間、喉は締まったのも確かだった。
 モリットが声がけした二人の男達――彼らもまた、商人であろう。鋭い目付きで品物を見ていた目を素早くこちらに向けた。街に出入りをする行商人達ならばある程度は顔を見知っているアーサフではあったが、彼らにはまったく見覚えが無かった。
「旦那方はリートムの御方ですか? それとも他所の御方?」
 ぺこりと挨拶を垂れたモリットをいかにも胡散臭そうに見た。と、不愛想な声が返ってきた。
「ベルーアからの行商だ。貴様たちこそ何者だ」
「同業の者ですよ。まあ今日は仕事で来た訳ではないです。近頃リートムの街が賑わっているってきいて様子を見に来たんですが、でもまさかこんなにとは思わなかった。
 ああ。言い遅れましたけれど、俺の名はイリュード。こっちは義理の兄です。
 で、この人出は何事ですか? 今日はリートムのお祭り日?」
「祭りではないが。まあ似たようなものだ。ちょっとした見世物があったからな」
「何です?」
「処刑だ。前の王家・ガルドフ家の家臣のな。守備隊長、ヨアンズとかいう男の」
 素早い横目でモリットはアーサフを見る。
予想したよりは悪くなかった。強張った顔立ちではあったが、それでもしっかりと前方を凝視していた。硬い口調ながら、彼はゆっくりと、自ら訊ねた。
「処刑とは――バリマックの族長が命じたのか? この街が制圧されてから、随分時間がたっているというのに、今になって」
「そうだな。俺の知ったことじゃないが」
「……王城のヨアンズ隊長は、どんな風に処刑されたんだ?」
「絞首刑さ。今朝早く、城の城壁から吊るされた。あっと言う間だったな。さっさと首に縄をかけてさっさと突き落とされた」
「彼は……隊長は、苦しんだのか」
「それが期待外れさ。酒だか薬だか飲まされていたらしく、泣きも喚きも暴れもしなかったぜ。静かに死んでいった。せっかく処刑見物を楽しみに大勢が集まったっていうのによ。あっけなさすぎで面白くもなかった」
「面白くない、だと? 貴様は人の生死をなんだと思っているんだ! ましてヨアンズ隊長はリートムの街を守るため――」
 声を荒げるアーサフを、モリットは素早く制した。
「貴方は黙ってて下さいよ、兄貴。旦那方、済みません。兄貴は前のガルドフ王家に世話になってたんですよ。で、旦那方も今日は処刑見物? この広場も凄い人出や露店だけれど、これも処刑見物のためですかね?」
「それもあるが、首吊りが無くたって皆リートムへ来るだろうよ」
「なんで?」
「“なんで?”」
 商人の二人は、如何にも人を小馬鹿にした眼で口元を引き上げた。
「なんで? か。頭の悪い阿呆ガキが。じゃあ教えてやるよ。
 今、この街には新しい支配者が生まれたんだよ。新しい軍勢も従臣達もやって来たんだ。だから物品が要るんだよ。俺達は儲かるんだよ。だからみんな集まって来るんだよ。しかも新しい王の方もそれを知っていて、市場の税を引き下げてくれている。良く解かってる新王だぜ。有り難いもんだ」
「なにが“新しい王”だ、よくも――」
 またモリットが制そうとする。が、アーサフは振り切った。
「侵略者じゃないか! 王が不在中の街を襲った卑怯な蛮族・バリマック族だぞ! 貴様たちだって見た通り、咎の無いヨアンズ隊長を処刑してしまうような野蛮な連中だぞ! そんな敵とよく取引ができるなっ、儲かればそれでいいのか!」
「――。口の利き方を知らない兄貴さんよ」
 その言葉の一呼吸後。
 有無も無かった。一瞬、膝の裏側に痛みが走ったと思った瞬間、アーサフは無様に尻から泥の地面に落ちていた。膝蹴りを喰らったのだ。
「馬鹿が」
「――」
「元々リートムの生まれなのか、あんた?」
「そうだ」
「だったらバリマック族とその首領のカジョウに感謝するべきだな。
 カジョウは、リートムの街と城を素早く攻撃して陥落させた時、放火も略奪もしなかった。捕えたのは守備隊の連中だけだ。街の住民にとっては、変わったのは城壁の旗印だけで、あとは今まで通りの生活をしている。平穏にな。
それが守られていれば十分だ。何の文句も無い。違うか?」
「……」
「街が支配された直後だったか。ガルドフ家の昔の王が軍勢と共に戻ってくると噂があったそうだが、そんなことにならなくて良かったぜ。あらためて戦闘など起こされては大迷惑なんだよ。住民にとっては支配者が誰だって構うか。今まで通り平和な生活が続いていればそれでいい。まして今やバリマック族の御陰で街は賑わっているんだしな。
 どうした、貴様。死神に声をかけられたような顔をしやがって」
 男が、自分を見ている。その視線が冷めている。
アーサフはようやく、ゆっくり、立ち上がった。ずれた帽子を直しながら、一度だけ顔をぬぐった。複雑に歪んでしまった様々なものを直そうとした。
 一つ深呼吸をした後、アーサフは固い声で訊ねた。
「ガルドフ家のアーサフ王の行方を知っているか?」
「さあね。逃げてる途中に盗賊に襲われて犬死したとか聞いているが。
 お前、ガルドフ家に出入って商売をしてたって言っていたな? 確かに大口の取引先を失くしたんじゃ、顔色も無くすよな。一応は憐れむぜ。まあ頑張って、今度はバリマック族と顔をつなぐことだな」
「――。そうだな」
「それから知ってるか? ガルドフの王の妻。マナーハンから嫁入りしたばかりの。
 何でもまだ城の中に置かれているんだとよ。この小娘をカジョウはどうしようっていう気なんだろうな」
「有難う――」
 奇妙な返答になった。だが、他に言うべき言葉が思い付かなかった。
 早々に、二人の男たちは、前方の雑踏の中へと向かい、消えていく。
 辺りには人通りと騒音が凄い。活気に満ちた人々の動き、荷車や物資や家畜の動き、それらがあげる物音に満ちている。それを見ている。見ながらアーサフは、その中に独り、立っている。
「アーサフ様?」
 モリットに答えない。向くこともない。
 唐突に、アーサフは歩み出した。
 ……ぬかるんだ泥をはね上げながら、アーサフは聖マル広場を横切っていく。
 途中、人混みの中、何人もの人々にぶつかった。珍しい巡礼の一団とぶつかった時は、むっとした眼で睨まれ、巡礼杖を振り上げられた。それ以外の人にもぶつかる度に怒鳴ってくる相手に小声で謝罪していったが、何と発したのかは覚えていない。広場を渡り切る。足はただ城へ、自分の家へと進んでいく。
 狭苦しい路地を歩み続ける。多くの角を曲がってゆく。
七つ目の角を曲がった時、路地の前方、屋並みの上に、一つの塔が見えてくる。薄い青色の空に好き刺さる角塔は、彼に我が家が近づいてきたことを告げる。
“一体、ヨアンズ隊長はどこの壁で吊るされたんだろう?”
 混乱した思考と感情が渦巻いている。その中で、妙に冷めたように思う。
“どこで? 以前から城の絞首刑で用いていたのと同じ、西の塔の脇だろうか? それとも南の壁面か? ああ、南の壁面は止めてくれ。南側には広間や個室があるんだ。そこに吊られては、中からもろに見えてしまう”
 どうでも良いことが、頭の中に浮かんでは消えていく。考えることではないのに。今は何を考えるべきなのか分からないのに。
 路地から出た時。一瞬足が止まる。
 騒々しい人声と、上の方を見ながらざわついている群衆の後ろ背が目の前にあった。
 嫌な予感が現実になった。と、アーサフは冷静に受け取った。自分でも意外だった。冷静に受け止めた。現実を。だから、躊躇なく右側に数歩を動き、正面から見捕えた。
 見慣れたものが、宙に浮いているのを。
「ヨアンズ……」
 冷静に受け止められた。
背景の曇り空と肌寒い風。その風に僅かにきしむ縄の音も。
 一度だけ強く目を閉じ、そして再び見た。城壁から吊るされたヨアンズ卿の見慣れているはずの姿が、もう見慣れた存在には見えなかった。ただ、風に僅かに揺れる物体へと化してしまっていた。それをアーサフは冷静に見ていた。
「アーサフ様」
 右の耳、指一本と離れないところでモリットがささやいた。
「ここでは泣かないで下さい」
 処刑見物の群衆は好き勝手に喋り合っている。ざわざわと喋り合いながら見物し、前やら後ろやらへと動き回っている。風が冷たい。
「分かっている」
 淡と答えた。
「分かっている。泣かない。ヨアンズは死んだ」
「よかった」
「もうヨアンズは死んだな」
「分かってます。俺も見てます」
「彼は、立派な男だった。父が戦場で没した時には、その最期を見取ってくれた。その様子を涙を流しながら私に報告してくれた。父王の意志を継ぐに相応しいリートム王を私が勤められるよう、自分の残りの生涯を捧げると、その場で誓いを立ててくれた」
「分かってます」
「その言葉の通り、王となった私のそばで常に支えてくれた。私と護り続けてくれた」
「分かってます」
「父の時代からの最高の臣下の一人だ。それだけで無く、私の父親代わりの一人だ。心から尊敬し、そして敬愛していた」
「分かってます。でも、死んでしまった」
「――」
「死んでしまった。だからもうここにいてもやる事は無い。人が多くて危険が伴うだけだ。だからここから出ましょう。分かります?」
「分かっている」
 自分でも驚くほど冷静に受け止められた。彼は早々に城に背を向け、騒々しい人ごみの中をかき分けて進む。再び、狭い路地の方へ入っていく。
 驚くほど冷静に、思考は動いていく。当然のことを当然として受け止める。
 ヨアンズは死んだ。だからもうどうしようもない。構うな。今はやるべきことをやれ。
 やるべきこと――イドルの救出。
 路地を進む。無意識に、人通りの無い方の道を選んでいく、込み入った街の奥の方・裏の方へと進んでゆく。
ポンと、右肩を叩かれた。
「あの人の為に、御祈りをします?」
 その時初めて、足を止めた。振り向く。賑やかな大路とは一転、狭苦しい、安っぽい家々が並ぶ本当に路地奥の一角だった。その片隅にほんの少しだけ空間をとった、小さな教会堂の前だった。
 モリットは、はっきりした眼で自分を見ていた。
「あの隊長の為に、ここでお祈りをしますか?」
「いや。いい」
「そう。じゃあ簡単だけれど、俺が代わりに祈っておきますよ」
 モリットは、教会堂の扉口まで小走った。そこにかかっている聖者の小さな石像を前に跪き、小声で祈りを唱え始めた。
 あの御方の魂が安らかでありますように。地上のあらゆる苦痛から解き放たれ、天の御国で永遠の安寧の中にあるますように。
 そして、何人もの聖者達の名前……、延々と……。
 人けの無い裏路地の空間は、静寂だった。朝方の青空は消えている。雲が厚くなりだしていた。冷えた風が緩く抜けていた。
「モリット。もういい」
アーサフは言う。
「もういい。充分だ。私達は早く、やるべきことをやろう」
 モリットは立ち会がり、振り向いた。
「そうですね。奥方の救出は、今夜暗くなったら直ぐに実行しましょう。一刻も早い方がいい。早くしないと、命にかかわる」
「命に、かかわる――」
「聞いて下さい。バリマック族の首領カジョウは、今朝突然ヨアンズ隊長を処刑した。本来ならば街が陥落した時にすぐに処刑しても良いものを、今朝まで捕囚として生かしておいた。それを今朝、突然に処刑を執行した。なぜだろうって、ずっと考えていたんですけれどね、大体予想はつくけど。
 まあそれはいい。突然隊長の処刑が執行されたということは、同じく捕囚となっている奥方も明日の朝突然処刑されてしまうという可能性もあるってことだから――。だから急いだ方がいい」
「――」
「王様。落ち着いてますね。でも、少しだけ指先が震えてますよ」
 言われた通り、落ち着いている。自分でも意外なことに。
「お前の策に、そのまま乗って良いんだな?」
 思ったことをそのままに告げられるだけの落ち着きを保っている。
「お前の策には、着実な勝算があるんだな」
「もし、そうでなかったら?」
「ならば、私はカジョウに会いに行く。
私は、この国の王だ。リートムという国の占領の責は、私が負うべきだ。私の代わりにヨアンズ卿を死なせるなど、あるべきでは無かった。まして、婚礼して間もない妻のイドルが処刑されるなどあってはならない。
最初から私が自分の首を差し出せば良かったんだ。そうすればヨアンズが吊られることも無かった。私が首を出すべきだ」
「別にカジョウは貴方の首なんて欲しがっていませんよ。自分でも言っていたじゃないですか。橋の上で」
「……。そうだろうか」
「ええ」
「ならば。私が採るべき行動は、お前の策に頼るという事か」
 風が抜ける。冷たい。
「イドルの救出が成功するか失敗するか。これで決まる。遠地で待っている軍勢の行く末も、王国の行く末も。
 勝算は完璧なんだろうな、モリット」
 教会堂を背景に、振り向く姿勢のまま自分を見ている。その顔。
 平然とした笑顔だった。
「俺に任せて下さい」
「――」
「明日の明け方に、俺と貴方と奥方は、三人で灌木の丘を歩いています。任せて下さい」
「――」
「俺を信じて下さい」
 今朝がたと同じことを言った。灰色の空の下。
 緩い風が冷えている。アーサフもまた、冷えた眼でモリットを見る。もう分かっている。この男を全面的に信じなくても良い。でも今は信じて良い。少なくとも今、この男が王国とその王である自分に役に立つのは確実なのだから。
 だから、今は心から言う。
「お前を信じる」
「有難う」
 いつもの通り、モリットはニッコリと笑った。
「なら早速ですが、準備に取り掛かりましょう」
「その前に、お前の策の全容を話せ」
「いいですよ。じゃあ、あそこに向かいながら話していきますね」
「あそこって?」
「市場」
 薄日は射している。風は冷えている。
 エリン島の上で、時が確実に進んで行く。

