【中編】夜のカフェテラス(9) 原稿用紙191枚

いっそ

【中編】夜のカフェテラス(9) 原稿用紙191枚

この作品を書き終えた上での所感を、あとがきに書いています。

(9)

 教室での面談の後、下駄箱へ行くために渡り廊下へ出ると、初穂がいた。渡り廊下の行った先、向かいの校舎まで渡った少し手前に、三段ほど階段になった部分があって、その降りきったところに初穂は立っていた。階段部分の両脇にペンキ塗りの手すり壁があって、初穂はその右側にもたれかかって僕を見ていた。待ち合わせをしていたわけではない。それどころかできるだけ人に知られることなく、そのまま僕は帰ろうとしていた。それを見透かすように初穂は僕を待ち受けていたのだ。
 初穂は肩くらいの高さに小さく手をあげて、「ヨ」と言った。
「おう」と僕も同じように小さく手をあげて答えた。
 渡り廊下の屋根が作る影は、ずいぶん離れた場所にあった。大分、日が傾いてきているからだ。西日で初穂は明るく見えた。初穂の着る夏服の白も輝いて見える。距離を置いて見る初穂の顔は、笑ってもいないし怒ってもいなかった。これといった感情は読み取れなかった。ただ僕を見ていた。僕はゆっくりと初穂の前に歩み出て、僕達はしばらく互いの目を、近い距離で見詰め合った。
「そっちに美術室はないよ」と初穂は言った。「サボり?」
 初穂の目の中に、日の傾き始めた光がちらちらと揺らいで見えた。「部には、あらかじめ休むって伝えてはあるよ」と僕は言った。
「いいの? 部長でしょ?」
「らしいね、最近知ったよ」、そう言ってから初穂と向かい合う僕は、どうしてか今度は目が合わせられなくなってしまって、傾いた日に明るく照らされた校舎を見ていた。そのまましばらく無言でいて、あまりに初穂が何も言わないものだから、様子を確かめてみると、やはりじっと僕を見ていた。
「担任に呼び出されたんだってね」と初穂は言った。
「うん、よく知っているね」と僕は少し驚いて言った。初穂には面談のことを何も話していなかったからだ。そもそも面談を言い渡されたのも今日、帰りのホームルームでのことで、この短いあいだにクラスの違う初穂が知るタイミングなんてあるはずがなかった。「正確には、居残りだね。ついさっき解放されたんだ。部活はどうせ遅刻になるから、休むって副部長の長谷に言っておいたんだよ。本当は今からだって出られるんだけど」
「出たくないの?」
「今はあいつらには、あまり会いたくないな」と僕は言った。「それより、どうして担任と面談したことを知っているの?」
「君のことは大体知っているよ、実は別のタカダ君と入れ替わっていることも」
「そういえば、そうだったね」と僕は笑った。
「わざわざ槙村が私のところまで教えにきたんだよ、高田君が呼び出しくらったって、やたらに嬉しそうに」と初穂は溜め息まじりに言った。「本当にあいつ性格悪いよね、二年でクラスが別れて本当によかったよ」
「ただ喜んでいるくらいなら、まだいいさ」と僕は言った。「もしかして、それで心配して待ってくれていたの? よく僕がこっちにくるって分かったね」
「なんとなくだよね、呼び出しの話を聞いたら、待つならこっちかなって気がして」
「もしも僕が帰らずに、そのまま部活に出て、いつまで待ってもこっちにこなかったら、どうするつもりだったの?」
「さあ?」と初穂は肩をすくめて言った。「安心したんじゃない?」
 それから初穂は向かい合ったまま、僕の指先をそっと握った。
「帰ろう」

