【中編】夜のカフェテラス(10) 原稿用紙191枚

【中編】夜のカフェテラス(10) 原稿用紙191枚

完結作品。201911完成。

(10)

 夜のコンビニの飲食スペースに僕はいた。窓際に置かれた合板に白く化粧された安っぽいカウンター席で、横並びに背の高い椅子が五つ並んでいた。店内はよく冷えていて、屋外との温度差で結露して、窓ガラスは濡れて曇っていた。店内放送は人気の若手芸人を起用した、ラジオ番組のような構成の独自の宣伝をずっと流していた。カウンター席には僕と、仕事明けらしいひどく背の低い初老の警備員が赤ら顔をして座っていた。警備員の手元には、カップ酒とつまみの袋が置かれていた。酔ってはいたが迷惑をかけるような気配はなかった。酩酊して帰りが心配な程度だった。レジ店員は東南アジア系の若い男で、この酔った初老の警備員を、あまり気にはしていない様子だった。素直に与えられた業務に従事しているだけだった。
 僕はカウンター席で背中を丸めて突っ伏し、自分の腕を枕に目を閉じていた。意識はある。と思っている。三席離れた初老の警備員の気配も感じているし、店員の気配も感じている。時折、出入り口で自動ドアの開く音がする。それからレジのやり取り。流暢ではないが、はっきりと聞き取れる声でマニュアルに沿って応対している。また自動ドアの開く音。店内放送は何周目かしてしまって、聞き覚えのあるフレーズが繰り返されているのに気付く。おそらく僕は、まどろんでいたのだと思う。そうするつもりは全くなかった。街を歩き疲れて、ただ休んでいたのだ。コンビニでは菓子パンを一つと、紙パックの林檎ジュースを買った。うまくもないし、まずくもない。何の思い入れも喚起しない。何故、林檎ジュースだったのかも分からない。腹に流し込んで、ただ休もうと思っただけなのだ。
 夢だとは思わない。少なくとも最初は自分の意志で考えていたはずだ。父さんが亡くなった時のことだ。お通夜は自宅だったから、大勢の喪服の大人達が、家の中を歩き回っていた。手持ち無沙汰で僕は座り込んで、その様子を眺めている。黒いスラックス。黒いストッキング。たくさんの黒い足が僕の目の前を行きかっている。哀しくはない。少なくとも、この時点では。死については分かる。さすがに小学生にもなれば、概念としては理解できている。動かない父さんを目の前にすれば、否応なくそういうことだと分かる。手を握ってあげて、と誰かに促されて、力なく父さんの手に触れる。しかし亡くなった父さんを見ても、母さんや妹のように、わあわあと泣けない。別に辛くもないし、苦しくもない。絶望もない。強がっているわけでも、はすに構えているわけでもない。ただ事実が目の前にあっただけだ。人の想いとは無関係の、死という事実が。
 僕という少年はあまりに哀しみとは遠い場所にいた。何かが変わったという実感はなかった。僕は僕のままだった。そして周りの空気にもほとんど頓着していなかった。周りの大人達が慌ただしいから、少しは浮き足立っている面はあったかもしれない。それだけだ。つまらない思いで大人達のやり取りを眺める。家の中を見て回ったりする。病室から引き上げてきた荷物は、家の片隅にまとめられたまま、まだ片付けられていない。
 ねえ、お母さん、あのテレビ、どうするの? 僕の部屋に持っていっていい?
 疲れ切った顔の母さんに話しかける。僕が言うのは病室に置いていたワンセグ付ポータブルDVD再生機のことだ。その再生機を使って病院で見せてもらったアニメが僕は見たかったのだ。母さんはぼんやりとした目で僕を見た。
『あんた、何を言ってんの、こんな時に!』
 横から誰かに一喝される。母さんではない。叔母か誰かだったはずだが、正確には覚えていない。とにかく僕はそのように咎められたのだ。
『どういう時か分からないの!』
 もしかしたら、もっと違う言い方だったのかもしれない。それは今や僕の記憶の上の声でしかない。ただ、いくら常識を持ち出すにしても、それは子供に対して確かに心ない一言だったはずだ。当時、その言葉に僕はひどく傷付いたのだ。
 荷物が邪魔だから、片付けようと思っただけだよ!
 僕は叫んで、その場を走り去る。そして暗いクローゼットの奥に隠れて、自分の気持ちを確認する。自分の気持ちの正体を知りたいと思う。しかし幼い僕はその気持ちを言語化するすべを持たない。色々な感情がぐるぐると渦巻いている。きっと当時の僕はこう言いたかったはずだ。
 哀しいのが、そんなに偉いのか? 
 哀しまなければ、父さんを好きだったことにならないのか?
 そもそも泣き喚いたり、沈痛な面持ちでいたりすることが、本当に哀しいということなのか?
 素直に死を受け入れてしまった僕をどうしてお前らは否定できるんだ?
 しかし幼い僕はそれらの感情を言語化できない。ただ傷付くだけだ。
 それどころか、その傷は後(のち)に僕にある疑問をもたらす。葬式を終えて僕は日常に帰っていく。小学校に通う。四十九日を迎える。母さんが仕事を始める。毎日が慌ただしくなる。それも日常になる。夏休みには誰もいない遅い時間に起きて、一人でテレビを見る。妹はきっと外に一人で遊びに行っている。テレビアニメが終わって、ごろごろとして、アイスを食べて、漫画を読んで、窓の外を見る。木が風に揺れている。音は何もない。
 ずっと胸の真ん中が、ぽっかり空いてしまっているようだ。その時だけ風の音がする。
 言語化できない疑問が、一つの感情となって僕の心の奥に居座っている。まるでもう一人の僕が僕を見るように。
 泣かない。涙は出ない。枯れている。
 僕は感情の一部が、欠落しているのではないか?
 急にそら恐ろしくなる。
 本当は父さんが亡くなって、一つも哀しんではいないのではないか?
 上辺では父さんのことが好きだったというふりをしているだけで、実は何とも思っていなかったのではないか?
 そうでないなら、何故お前は泣かなかったんだ?
 さあ、何故だ?
 お前に人間らしいあたたかい気持ちはあるのか?
 そんなに不完全なお前は、人と言えるのか?
 人とは何だ?
 こんな僕を見て、父さんはどう思うだろう、と考えるようになる。
 何かを探し求めるようになる。
 父さんに見られても恥じない何かを。

