雨の日にみた夢

夢と現実の狭間で、自分自身の心と対峙する少女の話。

梅雨の時期が来る、そう露子(つゆこ)は学校帰りの澄んだ空気のなか、不確かなそれを感じ取った。
東雲(しののめ)露子、高校一年生の彼女は普通の人なら嫌がるであろうそれを、なぜか待ちきれんとばかりに微笑んだ。
テレヴィジョンのお天気速報では梅雨の到来を未だ知らせてはくれないが、おそらく後三、四日程度で、空は灰色に染まるだろう。
露子のそういった勘は、こういう事には良く当たるのだ。一種の第六感、これがもう少しでもテストのヤマにでも働いてくれればと思うのだが、彼女が高等学校に入学して二ヶ月経った今でも、残念ながらその成果は見られていない。
女が学校に行けるようになったのは素晴らしい事だ。しかしこれでは、行かせた意味が見出せない。
そう彼女の母は、返ってきた小テストの点数を見て嘆いた。

雨の日の湿気の多さで、蚕の繭の様に膨らむ艶やかな黒髪、少し色素の薄いグレーの瞳は周囲の人の心を惹きつけ、
陶器の様に白く滑らかでスラリと伸びた手足は、またその心を惑わせた。
誰もに愛され、羨望の眼差しを向けられる事が常であった露子は、勉強が不得意という、人間味を帯びた短所も持ち合わせていたわけだが、それもまた、
愛される所以でもあった。

とは言っても、勉強嫌いというわけではなく。
生真面目な彼女は、予習もちゃんとして授業に臨むような模範生であったわけだが、学校から一歩足を踏み出すと、その全てを忘れてしまう、なんとも抜けたお嬢様だったのだ。

彼女が学校から外の世界へ抜け出すと、頭を駆け巡るのは大抵二つの事に分けられる。
一つは、彼女の創造する、彼女だけの世界のお伽話だった。
彼女の常識を逸する程の夢想癖、いや空想癖は彼女の性格を示すにあたって外せない必須事項であった。
現実と空想の境界線上で飛び抜けた事を言ってしまう露子を見ても許容してしまう彼女の友人達を見れば、何でも許せてしまう程の彼女の愛嬌の良さや、誰もを魅了する愛らしい笑顔が伺える。
彼女の語る雨露のしたたる音にあわせてさえずり歌う小鳥だとか、様々な花の種類の蜜を吸うごとに姿を変える妖精だとか、そんなもの以上に彼女は美しく、そして可憐だった。
「もうすぐ梅雨が来るわ。紫陽花の傘をさして、雨蛙達が最上川を渡るの。」


さて、次に露子が考える事といえば彼女が自分の天職だと考えるモデルの仕事に関してだ。
春には夏の、夏には秋の、一歩進んだ季節の衣装に身を纏う時、彼女は自分ではない別の誰かになるような、役を演じるようなそんな不思議さを感じていた。
これもあるいは、彼女の空想癖の延長線上にあるのかもしれない。


露子はその名の通り、雨の良く降る六月に生まれた。
上にいる二人の姉も同じ六月の梅雨の時期に生まれ、まさに雨に愛された子、と親族は口を揃えて言った。
両親の実家が農家だったため、雨を嫌う者はいなかった。
不思議と、東雲家の田畑は不作に見舞われる事もなく、これも三姉妹のお陰、と露子達は一層ちやほやされた。
そして当然のように、彼女達もまた雨を愛した。



それは、梅雨入りの二日ほど前の事。
モデルの仕事もやはりどんよりとした天候のためかオフだった。
少し家鳴りのする古びた一軒家の縁側で、露子は砂糖入りの甘い麦茶を飲みながら現代文の予習をしていた。
しかし明日から習うであろう「舞姫」の冒頭は露子の夢想の良い材料にはならなかったらしく、彼女の眉間には二本ほど縦皺が出来ており、教科書をめくる綺麗な指もどこか忙しなかった。
家の中は静かで、コップの中の氷がぶつかりあう音が、カランコロンと涼しげに響いた。

「舞姫か。なかなかに人間関係が入り組みあってドロドロした話だ。子どもの露子にはまだ理解するには難しいだろう。」
そう背後からいきなり飛び出してきた声に、露子はいささか怒りを感じたが、それも直ぐに吹っ飛んだ。嫌なことはすぐに忘れるべし。
これは彼女の教訓である。
雑誌よりも満面の笑みで、そして子猫をあやす様な柔らかな声で彼女は言った。
「おかえりなさい、(かおる)ちゃん。」

露子と彼、立花芳は家が隣同士で小さい頃からの付き合いの、いわゆる幼馴染だった。
頭が良く、さらに運動神経も群を抜いて良い一歳年上の彼を、露子は兄の様に慕った。
芳もまたそんな彼女を心から大切にしていた。