 バスに揺られながら僕と初穂は、色々な話をした。他愛もない話だ。次の瞬間には何を話していたのか忘れてしまっていてもおかしくない。僕達は車内で一番、後部のロングシートの隅に座っていた。初穂が窓際で、僕が中央の通路寄りだった。反対側には誰もいなかった。それもそのはずで車内には他に三組しか乗客がいなかった。目を開けているのか眠っているのかよく分からない、体の小さなおばあちゃんに、重そうなバッグを片脇に置いた、ネクタイを目いっぱい緩めて魂が抜けたような顔をしているサラリーマンに、歩けるようになって少しくらいの子供を相手に、何かゲームのようなやり取りをささやき合うお母さんの、三組だ。最後に乗り込んできたのが僕達だった。下校時間からは外れているし、社会人が帰るにはまだ早い時間帯だった。窓の外では、薄い青紫色の空に、その青紫色をずっと濃くした色の雲が浮かんでいて、そのふちが、金色に輝いていた。バスは川沿いを走っていて、対岸の家並みも金色に輝いている。目がくらんで痛くなるくらいに、明るい。
 いつしか会話は途切れて、しかし息苦しくはなくて、シートの上に置いた手の平にそっと手を重ねて、狭いところに入りたがる子供のような無邪気さで、前の座席の背もたれに隠れるように、バスに揺られながら、流れゆく景色を見ている。それから僕は言った。その時しかもう言うタイミングはなかったように思う。
「よほどこっちのボクは優秀らしい」と僕は言った。少し間(ま)をあけてから、初穂は僕を見た。「僕のいたあっちの世界じゃ、僕の成績なんて何の見栄えもしない、平均にも届かないレベルで、担任の池谷なんて相手にもしていないって態度だったよ。本当に鼻で笑っていた。でもこっちのボクは全くそうではない。よく勉強をして、成績は優秀で、部活では部長をしていて、部員のみんなに慕われている。どうやらリーダーシップもあったらしい」
「そうだね」と初穂は言葉を探して言った。「私が知っているタカダ君は、こっちのタカダ君だからさ、逆に君はそうじゃないんだって今、初めて知ったくらいなんだけど、確かに君が今、戸惑っている通り、こっちのタカダ君は優秀な方だったと思う。色んなことができて、色んなことに興味があって、努力家で、いつも周りのことも気にしていて、自分より相手のことを考えられる人だった」
「そりゃ、すごい」と僕は言った。「少なからずショックだったよ、そういう未来もあり得たんだってことがね。こっちの世界のみんなが求めているのは、決して僕ではなかった。僕のやってきた全てを否定されたような気分だったよ。元は同じ人間のはずなのにね。まるで違う環境で育った双子の兄弟の、優秀な方を見ているような気分だ」
「つまり、そういうことなんだと思うよ」と初穂は言った。「それだけの差が出たのは、君だけのせいではなくて、やっぱり環境の差が大きいと思う。こっちのタカダ君は、小さい頃からずっとお母さんが傍について、勉強を教えてくれたって言っていたよ。それで家庭学習だけで、中学卒業の頃には高校卒業時点の勉強はほとんど終えていたんだって。それは、母子家庭だと、なかなか難しいよね」
「そういえば、昔は勉強しろって、かなり怒られた気がする、悪い点をとると、すごく哀しそうな顔をするんだ。でも母さんの仕事が大変になって、あまり言われなくなった。今の高校に合格した時は本当に喜んでいたよ。受験から一年半くらい前のレベルからは考えられなかっただろうからね」
「努力したんだね」
「こっちのボクには遠く及ばないんだろうけどね」と僕は言った。「でも、その代わり、こっちのボクの絵はひどいもんだった。許せないくらい下手というか、間違っていたんだ。うまい下手じゃなくて、間違っているんだよ、僕にとってそれは。許せないんだ。特にそれをうまいつもりで満足げに描いているその態度が。激しく僕は怒った。美術部の連中は困惑していたよ。全部塗り潰して描き直してやろうと思ったよ」
「そんなに、ひどいの?」
「他人の絵だったら、多分そこまで思わない」
「こっちのタカダ君が描いたからってこと?」
「同じ僕の絵のはずなのに、決定的に何かが欠けているんだ」
「何がそんなに違うの?」
「多分だけど、こっちのボクは過去にゴッホの絵に感動した体験を持っていないんだと思う。僕と比較して、その点がそっくり抜け落ちているのさ。ゴッホの絵は、見てはいるはずだよ。有名な画家の、有名な絵だからね。でもきっと、こっちのボクはその絵を見ても、特に何も思わなかったんだと思う。歴史的建造物を見たりとか、有名な俳句を聞いたりとか、その程度の受け取り方だったはずだよ。そこで激しく感動した僕とは違うんだ。だからそもそも、そういうものを追いかけていないんだと思う。動機自体がないんだ」
「どうしてそんなに違っちゃうんだろうね」
「知っているかい?」と僕は、初穂の問いかけには答えないで言った。「ゴッホを好きだと言うと、人によっては軽く見られるんだ」
「そうなの? 有名だし、世界中で好きな人がたくさんいるんじゃないの?」
