【中編】夜のカフェテラス(7) 原稿用紙191枚

【中編】夜のカフェテラス(7) 原稿用紙191枚

完結作品。201911完成。

(7)

 小学校高学年でヴィンセント・ヴァン・ゴッホの作品に感動した以前から、絵を描くのは好きな方だったと思う。ただそれはいたずら書きの域を出なくて、幼少時から自宅で熱心に絵の訓練をしていたというわけでもなく、学校の休憩時間にノートの端に適当な落書きをする程度のもので、あとは図工の授業で少し水彩を使って風景画を描いて、いくらか歓びを感じたこともあったかもしれない。それもその場限りの感情でしかなく、その程度の子なら世の中にごまんといる。それが少年の頃にゴッホの絵を見て、衝撃を受け、共鳴し、また強く心を動かされたために、僕のその後をそれまでと異質なものへと変化させてしまった。
 真剣に絵を描き始めたのは、中学の美術部に入ってからだと思う。かといってゴッホに感動したから中学生になった時点ですでに画家を目指していたとか、もう僕には絵しかないのだという切迫感に駆られていたというわけでもなくて、僕の中に灯されていた火は、動機と呼ぶにはもっとずっと儚く、小さなもので、ひどく曖昧でもある、内的な変化だった。だから僕は自分が特別だとは思わなかった。僕のいた中学では、全員が何かしらの部活に入ることを義務付けられていた。真剣に絵を描いていた部員はほとんどいなくて、帰宅部のつもりで入ったか、ルールに従うだけでただ暇潰しをしているか、あとはアニメだとか漫画が好きなタイプの生徒だけだった。そして僕自身も彼らと大して違わないつもりでいたのだ。ところが、描いていたら画用紙の上に追いかけるべき光のようなものが見えてきて、それを夢中で追いかけている内に、気付いたらのめり込んで出られなくなっていた。
 中学では鉛筆デッサンを繰り返し、水彩で静物や風景を描いた。例えば対象の陰影を描く中で、影になった輪郭には室内の反射光が当たっていて縁が明るいのだと知っただけで、世界の成り立ちの本質に迫ったように思えて僕を高揚させた。家庭環境を考えると経済的に画塾にまで通うのは難しいのは分かっていたから、自然と中学二年生の頃には、熱心に美術部の活動をしている高校を調べていた。もっと集中して絵が描ける環境が欲しかった。そこで今の高校を探し当てて、何ランクも上の学校だったから中学の教師からは嫌がられたものの、その時ばかりは必死に勉強して、落ちて当然と言われる中、なんとか今の学校に滑り込んで合格したのだ。受験で合格できた時は、奇跡だと母さんはずいぶん喜んでいた。
 高校に入ってからは、木炭デッサンと油絵を覚えた。油絵という画材は特に僕の性に合っていた。これでもか、これでもか、と気に入らなければいつまでもその作品と向き合えた。ある部分ではひとまず押さえるという感じで塗っておくでも通用したし、ある部分ではしゅうねく表現にこだわって何度も塗り重ねることもできた。塗れば塗るほど全体の彩度は落ちるが、それも踏まえて調子を見た上で、自分の中にある情緒を通して対象を表現しようと、いつまでも追い続けることが許された。水彩はそうはいかない。あれは僕にとって一種の科学だった。なんというか、それが魅力でもあるのだが、少し懐が狭いところがある。できるだけ精密に、端的に構図とデッサンを決め、いかに色を重ねていくかを事前に計画して実行していかないと、なかなかいい絵は描けない。例えば石井柏亭なんかの水彩画を見て、ああこれは僕には描けないと、見ただけでそう思った。やれるとしたら、よほど自分の絵を確立した後だ。油絵でもそういう向きがないではないが、僕はもっと観念的で情緒的な部分を追求しながら表現していたかったのだ。とても僕には自分を俯瞰できない。
 そういうわけで、ほとんど僕は絵のためにこの学校にきていた。絵を専門とする学校も他にはあったが、あまり自由を制限されるのを嫌って僕はこの学校にきた。自分がどういう絵を求めているのかもはっきり分からないのに、入学の時点でコース分けされた学科に入って行きたくなかった。それに、専門に絵を勉強できるような学校は、総じて学費が高かった。とにかく人に評価されるようなうまい絵が描きたいとか、社会的に絵で大成したいとか、そういう願望はなくて、ただ僕は僕のために絵を描いていたかったのだ。だから少し熱心な高校の美術部くらいがちょうどよかった。おかげでテスト期間中は絵を我慢しているのがとにかく辛かった。
 晴れて期末テストが終わって、ようやくこれで絵が描ける、と僕は意気揚々としていた。ところが放課後になって久し振りに部室に行った僕は、そこでちょっとしたトラブルに見舞われた。描いている途中で保管していた絵が、どこにも見当たらないのだ。