・            ・           ・

 武衣の金具の鈍い反射。並ぶ旗印・紋章。何人もの忠臣達と兵士達の顔。
 そして少女は微笑んだ。
『御無事で。お待ちしてますわ』
 その記憶は、一枚の完成された絵だった。瑞々しく、美しく、光に満ちて、心の中に欠けるところ無く残されていた。
 その日から約ひと月。まさかこんな形で帰還するなどとは、夢にも思わなかった。どこか現実味すらぼやけてしまっていた。そんなことを思いながら、アーサフは今、己の城を前に立っていた。
「では行きましょうか」
 夢想は消え、現実へ引き戻される。現実は――、モリットのどこか嬉々とした横顔だった。僅かに笑みをたたえた表情、そして手に大きな布包みをかかえたこの泥棒ガラスと共に、ガルドフ家のアーサフは自邸である城の正門の前へと帰還したのであった。
 ――
 門の左手。壁面では、ヨアンズ卿が引き続き揺れている。何で早々に埋葬に回さないんだ? いつまで晒し物のする気だ? いい加減にしろ! そして今、ヨアンズの魂はどこにいるのだろう? 
思考はすぐに意味を成さない感情へと傾こうとする。それを強引に消す。自分には今、やるべきことがある。
赤い竜の旗印が舞っている。閉じられたままの城門へと近づいてゆく。門の上の物見台からは、バリマックの兵士がこちらを見ている。火のように赤い髪と高い上背が、それだけで威圧感を与えてくる。それを意識しながら門へと迫ってゆくと、
「――、――っ」
 バリマック兵の発した言葉、
(理解出来ない……!)
 当たり前のことを忘れていた。思わず動揺し、足が止まりかけたものを、
「何を突っ立っているんですか? 変に思われますよ。早く行きましょう」
 モリットが背中側から促した。
「だが。言葉が通じない。これでは策を進められない」
「大丈夫、何とかなります」
「何とかでは駄目だっ、万全を期さないと駄目なんだっ。もしここで失敗したらリートムの未来――」
「もう後戻りは出来ないんですよ。だからさっき話した通りに進めます。さあ」
 モリットは王の上腕を掴んで引っ張る。アーサフは思わず“お前は怖くないのか?”と口にしかけ、
 はっと気づいた。
自分は今、怖いのだ。震え、立ちすくみ、今直ぐ振り返ってこの場から逃げ出したい程怖いのだ。どれほど押さえ込もうとしても、怖いのだ。
だというのに、すぐ左側でモリットの顔は見事に端正だった。落ち着いた――いや面白がるかのように生き生きとしていた。
「では」
 モリットがあっさりと視線を門上の物見台へと上げた。
「初めまして。バリマックの兵士の方。私達は西のアルブ村から来ました。済みませんが、カジョウ王様に会わせてもらえませんでしょうか?」
「――」
「是非カジョウ様にお会いしたいんです、お願いします」
「――」
「私の言葉が分かりませんか? カジョウ王様に会わせて下さい。お願いします、お城の中に入れて下さい」
「――、――っ」
「駄目だ、モリット、やはり一旦引き返そうっ。これは想定外だ、策を変えるぞっ」
 アーサフが言った瞬間だった。
 きしむ鈍い音をたてて、目の前の城門が少しだけ開いた。その内側に、小柄な一人の壮年の男が立っていた。
「何の用だ」
 その一言だけで人柄が分かる。横柄な口調だ。
 その男は、バリマック族では無かった。身体つきからも顔立ちからもエリン島の人間であることは一目で判った。だが、男の薄い唇とか猜疑心丸出しの目付きなどから、これはおよそ親しみを覚えるべき者ではないと見る者に覚えさせた。
 しかしモリットには知ったことでは無いようだ。すかさず愛想良く発した。
「今日は。旦那様。貴方様はどなた様ですか?」
「答える必要ない。私がお前達に聞いている。名前と用件を言え」
「はい。私はイリュード。こっちは姉の婿のディエジ。街から西に二日のアルブ村から、村を代表してバリマック族の王様・カジョウ様にご挨拶を捧げるために来ました。
 貴方様はカジョウ王様の御取次の方のように見受けますが、違いますか?
 是非王様に御目通りをさせてください。お願いします」
「……」
 男はモリットそしてアーサフを上から下までじっくりと見た。
 冷たい、嫌な視線だ。アーサフの背筋に緊張が走る。
 大丈夫だとは信じている。さっき再び、着替えをした。通りすがりの農夫の粗末な服と交換をした。荒い折り目で泥のこびりついた外套と帽子を纏った。まさかかつてのリートム王とは判らないはずだ。――多分。
 男は鋭い視線を外さずに言った。
「貧乏村が、カジョウ殿へのへつらいか」
「はい。俺達の村では豚を飼っています。もしカジョウ王様の許可を得られたら、俺達の豚をこのお城で買い上げてもらえないかと思いまして。お願いします」
「売り込みとは図々しい奴が」
「済みません。でもこの夏、村は麦の育ちが悪くて、豚ぐらいしか売れる物が無くなってしまって――。勿論、カジョウ王様には贈り物も準備しております。是非御目通りだけでもかないませんでしょうか?」
「何を持ってきたんだ」
「これです」
 モリットが、抱きかかえていた包みから布を取り外した。
 その瞬間、相手の眼付が変わったのがアーサフにも判った。
 モリットの手元には、木の籠に入った鷹の若鳥がいた。まだ成長し切っていないというのに生えだしたばかりの風切り羽根だけでも、これが間違いなく絶品の狩鷹になるとは誰の目にも間違いなかった。
「素晴らしいものでしょう? うちの村でここまで育てたんです」
 男の目が、吸い込まれたかのように鷹を見ている。
この男、カジョウに雇われ、城の取次役でもやっているらしい男――この男の目が露骨に語っている。すぐ判る。この男も鷹の子を欲している。
 まあ当然だ。この鷹、今日リートムの街なかに立っていた露店の扱う品では、一番高いものだ。アーサフが手持ちにしていた金、そして橋の上でマナーハンの行商から盗んだ金の全てをほとんど全部使って買ったものだ。
 モリットがニコニコと笑う。
「いかがでしょうか?」
「――。貧乏村にしては、まあまあの品だわ」
「はい。うちの村の近くにある森には、よく鷹のつがいが巣をはりましてね。それが今年は卵を産みましてね。ヒナがかえったところで盗み出して、俺達で育てたんです。人にも懐いていますよ。貴重なものです。是非カジョウ王様への贈り物としたくて。
 それから、村で作った干肉――、そうだ、よろしかったら旦那様ご自身に召しあがって欲しい。自慢の味なんですよ。是非旦那様の舌で確認して頂きたいです。この後、厨房に届けておきますよ。あ、それより旦那様の家来の方に直接お渡しした方がいいかな?
 いかがでしょうか? カジョウ王様に会わせてもらえますでしょうか?」
水が流れるように自然に、いっきに言い切った。呼吸一つ分だけ間を開けた後、相手はの取次役は、
「分かった。いいだろう。入れ」
 あっさり言ったのだ。
瞬間。ニッコリとモリットは笑った。それを見てアーサフは無言で小さく息を漏らす。唖然と驚くというよりは、呆れるという心情で。そして素直に言った。
「見事なものだな……」
 賛辞に、少年はにんまりと笑った。
「だが持ってないぞ、干肉なんて。どうするんだ」
「そんなもの、その時になればどうにでもなりますよ。気にしないで」
 その一言で終わった。再びの笑み。
次の瞬間、モリットは弾むような小走りで門の隙間を抜けていく。アーサフもそれを追いかける。取り敢えずも彼は、自分の家への帰宅がかなったのだ。

