Windfalls

福丸

Windfalls
  1. 1983
  2. 2013

1983

1983
リコが追いかけるから、僕は突っ走って生徒たちの行列を駆け抜けたんだ。
なんて体が軽いんだろう。
イギリスの気候は変わりやすくて、今日みたいな天気でも足元はぬかるんでいる場所がある。特にここは、木がのびほうだいで林という具合ではないんだけど、日陰になったところはぐちゃぐちゃだ。
フランスの子供が駆け回るみたいに、僕はいくら走っても走っても足りなかった。
木立をぬい走り続け、太陽の下に出ると肌がちくちくした。
ソックスが足首に丸まっているけど気にしならない。むき出しのアキレス腱に冷たい泥が跳ね返る。僕は急に体があったことを思い出す。

ジョージ・ルービスが馬鹿な雄叫びをあげた。
思わず振り返ると、リコはもう追いかけてきていかった。ジョージはまた一人、どっか別の世界にいってるみたいだ。訳のわからないことをつぶやきながら、一番後ろからついてくる。

ミスター・ボールが両肘を抱えながら大股に歩いてくる。
ジョージの大声に振り返って眉をしかめたけれど、何も言わなかった。
そのかわり見ている僕に向かって、眉を引き上げ首をかたむけた。「君も僕も一人の、ただの人間」とその目がいっていた。すごくいい感じだ。
教師って仕事、悪くないかもしれない。

でも追い詰められた学生は、やっぱりあんな風になるんだろう。
僕だって大人になってもこうやって走り回っているんだから。

あっちでチョウが政治の話をしているよ。
あいつは二十年後の彼は自国のリーダーだろうね。
ハイブランドのポロシャツとシワひとつないチノパンは僕らの中で浮いてすらいる。それでもあれだけ話を聞きたがる人間がいるのだから、人間的な魅力がある証拠だ。それがカリスマ性っていうものさ。
ほら、また指をおったてて、政治批判をしている。ここが川縁の雑木林だってこと忘れるね。

いや、こういう場所だからこそ、議論の翼が広がるのかもしれない。
そばにいるのは、ジョルジュだ。
あいつは明らかに天才だ。ピアニストの絶対音感みたいに、彼はなんでも数式にあてはめる。数字は、何かを求めるためのルートではない、美しい数列の末に、美しい解があると、云うんだ。
見てごらん、ジョルジュの薄着なこと。ヨーロッパのラテンはフランスから始まっているという説があるけど、ジョルジュを見ればうなずける。
ペラッペラのTシャツは、何度パーシルの洗礼を受けただろう。百回は熱湯で洗濯されているよ。来た時は、みんなトランクは同じ数だったはずだから、あいつのはきっと本でいっぱいだっただろう。
服には気を使わない方だ。それとも彼にとって、体はヒートアップしすぎた脳をクールダウンするための装置なのかもしれない。毎朝散歩しているらしいし、授業の合間に走っているのは彼だけだ。いつも同じ黄色のTシャツだ。
見るからに、今ジョルジュの頭脳はホットな状態だ。胸の前で手を組んで指を動かしている。チョウの政治理論は、ジョルジュの頭の中で数式に換算されているのを僕らは目撃しているんだ、きっと。

Tもいる。
ジャパニーズはいつもまわりを気にしているのが見え見えだ。
Tは、絶対面白いやつだ。モンキーみたいさ。一見してそれとわかるけど、本当に何を考えているかは、絶対にわからないんだ。ただ、その場の居心地の悪さとか、誰かのことが好きなこととか、ランドレディがうるさいこととか、そういうことが手に取るように見える。
全部気にしなきゃ済むことなんだけどね。
もっと大事なことがあるだろって、言いたいよ、僕は。