 美術室の隣に美術準備室という小部屋があって、正確にはそこが僕の所属する美術部の部室だった。その部室の一角に、僕の作品も含めて部員達の作品がまとめられていた。硬いワイヤーでできたラックのようなもので、キャンヴァスが立てて少し斜めになって、並べて保管されている。絵と絵の中間にたくさんのワイヤーの仕切りがあって、ちょうど巨大なブックスタンドのようなラックだ。放課後に最初に部室にやってきた僕は、そこで自分の絵を取り出すためにラックに立てられた何点ものキャンヴァスを、一つずつ見ていったのだが、いくら見ても自分の絵がどうしても見付からなかった。
 見すごしたのかと思ってまた丁寧に見て行くが、しかしやはりない。焦りでじわりと冷や汗をかく。盗まれたのか、誰かの嫌がらせで隠されたのか、いいやわざわざそんなことをする奴がいるものか。そして自分の勘違いではないかと、また丁寧に見ていくのだが、やはりまたもない。すると次第にひどく腹が立ってきた。
「ない、ない!」と言って僕はまたばたばたとキャンヴァスを繰り返し確認していった。その乱暴に絵を探す様子を、後からきた後輩が目撃して、驚いてうしろから駆け寄ってきた。そして「どうしたんですか、大丈夫ですか」と声をかけてきた。
「ないんだよ、僕の絵が!」と僕は興奮しながら言った。僕の息は走ったわけでもないのに荒かった。
「本当ですか? ちょっと僕にも見せてくれませんか」と言ってその後輩は冷静な態度で僕の前に出た。人に助けてもらっておいて、これだけ探しても見付からないのに、人が変わっただけで見付かるものか、見付けられるものなら見付けてみろと言わんばかりの不遜な態度で、僕は一歩下がってその様子を見守っていた。しばらく後輩が絵を確認していくと、「何だ、あるじゃないですか」と言ってすぐに一点の絵を取り出した。
「いいや、それは僕の絵じゃないよ」と憮然として言う。
「だって、キャンヴァスの裏に名前が書いてありますよ」と言って後輩はその絵を裏返した。一般的に作品を完成させると、最後に自分の絵の表に、絵の具でサインを入れるものなのだが、僕の美術部では制作の途中でも誰の描いている作品か分かるように、木枠などにサインを入れておくルールがあったのだ。確かにそこには僕の筆跡で僕のサインがあった。「名前もそうですけど、テスト前に僕の目の前で、この絵を描いていたじゃないですか。しかも、この絵をコンクールに出したいとまで言っていたのに」
「コンクール。ああ、コンクールに、コンクールに出すのか、これを」と僕は狐につままれたような気持ちで言った。「そうか、そうかもしれない、どうもありがとう」
 そのやり取りをしているあいだに、どうしたのかと他の部員達が集まってきていた。すると、その絵を見付けてくれた後輩が、集まった部員達に対して、僕が自分の絵はちゃんとあるのに、紛失したと勘違いして怒っていたのだと愉快そうに紹介していた。
「嫌だなあ、しっかりして下さいよ、部長!」
「ああ、悪かったよ、ははは」と僕は言った。それから何か引っかかるものを感じた。「部長?」
「えっ、どうしたんですか、部長」
「部長なの?」と僕は言った。「僕が」
「何を言っているんですか、期末テストで三年生はみなさん引退して、今はもう高田さんが部長じゃないですか。まだ実感がないのは分かりますけど、いい加減そろそろ僕達のために自覚して下さいよ!」
 ははははは、とみんなが笑って、「頼りにしていますよ、部長!」などとわざとおだてるように調子を合わせてくる。
「本当に嫌だなあ、どうしちゃったんですか!」
「絵と一緒に僕達のことも忘れないで下さいよ!」
 そして僕は、ははは悪い悪い、などとおどけて滑稽な醜態を晒し、とにかくまた白々しい笑顔を浮かべてその場をやりすごすのだ。

