ぼくの帰りを待ちわびているきみがせかいでいちばんかわいいいきもの
虫がいた。アパートの階段の、よごれてくすんだ白い壁に、その虫はいた。さいしょ、黒光りする、例の、なまえをだすのもおぞましいというひとがいる、きらわれもののあいつかと思ったのだけれど、その虫は、いわゆる甲虫の見た目ではなく、胴体は細長くて、手足は線のようで、蚊に似ているけれど、蚊よりも大きく、なにかがちがっていて、おそらく、生まれてからはじめてみる類の虫だった。つまり、なまえもわからない、ぼくからすれば、ただの虫で、虫、と呼ぶほかになかった。虫は、ぼこぼこと凹凸のある壁に、じっとはりついていた。ぼくと、目があっているのか、そもそも、目、はあるのか、あるとすればどこに、という感じなのだったが、とりあえず、急に飛ぶタイプのやつではなくてよかったと、ぼくは安堵した。急に飛ぶタイプのやつは、ほんとうにとつぜん飛び立って、ふいに、こちらに突進してくるので。虫はにがてではないが、とつぜん飛んでくるやつは、ちょっとこわかった。なまえも、正体もわからないのだから、なおさらこわかった。虫を横目に階段を上がると、ぼくの部屋のドアの前に、きみがいた。きみは、コンビニのビニール袋を持って、ドアの前にしゃがんでいた。アパートのろうかの、古びた電灯がじじっと鳴って、きみがぼくをみつけた。「おせーよ」と言いながら、きみは歯をみせて笑った。ごめん、とあやまると、しゃがんでいるきみが右手をのばして、立たせて、というので、ぼくは、きみの手をとって、ひっぱった。きみの手は、まるで雪のなかを歩いてきたかのように、つめたかった。夏なのに。
ぼくの帰りを待ちわびているきみがせかいでいちばんかわいいいきもの