最初、リコはTが好きなんだと思った。
Tの意味深な仕草にもいちいち反応していたからね。同胞愛っていうやつかな。リコは甲斐甲斐しく面倒見てやってたさ。
夫婦かなとも思った。そうじゃなかったけどね。
こっちへきてから、リコはどんどん解放された。その変わり様が劇的だったから、アメリカ娘みたいになるんじゃないかって心配した。
でもリコはこっちの空気を吸収して、楽に呼吸する方法を手に入れたみたいだ。
必要なことは説明しなくちゃいけない。
説明しないでもわかるような鋭敏な神経はいらない。ジャパニーズじゃなくても、感情は読める。読まれちゃ困る感情だってある。説明しない時は、黙っていて欲しいさ。

授業中、ミスター・ボールがこの川縁のことを大学の学生たちの特別な場所だったと説明した。
ぬかるみばかりで日陰ばかりのこの場所がと疑っていたよ。

ごらんよ、あの木陰で吐いているヤツがいる。あれは有罪確定だね。二人に抱き抱えられてさ。マリファナ吸ったやつは、本当に重いんだ。完全脱力しているから、骨から筋肉まで全部重力の影響受けて重いんだ。
こんなところでやっちゃダメだよね。複数の語学学校がここをエクスカージョンに使っていることを想像しなかったのかね。

ミスター・ボールは、イングリッシュ・ハウスの運営責任者を兼任している。
ホールで勉強する留学生のために、ホームステイ先を探したり連絡役をしている。
ジョージはもうホールに通って二年だ。バチェラーは持っているのに語学のスコアが恐ろしく低い。東側の学生のために年に二度、入学期間をもうけているから、つごう三回スクリーニングに落ちていることになる。かわいそうに。
ジョージは厄介なやつだけど、ミスター・ボールにとっては間違いなく放っておけないのだろう。

足元がどんなにぬかるんでいても僕には関係ない。
イギリスのコロコロ変わる天気が、僕に分別を付けさせようと邪魔をしたって無駄だ。
なにせこんなに体が軽いのは久しぶりなんだから。
思春期を迎えた少し前の僕らみたいさ。
あの時も馬鹿みたいに走り回った。自転車にまたがり、石畳の広場を全速力で走り抜けても飽きることがなかった。白夜の夏のアパルトマンの谷間に、僕らは足音を響かせ叫んだ。
忘れていた自由を思い出した。
体は軽く、思想を妨げることになるとは想像もしなかった。あくまでも自由なんだ。僕らはもともと肉を持たない、思想だけの存在だった時代を思い出したんだ。
個体の入れ物を持ってからやっと灰色のタンパク質が成長し、思い通りにフィジカルを動かせるようになった瞬間だった、今覚えば。
あの瞬間に僕らは人間として出来上がった。

リコはあの晩、泣いていた。
どんどん解放されていったリコは、それが元の姿だというように変わっていった。他人を観察することがなくなった。誰かが音を立てて椅子を引いてもびくつかなくなったし、ジョージがあの大きな手でリコの肩を抱いても、ひどく驚いたりしなくなった。
手をあげてアイデアを進んで発表するし、口に出すことは全て実行できるという具合で、自信にあふれていた。
だからあの夜は驚いた。
それから僕らの関係は変わった。
僕はもうリコから目が離せなくなった。せっかく物理的な自由を手に入れたはずだったのに、僕はリコのことが気になってしかたなくなった。

僕らは無事にスクリーニングをパスした。
だから今日が、最後のエクスカージョンだ。
イングリッシュ・ハウスが始まった時、最初のクラスでミスター・ボールは、川縁のティーハウスの話をした。ここにある名だたる大学で勉強した天才たちが集まった特別な場所だという。そういう話をすれば、コンプリヘンションの能力のあるやつは自分たちで行くと思ったらしい。
でも実際は、僕らはホームステイの家じゃなく、丸ごとハイヤーしているロシア人の一軒家に集まって一晩踊り狂った。それからファーイーストで開催された真夜中のフットボールを衛星放送で見たんだ。
だってやることは山のようにあったし、スクールが提供したラーニングファシリティーは十分じゃなかったからね。僕は、国の仲間に連絡したり、政治的変革が青年期の国民に与えた経済観念の変化を調査したりしていた。出身も民族もバラバラだし、それぞれの国の政情や経済もちがっていて、サンプルをとるにはこれ以上の環境はなかったんだ。おかげで、英語のスコアが必要なレベルに達すると、インタビューを受けるとき自説の経済について風呂敷を広げることができたんだ。そしてパスよ。