 母さんはいつも仕事でいなかった。いつも一人で外に遊びに行っていた。宿題なんて、やった覚えがない。ゲームセンターに出入りして同じように放任された子供達と友達になった。一人になると本屋に通ってずっと立ち読みに耽る。書店員に迷惑がられて、注意されると、また別の本屋に行った。色々な漫画を読んだ。透明の袋でパッケージングされて中身の見られない本は、背表紙をずっと眺めていた。そしてゴッホの絵に出会った。
 何故、それを手にとったのかは今や覚えていない。当時はとにかく、興味を引いたら手当たり次第、触れるものは何でも触っていたのだと思う。画集というほど立派なものではない。平積みの雑誌だ。月ごとに西洋画の巨匠を特集していて、たまたまその時に特集されていたのがゴッホだったのだ。臙脂色の枠の中に、糸杉の木の上で、ぐるぐると空が渦巻いている絵が表紙に構成されていた。手にとって中を見た僕は衝撃を受ける。
 黄色。
 一面の麦畑の黄色。
 胸を貫く黄色。
 食い入るように僕はその雑誌を見る。ゆっくりとページをめくっていく。
 そしてあの絵に出会う。
 欠落と、喪失感を持て余す寂しい僕は、印刷物でしかないはずのその絵に、共鳴する。

『夜のカフェテラス』

 青い星空の下で、画面の中央、少し左寄りに、黄色いあたたかな明かりに包まれて、人々が談笑している。その中に一人の店員らしき人物が立ってオーダーをとるか何かしている。寂しい街路を歩いて、カフェの輪に入ろうとしているカップルもいる。通りすぎて街の暗がりに入っていく人。通りすがりの子供が大人の集うカフェの様子を見ている。
 石畳の街路の、離れた寂しい場所で、ゴッホはこのあたたかな風景を見ている。できることなら、そこにいたいと願っている。あのカフェテラスに。何も考えず、悩みもせず、不安も忘れて、笑い合っていたいと思う。絵筆を置いて、少し歩いて行きさえすれば、すぐにでもその輪の中に入って行けるはずだ。しかし、そこには、見た目には分からない、とてつもない断絶が横たわっている。おいそれとそこには入っていけない。いやたとえ入って行けたとして、馴染むことはない。異質なものを発見するはずだ。『あちら側』に行くことは到底、あたわない。ゴッホは知っている。『こちら側』に住んでいるのだと。それでも憧れて、描かずにはいられないのだ。
 僕はその紙の上の絵に自分を見出す。
 ああ、そうだ。
 その黄色い光。
 そこに僕の忘れてきたものがあるのだ。
 僕のあたたかな……。
 しかし行けない。
 行けるはずがない。
 決してそこには踏み越えられない一線があるのだ。
 僕は夜の闇の中で追い求めるしかないのだ。……。
 目覚めると、席を三つあけた離れた場所で、初老の警備員が、赤茶けた顔をろばのように歪めながら、新たに買ったらしいパンを頬張っていた。僕は腕に乗せていた頭を少し上げて、首を傾げて横目にその様子を見ている。僕は自分が寝てしまっていたのだと知って、驚いて起き上がる。それから自分は泣いているのだと思って、咄嗟に頬に手の平を当ててみたが、涙は一切出ていなくて、そこは乾いたままだった。
 夜のコンビニの青白い光の中で、ずっと僕は乾いた手の平を見ていた。

【中編】夜のカフェテラス(10) 原稿用紙191枚

(11)へつづく

【中編】夜のカフェテラス(10) 原稿用紙191枚

  • 小説
  • 掌編
  • SF
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2020-07-02

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