「露子、うちの母さんは?」
芳は学校の制服のまま、すでに準備してあったコップに麦茶を注ぎ、ただし砂糖を決して彼は入れない、露子の隣へ腰を下ろした。
「今夕飯の材料の買い出しに行ってらっしゃるわ。手伝おうかと言ったんだけども、留守の方を任されちゃった。
あと、私も一緒に夕飯どうぞですって。構わないかしら?」
「俺は気にしないけれど、ちゃんと家の方に連絡するんだぞ。」
すると露子は面白くない、という顔でため息をついた。
「両親は結婚記念日のため外食。姉二人は友達と、そして愛しの彼とデエト。私だけのけ者。」
ぶうたれ露子はやれやれといった口調で、持っていた教科書をパタンと閉じた。
雨が降りそう、そんな空気が二人を包み込んだ。

高校二年になった芳の詰襟はやはり少しクタッとしていたが、その制服姿に男臭さは微塵にも無く、初々しい若葉の様に爽やかだった。
勿論、女生徒にも人気があった。
男なんだからちゃん付けはやめろ、といつも叱られるが、露子は周囲の目など気にもせず、芳ちゃん、と微笑んだ。

「今日はちょっと遅かったのね。居残ってたの?」
「ああ、まあな。」
曖昧に肯定する彼は、嘘が付けない性分らしく、露子は思わず目を光らせた。
「また、女の子から呼び出されてたんでしょう?私を誤魔化そうなんて、百年早いわよ、芳ちゃん。」
芳は苦虫を噛んだような複雑な顔をしていたがすぐに大きくため息を一つ吐いた。
「断ったけどな。」
「あら、勿体無い。一体何人の女の子の枕を涙で濡らす気?」
露子は大げさにそう言ってみたが、内心はホッとしていた。気づかれませんように、と責める口調は変えない。
「芳ちゃんって、きっと理想が高いのよ。」
ふふっと遂に笑ってしまう露子に芳はそっと言った。
「今はお前のお守りで十分だよ。」
「芳ちゃんが思ってるほど、私はもう子どもじゃないわ。」
そして二人は仲良く笑い出してしまうのだった。

雨が降りそうだった空は徐々に明るくなり、お天道様が顔を覗かせようとしていた。
「晴れそうだな。」
「でも、雨の匂いがするわ。」
二人は空を仰いだ。時刻は午後六時を過ぎた所だった。
「ただいまー。芳、おかえり。露子ちゃん、留守番ありがとうね。」
綺麗な黒髪を後ろで一つくくりにした女性が買い物袋を二つ携えて帰って来た。
高校二年の息子を持つ身とは思えないほど、若く美しい芳の母だ。
「おかえりなさい。良かった、間に合いましたね。」
「え、何に?」
彼女がそう言うのと同時に雨が降り始めた。お天道様は雲に隠れそうになりながらも、まだ日差しを注いでいる。
「狐の嫁入りだわ。」

芳の母は今日はツいてるわ、雨から避けれたし、美味しい魚は安く買えたし、と上機嫌で台所へと向かった。
露子と芳はしばらくの間、少し眩い空を見上げていた。
雨はしとしとと降り、庭の紫陽花をその水滴で輝かせた。
「またお得意の空想か、露子。」
一点を見つめる彼女に、芳はからかい半分でそう声をかけた。が、露子は聞いてはいなかったようで、ふと何かを思い出したかのように勢いよく立ち上がった。
「狐の嫁入りには辻占をしなくちゃね。」
「ツジウラ?四ツ辻で出会った人の言葉に従えっていう占い?」
「さすが芳ちゃん、歩く百科事典!」
「露子が知ってる事で、俺が知らない事があってたまるか。」
芳はそう、悪戯っぽく笑ってみせた。
「夕飯までには戻るね、芳ちゃん。」
露子は一目散に外へと飛び出した。
また新たな世界が創造される、そんな予感を胸に抱いて。

家の前の坂を下り、少し歩くと大通りに出た。四ツ辻、いわゆる、道と道とが交差する場所で露子は足を止める。
家路へと急ぐ人がまばらに闊歩している。
通りに立ち並ぶ魚屋や八百屋では今日の夕飯を未だ考えあぐねている婦人の姿が目に付く。

辻占という占いは、鏡を持っていると当たる確率が増すと、どこかで読んだ文章にあった。
露子は誕生日に買ってもらった薔薇の飾りがついたコンパクトミラーを片手に、そっと目を瞑った。

「先生も非道いよな、こんな時間まで居残りだなんて。」
「あら、奥さんご無沙汰。ご主人お元気?」
「えっ、豆腐もう売り切れなの?木綿ならあるって。」
「今日は本当に魚が安いわね。」
これは芳ちゃんのお母様も言っていたわ、と露子は微笑った。
「明日こそ、先輩に声をかけるわ。」
「ああ、その書類なら俺のデスクに置いといておくれ。明日チェックする。」
「雨上がるかなあ、お姉ちゃん。」
学校帰りの姉妹が、鞄を傘代わりにし駆け足で去って行く、そして。

ふと、耳に聞こえてくるのが、ピチョンピチョンという雨音だけになった事に露子はハッと気がついた。
静寂が訪れる。
少しだけ、怖さが募った。前に広がるこの世界は、どんな風に私の目に映るのだろう。