 城門をくぐった直後に、アーサフは大きく周囲を振り返った。
 壁と門の内側の、どこにも痛みがない事を目で確認する。長らく城を空けた後に行う体に染みついた習慣は、こんな時にも出てしまった。
 先ほどの陰湿な顔の取次男は早々に消え、代わりに一人の兵士に導かれながら二人は城門の中へと歩んでゆく。その歩みの間にも引き続きアーサフの目は、夢中で周りを見捕えてゆく。
 ……中庭の井戸の脇では、ニワトリもアヒルも賑やかに走り回っている。
右奥の馬小屋では、残していった自分の持ち馬達が、よく手入れされた状態でつながれている。
左手の貯蔵庫の辺りも散らかったりはしていない。その裏の通用門もしっかり管理されている。どれもこれもだ。
“何も変わっていないじゃないか?”
そう結論づけざるを得ない。アーサフは困惑を覚える。
 その通用口から、大きな喋り声が響いた。数人の女達が出てきたのをちらっと見るやアーサフは驚き、思わず反射的に顔を伏せた。
 彼女達を知っている!
 知っている。自分が子供の頃から城にいる。いつも騒々しく喋り散らしていた城の洗濯女達だ。
 大きな籠を抱え、賑やかに忙しそうに早口で喋り合いながら裏手に回っていく後ろ姿は、彼が覚えている姿と全く変わらなかった。ガルドフ城主の運命の逆転など、まるで無かったかのように。
 なぜだ?
 どうして城内はこんなに平穏なんだ? 変わっていないんだ?
 城だけは無い。街もだ。リートムの人々の生活は変わっていないじゃないか。
 なぜだ?
 バリマックは蛮族ではないのか? 蛮族に襲われたというのに、なぜ全てが平和に安定しているんだ?
「結構広いんですね」
 モリットののんびりした声が耳に響いた。常変わらない城内を歩いた末、彼らは城棟の階段を上がってすぐの一室に通されたところであった。
「この部屋は何に使っていたんです?」
 案内の兵士は、さっさと消えていく。その背中を見ながらモリットは続ける。がらんとした広い一室に入り、やっと二人だけとなった瞬間だった。
「窓が大きくて明るいですね。上階の部屋の割には、天井も高いし。――ねえ、また深刻に何か考えているみたいだけれど、教えて下さいよ。何に使ってた部屋ですか、アーサフ様?」
「私的に人と会う時の部屋だ」
「じゃあ謁見の部屋だ」
「そんな大層なものじゃない。客人に会う部屋なら、地階に別にある。ここはちょっとした人間を通すための部屋でしかない」
「ねえ。今、奥方を城内のどこかに閉じ込めるとしたら、貴方ならどこにします?」
 アーサフは固くなっていた顔を持ち上げた。
「私もずっと考えてた。この城棟には、部屋が二十二室ある。地階に九。上階に十三。それに城壁に沿っても貯蔵や物置のための小部屋か多数ある」
「でもさすがに城壁沿いの場所には奥方を置いては置かないでしょう。城棟の方だ」
「なぜそう思う?」
「さっき城内に入った時に見ました。外の貯蔵庫や物置は、兵士達の居住用に使っているみたいでした。そんなところに奥方を置くようなことは、カジョウもしないでしょう」
「――。確かにそうだな」
「城棟の方ですよ。それもおそらく上階の方。この城は思った以上に人の出入りが多い。安全に閉じ込めておきたいのならば、どう考えたって人の通らない、静かで、高い所の方がいい。俺ならそうします。
――あ、生意気を言ってすみません。あんまり自信はないけど」
「自信がない割には整然としているな」
「そう? 王様はどう思います? やはり上階ですよね」
「上階の十三室は、ここ以外はほとんどが個人の寝室や居室として使っていた」
「つまり、どの部屋も小ぶりで、扉の鍵がかかるって事ですよね」
「その通りだ……正に」
「自信が無いけど上の階ですよ。ここを抜いた残りの十二室の内のどこかだと思う。
 で。貴方がカジョウだったら奥方をどこに置きます?」
「残りの十二の部屋の造りに大差は無い。……だったら……」
「うん」
「だとしたら、わざわざ部屋を変えなくても、イドルが私室として使っていた部屋をそのまま使えば良い……」
「で。奥方の部屋はどこ?」
「――この五つ先」
と言った瞬間、アーサフの目が壁を見た。灰色の天井と石壁が透き通り、その向こう側が見えた。この数週間、心の中に取り付いて離れなかった少女の、この数週間で最も鮮明な映像が――無邪気に微笑むあの姿が、
 それが、ここから五つ先の部屋、そんな近い場に――イドル!
 モリットの手がアーサフの腕を固く掴んだ。
「まさか今すぐに駆けつけようと思ってないでしょうね?」
「来るときに見えた。通廊には誰もいなかった、扉の前にも、見たんだっ。私なら鍵を開けられる!」
「外にいなくても部屋の中に見張りがいたらどうするんです? たとえ中に兵がいなくても、そのあと奥方を連れてどうやって逃げ抜けるんですか?」
「だが――!」
「落ち着いて下さい、俺たちは失敗しに来たんじゃない。それよりこっち!」
 いきなり掴んだ腕を引っ張った。部屋の一番奥、窓際まで進む。その窓枠から精一杯半身を乗り出させる。首を右に向けさせる。
「どうです? 見えますか」
 アーサフは、自分の口の中が乾いていくのを自覚する。
 真っ直ぐに伸びる壁が見える。そこに幾つもの窓が並んでいる。
「――。見える」
「奥方の部屋が見えますか」
「見える――。部屋はあそこだ。窓の鎧戸が閉まっている。他の窓はすべて空いているのに、そこだけ閉まっている」
「そうでしょうね。奥方が室内にいるとしたら、昼でも窓を閉めておくでしょうね。当然として」
 アーサフの掌が強く閉まる。
「あそこにいますよ。奥方」
 あそこ――五部屋の先。
 ここからたった、数十歩の先。そこにイドルがいる。
 あと数十歩で済む。望むものはそこにある。
 そこにあるのに。自分の望み――少女の微笑み。脳裏にこびりついて自分を捕え、苦しめ続けるあの微笑み。手を伸ばせば届くところにあるのに。もう目の前にあるのに。
 ここまでの時間の中に押し殺してきた感情と疲労と苦痛が、アーサフを襲った。彼は背中を壁に預けた。今回の出来事が起こってから初めて、目の中が熱くなるのを感じた。まるで一生の分を全て合せたような深い溜息を喉から漏らした。
「アーサフ様」
 顔に手を当てるしぐさで、涙が出ていないのを確認する。
「カジョウが来る」
 手を外す。
素早く見る。モリットが、じっと扉口の方を見ている。アーサフにも確認出来る。部屋のすぐ外側、地階へと続く階段から、数人の外国語の声が登ってくる。
 ……カジョウが来る。
 カジョウ。
 蛮族・バリマックの長。リートムを略奪した男略奪し、しかし堅実に、賢明に為政している男。
自分とイドルの命運を変えてしまった男。
自分を今、このような立場へと陥れた男。
 指先がピリピリと冷えていくのを自覚する。その指を、胴着の腰のあたりに当てる。そこにあるもの――小さな短剣の所在を確認する。
 モリットは無言の眼で扉口を見ている。この期に及んで平然を崩さない、事を楽しんでいる風すらあるモリットが、じっと扉口の方を見ている。人声と足音は確実に近づいて来る。これから会う。蛮族の王、カジョウ。敵。――
「カジョウ殿は会わない」
 部屋に踏み込んだ途端の第一声に、アーサフは息を飲んだ。
「用事が立て込んでいる。鳥は渡した。カジョウ殿は会わない。もう用は無い。帰れ」
 先程の取次役の男が部屋に踏み入ったのは、たった一歩だった。
先程と全く変わらない大上段に構えた口調と視線という見下した態度だった。その一歩すら早々に部屋から出ていこうとするのを、
「待ってくださいっ、困りますっ」
 アーサフは声を上げる。駄目だ、自分はあと数十歩進まなければならないのだからっ。
「カジョウ様に会わせて下さい、お願いします!」
「帰れと言ったぞ」
「しかし貴方は先程、カジョウ様に会わせてくれると言った。私達はカジョウ殿に会わなければここから帰れないっ」
「邪魔だ、さっさと帰れ」
「どうすれば会えるんですか! 私はどうしても面会したいっ」
「うるさい。明日にでも出直すんだな」
「明日まで待てません!」
「黙れ」
「遅すぎる! 明日では遅い、駄目だ、私達は今夜――」
「明日なら会えるんですね、旦那様」
 驚き、素早く横を向く。モリットはいつもとおりの図々しい無邪気さのまま、平然と笑っていた。
「待て、何を言ってるんだ? 明日では遅いっ、私達の用件は一刻でも早く――!」
「大丈夫ですよ、義理の兄貴。明日でも別にいいさ。
 旦那様、今日はどうも有り難うございました。明日には是非、カジョウ様に会わせて下さい」
「分かったらさっさと消えるんだな」
「モリ――イリュード!」
 アーサフが大声で呼びかけた時だ。モリットの黒い目が光った。
「旦那様。お願いついでに、もう一つだけお力を貸して頂けないでしょうか?」
 びくりとしたアーサフの目の前を横切る。モリットはとっくに部屋から立ち去りかけていた取次の正面に回った。その足を止めさせた。愛想良く、礼儀正しく、にっこりと笑ったのだ。
「ここに来る途中、街の旅籠に寄ったんですが、この人出の多さでどこも泊めてくれないんですよ。今から街を出ても野宿して盗賊やコソ泥に会いたくもないし。
 旦那様、どうでしょうか? もし許して頂けたら、物置でも馬小屋でも構いません、今夜一晩だけ寝床を貸してもらえません?」
 一瞬、取次の男もアーサフも全く同じ、唖然の表情で少年を見た。勿論、両者の唖然の意味は全く違ったが。
「この図々しいガキが! なぜこの城が貴様に宿を貸さねばならないんだっ」
「無理ですかね? 本当に雨さえしのげれば構わないんです。実は昨日もその前も冷えた中で野宿しまして、しかも夜になると小雨が降るから、もう服の乾く間もなくってさすがに辛くって……。空を見てると、今夜も雨が降りそうです。また雨の中で夜を明かすのかって考えると、これはもう旦那様のお優しさに頼るしかないかと思い――」
「黙れ! 長々としゃべるな!」
「済みません。でも今言った通り、聖者様の名にかけて雨の下で寝るというのにはもううんざりなんです、――どうぞお助け願いませんかね」
「もう喋るな!」
「旦那様、済みません。でも何故そんなに怒ってらっしゃるんですか? ただ一晩だけ泊まらせてもらえればいいです。ねえ。もう怒らないで下さい、お願いします。駄目でしょうか?」
 取次役の顔がどんどん歪んでゆく。
その目の前でモリットはニコニコ笑っていた。自分が好意をもって受け入れられて当然と信じ切った笑顔だ。自分が拒絶されるはずなどない、そう信じ切り、純真を見せつけた笑顔だ。モリットの、最もモリットらしい顔だ。
「図々しい恥知らず! 貴様のような奴は、一度こっぴどく打たれるがいいっ」
「俺なんかを打っても、旦那様には何の得にもなりませんよ」
「何だとっ」
「俺なんかを打ってるより、旦那様は鷹の子を可愛がっている方が似合いますから」
「――」
「今廊下にいるバリマックの兵士達には俺たちの会話は分からないですようね?
 実は俺に家に鷹のヒナがもう一羽いるんですよ。ええ、さっき貴方様が鷹を見た時の眼を俺は覚えてますよ。貴方様もまたきっと鷹好きだって。ヒナが欲しいんだって」
 男は確かに言葉を飲んだ。表情に当惑が、――怒りが走った。
「旦那様、如何でしょうか?」
 図星を真っ向から指摘され、怒りと困惑で真っ赤に染まっていく男の顔。
「ヒナを持ってきますよ、旦那様の為に」
「この――小鬼のように舌の立つ生意気なガキ……!」
「欲しいですよね? だから泊めてもらえませんかね? 旦那様」
「……」
「あの鷹の子も、旦那様に飼ってもらえれば幸せだろうな。可愛いヒナですよ、よく鳴いて元気だし。どんどん大きくなって貴方様に懐きますよ」
「……」
「旦那様、いつ鷹の子をお持ち――」
 途端、憤懣の全てをぶちまけて男は怒鳴った!
「勝手にしろ! 馬小屋でも台所でも勝手に寝ろっ、口の立つガキが!」
「有難うございます! 貴方様の上に諸聖人の御恵みあれっ」
 取次役の男は長衣の裾を翻し、逃げるように部屋から立ち去ってしまった。
 そして二人は、室内に取り残された。
 ……
「そんな顔で見ないで下さいよ。アーサフ様」
 にっこりと言ってきた。
 だが、アーサフの顔は変わらない。露骨な驚愕と殺した怒りを混ぜたまま、真っ向からモリットを見据える。
「お前は――」
「ともかく、今夜ここに泊まることができるんだからいいじゃないですか」
「あんな言葉――賄賂が欲しいとの相手の恥部を表にさらして念押しをしているようなものじゃないか! もし奴が潔癖な質だったらどうするんだっ、私達の身柄に危険が及んだかもしれなかったんだぞ!
「上手くいったんだからいいじゃないですか」
「失敗してたらどうすんだ、全て終わりじゃないか! 失敗した時のことを考えなかったのか!」
「失敗ですって?」
 面白がるよう、モリットは口許を引き上げた。その笑みが、
いつもと違う――と、アーサフはとらえた。
いつもの人に受け入れられると信じ切った笑みとはちがう。それは、痛烈な皮肉交じりの笑みだ。いつもと違う。なぜ?
「王様。俺は失敗なんかしませんよ」
この笑みは――。そうだ。
今、己の力量を誇示しているんだ。誇っているんだ。
「失敗しないいと分っていたから」
己の自信を、初めて見せつけてきたのだ。
「だから、やったんだ。俺は、確かな時にしか動かないんですよ。貴方とは違って」
「――私と?」
「ええ。確かに貴方はどんなことにでもひたむきに一生懸命に動く。けれど、俺はそういう事はしないから」
「……。どういう意味だ?」
「貴方は俺とは違う。貴方の不器用なまでの懸命さは、俺にとって驚きだし、だからなぜだか貴方を助けてやりたいって気にさせる。
だからリートムの臣下達も住民も信頼して忠義を捧げてくるんだと何となく解りましたよ。それがあなたの支配者としての最大の武器だ って。
いかにも王に相応しい質ですよ。だから争いの絶えないエリン島で、何年間も王座を守ってこられたんだと解ったけど。――でもね」
「……。だから、何を言いたいんだ?」
「俺は、王じゃない。貴方と違うんですよ。アーサフ様」
「……」
「失敗ですって?」
 再び笑った。猫のように。
なぜ今、状況からずれた事を言い出したのか解らない。いや。もしかしたら状況に見合った事を言っているのか?
だというのに、この時アーサフには察知できた。この数日の間薄々と、チリチリと肌で感じ取ってきた感覚は間違いではないと。最初に出会ってきた時以来、不思議と愛着があった。――なのにどこかで本能的な警戒を感じた。
その警戒は、正しかったと。
 このカラス。ただのカラスでは無い。
なぜだ? どうしてそこまで力量を持っている?
「お前は、何者だ?」
 声が、しんと、物音のしない室内に響いた。
 モリットの意味を含んだ口許が、消えていった。いつも通りにニコニコしながら何も言わずに踵を返す。先に室内から出て行ってしまった。
“信用もしてないものと敵のただ中へ戻るなんて、愚かの極みだ”
 あの朝の霧の中、諦めにも似た冷やかさで自分を見ていたディエジの姿が、脳を過った。
 その通りだった。ディエジ。
 でも、もう遅い。
 自分はもう、後戻りが出来ないところに来ている。
 だから今、それでも。自分は信じなければいけない。だから。――ならば。
ならば自分は、利用しなけければならない。
この得体の知れないカラスを。――ディエジ。
 ……
 窓から忍び込んでくる湿った冷気が、アーサフの首筋に触れた。曇った空の中、日がゆっくりと下り出した。




5・ イドル

おおよそ、長い時間が流れた気がする。
あの日――夜の灌木の丘に夢中で馬を駆り、街へとたどり着くまでの時間も長かった。
張り詰めた緊張の中――僧院でじっと返書を待ち続ける時間もひどく長かった。
だがそれも、今待ち続けているこの時間程には長く感じられなかった、
そうアーサフは思った。敏感になった思考の中で。
……
夜のガルドフ城は、死に絶えたように静まり返っている。吐く息の一つ一つの音すらとらえられるのでは無いかと思える程に冷えて、静まり返っている。
アーサフは今、城棟の地階の東側にある、厨房にいた。かまどの横の、ほのかに温かさが残る床で両目を開いたまま、息を殺して横たわっていた。
壁沿いの右側には、モリットがいる。
夜の闇の中で見ることはできない。だが感覚は、長々と続いている闇と無音に研ぎ澄まされている。相手の気配を感ずることが出来る。長い長い時間の中で、モリットが何度か動いたのを察している。その度に猛烈な緊張を覚え、しかしそれはただの寝返りで、何も起こらず、また静寂が続き、静かな寝息だけを感じ取り、それを繰り返し、体も精神も疲労を覚え、また長い長い時間が続き……。
またモリットが動いた。
今度こそ、モリットは動いた。寝返りではない。明らかに上体を起こした。
心臓の鼓動が速まる。それでもアーサフは待った。右肩の後ろのあたり、そこにモリットの手が触れる本当に僅かな感触を覚えるまで、途方もなく長く思える時間を待った。
「……アーサフ様」
 ほとんど呼吸の近い小声。
 一度だけ、大きく、硬い息を吐いた。そしてアーサフは差し出された手を取り、立ち上がった。

