【中編】夜のカフェテラス(2) 原稿用紙191枚
完結作品。201911完成。
(2)
学校に着くと、すでに二限目が終わって三限目が始まっていた。結局、僕は父さんを追いかけてきたのと同じだけの時間を使って、また下りの電車に乗って地元まで引き返してきたのだ。そして駅を出て、歩いてバス停まで戻ると、バスを待って学校に向かった。
正門には誰もいなかったし、暗い下駄箱にも誰もいなかった。廊下も誰もいなかった。途中で運動場に体育の授業で生徒がぱらぱらと集まっているのが遠目に見えたくらいだ。すでに授業が始まっていたから、みんな教室の中に収まっているのだ。静かな廊下に立ち尽くして、どうしようか散々迷った挙げ句、部室に行くことにした。授業中に頭を下げて教室に入っていって、注目を浴びる気にはどうしてもなれなかった。それに、どうせすでに午前中の大半を欠席しているのだ。同じことだ。
運よく美術の授業はやっていなくて、美術室は無人だった。がらがらと引き戸を開けると、油絵の具の少し酸っぱい匂いがした。照明をつけて変に教師に勘付かれたくなかったので、暗いままにしておいた。先の授業の名残なのか、次の授業の準備なのか、黒板の前には上半身ををねじってのけぞった石膏のラオコーン像が置かれていた。体の線と表情が豊かだから、技術が未熟でもわりと絵に描きやすい。椅子は全て教室のうしろに集められていた。僕はその椅子の一つを窓際に運んで座った。
窓の外ではどの学年か分からないが、運動場を押し黙って走る集団がいた。彼らはゆっくりと、しかし確実に運動場を周回していた。集団から引き離された二人がずいぶんうしろを走っていた。足音は聞こえてこなかった。あるいは彼らはかけ声くらいは出していたのかもしれないが、それも美術室までは届かなかった。大方、押し黙って走っていただろうと思う。学生の目的意識のない単調な運動とはそういうものだ。窓枠に頬杖をついて、僕はぼんやりとその光景を見て時間を潰した。一度、スマホを取り出して色々と指先でスワイプさせて画面を眺めてみたが、見る気がしなくてすぐにやめた。そしてまた窓の外を見た。よく晴れていた。
あれは何だったのだろう、と僕は思った。僕が家に帰ったら、やはりまた父さんは家に帰ってくるのだろうか。朝の様子を見る限りは、確実に父さんはこの世界に存在していて、世界からもその存在を認められていて、その辺の人と何ら変わらない、普通の生活を営んでいた。僕の記憶と認識以外には父さんはこの世界において何の問題もないように見えた。そして実際にそれはそうだったろうと思う。
だったらこの記憶は何なのだろう、と思う。亡くなった記憶、葬式に並んだ記憶、母子家庭で育った記憶、その全てをかなり詳細に僕は思い出すことができた。少なくとも昨日までは僕は母さんと妹の三人で生活をしていたのだ。頭の中の回路がおかしなつながり方をして、間違った記憶を持っているのだろうか。それに、記憶ばかりではない。記憶ばかりなら催眠術でも洗脳でも何でもいいが、どうにかすれば植え付けることだってできるかもしれない。しかしこの感情はどうだ。僕は子供の頃、父さんが本当に好きだったし、憧れてもいた。世の中の一般的な子供達と同じように、その好意は無条件なものだった。ただ父さんがそこにいるだけで嬉しかったし、ただ一緒に出かけるだけで特別だった。大人なら誰しもできることでも、それを父さんがやればとんでもなくすごいことに思えた。その反動として父さんが亡くなって抱え込んだこの喪失感は、体が大きくなった今でもこの手で取り出して、その輪郭や手触りを、ありありと確かめることができるのだ。あの誰しも与えられている、心から楽しみにしていた宝箱を開けてみたら、僕のだけが空っぽだったことを知った時のような、途方もない喪失感を、何かの間違いや勘違いで持てるはずがない。
何故だか僕はやり切れない気持ちになった。しかしその気持ちの持って行き場がなかった。気付けば三限目もあと十分もすれば終わる頃になっていた。椅子を片付けて、自分の教室に向かった。階段から廊下に出る角で、壁にもたれかかって背中にコンクリートの冷たさを感じながら、ポケットに手を突っ込んでチャイムが鳴るのを待った。北側の窓から斜めに入った光は、塩化ビニール敷きの踊り場の床を静かに白く輝かせていた。窓ばかりがやけに明るく、切り取ったように浮かんで見えた。
教師が教室から出て行ったのを階段の角から覗いて確かめてから、何食わぬ顔で僕は教室に入っていった。席に着くまでの途中で、クラスメイトの何人かが遅れてやってきた僕に反応した。三人で輪を作って笑い話をしていたある一人は、残りの二人に会話を任せて、話半分に聞きながら僕を眺めていた。ある一人は机に伸ばした腕を枕に机に突っ伏して、それまで目をつむるか薄目でぼんやりしていたのを、僕に気付くと同じ姿勢のまま僕の動向を注視した。ノートに何か書いていて、中断してほんの数秒間だけ、じっと僕を見ていた女の子もいた。そういう視線を尻目に、特に何も言わずに僕は自分の席に着いた。僕に反応したクラスメイトの何人かも特に何も言ってこなかった。誰も咎めなかったし事情を聞いてくることもなかった。「おはよう」さえなかった。ただ僕が「いる」ことを見て確かめただけだった。そして僕が四限目を待つ体勢に入ると、何事もなかったようにクラスメイト達はまた元の会話に戻って笑い声をあげたり、机に突っ伏して、組んだ両腕を枕に本格的に寝に入ったりした。
