【中編】夜のカフェテラス(14) 原稿用紙191枚
完結作品。201911完成。
(14)
朝、起きたら、いつもならいるはずの父さんがリビングにいなかった。
まずいつもとは空気からして違っていた。家の中はしんとして、人の息遣いや、生活の匂いというものがほとんど感じられない。それは人が生活する音が極端に少ないことも影響していた。母さんが食器を片付けたり、掃除をしたりして、家事のために室内を歩き回る足音や、父さんや妹がトイレのドアを開け閉めする音や、そういった生活上の雑多な音だ。いつもなら朝食が用意されている座卓の上にも、何も置かれていない。テレビとエアコンのリモコンだけが、投げ出されたように置かれている。その黒っぽい木製の天板は、昨晩に濡れた布巾で拭いてできた水滴の跡が、白くうっすらと残っている。黒く死んだままのテレビ画面、昨晩に洗ったままキッチンの上に置かれたフライパンや鍋。レースのかかった明るい窓。まさか平日なのに昼近くまで寝坊して、みんなが出て行ったずいぶん後に起きたのかと、一瞬焦って壁かけ時計を見てみると、七時すぎで、まだなんとか始業時間には間に合いそうだった。
「邪魔」
背後からふいに声をかけられて、驚いて振り返ると、そこには制服姿の妹が立っていた。妹は少しだけ頭を傾げて、不機嫌そうな顔を僕に向けていた。妹はリビングに入りたいのだと気付くと、僕は「おお、悪い」と言って入り口の脇に体を避けた。妹は礼を言うとか、せめて手振りだけでも挨拶するとか、そういう最低限の気遣いもなく、黙って目の前を通りすぎ、リビングに置かれた棚まで歩いていった。そこで妹は片手をブレザーのポケットに突っ込んで、中からブレザーを前に突き出すような格好で、もう片方の手で棚に置かれたバッグをとると、ぐるんと回すように肩にかけた。それからまた僕の前を素通りして、玄関に向かって廊下を歩いていった。
内玄関の土間に片足で立って靴を履く妹は、まるで可能な限りの家族間のコミュニケーションを排除して、純粋な個人としての様式美を目指してでもいるように見えた。僕は試しに「おうい、今日は朝練ないの?」と声をかけてみた。すると妹は足首を回すようにして靴を履き終えて、玄関ドアを開けてできた隙間に体を入れると、ようやく僕を振り返ってぼんやりした目でこう言った。
「ウザ」
玄関ドアが閉まると、遅れて二度、かしゃん、かしゃんと鍵のかかる音がした。そしてまた家の中が静かになった。
リビングに戻った僕はひとまず一人で座卓の前に座った。それからなんとなくリモコンでテレビの電源を入れた。足を放り出して、最初に映った朝の情報番組をそのまま眺めた。今日も次の瞬間には何をやっていたか忘れてしまいそうな、当たり障りのない番組内容だった。家にはもう僕の他には誰もいないのかと思ったが、突然ばたばたと階段を下りてくる足音がした。その足音に目をやると、母さんだった。
ゆったりとしたベージュ色のパンツスーツを着た母さんは、飛び出すようにリビングに入ってきて、通りざまに僕を見ると「何あんた、まだ学校に行ってなかったの」と言って、脱衣所に入っていった。そして忙しなく水の流れる音やドライヤーの音がして、また脱衣所から飛び出してきた。
「ねえ母さん、ご飯は?」と僕はこれも試しに声をかけてみた。
「ああ、ごめん、私は適当にパンで済ませたから大丈夫、あんがと」
僕は自分の朝食の用意がないと訴えるつもりで言ったのだが、どうやら母さんは、僕が母さんの分の朝食は済んでいるか心配しているのだととったらしく、歩きながら手の平を僕に向けて「いらない」という印に左右に振っていた。それから「遅刻しちゃう」とぶつぶつ言いながら、髪をわしわしと手の平で押さえて、リビングのドアまで行ったところで、ぴた、と歩みを止めた。
「そういえば余裕そうだけど、あんただって、遅刻するんじゃないの?」と母さんは言った。「間に合うの、そんなに落ち着いちゃって」
「着替えて、すぐ出るよ」
「ああ、そう」と母さんは冷めた目で僕を見て言った。それからリビングを出て少ししてから、僕を呼ぶ声がした。「ごめん、鍵! 鍵とって、キッチンの上!」
内玄関の土間に立ってじれったそうに待つ母さんに、言われた通り鍵を届けてやると、母さんはにっこり笑って、あんがと、と言った。
「あんたも早く学校行きなさいよ」と母さんは言った。「じゃあ、行ってきます」
「行ってらっしゃい」
ばたん、と玄関ドアが閉まって、家の中から人の気配が完全になくなった。母さんの言った通り、これからゆっくり朝食を食べたり、のんびり身支度をしたりしている時間はもうないはずだった。とにかく急いで制服に着替えて、バス停まで走った方がいい。しかしそうするには、あまりに家の中は静かだった。意識の焦点を本来の生活に合わせられなかった。またリビングに戻って、僕は父さんの仏壇を遠目に見ていた。そしてその仏壇の前にゆっくりと歩み出て、座布団の上に座った。金の縁取りのある位牌を眺めた。お線香も焚かなかったし、鐘も鳴らさなかったし、お経も詠まなかった。ただ座っていた。