「聖なる天使様――」
 暗闇の厨房、その床に散らばって雑魚寝をしている使用人達の上を、この上ない注意を払い、息を詰めながら十八歩で渡り終えた瞬間だった。
「有難うございます。感謝致します」
 モリットは素直にそう洩らした。二人は今やっと無事に、厨房から通廊へと出たのであった。
「結構明るい」
 壁に背を押し当てながら、アーサフは通廊の前後を見る。前方には上階へと続く急な階段が映り、後方には中庭へと通じる出入口が四角く切り取られたまま開け放たれている。そこから白っぽい薄光がぼんやりと差し込んでいる。
「良かった。雨が降っていないから、庭で篝火を焚いているんだ。王様、そこから夜警の兵の姿は見えますか?」
「一、二、三……。見える限りで四人」
「単純に考えて、城の表側にも四人。全部合わせたら十人ちょっとかな」
 アーサフは振り返り、大きく否定した
「それは有り得ない。少なすぎる。カジョウにすればここは奪取したばかりの場所だ。まだろくに日を置いていないんだぞ。私だって敵の接近の可能性がある時には、昼夜問わず二十人は守備兵を配置していたのに」
「カジョウは敵が来るなんて思ってないんですよ」
「何だって?」
「ガルドフ家のアーサフはほぼ間違いないくどこかで落命。リートムの軍勢は散り散りになったのか、完全に姿を消してしまった。
 街の住人達に対しては、何一つ害を与えていないということで充分に恩を売っているしから、暴動の心配は少ないし。それでも自分に対して強硬に反感を抱く者がいるとしたら、その時は今日のヨアンズ隊長の処刑がいい見せしめになる。
 ――って考えているんじゃないかな? カジョウは。
 カジョウって男はかなり頭がいいと思うよ。蛮族とか海賊っていう言葉からは全然遠い、きちんと統治の術を心得ている為政者ですよ。そう思いませんか、王様?」
「……」
 答えなかった。薄闇越しに、凝視しただけだった。
 その通りだとも。モリット。お前の説は正解だ。――で、
『で、お前はその為政にかかわる洞察を一体いつ、どうやって身に着けたんだ?』
 このこそ泥の――いや、こそ泥以上の何者かの素性に対して、アーサフは猛烈な疑問を
感じたが、だが、今は余計なことの気を取られている暇は無い。今は進むしかない。
 言った。
「行こう」
 ……
 昼間に上った二十五段の急階段を、今度は一歩ずつ、慎重に、這って登ってゆく。
 両者のうち、先に二十四段目に手をかけてそっと頭を上げて前方を見やったのは、モリットの方だった。二段分遅れていたアーサフが同じことをしようとした瞬間、モリットの左手が素早くそれを制した。
「止まって」
「モリット?」
「見張りがいます」
 冷えた石段を掴む十の指が引き締まった。一気に体に走る緊張を抑え、あらためて、慎重に頭をもたげた。
「見えますか。奥の部屋の手前。二人。剣をさした見張りが立っている」
「くそぅっ」
 目の高さに広がる通廊の石床の、その真っ直ぐ四十歩の向こうに、二人のバリマック兵が立っていた。
 例によって、背が高い。夜の防寒に着込んだ分厚い外套は、それでなくても逞しい体格を一層を一層に大きく見せている。そこだけ灯された二本の松明の光の中、一対の像のように映る。
(そこを退け!)
 抑えきれずに無言で叫んだ。
(退け! そこを退くんだ、貴様たちの背中の、あの扉! あの扉の向こう……!)
「あの扉の向こうなのに……、昼にはいなかったのにっ」
「でも、これで目的の部屋は明らかになったじゃありませんか。奥方か、でなければカジョウか、どちらかが必ずあの中にいる」
「え?」
 アーサフは顔を横に向けた。モリットを見た。
「どういうことだ? あそこはイドルの私室だ」
「まあそうですが、でも、ここは居住の棟でしょう? カジョウの寝室もあるはずだ。
 見張りを付けているということは、あの部屋を奥方ではなくカジョが使っている可能性もありませんか?」
「――」
「で。あそこにいるのがカジョウだったらどうします?」
 闇の中、真剣な、しかし落ち着き払ったモリットの表情が、間近から自分を見ている。言葉の真実味を強める。
「王様。カジョウだったらどうしますか?」
「――。なぜだ」
「なぜって何?」
「私はその可能性を全く見落としていた。
 なぜだ? どうして事前に、指摘してくれなかったんだっ」
「俺も今気づいたんですよ」
 嘘をつけ。
 それだけは判る。だがアーサフは現実を取る。とにかく今は、判断だ。失敗を許されない判断だ。
「王様、どうします? このまま進みますか? 答えは貴方が出してください」
「――。カジョウではないことを、聖リートムに祈る」
「どうして? カジョウだったらそれはそれで絶好の機じゃないですか」
「え?」
「でしょう?」
「何の機?」
「――」
「――。私に、カジョウを殺せというのか?」
 こくりと頷いた。モリットは。
 滞った、闇と沈黙。
 再び判断を強いられた。今度こそ、命運を決する判断を。
 アーサフは闇を凝視する。その視界に、モリットが顔を近づけてくる。
「なぜ? 悩むことですか?」
「――。今、その必要は覚えない」
「それはおかしい。この後貴方がリートムを取り戻したいというなら、ここでカジョウを殺しておくのは当然では無いですか。それだけじゃない。
 バリマックの首領カジョウを殺したとなれば、貴方の名前はエリン中に知れわたりますよ。もし貴方に野心があるとすれば――例えば今マナーハンのコノ王が最も近いと言われているこの島の大王の座です、それが欲しいという野心があるとすれば、今夜貴方がカジョウを殺害――」
「モリット」
 相手を黙らせた。今夜初めて王らしく、己の判断を宣したのだ。
「今夜、私は目的のみを果たしたい。イドルの救出だ」
「……」
「この場でカジョウを殺害することは、卑怯だ。私は卑怯に手を汚したくない」
 呼吸三回分の、闇と静寂。
 モリットが、アーサフ王の顔を見入っている。
「エリン島に、このような王がいるとは思いませんでした。貴方に会えたことが、興味深いです。――でも、今夜カジョウを殺すことは卑怯にはあたらないのでは?」
「黙れ。もう決めた」
 不服の色はまだモリットの表情にあった。だがそれをアーサフは許さなかった。
「早く済ませたい。行こう」
「――。分かりました。
 あの部屋の中にカジョウがいるのか奥方がいるのかは、神に任せましょう。その前に何より片づけなければならないのは、あの二人だ」
 再び彼らは前方を見捕えた。その表情を引き締めた。
 ゆっくりと、モリットの右手が胸元に伸びる。着古した胴着の一番奥から、小さな短剣を引き出した。
「貴方も剣を。王様」
「分かった」
「これから俺が独りで出ていき、不意を突いて右側の兵士を倒します。すぐさまもう一人が俺に襲い掛かるでしょうから、貴方はその時すかさず飛び出して下さい。二対一なら勝てる」
「待てっ。無謀だ。奴らは本物の兵士だぞ。一人目の不意打ちも難しいが、特に二人目の方は私が飛び出す前にお前が殺される危険が高い」
「なら聖天使にかけて、素早く俺を救ってください。奴らに声を出させないよう気を付けて」
「駄目だ! もう少し慎重な策を考え――」
「じゃあ行ってきます」
 途端、モリットは立ち上がった。石段の登ってしまう。息を止めて驚くアーサフの脳裏に素早く走る。夕刻のモリットの言葉。
“俺は確かな物事にしか動かないんですよ、貴方と違って”
「――っ」
 短いバリマック語が通廊に響いた。
モリットは小走りで通廊を進んでゆく。たちどころ、大柄な兵士二人が同時にモリットを見捕えた。磨き上げられた剣に手をかけた。
 モリットは止まる。耳障りなバリマック語が続く。モリットは立ち止まったままただ聞いている。まるでその外国語が解るかのように。
「突然済みません、ちょっと――」
 モリットが声を発した。再び歩を進め出した。
「いえ。変な者では無いです。ちょっとお話が――」
 アーサフは息を殺す。今、モリットがどんな顔をしているのかをどうしても見たいと欲する。
 いや。想像だけで十分だ。十分に想像できる。モリットの今の表情ならば、間違いなく無邪気な笑顔を見せつけながら歩んでいるの違いない。決して企みなんか無い。見た目の通りに純粋さしかもっていないと言いたげの、憎らしいほどに無害な笑顔を見せつけているに違いない。その笑顔のまま、通じるはずのないこちらの言葉を気にもせずに次々と喋り続けるはずだ。
「突然、こんな夜中に済みません。本当に済みません。ごめんなさい」
「――っ」
 モリットと兵士の距離はどんどん縮まってゆく。ついに兵士の突き出した剣の切っ先が今にも届きそうな位置にまで達した。
「――っ」
「済みません。実は、ちょっとお伝えしたいことがありまして。聞いて下さい」
 そこで立ち止まった。そして言った。当然のように。
「あそこの階段の所に、人が隠れていますよ」
 え?
 何だって?
 聞き違いか?
 違う。見ている。
「見えます? ほら、あそこ。階段の所」
 四十数歩の先、モリットがこちらを見ている。自分を。そして指差している。自分を。指を差したまま、右側の兵をこちらへ来るよう促している!
 あの……カラス! 並外れて狡猾な頭脳の!
 これまで二度疑い、二度信じなおし、そして三度目で完全に裏切られた。
「誰か男が一人、隠れているんです」
 なぜ――?
いや。当然じゃないか。
何者かは知らない。だが只者では無いのは判る。そしてあれほどの知恵だ。無力の王を助ける意図など、最初から無かった。最初から狙っていたんだろう、行方知れずのリートム王の首がもたらす金。それとも他に何かあるのか?
 モリットはしきりに言葉を解さない兵を促す。いよいよ人懐っこく相手の右腕を引っ張り出した。
 逃げるべきか――?
アーサフは凄まじい勢いで結論を探す。逃げるという選択は非現実的すぎる。この二人の兵士そしてモリットを振り切り、起こるであろう大騒ぎを突破して城外まで走り抜けるなど、モリットならばともかく自分には不可能であろう。例え奇跡的に逃げおおせたとしても、その後はどうする?
モリットと、一人の兵が足音を響かせて近づいてくる。
あと三十歩……二十五歩……二十歩……。
どうする? 逃げずに一度捕縛され、そのうえでカジョウと対峙するという選択しかないか? 他の選択は?
十五歩……十歩……。
足音は容赦なく近づいてくる。死という現実が、肌の上をひんやりと漂う。いや、それでも。
それでも、冷静に判断している自分がいる。今、自分はあのモリットを信用すべきと。なぜ?
“信じていない者と敵の只中に戻るなど愚かの……”
 ならば私は、あのカラスを信じるべきないか。今。
「その階段の下です」
 信じることで、ここまで来られた。裏切られたと思っても、しかし信じなおすことで。それでここまで。ならばそれが自分の――。
「ほら。見て」
 それが自分の強みだから。ならば――。
 瞬間、何も解からなかった。
 ドサッという巨大な音! 続き右腕に走った生暖かい感触。
「王様!」
 鼻を突いたのは血の臭いだった。自分の右腕にべったりと赤い血がついている。
 目を上げる。右の真横、階段の二段上、正にモリットに殺されて息絶えたばかりの男の顔があった。
「アーサフ様!」
 モリットの声の直後、猛烈な足音が響いた。アーサフは素早く立ち上がる。見る。
 そこでは今、モリットが二人目の兵に襲われる瞬間だった。太い腕がモリットの首を締めあげていた。
――モリットが殺される! と思った瞬間、躊躇は無い。踏み出し走る。手に短剣を握ったまま、そのまま走る。
 この時の相手の顔を、アーサフは生涯忘れないだろう。
 兵士は、彼の出現を全く予想していなかった。呆けたような表情の中、皮膚の凹凸、白目に走る赤い血管までがはっきりと見取れた。
 何も考えない。ただ握っていた短剣を、相手の胸に押し刺した。
 ……
 ゆっくりとガルドフ家のアーサフは振り向く。
 そこでは、壁に押し付けられて首を絞められていたモリットが、夢中で肺に空気を起こりこんでいた。崩れるように石床に座り込んでいる。ゼイゼイという不快な音が、闇の沈黙をわずかに破っている。
「……。モリット?」
「……」
「血が。私の剣……」
「上手くいきましたね」
 ようやく嗄れた声で言った。モリットは笑った。
「上手くいきました。計画通り、上手く」
 そうとも。上手くいく。お前の計画だ。
「怒っていますか?」
 こちらには一言も告げずに、だ。何度も騙し、こちらを餌として、その度にこちらがどれ程に恐怖と苦痛を感じているかは全く無視して、だ。
 だが、それでも構わない。なぜなら、それがこちらの目的成就につながるのだから。それに。やっぱり。
 今となってはお前を信じられるのだから。
「王様? 笑っているんですか?」
「――。お前の策だ。信じている」
「何です? よく聞こえなかった、何を?」
「さあ立て。行こう」
 アーサフは血に染まった右腕を差し出した。それを掴み、モリットは立つ。
「それで、しつこいようですが、カジョウの居室はまだ判っていないんです。そうあって欲しくないけど、でももしあの部屋に――」
「もしあの室内に奴がいても、気づかれない限りは余計な事はしない」
「本当にそれで良いんですか? 絶好の機会なのに?」
「それが私の意思だ」
「本当に?」
 もうアーサフは答えない。意は決まっている。
 そして二人は真っ直ぐに前を見る。数十歩先にある小さな扉を。
 通廊の明り取り窓からは、わずかな月光が射している。その光の中を、歩みだす。今頃になって初めて、己の心臓が強く鼓動しているのを自覚する。
 扉の前に達した。
 月光に鈍く照らされている鉄製の把手に、手をかけた。
鍵がかかっていなかった。
『もし奥方様でなく、カジョウだったらどうします?』
 そんなはずは無い。
 少女だ。あの黒い眼の、透くような微笑みの。愛して止まない自分の妻が、イドルが居るはずだ。
 もう躊躇しない。アーサフは把手を押す。カタリと小さな音がする。
 扉は滑らかに内側へと開いていった、