「だからだよ、分かりやすいから駄目だって言うのさ、初心者みたいな見方をしてくるんだ」と僕は言った。「もう少し昔のフェルメールとかの方が、受けがいいんだ。フェルメールの前まで絵画っていうのは、宗教や神話の範囲でしか描けなかったんだけど、女神とか聖母じゃなくて生きた女性を描きたくて、その辺にいる何でもない女の人を描いた画家だよ。そういうのを好きだって言った方が、『分かっている』って見られるんだ。でも僕に言わせれば、そいつらは、自分の目では何も見ていないんだ。フェルメールが駄目って言っているんじゃないんだ。ただのアイコンなんだよ。ただの知識を、たしなみや、審美眼だと思っているんだ。そいつらを動かしているのは心ではなくて欲なんだよ、相手を感心させて優位に立ちたいというだけの。でもそんなものは僕の感動とは全く無関係な話だ。関係ないんだよ。僕の好きな『夜のカフェテラス』という絵は、あのあたたかそうな、『あっち側』へ行きたいって気持ちを、描いていると思うんだ。もしかしたゴッホはそんなことは全然、考えていなかったかもしれない。でも、それも全く僕には無関係なんだ。僕にとっては、そういう絵なんだ。作品は時に事実を超越するんだ」
「痛い」と初穂は言った。「痛い、手」
 気付かない内に僕はひどく興奮していて、初穂の手を強く握りすぎていたのだ。ごめん、と言って僕はすぐに手を離した。それについては初穂は何も言わなかった。ただ黙って前の座席の、ベロア地の背もたれを見ている。僕は座席に深く座り直した。それから自分の膝の上に置いた手を組んで、バスの天井を仰ぎ見た。そして目をつむった。
「それで、その絵はどうしたの?」としばらくしてから初穂が言った。「描き直したの?」
「いいや」と僕は目を開いて言った。天井を仰ぎ見た姿勢のままだった。「僕は一切その絵に手を入れていない。これからもない」
「どうして?」と初穂は言った。「許せないんじゃなかったの?」
「あれは、こっちのボクの絵なんだ」と僕は言った。「そして、これはこっちのボクの人生なんだ」
 視界の隅で初穂が僕を見ているのを感じた。
「どれだけ『こっち側』がよくても、掠め取っちゃいけないんだ」と僕は言った。「どっちがいい、じゃないんだ」
 僕は初穂を見る。視線が合う。彼女の瞳の中に夕方の金色の光が見える。
「もしそれをしてしまったら、きっと僕は今までの自分の人生をも否定することになる」
 バスが地元に着いた。僕達は二人して顔を上げて、窓の外の景色を確認し、バス停に向けて車速を落とす車内の揺れの中、バスが完全に停車するのを待って、黙って連なり先頭へ移動した。バス停に停車すると、圧縮空気で降車口の扉が開く音がする。僕達は定期を入れた財布を運賃箱に触れて、順番に降車口から外に降りた。扉が閉まると、バスは何か急な用事でも思い出したように勢いよく走り出していった。バス停に降り立ったまま、僕達はまだ降りたのと同じ場所にいた。そしてその古びた緑色のバス停標識の前で、向かい合って立った。家の方角はそれぞれ、バス停を起点に反対にあった。
「うちくる?」と初穂は言った。
「いいや、今日はやめておく」
「そう」と初穂は言った。残念がる様子もなかった。「じゃあ、まっすぐ家に帰りなよ、なんだか心配だから」
「ありがとう、そうするよ」
「ねえ、一つ訊いていい?」と初穂は言った。「お父さんに会って伝えたい言葉は見付かった?」
「いや、まださ」と僕は言った。「父さんに会ってはみたものの、いざ会ってみると、あまりに父さんが普通すぎて、ちょっと白けちまったくらいさ。どうしても言いたいことなんて、本当はそんなもの、ないのかもしれない」
「そうなんだ」と初穂は言った。「そうかもしれないね」
「僕も一つ訊いてもいいかい?」と僕は言った。「どうして、こんなに親切にしてくれるの? 入れ替わる前のこっちのボクと、ここにいる僕は、やっぱり君から見たら、ほとんど別人みたいなもんだろう?」
「あっちの世界からきたって、君が言った日から今日まで、君と話していて、私の知っている高田君とは別人だなんて、一度も思ったことないよ。着ている服が、少しだけ違うようなものだよ。ただ少し苦労していて、少し悩みを抱えている、私の知っているただの高田君だったよ」
 初穂が微笑むから、僕も微笑んだ。
「じゃあね、また明日。ちゃんと家に帰りなよ」と初穂はひらひらと手を振った。「ばいばい」
「じゃあね」
 しかしその後に僕は家には帰ることはなく、遅くまで地元の街を一人でさまよって歩いた。あてもなかったし、意図もなかった。何故そうしたかもよく分からなかった。きっとただ一人で夜を歩きたかったのだと思う。

【中編】夜のカフェテラス(9) 原稿用紙191枚

(10)へつづく

【中編】夜のカフェテラス(9) 原稿用紙191枚

ある日の朝、高校生の主人公高田が自宅で起きてみると、十年も前に死んだはずの父親が生きていた。しかも当たり前のように朝食の味噌汁をすすっている。 主人公は失った何かを取り返すべく、父親のいる慣れない世界で、何かの発見を追い求める。 SF要素はありますが、最終的には純文学の着地を目指しました。

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 青春
  • SF
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2020-07-02

CC BY-NC-ND
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