 せっかく信頼する部長のために行方不明の未完成の絵を探してやって、なおかつそれを見事に見付けてやったというのに、何故だか依然としてその部長、つまり僕の機嫌はすこぶる悪いままだった。周囲の部員達としては戸惑うばかりで、理由という理由もはっきりしないまま、とにかく何か怒っているらしいと察して、ずいぶん気を遣っていた。全体的にみんなどこかおどおどとして見えて、窮屈な空気に耐えながら、とにかく顧問の指示に従って、題材を自分で選択してテスト前から途中にしていた、各自の絵を引き続き描いていた。僕の題材は机に置かれた静物で、イーゼルの脇からそれを見ているのだが、ただその対象と絵を交互に睨むばかりで、憮然とした顔をして一向に筆は進まなかった。
 普段からみんな作業中は自分の絵に集中して、それほど会話という会話はなかったが、その時ばかりは余計に静かで、音に敏感になっていた。ある後輩は立てて置いてあった絵の具の木箱が、ばたんとただ倒れただけで、ずいぶん焦った様子で、か細い震えた声で「す、すみません!」と小さく叫んでいた。しかし僕が何も言わないことで、余計に緊張が増してしまう。ある者はなるべく僕を刺激しないように意識して澄ました顔をして、目線も合わせまいと変に前ばかり見ているし、ある者はよく言えば気持ちに正直で裏表なく、不安げな顔を隠そうともしないで、僕の様子をあからさまにちらちらと窺っていた。鏡を見たわけではないから確かなところは分からないが、彼らの態度から察するに、よほど僕が怖い顔をしていたのだろうと思う。とにかく僕は自分のものとされるその絵が気に入らなくてたまらなかったのだ。
 イーゼルに乗せられたその絵は全体に調子がとれていなくて、変なところで明るすぎたり、暗すぎたりしたし、デッサンも狂っている、変に色を多用していてどこかちぐはぐな印象を与えた。そもそも絵の上に何を狙っているのかも分からない、テーマというものがない。立体としても、とらえられていない、静物に重さがない。その対象の見えない部分、例えば絵の中のものに触ることができたら、その裏側の造形さえ想像できるとか、手の上に載せることができたら、どれだけの重さか想像できるというのが、まずは目指すべき西洋画の本質だ。それは文学で言うところの行間のようなものだ。表面的な画風や文体なんて、どうだっていいのだ。
 絵の端々で試みているこれは何だ? パヴロ・ピカソでも気取っているつもりか? 形ばかり追いかけやがって。何て鼻持ちならない絵だ。ピカソは子供の時点ですでに完成された大人の絵を描けてしまっていたために、本来は自然と体験すべき子供の絵の時代を飛び越してしまって、それを欠落していると本能的に感じたことで、子供の素直な絵に還ろうとした、いわば根源的な自己のイデアに対する一種の望郷の念なのだ。ただ幾何学的に描けばそれというものではないのだ。
 これが他人の絵であったなら、どれだけよかったろう。これを僕が描いたというのが許せないのだ。絵を描くという行為は結局のところ、その人の理想を追いかけているにすぎない。自分の基準でしかないのだから、やりたいようにやればいい。しかしこれが自分の絵となると全く話が違ってくる。たとえそれが入れ替わる前の、こちらの世界での、ボクのやったことだとしても同じことだ。僕がこういった絵を描き得るというのが問題なのだ。自分の思う芸術のために絵を描いているからこそ、自分の基準から外れることが、たまらなく許せない。それを平然としてやっているのが、もう我慢がならない。それまで持っていた一切の理想とこだわりをまとめて侮辱された気分だ。
 ああ今すぐパレットナイフでこの絵を切り裂くか、せめて上から厚く絵の具を塗り重ねて潰してしまいたい、いやいっそ燃やしてしまえば……。
「おい高田、悪いけど、ちょっと手伝ってくれないか」
 ふいに声をかけられて。ほとんど無意識に見上げてみると、同じ美術部で同級生の、長谷というのが隣に立っていた。長谷は僕と目が合って一瞬、たじろぐような反応を見せたが、すぐに爽やかな笑顔を浮かべた。