6・ イドルⅡ

 最初に目を貫いたのは、目映い光だった。
 室内の多量の燭台の光にアーサフは目が眩み、視界が白く変ずる。視界が戻ってくるまでには、もどかしい程に時間がかかる。時間がかかり、時間をかけ、光と闇はゆっくりと別れ、輪郭を結びだし……、
「……。イドル?」
 見慣れた輪郭があった。椅子に掛けている。見慣れた普段着のドレス。無造作に背に落とした髪。そして。
 顔だけが、こちらを向いている。驚きながらこちらを見ているのだ。
 変わっていない。
“御無事で。御帰還をお待ちしています”
 何も、変わっていない。城門を背景にしたあの光景から、全く変わっていない。身を切るようなこの十数日の時間の果て、アーサフを縛り続けた幻影は今、ついに実像となって表れたのだ。
 イドルは立ち上がった。何のていらいもない、驚きと、それを上回る強い感情をもって自分を見返してくる。その感情のままに今、微笑む。
「アーサフ様?」
「イドルっ」
 アーサフは即座に踏み出そうとし、
 そして動作が完全に止まった。
 ……悪寒は、足元から這い上がってきた。
生れた時から護ってくれている守護聖者が、この場で及んでついに自分を見捨てたのかとすら思った。凍えた思考の隅で、神を冒瀆する言葉すらよぎった。
もう一人の輪郭があったのだ。
 広々とした室内。簡素なタピスリーが垂れ下げられて仕切っている部屋の半ばから向こう側。冷徹な、しかし愉しむようなその表情が、明らかに見て取れた。バリマック人特有の薄い目の色が、真っ向から自分を見ていたのだ。
「――。貴様がガルドフ家のアーサフか」
「……。誰だ……」
 アーサフは尋ねてしまう。分っているのに。
「昼過ぎに、貴様が中庭を横切って入ってくるところをたまたま見かけていた。そういえば礼がまだだったな。鷹の子は受け取ったぞ」
「貴様、名前は……」
「初めて会うな。バリマックの首領・カジョウだ」
 その名を、名乗った。
 そんなことがあるのか?
 この部屋にいるのは、イドルか、カジョウか、どちらかのはずだ。その二者の選択に悩んだんじゃないか、賭けたんじゃないか。それが、両者が同時にいるなど、そんな可能性はありえなかったじゃないかっ。
 強張ったまま立ち尽くすアーサフの視界の真ん真ん中、カジョウは巨大な存在感を持っていた。
 すでにかなりの年配者と思われる。だが、不思議な曲線文様の刺繍で飾られた長衣の中、身体には隅々までピンと張り詰めたものが感じられた。白く変じ始めた長髪は一つにまとめられて、背中に長く垂らされていた。
そして何よりも、その目の眼光が凄まじい。薄い色合いの眼の力が凄まじいとしか表現しようのない、射抜かんばかりの鋭さだった。
これが、カジョウか。
エリン島の各地で略奪を繰り返し、小王達を恐れさせた男か。見事な素早さでリートムを侵略し、見事な手腕でこの地の為政に着手した男か。
自分がこれから、倒さなければならない男か。
「貴様が、カジョウか――」
 声が震えそうになるのを、強引に抑えつける。相手は、極めて流暢なエリン語をもって答えた。
「リートムのアーサフ・ガルドフ王は急いで帰国の途中、賊だか何やらの手で呆気なく殺害されたと聞いたがな。やはり噂とは当てにならないものだな」
「カジョウ――貴様……」
「成程。化けたものだ。そのみすぼらしい格好ならば確かにお前の素性には気づけない。よくここまで戻って来たものだ」
「貴様、ここで――、ここで私の妻と何を!」
 はっとイドルが顔色を変えた。小さな頬を赤くさせ、戸惑ったように夫を見た。
「いえ、アーサフ様、カジョウ殿は――カジョウ殿は時折このように私の部屋を訪れてくださって、色々なお話を……」
「話?」
「街のことを話して下さいます。リートムの街をこの先どうしていくかと。なるべく早く国内を安定させ、昔以上の活気を取り戻させたいと。
 それからバリマックの方の故郷についてのお話とか。今夜は私に、不自由が長びいていることに対するご説明と謝罪を伝えに来て下さいました」
「謝罪? この男はお前に誤ったのか?」
「はい。カジョウ殿はいつも、私や城の者たちに気遣ってくださいます。私も城内でしたら自由にさせてもらっています。私侍女達や、下男や料理番達も、ここを去るか残るかを好きに選ばせてもらいましたし」
「――」
「アーサフ様?」
 アーサフの顔が混乱にゆがめられている。それを見ながらカジョウは露骨な小馬鹿を表情にした
「どうだ? 下衆の勘繰りは外れたか? それとも何夜かを離れていた以上、もう妻の言葉は信じられないか?」
 途端、イドルの純朴な顔が羞恥に転じた。アーサフも同じだ。己が思い立ってしまった失礼な思考、そしてそれを見透かされたことへの羞恥に、唇を噛んでしまった。その顔を面白がりながら、カジョウはいよいよ面白げに口角を引き上げて皮肉に微笑む。
 ……そして笑みは消えた。
 その時、空気が張り詰めだしたのをアーサフは感じた。
僅かばかりの静寂が続き、そしてそれを破って、カジョウのエリン語が響いた。
「わざわざ戻ってくるとはな」
 カジョウは、椅子からゆっくりと立ち上がった。
 大柄の体躯に、後方の明かりがさえぎられた。その存在がかもしだす迫力は、単に体躯の問題だけではない。この男の経験や頭脳や自信や、そのようなものが外ににじみ出てきて周囲を圧してくる。アーサフに、相手が自分をはるかに上回る力量者であることを実感させる。目に見える形の圧力で、迫ってくる。
 ごくりと、アーサフは固い唾を飲み下した。動揺しているはずなのに、自分の思考は今、十分に機能を続け冷静に判断を下した。
“一体この男のどこが蛮族だって?
 この男は、完璧な首領だ 完璧な力量の、第一級の男だ”
「そのまま姿をくらませていれば良かったものを。そうすれば私も探さなかったものを。
 妻を自ら救出に来るとは美談に響くが、実際には単に無謀な愚行だ。己が王で、この先にリートムを奪回するという最優先の義務があるとは思わなかったのか? 王こそが、常に公の立場に立って行動することが要求されるというのに、そんなことすら認識していなかったのか? 貴様は馬鹿者か?」
「……」
「妻の救出ならば、どうして臣下に任せなかったんだ。それとも貴様の臣下達はよほど信頼に足らない無能者ばかりなのか?」
「――黙れ。違う」
「本当に愚かとしか言いようがない。救出に失敗した場合については、何か考えていたのか? 実際今、貴様は失敗した訳だが、この先事態がどう進むのか予測したのか? リートムの未来がどうなるのか考えたのか?」
「――」
「加えて貴様の存在だ。今、こうなっては私も貴様を放置しておく訳にはいかない。そのくらいは理解できるな、貴様も」
「――」
「貴様は完全に失敗した」
「――失敗」
「失敗だ」
 そして今。カジョウは滑るような一歩でアーサフに近づいた。
 最大級の警戒が、アーサフの体内に響く。
眼は、相手に吸い寄せられる。視界の中でカジョウの鋭く輝く淡色の眼が自分を貫いてくる。さらに一歩近づいてくるのが判る。
 判る。思考が判断する。この相手が、年齢にもかかわらず相当の身体能力と自信を持っているということ。おそらく戦闘の能力において自分を上回っているだろうということ。
“やられる。このままではやられる”
 警戒の感覚が妙に冷静に告げる。だから、
“だから、今は戦う”
 だから、の後の句は、自分でも不思議なくらい真っ直ぐに出てきた。
 アーサフの右手が、胸元に伸びる。血のシミが付いた短剣を、ゆっくりと懐から引き出す。
 途端、カジョウの眼付が変わった。
「ガルドフ家のアーサフ。本気でここで命を捨てる気か?」
「……」
「どこまで愚かなんだ」
「……」
「――。――」
 バリマック語の見耳障りな響き。それは祈祷の句か? 呪詛の句か? もっと口汚い嘲笑の句なのか?
カジョウは卓の脇に立てかけてあった長い剣を握った。右手の中で慎重に握りなおした。ゆっくりと一歩、動き出した。
 にじるようにアーサフは一歩下がる。下がる必要は無いはずが、本能的に下がってしまう。それ程に相手の気迫に押されてしまう。
“自分が今やること”
 ちらりと視線がカジョウの背後の窓に流れた瞬間、思った。こんな時だというのに、窓の外の夜空、夜空に僅かに浮かんだ星を見て、思った。遡った。この数日が。
 あの、唐突に雲が切れ月の現れた夜空。その前の、顔。
 マクラリの冷徹な顔。現実を的確にとらえた冷静な。
 ディエジの顔。あの表情。
“お前が今帰還して、何ができる? それが今お前のすることなのか、アーサフ?”
「殺されるために戻ってくるとはな」
 さらに数歩進み出る。その淡色の眼が明確に殺意を抱いているが判る。
“今お前がするべきは、そんなことじゃないだろう? 違うか?”
 違う。少なくとも自分は殺されるために戻ってきたのではない。戻ってきたのは――
 部屋の隅、イドルは目の前で起こっている恐怖に固まり、絶句し、凍り付いてしまっている。だから、
 ――救わないと。彼女を。愛する自分の妻を。
 そのために戻ってきた。
 さらに一歩、カジョウが進み出る。
 アーサフは下がる。その背中が壁にぶつかった。
「もう後ろは無いぞ」
 壁の固い、冷やかな感触。
「そろそろお前の神に祈れ」
 自分が戻った理由。自分が今ここにいる理由。――だから、
 素早くアーサフは床を蹴った。短剣を振り上げた。
 体当たりをしようとし、その重心が揺らぐ。短剣に衝撃が走り、そのまま手からはじけ飛ばされる。剣が床に落ちた硬い音とイドルの短い悲鳴は、全く同時だった。
 素早く見上げた視界に赤色に埋まる。カジョウの赤い上衣。次の衝撃で身体が完全に平衡を失う。腰の脇を素早く蹴られた。力が落ち、横へと崩れる。
 倒れたら終わると、頭のどこかが必死で叫んだ。が、崩れる身体をもう制せない。目の前、カジョウが剣を振り上げた。今度こそ、剣に貫かれる。
 これで終わる。床に倒れた瞬間――終わる。
 だが。
 アーサフは倒れなかった。独りでは。
「立って!」
 殴ったのか? いや突き飛ばした? とにかくモリットはぎりぎりの機に部屋に飛び込んできた。カジョウの身体を床に倒した。アーサフの上に振り上げられていた剣を止めた。今、リートムとバリマックの二人の王は同時に床に突っ伏していた。
「王様! どうします? 早く!」
 甲高い声が急かす。アーサフはすぐさま見る。完全に不意の一撃を喰らったカジョウは今ようやく、苦痛と驚きに顔をゆがめながら上体を起こし始める。
「王様! 早く!」
 機だ。二度と来ない絶好の機だ。
 アーサフは迷った。頭の奥がズキズキと脈打ち、物を考えられない。他人事のようにじれったい程に思考が動かない。
「早く!」
 頭痛を押し殺す。思い出す。確認する。今、自分がやるべきこと。
 自分が、自分で決意して動いてきたこの数日間の、その最後の目的を思い出す。
“殺さねば! 今こそっ”
 そう叫ぼうと息を吸った時だ。
 アーサフは奇妙なものを見た。バリマックの首領が、吸い付くように突然の闖入者・モリットを見ていた。
「お前――」
 カジョウの眼が、モリットを観察している。訝しげに。疑うように。
「まさか。何故だ?」
 モリットは無言だ。異様に真剣な顔だ。何一つ動かさない。構えた真剣な顔でカジョウを見返している。
「会ったな。お前」
「――」
「なぜ今ここに? お前は確か――」
 いきなり! モリットは床を蹴る、襲い掛かる。
 が、カジョウも速かった。目指すは床に落ちたままの件だ。長衣の裾を翻し、長い腕を伸ばす。四本の指が銀色の刃にかかり、掌に掴んだ。
 やった! とカジョウは思っただろう。心に思わず、己の神への賛辞を呟いただろう。
 しかし、その祈りが彼の神へと送られる必要は無かった。
 カジョウはこと切れた。
 フィー川を遡りリートムへと押し寄せて占拠したバリマック族の首領、ガルドフ家のアーサフの全身全霊を苛み続けてきた巨大な敵は、あっけなく消えた。細い短剣のたった一撃がこの男を直接彼の神の所に送った。

