【中編】夜のカフェテラス(11) 原稿用紙191枚

いっそ

【中編】夜のカフェテラス(11) 原稿用紙191枚

この作品を書き終えた上での所感を、あとがきに書いています。

(11)

 住宅街はとにかく静かだった。街を徘徊した上に、コンビニでも時間を潰したために、家に帰ったのはずいぶん遅い時間になってしまった。街灯と街灯のあいだの暗い道を、端に寄って歩いた。見上げると両脇の家と家のあいだに、月が見えた。真っ白でやけに大きな月だった。星はほとんど見付けられなかった。人の住む街の明かりで、空が明るすぎるのだ。黒い空に、月ばかりが白々と浮かんでいて、アスファルトの肌をざらざらと鈍く反射させる、街灯の青白い光が、虚構と現実を分かつ境界のような、変に胸に迫るコントラストを描いていた。
 できればこのまま誰にも知られずに、静かに風呂に入って、誰とも話すこともなく、布団に潜り込んで眠ってしまいたかった。しかし、そういうわけにはいかなかった。父さんと母さんが僕を待っていたのだ。
 家に着いた僕は可能な限り、静かに金属製の門扉を開けた。エアコンの使用のためか近所に窓を開けている家は一軒もなくて、深い森の中の方がよほど騒がしそうだった。犬の鳴き声一つしないし、空き缶でも蹴り飛ばせば、一㎞先でも音が届きそうだった。門扉を固定するハンドルをジェンガより慎重に回して、門扉の片側を押してできた隙間に体を滑り込ませた。それからまたゆっくりと、その重い金属製の門扉を閉めた。最後にハンドルを回して錠をした瞬間に、がしゃあん、という思ったより大きな音が響いた。
 すると突然、玄関灯と、内玄関の照明が点いて、欄間から漏れ出た光も合わさって、周囲を一度に明るくした。それまで持っていた後ろめたさと、予期せず立てた大きな音と、急に明るくなったことで、僕は瞬間的に混乱した。あれだけ音を立てまいとしていた門扉にしがみ付いて、怯えた小猿のようにがしゃがしゃと音を立てた。僕の帰りを狙い澄ましていたように急に照明の点いた玄関を凝視しながら、門扉にしがみ付いたまま次の展開に備えて構えていたが、特に何も起きなかった。少ししてから、申し訳程度に、室内側から玄関を解錠する、がちゃん、がちゃん、という音がした。それきりまた何も起きなくて、玄関扉が開くこともなかった。
 恐る恐る、玄関を開けて隙間から中を覗くと、玄関ホールに母さんが立って僕を待っていた。たかだか少し帰りが遅いくらいで、こんなことになるのかと戸惑いながら、母さんの視線を一身に浴びて、体をそろりと回転させるように中に入ると、土間に立って母さんと向かい合った。ばたん、と背後で玄関扉が閉まる。母さんは冷ややかな目で僕を見下ろしている。すぐに叱責されるという雰囲気ではなかったが、かといって笑顔で迎え入れられるということもなかった。
「ただいま」
「おかえり」と母さんは平板な声で言った。「お父さんがリビングで待っているわよ」
 それだけ言い残して、母さんはスリッパで廊下を歩いていって、さっさとリビングに入ってしまった。取り残された僕は一体、どういう状況なのかつかめずに、まだ玄関の土間に立っていた。さっぱりわけが分からない。いずれにしてもずっとそのままというわけにもいかないし、ごそごそとスニーカーを脱いで、仕方なしにリビングに向かうことにした。
 座卓の前には父さんがあぐらをかいて座っていた。母さんもその斜めうしろに、すでに座って僕を待っていた。父さんにもあらためて僕は、ただいま、と言った。うん、と父さんは僕を見上げて言って、それから思い出したように、おかえり、と付け加えた。その間(かん)、僕は何日も前、最初に味噌汁をすすっている父さんを見た時と同じ、リビングに入ってすぐの位置にずっと立っていた。そして学校指定のバッグを肩にかけて片付けもしないで、父さんと母さんを見ていた。
「悪かったよ、遅くなって」と僕は弁明した。「部活の友達に急に誘われて、連絡するのを忘れていたんだ」
 ぼんやりした目で両親は僕を見上げていた。
「何か食べてあるのか?」
「食べてあるよ」と僕は答えた。「適当に」
「そうか、ならいい」
 父さんはそう言って、今度は二人の前に座るように僕を促した。いまだ状況が飲み込めないまま、僕は言われるがままに腰を下ろした。どうやら遅い帰宅時間を咎めているわけではないらしい。だったら何の話かというと、皆目見当がつかない。いくら考えても両親を怒らせるようなことをした覚えがない。二人はしばらく観察するような目で僕を見ていた。
