【中編】夜のカフェテラス(8) 原稿用紙191枚

いっそ

【中編】夜のカフェテラス(8) 原稿用紙191枚

この作品を書き終えた上での所感を、あとがきに書いています。

(8)

「もうすぐ、夏休みだなあ、高田ァ」と、クラス担任の池谷は言って、ずっと窓の外を見ていた。池谷は僕の学生机を挟んで、一つ前の生徒の席に座って、僕と向かい合っていた。池谷の見る窓の外には、ビルや民家の並ぶ地上と、空の境界から、空のずっと高いところまで、今にも崩れそうなほど巨大な質量を思わせる白い雲が、どっしりと構えていた。空を分かつような格好でその雲が南の空に鎮座して、東と西の空はとにかく青かった。
 池谷は短く刈り上げた白髪まじりの頭を僕に向けていて、窓から教室に一度入って反射した白っぽい光が、その池谷の短い毛先をざらざらとした嫌な輝き方をさせていた。教室には僕と池谷だけで、他に生徒はいなかった。野球部のかけ声とノックの音が時折、遠く聞こえる。池谷は腕組みをしてのけぞるような格好で窓の外を見ていた。僕には一瞥もしなかった。池谷は面談をするにあたって僕を職員室に呼び付けるでもなく、放課後は教室に残るように、帰りのホームルームの際にみんなの前で告げたのだった。
「三年生は大変だ、この夏でほとんど勝負は決まるからなあ、みんな必死で戦っているよ。諦めたら脱落していくしかないからな、駄目な奴はみんな理由を他に求めるが、本当は全て自分次第なんだ。落ちる奴はただ誘惑に負けただけなんだよ。それすら認められない奴も多いけどな。いつでも本気を出せるつもりで一度もそれをしないで、それがそいつの実力なのに現実の自分も認められないんだ。可哀想なもんだよ」
「はあ」と僕は気のない返事をした。元より嫌いな男だったが、いつも前置きが長いのだ。池谷が本当は何の話をしたいのかは分かっていた。教師というのは何故か勿体ぶった話し方をするのが多い気がする。さっさと本題に入ればいいのに、といつも思う。そしていつも相手の運命を手の内に握っているような、卑怯な態度をして見える。特にこいつはそうだ、と僕は思う。特権的な立場を楽しんでいるのだ。
「俺はお前が好きなんだ、だからこそ時に厳しいことも言う、それはお前を思ってのことなんだ、それは分かってくれよ?」
「はあ」
「近藤初穂だったか?」
 見下すような目でようやく池谷はゆっくりと首を向けて僕を見た。僕は黙っていた。観察するような目だ。きっと互いがそういう目だったのだと思う。
「それほど優秀な生徒ではなかったよな?」
「別に普通です」
「何か悪い影響があるんじゃないか?」
「近藤さんは別にこの話に関係ないんじゃないですか」
「だったら期末のあの結果は一体、何なんだ」
 池谷は僕の期末テストの点数が軒並みひどいものだったのを指摘しているのだ。ひどい点と言っても、それはこちらの世界のボクを想定した上でのことで、僕の普段の成績からしたら、かえっていいくらいだった。
 だからテスト後の僕は安心しきっていたし、学年内とクラス内の順位を受け取った時も、浮かれるほどではないにしろ、努力の成果が見えてひそかに嬉しく思っていたのだ。しかし周囲の人々が見ているのは僕ではなくて、こちらの世界のボクなのだということに、僕はもっと注意を払っておくべきだったのだ。最初の失敗は、今回の成績で僕に張り合っているつもりでいるらしい槙村に、僕の成績を知られてしまったことだった。