「モリット。お前……」
 何故だろう。感謝するべきなのに。
 感謝ではない。本能的な嫌悪感が吐き気にようにアーサフの身体に突き上げた。
「お前。落ち着いているな」
 自分が言葉を選んでいることを自覚する。警戒を発動されているのを自覚する。
「カジョウを――奴を一突きで抹殺し、それでも落ち着いているな」
 真顔のまま、モリットは振り向いた。
「何を言いたいんですか?」
「私は貴様にカジョウを殺せとは言わなかった。少なくともあの時、奴を殺さなくても私を助けられたはずなのに、しかし有無もなく殺した。しかもこれ程鮮やかにっ」
 アーサフは床を指さす。
そこでは首の後ろ。人間の最も弱い部分を完璧に貫かれたカジョウが、血すらろくに流さずに転がっていた。
「奴は何かを言いかけ、その前に貴様に殺されてしまった。今私に分かるのは、カジョウと貴様が顔見知りだったという事だけだ」
「……。王様。今はここから即座に逃げ出すことを考えた方が良いのでは」
「モリットっ」
「以前、バリマックの野営地の辺りを、うろついていたことがありました。何かかっぱらえる物がないかと思って。その時たまたまカジョウと顔を合わせてしまったことがありました」
「それだけでカジョウはあんなに訝しがるのか? 全ての動きを止めて貴様に留意するのか!」
「王様。詳しい話なら後でしますので今は取り敢えず――」
「貴様、何者だ!」
「“カラスのモリット”」
 真っ向から少年は笑った。
 そして己の行うべきことを行う。モリットは素早い足で部屋の奥へ向かうと、この上なく柔らかい口調で発したのだ。
「奥方様。もう御心配は不要です。貴方様の夫君アーサフ王と私・狐のモリットとが、貴方様を救出するべく御迎えに上がりました」
 広い部屋の一番奥の壁際。 彼女は、崩れるように座り込んでいた。
 仔犬のように身を丸めて、怯え、震えていた。恐怖に固まってしまった表情のまま、しかし涙だけが赤い目からにじんでいた。
 あっとアーサフは自覚する。
 その通りだ。なんてことだ。いくら動転して冷静を欠いたとはいえ、この妻の事を忘れていたなんてっ。
「イドル、済まない」
 アーサフは素早く妻の前に行き膝をついた。まだ血の残る右手で、そっとその長い髪に触れた。
「怖がらせてしまった。済まない。もう泣かなくていいから……」
「――」
「ディエジもマクラリも無事だ。みなが待っている。私がお前を救い出して戻ってくるのを」
 イドルの怯えは止まらない。それでもすこし顔を上げて夫を見る。アーサフがあれ程に望んだ黒い眼が、泣きながら無言で自分を見てくる。
「イドル――」
 彼は妻を抱きしめた。強く抱かずにはいられなかった。その温もりと感触を確認せずにはいられなかった。
「もう震えなくていいから。もう終わったから」
離れようとしない。夫の胸から顔を上げようとしない。
「今見たものは、忘れればいい。全て忘れれば。もう恐ろしいことは起きない。
もう恐ろしいことなんて起きないんだ。私達はこのまま城を出て、隠れている陣営の許へ戻る。その後、リートムを取り戻す。すでにマナーハンのコノ王の援助も取り付けている。だからすぐに、元の通りの日々を取り戻してみせる」
「マナーハンの……父上の――」
「そうだ。だから、さあ立って」
 身体を支えながらアーサフは妻を絶たせる。いたわるようにその顔を見る。
 その時に気づいた。
 イドルは、自分を見ていない。小刻みに揺れる視線は、扉口の方を見ている。何を?
扉口の方をみているのだ。
――狐のモリットを。
「イドル?」
「……え?」
 慌てて視線は戻る。だが、夫の眼を拒み、下を向いてしまった。
「イドル? 何?」
「王様、急いでください。今ならまだ通廊にも誰もいません。窓を使わないで済む。早く引き上げましょう」
 モリットが言った。イドルがまた動揺に陥る。視線が不安定に揺れる。
「イドル……」
 アーサフの感覚の上に、何やら得体の知れない陰が生じ出した。疑念という暗く重苦しい感情が、ゆっくりと身体の内側を締め付け始めだした。
 それを、本人すら驚く賢明さが制する。
“今は、城から脱出することが最優先だ”
 不穏は、わだかまりは、後回しにしろ。今はともかく、この妻を連れて逃げることだけを考えろ。
 彼は妻の身体を支え、前方へと踏み出した。前方、扉口のモリットは、扉の握り手に手を伸ばす。それを引き開ける。
「――!」
 唐突に現れた血まみれの巨体。剥かれた眼の!
 そのバリマック衛兵が、目の前のモリットの胸倉を掴む。右手に剣を持って。外国語で叫ぶ! 剣を突き出す!
「モリットっ、剣が!」
「イリュード!」
 カラスがこの攻撃をかわすのは、いとも簡単だった。
バリマック兵はすでに瀕死だった。先ほど階段でだまし打たれた時には死に損なったものの、運命は変わらなかった。するりと身を左側にかわしたカラスがつきだした短剣によって、早々に神の許へ送られた。
 運命が変わったのは、モリット、イドル、そしてアーサフであった。
「“イリュード”……?」
 唐突に襲ってきた静寂を、アーサフが破る。
「その名前――。イドル? その名前、どうして……?」
 少女は、顔色と言葉を失っている。もう夫を見ることが出来ない。
「その名前、モリットが最初に名乗っていた名前だ。なぜお前が――今――」
 アーサフの視線が、ゆっくりと動いた。
 モリットは、
――全く変わっていない。
 扉口に、淡と立っていた。足許の遺体には目もくれない。今夜三度目の用を果たした短剣を握ったまま、アーサフの次の言葉を待っていた。アーサフを見ながら。
「どうしてだ。モリット。どうして貴様が名乗っていた名前をイドルが知っているんだ」
「――」
「さっきも訊いた。お前は何者だ」
「カラスのモリット」
「――」
「と言っても、もう駄目ですかね」
と、ニッコリとほほ笑んだ。
 カラスは、今開けたばかりの部屋の扉を再び閉め、錠前もまた下した。短い金属音と共に、アーサフは部屋に閉じ込められた。