「夕方にね、担任の池谷先生から電話があったのよ」
 全く予期しなかった母さんの言葉に、冷たい血が逆流して全身を駆け巡った。ぴりぴりと指先をしびれさせた。そこで池谷の名前が出るとは思わなかった。池谷の話なんて一つしか考えられない。テスト結果だ。まさかその日の内に親に連絡までしてくるとは思わなかったのだ。それは僕が学校での自分と、父さんのいる家庭での自分とを、結び付けて考えていなかったからだと思う。僕にとってはそれぞれが全く別次元の問題だったのだ。それに入れ替わる前の世界での母さんも、僕が今の学校に入ってしまってからは、僕の成績にほとんど興味を持たなくなって、赤点でもとらない限りは干渉してくることもなかった。だから、これほど周囲が僕に関わろうとしてくるという発想自体がなかったのだ。しかし、ここは僕の知る世界ではなかった。
 激しく僕は動揺した。全人格を否定されたような気分に陥った。あらかじめこういうことになると分かってさえいれば、もっと冷静でいられたはずだ。予測の足りない自分が悔やまれた。考えてみれば、そんなに大した話ではない、ひとまず謝って今後について話しておきさえすれば、それで済んでしまうはずだ。いくらでも対処はある。ところが僕の態度はそういう考えと全くの逆をいっていた。
「だから、何?」と僕は言った。「どうしろって言うの? 池谷がお宅の息子が突然、馬鹿になったから、勉強させろって言っているの?」
 母さんは少しのけぞって目を見開いた。それから、ぐっと抑え込むような顔をして、私達は心配しているの、と言った。ただ気に入らないだけなのに、何故だか大人はみんなそう言うのだ。
 母さんの話では、担任の池谷先生の話はそう単純ではないということだった。成績が著しく落ちたことももちろん心配だが、何が起因してそうなったのか背景の方が気になる、これだけ成績が落ちるというのは、大きく生活環境が変わったか、何らかのトラブルや悩みを必ず抱えているはずで、学校の方でも直接ヒアリングしてみたが何も教えてくれないのだ、だからご家庭でもお子さんとしっかり対話してみて、将来のこともあるし、必要に応じて手を差し伸べてあげて欲しい。
 やけに耳障りがいいじゃないか、と僕は思った。もっと池谷には生徒のためというより、差別意識に根差した優秀な生徒を作りたいという、ものを扱うような支配欲や傲慢さがあったはずだ。本当は生徒の主体性なんて決して求めていない、ただ気に入らないのだ。大人を相手にする時にだけ本性を隠して、耳障りのいい言葉を並べる卑怯な態度にも、僕は嫌悪感を抱いた。しかも池谷のそんな建前を信じる、素直な両親が池谷の手の上で踊らされているようで、それも気に入らなかった。
 両親が話した内容の大体のところは、放課後の面談で、池谷と話したこととほとんど同じだった。何故、こんなに成績が落ちたのかだ。それを聞き出そうとする役割が池谷から両親に渡っただけだ。僕を心配しているように見えて内実は、自分の生徒や息子の、出来、不出来を気にしている大人の体裁でしかないように見えた。そしてその成績が落ちた原因を、僕が正直に答えられるわけがなかった。実は別世界の出来が悪い方の僕と入れ替わったのだと言ったら、頭がおかしくなったか、馬鹿にしているとしか思われないはずだ。きっと素直に話して信じてくれるのは初穂くらいのものだろうと思う。今になって考えてみると、一発で信じてくれた初穂がちょっと普通ではないのだ。
「それで、そのテスト結果の通知書ってのは今、持ってんのか」とずっと黙って見ていた父さんが言った。それまでずっと母さんばかり話していたのだ。「出してみろ」
 成績の通知書を出すように言われて、一度渋ったものの、いつまでも持っていないでは通せずに、結局はかばんから出した。ひ、と母さんは通知書を見て小さく悲鳴をあげた。それから何か金銭トラブルにでも巻き込まれているんじゃないかとか、学年が変わってイジメにでも遭っているんじゃないかとか、母さんは色々なアプローチを試みて僕の話を引き出そうとした。ところが頑として僕が「何でもない」、「調子が悪かっただけ」、「次はがんばる」としか言わなくて、てんで期待する答えが返ってこないものだから、膠着状態から一向に進展することもなく、次第に母さんが言える材料もなくなってきた。
