誰がための幸せ
それが、君の望む幸せだったんだ。
それが、君が思う、ぼくへの幸せの形だったんだ。
でも。
でもさ……
ぼくの幸せは、君と一緒にいられれば、ずっとそれだけでよかったんだ――
交錯する、彼と彼女の気持ち。
そんな二人を描きました。
幸せは人それぞれで違い、それは一体、誰のためにあるのか。
そういう物語です。
それは、君の夢を叶えるためだ。
それは、ぼくの幸せを君に与えるためだ。
ただそのために、
――ぼくは君を、殺した。
苦味のある深い味わいが、口の中を満たした。それを十分に味わってから、カップを口から離す。唇から離したカップの中で波紋を立てる漆黒の液体を、悟は呆けたように見つめた。
舞う粉雪を側面に描いたマグカップをもう一度、口元へ戻す。
また一つ、小さくすすってから机に下ろした。
(彼女も、飲んでいたんだ。これを……)
少し前、まだ彼女が生きていた時までは、二人で談笑に花を咲かせて、この一杯のコーヒーを飲む一時を楽しんでいたものだ。ただその時間は、もう二度と、悟の元に訪れることはない。
大切な時間を失ったのは、
何より大切な彼女を失ったからだ。
悟が愛した最初で最後の思い人は、少し前に、この世を去った。そのことをたとえどんなに嘆こうが、悲しもうが、彼女は戻ってこない。
彼が彼女を手にかけた事実は、決して、変わることはないのだ。
この今を作り出したのは、紛れもなく悟自身で。それを望んだのは、他の誰でもない彼女自身で。だから、悟はその結末として、一人、コーヒーを飲んでいる。寂しく空いた目の前の椅子を見つめながら、悲哀に満たされて。
(君は、これで幸せだったんだろう?)
声の届かない人物に、彼の声は必要ない。だから思念だけで、彼女に問いかける。この幸せが、間違いなく彼女が望んだものなのだろうか、と。
その答えを告げてくれるものはいなくて、どうしようもない寂しさに駆られた。
「幸せ、か」
愛情のために、他人の幸せを叶えた。
幸せを叶えるために、愛する人を殺した。
彼女の命を代償に、彼女に幸せが齎されたのだ。
それは彼女の最後の望みだったから、彼は喜ぶべきかもしれない。愛する人の望みを、幸せを叶えられたのだから、もっと心を浮かせるべきかもしれない。
たとえ、今目の前に彼女がいなかったとしても。
それが、愛した人を殺した後だったとしても。
「君の幸せは、いったい何だったんだい……」
たった一つの幸せを叶えたはずなのに、その幸せがどういうものなのか、まだ分かっていない。もしかしたら、一生分からないかもしれない。
もう、彼女はどこにもいないのだから。
ふと、机に目を遣った。そこには、一通の手紙が置いてある。
封は開けられていて、もう、読んだ後だった。
それを見つめながら、カップを手に取り、唇に当てた。
一つ、飲み慣れた温もりで体の芯を温めながら、
「苦い、なぁ……」
そのほろ苦い味は、きっと誰もが知る不思議な味だった。
その一言は、彼にひどく強い衝撃を与えた。
「わたしを、殺して」
彼女はそう言って、悟の頬に優しく手を当ててくる。
湿り気のある艶やかな吐息を首筋にかけながら、わずかに荒い呼吸で抱きついてきた。
「わたしは、あなたが好き。殺したいほどに、あなたが好きなの」
ああ、いったい何度この言葉を聞いたろう。
そう思いながら彼女を見ていると、彼女は一つ、短いキスを唇に押し当ててくる。
「わたしが好きなのは、あなただけなのよ」
さっきから必死に訴えかけているせいで、いつの間にか汗ばんだ彼女の首元に、黒い髪の毛が張り付いている。
悟は静かに口を開いて、穏やかに声をかけた。
「分かってる。ぼくも、君だけが好きだ」
ほっと落ち着く表情を見せた彼女に、言葉を続ける。
「だから、教えて。どうして、浮気をするんだい?」
彼女の新しい浮気が見つかって、もう二日が経っている。
この数日間、ヒステリック気味で謝ってくる彼女に、悟は何度もそのことを問いかけ続けた。
それに彼女が答えてくれることはなかったけれど、いつも、こう返してくる。
「……殺して。わたし、もう、わたしが嫌なのよ……あなたを裏切るわたしが、もう嫌なの!」
怒鳴るように叫んで、胸の中でわんわんと泣き始める。
いつもこうなって手をつけられなくなってしまい、ついには呆れながらも言葉をなくすしかないのだ。すでに彼女の浮気が一〇回近くに上ろうとしているのに、毎度、こうして悟は上手く収拾をつけられない。
「分かったよ。とりあえず、落ち着こう」
そう言って、悟は彼女から離れて、マグカップを二つ、持って来る。
一つは春の桜が舞い散るもの。もう一つは、粉雪の舞う冬景色のもの。