7・ アーサフ

アーサフは、自分がいつになく冷静になっているのを自覚する。
 燭台の光が揺れていた。室内は、場違いなまでに静まり返っていた。
 自分が凄まじく動転すべき状況だとの予感はある。なのにアーサフは冷静に、落ち着き払った口調で繰り返した。
「貴様は誰だ。モリット」
 モリットもまた、全くの冷静だ。
「王様。今はこのまま俺をカラスとしておけば、その方が俺たちとイドルにとってよほど幸いだと思います」
「――」
 室内が静かだ。冷えた夜気が皮膚を撫でた。何とも言えない嫌な予感が強まる。今、世界の全てが大きく狂いだしそうだと。
「そうして下さい。王様」
 判る。モリットの意見は正しい。でも。それでも。
――真実を知らなければ。今。
 自分は王なのだから。今、この事態を差配しなければならないのは自分だ。
「イドル」
 その声に、びくりと妻は一歩退いた。
「お前に聞こう、イドル。どうしてイリュードという、モリットが名乗っていたもう一つの名前を知っていたんだ?」
「――、いえ、私……」
「名前だけじゃないな。顔を知っていた。
 お前は知っていたんだろう? 最初からモリットを見知っていた。カジョウもだ。知っていた。一体どういうことなんだ? 私の知らないところの真実は何なんだ?」
「……」
「イドル。私はリートムの王だ。今回のお前の救出策も、今後のリートムも行く末も、全て私が責任をとらなければならない。言ってくれ」
「……。私は、何も――知りません」
「イドルっ、言ってくれ! 嘘はつくな!」
 怒鳴り声に、少女の身体が強張った。そのまま夫との傍から逃げようとするのを、アーサフは腕を掴んで阻止した。
「イドルっ」
「離して下さいっ」
「イドル、言え!」
「離して!」
「すでに今夜血が流された。カジョウも死んだ。事態が大きく動いてしまったんだ、私は知る義務があるんだ、真実を!」
「私は知りませんっ、どうしていいのか、私――」
「どういう意味だ、イドル! 言え!」
「――!」
「早く言え! 早く!」
「放して!」
「言え! イドル!」
「イドルに聞いても無駄だよ」
 静かなモリットの声だ。
 その時、アーサフは自分の目を疑った。
 夫の手を振り切ったイドルが――神よ――モリットに抱きついた。
「――」
 動揺と混乱。なのに喉を突いた声は、妙に小声になった。
「……。なにが起きている」
「分からない?」
 モリットが真顔で見ている。アーサフには分らない。目の前で強く抱き合っているイドルとモリット。何が起きているんだ? 分らないって? 何が?
「分からない、王様?」
「――。何の事だ」
「俺たちは結構似ているらしいから、もしかしたら貴方は勘づくかもと思ったけど」
 目の前の二人を、凝視する。
 分らない方が良い――頭の隅でなぜかそう思った。
だが知りたい。真実。凝視する。目の前の二人を。
 ……自分の身体の奥底が冷えていくのが分かった。言葉を伴わず、唇が微かに動いてしまう。
(神よ……)
 乱れそうな声を抑え、言った。
「……。思い出した」
「――」
「マナーハンのコノ王には、息子が二人いた……。上の王子には私も一度会った。顔を見知っている。
 だが、残念ながら下の王子については、生まれつき病弱でほとんど人前に出られないとかで……公から忘れられていて、……私も顔を見ていない。名前すら、覚えていない」
「イリュードですよ。王様」
「そうだった。イリュード。コノ家のイリュード」
「そうです」
「……。つまり、貴様は最初に私と会った時、本当の名前を名乗っていた訳だ」
「そうですね、義理の弟殿。で、どうですか? 俺達は似ていますか?」
 二つの顔が、並んで自分を見ている。
 丸味を帯びた顎の線。高めの頬骨。柔らかで豊かな黒髪。よく見れば、どれもよく似ているじゃないか。いや、そんなものより何よりも。
 あの眼。
 常に周囲の物事を受け入れる眼。常に自分が受け入れられることを当然とする眼。常に肯定だけを示す眼。ゆえに見る者を鮮やかに印象付ける眼。
 そっくりじゃないか。この兄と妹は。
「……。似ている」
 指の先が冷えてゆくのが分かった。
怒るべきか? それとも嗤うべきか? 何一つ気づかなかった自分を。
 目の前、兄にすがりつくイドルもそれを受け止めるモリットも、無言で自分の言葉を待っていた。何を言えばいい?
「確かに……、会った時――」
「――」
「最初に会った時、そのから、なぜか顔が印象に残った……」
「そう?」
「そのはずだ。それに――。思い出した、あの川。あの時――溺れた時に、気を失う寸前になぜか気付いた。あの時、貴様とイドルが重なったんだ。確かに」
「そう。残念でしたね。その後貴方は眠りこけてしまった。すっかり俺達が似ているなんてことは忘れてしまった訳だ」
「モリット」
 もっと混乱していいはずだ。だがアーサフは自分でも驚くほどに冷静に確信を訊ねた。
「何故だ」
「何が?」
「なぜ貴様が――マナーハンの王子がこそ泥を名乗り、私に接近した?」
「長い話になりますよ」
 あっさりと言った。義兄は。
「話しても構いませんが、後にする訳にはいきません? 再三言いますが、今なら楽にここから脱出出来ます。その方が良い」
「今、ここで話せ。今すぐ」
「分かりました」
 義兄は、イドルを手放した。妹が何かを口走ろうとするのを、制する。
 床に倒れている死者を跨がないよう大きく回って、部屋の最奥の壁際まで進んだ。そこに切り抜かれている小窓を開けると、まずは一度、月の残る城外の夜をうかがった。
 ……
「王様が最初にバリマックの攻撃の報を受け取ったのは、満月の日でしたよね」
「そうだ。野営で。日没の時」
「マナーハンのコノ王も、同じ日に急報を受け取りました。リートムに置いていた密偵からです。――あ、どうぞ椅子にかけて聞いて下さい。“奥方様”もどうぞ」
と告げられた途端、イドルが絶望的に哀し気な表情になったのを、兄のモリットは面白がるように見ていた。
「自分の娘が人質として城内に閉じ込められたと聞き、コノ王は驚きました。すぐに救出の策に動き出しました。度を逸した激怒と共に」
「それは王としても父親としても当然の感情だろう」
「と言うよりも、カジョウに出し抜かれたことが許せなかったんでしょう」
「――。なんの事だ?」
「ああ、済みません。順序が逆でしたね。
 今回、海賊のバリマック族が内陸の国リートムへ侵攻したのは、コノ王の陰謀です。王がカジョウに吹き込んで、リートム侵攻を実行させたんです」
「……。え?」
 言葉の意味が解らなかった。
目の前、小柄な義兄の輪郭が切り抜いたかのように浮かび上がっていた。
「どうしてって聞きたいんでしょう? 決まってますよ」
 待て。まだ完全に思考が回ってない。頭の芯がそう願うのを、アーサフは全身で堪える。
――駄目だ。駄目だ。早く。今聞かないと。今すぐ聞かないと。
「決まっているって……。いや、理解できないっ。私は王の娘婿だ!」
「娘婿だからですよ。そのために貴方に娘を嫁がせた。小国だけど肥えた土地をもつリートムの、まだ若くて未熟で力量に劣りそうな王に嫁がせたんですよ。リートムを併合するために。コノ王は」
「――」
 思考を、動かせ。現実を見ろ。
 もう逃げられないから。現実から。自分はリートムの王だから。
「貴方も気づいたでしょう? カジョウは決して蛮族の王なんかじゃない。エリン島への移住と交易を、確実な計画を持って算段していた。かなり優秀な為政者です。
でも、コノ王は残念ながら書簡でしかカジョウと接していない。だから相手の力量に気づけなかった。上手く自分の計略に乗せ、体よく利用しようとした。
 聞いています、王様?」
「――。聞いている」
「王の筋書きはこうでした。
 まずカジョウに、リートム王と軍勢がケルズとの戦役で街を留守にするのを教え、手引きをしてリートムを侵略させる。無論、イドルだけは無事に逃す約束で。その後、リートムの住民が蛮族の支配を恐れて動揺するのを待ち、かつて王妃であったイドルの王位継承権を旗印に掲げ、救国者としてマナーハンの軍勢が登場する。蛮族を蹴散らし、街を解放する。世間に誰にも文句を言われず、逆に感謝をされてリートムを手に収める。
 ところがね――」
 モリットは妹を見る。
もちろん、彼女は何一つ知らなかった。自分が父親の策略の道具に使われていたなど知るはずもなく、今は椅子にすら座らず、ただ立ち尽くすだけだった。無言で凍り付いた表情だというのに、涙だけがこぼれ始めていた。
「カジョウの方が一枚上手だったんですよ。イドルを人質として手元に残しおく策に出た。しかも予想外に、街に賢明な統治を敷いて、住民に受け入れられてしまった。
もしかしたらカジョウは、コノ王の策略について何か勘づいていたのかなあ。その辺りは一度、訊いてみたかったんだけどなあ」
と言いながら、平然と見降ろしている。つい先ほど、自分の手で殺したバリマック首領のことを。
「――」
 アーサフは、静かに言った。冷静な、静かな声で。
「モリット。いや。私の義兄のイリュード殿」
「モリットでいいですよ、今まで通り。何です?」
「続きを。次に利用されたのはこの私か」
「王様。貴方の件はコノ王にも計算外でした。
“リートム対ケルズの戦闘でリートム軍は大敗。アーサフ王は落命”
 それがコノ王の筋書きでした。勿論、戦闘の裏でケルズ側に充分な援助をすることは忘れずにです。
 ところが、まさか両軍の戦闘開始が遅れていたなんて。まさか無傷のアーサフ・ガルドフから自分の許に援助要請の書簡が届いたとき、コノ王は困惑してしまった訳で……。
 アーサフ王は、王の策略の邪魔になります。そこで、俺の出番となったんです」
「出番か」
「ええ」
「つまり、殺害者の出番か」
 ふと、モリットの眼がアーサフを見る。
 モリットは、驚きを覚えた。
ガルドフ家のアーサフが、強い意思と感情を示していた。生来の優しさゆえの、多くを受容するゆえのもろさが消えていた。運命とモリットに散々に振り回された結果、今、固く意思を見せつけていた。己のすべきことに何らの躊躇も消えていた。
 そしてアーサフは怒っていた!
 瞬間、モリットは出遅れる。猛然と歩を進めてきた相手に気を飲まれ、かわすことが出来なかった。思わずあっと声を漏らした時、薄闇に短剣の軌跡が走った。逃げ遅れたカラスを壁に押し付けると同時、アーサフの短剣が相手の喉元に的確に押し当てられていた。
 そして、静寂。
 長い、静寂。アーサフがモリットを固く見据え続けている。
「……。貴方のそんな強い顔を始めてみましたよ。王様」
 静寂とわずかな風の音。モリットとは常通りの明るい口調だった。
「取り敢えず、短剣を外してもらえませんか?」
「まさかこのまま黙って貴様に殺される訳にはいかない。散々に翻弄され、愚弄された挙句に殺されるなど」
「俺は貴方を殺すなんて言ってませんよ」
「コノ王が言ったはずだ」
「それは当然ですよ。王様。
 ディエジさんやマクラリ将が貴方の単独行動を止めようとしたのと同じように、当然です。カジョウがヨアンズ将を絞首刑にしたように、当然です。そうでしょう?」
「そうだな。そして私がここで裏切者であり私を暗殺しようとする貴様を逆に抹殺するのも当然だ」
「そうですね。でも、ここで私を殺すのは、貴方にとって得策ではありません。
 だって貴方の力だけでこの城から脱出できます?」
「――」
「元々今回の行動の目的は、イドルを無事に救出することでしょう? 今から貴方はイドルと共に、安全な場まで逃げなげればいけない。無謀な強行突破など試みてあなたが落命したら、イドルが可哀そうだ。貴方のことを心底から愛しているのに、可哀そうですよ。本当に」
 助命の為の舌先ではない。この期に及んでまだ本心から述べている。それが理解できてしまう。腹立たしいことに。
 アーサフは、短剣を押し付けるの力を強める。己がこれから成すべきことを、頭の中で確認する。
「言え。ならばなぜ早々に私を殺さなかった」
「もう月が傾きだしてます。本当にまだ逃げなくて良いんですか」
「今、言え」
「分かりました。ただ――申し訳ありません、もう少しだけ剣を……」
 その通りだった。剣刃を突き当てられたモリットの首筋に、うっすらと赤い筋が生じていた。
 二歩分、アーサフは後退する。相手を見据える。相手の動きを寸分も逃す気はない。思考は冴えている。これから始まる真相を――現実を受け入れる準備はできている。
「モリット。言え」
 壁際に立つモリットは、一度窓の外を見た。月が静かに落ちだしていくのを確認した。 もう逃げる機は無いのか。柔らかな眼で、淡々と語り出した。
「俺はカラスのモリットなんて知らない。見たこともない。
貴方に近づくために、名前を騙っただけです。イドルがガルドフ城に幽閉されていると知った貴方が救出しようと躍起になっているだろうとは、目に見えているから。先日城に侵入したと評判の泥棒が現れれば、きっと貴方の目に留まると思って」
「――。その策に、その通りに私は陥った訳か」
「聖者イリュードの思し召し通り。そういう事でしょう」
「私が知りたいのは、なぜこんな面倒な手法を採ったかだ。貴様だったら、夜中に私の寝所に忍び込み、一撃で殺害出来ただろう? イドルの救出だって一人で充分に出来たはずだ。
 なぜわざわざ私を誘い出すような手間をかけたんだ。なぜ!」
「なぜって」
「言え」
「なぜと聞かれても……」
 初めて見た。
 モリットが困っている。答えに窮している。本心から。
 窓から入る夜風が冷たい。静寂の中、不思議とアーサフの思考も感覚も冴えてゆく。なぜか感知してしまう。この数日間、生命と未来を賭けて行動を共にしてきたこの裏切者が今感じていること。
「まあ確かに……、なぜでしょうね……。“王になるのを泣いて嫌がった王”。確かに最初から、気になってはいたけれど――」
「――」
「貴方が急遽、泣きながらリートムの王座を継いだ時、コノ王は思ったそうです。『近いうちに必ずリートムで政変が起こる。未熟で未経験で力量に劣る若い新王は必ず王座から追われる』。
 エリン島の他の王達も思ったはずです。おそらくガルドフ城の臣民たちですら、内心ではそう思ったのでは。
 なのに、貴方は臣下からも民衆からも信頼を得てしまった。未経験の大人しい若者のくせに、王座も領地も守り抜いてしまった」
「それがどうした」
「興味があった“王に成るのを泣いて嫌がった王”。俺と真逆だから。
俺は、マナーハンの王子だというのに、公に人前に出ることを禁じられた立場だった。なのに泣きながら王になった王子もいる。
何だか腹立たしくて、羨ましくて、だからすごく興味があった。だから即座に殺せとのコノ王の命は無視して、とりあえず貴方と行動を共にしたいと思った。素直に。それだけ」
「そういえばイドルもね。妹も、嫁いだ後にしょっちゅう手紙を送ってきていたんですよ。ガルドフ城での生活が楽しいって。幸せだって。
 大国マナーハンの城で充分な贅沢の中で育ってきたイドルが、こんな小さな国の小さな城での生活が楽しいって言ってくるんです。そして『アーサフ王を信頼している・愛している』と。だから貴方に興味があった」
「――」
「貴方に興味があって、貴方と一緒に行動することにして、そうしたら感情が変わった。感情が加わった」
素直な、純粋な眼でこちらを見ている。アーサフの感覚はとらえる。次に言うであろう言葉の予想が出来てしまう。
「端から貴方が腹立たしい。でも貴方を殺したくない。貴方を好きだから。それだけ」
――
 満月が、落ち始めている。
 空気が冷たい。わずかな風音がする。後は静寂。
 イドルは室内の片隅に立ったまま、声と表情を失って黙してしまっている。モリットも静かだ。常の明るさも懐っこさも隠れ、透き通るように静かだ。
 そしてアーサフは、
「もう充分だ」
 混乱をして良い状況のはずなのに、様々な事柄が明瞭にまとまって見通せる。
 モリットの言葉は真実だろう。
“たまたま好きになった、たまたま助命した”
 そんな適当で純粋な動機も、この少年にとっては真実なのだろう。その結果、自分は生き永らえた。まんまと罠にはめられ、引きずり回された挙句に、しかし生き抜いた。
 ならば自分も、やるべきことをやるだけだ。アーサフはさらに数歩、モリットから離れた。
「もう充分だ。私はこれからイドルをつれてここを出る。貴様は勝手にしろ。
 貴様のリートム王である私への行為は重罪だ。この場で刺殺するべきなんだろうが――それでも貴様は私の義兄だ。イドルの兄だ。イドルをもう悲しませたくない」
「ありがとうございます」
「最後にもう一つだけ。言え。貴様はこの後どうするんだ?」
「俺のこれからすることですか?」
 その時、モリットは大きく笑った。
 突然モリットは壁から松明を引き抜く。アーサフは一瞬で緊張する。
「何をする気だ!」
 素早く窓の外に身を伸ばした。大きく松明を振る。松明は輝く光となって夜明けの近づいた闇空に軌跡を残した。
「何をしたっ、モリット!」
 叫びと同時、アーサフは駆け寄る。有無もなくモリットを殴る。松明と共にモリットは床に倒れた。その上に覆いかぶさり、アーサフは襟首を掴んで激しく揺さぶる。
「今の松明は何だ! 何をした、答えろ!」
「襟……放してください」
「言えっ、早く言え!」
「……サティフを覚えています?」
「あの毛皮商人か? 僧院にやってきた。今、軍勢と共に僧院に留めてある?」
「うまく抜け出してます。今、彼が来ています。マナーハンの軍勢と共に」
 え?
 混乱したのは一瞬だった。思考が物凄い勢いで現実を受け入れる。
「どういう事か説明しろ!」