「そういうことを親に言うのは何も恥ずかしいことじゃないのよ」
 力なく最後に母さんはそう言って、長い沈黙がおりた。父さんは通知書を出すように言ったきり、またずっと口をつぐんで何も言わないままだった。母さんは母さんで、話が暗礁に乗り上げてもやはり納得できない様子で、幕引きのタイミングを失していた。僕はといえば、やはり僕から言えることは何もないのは同じだった。やるせない嵐が通りすぎるのを、辛抱強く待つしかなさそうだった。それにしても何故、ずっと父さんは何も言わないのだろう、と僕は父さんを見て思っていた。一人で何事か考えてばかりいないで、思うところがあるなら好きに言えばいいのだ。
 座卓の前に父さんと母さんがいて、二人の向かいにいる僕を頂点に、その三角形のちょうど真ん中あたりを父さんは腕を組んでじっと見ていた。目を開けたまま寝ているのじゃないかと疑わしく思えるくらいに、身じろぎ一つしなかった。どうしてこんなに腹が立つのだろう、とこの時の僕は考えていた。
 自分の中で、何かが湧き上がってきていた。それは不満と呼ぶにはあまりに根深くて、複雑で、熱量の多い、情念だった。理由という理由が分からない。詰問されるのは確かに嫌なものだったが、その情念はその詰問に対するただの反発とはどうしても思えなかった。あまりにそれは理不尽で、整理のつかない、混沌とした怒りだった。そうだ、それは確かに怒りだった。それも、父さんに対する怒りだった。しかも、どうやらその怒りは、僕の知らない意識のずっと深いところで、以前から隠し持っていたらしかった。どう考えても、その熱量は僕を圧倒して、反発から一時的に派生したその場限りの感情とはどうしても思えなかった。そんな情念を自分が持っていることを、初めて知った僕は驚いた。引き金は間違いなく、この成績の話だった。そこに反発したのも確かだ。しかしそれはあくまで引き金でしかなかった。そんな下らない話をしたいわけじゃないんだ、と僕は思った。
 たまらなく僕は文句を言ってやりたかった。どうして僕達を置いていったんだと。勝手に死んでしまって、残された僕達をどうするつもりなんだと。頭では分かっているのだ。好きで死んだわけではない。残された家族のことだって案じていたはずだ。しかし駄目だ。どうしても許せないのだ。それまで誰にも言えずに一人で抱えてきた様々な想いが、一緒くたになって、一度に僕に押し寄せるのだ。流されずに耐えるほどの力を、その時の僕は残していなかった。感情が、抑えきれない。何をそんなに平然としているんだ、いい気なもんだぜ、と僕は思った。
 この胸に空いた、がらんどうの穴を知っているかよ。母子家庭で忙しくて面倒も見てもらえずに、僕達兄妹がどうやって育ってきたか知っているかよ。この喪失感を、欠落を。母さんだって一人でがんばって、朝から晩まで、擦り切れるようにして働いていたんだぜ。客の奥さんに色目を使うなって言われたりするんだぜ。酔っ払ってそういう愚痴を、子供の前で漏らしたりするんだ。そんな愚痴を聞いて、意味が分からない歳だと思うかよ。酔っ払って、愚痴を言って、当たり散らして、それでも僕は感謝していたんだ。僕も妹も、腹を空かせたことだけはなかったんだ。言わなくても、そんなことは分かっているんだ。みんな必死で生きていたんだ。知っているかよ。それを、それを何だよ、勝手じゃないかよ。……。
 そんなことを考えたことは、それまで一度もなかった。意図せず湧き上がった怒りは、一気に途方もない遠くまで僕を押し流していった。とても冷静でいられなかった。怒りというより憎しみに近かった。あれだけ好きだった父さんに対して、怒りや憎しみを持つというのは、僕にとっても信じられない思いだった。
 長い沈黙だった。少なくとも僕にはそう思えた。みんな黙っていた。父さんが何を考えていたのかは、やはり分からない。最初に沈黙を破ったのは、ずっと口を開いていなかった父さんだった。
「本当に何もないのか?」と父さんは言った。「どうなんだ?」