みんなそうさ。ミスター・ボールは、素晴らしい頭脳を生み出したこの土地のディープな名所を紹介して、僕らに感銘を受けさせたかったけど、もう院生だからね。僕らが固執すべき世界は別にあったのさ。
で、ま、いってしまえば、諦めきれないミスター・ボールはどうしても学術世界の一端を僕らに見せたくて、最後の授業を諦めて連れ出した。

みんな、いっちょまえに名門大学の学生気取りだ。
本当に学生になったら、こんなところを十人以上がつるんで歩いたりしないさ。
いつ朽ち落ちてもおかしくないようなバスケットがついたストレートハンドルの自転車にまたがって石畳を走り回っている。自分がどう見えるかなんかに関心ない。研究に浸かって、他のことなんか見えないんだから。

でも、みんな晴れ晴れした顔をしているね。
あそこを歩いているのはスペイン人のグループだ。
レネイは明日には東部の大学へ行く。大学院が始まるまではまだ二月ほどあるけど、もう現地へ行って部屋を見つけるんだそうだ。彼女も言葉で苦労したクチだ。自分の国に帰れば、歯学学会のプレゼンテーションの常連なのだ。ミスター・ボールから遅くまで個人レッスンを受けているのを、自習室からの帰りに見かけた。握ったトランスクリプトを振りながら、自分には勉強する資格はあると涙ながらに訴えていたっけ。行き先が決まってよかった本当に。

ドリカはいつも男と一緒だ。
学生時代が人生で一番楽しい時間だったという年寄りの話を、実践しているみたいに見える。あの子の国は彼女の専門は、僕らのとは違ってリベラルであることに大へんな意義があるらしいから、これも研究の一貫なんだろうか。彼女とは、どこかここじゃない場所でまたばったり出会いそうな気がする。まあ、そう思うのは僕だけじゃないよ、きっと。

おや、雨が降り出した。
気がついたらリコが隣にやってきた。僕らは、また笑い声を上げながら追いかけっこしていいる。この子は、ふざけている時も機転がきくんだ。
彼女が逃げてゆくさきに選ぶのは、木立の中の、一段と枝がはり出している木の下だ。おかげで僕らは濡れないで住んでいる。ミスター・ボールも面白がって、僕らの後を追ってきた。
イギリス人は傘を持たないらしい。
本当かい?
確かに彼が傘をさしているのを見たことがないな。
今みたいに、小雨の中を腕組みして走っているか、雨かっぱを着ているかだ。キャッツアンドドッグの土砂降りの時は、レインハットまでかぶってる。

今日の予報は雨だったかい。
この国に来てから天気予報に注意を払わなくなった。どうせいつも曇りか雨だから。
そう思っているから、めずらしく晴れたお日様には拾い物をしたみたいな気分になる。
僕はただ、天気予報のあの癖のある英語が気に入らないんだ。
それよりリコのご機嫌が晴れか曇りか、そっちを教えてくれるものはないかな。
そいつも、僕の研究次第かもしれない。あの子はきっと、天気に左右されているはずだから。
水位が下がってきたから、川上が近いに違いない。
バンクが広くなり、フェンスに囲まれた石造りの家が見えてきた。
果樹園らしいな。
僕らはもう一時間以上、川沿いの空き地を歩いている。
ここまでくると風景がずいぶんちがう。
大学街は、そこにいる資格を持たないものには優しくない。
高い塀は小さな路地にまで境界線を引き、油を染ませたような黒い石が雨をはじき、自転車のタイヤは転がり続ける。
路地側に空いた小さな窓から、insaneの世界に光が差し込む。
あの街は塀の中にいても、外にいて目に見えないイバラを刺すのさ。