「サティフは、コノ王の重臣でして。――そんなに驚いた顔をしないでくださいよ。王様」
 驚いた顔? 確かに驚いている。だが受け入れられる。自分を取り巻いて今また、危機が起こっているんだ!
「なかなかに演技力でしたよね。俺も感心しましたよ、あの時。
 サティフは今、マナーハン軍勢と共にリートムの街まで来ています。当初の計画と、この数日間の密書のやり取りの通り。
 そして俺も今、イドルの救出に成功したと最後の合図を送りました。これで夜明けと共にバリマック軍勢への攻撃を開始できます」
「……何を!」
 思わず右腕を振り上げたくなるのを理性が抑えた。やらないと。今やるべき事!
「止めさせる。すぐに攻撃を止めさせろ」
「出来ません」
「やれっ、やらないのならこの場で殺す」
「止めてください。まだ言う事があります」
「まだあるのか? もう充分だろう? 完璧だよ、貴様とコノ王が組んで作った策は完璧だ。そのうえでまだあるのか!」
「あります。御免なさい。それとも言わずにおきますか?」
「言えっ」
「ターラ村に潜んでいる貴方の軍勢、もう消滅しています」
 え?
「サティフがマナーハンの軍勢を呼んで、押さえたはずです。中にいた貴方の臣下はマクラリ卿を始め全員捕虜としたはずです。ただディエジさんだけは異なるかも知れませんが」
 ディエジが、何だって?
「ディエジさんがガルドフ家に血筋だって、俺が報告したので。
 ガルドフの血筋、即ちリートムの継承権を持つ存在は、計画の邪魔です。おそらく今頃はもう、この地上に居ないのでは」
……。ディエジが、何だって?
 自分の指先が冷えていくのが分った。そして、自分の視界が変わっていくのも。狭い室内の薄暗い現実が消え、途方もなく広い記憶の中へと変わっていく。広い、明るい場の中の、途方もなく無数のディエジの姿。
 ……
 無駄のない体躯。まるで生来のように武衣を纏っている。
鋭く、きつい眼の印象。でもよく笑う。よく怒る。いつだって激しく、強く、真っ向から己を表現する。
ディエジ。
 記憶は、洪水のように押し寄せてくる。
 最後に見たのは、自分を見送ってくれた時か。霧の中。ぼやけていく輪郭。あれは何日前?
 勝手に奔走した自分を灌木の丘で見つけてくれた時は、あれは、安堵の表情だったのか? 泣き出しそうに微笑んでそして怒っていた表情。
 そしてあの運命の日。父と兄の死報を握って全速で走って来た日。長い通廊の砂色の石壁に響いた足音と、弾む息と、そして確固の声。
“お前が、王だ”
「王様? アーサフ様」
 声が随分遠い。違う、
 ディエジはアーサフ様などと言わない、いつもアーサフと呼び捨てた。どんな時も。
 あの時も。
 あれは何年前だ? 自分がはるかに子供だった時。名君として臣民たちの信頼に足る父親と、その名君の嫡子に相応しい素質の兄と、両者の存在感によってリートムの全てが安定していた時。その両者の存在感の陰で、誰もが地味で凡庸な自分に目を向けようとしなかった時。そんな、あの時。
 ……城の中庭で、女達の騒々しい声が上がっていた。
自分は、いつもの通り独りだった。独りで城内を歩いていた。独りで裏扉から庭へと出た瞬間だった。声が――太った洗濯女の大袈裟な声が響いた。
「無理よ! 誰か止めて! あの馬……無茶なっ、だって見ればすぐ判るじゃない、まだ全く調教されてないのよっ、あんなに気が荒くてほら、暴れてるのに!」
 馬がどうしたって? 今朝城に届けられたばかりの馬だ、それがどうしたって?
 ドサッと大きな音と、大きな騒ぎ声。
角を曲がった途端目に飛び込んできたのは、一人の少年がたった今落馬し、取り囲んだ数人が一斉に騒いでいる光景だった。
「だから言ったのよ! 分っていたことなのに――、止めたのに聞かないんだからっ。これじゃああと十年の内に十回は死神に言い寄られるわよ、あの子っ、向こう見ずにも程があるわ!」
 あの暴れている馬に乗ろうとしたのか。変な奴。馬鹿な奴。――と思いはしたが口にはしなかった。いつも通り。そのまま通り過ぎようとした。なのに。
「三日で乗って見せる」
 相手が自分を見ていた。泥がはねた顔を向け、彼は、真っ直ぐに自分を見ていたのだ。
「三日以内だ。あの馬、必ず乗って見せる」
「……。え?」
「お前も一緒にやれよ」
 あっさりと言われた。それだけでもう彼は、立ち上がり馬に向かう。まだ暴れている馬の手綱を握るのに夢中になる。
 それが生涯の友との出会いだった。
 ――その時から、アーサフの横にディエジはいた。
 常に強気と意志を見せつけていた。常に弱気の自分の横にいてくれた。常に怒り、苛立ち、笑い、その力強さで自分を補佐してくれた。常に、自分を護ってくれた。誰よりも大切な家族となっていた。
『信用していない者と敵のただ中に舞い戻るなんて、愚かだ』
 そう告げた顔は、妙に突き離していた。あれは何だったんだろう。
 似つかわしくない、諦めたかのような、褪せた色の眼。あれが、神様――ディエジの顔の見納めになったのか?
 ここで、アーサフの心象が止まった。記憶の中の友を追うことを止めた。
 感情の昂ぶりを自覚できない。左の目からわずかな涙が落ちたのにも気づかない。ずれてしまった焦点の中、目の前、現実のモリットだけが確固に映る。
「ディエジが、もうこの地上にいないって?」
 静かに、口を突いた。
 その問いに、モリットは明瞭に答えた。
「はい。おそらくディエジさんは死んだはずです」
「――嘘だ――!」
 絶叫が響いた。
 もうアーサフに躊躇は無い。怒りの衝動に全身を任せる。素早い数歩でモリットに達し、力限り相手を殴る。床に落とす。足元に崩れた相手の身体を、力づくで蹴り上げる。
「嘘だと言え――!」
 制止が聞かない。残酷な自分を自覚出来ない。夢中で蹴り続ける。相手の口から潰された息の音それとわずかな赤い血が漏れるのを確認する。
「止めて……っ」
 悲痛な声が漏れる。それも無視する。“無駄な血を流させるのは卑怯”、かつてそう言った自分が、躊躇の一片も無く蹴り続ける。
 床に落ちたままの松明の火が照らす。モリットの口の血、そして苦痛にさらされた顔。初めて見る、絶望の表情。苦痛に裂かれ、もう声もかすれる。
「止め……、殺すのは止めて、俺を……」
「黙れ――っ」
 かすれた、死にかけた猫じみた声。それでもアーサフは蹴る。
「もう俺を――殺しても……貴方に不利で、何の得……、止めて……っ」
「貴様は――殺したんだっ、黙れ! 嘘と言え――!」
「貴方の得には……、王様――」
「嘘と言え! 殺してやる、貴様を――」
「止め……」
「止めて」
 一瞬、虚を突かれ動きが止まる。
 振り向く。その声、背後からの。妻が発した小さな声。
 イドルが見ている。自分を見ている。色を失った強張った眼で、それでも懸命に自分を見ている。恐怖と恐慌と怒りを真っ向に見せながら。強く強張った眼で。
 なぜだ? 自分はディエジを失ったのに。なのにこの妻は自分を止めようとするのか?
 あんなに愛らしい少女が今、自分の意図を止めようとするのか? 止めろ。その目、強く自分を責めるな。これ以上混乱させるな。
「黙っていろ、イドルっ」
「兄はマナーハンの為にやったのに、貴方と同じ、国の為に力を尽くして――、止めて、殺さないで――私の兄ですっ」
「黙れ! 逆らうな――奴はディエジを殺したっ、それ――」
 瞬間、アーサフの口が止まった。
 目を疑う。絶叫が喉を突く。
「止めろ――! 燃える!」
 炎が上がっている。イドルが悲鳴が響く。イドルが燃えている。イドルの青色のドレスの裾を、赤い炎が舐めている。そのすぐ横に松明が。たった今モリットが投げつけた松明が。
「神様――っ、アーサフ様――!」
 恐慌の声が響く。だが恐怖で立ち上がれない。床に座り込んだまま夢中でアーサフを見る。
 アーサフも夢中で手を伸ばす。妻を救うべき夢中で踏み出そうとする。しかし、
 それすら邪魔をするのか!
「放せ!」
 放さない。
「放せ――狂ってるのか、モリット! 妹を燃やす気か――!」
 それでもモリットは放さない。あれ程に痛めつけられたというのにそれでもアーサフの背中にしがみついて放さない。自分の欲するもの――、アーサフが胴着の胸元に挟んでいる短剣を手に入れるまで、決して放そうとしない。
「放せ――っ、イドルが――!」
 体当たりで背中を壁にぶつける。その直前、モリットは短剣を奪った。途端、背から振り落とされた。
 自由となったアーサフは走る。妻の許に達するや、とにかく手近にあった長椅子のクッションを掴む。白い煙を吐きながら青いドレスの裾飾りを舐め続けていた炎を、狂ったように叩き消していった。
「アーサフ様っ」
 イドルが泣いていた。泣きながら夫に抱きついてきた。そしてアーサフも気づくと涙を落していた。あまりにも有り得ない現実の展開に、感情と思考の整理がつかなかった。
 イドル。可哀想に。実の兄に殺られかけるなんて。
「イドル……可哀想に。可哀想な――。でも」
 でも。どうして? 可哀想に。でも、なぜ?
「でも、なぜ、言ってくれなかったんだ? だって、もし、教えてくれたてたら――」
 そう。可哀想に。でも、なぜ。なぜ? もし最初の瞬間に告げてくれていれば。
「もし教えてくれていたら……。最初の瞬間に、モリットが自分の兄だって、あの時に言ってくれたら……真実を……」
 真実を知らされていたら、現実は変わっていたのか?
 兄の火を付けられるなんていう悲惨な現実を妻に味あわずに済んだのか? そして、
「なぜ言ってくれなかった? もう泣かないで――。そして答えてくれ、
 やはりお前にとっては――マナーハンが、コノ家の方が大切だったのか? 夫と兄とでは兄を方が大切だったのか?」
 それを聞いて何になる? 少しは現実が変わるのか?
「私が心から愛しているように、お前も私を愛してくれているものだと思って、そう思って――だから皆を振り払って……ディエジを振り払ってまで、そうしてここまで来たのに。
お前に愛されていると信じてここまで――」
 それを聞いてどうなるんだ? 現実が変わるのか? 敗者へと墜ちていく自分が救われるのか?
 胸元、イドルが顔をあげた。泣き顔のまましかしはっきりと言った。
「アーサフ様、神様――。ごめんなさい、でも責めないでっ」
 責めているのか? 彼女にこの自体の責任を負わせているのか?
「あの時、だってあの時はあまりに突然で……何が起きているのか分らなくて、混乱して――だって、
 何をすれば一番いいのかなんて分からなかったのに、リートムとマナーハン、どちらかを選ぶ羽目になっているかなんて分からなかったのに……」
「イドル……」
「リートムもマナーハンも、貴方も――兄も大切です。それだから――。
何が起こっているのかなんて全く分からなかったのに……」
「王様。イドルを責めないで下さい」
 顔をあげて見る。
 モリットは、すぐ自分の横にいた。切ってしまった唇から血をにじませ、激しく消耗した態ではあったが、しかし右手にしっかりと奪った短剣を握っていた。その切っ先を確実に自分の方へ向けていた。
「イドルは本当に何も知らなかったんですよ。だから、混乱しただけだから。それだけだから」
「……」
「貴方への愛情とか、マナーハンの父親とか祖国とか、イドルにとっては全てが本当です。責めないで下さい。可哀想です。混乱して判断なんてできなかっただけだから」
「――。そうかも、知れない」
 そうかも知れない。
 混乱して判断が出来なくなった。それでは責められない。
 自分もそうだったから。唐突に襲いかかってきた敵――運命を前に、無様にもがき続けていたえはないか。その結果がこれなのだから。
 イドルが泣いている。顔を歪ませ、嗚咽している。
 一緒じゃないか。この少女も今、自分の犯した失敗を猛烈に悔いている。自分の無力さに苛まれ、感情を制御できなくなっている。
 自分と一緒だ。責めるわけにはいかない。
「……。そうだな」
「王様。誤解しないで下さい。俺はイドルが大好きです。大切です。
 松明を投げつけたのは、ああでもしないと俺が本当に貴方に殺されると思ったから。それだけです。俺はここで天国に送られる気は無いから」
 常の通り、和やかに言う。常の通り、万全の自信を見せつけて。
 そして言った。
「俺の勝ちです」
 静かな勝利宣言だった。
「お前の勝ちだな。――私は負けた」
 淡々と、応えた。皮肉でもくやしさでもない。
モリットの見事な勝利への、素直な賛辞であった。
 ……
「じゃあ王様。そろそろイドルに別れを言って下さい」
 現実。窓の外から小さな物音が聞こえだした。城外で何かが起き始めているのに城の守備兵が気付きだしたのだろうか。
「夜明けと同時に、コノ王の軍勢が突入してきます。もう逃げ切るには時間がありません。イドルは取り合えず城内のどこかに隠し置きます。昨夜厨房の婆さんと喋っていたら、厨房の地下には貯蔵穴があるそうだから。
 俺はすぐに雑魚寝に戻らなきゃ。城内に残ってバリマック側の動きを見なくちゃ。もっとももうカジョウもいないし、コノ王の軍勢は万全の準備をしているし、おそらくすぐに決着はつくでしょうけどね。
 だんだん物音が大きくなってきた。急がないと。ここにもすぐ人が来る」
 ならば私は――
 アーサフがそう言おうとした直前だった。
 声が、喉で止まった。
 モリットが強い眼で自分を見ていた。
 その足が猫のように音を立てず一歩を進めてきた。右手に握られている短剣の刃が、冷やかに光を返した。
 その光よりも冷えた、モリットの眼。
“死”
 今、この場に至るまでの間に何度となく味わってきた死の予感。それに伴う首筋のピリピリとした感触。
 それに対してアーサフは真っ向から対抗する。
(多分、勝てない)
 相手の実力はもう判っている。おそらく自分が勝てないことも。
 だが、ただ殺される気は無い。己の出来るところまで己で進む。歪んでしまった命運を、己が出来る限り切り進む。
 モリットの真剣な眼が、自分を見ている。それをアーサフも見返す。相手の漆黒に輝く眼と手に握る短剣の切っ先を見続ける。
 切り抜いてやる。出来るところまでを成し遂げる。リートムの王に相応しく。
 相手はゆっくりと近づいてくる。身をわずかにかがめる。相手の剣先を見る。それを奪い取るべく、身構える。剣先を見捕え――
 剣は、ゆっくりと差し出された。
「どうぞ」
 え? という声が僅かに喉からもれた。
「あとはお好きにどうぞ」
「私を、逃がすのか?」
「コノ王には、適当に言っておきますよ。早く消えて下さい」
「本当に逃がす気か、なぜ?」
「見てみたいから。あなたがこの後どう動くのか。何をするのか」
「……どういうことだ」
「言葉の通りですよ。でもそれ以上に、俺は貴方が憎くて、しかも好きですし」
 どういう事だ。そう思った。
だがもう考えている時間は無い。モリットが再び窓の方を指さす。そこでは夜明けが近い。浅い霧の乳色が薄っすらと浮かび上がり始めている。
渡された短剣を握り直す。
“殺すか? 殺すべきか?”
 迷った時間は僅かだった。今はこの相手を殺す力がない――だから今は殺さない
 ――今は。
 あっさりとアーサフは結論付けることが出来た。
「一つだけ。余計な事かもしれませんとが、提案を。
 その気がありましたら、散らばったリートムの豪族と兵達を集め直すことから始めたらどうですか。叶ったら再び旗を掲げて奪還を計って下さい。コノ王を驚かすのは面白そうだ」
「分かっている」
「俺の楽しみも増えますしね」
 モリットはいつもの通りニッコリと笑ったのであった。
 ……窓の外は明るさを増してゆく。
 外の物音、人声が明らかに大きくなってきている。城外での異変に、次々と皆が気づきだしている。
 アーサフは真っ直ぐに前方をみた。泣き顔のまま自分を見ている妻を、強く抱きしめた。自分でも意外な程に冷静に言った。
「イドル。さようなら。神のご加護を」
 妻は何も言わなかった。
 今、何を思っている? そう尋ねたかったが、それは余りに残酷な気がして出来なかった。ただ胸の中できつく抱きしめる。その感触だけはあの時と全く同じで、ゆえに冷やかな哀感があった。
“御無事で。お待ちしてます”
「お待ちしてます」
 そしてさらに、続けていった。
「ついて行きたい。でも一緒なら貴方は逃げ切れないから。だからお待ちしてます」
「……。そうだな」
「貴方が戻るまで、リートムを護っています。お待ちしてます。だから必ず戻ってきて」
 泣いているだけの少女が、そう言った。力を感じさせて。
 アーサフとイドルは、一度だけ強い口付けを交わした。
 カラスのモリットが、部屋の扉を開ける。
「城壁の北東の角が良いと思います。正面門と裏手のどちらの夜警からも一番遠くなる」
「分かっている。ここや私の城だ」
「そして昼までには、コノ王のものになります」
「貴様の望む通り、戻ってくる」
 アーサフは、強い笑顔を見せた。
 ガルドフ家のアーサフは、踏み出した。彼がすべき最初のことは、部屋を去ることであった。

【前半・終了】

エリン島 灌木の丘と霧の色

エリン島 灌木の丘と霧の色

  • 小説
  • 長編
  • ファンタジー
  • 冒険
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2020-07-02

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

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