【中編】夜のカフェテラス(13) 原稿用紙191枚
完結作品。201911完成。
(13)
外はすっかり暗くなっていて、ビルの合間の空は切り取ったように黒かった。その空を囲むビルの外壁は街の光に照らされて、病人の肌のように白く明るかった。しかしそれは見上げなければ気付くことはなくて、生活の視点において街を歩けば、夜間営業の商店や飲み屋や、様々な店の賑やかな明かりに満ちていて、笑い合うサラリーマンや、道の隅をうつむいて歩く女の人も、誰も彼もこの街はあたたかく受け入れて見えた。車を置いてあるコインパーキングに向かって、父さんは僕の少し前を先導して、僕はその背中を追って歩いていた。商店街をすぎて、賑やかな音や明かりが薄れて、裏路地に入ると、そのコインパーキングはあった。路地寄りに精算機があって、その横に並んで置かれたダイドーの自動販売機が、やけに明るく見えた。
精算機が見えたずいぶん手前で、僕は完全に足を止めていた。父さんは気付かずそのまましばらく歩いて、精算機のすぐ近くで財布を取り出そうとしていた。そこでようやく僕がいないのに気付いた。精算機の手前で立ち止まった父さんは、しばらく左右に頭を動かしてあたりの様子を探り、ゆっくり振り返ると僕の姿を発見した。父さんは怒ったり戸惑ったりする様子もなかったし、何をやっているんだと怒鳴ったりもしなかった。しばらく僕の様子を見て、それから落ち着いた足取りで僕の傍まで戻ってきた。僕達の脇には古びた電柱が立っていて、頭上に取り付けられた真新しいLEDの街灯が必要以上に明るくて、僕の周囲をステージのように明るく浮き上がらせていた。それから父さんは僕の前に辿り着くと、どうした、と笑った。僕はその笑顔に胸を痛めた。街灯が父さんの体の輪郭を白く浮き上がらせていた。
「昨日のあの話だろ」、と僕は足下を見ながら言った。「昨日のあの話だろ? その話をするために、今日は僕を連れ出したんだろ?」
父さんの足を見て、目を細めて、道の隅を見る。
「父さんはやっぱり、優秀な僕がいいかい?」と僕は言った。何だよ、優秀な僕って、と自嘲気味に思った。思わず言ってしまったのだ。一体、何を言っているんだ、自分で言っていて恥ずかしくないか? いくらなんでも自意識過剰にすぎるじゃないか。言葉にすると、これほど滑稽なセリフはない。そんなことを子供に言われて、親は何て答えればいいんだ? 僕が本当に言いたいのはそんなことではなかったはずだ。しかし止まらない。足下を見ていた目が更に細められ、口唇の端に皮肉な笑みが浮かぶ。「本当はがっかりしたんだろう? 自慢の息子が急に変わってしまって、失望しているんだろう?」
「いいや」と父さんは言った。「別にお前が優秀だろうと、周りに比べて劣っていようと、正しくても間違っていても、お前に対しての気持ちは特に変わらない」
目を開く。そして父さんの顔を見る。正面から僕の顔を見据えている。険しくもなく、穏やかというのでもない。じっと見据えている。
「確かにここ一週間ほどのお前はおかしかった」と父さんは言った。『入れ替わり』に気付かれていたのかと、僕は体を硬くした。しかし、そうではなかった。「最近のお前は顔は笑っていながら、いつもどこか泣き出しそうに見えた。小学生の頃に戻っちまったみたいにな」
そんなつもりはなかったから、僕は何と言ったらいいか分からずにいた。
「メシに誘ったのは、ただお前と久し振りに、何かうまいもんが食いたかっただけだよ」と父さんは言った。「それだけさ」
「成績が落ちたことは気にならないの?」
「それが一番だとは思わない。あんなのは選択肢の一つにすぎない」と父さんは言った。「やらなくていいとは言わない。大人でも学校や勉強なんて無意味だという人がいる。でも俺は、それは嘘だと思う。あれは、子供の可能性を閉ざさないために、親が初めて子供に与えられる選択肢だと思う。でもそれは、あくまで選択肢でしかないと思う……。
「お前が何かを必死で選ぼうとしているのは感じていたんだ。何かを考えていることだけは分かった。男が真剣に何かを考えて、自分で選んだんなら、俺に言うことは何もないよ。必要なかったから、やらなかったんだろ。だったら意味なんてないだろう」
父さんの目を見る。その表情は変わらない。僕を見据える。
「絵を描いているんだ」と少しためらいながら僕は言った。「美術部で」
「へえ、」と父さんが言う。「どんな絵なんだ?」
「油絵だよ、ゴッホが好きなんだ」
「ああ、いいよな、俺も好きだよ」
「『夜のカフェテラス』って絵に昔、感動して、」などと言いながら、高揚した気持ちに言葉が追い付かない。「いい絵が描きたいと思って、とにかく色々と勉強して、将来どうなりたいかまでは分からないけど、やれるだけやってみたいんだ」
「そうか、いいじゃないか」
「いいの?」
「何で俺に訊くんだ? 駄目な理由なんてあるかよ、お前が自分で選んだんだろう?」
僕は頷く。
「どんな結果になっても、人のせいにしないで、ちゃんと自分で引き受けられるんだろう?」
また頷く。口唇を噛む。
「いい絵が描けるといいな」
握った手の中で、爪が刺さる。
父さんの手の平が少しだけ僕の背中に触れて、さあ帰ろう、と促される。
どこまでも意識の底へ下りていって、形も意味もない感情の海に浸って、真理らしき何かをすくい上げて、手からこぼれ落ちて、ただただ近付きたくて、自己を超越しようと難しい論理の構築を試みて、崩れ、嘆き、意識しないで何気なくふっと手を伸ばしたら、本質的な解が気付いたら手の内にあるのではないかと期待して、手を開いて錯覚だと知り、本心は誰にも何も伝わらず、人は独りだと知り、なお情熱は衰えず、空回り、混乱し、絡み合い、複雑化し、何が本当に知りたかったことなのか見失い、ただただ昔の哀しい想いを思い出して、それも自己弁護に利用しているだけではないかと戦慄し、虚空を見詰める。
そんな難しいことではなかった。
たった一言で済んでしまった。
もう胸の中心はがらんどうではなかった。
寂しさもなかったし、満たされていた。
満たされて、溢れてしまう。
家に帰って僕はぬるい湯を張った風呂にゆっくりと浸かり、それから丁寧に体を洗った。寝間着に着替えて、自室で照明を点けたままベッドに倒れ込んだ。
目を閉じる。
風の音は聞こえない。
今度は照明を消して、しっかりとベッドに横になる。
カーテンの隙間から白い月明かりが漏れている。
明日は部活に出て、新しい絵を始めてみようと思う。
題材は何にしよう。
まだ分からない。
とにかく新しい絵が描きたい。
こちらの世界では絵の準備がしっかりとされていないようだから、まっさらなキャンヴァスに、丁寧にジェッソを塗るところから始めたいと思う。
そして僕はあたたかくやわらかな眠りの泥に、ゆっくりと沈んでいった。
【中編】夜のカフェテラス(13) 原稿用紙191枚
(14)へつづく