四限目の授業は古典Bだった。教師がドアを開けて入ってくると、教室に散らばっていたクラスメイトはがたがたと自分の席に戻っていった。号令に従って挨拶をすると、予定調和という感じで滞りなく授業は進んでいった。なんとなくそれが僕には気に入らなかった。授業が始まってすぐ、遅刻について咎められるのではないかと、本当は心配していたのだ。ところが誰も何も言ってこない。授業は完全な平常運転で進んでいた。
何も僕はトラブルを求めていたわけではない。それどころか目立ちたくなくて、わざわざ休憩時間を狙って教室に入ってきたくらいだから、何もないならない方がいいに決まっている。ところが実際に何もないと、それはそれでみんなに僕という存在が無視されて、自分という個の小ささを見せ付けられているようで、どうも気に入らない。僕はただ遅刻してきたのではない、無断で遅刻してきたのだ。教師も生徒も揃いも揃ってそんな不当な行いを前に、看過して問題にしないとは何事だろう。何かあって然るべきじゃないかと、自分でもどうして欲しいのかよく分からない。
自分を不利な立場に追い込むような、その不条理ともいうべき憤りは、朝の一件のために、まるで自分が特別な何かにでもなったような気になって、自我を肥大させていたせいもあったろうと思う。注目されたくないのに、無視されているのが、どうにもつまらないのだ。全くどいつもこいつも僕を無視しやがって。そんなことばかり考えていたら、せっかく遅刻してまで学校に出てきたのに、授業内容はほとんど頭に入らないまま、四限目が終わってしまった。
「どうしたの今日、遅刻してきたよね?」
昼休みの初穂の言葉で、それまで僕が抱えていた不満はあっさり解消してしまった。
「うん! そうなんだ!」
「ああ、うん、そ、そうなの、……色々と大変だったんだね?」
「そうなんだよ、色々あったんだ」
初穂は同じ中学出身で、卒業を機に付き合っていた。一年と少し付き合っていることになる。四限目が終わった昼休憩に、トイレへ向かう途中の廊下で僕は初穂と顔を合わせた。廊下のずいぶん先から初穂は笑顔になって控え目に手を振りながら近付いてきた。彼女が手を振ると、肩にかかった黒髪が少しだけ揺れた。どうやら人づてに僕がまだ学校に出ていないのを知って、様子を確かめにきたらしかった。僕が学校に出ていて、なおかつ見た目に健康上の問題はなさそうだと知って、初穂は安心してしまうと、今度は昼ご飯に友達を待たせているから行ってくると言った。
「あんまり放っておいて待たせると、裏切り者呼ばわりされたら困るからさ」
「そうか、僕は今日は弁当を持ってきているから、このまま教室で食べるよ」
「そうだね、いつも高田君もお弁当だもんね」
「うん、そうだね、そうかもしれない、……いつも弁当かもしれない」
「何それ、変な日本語」と初穂が笑う。「どうしたの、大丈夫?」
「なあ、初穂」と僕は言った。「テスト前で、そっちも部活ないだろ? 今日、一緒に帰れないかな? 聞いて欲しいことがあるんだ」
「何、それ真面目な話?」と初穂は眉をひそめた。
「真面目な話」
「深刻な話なの?」
「真面目で、深刻な話だよ」と僕は言った。「初穂にしか話せない話」
「そうなの、分かった」
初穂はまた小さく手を振ると、小走りに自分のクラスへ帰っていった。どこか表情が硬かった気もしたが、この時はあまり深く考えなかった。それから僕はトイレで用を足してしまうと、自分の席に戻って弁当を広げた。その弁当を広げる行為をなんとなく僕は恥ずかしく感じた。ひどく過保護な子供になったような気がした。購買のパンを食べているクラスメイトが僕を見ていないか、思わずちらちらと確認してしまった。弁当の中身はご飯と生姜焼きとだし巻き玉子とサラダが詰まっていた。幼児向けの飾りがあるわけでも何でもなかったが、それでもやはり僕はその弁当を恥ずかしく思った。
ずっと母さんは保険外交員の仕事で忙しく、昼の弁当はおろか、晩ご飯もコンビニ弁当で済ませるか、逆に僕が簡単な料理を作っておくことも多かった。昼に弁当を持たせてくれるなんて、昔から遠足か運動会の時くらいのものだった。朝、とても早く起きて弁当を作ってくれる、それがかえって嬉しかったのだ。とにかく母さんは必死に働いていた。弁当がなくたって、不満などあろうはずがなかった。
確かに生姜焼きはうまかった。僕の好物だった。がつがつと一気に平らげてしまった。確かにうまい。うまいが、しかし何か腑に落ちない。どういう風の吹き回しなんだと思った。
いや、そうではない。
いつも? と僕は思った。いつも高田君もお弁当だもんね?
