白梅異聞
うるはしのまなのくに、あがおほかみのうつそみを
一
むめのまなうらにはいつも、白い梅の花ぶさが揺れていた。
ましろく、やわやわとしたふたつの花が澄んだ白甁のような影を落とし、真中に群れる蕊は乙女のほほめいて染まっている。その蕊からあたたかな乳がしたたり、むめを癒す。
……花と見えたのは、おんなの乳房であったのだった。
赤子のむめは、その乳房をゆたゆたと見上げている。手を伸ばす。しかしやわらかな肌には触れず、代わりに風が渡って花を散らした。さらさらと、貝の薄ひらめいて止め処なくこぼれてゆく。はだれてゆく。
さよさよと。
はだはだと。
風はすずろに渦を巻き、くるくると舞い昇る。どうどうと波が鳴る。
むめは恐ろしくなってこぶしを握った。顎も手足も岩のごとく押しかたまり、泣き声すらも上げられずにむめは叫んだ。喉の奥だけで烈しく悶え、たれか来、母よ来、としゃくり上げる。
はわさま。
かかさま。
おれはいったい、誰の子ですか。
*
あかつき方に獲った魚を売り歩く、漁師の声がして目を覚ました。清の海と呼ばれる湖に近い、八代の町である。
清の海には、この真奈の国を守る比売神の御座所がある。いつしか湖のそばに神を祀るやしろが建ち、人がつどって集落となった。八代は、そのようにして成った町だ。
町には湖の幸をすなどる漁師が多く、朝早くからにぎにぎしい。荒れた茅屋の中にいれば、外の騒ぎは筒抜けに聞こえてくる。
むめはそっと息をつき、頭を起こした。肩から黒髪がすべり落ちる。そのむめの髪を、熱くねばった壮士の手が梳いた。
「覚めたか」
壮士の声は、肉のぬくみをともなって、からだの下から響いてくる。むめは、仰向けに横たわった壮士の胸へ伏していたのだった。浅黒い肌がむめのうなじを抱き、おさな子をあやすように撫でている。
むめはさりげなくその腕を除け、髪を整えるふりをして起き上がった。
「もう、物売りが起き出して。あこう様も、そろそろお発ちにならねば人目につきます」
「俺はかまわぬさ。もうちくと居れ」
あこうは笑い、むめの髪をたわぶれに引く。むめは爪でその手を弾き、千々に脱ぎ捨てられた衣を拾った。
「わたくしは行きますよ。今日は朝の勤めをせねばなりませぬ」
「堅物なことよなァ」
あこうは頭を掻き、くつくつと喉を鳴らす。ぬったりと起きた体躯は、赤毛の狼のようなふぜいがあった。実のところ、この壮士の名そのものが、あかいぬ、という意である。肉を喰らい、血も精もすすり尽くすけだものだ。
あこうは、清の海の南西にある越山を根城とする、賊の頭領であった。
賊でありながら、やしろの神官と手を組んで峠の往来を守っている。ゆえにこそ、むめの身をほしいままにする禄をあたえられていた。むめは、やしろに稚児として飼われているおのこである。
むめは衣をまとい、水引で髪をくくった。そうしてふりむいた頤を、あこうの手がすくい取る。むめはその胸を押し返した。
「これ以上は、なりませぬよ」
「わかっているさ。……付いておるぞ」
ぐい、とあこうの親指がむめの唇を拭った。乾いた淫水がこびりついていたらしい。あこうはそのまま、愉快げに唇を吊り上げる。
「お前さん、今年で十七だったか。生き比売神でいられるのも、あと幾年のことだろうな」
あこうは、まだ目立たぬむめの喉仏を指で押した。むせそうになるのを耐え、壮士を見上げて目を細める。
「それまで、せいぜいお可愛がりくだされませ」
「よう言うたな。ちらとも心に思うておらぬくせに」
「……」