帰ってきたのだ、と僕は思った。
気付くと頬に涙が流れていた。最初は自分が泣いているのだとは思わなかった。濡れている、と思った。それが涙だと知った時にはすでにぼろぼろと、とめどなく涙が頬から落ちてきていた。何の前触れもなく、どういう意味の涙かも分からないままに、とにかく溢れてきた。鼻の奥がしびれて、目頭が熱くなった。嗚咽が漏れた。その場に体を畳んで、突っ伏した。倒れ込んで両手をそれぞれ、手の中で爪が刺さって痛いほどにきつく握っていた。床に額を押し付けて、床が湿って濡れた。声も涙も溢れて、しゃくり上げた。わけも分からず泣いた。何のための涙か分からなかった。どこに感情を持っていけばいいのかも分からなかった。勝手に溢れてくるのだ。誰のための涙でもないのだ。今はもう、どこにも行けなくていいのだ。
あああああ。
父さああん。
ああああああああ。
【中編】夜のカフェテラス(14) 原稿用紙191枚
反省は以下の通り。
直すなら全く別の作品として書き直したい。
このスタイルでは駄目だと、よく分かった。
この作品は非常に欠点(欠陥)が多く、また逆に改善できる素地は多く残っていると思う。まず、登場人物が全員あまりに主人公に対して、やさしすぎる。人はそんなにやさしくない。主人公に対して都合がよく、甘すぎる。
文章のタッチも軽妙にしようとして失敗している。なんとなく、それが読者に合わせてやっている、という上から目線の嫌味があって鼻持ちならない。元より計算して書けるタイプではないから、素直に感覚で書くべきだったと反省している。文学においては、特にそういう計算が読者に見透かされるのではないか。
冷静な文体なればこそ、空恐ろしさが際立つはずだ。僕は狂ったのかもしれない、という強い意志のもとに書くべきだった。
全体のテーマとしても、どちらかというと、今にして思えば、一見して日常をみんなして演じているのに、実はこの主人公は本当は別人なのではないか、という疑いを周囲のみんなが個々に内心に持っていて、しかしあからさまに暴くような真似は誰もしない(それをやると、その人が狂人になってしまう)、だからこそ空気を探り合うようなその不穏な雰囲気の中で、やはりまたみんな日常を演じ続けている、という筋の方がよかった気がする。目立ちたくない、という一種の同調圧力のようなものが、世間の悪しき常識の一端を担っている気がする。それを書けたのではないか。
その息苦しさの中で、その息苦しさを主人公が転嫁するような形で、あるいはなかば逆恨みのような格好で、主人公が元いたもう一人の自分をひどく憎悪する、その感情の成り立ちが味方のはずの彼女には理解できない。
そしてまたその主人公の彼女は彼女で、主人公が別人ではないか、という強い疑いを最初から持っていて、実は当初から狼狽しているのをひた隠しに隠していて、平静を装っている、だからかえって演技して最初にすぐに信じるような態度をとったのだ、という配置の方が適正ではなかったか。その方が説得力があったように思う。
何より、せっかくの満員電車での痴漢冤罪のやりとりがあったのに、それがいかせていない。このやりとりは、その話を聞いた彼女が、私の知っているタカダ君は、そんな反応は絶対にしない、という、強い確信につながる伏線として扱った方がよかったように思う。
そして彼女は実は主人公が本当に「完全な別人」なのか、主人公の人格を計っている。そして結論として、この人を愛してはいないという着地をした上で、恋愛とは別の好感をもってして、あなたが何か理由があってここにやってきたはずだと言う。それから「君は君の可能性に嫉妬しては駄目だよ」と忠告する。あなたは何かを欲しがっている、くらい言わせてもよかったかもしれない。
ラストはどうすべきだったのか、いまだに迷っている。主人公が個人的な感情で泣いたところで、ほとんどの読者には伝わらないから、主人公がほとんどの感情を封印して、なにげない会話として父親と部活の話をして、「いい絵が描けるといいな」と父親が言ってその言葉が主人公の心に刺さる、そしてあらゆる想いを飲み込んで、父さんとは一緒には帰れないと言って一人で歩いて帰ると、そこは元の世界、という方がまだよかったのではないか。
未来のまだ見えない高校生でもあるし、明確な結論を与えようとしなくてよかった気はする。
しかしながら、それでももがきにもがいて、一つの作品として仕上げようとした結果である。教訓という意味でも修正はしないで晒したいと思う。