「聞いて、 ちゃんと聞いて。」
「あなた自身の心と、私の心を見つけて。」

それは若い女性の声だった。
「私の、心?」
露子が目を開けたその先に、微かに一人の女性の姿が見えた。しかしそれはすぐに、幻の様に消えて行った。
太陽は完全にその姿を、厚く覆われた雲の奥へと消した。
弱まっていたはずの雨は、また次第に強く降り始めた。

傘を持たずに出て来てしまった事を露子は後悔した。
ずぶ濡れになってしまった彼女は、すぐに戻らないと、と帰路に足を向けた。
その刹那、彼女の視線は傾き、目の前は霞み、彼女は意識を失い、その場へと倒れこんだ。
遠くから彼女の名を呼ぶ声と、コンパクトミラーの落ちる音が聞こえたような気がした。


露子が目を覚ましたのは、それからなんと一日半も経ってからの事だった。
自室の布団の上で目を覚ました彼女は、すぐに彼女のそばで腰掛ける姉、(しずく)の姿を捕えた。
「お目覚めだね、露子。待ってて、すぐに温かいお茶を入れてあげる。お腹は空いてる?」
露子はゆっくりと身体を起した。少し、頭が痛い。
「すいてる。雫姉さん、今日は何曜日?」
「土曜日だよ。明日も休みだから、とりあえずゆっくり休んで。あまりお姉様達を心配させないでちょうだい。」

しばらくして、朱色のお盆に急須と露子お気に入りの紫陽花柄の湯のみを持った雫が戻ってきた。
この湯のみは、芳からの贈り物だった。
注がれた熱めのほうじ茶を飲みながら、露子は辻占を行った時の事を思い返していた。
(あの声は、なんだったのかしら。)
(私はあの後、どうなったのかしら。)

露子がぼうっとしていると、もう一人の姉、霞美(かすみ)が襖から顔を覗かせ、声をかける。
「顔色は良さそうね。今、雫がお粥を作ってくれてるからね。早く元気な露子に戻りなさい。」
霞美は曇りのない笑顔で彼女を叱咤した。

露子のかけがえのない二人の姉である雫と霞美は一卵性双生児だった。
顔やスタイル、声、仕草とあらゆるものが瓜二つだった。それは、生みの親でさえも時折間違える程だった。
しかし、高等学校へ進んだ頃から、二人の興味の対象が全く異なる物となった。
雫は乗馬、霞美は演劇の部活動を始め、ありとあらゆる情熱を傾けた。
乗馬を始めた雫は、肩まで伸ばしていた髪をばっさりと切った。
男の子みたいだわ、と母は顔をしかめたが、本人はいたく気に入っているようだった。
なので今は、いくら顔が似ていた所で、すぐに見分けをつける事ができた。

さ、台本の続き続き、と自身の部屋へと戻ろうとする霞美を露子は制した。
「待って、霞美姉さん、誰が私を家まで送ってくれたの?」
霞美は振り返ってニヤリと微笑った。
「あなたの王子様、芳君よ。家と言っても、私たちは外出していて、あなた一人を残すのが可哀想だからって、しばらく芳君の家で看病して下さったのよ。後でお礼に行くのよ。」
それじゃあ、倒れる時に聞こえた声は芳ちゃんだったのね、と露子は思った。
顔が火照るのが自分でもわかる。そして少し身体がだるい。
微熱くらいはまだあるのかもしれないと、露子は再び横になり布団をかぶった。
台所から聞こえる、鍋のコトコト鳴る音と、トントンとリズム良く刻まれる包丁の音が心地よい。
雫姉さんには悪いけど、お粥はもう少し後にしてもらおう。
そう彼女は、尚も重い瞼を閉じた。

数日後、学校の授業が終わり帰る仕度をしていた露子の教室に芳が顔を覗かせた。
周囲がざわっと色めき立つ。
上の学年の先輩、ということもあるだろうが、それ程芳は女生徒への人気が高かったのだ。
しかし、そんな熱っぽい視線を気にする事なく、彼は露子に声をかけた。
彼女はきっちりと、机の中に教科書を残すことなく鞄に詰めた。
「露子、帰りにまほろばへ寄っていかないか。」

まほろば、というのは彼等が足繁く通う喫茶店の名だ。
それほど大きな店ではなく、往来の喫茶店らしく薄暗い店内ではあったが、嫌な感じは微塵にもしなかった。
というのも、そこを切り盛りする唯一人の店員もとい店長である沢嵩(さわかさ)(かなめ)は、不思議なオーラを身に纏った、穏やかで優しい青年だったからだ。

芳が露子を誘うのは滅多にない事だった。
当然、何か企みがあるんだろうと露子は黙った。
しかし、あわよくばあんみつでも奢ってもらえるかもしれないという邪な気持ちが浮上し、結局はいいよ、と微笑んでしまうのだった。

彼等は自宅から学校まで路面電車で通っていた。とは言っても、ほんの十五分くらいの通学距離だ。
ここは海に面した小さな町で、学校の生徒数も町に住む人の数もそれほど多いものではない。
そのため、満員になる事もなくゴトンゴトンと振動をたてながら、ゆっくりゆっくりと進むレトロな電車が露子は好きだった。