 つい先ほどまで長谷は三つ隣の椅子で絵を描いていたはずだ。それが気付いたらすぐ傍に立っていた。入れ替わる前にいた元の世界では、この長谷が部長をしていたはずだ。長谷は普段から親しみやすい笑顔を浮かべていて、いつも必ず人が周りにいた。生来、世話焼きらしく、意見の調整もうまかった。後輩にも慕われていたし、顧問の信頼も厚かった。が、この時は一瞬だけたじろいだのもあって、どこか長谷の態度にぎこちないものを感じていた。
「用具室の前に置いてある、うちの道具が、ものの出し入れに邪魔だから少し避けておいてくれって、先生に頼まれていたんだ。忘れない内にやっておきたいから、ちょっと一緒にきてくれないかな?」
「ああ……、文化祭なんかで使った、あの大きいボードなんかのことか」と僕は言った。「別にいいけど、そんなのは今じゃなくたって、最後にみんなで手分けしてやればいいじゃないか」
「一年の子達には作業に集中させておいてやりたいんだ」と長谷は耳打ちしてくる。「頼むよ」
「いいよ分かった、行こう」
 長谷は終始、笑顔を絶やさなくて、この時は長谷が僕を連れ出そうとする意味もあまり考えていなかった。長谷の頼みに僕が応じてしまうと、長谷はそれまでの爽やかで親切な態度に反して、僕の準備が整うのも待たずに、僕ががたがたと椅子を鳴らして席を立っている内から、慌ただしく美術室を出て行ってしまった。長谷に置いて行かれて焦った僕は、時に不格好によろけたりしながら、なかば駆け出すようにして長谷の跡を追った。その美術室を出て行くまでの二人のやり取りを、他の部員達は黙って見守っていた。背中に部員達のそういう視線を感じながら、美術室から廊下に出ると、僕はうしろ手にその扉をぴしゃりと閉めた。
 廊下のかなり先の方に、背の高い長谷のうしろ姿があった。とにかく僕はその白いワイシャツの背中を追った。何もそんなに急ぐ必要はないはずだった。十分に時間はあるはずだ。制作時間を惜しむなら後の機会にすればいいのだ。しかし長谷が僕のペースに合わせる気配は全く見られなかった。ようやく長谷に追い付いた頃には、すでに階段下のスペースを利用した用具室前まで辿り着いていた。立ち止まって長谷の顔を見ると、美術室で普段に見せる爽やかな笑顔はなくて、むっつりとした真顔で用具室前の荷物を見下ろしていた。
「ここにあるのを、全部そっちに移動するんだ」と長谷は冷ややかな声で端的にそう言った。二人でやるにはずいぶんな量の荷物がそこには置かれていた。どのように運ぶかという事前の申し合わせはなかった。長谷の考えの説明もなかった。課題も対策も計画も結果も、どれもただ一つ、「これを運べ」という一点に尽きた。荷物の種類は様々で、文化祭などで使った大きなボードから、デッサンに使われたとおぼしき数々の道具類や、古い机や椅子まで、用具室前の通路脇に、まとめて置かれていた。一人が大きな荷物の端に行って両手を添えると、察したもう一人が反対側に行ってその荷物を二人で持ち上げた。とにかくどんどん荷物を運んで移動していった。ようやく全ての荷物を移動してしまうと、体がかなり汗ばんでいて、腕もぐったりとしていた。
「ありがとうな」と長谷はようやくまともに口を開いた。長谷も大分、疲れた様子で、壁にもたれかかって立っていた。「助かったよ」
「いや、別にいいさ、このくらい」と僕は言った。「でも、そんなに焦ってやらなくても、後にしてみんなで一斉に手分けしてやっちまえば、よかったんじゃないか?」
「そりゃあ、そうだよ」と長谷は言った。「これはお前を呼び出すための、ただの口実だからな」
「口実?」と僕は言った。「一体どうしたんだよ、さっきからお前、ちょっとおかしいぜ」
「どうしたって? それはこっちのセリフだよ」と長谷は言った。「美術室でのあれは何なんだよ、お前らしくないじゃないか」
「何が僕らしくないっていうんだよ」
「分からないのかよ、俺達が出て行って、今頃みんな、ほっと胸をなで下ろしているはずだぜ」
「本当かい?」と言って僕は皮肉っぽく笑った。「そんなに僕が嫌われているとは知らなかったな」
「そんなことを言っているんじゃないんだよ。いつもとのギャップが大きすぎて、可哀想に、みんな戸惑うか、怯えていたぜ?」