そういえば母さんも朝、そんなことを言っていた。
ご飯を炊き忘れて、弁当がなかった時に僕が怒っていた?
全く記憶にない。
それらの言葉は僕の記憶する日常とは完全にかけ離れていた。しかし現に目の前には運動会で持たされた以外では、初めて高校で食べた弁当箱があった。僕の知る日常と食い違っているのは、父さんの死についてだけではないのだ。根本的に何かがずれてしまっているのだ。弁当くらい大した問題ではない。そういう意味では、父さんが生きている以外では、そこまで僕の知る日常との大きな乖離はない。高校も、クラスも記憶の通りで、ちゃんと初穂とは付き合っているし、クラスメイトの顔触れも同じだった。ただそれがかけ違えたボタンのように、こまごまとしたところで、ほんの少しずつ違っているのだ。その小さな違和感は、普段通りすごしているだけで、様々な場面で感じることになった。
例えばクラスメイトで一番、仲のよかった城戸という友達に話しかけた時のことだ。それが、やけによそよそしいのだ。昼休憩で弁当を食べ終わったしばらく後、城戸が一人で自分の席に座っている傍に寄っていって、「よおキドチン、午前中、サボっちゃったよ」と気安く声をかけてみたら、「あ、えっ、高田君」とキドチンは体を硬くして、慌てた様子で答えていた。キドチンは体が小さくて視力が悪いのをコンプレックスにしていて、人付き合いも苦手だったが、僕にだけは心を開いていた。話してみると、なかなか面白い奴なのだ。普段のキドチンなら僕のことを「高田君」だなんて呼んだりしない。「高田真澄」というフルネームに対して、「ダーマス」というあだ名で呼んでいた。それがどうして自分が声をかけられたのか分からないという、「よ、四限目からだったっけ? な、何かあったの?」と、いかにも態度を決めかねている調子で、たどたどしく答えるのだ。
「いや、別に何もない。……ただサボりたかったんだ」
「あはは、た、高田君でもそういうことがあるんだね」
それからキドチンは愛想笑いを浮かべながら、大して変わらないのに眼鏡が落ちてくるのをしきりに気にして、指先で眼鏡の縁を上げていた。
「悪かったね、休んでいたのに声をかけて」
「ははは、いやいいよ別に、ははは」
違和感を覚えたのはキドチンだけではない。その後も万事がそういった調子で、ことあるごとにほんの少しずつ、僕の知る日常とは食い違っているのを目の当たりにした。ある時には今まで全く話もしたことのない、クラスで一番いけ好かない槙村というガリ勉が「今回は負けない」とよく分からないことを言ってくるし、差別意識が強くて毛嫌いしていた池谷というクラス担任が、帰りがけに声をかけてきて、いよいよ遅刻を咎められるのかと覚悟していたら、「期待しているぞ」とこれも気安く肩を叩いてきた。気味が悪いし、何しろ全く意味が分からない。首を傾げたまま、そんなことが続いてついには放課後になってしまった。
初穂は下駄箱の脇に立って一人で僕を待っていた。
夕方の昇降口は少し黄ばみ始めた西日が差して明るかった。僕と初穂はみんなが一斉に帰る時間から少し遅らせて待ち合わせて、一緒に人のまばらな校舎を出た。ほとんどの部活が休みだったから、放課後は校舎も校庭も普段とは打って変わって静かだった。校門を出てすぐ、バス停に向かって歩く途中で、僕は初穂を学校の近くにある公園へ誘った。もうすぐテストなのに勉強はいいの、と初穂は念のためという感じで言った。どうしても聞いて欲しいことがあるんだと僕が言うと、少し緊張した面持ちになった。この時、初穂の感じていることを察することができていればよかったのだが、とにかく僕は混乱していたし、とても人に気を遣っている余裕はなかった。
川沿いの公園を歩いて、木立の向こうに川の見えるベンチに、僕達は並んで座った。背後には花をつけたアベリアが茂っていて、人の視線も気にならないし、木立の陰と明るい川とのコントラストを僕達はしばらく黙って眺めていた。