学校と自宅の中間より少し自宅寄りに、喫茶まほろばはある。
赤いレンガ屋根の、異国情緒が漂う不思議な店だ。
夕方の五時には店を閉めてしまうが、常連である露子と芳には関係のない話だ。
クローズの立て札を出した後も追い払われる事はなかったし、店長の要がサービスと言って紅茶などを出してくれる事もあれば、そのまま共に話に花を咲かせる事も珍しくなかったからだ。
店長と客の垣根を超え、もはや三人は友とも言うべき仲だった。

「こんにちは、要さん。」
そう芳がドアを開けると、いつもと変わらぬ穏やかな笑みを浮かべる沢嵩要その人が出迎えてくれた。
「いらっしゃい、芳君。そして露子ちゃんも。」
モデルになるだけあって背の高い露子の更に上をいく芳の後ろから、彼女はひょこっと顔を覗かせた。
「えへへ。こんにちは、要さん。」

二人はいつものように、入ってすぐの所にあるカウンターの隅の席へ腰を下ろした。
店内には他に四、五名用の大きな席が二つと一、二名用の小さめの席がぽつぽつとある。
全部で二十席くらいだろうか。
閉店まで三十分を切っている事もあって、店内には二人以外に客がいなかった。
いや、たとえおやつどきの三時だろうが客数はそこまで変わらない。
この店が賑わっているのを、露子は未だに見たことがない。閑古鳥は常に鳴いているのだ。
もっとも、客数が多くなれば要はもう二人ほど店員を雇わなければならないが、その必要はあと五十年は無いだろう。
それでも要がいたって普通の生活をおくれるのは、彼のもう一つの副業のおかげだった。
いや、こちらの方が本業なのかもしれない。
彼は時たま、夕方六時から大通りなどへ出て八卦売りをする易者、俗語で言う占い師だった。
相談をも親身になって聞いてくれ、占いは良く当たると巷でも噂になる程人気の易者だ。
露子が良く占いをするのも、彼の影響を受けてなのだろう。

「私はあんみつにするわ。芳ちゃんは?」
露子は桃色のマフラー代わりに巻いた薄手のショールを首からほどいた。
彼女の綺麗な黒髪が少し揺れる。
「俺はレモネード。」
「あら、いつもソーダとか飲んでいるのに。」
「今日は肌寒いからね。それに、誰かさんを雨の中おぶって帰ったせいで風邪気味なんだ。」
「もう何回も謝ってお礼も言ったじゃない。…でも、ごめんね。ありがとう。」
しかし、しょぼくれてしおらしい露子を見るとどうも可笑しくなってしまうらしく、彼女にばれないよう、芳は俯いて口元を緩めるのだった。

「露子ちゃん、辻占をした後倒れちゃったんだってね。駄目だよ、モデルが身体を冷やしちゃ。」
カウンターの奥の調理台から要が振り向いて声をかけた。
「もう雨の中飛び出したりしないわ。」
「それはいい心がけだ。」
先程までの真剣な表情から打って変わって、要は意地悪く笑う。
「もう、本当だってば。」
「露子の本当には嘘が二パーセントくらい混じってるけどな。」
露子はとうとう怒り出してしまうのだった。

そんな二人を注文の品を作りながら微笑ましく見守る沢嵩要は、実は年齢不詳でどこから来たのかさえ分からない謎の人だ。
出会ってから2年以上が経過したが、趣味ははたき掃除と押し花、猫が好きで、チョコレートが好物ということ以外、まったく分からない。休む事なく仕事をしていそうだが、ふらりと店を閉めてどこかへいなくなってしまう事もある。
すぐに戻ってくるので心配する必要は無いのだが、決して行き先を告げてはくれないのだ。
「謎は分からないから面白い。解けたらきっとがっかりしてしまうよ。」
そう、彼はいつものように笑っていた。
後ろに一つでくくった長い髪は、流行りだった男のロングヘアとはまた違って、繊細でまるで絹のようだった。
露子はそれが羨ましくもあった。渕のない眼鏡の奥の瞳はガラス玉のように澄んで輝いていた。
外見はとても若々しく、二十五、六に見えるが、その物腰の柔らかさや何か達観しているような落ち着きぶりは三十を超えた一端の大人のようにも見えた。
「僕はもう若くもないが、そこまで老いてみられる事もない。歳に関しては、君達の想像に任せよう。
でもね、きっと僕達の縁はこれから深く交じり合って行くだろう。だから他人行儀な敬語はよしておくれ。」

彼等の出会いについては後々語られるだろうが、出会ってからすぐに打ち解けた三人は、彼の言った通り、その縁を強く結びつけることになった。そして、露子も芳も、彼に敬語を使うことは一切無かった。名を呼び捨てにだけはできなかったが、それについては要も黙認している。