『高田、ついにお前に勝ったぞ!』と槙村は最初に言った。わざわざ槙村は休憩時間に僕の席までやってきて、まるで僕の親友のような顔をして、にきびが潰れたり膿んだりを繰り返した頬を大きく歪めながら、愉快そうに笑っていた。
『そうか、そりゃあ、よかったな』と僕は言った。槙村の態度からすると、僕の正確な成績を把握しているわけでもないのに、僕に成績で勝ったと確信している様子から、僕に負けるのは万に一つの可能性も残っていないことになる。この学校では自分以外の順位は開示されないから、少なくともクラストップの成績をとっているはずだ。僕はこの槙村の身勝手な上に自己愛が強い性格を嫌っていたが、ともすればこちらの世界でのボクはこの槙村と親しくしていたかもしれず、あからさまに冷たくあしらうわけにもいかなくて、努めて冷静に接するように気をつけていた。どうも収まりが悪くて、『おめでとう』と僕は付け加えた。
『まあ勝負は時の運もあるさ』と槙村は僕の肩を叩いた。まるで僕を慰めるような言い草だった。それでも僕はその時は我慢していたのだ。ちょうどその時、短冊形に二つに折られた、クラス順位の通知書が僕の机の上には置かれていた。その左右に僕の腕が置かれていて、いかにも僕は槙村との会話に耐えているという姿勢でいた。槙村は席と席のあいだの通路に半分、体を置くような位置に立って、片腕を僕の肩に気安く置いていた。どうやら槙村は僕が悔しがっているのだと勘違いしているらしかった。結果的に僕の冷たい態度が、かえって槙村の傷ついた自尊心を癒やして、どこか鬱屈とした優越感でこの男を満たしているように見えた。僕はこの世界のボクと槙村のあいだに、過去にどのような因縁があったのかを知らないのだ。
 早くどっか行っちまえと、とにかく僕は念じて、我慢を重ねていたので、その時に槙村が何を見ていたのかを知らなかった。僕の体と両腕で、囲んで守るように机に置かれた通知書をめがけて、腕が一本、目の前に伸びてきた。『ちょっと見せてみろよ、お前の結果はどうだったんだ』
『おい、やめろよ!』と言って僕は椅子をがたがたと鳴らして跳ねるように立ち上がった。ところが、勢いに任せて槙村と向かい合ってみたものの、槙村の表情を見た僕は、すぐに勢いを削がれてしまって、怒るに怒れなかった。槙村のにやけた笑顔がすっかり消えて、なかば青ざめてさえ見えた。
『おい高田、これは一体、何の冗談だよ』と槙村は言った。『これ、本当にお前のか?』
『そうだよ』と僕は冷たく言い放って、通知書を奪い返した。『勝手に人の成績を見るんじゃねえよ』
『だってお前、それ、ひどいぜ』と槙村は言った。『どうしちまったんだよ』
 槙村の態度や表情、その言葉からようやく、どうやら僕の点数は大分悪い結果らしいという認識が、ようやくにわかに芽生え始めていたものの、この時点での僕はまだそこまで真剣には考えていなくて、むしろ槙村の身勝手な態度に単純な動揺と、腹を立てる気持ちの方が勝っていた。それでも次第に周囲にいたクラスメイトの注目も集め始めてもいたから、なるべく僕は感情を抑えることだけを考えていた。
『お前には関係ないじゃないかよ』
『そうだよな』と槙村は気を遣うような素振りを見せて言った。『なんか、ごめんな』
 驚くほど素直に槙村は引き下がって、その去り際のうしろ姿はどうにも寂しそうでさえあった。
 隣に座っていたクラスメイトが一人、『おい高田、どうしたんだよ』とへらへら笑いながら声をかけてきたが、『何でもねえよ』と一喝したら、一度意外そうな顔を見せて、それからいかにもつまらなそうに、もう僕を見たりはしなかった。

