【中編】夜のカフェテラス(12) 原稿用紙191枚
完結作品。201911完成。
(12)
教師が黒板に数式を書き終えるのを待つあいだ、僕は机に頬杖をついて、教室に並ぶ同級生達のたくさんの白い背中を見ていた。ほとんどの生徒はしっかりと顔を上げて、黒板に注目していた。僕は自分の学校の、自分の教室の、自分の席に座って授業を受けていた。カツカツというチョークの黒板を叩く音が、教室に響いている。数式を書き終えると、教師は生徒に解説を求めて議論を促す。その様子を僕は眺めている。窓の外はよく晴れている。雲一つない。もうすぐ夏休みだ。
学校に行けば自分の机と椅子があるし、みんな僕の名前を知っている、帰る家もあるし、国籍もはっきりしている。自国の歴史だってそれなりに知っているし、そこまでマクロに見なくても、美術部に行けばやることだってある。将来を選択する自由だってそれほど制限されているわけではない。名指しで総理について、歴史に自分の名前を残したいだけの自己愛の強い売国奴だと批判しても、警察に捕まったりはしない。不法滞在の外国人を親に持つ子供みたいに、善良でやる気があっても、義務教育を終えた途端に違法な就業先を探すしかなくなるわけでもない。僕ならバイトでもすれば社会的な役割だって今でも得られるだろう。一人でもトイレで食事することはない。貧困もない。何も盗む必要はない。ほとんど揃っている。しかし孤独だった。
入れ替わる前と比べて、見た目には世界は何も変わらないのに、何故こうも僕は孤独なのだろうと思った。白い粉を少し落としながら響くチョークの音も、休憩時間に夏休みの計画について騒ぎ立てる女の子の声も、廊下を明るくする北側から入った、青っぽく落ち着いた光も、人のいない暗い下駄箱も。テルピン油の匂い。帰りに遠くグラウンドで野球部がみんなでホースを持って、音もなく宙に弧を描いて地面を濡らす白い放水も、バス停までの途中で公園から見える、木立の先の川も。ゆっくりとギアを変えて唸るバスのエンジン音。住宅街の人のいない路地。世界はこんなにも美しいというのに。……。
学校からの帰り道、地元のバス停を降りて家まで歩く途中に、高低差のある道と道とを短縮してつなげる、コンクリートのわりと急な階段がある。その日の帰りにその階段の前に立つと、階段を上りきったところに、人の姿を見た。モルタルより砂の多いコンクリートの地肌は、古びて黒っぽくざらざらとしていて、歩行者専用として他の乗り物の進入を阻んで、入り口と出口に黄色いポールがそれぞれ立っている。その階段はもう家のすぐ近くで、歩いて五分も行けばすぐ着いてしまう。いつも僕はその階段を帰り道に使っていた。他の道で帰ろうとすると大分、迂回することになる。その日も同じ道で帰る途中で、階段に一歩、足を踏み入れて見上げた時に、その人影に気付いたのだ。父さんだ。
階段を上がって右へ行くと駅の方に出られる。どうやら父さんも仕事帰りで駅からの途中でちょうど通りかかったらしかった。出勤時はこの道を使っていなかったはずだが、駅の出口によっては確かにこの道に出るルートもある。階段の先にある西の空は黄色く染まっていた。父さんは逆光になっていて今一つ表情が分かりにくかった。なおかつ逆光の分、いくぶん僕の方が気付くのが遅れた。その人影はふらっと現れて一瞬、通りすぎてしまいそうになったところを、こちらに気付いて立ち止まったのだ。その立ち止まった姿を僕は最初に発見したわけだ。その人影が父さんだと知って、今日はずいぶん帰りが早いな、と僕は思った。普段はもっと暗くなってから帰る。眩しくて目をしかめながら階段を上る僕を、父さんはずっと見守って待ってくれていた。ようやく父さんの横に立つと、夕日に照らされ、目尻に皺を寄せて笑う父さんの顔がよく見えた。
「今、帰りか」
「そう」と僕は言った。「早いね」
「たまにはな」と父さんは笑った。
それから肩を並べて家路を歩いた。家まではすぐだったし、大して話もしなかった。ただのんびりと歩いた。ただ並んで歩くだけで、滲むような嬉しさが湧いて出て、しかし、しびれるような苦しさが胸の奥に同居していて、はにかむような、浮き足立った気分になった。その安易に喜んでいる自分が嫌だった。まさか見透かされていやしないかと、父さんを見てみると、何でもなさそうな顔をしてのんびり歩いていた。その様子に安堵して、そしてまた前を見て歩いた。アスファルトや家々の庭木が夕日で黄色く輝いている。そういえば今まで定時で父さんが帰ってきても、電車の移動時間もあるから、どんなに早く帰っても六時半が精一杯というところだった。帰りが早いにしても、今日は少し早すぎるのではないかと思った。一体どうしたのだろうと、そんなことを考えている内に、そうこうして自宅が見えてきた。そこで突然、父さんが言った。
「じゃあ、何か食いに行こうか」