 一瞬だけ僕は口唇の端に皮肉な笑みを浮かべた。何もないわけがないだろうと怒りに身を任せてやりたいと思った。しかし、そんなことをしてどうする、という冷静な自己批判の声が、身のうちに鳴るように響き渡った。全てぶちまけて一体、何が得られるというんだ。何につながるというんだ。感情のすべてをぶちまけて解放されてしまいたいという欲求と、入れ替わっている事実を話すわけにはいかないという抑圧とのジレンマに縛られて、僕は身動きがとれなくなってしまった。見た目には分からなかっただろうが、その時の僕は極度の緊張状態にあった。抑圧された自我の解放を求めるのも、現実を考えて自己批判する理性のどちらもが僕の本心で、その二つが相容れずに、体が二つに張り裂けてしまいそうだった。これ以上はもう無理だ、と思った次の瞬間だった。ふっと僕の中で何かが途切れたのだ。
 音もなく消え入るような切れ方だった。その後には何もないようだった。抑圧もなければ虚無的な気分さえなかった。それどころか生活の上に必要な基礎的な感情もなかった。途切れてしまった。視界が遠近感を失って、全てが平板に見えた。父さんがこの目に見えているのに、見えていなかった。うまく焦点を合わせることができなかった。苦労してようやく見えた父さんは、正面からじっと僕を見据えていた。意識していないと、すぐにでも焦点が狂ってしまいそうだった。父さんが僕を見ている、僕が何かを言うのを待っている、何か言わなければ、と思った。
「うん、別に何もないよ」と僕はうっすら笑みを浮かべて答えた。怒りも哀しみもプライドも、何もかも無価値な気がした。ただ必要と思えることをするだけだった。そこでは特に自我は必要とされていなかった。「心配させて悪かったよ、次は本当にがんばるからさ。僕だって今回の結果が、すごくショックだったんだ。そんなに二人して責められたら、素直に落ち込めもしないじゃないか、ひどいよなあ」
「そうか」と父さんは少し意外そうな顔をして言った。「お前がそう言うなら、分かった」
 母さんはもういいか、と父さんが次に確認した。困っている時はもっと相談してくれていいのよとか、今までの努力はよく知っているからとか、そんなことを母さんは言っていた。残念ながら僕はその努力をあまり知らなかったが、とにかく努めて明るく、ありがとう、と言っておいた。その僕の態度を、父さんはずっと観察しているようだった。
「よく分かった、悪かったな」と父さんは最後に言った。「それなら、もういい」
 もういい、というこの言葉が、何故だか僕にはひどく胸に刺さった。そんな意味ではないことは百も承知だが、何か見放されたような気分になった。それでも僕は軽薄な笑顔を浮かべるしかなかった。
 話が済んでしまうと父さんは、すっと立ち上がって、寝る、と言ってそのまま寝室に行ってしまった。残された僕は、父さんの出て行ったドアをしばらく眺めていた。思い悩んでいたらしい母さんは真剣な顔をして、心配だっただけで追い詰めたかったわけではないとか、何か言い訳のような願いのようなことをまた言っていたので、立ち上がってリビングを出る時に、分かったよ、とやさしく言ってやると、安心したのか微笑んでいた。そして自室で一人になった。
 その後は家族の誰にも見られないように、風呂や歯磨きを済ませて、また自室に戻って布団に入った。照明を消してベッドの上で体を横にして、丸くなって目をつむり、自分の意識の上の、様々な感情が押し寄せたり渦を巻いたり、相反するものが激しく衝突してまじり合うのを、最早なるに任せて、ただ傍観していた。父さんを慕う気持ちも、夢も、理想も、愛情も、憎しみも、怒りも、どこに本当の自分がいるのか、僕にはもう分からなかった。
 いつ寝てしまったのかは分からない。
 ただそこは、どこまでも落ちていく、暗くて深い、光さえ逃れられない、閉じることもない、あらゆる質量を飲み込む穴だった。

【中編】夜のカフェテラス(11) 原稿用紙191枚

(12)へつづく

【中編】夜のカフェテラス(11) 原稿用紙191枚

ある日の朝、高校生の主人公高田が自宅で起きてみると、十年も前に死んだはずの父親が生きていた。しかも当たり前のように朝食の味噌汁をすすっている。 主人公は失った何かを取り返すべく、父親のいる慣れない世界で、何かの発見を追い求める。 SF要素はありますが、最終的には純文学の着地を目指しました。

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 青春
  • SF
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2020-07-02

CC BY-NC-ND
原著作者の表示・非営利・改変禁止の条件で、作品の利用を許可します。

CC BY-NC-ND