「はい、露子ちゃんには果物一杯のあんみつとサービスにお抹茶。芳君にはレモネードね。」
すぐさま出てきたその品に、露子は目を輝かせた。
苺に蜜柑、パイン、白桃、そして桜桃。すべて彼女の大好物だ。
「要さんは露子に甘すぎる。こいつは一応モデルなんだよ。」
「まあまあ、仕事を頑張るのに、甘味は必要さ。」
「よし、いただきます!」
視覚で十分味わった彼女は次は味覚だと添えてあるスプーンへと手を伸ばした。
しかし、その木で作られ丸みを帯びた可愛らしいスプーンは隣の芳の手にもぎ取られてしまった。
「まて露子。それを食べる前に、俺の話を聞いて欲しい。」

一寸間を置いて、それきた、と露子は目の前の宝石箱にしばしの別れを告げた。
「何かあるんだろうな、とは思ってたわよ。芳ちゃんから私を誘うなんて珍しいもの。」
露子はやれやれと芳の顔を見た。
彼はハハハと軽く笑いながら、鞄の中から一通の封筒を出し、それを露子の手元に置いた。
「見ても良いの?」
と露子。その問いに、芳は頷く。
「僕は?」
と要。
「要さんは駄目…って言っても見るんだろ。」
「悩みなら、一人より二人で聞いた方が答えも見つかりやすくなるってもんだ。」


それはいたってシンプルで、模様の一切入っていない無地の封筒と便箋だった。
しかし、便箋を開けると、ほんのりとラベンダーの香りがした。
一行目の「立花芳様へ」の文字はそれだけで凛とした力強さが伝わってくるようだった。
手紙を読み始めてすぐに露子は赤面する。要も、何だか照れ臭そうな笑みを浮かべていた。
それはとても情熱的で、それでいて、甘く囁きかけるような、極上の恋文だったのだ。
しかしその恋文には、差出人の名さえなければ、放課後校舎裏の銀杏の木の下で待っていますというような伝言もなかった。

「どうしたら良いと思う?」
やっとのこと口を開いた芳に、露子は難しい顔をした。
「どうしたもこうしたも無いわね。この手紙の主はただ貴方に思いを打ち明けたかっただけなのかもしれないし。」
「いいや、まだ分からないよ。」
「どうして?要さん。」
「この手紙からラベンダーの香りがするだろう?ラベンダーの花言葉は「私に答えて下さい」
こんなに女性味が溢れる文章を書く人だ。きっと知って、この香りを付けたんだろう。
いつか彼女は何かしら行動を起こすかもしれないよ。」

露子が便箋を封筒に戻そうとすると、突如として一枚の紙はパラパラとラベンダーそのものに姿を変えた。
三人は少しの間目を見合わせた。
「私の空想が現実になっちゃったわ。」
「馬鹿言うな、そういう仕掛けだったんだろ。」
「いや、伝えたい思いが多すぎて、花となって溢れちゃったんだろうね。」
ラベンダーの香りは強く残り、三人を少し酔わせた。


その日食べたあんみつと抹茶の味を、露子はいつまでも思い出す事ができなかった。
(芳ちゃんは、要さんの言う通り、手紙の主が名乗り出てきたらどうするつもりなのだろう。)
彼は今まで数々の女の子の告白を断り続けてきたプレイボーイであったが、手紙を差し出してきた時の少し興奮しているような彼の目とほんのりと朱に染まった頬を露子は見逃さなかった。
(あれだけ情熱的に口説かれちゃあ、当たり前のような気もするけど。)

いつも貴方の事ばかり考えています、だとか
貴方を見かける度にその胸へ飛び込んで行きたい衝動に駆られる、だとか
そんな大胆な事を同性に相談するなら未だしも異性に言う女など、このご時世滅多にいないのだ。
気の強い女は、それだけで悪く見られがちだ。
女が学校へ行く事が当たり前のようになってきた今でも、女は家の仕事をし、何も持たずに男への元へと嫁いで行くべきなのだという古い考えを持つ人は少なからずいるのだから。
(うちの母様があの恋文を見たら卒倒するだろうな。品性高潔で淑女を絵に描いたような人だもの。)
そんな母の姿を想像すると、少しだけ心が和らいだ。

露子は芳への自分の思いが、憧憬なのか友愛なのか、それとも最愛なのか分からないでいた。
幼い頃から一緒だったのだ。気持ちに判別がつけられなくなる程、長い間側にいすぎたせいかもしれない。
「でも私は、「今はお前のお守りだけで十分だよ」そう言ってくれるだけで幸せだわ。」
露子はそう一人ごちた。

そして何より、芳のその言葉を信じたかったのだ。

眠りに着く前露子はふと、辻占の時の事を要に話していないと気付いた。
芳ちゃんはともかく、占いを生業にしている要さんなら、ちゃんと私の話を聞いてくれるだろう。
もしかすると、私のこの思いを導いてくれるようなそんな答えが見つかるかもしれない。
兎にも角にも、明日もまほろばに寄らねば。
そして露子は夢の中へと沈み込んでいくように、深く目を閉ざした。