それに比べれて、ここはエデンを追われたアダムとエヴァがみた世界だ。
緑深く、無秩序で、神の思惑を知らない。
湿度が高く、荒れ果て、偏って繁殖し、自然の摂理が支配している。
ここでは学術の世界なぞ大海の一滴だ。もっとワイルドで、もっと荒々しくあっていいことを無言で語っている。

そして僕らは、カフェの敷地の中で、
ミスター・ボールが間に合わせで拾ってきたりんごをかじったんだ。
ドラム缶の足の上に乗せた丸い木板は、端から腐っていた。
誰かが、来る途中拾ったセブンアップの空き缶を板の真ん中に置いたから、
ようやくテーブルって体裁が出来上がった。

ほんとうは、中に入るとアップルパイの半焼けのがもらえて、
それを庭の炉で焼くとホットなのが食べられる。
そういう趣向だったらしい。
しかしあいにく、今日は店の主人の気まぐれか、店は無人だ。
僕らは仕方なく店の入り口の、雨ざらしになったチップスの販売機から99pのヴィネガーチップスを買って食べた。

『今日と云う日は、きっと一生忘れられない日になるだろう』
ミスター・ボールが言った。
聞いていたのは、僕と、リコと、チョウの取り巻き。
それと、尼僧のように黒づくめの台湾人。
彼女は妹みたいな同国の生徒といつも一緒だ。
僕らの知らない道徳の中で育ってきたんだろう。
異質な土で育った百合の花みたいだ。
自分たちが映り込んでいるカフェのガラスを睨んでいるよ。
見えるのは明日か、それとも過去か。

僕らはスタートしていて、まだスタートラインを出ていなかったんだ。
ラインに引かれたチョークの幅を彷徨っていただけ。
とても幸せな瞬間だ。
心が動き出す、一瞬前の静寂な瞬間だ。

体が軽い。
明日から、僕は次のスタートラインへ向かってまた走り出す。それは経過の始まりで、忘れてしまう一瞬なのだけど、忘れることなんかできないんだ。
だからとても辛いんだ。

体が軽い。
フランスの子供みたいに、どんなに走っても生きてきた分だけ筋力がついた僕らの足は
疲れることを知らないんだ。
走っても走っても走り足りない。僕の頭脳が疲れたと言っても、その頭脳が明けの明星を見つけるまで、走り続けるしかないんだ。

ミスター・ボールが呼んでいる。
物理学賞を受賞した物理学者が若い頃落書きした跡があるそうだ。
それを見せたかったんだ。

いつかここへ戻ってくる時が来るのだろうか。
その時僕は何をしてる?
ひとりかい?

僕は計画を完遂させる。いっときも満足しない時間を作らない。
満たされない時間があったとしても、それは次に踏み出すための時間だ。
時間はスキップすることができないから。
僕らは、未来と今の細い糸うえを綱渡りしている。それだけだ。
でも願うことができるなら、本当にそれができるなら、リコがそばにいてくれたら嬉しい。

2013

2013

Moiはアメリカンガールみたいにガムを噛んでいたのをやめて、車のエンジンを止めた。
そして立ち上がると、後部座席からごつい防犯用のスチールの器具を持ってきてハンドルにとりつけロックしぞんざいに「行こう」と私にいった。

小さな郊外の村に来ていた。大学街から車で十五分ほど。
村は教会と郵便局があるメインの通りを中心に、四方に広がっている。
スーパーは一つあるだけ。どこもそれぞれピークの時間を過ぎると閉店してしまうから、よそ者は何を売っている店なのかわからない。
娘に言われて行ったチャーチロードのオフィスビルに入っていたのは
アフタヌーンティーのお菓子の店だった。
私が焼いた膨らまないスコーンを見て、Moiがその店で買えばいいのにと言ったのだ。

小さな孫のために、東の国からやってきた野心的なばあばは、不器用でスコーンすらうまく焼いてやれない。
ときどき自分が家庭的な人間だったらと別の人生を想像して見てみるけど、心底そう思ったのは初めて。