 そういう槙村とのやり取りが先にあったおかげで、こちらの世界のボクが実はかなり優秀だったらしいということが、さすがのこの僕にもようやく理解できてきた。テストが少しいいくらいでは全然、駄目なのだ。それこそ今から猛勉強に次ぐ猛勉強を重ねても、この十年の溝は全く埋まらないほどの厳然とした差が、僕とこの人生のあいだには横たわっているのだ。冷静にそれを受け止められた時に、頭で理解するより先に、根底から人間性を否定されたような、迫るものを感じて、僕は慄然としてしまった。すると周囲から失望という失望の目が、一斉に自分に注がれているような気がしてならなかった。
 実際はそこまでみんな僕に興味があるはずもないが、槙村が僕の通知書を見た時の反応を周りのクラスメイトも見ていたし、その後で槙村がその一件を人に話さないとも限らない。秘密にしておく保証などあるはずもないのだから、すでに十分に噂は広がっていてもおかしくない。そういえば思いすごしかもしれないが、槙村とのやり取りをした後の休憩時間に、クラスメイトが僕と向き合った時、何でもない会話のはずなのに、相手の目の奥や口唇の端に、何か面白いものを見たような表情が見え隠れした気がした。もしかしたらみんな僕が成績を落としたことで、暗い快感を僕に見出しているのではないか、みんな僕をどう思っているのだろうと疑心暗鬼にさせた。だから池谷に面談を言い渡された時も、僕はすぐに用件を察することができた、と同時にクラスメイトもそれは同様で、それはそうだろうという空気がクラス内に流れていたように思えた。
 今にして思えば何故、担任の池谷が僕に気安くて、期待を寄せていたのかが分かる。池谷だけではない。槙村だってそうだ。いや、長谷だって、他の美術部の連中だって、妹だって、母さんだって、あるいは父さんだってそうかもしれない。彼らが求めているのは僕なんかではなく、入れ替わる前のボクなのだ。彼らにとってこちらの世界にいた入れ替わる前の優秀なボクが正解で、ここにいる僕という存在は間違いでしかないのだ。その事実が僕の今までの人生と全人格を揺るがした。たかだか勉強ができないというだけで、僕では駄目だというのだ。だからといって僕は僕であることをやめるわけにはいかなかった。
「そんなに駄目ですか?」と僕は呟くように言った。ぴくり、と池谷が反応して、僕を見た。「勉強しか駄目ですか? 他じゃ駄目なんですか?」
「駄目なんですかって、他に何があるっていうんだ、お前は学生だぞ」と池谷は口唇の端で笑った。「いいか高田、お前だから言うがな、世の中には二種類の人間しかいないんだ。努力する人間と、努力しているつもりのクズだ。結果が出ない努力は努力じゃないんだよ。自己陶酔というものだ。努力すらしようともしない猿は論外だがな。もちろん過程は大事だ。ただし効果測定が伴って、やっと過程と言える。向かっていなければそれは過程でさえないんだ」
「そうですか」と僕は抑揚なく言った。こいつには何を言っても無駄なのだ。クズはお前だ、と思いながら、僕は池谷の話を右から左へ聞き流すことにする。
「不自然なんだよ」と池谷は言った。「他の先生とも話したんだが、期末のどの教科のお前の回答も、以前だったら絶対に分かっているはずの問題で間違えているんだ。理由は分からんが、意図してわざと低い点をとろうとしているようにさえ見える。ところがその間違え方が、いかにも間違えたという、本当に分かっていない間違え方なんだ。レベルの低い生徒の回答をカンニングしたか、誰かの答案と入れ替えるかしたみたいなんだ。でも、やっぱりお前の特徴的な字なんだよ。じゃあ、やっぱり本気なのかというと、突然レベルが下がって今までよく理解していたことを、みんな一遍に忘れてしまったなんてことがあり得るのか、という話になってくる。お前、一体あれは何がしたかったんだ?」
「別に何もしようとしていません」と僕は答えた。「あれが僕の実力です」
「だとしたら、はっきり言って、ひどいぞ」と池谷は言った。「何か理由があるなら言ってみろ。これだけ下がるというのは、何か理由があるはずなんだ。何かトラブルに巻き込まれているんじゃないのか? それとも、お前自身の問題なのか?」
「僕自身の問題だと思います」
「何か迷っているんじゃないのか?」
 僕はその「迷っている」という言葉に息を飲んだ。いまだ解決を見せない、僕を取り巻く種々の問題を、一気に意識してしまったからだ。
 じっと池谷は僕を覗き込むように観察している。
「多分、迷っているんだと思います」と僕はそれから諦めたように言った。池谷相手に何を言っても意味がないことは分かっていた。池谷は僕の抱えきれない真情を吐露するには最悪な相手だった。およそ理解というものは期待できない。しかし言わずにはいられなかったのだと思う。あるいはそれは全くの無意識で、そもそも池谷に向けられた言葉ではなかったのかもしれない。「確かに今の僕は、どこに向かえばいいのか、自分がどうしたいのかさえ、よく分からないんです」
「目的意識か」と池谷は言葉を置き換えて言った。「気の迷いというのは、誰にだってあることだ。魔が差すってこともな。そういう時はな、強いモチベーション、動機を持つんだ。強い意志で敢行するんだ」
「動機なら、あります」と僕は言った。「自分なりに素晴らしい結果を出したい、そのためには努力も惜しまない」
「おお、いいじゃないか、その意気だ」
「でも、そういう動機というものは果たして、必ずしも諸手をあげて称賛されるべきものといえるでしょうか?」と僕は言った。すでに僕は池谷の意図とは全く違う話を始めていた。しかし、それは僕の本心だった。「何故、僕達は、目的に向かって必死に走るんでしょうか? 動機を持たないのは、すでに満たされているからではないでしょうか? だったら動機を持たない人の方が実はすでに幸せなんじゃないでしょうか?」
「なあ、高田、俺は議論をしたいんじゃないんだ」と池谷は、しばらくの沈黙の後に苦虫を噛み潰したような顔をして言った。「そのままいくとお前の希望する国公立自体も危ういぞ。後悔したいのか?」
「後悔ですか」と僕は皮肉に笑いながら言った。「後悔したい人なんて、いるはずがありませんよ。そのためにする努力も素晴らしいし、立派だと思う。でも、どうしようもない時も人間ってあるんじゃないですかね。気付いたらそうなっていた、そういう立場に置かれていたということだって。それでもそういう時に、そこで僕達は何かと戦わなければならないんじゃないですかね」
 池谷は僕を苦々しく睨み付けていた。
 今度は僕が横目で窓の外を見ていた。
 お前は受験戦争を戦えと言うのかもしれないが、僕は人生と戦っているのだ。

【中編】夜のカフェテラス(8) 原稿用紙191枚

(9)へつづく

【中編】夜のカフェテラス(8) 原稿用紙191枚

主人公は失った何かを取り返すべく、父親のいる慣れない世界で、何かの発見を追い求める。 SF要素はありますが、最終的には純文学の着地を目指しました。

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 青春
  • SF
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2020-07-02

CC BY-NC-ND
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