まほろばのドアの前に立つと、そこにはクローズの立て札がかかっていた。
今日は休みにしているのだろうか。
露子が何となしにドアノブを回すと、キイという音をたててドアが開いた。
どうやら開いてはいるようだ。
露子が中を覗くと、暗い店内は淋しげに静まり返っている。
「要さん、いる?」
寸の間の静寂に返事はない。不用心だなあと思いつつも、今日の所は出直すか、と露子は背を向けた。
その時、「あれ?露子ちゃん、いらっしゃい。」
呼ばれた露子は一瞬、肩をびくりと震わせる。
裏口から出てきたのか、振り向くとそこには私服姿の要が立っていた。
「今日はお店閉めてるのね。何か用事?」
「うん、ちょっと出かけていたんだ。ココアでもいれよう、どうぞ。」
露子は何時ものようにカウンターの隅へ座った。
ココアをいれてくれた要が、その横に座る。
いつもはカウンターを挟んで目の前にいる要が横にいるというのは、不思議な感覚だった。
丸いカップボウルに入ったココアには、上にホイップクリームがのっていて家で作るものよりもまろやかで甘い。
猫舌な露子は、手にしたココアをふーふーと冷ましながら一口飲んだ。
「それで、今日は一人でどうしたの?」
「辻占の時の事を要さんに聞いてもらいたくって。」
彼は一体どんな反応をしめすだろう。芳ちゃんみたいに夢でも見たんじゃないかと笑う事は無いだろうが。しかし。
「ああ、それなら彼女に話は聞いたよ。」
そう言って微笑む要の顔に、露子は言い知れぬ不安を感じた。心が、ざわつく。

「か の じ ょ ?」
スッと要が指をさすその先に目を見やる。裏口の方だ。暗い店内の中では、要が指し示すものを目で捉えることはできない。
おかしい、と露子は思った。

(そういえば、何故ここは暗いままなのだろう。電気もつけずに、どうやって要さんはココアを作った?だいたい、カーテンは開いているのに、日の光が全く入ってこない。そもそも私は、ここまでどうやって来たのだろう。店に入るまでの記憶が、ぽっかり抜けている。)
思考はぐるぐると回旋した。

「さあ、言われたんだろう彼女に。
自分の心と彼女の心を探すんだ。もう、時間がない。」

気付くと、露子は真っ暗闇の中立ち尽くしていた。
数メール離れた要の隣には、一人の少女が光のようにぼうっと現れた。四ツ辻で見かけた少女だ。
俯く彼女の顔は、はっきりとはよくわからない。しかし、セーラー服を見に纏うその少女を、露子はもっとずっと前から知っているような気がした。
(あなたは、誰なの。)

「この闇は、君の心の現れだ。君が望むままに、世界は姿形を変え、そして君を守ってくれる。
どうだい?君が望み、君が創造したこの世界は。優しくて美しいでだろう?」

遠くにいるはずの要の声がなぜか耳元で聞こえた。
優しく、しかし鋭く囁かれたその言葉に、露子はハッと目を覚ました。



「夢、だったの?」
本当に?しかしかけられた言葉は現実のもののようにしか感じることができない。口の中は嫌に甘ったるい。
露子が枕元の時計に目を向けると、時刻はまだ深夜の四時をまわった所だった。
変に汗をかいている。少し、のども渇いた。
台所まで行くのは少し億劫だったが、そのままでは眠れそうにもなかったので、彼女は重たい腰を上げた。

忍足で台所まで行き、作り置きしてある麦茶を飲んだ。さすがに砂糖は入れなかった。
しばらくは糖分を断とう。そう自分を戒め彼女が部屋に戻ると、カーテンの隙間から、月の光が差し込んでいた。

布団に入ろうとした露子の視界に、勉強机の上に置かれたものが飛び込んできた。
手のひらサイズのテディベアだ。
首にギンガムチェックの赤いリボンが巻かれ、黒のボタンでできた目は、月の光を反射しキラリと光っている。
彼女はそのぬいぐるみに見覚えがあった。
たしか、九歳の時くらいに、お姉ちゃんに教えてもらいながら作ったものだ。
無くしたとばかり、思っていたのに。

「やあ、また眠れそうかい?」
ふいに、ぬいぐるみは露子に話しかける。
露子はこのぬいぐるみと、そういえば良く喋ったなあと思い出した。
近所の女の子は、ぬいぐるみは喋らないんだよ、と露子に意地悪を言った。
そして泣いている幼い彼女を慰めてくれたのは、芳だった。
僕にもその子の声が聞こえたらなあと、言ってくれた。

「また夢を見たの?怖い夢?心配だよ。露子ちゃんは夢見がちだから。」
このこに、確か名前を付けたはずだ。何だっただろう。もう思い出せない。
「気をつけてね。露子ちゃんのみる夢が、夢で終わらなくならないように。」

そう言って、テディベアは首に巻いたリボンのように赤い花へとその身を変えながら、いつの間にか空いていた窓から空に舞い散った。リコリスの花だ。そして、このこの名も、リコリスだった。
これは、夢?それとも白昼夢?
こんな深夜に、白昼夢というのも可笑しな話だ。
リコリスの花の香りに酔いながら、露子は再び、眠りの淵へと落ちていくのだった。