私の野心的な性格は十代にはもうできあがっていた。
ちょうど二十歳でこの近くの大学町に留学した。それもむかし話ぐらい古い話になっちゃったわ。
十六歳でヨーロッパのコンクールに入賞して以来日本を離れた。それ以降ずっとバレエ団にいたから、ほどほど発展的でほどほど内気だった。バレエ以外の世界を知らなかったから。
二十歳の春に大きな挫折を経験した私は踊ることはあきらめなければならなくなった。バレエ一色だったこちらでの記憶に別の色を添えたくて、帰国間際の三ヶ月を大学町の語学学校で過ごすことを選んだ。最後の思い出に。
四年もこっちにいたから私の英語はほぼ完璧だった。本当はバレエのほうでそうなりたかった私は少しも嬉しくなかった。でも、捨てたはずの踊りとこの英語が私の後半の人生を支えたのだから、皮肉なものね。
クラス分けの時、トップのミスター・ボールのクラスになっても驚かなかった。
それよりも、大学生じゃないと誰かにも悟られないか心配だった。

最初にあったのはTだった。ロンドンからの電車の中で知り合った。
電車の旅は正直初めてだった。Tは私を日本人だと見ると、話しかけてきた。
不安だったらしい。ハイヤーした車で移動するのが当たり前になっていたから公共交通は初めてで、私も同じ心境だった。イギリスのことなど知りませんというふりをして、Tに話を合わせた。すると、彼はジェントルマンぶって、なんでも自分に聞けばいいと云った。嬉しかった。
これまで何もかも自分一人でやってきたから、そういうことを言ってもらう事はあまりなかった。Tが口ばかりで頼りないのはすぐにわかった。でも日本の男は、みんな感じよね。

ジェイはね、見たときどこの国の人かわからなかった。
アジアの目をしていたけれど、彫りが深くて横顔はヨーロッパの骨格をしていた。英語が流暢で、私はバレエの世界で見かける文化的ミクスチャーだと思った。
語学学校のほとんどの生徒は自国に戻るべきソサエティを持っていたわ。つまりエリートなのよ。夢がついえた私とは違う世界に住む人たち。
それでも私は、帰国前の数ヶ月の間にいい思い出を作ろうと必死だった。
ジェイはそんな私の目論見を見透かしていた。
「僕には新しい身分が必要だ」
身分と云ったのはビザのことだった。
私もバレエのビザが切れるところだったから、その気持ちはよくわかった。



水車小屋を改造したパブは、田舎町のメインストリートの辻にあった。
世界大戦時のファンタジーストーリーには異質な容貌や服装の人たちが薄暗がりの中で酒を酌み交わす場所として登場する。
Moiのパートナーが、しばらく廃屋だったそのパブが、レストランにリノベートされたことを聞いた。
「Haruを迎えに行く前に、寄ってみようか」
Moiはずっと家で執筆中だ。たまに外でお茶もいいだろう。
娘の晴れやかな目の色を久しぶりに見た気がして嬉しかった。

車から降り、茅をかぶった白壁の水車小屋へ向かったとき、娘の携帯が小さく鳴った。
眉をよせ着信を確認すると、Moiは電話に出ることを身振りで詫びた。
ピーチ肌に黒髪の容貌に似合わない西洋風のジェスチャーは、あの人を思い出させた。
レストランの敷地は結構広かった。真っ白な砂利が敷かれ、泥はね心配などなさそうだった。
さっきまで快晴だったのに、まばらな青空の隙間から雨粒が落ちてきた。
砂利の上に落ちる音に混じって、水の流れる音。小さな川が敷地の中央を流れていた。
Moiのアクセントの強い英語を背中で聞きながら、私は足を進めた。

自然回帰がトレンドなのかしら。敷地の奥には、大きな果樹園が広がっている。
木々の幹は太く、長年そこに生えているらしく見えた。こういう場所をリノベートしてコミュニティーの大事な場所にしているケースは日本にもある。