そのマグカップにコーヒーを淹れて、椅子の一つに腰掛ける。隣の机にカップを置いて、彼女を目の前の空席に促すと、
「コーヒー、飲もうか」
やがて席についた彼女に桜のマグカップを渡して、静かに喉を潤して、体を温める。
すると、数分ほど経った頃、不意に彼女が口を開いた。
「わたしね、幸せがほしいの」
その声に、悟は耳を傾ける。
彼女は浮気性があって、それはひどく強いものだ。交際を始めた時から分かっていたことだけれど、それでも悟は彼女のことを愛している。心の底から、彼女一人だけを、好きでいた。
だから、彼女のことはすべて知っていた。彼女のクセも、苦手なことも、好きなものも。それと同時に、だからこそ、悟は気付いている。彼女の浮気は、きっと一生をかけても、治らないものだと。
彼女は優しかった。本当に、優しくて、綺麗だった。それゆえに惹かれて、悟は彼女を愛した。それから、やがて彼女のことを知り始め、彼女の過去を知った。彼女は苦しんでいた。過去という戒めに。
彼女の父は、実業家だった。とても厳しく、甘えなど一つも許さない、そんな父親だ。金に困ることはなかったけれど、幼くして母親と死別した彼女には決定的なものが不足していた。愛だ。愛という温もりが、彼女には与えられていなかった。
だからだろう、彼女は愛を求めた。一人の愛では足りぬほど、たくさんの愛を。一人暮らしを始めて父親と別れたこともきっかけだったろうが、彼女が大学生になった頃、急に愛に貪欲になったのは、恐らく悟という存在があったからかもしれない。
悟は、大学生の中ごろで、彼女と交際関係を持っていた。初めは普通の交際に見えた。彼女が、愛というものが何なのか、愛というものの心地よさに気付くまでは――
彼女は一口コーヒーを飲んでから、続けた。
「幸せってね、みんなが楽しくて、笑っていられて、そんなものだと思ってた。けど、違ってたの。……ううん。それこそ違う。わたしはね、幸せって、自分がそう思えるものがそうなんだって気付いたの」
彼女の話は、よく分からなかった。
皆が笑っていられることが幸せ、それは幸せとは違うのだろうか。自分がそう思えるものが幸せ、それは、殊更目立ったものではなく、ごく当然なのではないだろうか。
彼女が普通とは違っていると分かっているから、あえて悟は口を挟まない。
それに、言っていることが何だとしても、彼女が今のように穏やかに和らいだ表情をしていてくれるのは、悟としても心地がいい。この今を永遠に繋ぎ止めたいとすら、思うほどだ。
「だから、わたし、気付いちゃったの」
不意にカップを机に置いて、彼女は立ち上がる。
不思議に思って見つめると、彼女は一つ、優しげに微笑んだ。
「わたしの幸せは、たった一つ」
つい数分前まで見せていた荒々しい声ではなくて、澄んだ、静かな声で。
「あなたの手で、わたしを殺して。それがきっと、わたしの幸せなの」
その告白に、悟はただ呆然としかできなかった。
やがて気付けば、カップの中のコーヒーが冷めてしまっていた。
「君は、いつも不思議だった……」
窓の外を見て、悟は呟いた。
雪が降っている。外はにわかに降り出した粉雪のせいで、ほのかに白く見えた。
「幸せって、何なんだい……」
普通でなかった彼女の考えることなんて、悟には分からない。彼女の外見は分かっていても、その中身は、やはり全部を全部、知ることはできなかったのだ。
それが人と人の付き合いというもの。だからこそ素晴らしい出会いもあって、充実した時間も過ごせる。
だが、幸せについては、また別だ。
幸せとは、何だろう。何かを得ることだろうか。たとえば金や名声、栄誉。そういったものを得ることが幸せか? いや、違う。きっとそんなものではないはずだ。
(それも、違うか)
幸せは、人によって異なるものだ。何を得て、何を知って、誰と話せて、誰と出会って、そういう嬉しい幸せは人それぞれで変わる。同じ幸せなど、あるようでないに等しいのだ。
なら、彼女の求めた幸せは、何だ。
それを考えて、やはり、悟は分からない。
彼は、彼女から一通の手紙をもらっていた。約束通りに彼女を手にかけた後で開けば、そこには、彼女の思いが優しく綴られていた。
だがそれでも、彼女の幸せは、分からなかった。
他人の幸せを、その相手に聞くことなく分かるなど、不可能な話だ。
それでも、その相手が幸せになったと言うのなら、もしかしたら、祝うべきなのかもしれない。その幸せが、たとえどんなものだったとしても。
「分からないよ、ぼくには」
そう呟いて、舞い散る粉雪をただ見つめた。
過ぎ行く季節の中で、今まで見てきた彼女の一つ一つを、丁寧に思い出していた。