むめはいらえず、目を伏せてきびすを返した。その肩ごしに、あこうが腕を伸ばしてくる。後ろから抱き込まれるようなかたちになった。
「駄賃だ。昨夜も楽しませてもろうたぞ、あや比売の太郎子どの」
むめのふところに、生米の包みが落とされる。あこうはそのまま、手をふって去っていった。むめもまた宿を出る。ひいやりとした、しかしじきに蒸し始めるであろう夏の朝方のかおりがした。
庭は蓬やむぐらが生い茂り、邸も屋根もぼろぼろに朽ちている。むめとあこうは、いつも市の片隅にあるこの空き家を使っていた。
垂れ布をかぶり、市の人波にまぎれ込む。天幕の下で取引をするおなごや男、振り売りの翁に若人、桶を叩く芸人くずれに壺装束のおんなや侍従、武人、童、異国の僧侶。
むめは目を合わせぬよう足早に町をすり抜け、やがて野に出ると走り出した。湿った湖の風がさばさば渡る。垂れ布を頭上にかかげ、風を孕ませて駆けてゆく。
そのうちに湖のほとりへたどり着き、むめは垂れ布を投げ捨てた。まろぶように水際へひざまずき、湖のおもてを覗く。
澄んだ鏡面に、くっきりとおのれの顔が立ち現れた。目も鼻すじもすっきりとした、雛のようにうるわしいむめの顔。ほほや唇などは、まるで蜜をふくんだ乙女のようにふっくりと色づいている。
――……好文比売様。
むめは胸のうちで呟き、顔を上げた。
湖の真中に、みっしりとみどりを茂らせた梅の大樹がそそり立っている。
そして大樹の中ほどには、磔にされたかのごとく樹と混じり合う若いむすめのからだがあった。十二、三歳ほどの幼いむき身をそのまま晒し、見目にそぐわぬゆたかな黒髪を枝に垂らして眠っている。
かのむすめこそが、この真奈の国を守る比売神、好文比売命であった。……その美しいかんばせは、むめの顔とよく似ている。否むめのほうこそが、比売神と瓜ふたつであるのだった。
「――っ、く……!」
むめは畜生、と叫んで生米の包みを叩きつけた。飛び散ってあたりに弾け、水の中にもこぼれてゆく。むめはそれを、さらに掴んで放り投げた。幾度も幾度も、米がひしげて砕け果てるまで。
それでもなお、湖面に映ったおのれの顔は変わらない。かの比売神と兄妹であるかのごとく、あるいは姉妹であるかのごとく、うるわしく歪んでさざ波立っている。
むめはそういう、おのこであった。
比売神の乳で育ったみなし児――あや様の太郎子と呼ばれ、生き比売神ともうたわれる稚児なのだった。
*
――比売神の乳を受けて泣いていた。
神官は、むかしのむめをそう語る。
むめは比売神の樹の根元に捨てられていた赤子だった。その頭上におわす比売神は、小さな乳房から絶えず乳をこぼしていた。
まるで、比売神が泣いているように見えたという。肉親なき赤子を憐れみ、慈悲を垂れる母のように。
ところが、赤子は乳を拒んだ。顔じゅうを皺にゆがめ、口へ伝うしずくを吐いてしゃくり上げる。ぼろ布にくるまれた手足は、目に見えぬもののけを追うようにふり回された。
げに罰当たりな悪童よ、と神官はいまも眉をひそめる。おまえはこの真奈の国にただひとり、好文比売様の恩寵を受けたおのこであるのに、と。やしろの、あるいは国のいかなる青史を紐解いても、比売神のかような恩恵にあずかった者はいないらしい。
ゆえにこそ、かつて神官はむめを拾った。これこそ比売神の養い子、やしろに幸いをもたらす瑞相ぞ、と祀り上げて。
――拾われとうなど、なかったのに。
むめは清の海を後にし、真狩の森を踏みしだいた。