すっかり整地されているが、以前はイギリスらしくまばらな森が取り囲んでいたに違いない。
ウィークデーだから人影はないけれど、休日はきっと近隣の客で賑やかになりそうだった。
小さな小屋が見えた。石造りの粗末な小屋に見えたが、近寄って見ると窓枠は白くペイントされたばかりの様子。手を入れて磨かれたガラス窓に果樹園が映り込む。
興味が湧いて小屋の中を覗き込んだ。
漆喰を塗った剥き出しの石壁に、フレームが掲げられている。
目を凝らすとフレームの中にはペン描きのポートレイトが納められているのが見えた。
ギャラリーだと思った。

私はもっと近くで見たくて、入り口を探した。
川に向いた反対側にガラス張りの入り口があったけれど鍵がかかっていて、ひとけもない。小屋の中にこちらに向いてチョークボードが所在なげに置かれている。
アップルパイやコーヒーのなまえが並んでいてカフェらしかった。
癖のある文字を見ていると、サロペット姿の男がやってきて中を見たいのなら鍵を開けてあげるといった。
「お茶は出ないけど」
大きな鍵束の赤茶けた一本で解錠すると、ウインクして出て行った。

ドアを開けた途端、湿っぽい匂いと塗り立てのペンキの香りがした。
気になっていたポートレイトは等間隔じゃなく、それぞれ少し離れた場所にかかっている。そしてどれにも小さなカードと写真が添えてある。
私はバッグから老眼鏡を取り出し、その一枚に近づいた。

見たことがある。

瞬間、懐かしさがこみ上げてきた。
それはポートレイトなどではなかった。
見覚えがあった。

あれだわ。

私は息をのんだ。
最後に見てから一度も思い出さなかったのに、見た瞬間あの時に戻ったように私は鮮明な過去の記憶に囲まれていた。
古いドラム缶と腐りかけた木のテーブル
若かった自分と、ギラギラした未来を纏った仲間たち。
鋭い目。意味ありげな笑い声をあげた人たち。
そしてジェイ。


私がフレームの中に見つけたのは、ある物理学者のいたずら書きだった。
その記憶を裏付けるように、小さい方には椅子に座っている彼がこちらに笑いかける写真があった。体をもたせかけ深く座る姿は世界中の誰もが知っている。

私たちは、遠足に来ていた。
最後のクラスは、外でやろうとミスター・ボールが提案したからだ。
ごく近いところへ行くのだろうという予想は裏切られた。
イギリスの安いワインを片手に、ミスター・ボールは私たちを一時間以上も川縁の林の中を歩かせた。
三ヶ月のコースが終わる頃には、私たちには不思議な一体感があった。誰がリーダーというわけでもない。方向性も、考え方もバラバラの個人が、見えない結束でまとまっているのだ。
歩きながら、私たちは大事な時間を共有している実感があった。

ミスター・ボールは、たどり着いたカフェでその壁の手垢で汚れた一箇所を差した。
そこには、見たこともないい数式と癖字のサインがあった。
教師は眉を引き上げて尋ねた。
「誰が書いたか想像できる?」
誰も答えなかった。
「二十一世紀には、彼のことを知らない者はいなくなるだろう」ミスター・ボールは鼻を膨らませて言ったのだ。

私は眼鏡をかけなおし、フレームにおさまった思い出の絵を睨みつけた。
あの落書きは壁に書かれていたはず。
もう一度、フレームを覗き込む。すると絵はワントーン暗い背景の上に描かれていることがわかった。
つまり、この落書きは、まさにあの最後の日に私がみたものそのもので、
ここは、あの時のカフェだったのだ。
Moiのところに来て以来、二十年前にきた学校のことを何度も思い出していたが、
まさかここがあの場所だとは想像もしなかった。
それほどかわってしまっていた。
ここだけじゃない、まるで除光液で拭い去ったように
イギリス全体から褐色の影がすっかりなくなってしまっていた。
日陰の路地にたまったイギリスらしい影も、
キレイさっぱり塗り替えられてしまっていたのだ。