あまりに唐突だったから、父さんの言うところの正確な意味が、僕にはうまく理解できなかった。じゃあって何だ? 僕の理解が早いか遅いかではなく、その提案はやはりあまりに脈絡がなかった。不合理と言ってもいい。そんな話は昨日も今日も一切、出ていなかったのだ。
「どういうこと? 今から外食したいってこと?」
「何かうまいもん、食わせてやるよ」
「何で急にそうなったの?」
「たまには、いいだろ」
「いや、いいけど、別に」
ほとんどあっけにとられている内に、気付いたら行くことになってしまった。嫌というわけではなかったが、段々と冷静になるにつれ、やはり平日の夕方から突然、家族で外食に行くというのは少し気が引けた。後悔というより心配の方が強くて、母さんだって夕飯の準備をしてしまっているはずだし、行くにしても妹は陸上部で帰りが遅い。ここから更にずいぶんと待たなければならない。陸上部で目いっぱい腹を空かせて帰ってきて、そこからようやく家族みんなで移動して、注文して、更に注文の品が出てくるのを待って、というのでは妹も辛いだろうと思った。きっと母さんも反対するだろうと思って帰ってみると、予想に反してすんなり母さんはその話を聞き入れてしまった。
ただし外食に行くことになったのは僕と父さんだけだった。家に帰ってすぐ、父さんはキッチンカウンター越しに、「じゃあ、メシ食ってくるよ」と母さんに告げた。父さんが言ったのは「外に食べに行こう」ではなく、「食ってくるよ」だった。提案ではなく、報告だ。その言い方だと、最初から母さんは頭数から除外されていた。しかも家事をしていた母さんは特に驚いた様子もなく、顔を上げもしないで手を動かしたまま、うん、そう、と言った。うん、そう? 突然、特に理由もなく外食してくると告げられて、普通はそんな反応をするだろうか。少しくらい驚いて、理由を訊くとか、せめてどこに食べに行くのかと訊きそうなものだ。それを、うん、そう?
「真澄と二人で行くの?」
「うん、何か食ってくるよ」
年式の古い紺色のプジョー306カブリオレに乗せられて、僕達は駅前に向かって家を出た。ソフトトップの幌は閉めたままだった。本革のシートは滑りやすく、あまり体が安定しなかった。昔に流行ってから、ずっと気に入って乗っているということだった。車検代だけで、もっといい車に乗れると、このあいだ母さんは呆れ顔で笑っていた。こちらの世界にきてプジョーに乗ったのは、その時が初めてだった。前の世界では、駐車場はいつも空いていて、ものを運び入れる時に仮の荷物置きのスペースにするくらいしか使い道がなかった。プジョーはオートマチックの変速の度に、かくん、とぎこちなく、わずかに車体を震わせた。空は晴れているのに、少しだけ小雨が降った。ワイパーを動かすと、すぐに雨はやんだ。フロントガラスが普通の車より少し小さく感じた。
車中では全く会話はなかった。僕が一人で不機嫌にしていただけではない。父さんも父さんで何も言ってこなかった。運転用の眼鏡をかけて、ドアパネルに頬杖をついた姿勢のまま、ただ道の先を見ていた。こんなに無口だったのか、と初めて知った。しかし嫌ではなかった。今まであまりこの街で車に乗る機会がなかったから、車からの景色を新鮮に感じた。このプジョーが特別そういう車なのかもしれないが、バスよりずいぶん視線が低い気がした。よく知っている景色がうしろに流れていった。郊外ではあるが、ほとんど電車で移動できたし、バスもあるし、近隣なら自転車で事足りたから、今まで家に車がなくても別段、不便は感じなかった。車もいいものだなと思った。
「ねえ、この屋根、開くの?」
「開くよ」
父さんは路肩に車を停めると、運転席の頭上のロックを一ヶ所、次に僕の上に覆い被さるようにして助手席のロックをもう一ヶ所、それぞれ外して、それから二人の席のあいだにある、コンソールボックスのボタンを押して屋根を開けた。ぎこちなく、ゆっくりとわずかに震えながら、その屋根は折り畳まれながら開かれて、背後の収納にすっぽりおさまった。それからまた走り出すと、車内に風が入った。頭上を見ると、まだなんとか明るい日の暮れた空が見えた。
「また雨が降ったら、濡れるかな」
「さっきくらいのなら、大丈夫だろ」
道中に何か食べたいものがあるか訊かれたが、特にそういうものはなかった。ない! と僕は声を張った。屋根を開けると風で声が聞き取りづらくて、お互い声が少し大きくなった。そうか、とだけ父さんは答えて、そのまま車を走らせた。屋根を開けるとゴーカートに乗ったようで市街地でも気持ちよかった。オープンカーといってもエンジンも排気音も静かで、乗り心地も接地感がやわらかで申し分なかった。すっかり僕は気をよくしていた。僕の住む街は駅の反対が住宅地で、その反対が商店街もあって店が集まり栄えていた。車は線路を越えてその商店街の側まで走っていって、ビルの合間のコインパーキングに停められた。また屋根を電動で閉めてしまうと、父さんに連れられてコインパーキングからしばらく歩いて一軒の焼き肉屋に入った。