それからしばらくして、学期末テストが始まった。
何も手が付かず、ろくに勉強をしていなかった露子はあきらめ半分でテストに臨んだ。
何もかもがあやふやで、解決策を考えようにも問題が何なのさえ分かっていない現状で迎える学期末テストというのは、もはや拷問だった。
テスト最終日に待っていたのは、彼女が最も苦手とする数学だった。解答欄がなかなか埋まらない。
いつもなら、ある程度の問題は解けるよう勉強を芳に見てもらっていた露子だったが、恋文の一件から気まずくなってしまった彼女は芳を避け続け、そのため勉強を教わる事もできなかったのだ。
ため息をつき、そんな胸中とは正反対に眩しく爽やかな初夏の空を仰いだ。
露子の席は一番窓際だ。降り注ぐ太陽の光に、目が眩む。
薄水色の空には、綿菓子のような雲が大小様々に浮かんでいた。
(あの雲の上でお茶会ができたら楽しいだろうなあ。)
そう露子は雲の上にいる自分を思い浮かべた。


(何枚にも焼いたパンケーキ。トッピングに苺のジャム、マーマレード、ホイップクリーム…。
良い香りの紅茶を季節のお花のティーカップに注いで準備ができたら、小鳥達やパラシュート代わりにフリルの傘をさして動物達がお客様としてやってくる…。雲のクッションの上でお茶会が始まる。)

まるで絵本のような光景を思い描くと、段々と露子はその世界へと旅立っていく。
硬い椅子の感触はなくなり、蒸し暑い教室の空気は消え失せ、風が優しく頬をなでる。
あれ?と思い露子が目を開くと、前に広がるのは薄水色一色の世界だった。
いつの間にか、シャーペンではなくスミレの絵が描かれたティーカップを持っている。
「露子ちゃん、どうしたの?早くお茶会を始めましょう?」
目の前に現れたのはフリル付きエプロンとボルドーのシックなワンピースを着た黒猫だった。
そして露子はハッと、そうよお茶会をしていたのよとその場を見つめた。
小鳥、猫、犬、小熊、兎…。お茶会へ参加する動物達はフォーマルな格好で着飾っている。
露子が自分の身体に視線を移すと、彼女もまた、童話アリスのようなエプロン付きワンピースを身に纏っていた。
甘く柔らかいパンケーキを皆で幸せそうに食べながら、彼等がのった雲はフワフワと空を浮遊する。
太陽のすぐ近くにいるのに、不思議と暑さは感じなかった。
(なんて気持ち良いんだろう。)
露子は思いっきり背伸びをした。このままここでお昼寝がしたい。
少しウトウトとしだした彼女の視界に、天からまた傘をさしておりてくるモノが入った。
そしてポスンと降り立ったのは、赤のギンガムチェックのリボンを付けたテディベアだった。

「露子ちゃん、言ったじゃないか。気をつけろって。
もう時間が無いんだ、早く元の世界へお戻り。ずっとここにいたいのかい?」

いきなり現れてそう叱咤するそのテディベアは口を挟む暇などないほど早々に花となって散っていった。
突然の強い風が、花びらを瞬時に奪い去っていく。露子は思わず、目を強く瞑った。


そして目を開けると、彼女は教室にいた。
テスト終了まで、あと十五分程だ。
(私、寝てたっけ?)
あまりの不思議さに自分に問うてみるが、答えは否だ。あまりにも、鮮明に残りすぎている。
(まほろばでの事も、机にいたテディベアの事も、本当に、夢?)

彼女の額から一滴の汗が流れ落ちた。
もしかすると自分は、危険な所まで来ているのではあるまいかと。
「気を付けて。」
「夢が夢で終わらなくならないように。」
テディベアの言葉を判読する。
露子がリコリスと名付けたテディベアだ。彼女の前に二度も現れた。
あとから調べたリコリスという花は、「再会」「悲しい思い出」「追想」そんな花言葉を持っていた。
(なぜ、リコリスと名付けたのだろう。それよりリコリスは私に何を訴えかけているのだろう。
もしかすると、何か大切な事を私に思い出させようとしているのかもしれない。)
露子はそんな思いに駆られた。


テストが終わると同時に、左斜め前に座る友人の沢渡美弥(みや)が露子に声をかけた。
「露子、さっきのテスト中ずっとぼーっとしてたでしょ?先生チラチラ見てたわよ。
どうせ夏休みの妄想とかしてたんでしょ。」
そう言って彼女は笑った。
美弥は中学の頃からの親友だ。少し意地悪な所もあるが、根は優しく姉御肌の頼りになる存在だった。

「全然分からなかったんだもの。赤点は必須ね。」
「まあまあ、兎に角テストは終わったんだもの、楽しい事考えましょう!」
(美弥も数学は苦手なはずなのに、前向きだなあ。)
露子はおおらかな彼女を見て笑みをこぼした。
「お、ちょっとは元気になったかな。 露子、最近立花さんと一緒じゃないし、
いつも以上にぼーっとしてるしさ。心配してるのよ。」