手入れされていたが、ここは間違いなくあの川沿いのカフェだった。
めまいを感じた。
時間が私の周りをすごいスピードで通り過ぎて行く感じがした。
時間は、見えない砂粒らしい。砂粒は私の周りからMoiとHaruを消し去りみんなを連れ戻した。
T、ジェイ、ミスター・ボール。
それからなんと云っていただろう、中国から来ていた留学生。そう、チョウ君。

彼はもう何年も前に死んだはずだ。T Vで見た。
反体制デモを指揮し政府に睨まれ亡命直前に逮捕された。
獄中で亡くなったとニュースで知った。
一瞬映った彼は、やつれた左派の中国人にしか見えなかった。
すぐには彼とはわからなかった。


開けたままの入り口から砂利を踏む音が流れ込み、私は現実に引き戻された。
Moiが探している。電話が終わったらしい。
戻る前に確かめたいことがあった。
残りの写真に歩み寄った。

他のフレームに収まっているのは誰なのか。
私の予感は当たっていた。
一番近いフレームの中にいたのはチョウ君だ。
『Great new leader, who made a new exit for freedom』
写真は、T Vニュースで使われていたあの写真だった。
なぜか納得する自分がいた。

ルービスだった。あの、クレージーでいつもうろんな目で私たちを睨みつけていた彼が、目を細くして微笑んでいる。
『Ball has never rolled over, it just waited for me till it rolled』
カードには、ルービスが自国に帰り子供達に自由を教えた共産国で初めての教師になったと書いてあった。

彼らは物理学者の真似をして落書きをしたのだった。

そして、一つ残ったフレーム。そこにいたのはジェイだった。
砂つぶは不公平ね。私だけをこんなおばあちゃんにして。
写真の中のジェイは、あの頃と変わらないギラギラした目をしていた。
潤んだその瞳が、目に見えない何を見ていたか私は知っている。
彼の目指した国の独立は、結局彼の理論を曲解した過激派が成し遂げたけど彼は幸せじゃなかった。
可哀想なジェイ。
シンガポールの空港で別れたのが最後になった。その時の真剣な目。忘れない。
男の子は、埃と血と爆音ばかりが響く裏庭みたいに人生を駆け巡る。
私の心配なんて、乾いた庭に降るにわか雨みたい。
無駄だから、私も走り回ることにした。
そして今にたどり着いた。
短かったよ。そして、案外、楽しかった。
だから、Moiには、もっと楽しむように言いたい。
どんな苦労も、失敗も、人生が終わるときまでのことだから、
神様の裏庭で存分に遊んで欲しい。

そして、あなたにはその素質がある、と伝えたい。

ちっとも歳を取らない彼に嫉妬した。

「ごめん。電話が終わったから、お茶しよう」

Moiはこっちにコミュニティを持っているからちゃんとした話し方ができるだろうに、
日本語でしかも私が相手だとぞんざいな言い方になる。
でも今は目つきが少しだけ優しかった。
強いところは私だけの遺伝じゃない。
がむしゃらなのもきっと身を結ぶ時が来る。
ちゃんと見届けてあげるから。

川沿いの、木立のエクスカージョンは
終わらない人生みたいに、永遠に感じた。
あれほど自由で、恐れを知らず、
なんでもできる気がしたのは、あれきりだ。

ジェイとルービスとチョウ。
三人が揃ってここへ来ていたとは。

水車小屋から賑わう声が聞こえる。
お洒落なアフタヌーンティーの時間が始まる。
見えない時間の砂粒よりもずっと大きな砂利を踏みしめ、私たちはロビーへ向かった。
背後に時間を閉じ込めた小さな小屋を残して。
私はあの頃と変わりなく、ここが自由でリベラルな精神の
巣でありつづけることを祈った。

Windfalls

Windfalls

Windfalls -風で落ちた果実。思いもしない授かりもの、転じて「もっけの幸い」(Weblio参考)

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2020-06-30

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