真狩は、やしろの社殿をとりかこむ森である。清の海のほとりにへばりつくように、三日月のかたちに曲がって成るために曲といい、転じて真狩となった。
朝の森はいまだ暗く、夜明けのたおやかな光など糸ほどしか届かない。されども、やしろの稚児であるむめには通い慣れた道であった。
「――むめ!」
森を抜けたところで、しわがれた怒声が飛んできた。
石づくりの門のところに、紫の袴を履いた老年の神官が立っている。神官は気をとがらせた餓狼のように門前をうろついていたが、むめを見たとたんに早足となった。ぐいとむめの腕を掴んで引きずり出す。
「今日はお客人がいらっしゃる。早う戻れと申しつけておったろう」
「申し訳ございませぬ」
むめは目礼し、引かれるままに従った。口ごたえをしたところで、どうともならぬのを知っている。ならば要らぬ力は使いたくなかった。
身を清めてこよ、と命じられ、奥の井にある泉へ向かう。そこで禊を終えたのち、衣を替えて本殿に渡った。
本殿はやしろのもっとも北にあり、清の海にせり出して建っている。紅の柱で檜皮屋根を支え、下は吹き抜けになった平舞台のようなかたちである。殿からはまっすぐに清の海、そして湖の真中に立つ好文比売命の御姿を拝することができた。
むめは、青葉の茂った梅が枝を手に廊を進んだ。右手から本殿に入る。その瞬間、ほう、といくつかの嘆息が漏れた。おどろきと熱の籠もったまなざしがむめを射る。
客人は、都の公達とその従者とおぼしき一行、十余人。むめは目を伏せる合間にそれと見てとり、床へ額ずいた。緋袴のうえに、白い水干の袖が広がる。
その所作のひとつひとつを、客人たちが固唾をのんで見守っている。むめが顔を上げると、おう、とどよめきが起こった。
「まこと、好文比売様に瓜ふたつの……」
「生き比売神じゃ」
「畏や、畏や――」
従者らが手を擦るかたわら、上座にいる公達は胡坐をかき、その膝に頬杖をついてむめを見ていた。ねぶるような目が肌をなぞる。むめはその目をかわし、梅が枝をかざして立ち上がった。
をろがみ
をろがみのみて、あまくはし
あやこのむひめのおほかみに
かしこみ
かしこみふして、まをさく
すう、と枝で空を祓い、身を転じて比売神の大樹を指す。腰を落とし、足を前に。擦り、跳ね、どんと床を鳴らして声を張る。
いとけうらなる
いとけうらなる
はなのいのちのさきがけに
腕の先から梅が咲く。銀にかがやく花をひらいて、冬の凍て雪を融かしてゆく。むめは融けたしずくと成る。一箇の露とおのれを結び、落ちて大海の泡となる。
あまかけたまへ
しろしめたまへ
うるはしのまなのくに、あがおほかみのうつそみを
水面より光はそそぐ。みなそこで光を仰ぐ。袖をひらけば光は琴に、弦を鳴らして音を産む。音を産む。
たまゆら響く琴が音に、つい、と足先を遊ばせて。むめのからだは宙へと昇る。珠のほたるの魑魅と化して、天へらせんを描きゆく。
たみくさ、よひと、あをひとぐさ
あはれ
なさけをたびたまへ――
舞い終えたむめは、元のとおり端座して手をついた。深くかしこまるむめの頭上に、公家らしく細い声がかかる。
「率て来」
それきり、公達はゆるりと席を払って去った。従者があわてて後を追う。むめは他の付き人にうながされ、さらにその後ろを追った。
やしろの者たちは誰も来ない。ただ、一陣の風が渡って湖面を散らした。比売神の樹も風になびき、せせらぎのような音を残して静まる。
むめはそのさまを見、わずかに目を細めた。胸にちりとした苦みが走り、憤りともまばゆさともつかぬ思いが息をふさいだ。
白梅異聞