「別れ話なら、早めにはっきり言ってよね」と突然、初穂は言った。
「別れ話?」と僕は驚いて言った。「何で別れなきゃならないんだよ?」
「だって話があるんじゃなかったの?」
「いや話はあるけど、別れる気なんて、さらさらないよ」
「どうしても聞いて欲しい真面目で深刻な話なんでしょう? 別れ話じゃない真剣で深刻な話って一体、何なの?」と初穂は眉をひそめて言った。「しかもよりにもよって、何でこの時期なのって、すごい考えちゃったじゃない」
「悪かったよ、ごめん」と僕はまずは謝っておいた。「確かに大事な話だけど、もっと個人的な話なんだ」
「ふうん」と初穂は不満げに鼻を鳴らした。「そういえば今日は遅刻してきたよね、話って、それが何か関係している? 朝、何かあったの?」
いざ話すとなると何から話せばいいのか分からなかった。ことに問題の核心を話すことに、僕は大きな抵抗を覚えた。それまで誰かに話したくて仕方がなかったというのに、誤解を与えず正確に説明できる自信がなくて、途端に尻込みしてしまった。それはいまだ自分で状況を正確に理解できていないことに対する、漠然とした無意識の畏れだった。かといって、ここまできて話さないというわけにもいかない。追い詰められた僕は、ざっと今朝に起きたあらましを話した。が、初穂は聞き始めてすぐ、よく分からないという顔をした。それは当然で、僕が初穂にした説明は、確かに事実を話してはいるのだが、何故そうなったのか、何故そうしたのかという動機や理由が全く不明瞭で、絶妙に核心に触れずに今朝の出来事を羅列した、いわば情報の氾濫だった。
話は必死に父さんの跡を追って電車に乗ったところから、勘違いした女に注意されて、ちょっとしたいさかいに発展して電車を下りることになったところまで、一気に続けて並べ立てていった。すると途中から自分でも何を話しているのかよく分からなくなってきて、電車で女に注意された話をしたあたりから、あの女の嘲笑が思い出されてきて、怒りが蘇ってくると、話の趣旨がスライドして、気付くといかに自分が電車で理不尽な憂き目を見たかを必死に訴えていた。あの女はよっぽど自分が人より高級だと勘違いしているんだ、と僕が言うと、ふうん、と初穂はつまらなそうにまた鼻を鳴らした。
「いや、それは君が悪いでしょ」と初穂は冷静に言った。「嫌だったと思うよ、その女の人。どうして謝らなかったの?」
「別にその人を見てなんていないんだ、何を謝るんだよ」
「勘違いさせたなら、その時点でよくないと思うよ。すみませんでしたで、いいんじゃないの」
「こうやって冤罪は生まれていくんだ」
「でも本当は見ていたんじゃないの? すごくかわいかったりして? 高田君、なんだかんだ変態的なところがあるもんね?」
「本当に見ていない」
「少しだけ触ってみたかったり?」
「ない」
「でも胸元やお尻はどうしても気になってしまう?」
「だから、ないって、しつこいな」
そう、と言って初穂が笑うと、また僕達は木立の向こうの川を眺めた。どこか遠くで子供の泣く声がした。いかにも遠くから風に乗って届きましたという感じの、低くくぐもって聞こえる声だった。散歩の老夫婦が通りかかって、「こんにちは」と初穂が言うと、やさしそうな笑顔を浮かべていた。チチチ、と鳥の鳴く声がした。
「でも話したいのは、その話じゃないよね?」と初穂は言った。「どうしてお父さんの跡を追っていたの?」
「それは、」と僕は答えに詰まって言った。「つまり、確かめようとしていたんだ」
「何を?」
「つまり、」と言って僕はまた答えに窮した。あらゆる言葉の手触りを手当たり次第に確かめていって、どれか一つくらいは当たるだろうと僕は胸の内に答えを探していった。僕が父さんを追いかけたのはほとんど衝動だけで、そもそも明確な理由など持たなかったのだ。そして僕がようやく絞り出した答えは、自分でも予想だにしないものだった。「父さんに、何を言ってやるかをさ」
【中編】夜のカフェテラス(2) 原稿用紙191枚
(3)へつづく