そんな美弥の言葉に胸が熱くなる。
と同時に、内心筒抜けな自分を自覚され、少し恥ずかしくなった。
「色々とあってね。ごめん、気持ちの整理ができたら、一番に美弥に話すからね。」
「約束だからね。」
深く追及してこない所が、美弥らしかった。
「ありがとう、美弥。」
小さな声で言ったはずのそれはどうやら聞こえてしまったらしく、美弥は照れ臭そうに笑った。
彼女が笑った時に見せる奥の八重歯が好きだ。動き回る度に、よく揺れるポニーテールも。

かき氷でも食べて帰る?と談笑していた彼女達のもとに、新たな問題が転がりこんできた。
「露子ちゃん、二年の先輩が呼んでるよ。」
そう言われ出た廊下には、いかにも、という雰囲気の気の強そうなお姉様が三人、仁王立ちで露子を待ち構えていたのだ。
これはただ事ではないと察知した美弥は、誰か呼んでこようか?と露子に声をかけたが、彼女は「大丈夫よ。ごめん、先帰ってて。」そう言うばかりだった。実際露子は、またか、と内心呆れ返っていた。



「あんた最近、立花くんに引っ付いてないみたいじゃない。」
「ついに嫌われちゃった?可哀想にね〜。あ、可哀想なのは今まで付き纏われてた立花くんの方か。」
彼女達は下品な笑い声をあげた。
誰も使わない、校舎の裏手にある階段の踊り場は薄暗く、ひっそりとしていた。
彼女はあまりの不愉快さに顔を歪ませる。
「そんなおっかない顔してちゃ、モデル降ろされちゃうわよ?」
(あなた達のその醜い顔よりはマシだわ。)
そう罵りたくなるのを、露子はグッと堪える。
彼女達は芳のファンなのだろう。先輩だから、尚更たちが悪い。
今まで数えるとキリがないほどこんなことは日常茶飯事だった。
彼女達の気持ちも分かる。なぜなら露子自身も、芳への恋文の差出人に猛烈に嫉妬しているのだから。
(芳ちゃんと手紙の主がもし結ばれたら、この人達の怒りの矛先も、そちらに向くのだろうか。
私も、この人達のように、醜い女に成り下がってしまうのだろうか。)
こんな事を考えてしまう自分が、露子は嫌いだった。
「立花くんだって清々してるに違いないわ。もう二度と、彼に近づかないで。
彼の前に姿を見せたらタダじゃおかないからね。」

たいして可愛くもないくせに、一年の分際で図々しい、そんな捨て台詞を吐きながら彼女達は去っていった。
(別に怖くないわ、もう慣れたもの。悔しくもない、彼女達のいう事は全て的外れだもの。)
それなのに。
ポタ、と一滴。
ポタポタ、と二、三滴。涙が零れた。
滅多に涙を見せない露子は、なぜ自分が泣いているのか、さっぱり分からなかった。
遠くから、まだ学校に残っている生徒の声がする。辺りはどんどん暗くなっていくように感じた。
露子は踊り場でしゃがみこみ、顔をうずめた。
(このまま、溶けてなくなりたい。)
(助けて、芳ちゃん。)
恋文に頬を染める芳の姿が露子の頭によぎった。
またもや、視界が滲んだ。


それから、どれだけ時間が過ぎただろう。
「露子を泣かせるなんて。」
怒りと心配を交えたような声と共に、思わず上げた顔に零れる涙をハンカチで優しく拭われた。
突然目の前に現れたのは、芳、ではなく、息を切らした優しい姉二人の姿だった。
「よかったー見つかって。」
雫が大げさに安堵する。
「露子を教室まで迎えに行ったんだけどいなくてね。もう帰っちゃったのかな、と思ったら美弥ちゃんが露子が二年の先輩に連れていかれたって言うものだから、必死になって探してたのよ。可哀想に、目が腫れてるわ。怖かったわね。」
霞美はそう言って露子を抱き寄せた。
「今度私達が懲らしめといてやるからね。露子が可愛いから妬んでるんだよ。自分たちが立花君に見向きもされないからってさ。露子はもう、何にも気にすることはないよ。だから泣かないで。」
こういう時の二人は、とても頼りになる。そして若干怖かった。
露子は声を振り絞り、「ありがとう。お姉ちゃん。」と言った。
二人は頭を優しく撫でてくれた。


「そういえば、何で教室まで来てくれたの?美弥が呼びに行ったんじゃないんだよね?」
学校を出て少し落ち着いた露子は、二人にそう尋ねた。
空はもうすっかりオレンジ色だ。
「今日母さん達帰りが遅くなるんだってさ。」と、雫。
「それをわざわざ学校まで連絡してくるのよ、母さん。置き手紙で良いのにね。」と霞美。
「だから今日は三人で美味しいもの食べに行きましょう。」と二人が声を合わせてはしゃぐ。
二人の元気の良さについつい露子もつられて笑った。
露子を挟んで手をつなぎしまいには歌まで歌い出す二人の姉に、彼女は救われたような気がした。

雨の日にみた夢

雨の日にみた夢

ファンタジー色の強い、恋愛小説です。 80年代前半の日本を意識しました。

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2012-11-10

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