夜になって、森の中を歩いていた。
暗い夜闇に懐中電灯を点して、小枝や枯葉を踏みながら、歩いていく。
やがて滅多に人の来ないような奥までたどり着き、足を止めた。
「もう、いいかも」
彼女が言った。
それは闇に馴染んで、かすかな声だけを悟の耳に届ける。
「本当に、ここで」
そう言いながら、ごくりと生唾を飲む。
こんな山奥で、本当に、今から――
「うん、殺して。わたしを」
彼女は一つも迷いなく、そう告げた。
その表情は寂しそうで、悲しそうで、やはりこんなところに来るべきでなかったと思うけれど、彼女にはどこか強い決意があって、それは悟には揺るがせないものだった。
「最後に、一つだけ、いい?」
「何?」
自分の声が震えていることが、悟は分かった。
怖いのだ。
この、最後が。
今からこの手で、彼女を殺すことが。
「キス、して」
彼女が目を閉じる。
悟はそんな彼女に近寄って、闇の中に映える薄紅色の唇に、自分のそれを重ねる。
「ん……ふっ……」
何度も、何度も口付けを交わした。
舌を絡ませ、唾液を粘つかせ。
果てのない愛を確かめ合った後、彼女は告げる。
「わたしが死ぬのは、わたしのため。わたしの幸せのために、死ぬの」
彼女のために自らの命を捨てることは覚悟していても、彼女が彼女の命を絶つことを考えるとは、今まで考えたことはなかった。
けれど、悟は思う。
彼女は生まれた時から、不幸だった。幼い頃に母親を亡くし、愛をもらえず、ようやく愛を知ったと思ったら、今度はその愛に支配されて。その中で見つけられた幸せなど、いったいどれほどのものだったろう。
そんな彼女が、自ら幸せを望んでいる。
ここで死ぬことでその幸せが叶うなら、それを叶えてあげるのが、唯一の恋人の運命だ。
だから、ここで――
その時、
「だから、あなたも幸せになってね」
そう言いながら、彼女が悟の手をとって、自分の首元に当てる。
意識もしないうちに力んでいた彼の手は力を込め、柔らかい細首を捕らえた。
「わたしの幸せは、あなたの幸せ。だから、」
最後に、彼女はそう言って。
「だから、――――」
けれど、その言葉は悟には聞こえず、彼の正常な意識は消えてしまう。
彼女の苦悶の顔だけを脳裏に焼き付けて、
悟の記憶は、そこで途切れた。
「君は、何て言ったんだい」
椅子に座って、コーヒーを飲んでいる。
外で舞っている粉雪と同じ、冬の景色を描いたマグカップは、唯一の恋人であった彼女との思い出の品だ。
このマグカップと、春景色のマグカップを見れば、彼女のことがすぐにでも頭に浮かぶ。
最後まで愛と、幸せを求め続けた、愛しい彼女のことが。
「そういえば、君は、甘いものが好きだったね」
机の上に置かれた丸い瓶から、角砂糖を一つ、取り出す。
「コーヒーには、どれくらいいれてたかな」
苦いままだと飲めない、そう言われたのは、一度や二度ではなかった。
だから、いつも彼女のコーヒーだけには先に角砂糖を淹れていた。
ただ彼女は、そこまでコーヒーは好きではなかったけれど。
「……ぼくは、幸せになれると思ってたのかな、君は」
角砂糖を摘み上げて、目の前で見つめた。
あまりまじまじと見たことはなかったけれど、この白色は、案外綺麗なものだ。
そういえば、彼女も白が好きだった。マグカップを買ってくれたのは彼女だけれど、どうして雪のマグカップを自分にくれたのだろう。今さらになって、そんなことが気になった。
やがて、その角砂糖を静かにコーヒーに落とす。
ぽちゃん、と小さく音がなって、沈んでいった。
カップを持ち上げて、一口飲むと、
「甘い……」
そう言いながら。
「甘いよ……」
頬を流れ落ちた涙が、ぽちゃん、と波紋を立てた。
それを見ながら、ふと思い出す。
彼女は、いつも優しく微笑んでいた。甘いコーヒーを飲みながら、嬉しそうに、優しく。
もうそんな彼女は見られない、そう思うと、ひどく切ない寂しさが胸を苦しめた。
思いのやり場なんてどこにもなくて。
だから、ただ何となく、机の上にある手紙を、そっと手に取る。
彼女が残してくれた悟への言葉は、もうこれが最後なのだ。
いったい何度読み返したろう、それすら覚えていないほど、夢中になって何度も読んだ。
たとえ彼女の幸せが何だとしても、彼女がこの言葉を残してくれたのは、確かな事実だから。
――だから、あなたは生きて。
最後に書かれたその言葉に、彼は、ちゃんと応えなければならない。
もう、彼に幸せなんてものは、何も残っていなくても。
「生きるよ、ちゃんと……」
冬を越えて、春を過ごして。
幾年も、いつまでも。
ただ、
「君だけを、思って」
了
誰がための幸せ