車を降りた時点で焼き肉にしようと聞かされてはいたものの、連れて行かれたのはいかにも高そうな焼き肉屋だった。明らかに僕の想定を越えていた。先にイメージしていたのは、もっといかにもチェーン店というぎらぎらと明るい外観で、食い放題が用意されていて、子供が通路を走り回っていて、肉を焼くと異常に透明の脂がびしゃびしゃと滴り落ちて、みだりに落ちた脂が炎をあげる店だ。ところが店内は静かで、何かを誤魔化すような意図を感じる大音量のBGMも流れていないし、席ごとに半透明の間仕切りで遮られた個室になっていて、落ち着いた空間が約束されていた。他の高い店を知らないから実際はどうか知らないが、価格帯が高まれば高まるほど店内装飾の金色を使う比率が高まる気がする。メニューにある一品、一品もかなりいい値だった。同じ金額をチェーン店で使ったら腹を壊しそうだ。分厚いカバーを使ったメニューを眺めていると、父さんが「もう、いいか」と言うので、注文用のタブレットはどこかと思ったら、「すいません!」と父さんが声を張って、老紳士のような店員が手書きの注文票を持ってやってきた。
値段に気が引けていたら父さんは最初から結構な量を注文していた。「お前は?」と訊かれたが、大体よく食べそうなものは一通り注文されていたから、「また後で頼むよ」と遠慮した。店内は少し冷房がききすぎていた。食べている人を基準に温度設定しているからだ。特に注文していなかったが、黒烏龍茶が出てきた。この店では水の代わりらしい。父さんは注文を終えると、また黙ってしまった。僕はスマホで適当にブラウジングしたりして待ち時間を潰した。父さんは腕組みをして、ほとんどぼんやりしていたが、時折細めた目で天井を睨んで何事か考えているような素振りを見せたり、目を閉じてぐるぐると首を回したりしていた。こんな高そうな店いいの、と訊いてみたら、二人分なら大したことないよ、と言った。それからすぐに注文の品が運ばれてきた。
確かにその店の焼き肉はうまかった。焼いて食べてみると肉の厚みもあって、噛み応えがある上に、かつやわらかい。筋っぽくない。鮮度が高く、あまり焼きすぎない内に口に運ぶと、臭みもなくすっと喉を通っていく。独自のタレもにんにくがきいていてうまい。初めの内は遠慮して、なるべくゆっくり味わって食べるようにしていたが、焼けた肉を父さんがどんどん僕の空いている皿に入れてきて、次から次に焼き網に肉を載せていくものだから、遠慮していては追いつかなくて、途中から食い気に任せて、まだ焼けていなくて赤い内から、とにかくばくばくと頬張った。父さんも父さんで「おい、うめえな、これ」とか、「そのタン塩、もっととるか」と言いながら、あまり体も大きくない上に、歳も歳なのに、かなりのペースで焼いては食べていた。気付いたら二人で十人前を超えて平らげて、おまけにデザートに柚子アイスと杏仁豆腐まで胃袋に収めていた。
食べ終わって一息つくと、父さんは煙草を取り出して火を点けた。電子煙草ではなくて、昔ながらの紙巻き煙草だった。臙脂色のパッケージのラークだ。煙草なんて吸うの、と僕が言うと、外でだけだよ、と吐き出した煙草の、青紫色の煙の行方を眺めながら言った。それから、母さんに言うなよ、やめたことになってんだから、と付け加えた。体に悪いよ、と言おうとしたものの、野暮な気がしたのでやめた。
しばらく父さんはうまそうに煙草を吸っていた。僕は特に何もしないで、父さんが煙草を吸い終わるのを待った。スマホを見るわけでも、何か話題を投げかけるでもなかった。なんとなく店内の作りを見るともなしに見ていた。それから父さんは灰皿に短くなった煙草を押しつけながら言った。
「もういいか」
父さんは単にそろそろ店を出ようかと言っていただけだ。ところが僕はこの父さんの言葉で、瞬間的に混乱してしまっていた。それが何か、僕に言いたいことがあったんじゃないかと問われているようで、僕は肌を冷たくした。体の芯は熱いのに、肌の表面ばかりが冷たくて、肌を覆うじっとりとした嫌な汗をかいた。まさかそんなことを言っているわけがないのは分かっていたが、それでも僕はあらゆる言葉を失ってしまった。まるで生きる意味を失って、肉体だけ取り残されたように、ただぽかんとしてそこに座っていた。
「どうした、大丈夫か」
「いや、……どうもしないよ、大丈夫」とやっと僕は答えた。「うん、……ごめん、もういいよ」
レジに行くと例の老紳士が出てきて、ゆっくりとレジを打った。焼き肉屋より喫茶店をやった方が似合いそうに見えた。それからにこりともしないで、静かに「ありがとうございました」と言った。ご馳走さま、と父さんは言って、出口の引き戸を開けた。父さんの後に続いて、僕も店外に出た。このまま帰ったら何かが終わってしまう気がした。夏の夜の外気は、むっとした湿気を帯びて、どこか全く知らない街に立っているような気にさせた。
【中編】夜のカフェテラス(12) 原稿用紙191枚
(13)へつづく