「何であの程度のことで、そんなに怯える必要があるんだよ」と僕は吐き捨てるように言った。「いや少しは緊張感があった方が、あいつらもかえっていい絵が描けるかもしれないぜ。普段、ぼうっと生きて下らない絵ばかり描いている連中なんだからな」
「何、言ってんだ、お前」と長谷は低い声で言った。「お前……、本当にタカダ、……だよな?」
 ただならぬ気配を感じて、僕は長谷の顔を見た。信じられないものを見たという形相で、僕の顔をじっと凝視していた。
「いつものお前だったら、そんな傲慢な言い方は、絶対にしないはずだぜ? まるで別人みたいじゃないか」
 ようやくそこで僕は自分が致命的な間違いを犯していることに気付いた。人として間違っているだけではなく、どうやらこれはこちらの世界のボクが築き上げてきた信頼を、根本的に破壊する行為らしかった。
「悪かったよ」と僕はその場の空気に耐えかねて叫んだ。「気をつけるよ」
「いいや、やっぱりお前、どうかしているぜ。絵を描くのは基本的に一人きりの作業だからこそ、みんなの連携が大事で、切磋琢磨してチームとして個々を高め合っていこうっていうのが、いつものお前の信条じゃないか」と高田は言った。「そういうお前を信頼しているからこそ、みんなはお前に部長を任せられているんだぜ? そりゃあ、いくらかプレッシャーはあるのかもしれないけど、」
「だから悪かったって言っているだろ!」
「怒るなよ、怒るのは卑怯だぜ」と長谷は言った。「何だよ、なくなってもいない絵をなくしたって大騒ぎした挙げ句に、人に見付けてもらっておいて、恥をかかされたとでも思っているんだろう?」
「何だって?」と僕は言った。「そんな下らないことで僕が怒っているっていうのかよ?」
「違うのかよ」と長谷は言った。「だったら何をあんなに不機嫌にしていたのか、説明してみろよ!」
 そこで僕は言葉を詰まらせた。まさか実は僕があちらの世界からやってきた入れ替わりで、こちらの世界において自分で描いたとされる絵は、自分の芸術の基準から外れているために、許せなくて憤慨していたのだとは、言えるはずもなかった。
「何を黙っているんだよ、言ってみろよ!」
 悔しいが何も言えない。「入れ替わり」を抜きにしても僕には何も言えないのだ。何故ならそれを話すには、何故その絵では駄目なのかを話さなければならないし、それを話すには僕の芸術に対する情熱を説明しなければならないし、そのためには僕のゴッホの絵を見た時の原体験を話さなければならないし、何故それほどゴッホの絵に共鳴したかを説明するには、父さんの死について話さなければならなかった。この場でそれらを一言で表現して、相手を納得させ、なおかつこの世界とのつじつままで合わせられるような、適切な言葉を僕は知らない。
「本当に悪かったよ」と僕は声の調子をいくらか落として、一字一句を丁寧に発音して言った。「長谷の言う通り、部長になってばかりで緊張もあったのかもしれない。思うように絵が描けなくて、ちょっと気が立っていたんだ。周りが見えていなくて、後輩には悪いことをしたと思う。教えてくれて、ありがとう。僕もそんなに完璧な人間じゃないから、また長谷に助けてもらえると嬉しい」
 それは仕方がないという一つの諦観であり、敗北だった。
 しかし彼らからしてみたら、それが真実なのだ。
 また、悪いことはそれだけに終わらなかった。

【中編】夜のカフェテラス(7) 原稿用紙191枚

(8)へつづく

【中編】夜のカフェテラス(7) 原稿用紙191枚

ある日の朝、高校生の主人公高田が自宅で起きてみると、十年も前に死んだはずの父親が生きていた。しかも当たり前のように朝食の味噌汁をすすっている。 主人公は失った何かを取り返すべく、父親のいる慣れない世界で、何かの発見を追い求める。 SF要素はありますが、最終的には純文学の着地を目指しました。

  • 小説
  • 短編
  • SF
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2020-07-02

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted